坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

意味と差別

2008年06月30日 | 坊主の家計簿
 6月30日

 諸々  ティッシュペーパー5   268円
     枝豆            74円
     もやし           29円
     充実野菜4        712円
     ヴァームウォーター4   380円
     黒霧島         1580円
     焼そば麺          20円
     牛バラ          280円
     マヨネーズ        178円

 合計              3521円
 6月累計          112482円

 御参り先で「明日から7月ですね」と言ったら、オバちゃんが「今年ももう半年が終わりやねぇ。。。」との事。
 そうか。。。7月っちゅう事は、今年も半分終わったのか。。。早いもんやのぉ。。。

 と云う事で、意味なく『意味と差別』

 この半年間、充実した半年だったのだろうか?と、ふと考える。伊藤園の充実野菜は毎朝飲んでいるが、充実した日々であったのかというと「?」である。
 充実した日々。毎日バリバリと活動的に生き、周囲からも自分でも納得出来る評価。それでも「自分ではまだまだだと思います」等と云う。素晴らしい。。。カッチョエエやんけ。。。
 という様な充実した日々とは正反対の日々やのぉ。。。今日なんぞ昼寝で6時間ぐらい寝てたぞ。目覚ましかけたにも関わらず、目覚ましをブッチして爆睡してもうたやんけ。一応、予定ではタンガクラブで毎週月曜日にやっているはずの仏教学習会に行こうと思てたんやけど、起きたらそれどころの話ちゃいまっせ。なんちゅうんですか?仏教学習会に出たらなんとなく「おお、ちゃんと充実した一日やったやんけ。。。」と満足出来るのだが、昼寝で6時間でっせ。起きて、働いて、飯喰って、また寝て、起きて、飯喰って、飲みながらネットで遊んで居るだけでっせ。ちゃんと、せんかい!
 
 ちゅうのが『意味』という『思い』。自己満足でんな。
 日々の生活に意味を求める。当然、結構なんだが、『充実=意味ある事』。意味を見出せる事。
 充実していない=意味を見出せない。「ああ、おもろない1日やったのぉ。。。」等々。
 その『意味』ってなんや?何の意味や。何に適う意味や。

 意味。意味ある事と、意味のない事。その判断基準。
 「そんなん考えてもシャーナイやん。楽しければエエやん」の『楽しい』って何?
 『おもしろい』『楽しい』意味ある事。
 『つまらない』『苦しい』意味のない事。
 
 意味を問う。勝ち、価値を問う。
 問う事が出来る。

 『生きる意味』で検索すると結構なヒット数。それだけ『生きる意味』を問題にしている人が多いのだと思う。
 んじゃ、その『意味』ってなんや?意味が居るのか?
 
 納得する。自分で納得出来る。意味を見出す事が出来る。
 極論というか、ステレオタイプとでもいうのだろうか?そんなもんでいうならば、『生きる意味』なんぞを考えるのは充実した生活を送っていない人。
 迷う。迷う事が出来るのも充実した生活が送れない人。
 「そういう人はチャンスなんです。あなたは迷ったり、悩んだり、生きる意味を見出す才能に恵まれているのです」
 という意味。
 上の言葉に「そういうあなたは前世できっとやり残した修行があるのでしょう。ですがそういう迷いを感じる事は他の人達よりも霊的ステージが上なのです」
 が付くと、あたー(笑)まあ、やってはる宗教団体もあるのだろう。単なる差別なんだが。。。

 差別。意味を見出す。
 意味を見出す事により、意味を見出せない事がある。
 意味を見出す事が出来る状態、意味を見出す事が出来ない状態。
 意味を見出す事が出来る人、つまり評価出来る人。意味を見出す事が出来ない人、つまり評価出来ない人。

 意味。当然、意味なのだから、何かの価値観。何かの価値判断。何か特定の思想・宗教であったり、いわゆる『世間』であったり。
 「あの人達は仕事もせずに朝から酒ばっかり飲んで」という状態の人に意味を見出す事が出来ない人も居れば、その逆にそういう状態にある人に対して支援を『しようとも思わない』人に意味を見出せない人も居る。同じや、っちゅうねん。

 意味。価値判断。
 一体、何を基準にした価値判断なんだろうか?何の意味なんだろうか?

 「生きる意味を見失った」
 『見失った』って、誰が見た意味でんねん。誰から見た意味でんねん。そんな『意味』に意味があるのか?そんな『価値』に価値があるのか?

 やりたい事が出来なくなった。
 大切な人を失った。
 思い通りにいかない。

 意味。
 常に「私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私」
 私で頭が一杯。自己中心的。それが意味。
 私が大切で仕方がない。私の『思い』、私が見出す意味、価値で頭が一杯一杯。

 「違う!私は世間から追い出された」それが意味社会。
 『意味』でもって、自分を排除し、他人を排除する。自分を追い出し、他人を追い出す。

 「私、あなたの事がキライになったの」という意味。好き、キライという意味。価値ある、価値がない、という意味。
 清浄なる天皇と、と呼ばれた人達。意味。価値判断。
 能力のある人と、能力のない人の意味判断。
 必要な人と、必要でない人の意味判断。
 意味ある人と、意味のない人の意味判断。
 価値ある人と、価値のない人の意味判断。

 「ああ、この上半期、意味がなかったなぁ。。。」とは横暴である。差別的である。

 意味。人が考え出した意味。人が考え出して、自分や他人に『意味』を作り出す。
 意味がある事、ない事等と言い出し、それで判断している。そこまで頭が良かったのだろうか?そこまで完璧な判断を下す事が出来る事があり得るのだろうか?
 意味がある、意味がない、等と、一体、誰の権限で、誰が誰に対して云えるのだろうか?それが例え自分自身に対する判断であったとしても、そんなに完璧な判断を下す事が出来る程完璧な『私』だったのだろうか?
 一体、何時から『私』は仏になったのか?『神』という概念は様々だろうが、一体、何時から『人間』の側に、人間を超越したはずの概念を与えられるような権限を持ち合わせたのか?そんなもん等、ない。そんな権限などない。
 
 無いにも関わらず、さも絶対的存在、絶対的価値判断から云われた事のようにして「意味がある」「意味がない」。「充実している」「充実していない」等々。
 全く、頭が悪い。
 
 そうなのだ。頭が悪いのだ。頭が悪いから、完璧でないが故に、さも『完璧』であるような判断を下す事が出来ると思い込んでいる。そういう中で、自分や他者を判断している。
 何の権限もないにも関わらず『ある』と思い込んでいる。
 そんな権限など、無いのだ。あり得るわけがない。
 人間が、自分や、他人を差別する権限など持ち得ているはずがない。
 例え、どれだけ優秀な人であっても。どれだけ充実した人生を送り、偉大なる仕事をした人であっても。高僧や、著名な宗教家・哲学者であっても。

 上半期終了。
 変わらず、意味を求めて、振り回されとんのぉ。。。
 充実した日々だとか、そういうもんに振り回されとるのぉ。。。
 まあ、他に私の人生を歩んでくれる人は誰も居てまへんしぃ~。

恥ずかしい

2008年06月29日 | 坊主の家計簿
 6月29日

 食類  海老        173円
     レタス       100円
     ハム        196円
 雑費  洗濯洗剤      398円
     防虫剤       398円
     浴室洗剤      199円

 合計           1464円
 6月累計       108961円

 今日の仕事は早く終わる。諸々の事情で、最近、仕事が少しヒマになったのだ。まあ、単純に人手が増えたからなのだが。
 それまでは結構忙しかった。その前に居た寺が倍ぐらい忙しかったので個人的にはゆったり出来てエエのだが、まあ、それでも多少はバタバタと。
 それがヒマになった。ヒマになると時間が出来る。ゆったり出来る。
 その時間を「どうやって使おうか」と考える。
 読んでいない本が沢山ある。『忙しい』を言い訳にしていたが、今は忙しくないわけやし。聞きに行きたかった法座にも行ける気持ち的余裕も出て来た。
 んが、これがナカナカ上手い事行きまへんねんや。。。オモロイのぉ。。。
 単なる『サボリ』である。単なるサボリではあるのだが、仕事もせずに、本も読まずに、法座にも行かずに、つまり『有意義な時間』を過ごしていないとイケナイとダメ!というのは、どんなもんやろ。と、ふと思う。
 『有意義』。私にとって意味のある事。過ごし方。

 『有意義』。
 意味を与える。人生に意味を与える。
 「おっちゃんはバリバリやってまっせ!」とは有意義。意味ある生き方。
 けど、意味は意味でしかない。何かの幻想。

 「私は私の人生の中でこういう仕事を成し遂げました」
 「私は私の人生の中で社会にこういう貢献をしました」
 「私は生きている間に、これだけ素晴らしい善行をしました」

 意味ある事。
 誇る事が出来る事。
 誰が決める事が出来るのだろうか?

 「人間はね、結婚して子どもを作って育てる事が一番大切な仕事なのよ」
 なら、出家僧はそれに当らない。様々な人生の中で独身の人はそれに当らない。
 
 「経済活動は互助である。故に仕事が大事なのである」
 なら、仕事が出来ない人の居場所がなくなる。

 何かを成し遂げる=偉人。
 その逆の人はどうなるのか。

 努力は才能である。最近、某予備校の夏期講習のCMを見ていて感じる。何やら東大に合格した半数の人がその夏期講習に行ってたとかいう話なのだが、区切られた空間で多くの学生達が熱心に勉強している。熱心に勉強されておられる。
 私には無理である。絶対に無理である。
 何やら『伸びない人は、いない』というのがコピーらしい。
 『伸びる』って何を目指して『伸びる』なのだろうか?

 夢に向かって伸びる。自分がなりたいものに向かって伸びる。成長する。成長し続けて行く。
 その裏返しは「今のままではダメ」なのだろうか?
 「今の私のままではダメ」なのだろうか?

 『今の私のままではダメ』常に思う。「今の私のままではダメ」と常に思う。
 「何かしなきゃ、何かしなきゃ」と常に思う。故にゆったり出来ない。

 よく遊びに行く寺で反戦法要っちゅうのがあった。結構前のある年、その法要に参加する。昼の部で講師の先生の法話。夜の部までには時間があったので、近所の銭湯に行く。まあ、8月15日にやってたから、クソ暑いし、風呂に入った後に、夜の部でビールを飲みたいでんがな。
 風呂屋に行くと、早い時間にも関わらず先客あり。先客は云う「家に風呂があるけど、家の風呂は急がされからゆっくり入られへんわ」と。
 私は、誰からもせかされているわけでもないにも関わらず、自分で自分を追い立てている。

 自分で自分を追い立てるのでなく、問われる事。
 自分で自分を追い立てる在り方を、問われる事。

 自分で自分を追い立てる。「何かに成らなくてはイケナイ」と追い立てる。そういう在り方を問うて来る。
 有意義な時間すらも問うて来る。「ああ、今日は、ちゃんと仕事もしたし、家事もしたし、勉強もした。エエ一日やったで」すらも問うて来る。
 静寂。煩悩がない状態、等、ない。
 何かを成し遂げて満足するのも欲が満たされただけ。満腹になっただけ。餓えたらまた始まる。そういう在り方を問う。

 自慢。自慢出来る事。人前に見せれる事。世間の前で発表出来る事。
 「私は、今日一日、こんな事を考え、こんな事をしました」と。自慢出来る事。
 自慢出来ない事は、笑いに変換して自慢にする。人様に発表出来る事にする。あるいは悲劇にする事によって。何かの形にする。世間で受け入れられる形にする事によって『受け入れられようとする』。迷い。自信がない。
 
 『そのまま』などない。こちら側にはない。
 答えは、こちら側にはない。という判断も私にはない。
 単なる私の意見でしかない。

 だが、それが私の意見である。答えでないから、点数が悪いから意見を言えないような、つまり「女、子どもは黙ってろ!」みたいな事はおかしい。
 誰もが『答え』を持っていないから、誰かが点数を判断するような社会ではないから、誰だって意見が言える。
 具体例なら、「それは違うぜ」と指摘されるが、それぞれの『声』、生き方、人生観は相互批判でしかない。
 個人同士、共に虚仮である。誰もが正解を握りしめている虚仮である。だから、答えなんぞない。

 恥ずかしい生き方。
 誰に対して恥ずかしいのか?
 「こんな姿を見られたら。。。」等々。

 答え=世間様。
 と
 それぞれの声。

個個個個個個、虚仮ー、個個個個

2008年06月28日 | 坊主の家計簿
 6月28日

 食類  水菜        98円
     イカ唐揚げ     88円
     うどん玉      20円

 合計           206円
 6月累計      107497円

 腹巻きして仕事へGO!
 今日は葬儀。葬儀終了後に柩車(いわゆる『霊柩車』)について火葬場に行く。
 柩車から棺桶を火葬場中の台に乗せる時に葬儀社の姉ちゃんが「男性の御方様、数人御願い致します」と。棺桶を担いで会場内の台に乗せるまでの数メーターなんだが、ふと「なんで男やねん」と、ふと疑問に思う。
 遺族の中に和田アキ子や、森三中の大島なんぞが居たら、多くの男性遺族よりも力が強いはずである。
 帰宅して少し気になったので調べる。けど解らん。。。
 手持ちの本では、国東の事例として【コシ、甥がかつぐ】とある(民俗小事典『死と葬送』92ページより)
 また、【マゴノコシといって輿を孫がかつぐことを喜ぶところがある。】(同書93ページより)ともある。『孫』は所詮『孫』なので男女の区別がないはずである。
 また、『善の綱』というのがあり、これは【葬列で棺の前方に白布を伸ばしそれを近親縁者の女性や子供が引いて先導する綱】(同書93ページより)とある。そこから考えるに役割分担なのかな?
 天皇の棺をかつぐ八瀬童子に女性がいるという話は聞いた事がない。
 まあ、役割分担かも知れんが、それが固定化されるとうっとうしい話や。
 当然、その葬儀が仏式であれば当り前ながら男女の区別はない。よって女性が棺桶を担ぎたかったら担げばエエだけの話である。その場にいる僧侶は認めるだろう。認められなければ「根拠を示せ」と云えばイイ。仏教にそんな根拠があるとは思えない。

 祟り。
 村の風習。
 村には村の古くから風習がある。タブーがある。
 別に法律で定められているわけでもなく、『常識』となったタブーがある。まあ、別に村だけの話ではないのだろう。『棺桶を担ぐのは男』っちゅうのは都市部でもあるのだろうし。
 
 「こうでなければいけないのだ」という頑固な頭は別に村社会だけの話ではない。何かしらのこだわりはそれぞれが持っているものだと思う。『こだわり』だと思わないぐらいに当り前になっている事も多々あるだろう。今では崩壊しつつあるのだろうが『家事=女』もそうだろうし。
 『こだわり』。自分がこだわっている事を無視されると腹が立つ。それが『村全体』の事であるのなら、村全体のバランスを崩してしまうかもしれない。

 今日の『土曜はダメよ!』という関西ローカルの番組(http://www.ytv.co.jp/dameyo/)の定番コーナーである『ダメットさん』は『思い出たくさんダメットさん』だった。
 思い出がつまったものが捨てれない人。それは100円ライターや、店のマッチ等でも。だから部屋がもので一杯。CDの帯などもあって、それも捨てれない。他人から見ると『ゴミ』にしか見えない物でも捨てれない。そこには『思い出』があるから。

 他人から見ると下らないものでしかなくとも、大切にしておられる人もいる。
 「下らんヤツ」
 「大きくなったらあんな人になったらいけない」
 「殺人鬼」
 等々でも。

 風習。
 時代は変わる。
 変わる時代の中で「こんな古くさいものは捨ててしまえ!」等々。
 当然、それが辛くて辛くて仕方がない人も居られる。

 『答え』と『応え』
 「うちの村は昔からそうやったんや!」という答え。
 それも確かに応じてくれている事には違いないが、でも、話を『答え』でもって『間違い』とされる。最初から答えありきの事。
 それは別に『村の風習』という答えだけでなくとも、今なら『人権』であったり、『男女平等』という『答え』であっても同じだと思う。
 で、そこから排除される人。

 『どんな人であっても』という言葉が好きだ。大切にしたい。

 排除される人。何かの答えでもって排除される人。参加出来ない人。棺を担げない女性。等々。

 答えを持っている。答えを持っているが故に頑固になる。頑なになる。正解から相手を判断する。している。
 
 執着する存在としての人間存在。
 でも、それが執着とは思えない。『当り前の事』になる。
 人はナマモノ。壊れやすい。
 必ず死ぬ命だと解っていながらでも、親しい人が死ぬと悲しい。失恋も悲しい。それで精神バランスを崩される人もいる。
 けど、それも『こだわり』でしかない。「こうあって貰いたい」「こうであって欲しい」という。欲望。
 
 様々な『こだわり』が対等になれば。。。
 無視する事無く、答えから裁く事なく、バカにする事なく、対等のこだわりの交わり。

 個個個個個個、虚仮ー、個個個個
 あ、明日も仕事やった。最近、朝が辛くてのぉ。。。ニワトリも居らんし。

家事で煩悩の火事

2008年06月27日 | 坊主の家計簿
 6月27日

 外食  ラーメン        590円
 雑費  100円ショップ    630円
     エスカップ12     628円
     除湿剤         158円
     玄米黒酢        398円
     防虫剤2        796円

 合計             3200円
 6月累計         107291円

 ついつい豚骨ラーメンを食べてしまう。
 ついつい唐辛子を沢山入れて辛くしてしまう。
 ついつい昨日買った牛バラ肉を食べてしまう。
 まだ無理やったか。。。お腹が。。。

 その割に仕事が終わってひたすら家事。多分、買い物時間を含めると5時間ぶっ続けで。「あかん。。。ヘトヘトや。。。」っちゅう事で仮眠して、起きたらまた家事の続き。
 まあ、御陰で部屋が片付いたのはエエのだが、まだ終わってないしなぁ。。。明日も結局足りなかった防虫剤を買って来て、今度は部屋に吊っている系の衣類に押し込まな。ネット通販で買ったシャツも洗濯は終わったけど、明日アイロンせんとアカンし。結構買ったから大変やな。

 家事には終わりがない。当り前の話であって、毎日の事だから。まあ、タンマに今日みたいに普段放ったらかしにしている部分をまとめてやらんとアカン事もあるけど、毎日の事。明日、部屋掃除をして、風呂場の水垢をなんとかして、シャツにアイロンをかけても、家事は終わらない。明日には明日の家事があるし。

 家事。日々の生活。
 ふと、周利槃陀伽(=周利槃特)の事を思い出す。
 諸々のリンクを探したけど、これがエエかな?
 http://arukou.net/saiunji2/h16/zakki/culapanthaka.html
 日々の生活を『煩悩』として頂く事が出来た周利槃陀伽(=周利槃特)。

 当然、私自身の中で周利槃陀伽(=周利槃特)の事を思い出させるのもプライド(煩悩)である。
 なんちゅうんですか?自己肯定とでもいいましょうか。
 でも、それはそれとして、周利槃陀伽(=周利槃特)の事を思い出せるようになったのは、非常に簡単な話なのだが、私がその話を知っていたから。どっかで誰にか『教えて頂いた』から。だから、思い出せる事が出来る。よって、家事を散々やったという事を通じて周利槃陀伽(=周利槃特)を思い出す事が出来て、それを『ほこり』にしている私も見出す事が出来る。
 検索してネットに落ちている仏の教えを読む事が出来る。

 仏教を学んだからといって、それ程人間が変わったとは私自身の中では思えない。けど、『思い出す事』の中に仏教の歴史が入って来ている事だけは確かみたいだ。

 何かの折に、ふと仏教の伝統の話を思い出す事が出来る。間違いなく、私の中に仏教が入り込んでいる。
 家事をした誇りであったり、その中で周利槃陀伽(=周利槃特)の事を思い出したりするのは、自己肯定である。だが、その話を読むと、その事が『埃(煩悩)』である事も知らせられる。

 欲があるから自己肯定しか出来ない。
 でも、仏教を学んだが故に仏教の伝統の中で語られて来た言葉を思い出す事が出来る。自己肯定を『欲=煩悩』であると言い当てられる事が出来る。

 様々な自己肯定をしている人達と同じ立場でしかない。
 世間が仏教になっただけの話でしかない。
 全く同じでしかない。それが故に、「いや、俺は仏教を学んだのだ」等と差別化している。仏教を誇りに使う為の道具にしている。差別化の道具にしている。
 
 仏教徒というプライド。
 「私は○○である」というプライド。

『応』『答』

2008年06月26日 | 坊主の家計簿
 6月26日

 食類  カニ飯         200円
     きずし         100円
     鮭ほぐし身       100円
     冷凍ネギ2       196円
     牛バラ         241円
     豆腐          138円
     棒ラーメン        68円
     ししとう        138円
     みつば          40円

 合計             1221円
 6月累計         104091円

 テレビドラマ『おせん』(http://www.ntv.co.jp/osen/)が終わった。
 第九話と最終回は続き物。味と伝統を受け継ぐと云う事がテーマだったと思う。
 最終回ではおせんちゃんの料亭が借金等の理由で存続の危機に陥る。悩むおせんちゃん。落ち込むおせんちゃん。その姿を見て母である先代女将が料亭に火をつけて燃やそうとする。料亭の名前は一升庵。
 先代女将は云う。「こんなものが燃えてなくなっても一升庵はなくならない。」と。おせんちゃんは気づく。気づいた事を『受け取り』、一升庵で働く人達に伝える。「あなた達一人一人が一升庵です」みたいな事を。
 料亭としての一升庵がなくなっても、それで働いて居た人達の『技』が消えるわけもない。『人』が消えるわけでもない。
 諸々の事情で一時期一升庵を離れた人が、戻って来る時におせんちゃんは拒む。料亭がなくなるし。また、一升庵で学んだ事を新しい場所で活かして欲しい、と。

 人は死ぬ。必ず死ぬ。生きている人は死ぬ。でも、関わった人達は生きている。死ぬまでは生きている。
 死んだ人は関わった人達の中に生きている。相互に影響しあっているし。

 『答え』と『応え』。
 「答え一発、カシオミニ」やったけな?そんな電卓のコマーシャルが昔にあったと思うが。

 秋葉原で連続通り魔殺人を犯した兄ちゃん。何やらその兄ちゃんが書いていたらしい掲示板には、その兄ちゃんが福井にナイフを買いに行った後に、ナイフ屋の店員さんと喋った後に『書き込んだ』とされている言葉に「人間っていいね」やったけな?人間と会話した事の感動が書かれていたらしい。
 個人的には家出バイク旅行の中で、一日の会話がガソリンスタンドでの「満タンで御願いします」「はい、満タンですね」という言葉ですら温かく感じた事を思い出す。

 『答え』
 電卓のコマーシャルがあったように答えは答え。正解。
 「あなたはこういう風に生きなければならない」
 「私はこういう風に生きなければならない」
 という『答え』。
 『答え』だから、間違いがある。不正解。
 世の中。誰が決めたか解らないが何かの『答え』。
 「ちゃんと勉強しないと、大きくなったらああいう風になるのよ」と、ホームレス状態の人を指差していう。
 『答え』

 「間違ったらダメ!」は間違いである。そんな権限など誰にもない。誰も『答え』を知っているはずがない。
 宗教は様々あるではないか?思想も様々あるではないか?人生も様々ではないのか?

 人が死ぬ。
 「ああ、この人の人生は答えに則った人生であった」
 なのか?

 葬儀。私の仕事でもある。
 行くと、故人が生前に『応え』た人が来ている。

 蒼井優ちゃん初主演テレビドラマの『おせん』は終わった。
 観た私の人生はまだ終わっていない。
 観た事によって何かしらの影響を受けた私の人生は終わっていない。

 『応え』
 共に生きている。生きている限りは様々な影響を受ける。受けている。

 秋葉原の通り魔殺人の兄ちゃんが狙っていたらしい『ワイドショーの独占』は残念ながら数日で終わった。あれはちゃんと取調べ官は兄ちゃんに伝えるべきである。
 「ホッホッホッホ!お前が狙っていたワイドショーの独占だが、残念ながら東北で起った地震で素っ飛んだぞ」と。

 『答え』
 「よく出来たわね。偉いわよ」と居場所を与えられる。評価される。
 『勝ち組』と『負け組』。
 正解に答える事が出来た『勝ち組』。

 
 ♪お前なんてどっちにしろ いてもいなくても同じ
  そんな事言う世界なら ボクはケリを入れてやるよ

 ♪全てのボクのようなロクデナシのために
  この星はグルグルと回る
  (ブルーハーツ『ロクデナシ』より)

 
 グルグルと迷う。
 『答え』は止まる。
 応じるが故に回る。
 応じようとするが故に変わり続けようと『思う』事が出来る。
 対等であるが故に。
 それが私に出来ているとは思えない。でも、そういう姿を私に見せてくれた人達がいる。その事だけは知っている。

【一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。】(釈尊)

当り前の事

2008年06月25日 | 坊主の家計簿
 6月25日
 
 外食 ワンタン麺        567円
 食類 寄せ豆腐         130円

 合計              697円
 6月累計         102870円

 しんどい、っちゅうねん。。。
 ちゅう事で、今日の学習会はサボる。
 サボって、ダラダラ、ダラダラとテレビをボンヤリみて過ごす。

 こういう疲れて脳味噌ヘロヘロ状態の時はお笑い番組に限る。ちょうど『お笑いレッドカーペット』やったけな?そんなのがやってた。少し、観る。
 バカリズムの『贈るほどもない言葉』にハマる。ユーチューブにも落ちていたのでさっきも見てもうた。
 『贈るほどもない言葉』は卒業式に先生が最後に『贈る言葉』が、もの凄く『当り前』の言葉だったりする。それだけのネタなのだが、8分ぐらいでも充分飽きずに笑える。

 しゃて、非常に影響されやすい私もバカリズムに真似て『贈るほどもない言葉』をひとつ。
 「いいか、みんな。いいか、お前等はみんな死ぬ。」

 う~ん。。。当り前は当り前の事なんだが、おもろないなぁ。。。
 っちゅうか、坊さん臭いなぁ。。。っちゅうか、坊さんやったんやった。
 坊さんなので、ついでに『贈るほどもない言葉』をもうひとつ。

 「いいか、人間の眼は横で鼻は縦だ」

 これは『眼横鼻直』という道元禅師の言葉である。
 「当り前やんけ!」
 なのだが、じゃ、その『当り前の事』当たり前の事として引き受けられているかというと、そうも行かない。引き受けているとは全くいえない。引き受ける事が出来ないが故に、当り前の言葉に感動したりする事が出来る。

 殺人を犯した多くの人は逮捕後に反省したりするらしい。
 反省するのなら最初からやらなければイイだけの話なのだが、そういうわけにも行かない。殺人は極論だろうが、ついつい夜中にラーメン屋に入ってこってりしたラーメンを食べている時に「ラーメンだけやったら足りひんなぁ。。。」と小ライスを頼んでキムチ山盛りにして食べてしまって、翌朝下痢になって初めて「ああ。。。何度同じ失敗してるねんや。。。」と云う人は私だけではないはずである。小ライスにキムチ山盛りは少数かも知れないが、夜中のラーメンの被害者は多いはずである。なんだが、変わらずにラーメン屋は深夜にも開いている所から察するに、同じ過ちを何度も何度もしてしまうのだろう。下痢でなくとも胃もたれであっても。
 当り前の事、解りきった事であっても深夜にラーメンを食べてしまうのだ。

 梅雨はジメジメしてイヤだと言い、夏は暑いと文句ばっかり。年がら年中文句ばっかり。全く引き受ける事等出来ない。『当たり前の事』を『当り前の事』として引き受ける事が出来ない。
 暑いからクーラをつけたりして自分の思いに適う環境を作り出そうとする。当り前の事を当たり前の事として放って置く事が出来ない。
 それが私の『当り前の姿』である。当り前の事を引き受ける事が出来ないのは『欲』がある。『思い』がある。故に『煩悩具足の凡夫』である。
 『具足』とはオプションではない。標準装備である。煩悩は標準装備されている。
 そういう当たり前の事を引き受けられないからカッコ付けたりする。そういう当り前の姿から眼を逸らそうとする。
 「聞きたくない、聞きたくない」という誰かのギャグがあったが、あれである。当り前の事を聞きたくないが故に夢の中、思いの中に埋没しようとする。してしまう。
 宗教でなら『救われてしまった』問題。救われてしまったら道を求める必要がなくなる。凡夫が仏になってしまう。凡夫であるが故に救いを求めようとするのだろうが、救われてしまったら『求める必要がなくなる』。求めるのでなく、判断する側『だけ』になる。他人の成績をつける『先生』になってしまう。
 求める事が出来る。救いを求める事が出来る。仏になるのでなく、仏に向き合う『側』に立てる。

 毎日の御仕事は御参り。まあ、読経でんな。読経する時は、仏に向き合う側に立つ。仏を背中にしてではない。仏に向き合い、同じ門徒の人達と、共に仏に向き合う。共に仏道を求める事が出来る。
 他人の成績をつける先生の側。「あなたの仏教はおかしい」等々。同じ仏教徒にも関わらず、同じ仏教徒を弾圧したりする。御禁制の教えにしたりする。死罪、流罪にしたりする。仏の弟子が、仏になる。仏になって人を裁く。

 当り前の事を、当り前をして引き受ける事が出来ないが故に、『求める事』が出来る。
 多分、バカリズム先生は、卒業を前に生徒達にそんな言葉を伝えたかったのではないのか。。。と、ヘロヘロの頭で思ったりもするが、ネタや、っちゅうねん。
 
 

征露丸

2008年06月24日 | 坊主の家計簿
 6月24日

 諸々  公文学費       4200円
     学習会会費      5000円
     中華そば        304円
     征露丸         398円
     レモンティー      130円
     居酒屋        2000円
     ドグラマグラ     2700円
     タクシー       5270円

 合計            20002円
 6月累計         102173円

 腹の調子が悪く、学習会に行く途中に薬局へ。正露丸でなく、そのまんまの『征露丸』っちゅうのが売っていたのでゲット。調べてみると、今でも奈良の日本医薬品製造株式会社と云う所だけではそのままの名前で出しているらしい。故に、かなりのレアものらしい。なんだが、『正露丸』よりも値段が安いしエエでっせ。

 学習会後に居酒屋へ。学習会は17時からだったので居酒屋を出ても21時。先輩と「もう一軒行きまへんか?」とドグラマグラへ。
 先輩は先に帰ったのだが、店でなんじゃかんじゃと話し込んでいたら電車がない。。。なのでタクシー帰宅。

自分が自分になる

2008年06月23日 | 坊主の家計簿
 6月23日

 諸々 穴子飯         200円
    参加費        1000円
    本2          500円
    タコ焼き        500円
    ドグラマグラ     1500円
    電車          380円
    ラーメンライス     750円
    チョコアイス      126円

 合計            4956円
 6月累計         82171円
  
 本2冊は『南無阿弥陀仏の葬儀』(二階堂行邦)
 1冊をタンガクラブの代表にプレゼントしようと思って2冊買ったのだが、タンガクラブに初めて来たらしい最近お母さんを亡くされた方にプレゼント。んが、タイトルだけで渡したのだが、内容は読んでないし、大丈夫かな?まあ、大丈夫やろ。

 三日連続学習会の初日。
 別に同じ学習会ではないのだが、まあ、なんとなく連続してもうたわけやな。
 初日は某学習会の法要。講師の先生は二階堂行邦先生。
 1000円の参加費を払うと1000円の『自分が自分になる』という二階堂先生の本がついて来るというスペシャルサービス。代表の人曰く「多くの人にこの本に触れてもらいたい」やったけな?そんな事を仰ってた。
 講演。思いっきり筆箱を忘れる。なのでメモが取れなかったのだが、「法蔵菩薩は聞法力である」と云う事を質疑応答の中で仰っていた。圧巻やな。

 会場に行く途中、難波の駅で珍しく機動隊員を発見。地下構内である。
 多分、数日前に大阪駅構内で起った連続斬りつけ事件の影響なのかな?
 容疑者の女性が逮捕されたらしい。
 http://www.asahi.com/national/update/0623/OSK200806230114.html
 容疑者だし犯行を認めていないから誰が犯人なのかは解らないが、何をヤケクソになっとるねん。

 『己に願いはなくとも 願いをかけられた身だ』(藤元正樹)

ジメジメ

2008年06月22日 | 坊主の家計簿
 6月22日

 雑費  ショルダーバック     1290円
     シャツ           990円
     Tシャツ9        2970円
 食類  枝豆             75円
     レバニラ          149円
     弁当            199円
     発泡酒3          555円

 合計               6228円
 6月累計            77215円

 近所のユニクロでTシャツゲット。無地しか着ないのでユニクロが一番なのだ。首の所にタグもないし。あれはあったらカユくなるから着れないのだ。
 Tシャツの裾というものはジーパン等から出すらしい。という人はきっと『Tシャツの裾を出さないとイケナイ病』の患者である。
 同じく、Yシャツ等の裾はジーパン等に入れないと行けないらしい。そういう人はきっと『Yシャツの裾を入れないとイケナイ病』の患者である。
 上はカッコ悪い。
 下はダラしない。
 共に患者である。
 「(こそこそ)あの人、Tシャツの裾をジーパンの中に入れているわよ。カッコ悪いよね」
 「(こそこそ)あの人、Yシャツの裾をジーパンの外に出しているわよ。ダラしない」
 共に患者である。

 こだわる。
 こだわりは個人的なものである。私だって様々なこだわりがある。靴下は全部黒だし、Tシャツは白か黒である。靴、ベルトも黒である。
 自分がこだわる事と、それを他人に当てはまる事とは違う。
 今年の流行がなんなのか知らないが、流行を追い求めている人は追い求めたらエエだけの話である。勝手にすればエエだけの話である。しかし、その事を他人に当てはめて「流行遅れ」等というのは大きな御世話である。単なる自信喪失でしかない。
 別に服を着ている人達全てが『ファッション道』に入門しているわけではない。ファッション道に入り、ファッション道を追い求めている人がいれば勝手にすればイイだけの話である。
 よって、他人を捕まえて『ダサイ』だとか、『ダラしない』だとか、『流行遅れ』だとかいう人は患者でしかない。単なる病気である。早期の治療を勧める。

 こだわる。
 こだわる事が出来なくなればどうなるのだろうか?
 私はよく100円回転寿司に行くが、「寿司はカウンターで食べるもの」というこだわりの人が仕事が上手い事行かなくなり回転寿司に家族連れで行く。「こんなものしか子どもに食べさせられないなんて。。。」と涙ながらに食べてる隣の席では家族連れで喜びながら、キャッキャ、キャッキャ、云いながら食べている。
 不幸を自分で作って居るだけやんけ。

 ああいう風になるのはカッコ悪い。
 ああいう風にするのはダラしない。
 ああ、窮屈だ。。。
 梅雨でジメジメしてるよりもうっとうしい。。。

『社会』と『個人』

2008年06月21日 | 坊主の家計簿
 6月21日

 食類  焼きハマチ        75円
     焼きにしん       125円

 合計              200円
 6月累計          70987円

 橋下大阪府知事が大阪府職員研修に自衛隊の体験入隊を利用しようとしているらしい。
 http://www.asahi.com/politics/update/0618/OSK200806170060.html
 数日前の事なので、今現在はどうなっているのかは解らないが「何を考えとるねん」である。大阪は何時から楯の会になったのか?そのうちに大阪府職員を引き連れて自衛隊に乱入してクーデターでも起すつもりなのか?大阪府職員と自衛隊とで関ヶ原を封鎖して関西を独立させるつもりなのか?まあ、それはそれで面白い気もするのだが、単なる職員研修であるらしい。
 大阪府の幹部の方曰く「研修内容が違う」であり、労働組合の幹部曰く「調子に乗り過ぎている」らしい。まあ、そりゃそうだろう。元々右派的な発想の知事だったが、今回の発言は『タレント時代』なら笑って済むが、知事でっせ、知事。ちょっと、知事としては完璧な失言やな。

 夕寝で爆睡して、『人志松本のすべらない話ザ・ゴールデン』を少しだけ見る。
 え~と。。。関西出身以外のお笑い芸人も増えて来たのぉ。。。
 橋下知事、この状況を打破しないといけない。このままでは『お笑い王国・大阪』の看板を降ろさなければならない時が来るのではないのか?職員研修に自衛隊を使うよりも、職員選抜でM-1グランプリを目指せばエエのではないのか?
 まずは職員内での漫才コンテストをして、その中の上位数組をM-1グランプリに出す。話題にもなるし、また、職員のお笑いのレベルも上がる。職員同士が『お笑い』を通じての一体感が出るではないか。自衛隊よりも、吉本に行け。

 大阪がお笑い王国なのは単純である。そんなもんは関西ローカルのテレビ番組を見れば解る。ほぼ、お笑いである。お笑い芸人が大活躍である。
 毎週土曜の昼間には吉本新喜劇をテレビでやっている土地柄である。今日なんぞは14時から17時まで3時間の漫才番組である。全国ネットの時間を除けば『お笑い』で一杯の土地柄である。
 テレビという気軽なマスメディアで気軽にお笑いに触れる事が出来る。
 学校の成績が悪ければ「あんた、吉本に行くんか」とか、面白いヤツが居れば「お前は吉本に入れ」の土地柄である。周囲の環境もお笑いである。
 よって、お笑いに関して必然的に厳しくなり、話に『オチ』を求める。法話をする坊さんも『お笑い』を考える土地柄である。つかみのネタがウケなかったら落ち込む土地柄である。
 それが故に『お笑い王国』であったのだが、現在はお笑い番組は全国ネットでもバンバンやる時代だし、法話での『お笑い』も全国的になりつつある。
 危ない。。。危険である。DVD等でも簡単にお笑いが見れるし、ユーチューブでもお笑いは見れる。大阪=お笑いの牙城は危機に陥っている。

 元々の大阪原住民はそれ程多くないと思う。土地が狭いし。私だって大阪の生まれ育ちであるが、父親は四国系であり、母親は石川県である。子どもの私が大阪で生まれ育っただけである。大阪は都会でもあるので地方出身者が多い。全くお笑い文化に触れていない人達が集まって来て、大阪のお笑い文化に接し、お笑いが血となり肉となるだけの話である。つまり、そういう文化に染まるだけの話である。
 決して『大阪で産まれた=お笑いDNAを持っている』ではない。後からのものである。大阪はお笑いに接する機会が多いから必然的にお笑いのレベルが上がるだけの話である。決して先天的なものではない。

 この辺を勘違いされやすい。何か大阪人には先天的に『お笑い遺伝子』が備わっているような勘違いをしておられる人もいるが、それはあくまでも勘違いである。ただ単に周囲の影響である。文化である。日本で生まれ育った在日コリアンの人達だって、民族教育を受けなければ、あるいは家庭内で朝鮮語を学ばなければ朝鮮語は話せない。スザンヌも英語は話せないらしいではないか。あくまでも文化である。
 よって、大阪人=お笑いとはあくまでも後天的なものであり、大阪人=お笑いとは偏見である。単にそういう文化があるだけの話である。
 
 周囲の環境によって人は変わる。どういう文化圏に産まれたかによって人は変わる。どういう文化圏に居てるかによって人は変わる。どういう教育を受けるかによって人は変わる。
 当り前の事である。
 
 どういう文化を作り出して行くのかは、個人の責任である。
 死刑という文化は『正義さえあれば人を殺しても構わない』という文化である。その事に反対するのか、賛成するのかは個人の問題である。

 大阪=お笑いとは売りになる。文化的特徴でもある。だからといって全ての大阪人がお笑いが好きであるとか、お笑いが得意であるとかという事はあり得ない。それは偏見である。単純な話だ。『大阪人』等いないのだから。居るのは単に『大阪で生まれ育った人』である。

 しかし、決めつけられる事も多々ある。大阪人の自殺原因のトップは『大阪人なのにお笑いが出来ない』という事である。その事によってストレスを感じ、自殺する。つまり、『大阪=お笑い』であるが故に、必然的にそれを求められて『大阪人らしくない』という事がストレスになる。
 これは当然『男らしくない』『女らしくない』にも通じる。そんなものなど無いのだ。あるのは戸籍上での『男』『女』だけの話である。身体的の『男』『女』は、『性同一性障害』という「何が障害じゃ!」という事で無くなって居る。あくまでも戸籍上での問題だけである。
 どういう風に人生を生きたいのかは、それぞれ個人の選びだけの話である。
 『男の視点』『女の視点』等もあり得ない。単なる妄想である。作られたものでしかない。

 『○○らしい』がストレスになる。
 『○○にそぐわない』になる。そこに自分の居場所がない。自分を自分として引き受ける事が出来ない。
 だったら、そんなもの捨てればイイ。捨てる事が出来なくとも「下らない」と思えばイイ。単なる偏見でしかないと思えばイイ。
 私は私であると。
 ただ、今度は『私らしくない』になる。それも偏見である。固定化された私などない。周囲の様々な影響によって『私』は変わる。変わった私自身を『私でない』とするのは偏見である。元来『私』などないのだから。

 『らしさ』に則ればプライドが保てる。所詮、そんなもんである。世間体に『私』を売り渡しているだけの話である。
 当然、それを売りにするのなら売りにすればイイ。大阪でお笑いが売りなのと同じ様に売ればイイ。
 ただ、別に売れなくとも大阪は大阪だし、『私』は『私』である。
 事実、今生きている『私』を無視する事は横暴極まりない。

 社会正義は変わらず流行中である。そんな『社会』に自分を売り渡す必然性はない。
 社会も変わっていく。橋下知事が自衛隊で職員研修をしようとする時代である。大阪府が右翼団体になるかも知れない時代である。そういう中で生まれ育つ。そういう中で生まれ育った人は右翼的な思考になる。それは戦後民主主義教育の中で左派的な思考を養われた事と変わらない。
 『私』は変わっていく。どういう風に変わっていくのかは、それぞれの個人の選びである。
 どういう風な『国』を作って行きたいのかは、それぞれの個人の選びである。
 私は、それぞれの個人を『社会正義』の名目、『○○らしさ』という個人を無視する国は選びたくない。
 『社会正義』の貢献度や、『○○らしく』ある事にどれだけ当てはまるかという様な、偏見に満ちあふれた『社会』は選びたくない。そういう文化は真っ平御免だな。

社会正義

2008年06月20日 | 坊主の家計簿
 6月20日

 外食  かき揚げ蕎麦       326円
 食類  うるめ丸干し       150円
     ちくわ           68円
     せり            68円
     にら            88円
     ごーや          128円
     キムチ2         136円

 合計               964円
 6月累計           70587円

 グリーンピースの2人が逮捕されたらしい。
 http://www.asahi.com/national/update/0620/TKY200806200036.html
 グリーンピースのホームページ(http://www.greenpeace.or.jp/)を見てみると【いつでも出頭に応じると伝えてありました。】とあるが、では自首すればよかったのではないのか?
 また、【グリーンピース・ジャパン職員が盗んだとされる鯨肉】とあるが、『盗んだとされる』ではなく、『盗んだ』ではないのか?
 違う記事では【只野弁護士は「横領行為を告発するための行為で、窃盗罪は成立しない」とのこれまでのグリーンピース側の主張について、「変わりはない。告発の意義は薄れない」と説明した。】(http://www.asahi.com/national/update/0620/TKY200806200105.htmlより)とあるが、何時からグリーンピースは警察になったのだろうか?っちゅうか、警察の捜査方法でもこのやり方はダメらしい。捜査令状が必要らしい。まあ、そりゃそうだろう。勝手にそんな事をされたら無茶苦茶になるし。
 幼稚というか、傲慢というか、なんというか。。。

 オウム真理教では『タントラ・ヴァジュラヤーナ』というのがあった。
【ところがオウム真理教では、いわゆる「タントラ・ヴァジュラヤーナ」(密教)を、「マハーヤーナ」(大乗)から超越した段階と位置づけ、「タントラ・ヴァジュラヤーナの修行者は、目的のために手段を選ばない」などと考えていたようです。これは大変な誤解であり、非常に危険な結果をもたらします。現にオウム真理教では、地下鉄サリン事件などを正当化する理論的根拠として、この考え方を採用していたようです。】(http://www.potala.jp/lib/tobira/tobira2.htmlより)

 誰にもそんな権限はない。警察にもない。鳩山法務大臣にもない。まして、一民間団体であるグリーンピースにあるわけがない。

 社会正義。当然、国家にもないが、民間にあり得るわけがない。それぞれの民間団体、例えそれが社会正義を標榜する団体であろうが、宗教団体であろうが、そんなものはない。
 ただ、勘違いをしているだけの話である。そして、その勘違いは単に優生思想である。選ばれた人達が持つ優位性であり、そんなものを認める事等出来るわけがない。差別を肯定する事を認められるわけがない。

 ふと、イラク人質事件を思い出す。

【私は親しいメディア関係者数人から、首相側近が、防衛庁幹部が、外務省幹部が、そして警察幹部が、記者に何を語ってきたのか、を全てうち明けられた。「自作自演」「自己責任」そして家族への誹謗中傷、全ては、政権中枢サイドが主導したものだったという真相がはっきり見えてきた。】(伊藤和子氏。但し、大月書店『イラク「人質」事件と自己責任論』69ページより)

 まあ、見事なまでの妄想である。政権中枢サイドが主導しなければ『自作自演論』『自己責任論』が出てこなかったであろうとする妄想、いや、妄想でなく、横暴極まりない、人間をナメ腐った発言である。
 しかし、まあ、こういう妄想が、跋扈する世界も知っている。幼稚な世界がある事も知っている。
 アメリカ大統領予備選挙の女性候補者が選ばれなかった理由を女性差別のせいにしたりもする。

 様々な妄想が跋扈する。特に『社会正義』の大義名分の中で。故に『権力からの弾圧』だの、『権力の犬』だのという差別的な発想も芽生えるのだろう。

 「『社会正義』の為にイイ事をしている。故に、鯨の肉を盗んだ事は罪にはならない。」
 「死刑のハンコをバンバン押す事も罪にならない。」
 のなら、オウム真理教のポアの論理と何ら変わらない気がするのだが。

 『社会正義』。
 『社会』と『正義』を分けてみる。
 多分、色々な人達が、様々な思想でもって『正義』を実行しているのだろう。だが、それと『社会』とは違う。それはあくまでも『社会の中のひとつの意見』でしかない。決して『社会全体の正義』ではあり得ない。
 自分が行っている正義の限界を感じた時に見えて来るのが『社会』ではないのか?
 『社会』の中で様々な人達が、様々な想いを持ち生きておられる。そういう『他者』『社会』の発見が大切なのではないのか?
 
 「なんで正しい事をしている私が責められなければならないの?」
 とは、単なるガキである。幼稚極まりない。
 エゴの拡大、自我拡大にしか過ぎない。
 だが、幼稚であるが故に、妄想を膨らます。イラク人質事件の支援者なんぞ最たるものである。右派は知らんが、左派ではよくある妄想である。そして『鬼』を作り出す。

 ♪ひとつ残らず君を
  悲しませないものを
  君の世界の全てにすればいい
  (大沢誉志幸『そして僕は途方に暮れる』より)

 エゴがあり、自我がある。そこから離れる事はあり得ない。余程修行を積んだ宗教者なら知らんが、まあ、あり得ない。
 故に、日本の大手伝統仏教である浄土真宗では『煩悩具足の凡夫』という。
 また、大手伝統宗教である仏教では人間存在の事を『衆生』という。『衆生』とは『執着する存在』である。
 故に、日本の大手伝統仏教である浄土真宗には『義なきを義とす』という言葉があり、大手伝統宗教である仏教では

【一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。】(スッタニパータより)

 という。

 正義とはあくまでも、『自分にとって』でしかない。単なるエゴの拡大でしかない。
 それを越えた世界が『社会』である。

 「社会にとって我々が出来ることは。。。」等とよく聞くが、大きな勘違いである。所詮、自分にとってでしかない。自分が信じる思想や宗教の話でしかありえない。

 アメリカから解放される筋合いもないし、同じく、日本が他国を解放する筋合いもない。
 そんな大きな勘違い、『社会正義』という勘違いが跋扈している。
 当然、釈尊当時から、いや、もっと大昔から何ら変わって居ない。最近だけの話ではない。
 
 『社会正義』の側に等、誰も立てない。立つ権限などあり得ない。一体、誰がそんな権限を認める事が出来るのだろうか?
 神や仏といっても、特定の宗教である。あくまでも、それを信じる人達の中にしかない。『社会』はその『外』にある。
 故に、『異教徒』がいて『鬼』がいる。『敵』がいる。
 『他者』がいる。
 理解不能の『他者』がいる。
 自分の『思いの外』の『他者』がいる。

 社会正義は変わらず流行中である。
 当り前である。『何をやっても許される』という免罪符が欲しいのだろう。
 差別者の側に立ちたい、弱者でなく、強者の側に立ちたいのだろう。弱者を利用しても。

【仏から信ぜられている-絶対に-何もかも承知の上で信ぜられている。】(曽我量深)

 最近、よくこの言葉を思い出す。
 『何もかも承知の上』でという部分が温かくて仕方がない。

 煩悩を抱えた凡夫は決して仏ではない。
 煩悩を抱えた存在である私(達)に『社会正義』という権限はあり得ない。
 あるのは個々の意見でしかない。個々、それぞれの人達の意見でしかない。
 そして『社会正義』という大義名分でもって、それぞれを意見、それぞれの人生を無視し、見下し、排除し、弾圧するのはおかしい。
 それぞれの意見は尊重し、尊重した上での相互批判をしたらエエだけだ。

 「私の意見(思い)が伝わらない」
 当り前である。『他者』がいるのだから。
 決して独りでない事の証明である。

決め付けを拒否する

2008年06月19日 | 坊主の家計簿
 6月19日

 食類  かにめし         200円
     海鮮           100円
     春巻           100円
     スパゲティー       278円
     ミックスベジタブル    198円
     発泡酒3         555円
     胡椒2          156円
     ヴァームウォーター6   570円
     寄せ豆腐(昨日)     130円
 雑費  回数券(昨日)     3700円
     タバコ10(数日前)  3000円

 合計              8987円
 6月累計           69623円

 『レディージョーカー』を観る。
 高村薫原作の方は上下2巻でかなり長いらしい。それを2時間の映画にするには無理があったのかな?もうちょっとじっくりと観たい作品。まあ、原作を読めばエエだけの話なんだろうが。
 『ジョーカー』、まあ、ババ抜きのババである。人生のババを抜かざるを得なかった人達の物語。多分、原作ではもっと丁寧に書かれているのだろう被差別の結婚差別、就職差別の問題も作品の中でのテーマになっている。

 『被差別民』という人格はない。当り前の話なんだが。そういう人種もいない。タマに『血が濃い』という人もいるが、都市部を除く日本の『村』はだいたい血が濃いのではないのか?また、天皇家も血が濃いし、寺社会なんぞも親戚だらけではないのか。単なる偏見にしか過ぎない。
 被差別の人達はあくまでも『差別されていた』だけの話であって、その『差別される側の人』を、穢れをきらう日本社会にとって必要だっただけの話である。
 故に、被差別出身者であると云うだけの理由でもって結婚する時に断ったり、就職する時に断ったりする様な差別者のDNAもない。差別者の血が穢れて居るような事は一切ない。単なる偏見でしかない。

 【「最も高くて硬いガラスの天井は破れなかったが、千八百万のひびは入れられた」。米大統領選から撤退したクリントン氏は、撤退表明演説でこう述べた。】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2008061802000127.htmlより)
 
 らしい。これでクリントン氏の副大統領候補の道も、次回選挙での道も絶たれた。と思う。
 選挙戦で負けた理由を『女性差別』のせいにする候補者に誰が投票するのだろうか?大統領候補者の撤退声明としては余りにも情けない。民主党での予備選挙では白人男性もいたはずである。その人達には勝ったのではないのか。しかし、撤退声明では女性差別を理由にするような論理性のない候補者に誰が投票するのだろうか?
 なんでもかんでも『女性差別』のせいにするのは、論理性がなさ過ぎる。
 女性の云う事を聞かないと差別者にされる、女性差別にされるのなら、それは『女性差別』という大義名分でのファシズムでしかない。
 オバマ氏に投票した中でも恐らく『女性差別』からの偏見でもって投票した人も居られるのだろうが、だが、全てではない。同時にクリントン氏に投票したなかで『黒人差別』からの視点でもって投票した方も居られるであろうが、当然、全てではない。
 今、一番の差別は『能力』という、問題にすらならないような事なんだろうし。それは日本でも、アメリカでも変わらんだろうし。

 上記リンクを読んでいて思うのだが、女性に対する偏見はある。だが、それは残念ながら民主党の予備選挙には当てはまらない。一騎打ちの相手が黒人候補者であったし。その事を無視して書かれている『鈴木穣』という記者の方は、恐らく名前から想像するに男性であろう。故に、『男は論理的、女は感情的』というのは偏見でしかない事をこの記事が証明している。

 ちなみに私も論理的になる時もあれば、感情的になる時もある。当り前である。生身の人間なんだし。
 ただ、『論理的』とは教育の問題もある。
 それが故に「女には教育なんぞいらん。生意気になるだけじゃ!」という理由でもって教育を受けさせて貰えなかった人がいる事も確かであろう。それが故に『感情的になるしか表現方法がない』女性が、男性よりも数の上でいうと多いのかも知れん。けど、それはあくまでも『教育をうけさせて貰えなかった』だけの話であって、決して『男性』『女性』という性差の話ではない。教育の問題である。
 教育を受けささずに倫理的思考を奪っておいて『女性は論理的でない』とは、余りにも論理的でない。そういう男性は差別教育という教育が奪われていたのかも知らん。受けようとしなかったのかも知らん。

 偏見。
 「あなたは○○である」
 大きな御世話じゃ、ボケ!
 勝手に決めるな、カスが!

一文不知

2008年06月18日 | 坊主の家計簿
 6月18日

 雑費  グリーンティー      320円
     居酒屋         4800円

 合計              5120円
 6月累計           60636円

 所用で外出。

 電車での行き帰りに本を読む。ちなみに今読んでいるのは、保坂俊司『戒名と日本人』。著者がやたらと五来重という人を褒めちぎる。かなり素晴らしい研究をなさった方らしい。
 気になるので帰宅して検索する。
 法蔵館から『五来重著作集』というのが刊行中らしい。。。全12巻と別巻1。合計13巻。多分、全部で12万ぐらいか。
 欲しい。。。目録を読んでいると無茶苦茶欲しい。。。過去に金が無くて買えなかった訓覇信雄論集や、和田稠先生の選集(?)の怨みもある。しかも仏教関係の本はすぐに売り切れたりする。版権ごと大谷派が買い取って、オンデマンド出版でもしてくれりゃエエのだが、まあ、課題やな。
 っちゅう事で、『五来重著作集』。悩む。。。
 っちゅうか、気になるやつだけ買えばエエのか。
 第一巻『日本仏教民俗学の構築』
 第三巻『日本人の死生観と葬墓史』
 第八巻『宗教歳事史』
 第十一巻『葬と供養(上)』
 第十二巻『葬と供養(下)』
 だけに絞り込むと5冊か。
 図書館とか、人から借りると汚したらアカンから面倒なのだ。

 っちゅうか、その前に、『日本の古本屋』とかで安く売ってる古本を買うか。

 っちゅうか、その前に「仏教学、真宗学をちゃんと勉強せえ」というのもあるのだが。。。

 最近、「疲れた。。。」が口癖というか、なんというか、40にして体調がどう変わったのか知らんが、とにかく『お疲れモード』が多い。よって、出不精であって、学習会とか行きたい講座とかでも「面倒」というのが先に立つ。
 
 そういう状態なので、法然上人の一枚起請文(http://www.zenshoji.or.jp/fuku/ichimai.htm)の中の

【念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。】

 と云う言葉が、念仏の教えを聞き続けるが故に『一文不知の愚鈍の身』に成れる事が出来るのではないか、と云う風に聞こえて来る。
 
 程の差はあれ、例えばこのブログを『読める』、『文字が読める』人は、みんなインテリでんがな。知識人でっせ。

非人間化

2008年06月17日 | 坊主の家計簿
 6月17日

 外食  ちゃんぽん      660円

 合計             660円
 6月累計         55516円

 法要終了。夜の部ヘロヘロで、読み慣れたはずの5ー12の御文も噛み噛み。舌が廻らん。
 けど、法要が終わって門徒さん達と酒を飲んでたら元気が出て来るとは現金なもんや。

 アルカイダの友達の友達が、また死刑執行のハンコを押したらしい。
 さすがはアルカイダの友達の友達である。正義があれば人を殺す事を躊躇しない辺りはそっくりでないのか。まあ、別にアルカイダの友達の友達だけでなく、アルカイダの敵であるアメリカも同じなんだろうが。
 っちゅうか、別に『アルカイダの友達の友達』だから死刑執行のハンコを押したわけではなく、単なる個人的な思想なんだろうが。。。

【瞑想は社会から離れ、社会から逃げだすことではなく、社会への復帰の準備をすることです。
 これを、私たちは、「行動する仏教」と呼んでいます。】(ティクナットハン『ビーイングピース』(中公文庫68ページより)
 
【行動する仏教は、社会的政治的問題を解決するために仏教を役立てたり、爆弾に抗議したり、社会における不正義に抗議することだけではありません。
 まず第一に、仏教を私たちの日常生活のなかにもたらさなければなりません。】((ティクナットハン『ビーイングピース』(中公文庫80ページより)

【ある日、私たちは、小さな舟の上で、タイの海賊に強姦された、若い娘についての手紙を受けとりました。彼女は、わずか十二歳でしたが、海に飛び込んで溺れ死にました。
 はじめてこのようなことを知ると、まず、あなたは、海賊にたいして怒りを覚えます。当然、娘の側に立ちます。
 さらに深く考えるにしたがって、違った見方をします。娘の側に立てば、ものごとは容易です。銃を取って、海賊を撃つばかりです。
 しかし、私たちには、それはできません。
 もし、彼のように、海賊の村に生まれ、同じ境遇で育てられたなら、私が今海賊になっていることを、瞑想によって、私は洞察しました。私が海賊になった可能性は、非常に大きいのです。そう簡単には、彼を非難することができません。】(ティクナットハン『ビーイングピース』(中公文庫91ページより)

 私は死刑廃止の意見を持っている。多分、ガチガチの死刑廃止論者である。故に、どうしても鳩山邦夫法相を間化してしまう。
 でも、それは違う。鳩山邦夫法相も同じ人間であり、私が彼になったかも知れない。そういう事をティクナットハン師の言葉を読むと感じる事が出来る。
 生きて来た人生が違う、立場が違うだけの話である。
 生きて来た人生が違い、立場の違う人を如何なる理由であっても間化するのはおかしい。

【親鸞聖人が、弾圧するものに対して、晩年のお手紙にもございますけれども、念仏をさまたげるものをけっして憎んではならないと。そのもののために祈れ、といっておられます。念仏をさまたげるものは、外道性において生きておるという点では私も一緒だと、なんにも変わらない。われわれは、すぐにそれを敵とする。そうではなしにまったく一緒なんだと、ただそのことにナンマンダブツしておるか、していないかの違いだけなんだと。じつは、そのことが、決定的な違いなんですけれども、しかし、自己の外道性ということについては、なんら変わらんのです。】(和田稠『出離その期なし』186ページより)

 法要。仏事。
 念仏申すのは他の誰でもなく私。仏道を歩むのは他の誰でもなく私。
 そんな、ごく当り前の事を忘れていた。

釜ヶ崎暴動

2008年06月16日 | 坊主の家計簿
 6月16日

 雑費 洗濯機クリーナー     198円
 食類 豚バラ          335円
    ブイヤベースおでん2   148円

 合計              681円
 6月累計          54856円

 お休みなのでマッタリと。
 DVD『理由』
 多分、原作は面白いねんやろなぁ。。。

 DVDを観ながらメシ喰って、DVDを見終わって昼寝というか、夕寝。
 寝てたら電話。当然、寝てるので出ない。「おお、電話が鳴っとるのぉ。。。」と眼が覚め、鳴り終わるとまた寝る。
 夕寝が終わって携帯を見ると友人からだった。で、電話で得た情報。
 http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/thesedays13.htm
 http://kamapat.seesaa.net/
 っちゅうか、初日の13日の21時頃にも同じ友人から電話があって情報を得ていたのだが、こっちは飲んでるし。タンガクラブで三浦さん(タンガクラブ代表)と諸々喋っていたので釜ヶ崎の暴動に行くわけにもいかん。
 今日の電話は18時頃。何やら今まで以上の凄い数の機動隊が来ているらしい。その後、どうなったのかは知らん。今日も、明日も、明後日も暴動を見に行く時間はないし。
 っちゅうか、釜のオッさん等は朝が早いから、夜遅く行っても騒いでいるのは野次馬のガキ達なのだ。これは前の暴動でも同じだったし、今回も同じみたい。まあ、前の暴動の時は私もガキだったのだが。。。
 何故暴動が起こったのかについては上記リンクを読んで下さい。今日の日本の側面です。