彼岸花 今咲く花を 見つけたり
中村 梅士 Baishi
下城の道すがら、川沿いの公園に咲いている彼岸花を見つ
けた。
お宝発見のようだった。
職場が引っ越してから少し遠くなったが、一本道ではなく
なったので博多の幾筋もの裏街道を楽しむことができる。
日宋貿易時代の博多の繁栄は夢幻と消えて、旧町名にその
名残を想像するばかりであるが、それも古い味わいではある。
近代では炭鉱景気があったが、それも戦前の、今は昔の繁
栄である。
繁栄というのがいかなるものか、今一つ分からない。
本来、信頼関係を基礎として、人々の向上発展に資する道
具としての価値あるものを製造し流通させることが経済活動
であり、生きがいの総量が増えてゆくことが繁栄というべき
ものであろう。
しかし、80年代の日本の好景気がそうした実体経済によ
る繁栄だったかというと疑問である。
不動産開発、証券取引、不動産投資などは、マネーゲーム
の過熱という傾向性を強く持ち始めていたからである。
日本が世界の中心国家、中心都市として価値を高めていた
のは事実だが、信仰を見失う方向に引っ張られたことも事実
であろう。
お金のにおいを繁栄と勘違いしていた時代だったかもしれ
ない。
それが嫉妬を招いたともいえる。
やはり、繁栄とは文化的な高みを生み出す喜びでありたい
ものだ。
人口削減と人工中絶の推進という社会主義の発想は深く反
省しなければならなそうである。
人口100億など、到底無理な話だと思うことが社会主義発
想だということになる。
なぜか。
ゼロサムゲームの考え方が根底にあるからである。
人口が増えるには増えるだけの願いがあるのだろう。
生まれてくるということは、純粋な願いがあってのことだ
ろうからである。
ふらっと生まれてくる霊格の低い人も少なくないというが、
基本は魂修行のチャレンジャーとして試練の地上に転生して
くるものだからである。
そうであるならば、どうすれば、人々の修行環境を確保す
るかということにこそ努力するべきであった。
ところが、人類の選択したことは、弱肉強食であり、残っ
た椅子の取り合いを巡る殺し合いだった。
神の心を見失った結果である。
人口削減は必然だと考えたのは、人間への嫌悪感であり、
生かす愛の不足だったのだ。
しかし、現実は、チャイナ共産党という悪魔を生んでしま
った以上、共産党が壊滅するまで人口は削減されるづけるだ
ろう。
崩壊を横目に見ながらも、宇宙開発、食料増産、宗教教育
の充実などに取り組むことが誠実な姿勢だろう。
自分も考え方を改め、安易に人口削減を願うことを止めた
いと思う。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
New Asia Happiness Party