とりあえず忙しいのは一段落。
積ん読の中から『中島岳志的アジア対談』を半分だけ読む。
あ、
講師:中島岳志 北海道大学准教授
講題:中島岳志氏、親鸞聖人を語る。「無縁を生きる-3・11後の日本」
日時:2013年3月22日 午後5時開場受付 5時30分開講~7時30分
場所:難波別院南御堂(大阪市中央区)同朋会館講堂
参加費:無料
http://www.osaka-goenki.net/modules/xpress/?p=2685
です。確か雑用が当たっていたはずだったので、まあ、「一冊ぐらい読んでおこう」という事で。というか、最近知り合った方がこの本に関わって居られた事もあって購入したのだが、目次と最初と最後だけ読んで積ん読状態だったのだが、これを機会に読んでおこうと。
保守。中島岳志氏は親鸞に信仰を持たれておられる方だが、西部邁を師と仰ぐ保守思想の方である。西部邁というと、若い頃の『朝まで生テレビ』で見事なまでのきらわれ役の人であって、当然(?)私もキライであったのだが、中島岳志という左翼臭漂う人の師という事で見方が変わって来るのかも知れないが、さっき読んだ限りでは「まあ、別にエエわ」みたいな感じ。西部邁を追いかけて読む事は、まあ、多分ないだろう。
故にどうしても『保守』という前提に『中島岳志的アジア対談』を読み進めていたのだが、西部邁曰く保守思想とは
【僕の思う保守思想とはこういうこと。自分とはなんぞやを考えた際に自分の中にいる過去の人や現在の他者を統合して、昨日・今日・明日を繋ぐ感情と理屈の両面での一貫性のある包括性、それを目指す誠実さなのです】(『中島岳志的アジア対談』より)
らしい。難しい文章だし、別に西部邁の弟子でもないし、授業で『保守思想』を理解しなければならないわけでもない。あくまでも私の人生にとってどう影響があるのか?だけが問題であり、それ以外に興味はない。
私にとっての保守思想は「えらばず、きらわず、みすてず(摂取不捨)」である。そういう観点からの保守思想で、この本の中で「お!」という言葉があった。
【たとえばフリーターでネット右翼の子から、下手にその気持ちを取り上げたら自殺しかねない。】
これは雨宮処凛の言葉である。雨宮処凛が何故ウケているのか未だに解らないのだが、まあ、文化人ウケする人なのかも知れないが、私は文化人でない。ただ、この言葉はナカナカええ。
思想でも宗教でも基本の出発点は個人なのではないのか?と思っている。当然、違う思想や宗教もあるのだろうが、私にとっては、私の思想、信仰の出発点、いや、言葉を言い換えよう、それらは自己責任である。自分がないとどうしようもない。その思想にこだわっている自分、その信仰をせざるを得ない自分という存在を誤摩化す事は出来ない。
故に、例えば人権関係の解放系運動だったとするならば、そこから見えて来た自分がどういう風に問われるかが課題になる。「反差別運動だから」という正義に埋没してしまう事は自己を問う事が出来ていない。その場、自分の場からの「えらばず、きらわず、みすてず」でないと危ない。「私がやっている事が『えらばず、きらわず、みすてず』であり、私に敵対する事が「えらび、きらい、みすてる」事だ!」になりかねない。それが坊主の堕落の根本だろう。求道心の忘却というか、求道心に溺れる、か。(恐らく)必ず陥る事。
保守というとどうしても天皇と直結してしまう。私は天皇制に反対である。天皇制として憲法に記すのでなく、単に一宗教家として独立した宗教教団の長になる事を望む。恐らく日本最大の宗教教団になるだろうし、伊勢神宮を筆頭に大半の神道団体がそこに属する形になるだろう。
しかし、天皇を賛美したり、あるいは、天皇制を護りたい方々が多く居られる事も知っているし、その方々が間違っているとも思っていない。いや、「間違っていると思いたいが故に、思ってしまうが故に、私の『保守回路』が問うのだ。「その人達の人生を無視していませんか?」と。
【人間の弱さや苦悩が、一転して他者への権力的な振る舞いへと変質する瞬間を、魚住さんは見逃さない。そして、そのような人間の「人間性」を鋭く抽出しつつ、背景に潜む「存在の悲しみ」に温かいまなざしを向ける。】(『中島岳志的アジア対談』より)
こういう言葉を書く中島岳志氏は結構面白そう。あ、「魚住さん」とは、野中広務氏の『差別と権力』を書いた人。
とりあえず3月22日までに残りを読も。