原発がこれからどうなって行くのか知らないが、原発がある限り、チェルノブイリ原発や、福島第一原発事故の規模の事故かどうかは別にして、原発がある限り必ず事故は起る。当り前だ。造ったのは生身の人間なんだし。絶対に安全な原発などあり得ない。そんな「思い通りに生きれる」程、生身の人間は甘くないし、天変地異も甘くない。
だから、仮に原発をこれからもやって行くのであれば、福島第一原発事故でのフォローが大切ではないのか?被害者が一人も不満を抱かない様な「サービス」をする事が肝心ではないのか?
だいたい、福島第一原発事故での「被曝」での死者は出ないかも知れないが、福島第一原発事故があったが故に救えるはずの人命が見殺しにされた、福島第一原発事故によって殺された、犠牲者が出た事だけは忘れてはならない。私は反原発過激派ではないが、反原発過激派は運動方針としてその事実をメインにすべきではないのか?最早、殺されているのだ。
私が反原発過激派でないのは単純な話。よく「福島で原発事故があって、避難されている人が居ながら再稼働を進める、あるいは容認出来る事など、その人達の前で言えますか?」という声があるが、じゃ、「現状では再稼働しなければ仕事を失い、生活基盤を失い、そこから出て行かざるを得なくなる人達の前でそういう事が言えるのか?」という事と同じだろ。
大阪なら若狭湾。「若狭で事故が起ったら『いのちの水』である琵琶湖の水が飲めなくなるのですよ」って、んなもん、なんとかするやろ(笑)琵琶湖に生きているブラックバスとかの命運は知らないが、人間が飲む水ならなんとか出来るだろ。
若狭には若狭の地の原発で働いて居られる方々が沢山居られる。その人達に対して「別の仕事もあるだろう」「別の土地で仕事を探せば済む話」で片付けるのは、福島第一原発事故で避難して居られる方々に対してそういう言葉が言えるのか?
まあ、イデオロギー(原発推進&原発反対)に凝り固まっていたら言えるのだろうが。
【在日攻撃 牙をむく言葉(敵がいる:1)】
http://www.asahi.com/national/update/0428/OSK201304270133.html?ref=nmail
上記の記事を読んで「おい!」と思ったのは
【立場の異なる人が書いた本を読んでみた。在日韓国・朝鮮人がなぜこの国にいるのか。歴史的な経緯を初めて知った。】
という言葉。
まあ、「朝日らしい記事」と言ってしまえば、そういう煽り記事。この連載が今後どうなって行くのか知らないが、歴史的経緯を知った上で在特会に入っている人も当然いるだろうし、多くの中心メンバーはそうなのではないのか?
とは云え
【「ネットで都合よい情報ばかり集めては、身内でそうだそうだと盛り上がっていただけではないか」】(上記記事より)
という事もよく解る。実感として、実体験としてよく解る。私も福島第一原発事故が起るまで、いわゆる「推進派」と呼ばれた人達の意見に耳を傾けなかったし。最初から「どうせあいつらは」云々と、今も反原発過激派、あるいは「原発安全神話に騙されていた!」の人達がやっている事と同じ。
ただ、私は「クールな熱血漢」らしいので、福島第一原発事故が起った時に、市民運動のエリート教育(?)を受けて来た私は、「あれ?思ったより大した事ないな」と。当時の菅直人総理が「東京が壊滅する!」と同じ様な感覚を持ってた。だから、「原発危険神話に騙されていた!!!」と(笑)
まあ、世間で一般的に言われる様な意味での「御縁」の違い。業の違いだけの話。
ヘイトスピーチ。差別的な意味合いでの過激な発言。ただ、大阪で「アホボケカス殺すぞ死ね」は大阪でよく聴かれる言葉だったりする。解放同盟の糾弾だって、確か内部での自己批判であったはずだが、「運動として過激な部分があった」云々。それも含めての、在特会の桜井会長の言葉を上記記事から引用するなら
【「韓国や北朝鮮の振る舞いに本気で怒ってるから、殺せとまで言うんです。単に排外主義と決めつけないでほしい。怒りを間違えないでほしい」】
と。まあ、解放同盟が「殺せ!」と言ったかどうかは知らないが、「おい、
やり過ぎやろ」というのもあった。でも、それが生身の人間がする運動だと思う。
在特会は大キライ。だが、在特会の人達も真剣に、あるいはそうでない人もいるだろうが、でも、それぞれの縁(業)で運動をやっておられる。
自分が批判する相手の「歴史的経緯(人生)」を知らずして卑下し、差別していた「私」の歴史がある。宮崎哲弥だったと思うが、「一時期『右翼』という言葉は差別的に使われていた」と。厳密なら、「一部の人達にとって『右翼』という言葉は差別的に使われている」か。
だから「親鸞」なのだ。「本願念仏」なのだ。親鸞に出会い、本願念仏に出会った人達から教えて頂いた「感動」は、例えば
「憲法改悪ってなんですか?『改正』という言葉を使う人達も居ている。そういう人達を無視して『改悪』という言葉はどうなのですか?」
「ブッシュさんは寝れないはずですよ。自国民だけでもあれだけの人を犠牲にして安眠など出来るはずがない。苦しんでおられるはずですよ」
(以上は憲法9条関係の大阪での東西本願寺・北御堂&南御堂、合同デモの打ち合わせ会合での某大阪市民運動会で著名な念佛者の発言)
「『やすくに問題』という時に「やすくに」に反対する人達は『靖国』という漢字を使い、賛成する人達は『靖國』という漢字を使う。まずここから紐解いていかないとなんともなりませんね…」(某、元学生運動バリバリの恩師の発言)
真宗仏教の『過激性』ってこういう所ではないのか?だから私の一番大切な恩師が言ってた。
「親鸞さんって、どこにも居場所がなかったのと違うかな…」
だから、「浄土」を求めざるを得ない。
どうしてもセクトに陥ってしまって「あいつは敵だ!」「こいつは味方だ!」とやらざるを得ない。真宗なら「真宗」で義を立ててしまう。自分の立っている「場」での価値観で上下を付け必ず差別してしまう。そういうのが罪悪深重煩悩具足の凡夫である私だ。そこに立つしか、いや、「立とうとしようと」、たまに思ったりする事が出来る様になった。「毎日」とか「いつでも」なんて言えないが、たまには思ったりする事が出来るようになった。その時、同時に自分も楽になる。「他を排除する事だけ」はあり得ない。「自他を排除する」ではないのか?それだけ煩悩の働きが盛んな証ではないのか?
様々な運動に取り組んでおられる方々が「救われているが故での行動」なら、念佛は不要ではないのか?いや、大谷派の運動坊主でタマにそういう発言をする人が居てるし。
佐野先生の本のタイトルでもあるが「迷いに帰る」事の大切さ。
土特の里・大阪は「適当に」「エエ加減」という言葉が好きだったりする。「適当」も「エエ加減」も、人によって違う。人それぞれ違う。ある先生から教えて頂いた言葉だが「お風呂の温度は何度が適当ですか?『エエ加減』ですか?」と。人によって違う。だから「迷いに帰る」。
「私は『僧侶』として、こうこうこういう行動をして、世間にもインテリにも認められているんだぞ!」と、自分の座から動けない=善人。そういう自我に打ち破れる状態=悪人。
トイレに行って、眠気と酔いが…。
え~、差別されている黒人のマディー・ウォーターズの名曲「フーチー・クーチー・マン」の日本語訳の歌詞。
http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20050611
確か、河田光夫氏について書いていたけど、途中で「あれ」で削除。
まあ、『慢心(煩悩)』からは離れられまへんなぁ(笑)
寝る。
だから、仮に原発をこれからもやって行くのであれば、福島第一原発事故でのフォローが大切ではないのか?被害者が一人も不満を抱かない様な「サービス」をする事が肝心ではないのか?
だいたい、福島第一原発事故での「被曝」での死者は出ないかも知れないが、福島第一原発事故があったが故に救えるはずの人命が見殺しにされた、福島第一原発事故によって殺された、犠牲者が出た事だけは忘れてはならない。私は反原発過激派ではないが、反原発過激派は運動方針としてその事実をメインにすべきではないのか?最早、殺されているのだ。
私が反原発過激派でないのは単純な話。よく「福島で原発事故があって、避難されている人が居ながら再稼働を進める、あるいは容認出来る事など、その人達の前で言えますか?」という声があるが、じゃ、「現状では再稼働しなければ仕事を失い、生活基盤を失い、そこから出て行かざるを得なくなる人達の前でそういう事が言えるのか?」という事と同じだろ。
大阪なら若狭湾。「若狭で事故が起ったら『いのちの水』である琵琶湖の水が飲めなくなるのですよ」って、んなもん、なんとかするやろ(笑)琵琶湖に生きているブラックバスとかの命運は知らないが、人間が飲む水ならなんとか出来るだろ。
若狭には若狭の地の原発で働いて居られる方々が沢山居られる。その人達に対して「別の仕事もあるだろう」「別の土地で仕事を探せば済む話」で片付けるのは、福島第一原発事故で避難して居られる方々に対してそういう言葉が言えるのか?
まあ、イデオロギー(原発推進&原発反対)に凝り固まっていたら言えるのだろうが。
【在日攻撃 牙をむく言葉(敵がいる:1)】
http://www.asahi.com/national/update/0428/OSK201304270133.html?ref=nmail
上記の記事を読んで「おい!」と思ったのは
【立場の異なる人が書いた本を読んでみた。在日韓国・朝鮮人がなぜこの国にいるのか。歴史的な経緯を初めて知った。】
という言葉。
まあ、「朝日らしい記事」と言ってしまえば、そういう煽り記事。この連載が今後どうなって行くのか知らないが、歴史的経緯を知った上で在特会に入っている人も当然いるだろうし、多くの中心メンバーはそうなのではないのか?
とは云え
【「ネットで都合よい情報ばかり集めては、身内でそうだそうだと盛り上がっていただけではないか」】(上記記事より)
という事もよく解る。実感として、実体験としてよく解る。私も福島第一原発事故が起るまで、いわゆる「推進派」と呼ばれた人達の意見に耳を傾けなかったし。最初から「どうせあいつらは」云々と、今も反原発過激派、あるいは「原発安全神話に騙されていた!」の人達がやっている事と同じ。
ただ、私は「クールな熱血漢」らしいので、福島第一原発事故が起った時に、市民運動のエリート教育(?)を受けて来た私は、「あれ?思ったより大した事ないな」と。当時の菅直人総理が「東京が壊滅する!」と同じ様な感覚を持ってた。だから、「原発危険神話に騙されていた!!!」と(笑)
まあ、世間で一般的に言われる様な意味での「御縁」の違い。業の違いだけの話。
ヘイトスピーチ。差別的な意味合いでの過激な発言。ただ、大阪で「アホボケカス殺すぞ死ね」は大阪でよく聴かれる言葉だったりする。解放同盟の糾弾だって、確か内部での自己批判であったはずだが、「運動として過激な部分があった」云々。それも含めての、在特会の桜井会長の言葉を上記記事から引用するなら
【「韓国や北朝鮮の振る舞いに本気で怒ってるから、殺せとまで言うんです。単に排外主義と決めつけないでほしい。怒りを間違えないでほしい」】
と。まあ、解放同盟が「殺せ!」と言ったかどうかは知らないが、「おい、
やり過ぎやろ」というのもあった。でも、それが生身の人間がする運動だと思う。
在特会は大キライ。だが、在特会の人達も真剣に、あるいはそうでない人もいるだろうが、でも、それぞれの縁(業)で運動をやっておられる。
自分が批判する相手の「歴史的経緯(人生)」を知らずして卑下し、差別していた「私」の歴史がある。宮崎哲弥だったと思うが、「一時期『右翼』という言葉は差別的に使われていた」と。厳密なら、「一部の人達にとって『右翼』という言葉は差別的に使われている」か。
だから「親鸞」なのだ。「本願念仏」なのだ。親鸞に出会い、本願念仏に出会った人達から教えて頂いた「感動」は、例えば
「憲法改悪ってなんですか?『改正』という言葉を使う人達も居ている。そういう人達を無視して『改悪』という言葉はどうなのですか?」
「ブッシュさんは寝れないはずですよ。自国民だけでもあれだけの人を犠牲にして安眠など出来るはずがない。苦しんでおられるはずですよ」
(以上は憲法9条関係の大阪での東西本願寺・北御堂&南御堂、合同デモの打ち合わせ会合での某大阪市民運動会で著名な念佛者の発言)
「『やすくに問題』という時に「やすくに」に反対する人達は『靖国』という漢字を使い、賛成する人達は『靖國』という漢字を使う。まずここから紐解いていかないとなんともなりませんね…」(某、元学生運動バリバリの恩師の発言)
真宗仏教の『過激性』ってこういう所ではないのか?だから私の一番大切な恩師が言ってた。
「親鸞さんって、どこにも居場所がなかったのと違うかな…」
だから、「浄土」を求めざるを得ない。
どうしてもセクトに陥ってしまって「あいつは敵だ!」「こいつは味方だ!」とやらざるを得ない。真宗なら「真宗」で義を立ててしまう。自分の立っている「場」での価値観で上下を付け必ず差別してしまう。そういうのが罪悪深重煩悩具足の凡夫である私だ。そこに立つしか、いや、「立とうとしようと」、たまに思ったりする事が出来る様になった。「毎日」とか「いつでも」なんて言えないが、たまには思ったりする事が出来るようになった。その時、同時に自分も楽になる。「他を排除する事だけ」はあり得ない。「自他を排除する」ではないのか?それだけ煩悩の働きが盛んな証ではないのか?
様々な運動に取り組んでおられる方々が「救われているが故での行動」なら、念佛は不要ではないのか?いや、大谷派の運動坊主でタマにそういう発言をする人が居てるし。
佐野先生の本のタイトルでもあるが「迷いに帰る」事の大切さ。
土特の里・大阪は「適当に」「エエ加減」という言葉が好きだったりする。「適当」も「エエ加減」も、人によって違う。人それぞれ違う。ある先生から教えて頂いた言葉だが「お風呂の温度は何度が適当ですか?『エエ加減』ですか?」と。人によって違う。だから「迷いに帰る」。
「私は『僧侶』として、こうこうこういう行動をして、世間にもインテリにも認められているんだぞ!」と、自分の座から動けない=善人。そういう自我に打ち破れる状態=悪人。
トイレに行って、眠気と酔いが…。
え~、差別されている黒人のマディー・ウォーターズの名曲「フーチー・クーチー・マン」の日本語訳の歌詞。
http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20050611
確か、河田光夫氏について書いていたけど、途中で「あれ」で削除。
まあ、『慢心(煩悩)』からは離れられまへんなぁ(笑)
寝る。