福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は唐の太宗の没した日

2024-05-26 | 法話

今日は唐の太宗の没したの日。ウキぺデア等に依ると太宗は貞観23年5月26日(649年7月10日)に没しています。太宗は中国史上の名君として知られています。
・太宗の対話を編集して為政者の心得を説いた『貞観政要』は頼朝・政子、家康等日本の歴代の為政者の愛読書でもあった。ここには、贅沢を誡めるために後宮を整理するとき美人は嫁ぎ先が見つかりやすいとして美人から先にリストラした(吉宗が享保の改革で大奥の美女をお役御免にした時もこの考えを踏襲したとされます)とか、諫議大夫という自分を諫める役の大臣を置きそれを筆頭大臣にしたとかなかなかいい話が載っています。

・教科書で出てくるのは、儒教の経典である五経について孔穎達に命じて統一的な解釈書の編纂を命じ『五経正義』を完成させ科挙の基準としたことです。

・また書を振興し、歐陽詢、虞世南、褚遂良、顏真卿、柳公權、懷素、張旭、孫過庭、李北海等を輩出しました。自ら書いた「温泉銘」などもいまでも書道の手本です。唯一残念なのは王義之に心酔して自らの墳墓に王義之の蘭亭序を一緒に埋葬させたことです。これにより書聖王義之の作品が見られなくなっています。
・しかしなんといっても大切なことは太宗は仏教を保護したことです。『佛祖統記』卷第三十九には「(貞観)三年正月。詔京城沙門,每月二十七日,行道轉『仁王經』。 爲國祈福,官給齋供」 とあり護国の為に仁王経を修法したことがわかります。 この様な時代の盛大な仏教法会の模様は、『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』に「夏四月八日,大帝書碑并匠鐫訖,將欲送寺,法師慚荷聖慈,不敢空 然待送,乃率慈恩徒衆及京城僧尼,各營幢蓋、寶帳、幡花,共至芳林門 迎。勑又遣大常九部樂,長安、萬年二縣音聲共送。幢最卑者上出雲霓, 幡極短者猶摩霄漢,凡三百餘事,音聲車百餘乘。至七日冥集城西安福門祖 街。其夜雨。八日,路不堪行,敕遣且停,仍迎法師入內。至十日,天景 晴麗,敕遣依前陳設。十四日旦,方乃引發,幢幡等次第陳列,從芳林門 至慈恩寺,三十里間爛然盈滿。帝登安福門樓望之甚悅,京都士女觀者百 餘萬人。至十五日,度僧七人,設二千僧齋,陳九部樂等於佛殿前,日晚 方散。至十六日,法師又與徒衆詣朝堂陳謝碑至寺。 沙門玄奘等言。今月十四日,伏奉敕旨,送御書大慈恩寺碑,并設九部 樂供養。…… 」とあることからもわかります。
・極めつけは太宗は印度から帰ってきた玄奘を保護し、大慈恩寺で国家的事業というべき翻訳事業に着手させたことです。玄奘は持ちかえった経典全体の約3分の1までしか翻訳を進めることができなかったといわれていますが、それでも彼が生前に完成させた経典の翻訳の数は、経典群の中核とされる『大般若経』16部600巻(漢字にして約480万字)を含め76部1347巻(漢字にして約1100万字)に及びます。現在読誦に用いられる『般若心経』も玄奘訳です。
又、大唐西域記は太宗が「仏国遐遠にして霊跡法教は前史に委細しること能わず。師すでに親しく観る。宜しく一傳を修して以て未聞に示すべし」といって編集させたもの。(東洋文庫・大唐西域記、解説)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今日は神仏一体の山王礼拝講です | トップ | 今日は大師が内裏に於いて祈... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事