坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

恩師の言葉

2013年03月28日 | 坊主の家計簿
如来の摂取不捨(えらばず きらわず みすてず)の心を学び
真実 自分自身のしたいこと
しなければならないこと できることを
他人とくらべず あせらず
あきらめず していこう
(竹中智秀先生)

チェスタトン『正統とは何か』

2013年03月23日 | 坊主の家計簿
【現今の諸事雑事を問題にする場合、いやしくも平凡人の一致した意見を重視するのであれば、歴史や伝説を問題にする場合、いやしくもそれを無視すべき理由はない。つまり、伝統とは選挙権の時間的拡大と定義してよろしいのである。伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然により権利を奪われてはならぬと主張する。伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の下僕であっても尊重する―それが民主主義というものだ。正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の父であっても尊重する―それが伝統だ。民主主義と伝統―この二つの観念は、少なくとも私には切っても切れぬものに見える。二つが同じ一つの観念であることは、私には自明のことと思えるのだ。われわれは死者を会議に招かねばならない。古代のギリシア人は石で投票したというが、死者には墓石で投票して貰わなければならない。これは少しも異例でも略式でもない。なぜなら、ほとんどの墓石には、ほとんどの投票用紙と同様、十字の印がついているからである。】
(チェスタトン『正統とは何か』より)

http://blog.livedoor.jp/k60422/lite/archives/51290997.html

東日本大震災から1年、石巻で語られる「幽霊」の噂

2013年03月23日 | 坊主の家計簿
東日本大震災から1年、石巻で語られる「幽霊」の噂
2012年03月03日 12:49 発信地:石巻/宮城
http://www.afpbb.com/articles/-/2862313?pid=8585392


【3月3日 AFP】東日本大震災による大津波からまもなく1年。大きな悲劇を乗り越えようと懸命な宮城県石巻市で「幽霊」が出るという噂が飛び交っている。

 前年3月に亡くなった人たちのさまよう霊が不幸をもたらすことを恐れて、修復工事が中断してしまったという現場がある。半分だけ修復されたスーパーマーケットを指して、あべ・さとしさん(64)は語る。「工事の人が具合悪くなったって聞いたよ。そこらへん中で死んでんだもの。そういう話は一杯あるよ」

 石巻の一部では、漁港としてにぎわっていた震災前の活気を取り戻しつつある場所もある。住宅が再建され、商売が再開され、子どもたちが学校へ戻って来ている。しかし東北で犠牲となった約1万9000人のうち、およそ5分の1は石巻の住民だった。元通りになると思っている人はほとんどいない。

 ささき・しんいちさんは3月11日の記憶は決して消えず、その消えることのない記憶が「亡霊」を生んでいると語る。「あの日のことはふと何度も思い出すんです。まして、どこで誰が亡くなっているか知っていれば、突然なことなんで、まだうろうろさ迷っているって思うこともあるかもね。自分は幽霊なんて信じるほうではないんだけど、こういう風に噂がでるのは分かる」

 あるタクシーの運転手は、大津波ですべてが流されてしまったところには止まりたくないとAFPの取材に語った。乗り込んできた客が幽霊だったら・・・と思うからだという。石巻に住むある女性は「幽霊の列」の噂を聞いたことがある。生きていた最後の瞬間の不毛な努力をなぞるかのように、幽霊たちは丘へ向かって殺到し、津波から何度も何度も逃げようとするのだという。

 カウンセラーや学者たちは、大きな災害や悲劇の後の幽霊話はいたって一般的で、社会的な「癒しのプロセス」の一形態だという。

 文化人類学者の船曳建夫(Takeo Funabiki)氏は、こういった類の話が流布するのは「当然だ」と考える。
「人間は本来『死』を受け入れられないものなのです。まして突然の、異常な形での死――年をとってベッドの上で死ぬという形でない死――は昔から人間にとって最も受け入れがたい。その社会で納得できなくてたまっているものがどう表現されるかというと、噂話であったり、まつりの中で供養するなどということになります。社会的に共有できるものに変えるということがポイントです」

 最愛の人を失った人々の一部は、魂を慰めるために神職を招いたり、お盆に霊を迎える準備などをした。

 しかし、信心によっても喪失を乗り越えがたい人もいる。日本カウンセラー学院(Academy of Counselors Japan)の心理カウンセラー、池田宏治(Koji Ikeda)氏は「被災地の人は恐怖、不安、悲しみ、帰ってきて欲しいという気持ちなど色々な感情をもっている。心の中で処理しきれない非常に多くの感情が霊の投影という形で現れたと考えることができます」と語る。「(被災後の)色々な感情は溜め込んでいられなく、表現していかないといけない。現実に適応していくために、前に進むために必要だから、起きていることでしょう」

 石巻で実際に幽霊を見たと表だって話す人はほとんどいないが、荒涼とした道をさまよう幽霊を受け入れる気持ちがある人は多い。すぎもと・ゆうこさんは、自分は特別迷信深いわけではないし、幽霊を見たこともないという。けれど「普通に生活してた人が突然亡くなったので、受け入れたくないと思っているんでしょう。出ない方がおかしいと思います」と語った。

(c)AFP/Miwa Suzuki

『どうした!?品川』

2013年03月22日 | 坊主の家計簿
 ネットに落ちてたアメトークの『どうした!?品川』を観る。

 http://youtubewara.blog10.fc2.com/blog-entry-5157.html

 え~。。。泣いてしまった(笑)

 「どうした!?○○」と、ああいう感じで言ってくれる仲間は居てるかなぁ…。

 最近、すっかり丸くなりました。別に品川みたいに韓流スターみたいな髪型はしていないが、立ててた髪の毛は丸坊主になりました。え~「坊さんらしく見える」=営業に便利、という一番下衆な発想がメインで。
 
 品川の『ギラギラ期』は「お前、一日24時間お笑いの事考えているか?」と後輩に言ってたらしいですが、私は先輩に「勉強したり、学習会に参加してます?しないとダメですよ」なんぞと生意気な口を利いてしまったりした事があったり。その時に先輩(今はブイブイやってはります)は「そんな事言うけどなぁ、お前、結婚して子どもが出来たらそっちに力が取られてしまうぞ」と、え~。。。今の私が後輩に喋って居る事を言われたりしました。
 何か引っかかりがありそうな人にはとりあえず噛み付いてみたりして、それこそ和田先生に噛み付いて、揚句にその時周囲に居た人達に「お前らが『先生、先生』とおだてるからこんなボケ老人になってしまったんと違うんかい!」と言ってしまったり。恥ずかしい限りです。

 まあ、私は芸人でなく僧侶なので構わないと言えば構わないのだろうし、「○○さんって、坊さん学校に行く度に丸くなって話しやすくなりましたね」と言われたりするので、「まあ、ええか?」と思ったりもするのですが、何か「お前、エエ坊主になったのぉ~」と先輩から言われると「そうでしょ~♪」と応える反面、どこか寂しかったりもします。
 恩師・竹中先生が生きていたら、「最近のあなたは煩悩具足でなく『煩悩不足』ですよ」と言われるかも知れない。丸くなって、無難に、有吉が『どうした!?品川』の中で最近(当時)の品川に対して「腰ヌケ隠居野郎」という新しい綽名を言ってたが、まさに最近の私は『腰ヌケ隠居野郎』だな。

 という事で、『腰ヌケ隠居野郎』の御縁を、この辺、『御縁』とかいう言葉を使う自体が「どうしたんだ!?○○!」だと思ったりするのだが、『腰ヌケ隠居野郎』という生活実体から「それで何が悪いねん」と。

 自我を肯定する。でも、現状の私を自分自身が認める事が出来なかった、あの「生きているだけで鬱陶しい」時代に戻るのはイヤ。毎日「死んでやろう」と思って居た時代に戻るのはイヤ。

 僧侶になろうと決断した大きなきっかけである先輩から言われた言葉があった。本願寺派の方で非常に熱い方。坊主スタッフだった人を訪ねて来られたのだが、入店した時から泥酔状態。かなり鬱陶しい。泥酔客は馴れているが、その中でも他の客に絡みまくるし、かなり鬱陶しかったので通常ならボッタクって脅して追い出すのだが、そういう接客態度が気に入らなかったのだろう、私に対して「お前が本当にやりたいのはそんな事か?なんや、『文句あったら殺したる』みたいな眼をしやがって。お前が本当にやりたいのはそんな事違うやろ。こっちに来い、こっちに」と、私に言った後に、ある坊主スタッフに「おい、こいつを坊主にせえ」と。
 その先輩はヤクザが大嫌いだったらしく、「法律でヤクザを潰したる」と法律家を目指している中で多くのヤクザと出会い、ヤクザの人達と仲良くなって、『ヤクザに成らざるを得なかった人生』を知って、法律でヤクザを潰す事は辞めたらしいのだが、昔なじみのヤクザの所に行ったら、ビビられて、とても寂しかったらしい。坊主スタッフだった人に「辛い…」零しておられた。
 数年前に久しぶりにお会いすると、その先輩もすっかり丸くなられておられて「そんな事言ったかなぁ~」と笑っておられた。嫌ごとの一つぐらい言って欲しかったのだが。
 
 煩悩は無くならない。形を変えるだけ。ギラギラした様な形で現われる刺々しさは薄らいで来たのだろうが、変わらず自我を中心に人を切り裁いている事は間違いない。刺々しさが薄らいだ分だけ解り難く、認められやすくなっただけの話である。

 スーパー銭湯から帰宅したら机の上にチラシがあった。『チラシ』というよりも本の宣伝のコピー。近所の在日コリアンの人が持って来てくれたらしい。裏にメッセージも書いてあった。帰宅したのが夜半で、晩御飯を食べて、娘と遊んでいたらお礼のメールを仕損なったのだが、明日しよ。
 本は、当然、在日コリアン関係。お勧めの本らしい。明日Amazonするつもり。
 その人は出会った当初から、ずっと在日コリアンに対する差別を訴えておられる。

 『腰ヌケ隠居野郎』の私は、腰ヌケ隠居野郎に対する自他差別、まあ、『腰ヌケ隠居野郎』を裁く、要するに『人生を観ない』という事に対してムクムクと腹立ちと悲しみを覚える昨今。

 『カモメのジョナサン』を翻訳した五木寛之が、うつ病患者に人気のある(?)、まあ、飛べなくなった鳥をモデルにした『リトルターン』というのを翻訳した。

 http://www.amazon.co.jp/リトル-ターン-集英社文庫-ブルック・ニューマン/dp/4087460495

 飛べなくなったが故に、初めて『大地』に色々な生き物達が居ている事を発見出来た。

 何か、色んな事に対して、そんな所からの連帯を目指す昨今。当然、飛べないので、地味です。
 地味ですが、『腰ヌケ隠居野郎』や、何か色々な事を出来ない人に対して、その人の人生を否定する様な発言をする人を『人間としてみれない』『敵と思ってしまう』という様なギラギラした煩悩もまだ残っています。
 『煩悩不足』の名言を残した恩師が「煩悩はしたたたかものですよ」と仰っておられたが、変わらず自己中心的な尺度から人を切り裁いています。思わず髪の毛をまたツンツン立てたいと思ったりもしますが、え~、面倒だし、営業的に良くないので、辞め。
 煩悩を舐めんじゃねーぞ(笑)

堀潤 NHK退局の理由まとめ

2013年03月21日 | 坊主の家計簿
堀潤 NHK退局の理由まとめ
 http://togetter.com/li/474421

単に服務規律(?)違反を正義に酔っぱらって謝罪出来なかっただけの話ではないのか?
 NHK側の言い分としては

【掘アナは昨年6月から米カリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)に留学し、東京電力福島第1原発事故などを題材にしたドキュメンタリー映画『変身』を制作し、話題に。米国で同映画の市民向け上映会を企画していたが、NHKは「留学の成果を大学外部で上映することは留学の目的から逸脱しており、認められない」として、これを認めなかった。】
(http://newslounge.net/archives/70084)

 とあるが。

 まあ、堀潤氏がNHKを退職した事に関して様々な妄想を膨らませて自分たちの運動内部の盛り上がりを図るのも結構だが、見てる方としては、もう飽きた。閉塞化して行くだけなんだが、そんな騒ぎは。まあ、それによってますます御自分達の優性思想を満足させる事が出来るのだろうが。

失われた「教団の僧伽性」― 大乗精神の回復を 山崎龍明氏 - 論・談

2013年03月21日 | 坊主の家計簿
失われた「教団の僧伽性」― 大乗精神の回復を 山崎龍明氏 - 論・談
http://www.chugainippoh.co.jp/ronbun/2013/0305rondan.html

Twitterで流れて来たので一読。
え…。

【存在そのものが罪科といっていい原発の稼働にくみし、憲法9条まで改悪していつでも戦争できる国にしたいと考える人々に、それを誤りといえない者は宗教者ではないと言ったら傲慢のそしりをうけるであろうか。】

と、文中にあるが、傲慢のそしりを受けながら発言すればイイと思ってしまうのだが。

山崎龍明氏は違う教団だが、名前は存じ上げている。で、この文章を読んでの感想を一言で云うならば「山崎さん、お疲れですね」である。教団内で色々な具体的な動きなどで疲れて居られるのではないのか?

だいたい、文中に「いろいろな人」という言葉が否定的に使われているが、死刑制度は「いろいろな人」の存在を無視するが故に問題なのではないのか?
また、憲法9条改憲は「いろいろな人」の存在を『敵』としてしまう動きに繋がる事が問題なのではないのか?

「血みどろの相互徹底批判の場」が念佛のサンガだと思うが、傲慢だろうが、なんだろうが、咲けばざるを得ないのなら叫ぶしかない。

まあ、市民運動の影響を多大に受けて育った私にとっての真宗仏教での課題は山崎氏とは別なので、上記引用文には徹底的に賛同しない。如何なる運動の中においても私(たち)は愚者であり、『愚者』に「煩悩具足のわれら」に還る事が出来るところで、衆生(同朋)が見出されるのではないのか?運動論に染まり、オルグ出来なかった人達を批判するだけ、つまり、自分の座から一切立たない状態というのは如何なものか。

「いろいろな人」の存在を忘れる、いや、無視してしまうのが運動である。当たり前だ、目の前に困った人が居ているのだから。で、そこに埋没してしまう。
人間は完璧ではない。当たり前の事。でも、自分が出会った人達を盾にして自分のエゴを正当化する事はオカシイ。というか、そういう煩悩もある。決して「仏願に乗じて」ではない。必ずエゴが紛れ込むのではないのか?それが生身の人間ではないのか?それを踏まえた中での運動ではないのが?市民運動的な問題に関わる坊主ではないのか?
当然、それは市民運動の中では浮く。敵を作る事に反対するから。

伝統仏教教団に飽き足らず、超宗派や、いわゆる『市民運動』と連帯するのも個人の生活の中であっても何ら珍しくもないが、自分が属する教団がイヤが故に市民運動に居場所を見つけ、そこに迎合するなら本末転倒だろ。

『妙好人』という言葉の裏にある差別性、つまり、『僧侶と俗』との差別性は大キライなのだが、まあ、現代の妙好人、というか、尊敬する念佛者の先輩、バリバリの運動家で、バリバリの念佛者の人が憲法9条関係の集会&デモの打合せの時に『憲法改悪』という言葉に噛み付いた。「改正だと考えている人が居ている中で何が『改悪』ですか?」云々と。その場に居た中では一番筋金入りの運動家だったんだが、私も含めて多くの僧侶が居た中での、私にとっては一番念佛の働き・光明を観せて頂けれた。ちなみに9条の会から出馬したぐらいの人である。
それは『憲法9条だけ』の運動ならば反動分子でしかないのかも知れないが、違うやろ、んなもん。私達が生きている中で「どういう世界を目指したいのか?歩みたいのか?」という問題だろうが。

あ、山崎氏の話からズレて来たが、山崎氏の発言から、山崎氏が現場置かれている苦悩を感じる。是非とも

【追放可なり。獄牢甘んずべし。誹謗・擯斥・許多の陵辱・豈に意に介すべきものあらんや。】(by清沢満之)

という云うような感じで適当に頑張って頂きたいが、先の引用文は『念佛者』として如何なものかと思う。

幽霊本

2013年03月20日 | 坊主の家計簿
 幽霊本が3冊届く。Amazon経由の古本で買ったのだが、早い…。皆様、御仕事しておられる。

 前に、え~と、10数年前だったと思うのだが、一時期、なんとなく『幽霊現象研究家』になろうと、なんとな~く、非常に軽い気持ちながら、これまた、なんとなぁ~くブックオフの100円コーナーで幽霊本を買い漁った事があった。

 あ、私の次の大きな課題は『法話実習』というやつである。今行っている学校(教学研修院)では『法話実習』というものがあって、これが、法話の前に「こんなのをやります」というのを先生達に提出して意見を貰い、で、南御堂の定例法話の前座をやって、その後に先生&同級生を交えての批判の場がある。「ひぇ~」である。法話は当然何度も経験しているのだが、やはり緊張する。故に、「何を喋ろうかしら?」と。

 「みんな、『こいつ誰やねん?』だけでなく、出会いたいと思っているはずやで」

 という某先生の言葉もあったし、まあ、ほぼ、自己紹介的な所から始めるつもりである。といっても色々あるわけだし、また悩んだりしていたのだが、まあ、法話実習は何度かあるみたいなので、最初は出身地の話にしようかな?と、今の所。

 私は大阪の守口という所の出身なのだが、守口には『幽霊の足跡』という非常に珍しいものがある寺がある。

 http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/oskroman/120504/20120504097.html

 初めて知ったのは小学校の時だったかな?夏の心霊番組でやっていた。地元の守口が取り上げられただけで大盛り上がりだったわけなんだが、この逸話を今読むと面白い。ここに出て来る坊さんは、幽霊の話をしっかりと聞いている。決して「仏教は無霊魂だ。故に私が観ているのは幻にしか過ぎない」云々ではない。しっかりと『幽霊』という存在になった『人』の話を聞いている。

 幽霊というのは『存在する』『存在しない』という話ではない。あくまでも『観る』『観ない』だけの話である。霊魂という実体があってそれを観れる特殊能力がある人の話ではない、それはいわゆる『霊感商法』にも繋がる話なので注意しないといけないのだが、恐らく、一番近いのは『共感覚』(http://ja.wikipedia.org/wiki/共感覚)ではないかと思っている。生身の迷いの凡夫は、それぞれの主観のもとでの現象しか観る事が出来ない。故に幽霊を観る人は、まあ、その幽霊が何かを伝えたかった(多くは病院や、古戦場。あるいは被災地)のかを考える事(ヒマ)があれば考えればイイだけの話だと思っている。別に否定や肯定の話ではない。ただ単に、私が幽霊を観た人と喋る時は、その人が観た幽霊について会話すればイイだけだろうし、私が観たならば、というか、私も幽霊を観た事があるのだが、その幽霊からのメッセージを「どういう風に捉えればいいのか?」を考えれば(悩めば)イイだけの話である。せっかく深層心理まで刻みこまれた大切なメッセージなんだから、私個人は大切にしたい。

 で、これをどういう風に法話にするのか?という作業なんだが、時間は15分。幽霊の足跡を手がかりに、真宗聖典に引用される幽霊(声だけだが)から、親鸞直筆の法然上人が亡くなられた話の『奇瑞称計すべからず』から、確か浄土論註に出て来た『譬ば人有りて毒の箭を被ふて中る所筋を截り骨を破るに、滅除藥の鼓を聞けば即ち箭出で毒除こるが如し』とかいう逸話から『焚焼仙経帰楽邦』に結びつけるには15分では圧倒的に時間が足りるわけもなく、え~。

 だからといって、『話を聞く姿勢』云々だけなら法話にはならない。少なくとも私はそういう法話を聞いた後に「南無阿弥陀佛」と念仏がこぼれない。
 「如何に私が色々な人達の話を聞く事が出来て居ないのかを思い知らされました」なら感話である。

 『足跡』、まあ、「地に足をついていないものを幽霊という」という法語をポイントにしながらもう少し考えてみよう。ダメなら別ネタに。


 そういえば、さっき読んでた『中島岳志的アジア対談』の中に

【地域や組合、家族など、国家と個人の中間にある共同性が、失われつつあるからではないか。だから、自分が何かをしたらすぐ人に非難されるかもとか、人がすぐ犯罪者に見えるといった警戒心が強まっている】

 という、魚住昭氏の言葉があった。
 いわゆる『幽霊』も、別に『幽霊』として観なくとも、そういう形で判断してしまう事もあるのではないのか?

中島岳志的アジア対談

2013年03月20日 | 坊主の家計簿
 とりあえず忙しいのは一段落。
 積ん読の中から『中島岳志的アジア対談』を半分だけ読む。
 あ、

 講師:中島岳志 北海道大学准教授
 講題:中島岳志氏、親鸞聖人を語る。「無縁を生きる-3・11後の日本」
 日時:2013年3月22日 午後5時開場受付 5時30分開講~7時30分
 場所:難波別院南御堂(大阪市中央区)同朋会館講堂
 参加費:無料
 http://www.osaka-goenki.net/modules/xpress/?p=2685

 です。確か雑用が当たっていたはずだったので、まあ、「一冊ぐらい読んでおこう」という事で。というか、最近知り合った方がこの本に関わって居られた事もあって購入したのだが、目次と最初と最後だけ読んで積ん読状態だったのだが、これを機会に読んでおこうと。

 保守。中島岳志氏は親鸞に信仰を持たれておられる方だが、西部邁を師と仰ぐ保守思想の方である。西部邁というと、若い頃の『朝まで生テレビ』で見事なまでのきらわれ役の人であって、当然(?)私もキライであったのだが、中島岳志という左翼臭漂う人の師という事で見方が変わって来るのかも知れないが、さっき読んだ限りでは「まあ、別にエエわ」みたいな感じ。西部邁を追いかけて読む事は、まあ、多分ないだろう。
 故にどうしても『保守』という前提に『中島岳志的アジア対談』を読み進めていたのだが、西部邁曰く保守思想とは

【僕の思う保守思想とはこういうこと。自分とはなんぞやを考えた際に自分の中にいる過去の人や現在の他者を統合して、昨日・今日・明日を繋ぐ感情と理屈の両面での一貫性のある包括性、それを目指す誠実さなのです】(『中島岳志的アジア対談』より)

 らしい。難しい文章だし、別に西部邁の弟子でもないし、授業で『保守思想』を理解しなければならないわけでもない。あくまでも私の人生にとってどう影響があるのか?だけが問題であり、それ以外に興味はない。
 私にとっての保守思想は「えらばず、きらわず、みすてず(摂取不捨)」である。そういう観点からの保守思想で、この本の中で「お!」という言葉があった。

【たとえばフリーターでネット右翼の子から、下手にその気持ちを取り上げたら自殺しかねない。】

 これは雨宮処凛の言葉である。雨宮処凛が何故ウケているのか未だに解らないのだが、まあ、文化人ウケする人なのかも知れないが、私は文化人でない。ただ、この言葉はナカナカええ。

 思想でも宗教でも基本の出発点は個人なのではないのか?と思っている。当然、違う思想や宗教もあるのだろうが、私にとっては、私の思想、信仰の出発点、いや、言葉を言い換えよう、それらは自己責任である。自分がないとどうしようもない。その思想にこだわっている自分、その信仰をせざるを得ない自分という存在を誤摩化す事は出来ない。
 故に、例えば人権関係の解放系運動だったとするならば、そこから見えて来た自分がどういう風に問われるかが課題になる。「反差別運動だから」という正義に埋没してしまう事は自己を問う事が出来ていない。その場、自分の場からの「えらばず、きらわず、みすてず」でないと危ない。「私がやっている事が『えらばず、きらわず、みすてず』であり、私に敵対する事が「えらび、きらい、みすてる」事だ!」になりかねない。それが坊主の堕落の根本だろう。求道心の忘却というか、求道心に溺れる、か。(恐らく)必ず陥る事。

 保守というとどうしても天皇と直結してしまう。私は天皇制に反対である。天皇制として憲法に記すのでなく、単に一宗教家として独立した宗教教団の長になる事を望む。恐らく日本最大の宗教教団になるだろうし、伊勢神宮を筆頭に大半の神道団体がそこに属する形になるだろう。
 しかし、天皇を賛美したり、あるいは、天皇制を護りたい方々が多く居られる事も知っているし、その方々が間違っているとも思っていない。いや、「間違っていると思いたいが故に、思ってしまうが故に、私の『保守回路』が問うのだ。「その人達の人生を無視していませんか?」と。

【人間の弱さや苦悩が、一転して他者への権力的な振る舞いへと変質する瞬間を、魚住さんは見逃さない。そして、そのような人間の「人間性」を鋭く抽出しつつ、背景に潜む「存在の悲しみ」に温かいまなざしを向ける。】(『中島岳志的アジア対談』より)

 こういう言葉を書く中島岳志氏は結構面白そう。あ、「魚住さん」とは、野中広務氏の『差別と権力』を書いた人。

 とりあえず3月22日までに残りを読も。

保守思想

2013年03月20日 | 坊主の家計簿
 とりあえず忙しいのは一段落。
 積ん読の中から『中島岳志的アジア対談』を半分だけ読む。
 あ、

 講師:中島岳志 北海道大学准教授
 講題:中島岳志氏、親鸞聖人を語る。「無縁を生きる-3・11後の日本」
 日時:2013年3月22日 午後5時開場受付 5時30分開講~7時30分
 場所:難波別院南御堂(大阪市中央区)同朋会館講堂
 参加費:無料
 http://www.osaka-goenki.net/modules/xpress/?p=2685

 です。確か雑用が当たっていたはずだったので、まあ、「一冊ぐらい読んでおこう」という事で。というか、最近知り合った方がこの本に関わって居られた事もあって購入したのだが、目次と最初と最後だけ読んで積ん読状態だったのだが、これを機会に読んでおこうと。

 保守。中島岳志氏は親鸞に信仰を持たれておられる方だが、西部邁を師と仰ぐ保守思想の方である。西部邁というと、若い頃の『朝まで生テレビ』で見事なまでのきらわれ役の人であって、当然(?)私もキライであったのだが、中島岳志という左翼臭漂う人の師という事で見方が変わって来るのかも知れないが、さっき読んだ限りでは「まあ、別にエエわ」みたいな感じ。西部邁を追いかけて読む事は、まあ、多分ないだろう。
 故にどうしても『保守』という前提に『中島岳志的アジア対談』を読み進めていたのだが、西部邁曰く保守思想とは

【僕の思う保守思想とはこういうこと。自分とはなんぞやを考えた際に自分の中にいる過去の人や現在の他者を統合して、昨日・今日・明日を繋ぐ感情と理屈の両面での一貫性のある包括性、それを目指す誠実さなのです】(『中島岳志的アジア対談』より)

 らしい。難しい文章だし、別に西部邁の弟子でもないし、授業で『保守思想』を理解しなければならないわけでもない。あくまでも私の人生にとってどう影響があるのか?だけが問題であり、それ以外に興味はない。
 私にとっての保守思想は「えらばず、きらわず、みすてず(摂取不捨)」である。そういう観点からの保守思想で、この本の中で「お!」という言葉があった。

【たとえばフリーターでネット右翼の子から、下手にその気持ちを取り上げたら自殺しかねない。】

 これは雨宮処凛の言葉である。雨宮処凛が何故ウケているのか未だに解らないのだが、まあ、文化人ウケする人なのかも知れないが、私は文化人でない。ただ、この言葉はナカナカええ。

 思想でも宗教でも基本の出発点は個人なのではないのか?と思っている。当然、違う思想や宗教もあるのだろうが、私にとっては、私の思想、信仰の出発点、いや、言葉を言い換えよう、それらは自己責任である。自分がないとどうしようもない。その思想にこだわっている自分、その信仰をせざるを得ない自分という存在を誤摩化す事は出来ない。
 故に、例えば人権関係の解放系運動だったとするならば、そこから見えて来た自分がどういう風に問われるかが課題になる。「反差別運動だから」という正義に埋没してしまう事は自己を問う事が出来ていない。その場、自分の場からの「えらばず、きらわず、みすてず」でないと危ない。「私がやっている事が『えらばず、きらわず、みすてず』であり、私に敵対する事が「えらび、きらい、みすてる」事だ!」になりかねない。それが坊主の堕落の根本だろう。求道心の忘却というか、求道心に溺れる、か。(恐らく)必ず陥る事。

 保守というとどうしても天皇と直結してしまう。私は天皇制に反対である。天皇制として憲法に記すのでなく、単に一宗教家として独立した宗教教団の長になる事を望む。恐らく日本最大の宗教教団になるだろうし、伊勢神宮を筆頭に大半の神道団体がそこに属する形になるだろう。
 しかし、天皇を賛美したり、あるいは、天皇制を護りたい方々が多く居られる事も知っているし、その方々が間違っているとも思っていない。いや、「間違っていると思いたいが故に、思ってしまうが故に、私の『保守回路』が問うのだ。「その人達の人生を無視していませんか?」と。

【人間の弱さや苦悩が、一転して他者への権力的な振る舞いへと変質する瞬間を、魚住さんは見逃さない。そして、そのような人間の「人間性」を鋭く抽出しつつ、背景に潜む「存在の悲しみ」に温かいまなざしを向ける。】(『中島岳志的アジア対談』より)

 こういう言葉を書く中島岳志氏は結構面白そう。あ、「魚住さん」とは、野中広務氏の『差別と権力』を書いた人。

 とりあえず3月22日までに残りを読も。

韓国女性は甲状腺がん日本の14倍、その理由が…

2013年03月19日 | 坊主の家計簿
| Joongang Ilbo | 中央日報
http://japanese.joins.com/article/430/162430.html

【しかしチャン・ハンソク延世(ヨンセ)大学医学部教授は「甲状腺がんの増加は医療機器の発達と組織検査技術の進歩に従ったこと」としながら「早期に発見して治療することががんを育てることよりはるかに良い」と述べた。彼は「日本は韓国より超音波検査費などが高いのであまり発見されない」としながら「内視鏡検査が増えながら胃がんの早期発見が増えて、患者生存率が高まったのを責められるのか」と話した。クォン・ヨンジンソウル大学医学部医療政策室教授は「甲状腺がんが短期間にこのように急増したがなぜそうなったのか、について分析さえしないでいる政府が最も大きい問題と指摘した。】

待っていて「発見された」のと、探しに行って「見つけた」数字が違っているのは当たり前の事なんだが。
それを無視して騒いでいるのは単なる運動理念からなんだろう。まあ、ハマりたい人はハマっといて下さい。それが差別(結婚)などに繋がる事など想像もつかないぐらいにハマって居られる方々は気が済むまでハマっといて下さい。

(踏むがいい)

2013年03月16日 | 坊主の家計簿
【(裁くのは人ではないのに…
そして私たちの弱さを一番知っているのは主だけなのに)
と彼は黙って考えた。
「わしはパードレを売り申した。踏絵にも足かけ申した」
キチジローのあの泣くような声が続いて、
「この世にはなぁ、弱か者と強か者のござります。強か者はどげん責苦にもめげず、ハイラソに参られましょうが。おいのように生まれつき弱かモンは踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ…」
その踏絵に私も足をかけた。あの時、この足は凹んだあの人の顔の上にあった。私が幾百回となく思い出した顔の上に。人間が生きている限り、善く美しいものの顔の上に。そして生涯愛そうと思った者の顔の上に。その顔は今、踏絵の木の中で磨減し凹み、哀しそうな顔をしてこちらを向いている。
(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はおまえたちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから。)
「主よ。あなたがいつも沈黙しておられるのを恨んでいました。」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」
「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」
その時彼は踏絵に血と埃とでよごれた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。
この烈しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。
「強い者も弱い者もないのだ。
強い者より弱い者が苦しまなかったとは誰が断言できよう。」
司祭は戸口にむかって口早に言った。】
(遠藤周作『沈黙』より)

チープ・フライト

2013年03月16日 | 坊主の家計簿
「寒ブリ屋宮殿」と呼ばれた宮殿が氷見にあるかどうかは知らない。あ、録画していたカンブリア宮殿を観てます。ピーチとか云う航空会社の人が出ています。先日はピーチがモデルになったぽいドラマを観てました。
このドラマの中で気位の高い大手航空会社のスッチャーデスさんが左遷されてLCC(ピーチみたいな航空会社)に行き、どうしても現実が受け入れられなくて苦悩するシーンがありました。でも、「LCCであるが故に夜行バスで帰省していた家族が飛行機で帰省する事が出来るのだ」と気付かされ、現実を受入、立ち上がるシーンがありました。とても美しいシーンでした。竹内結子並みに美しいシーンでした。
これを仏教に置き換えると、え…『真宗同朋会運動』になったりするのだろうと勝手に思ったりしています。

【大谷派教団では、門首制と、「門徒はすべて帰敬式を受けて」という、この二つが新しい宗憲の柱なのです。「門徒はすべて帰敬式を受けよう」、ということは、本当に画期的な意味をもつわけです。(中略)
 私は直接確かめてはいないのですが、大谷派の参議会から声が挙がって、「百万人帰敬式運動」ということが始まっているというのです。百万人の門徒の人が帰敬式を受けられたら、日本は変わるでしょう。門徒の人たちの声が上がって、百万人帰敬式運動が始まるということであれば、すばらしいことです。そうすると、住職さんは段々と仕事がなくなるかもしれません。「逮夜参りはもう結構です、私たちでお内仏のお勤めをします」ということになるのではないでしょうか。本来そういうことだったのが門徒の行儀なのです。
 門徒の行儀として蓮如上人の時からずっと大事に伝統されたのが、在家勤行なのです。お内仏の前で、家族そろって毎日朝夕の勤行をしていたのです。生活にまでなっていくわけです。聞法が一つの生活を作り出すというのが、お内仏のお勤めということです。これは門徒の行儀なのです。しかし、それが江戸時代以来の檀家制度の中で崩れていったのです。
 それが、今度、「門徒はすべて帰敬式を受けて欲しい」として、百万人帰敬式運動ということが始まっていくというのは、これは本当に宗門が再生していくチャンスです。】(竹中智秀『浄土を本国としてこの世を生きる』P143~145より)

http://www.ntv.co.jp/cherry/

新ローマ法王の言葉

2013年03月15日 | 坊主の家計簿
Facebookで見かけた新ローマ法王の言葉が気になって検索する。

【法王は「われわれは望む場所を歩み、多くのものを築ける。だが、キリストをたたえなければ、慈善的なNGO(非政府組織)になり、もはや教会ではなくなる」と述べた。】

これか。
うちの教団の宗務総長(或いは教学研究所所長)が就任の挨拶でこんな発言をしたら「保守的だ!」「それこそ親鸞を忘れた発言だ!」などと云う批判が沸き起こったりするのだろう(笑)

あと、この言葉も凄い。

【法王はまた、「神をたたえても十字架を持たなければ、われわれは世俗的だ」と指摘。それは「司教や司祭、枢機卿、法王であってもだ」と強調した。】

十字架の意味も重さも私には解らないが『原罪』というのならば、凡夫か。いや、『煩悩具足のわれら(十方衆生)か』。
水平を嫌い、上(聖者)に成ろうとし、下(俗)を見下す。聖者を金持ち、俗を貧乏、でも同じである。そういう私(たち)の在り方の、誰一人残さず、そういう私(たち)の在り方の被害が被差別や『弱者』と呼ばれる人達ではないのか?それは同時に私(たち)自身を苦しめている根本ではないのか?
十字架。
お!十時か…(嘘や。探偵ナイトスクープが始まりました)

http://sankei.jp.msn.com/smp/world/news/130315/erp13031519130005-s.htm