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誰でも一度は死ぬんだけれど・・・

検査も治療も大変、時間も体力も、金銭的にも。

でも治る見込みがあれば頑張れる。
少なくとも現状維持できれば、辛い検査も治療も頑張れる、と思う。


実際、そう思ってこの5年間やってきた。





でも時々、その唯一の気持のより所が無くなってしまったらどうだろうと考える。


身近かに高齢の祖母がいる。

寝たきりで、寝返りさえできない。
最近は薬を飲むことさえ辛いようで、よく父に怒られている。

正直なところ、あとはもう死を待つばかりだ。



そんな祖母をみていて、今の心のより所って何なのだろうと思う。

100歳まで生きて、死んでもまさに天寿を全うという状態。



でも、そんな祖母をみていても、意識があるのか無いのかわからないようでも、
生きる希望は失っていないようだし、不平不満も表す。
(これが看病する両親にとっては厄介なのだが)




そんな祖母と違い、病院に行くと、まだまだ人生これからという人たちで一杯。

そんな人たちを見ていると、いつも自分と重ね合わせ、この人たちの病名は、とか
余命は、とか考えてしまう。


余命を告げられた人って、何をより所にして生きているのだろう、と考える。




入院中も、余命を告げられた、という人に何人も出会った。

開き直っているのか、それとも諦めていないのか、みな普通に生きていた。

当時の自分にはその人たちの心情を推し量る余裕など無かったけど。





昨年秋、病院で一番仲の良かったSさんが逝った。

そのSさんに、「たぶん夏まで」と告げられたのが春。


でも普段の振る舞いでそんな素振りは一切見せない。

抗がん治療と痛みで相当辛いにも関わらず、普通に行動していた。




こういうのって何なのだろう。

自分の先を知って、愕然とし、嘆き悲しみ、でも自分の中で整理し、時間を掛けて
立ち直り、ある種、何か人間の超越したものが発現するのだろうか。




病気なんて、闘えているうちは幸運だ。

心底そう思う。

頑張った先に少しでも希望があるなら、全然闘えるってことでしょう。




一生検査が必要でも、薬を飲み続けなくてはならなくても、たまに入院や手術が
あったとしたって、それはそれで、よし。





検査は続くよどこまでも・・・

治療は続くよどこまでも・・・
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