寿命には 羽あるものか 秋の空
梅士 Baishi
今朝は旧暦の10月15日、月曜日。
穏やかな秋の一日になりそうである。
15℃という朝の気温にも慣れてきた。
旅立つにはよい季節である。
スタンドの電気がスッと消えた。
不吉である。
しかし、新しい電球で再び明るい灯が点る。
吉兆ではないか。
物事は考えようである。
寿命とはある程度は決まっているようである。
一ヶ月前になると、時刻まで決まると言う。
水死もきついが、病死も苦しい。
あっけなくプチンと脳血管が切れて即死するのが幸せ
だ。
死ぬ苦しみと言うのも、この世の名残りを惜しむ生命
感覚というべきなのかもしれない。
耐え難い苦しみには失神するものだ。
見ていると辛いが、本人にとっては死ぬまでの神聖な
最終戦なのであろう。
ひき逃げにあったときも、意識がなかった。
脳内出血もあって、死んでもおかしくない重症だった。
目が覚めると病院の集中治療室で酸素マスクをしてい
た。
そのまま死んでいれば、無事他界ということだったと
思う。
宿題が多すぎて死亡許可が下りなかったのだろう。
安易に死ぬわけには行かないのが人生責任である。
幸福の科学は奇跡のエル・カンターレ教団である。
奇跡を起こす病気平癒祈願とか、癌細胞消滅祈願と
か、ベガヒーリングなどの秘法がある。
しかし、それで死ななくなるのではない。
信仰の証であったり、特別の使命であったりという因
果の理法として奇跡が用意されているのではないか。
信仰とは、寿命を変更するほどの事由である。
伝道責任の重さを感じる。
信仰が立っていなければ救えない。
最期の使命が成り立たない。
信じるも信じないも、自己責任だという突き放した考
えがあるが、それでは不親切なのかもしれない。
根本仏というべき奇跡の救世主がこの日本に降り立っ
ているということは福音であると同時に裁きである。
それに気付かないということは、魂の大きな負債とな
る。
自業自得というべきか、伝道責任と言うべきか、その
両方なのであろう。
多くの人々がことの重大さに気付いていないというこ
とは、まことに嘆かわしく、残念なことでもある。
そこに、悟性の違いがあるのだろう。
自業自得と言ってしまいたいところなのである。
【 円高介入と言う下策を繰り返すな 】
1ドル75円31銭まで振れた円高だが、今朝は79円
近くまで円安になった。
いわば、為替ディーラーへの餌やりである。
それで、円高を食い止めたと自画自賛しているのだろ
うか。
日銀引き受け債の発行を50兆円規模でやればよい
のだ。
結果、円安に誘導され、未来投資の資金ができる。
「日銀引き受け債の発行ではハイパーインフレが起こ
るから、これでけは禁じ手だという念仏では日本は成仏
できないだろうに。
日銀白川総裁をごり押しした民主党の責任は重い。
閻魔の帳面に粉飾はないと知るべし。
老い先短い者どもの刑罰に、なんのためらいもない。
しらけた濁り川が洪水を起こして、日銀を押し流すと
いう顛末が目に浮かぶのであるが・・・。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi