歳の瀬に 袖摺りあいし 他生かな
梅士 Baishi
いかにも寒いんだぞ~というような木枯らしが吹き荒れている。
といっても気温は6℃、大したことはない。
そんなそよ風に乗ってお遍路したいものだ。
それよりも夢だったのかあという夢だった。
なんと、年賀状を書く夢である。
出しそびれていた年賀が気になっているとみえる。
結婚して子供もできたと言うあの娘に年賀をだしそびれた。
ゲームアニメーターを目指していた学生だったが在学中に父が急
逝したのだった。
お年賀したいと思う。
さて、人種差別の植民地支配をし、奴隷を酷使したキリスト教世界
だが、讃美歌は美しい。
この落差は何だろうかと思う。
他方で、解放運動という左翼活動をしている牧師もいる。
わが洗礼の師は、同志社を出て渋谷の山手教会から長崎に開拓
伝道に訪れ、さらに京都丸太町教会で左翼活動を展開して転戦して
いたようである。
解放運動とは、時代錯誤の重箱の隅をつつくような差別反対
運動である。
あるいはそれをネタにゆすりたかりのような利権を貪っている連中
である。
被害妄想が彼らの信仰を支えているのかもしれない。
キリスト教のカルマは、それが人種差別や他宗差別による人の支
配を正当化し、他方で貧困救済の大義名分の下に嫉妬を合理化す
る唯物的共産主義を生んでいるともいえる。
日本のプロテスタントは、心情的には左翼共産主義であり、反日活
動に親和性をもっている。
日本キリスト教団は、朝日新聞のように、戦時中太平洋戦争を支
持し、ゼロ戦製造にも資金集めをしたという「反省」から反日左翼活
動を正当化している。
キリスト教徒であるならば、植民地支配を推進し、弱い者いじめと
いうべきアメリカに対抗して潔く戦うということは、いわば聖戦ではな
いか。
アメリカは、日本のエネルギー補給を封鎖して戦争を余儀なくさせ
たのであって、日本が仕掛けた戦争ではない。
イエス・キリストの霊言は重い。
1990年12月23日、第14回講演会『復活の時は今』で語られたイエ
ス・キリスト降臨の荘厳で愛と勇気に満ちた言霊を今も忘れることが
できない(書籍『無限の愛とは何か』所収)。
ああ、それから23年も過ぎてしまったのか・・・。
【 キリスト教徒よ、信仰を偽るな、聞け、愛の復活の言霊を! 】
「あなたがたが待ち焦がれていた最大なるものが復活しても、それ
に気づかぬとは、哀れなる者たちであることよ。
何ゆえに、何ゆえに、何ゆえに、
何年、何十年と聖書を読み続けてきたか。
聖書を読み続けてきたは、
我が愛の復活を期待してではなかったのか。
我が愛の再臨を
待ち続けてきたからではなかったのか。
見よ。
神の国はアメリカにもなく、
イギリスにもなく、
イスラエルにもなく、
この日本にある。
この東京にある。
ここに、現代のエルサレムができようとしていることを
知っている者は幸いである。
あなたがたは、今世最大の幸福を
今、知っているのだ」(「無限の愛とは何か」より抜粋)。
信仰あるものであれば、この言霊に気づかないはずはない。
イエス・キリストの言葉が臨んでいることに涙するはずである。
神の言葉は救世主として降臨した肉体人間を通して語られるもの
である。
その人間の姿に不信を抱き、己のうぬぼれに躓き、嫉妬に躓く。
イエス・キリストの生涯は、同時代に生まれた者たちの不信との闘
いであったという。
忍耐であったという。
今、主エル・カンターレの法が説かれている現代にあってさえも、
微々たる知恵による不信の攻撃にさらされ続けているのである。
何と言うことだろうか・・・。
罪の許しを請うて祈りをささげるのならば、己のその不信仰を懺悔
せよ。
それなくしては讃美歌さえもむなしく響くことである。
キリスト教徒よ、教会を出て、幸福の科学の門前にその讃美歌をさ
さげよ。
イエス・キリストは、幸福の科学に臨んで指導なされているのであ
るから。
その言霊が『復活の時は今』に語られたのである。
既に23年も前のことである。
信仰は自由である。
しかし、自由の責任とは、間違いを犯したならば、その罪を認めて、
過てる自らの心を悔い改めるということである。
悔い改めることによって、その罪は許されるのだ。
それが、許しの愛である。
キリスト教徒たちよ、救世主降臨の時代にあって、これを認めない
と言う不信仰の罪に気づけ。
気づいたならば悔い改めよ。
その信仰を正すべきである。
牧師たちも、救世主降臨の福音を述べ伝えずして一体なんの説法
であるか。
聖なるクリスマスにあって、キリスト教徒たちに父なる神、エル・カン
ターレ降臨の福音を警告として伝えたい。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党