イヴの夜も いつものごとく 飯を食い
馬糞 Bafun
キリスト教会に通っていた頃は、クリスマスは忙しく楽しい期間
だった。
ところが、教会を離脱してからは、世間並みのクリスマスが実に
うっとうしくやりきれなかった。
イヴの日は、恋人でもいなければ居場所がないかのような強迫
観念もいやだった。
しかし、悟ってみると簡単なことだ。
世間がどんなに浮ついていようと、イヴの夜は、一人ですごすも
のなのである。
それが理性というものであり、平常心というものである。
だから、寂しいと思っている若者よ、初恋は成就しないものであ
り、イヴはいつもの通り、一人で飯を食うべき一日なのである。
そこに、餃子とビールなどがあると最高ではないか。
余は、山上憶良を思いつつ、粕湯酒などをとりすずろいて過ご
したい。
肴は・・・なんか、干物があったろう。
そもそも、男女の恋心というのは仕組まれた妄想である。
若いということは、その仕組まれた妄想に気を惑わされやすい
ものだが、理性を見失わないことだ。
自由と平等などという、にやついたフランス製のキャッチコピー
をありがたがることがそもそもおかしい。
自由といい、平等というのは、堕落への誘惑に使われるもので
ある。
その結果、自分が何者か、何を選んで生きてゆけばよいかさえ
わからなくなっている。
自由とは本来、神への自由である。
神はモラルの塊である。
平等とは本来、神の子としての公平である。
人間には努力とつりあいというものがあるのである。
努力した結果として「いい男」なのか、
努力した結果「いい女」なのか。
努力もしないで、幸せの妄想を抱いてはならない。
それは恥ずかしいことである。
イブの日は、キリストの生誕を祝うキリスト教信者の祝日である。
男と女の浮ついた一日にしてはなるまい。
J.D.Subunroco.
2005年リバイバル(枯葉祭りの狸山)
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