坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

フーチー・クーチー・マン

2013年04月30日 | 坊主の家計簿
 原発がこれからどうなって行くのか知らないが、原発がある限り、チェルノブイリ原発や、福島第一原発事故の規模の事故かどうかは別にして、原発がある限り必ず事故は起る。当り前だ。造ったのは生身の人間なんだし。絶対に安全な原発などあり得ない。そんな「思い通りに生きれる」程、生身の人間は甘くないし、天変地異も甘くない。

 だから、仮に原発をこれからもやって行くのであれば、福島第一原発事故でのフォローが大切ではないのか?被害者が一人も不満を抱かない様な「サービス」をする事が肝心ではないのか?

 だいたい、福島第一原発事故での「被曝」での死者は出ないかも知れないが、福島第一原発事故があったが故に救えるはずの人命が見殺しにされた、福島第一原発事故によって殺された、犠牲者が出た事だけは忘れてはならない。私は反原発過激派ではないが、反原発過激派は運動方針としてその事実をメインにすべきではないのか?最早、殺されているのだ。

 私が反原発過激派でないのは単純な話。よく「福島で原発事故があって、避難されている人が居ながら再稼働を進める、あるいは容認出来る事など、その人達の前で言えますか?」という声があるが、じゃ、「現状では再稼働しなければ仕事を失い、生活基盤を失い、そこから出て行かざるを得なくなる人達の前でそういう事が言えるのか?」という事と同じだろ。
 大阪なら若狭湾。「若狭で事故が起ったら『いのちの水』である琵琶湖の水が飲めなくなるのですよ」って、んなもん、なんとかするやろ(笑)琵琶湖に生きているブラックバスとかの命運は知らないが、人間が飲む水ならなんとか出来るだろ。
 若狭には若狭の地の原発で働いて居られる方々が沢山居られる。その人達に対して「別の仕事もあるだろう」「別の土地で仕事を探せば済む話」で片付けるのは、福島第一原発事故で避難して居られる方々に対してそういう言葉が言えるのか?
 まあ、イデオロギー(原発推進&原発反対)に凝り固まっていたら言えるのだろうが。

【在日攻撃 牙をむく言葉(敵がいる:1)】
 http://www.asahi.com/national/update/0428/OSK201304270133.html?ref=nmail

 上記の記事を読んで「おい!」と思ったのは

【立場の異なる人が書いた本を読んでみた。在日韓国・朝鮮人がなぜこの国にいるのか。歴史的な経緯を初めて知った。】

 という言葉。

 まあ、「朝日らしい記事」と言ってしまえば、そういう煽り記事。この連載が今後どうなって行くのか知らないが、歴史的経緯を知った上で在特会に入っている人も当然いるだろうし、多くの中心メンバーはそうなのではないのか?

 とは云え

【「ネットで都合よい情報ばかり集めては、身内でそうだそうだと盛り上がっていただけではないか」】(上記記事より)

 という事もよく解る。実感として、実体験としてよく解る。私も福島第一原発事故が起るまで、いわゆる「推進派」と呼ばれた人達の意見に耳を傾けなかったし。最初から「どうせあいつらは」云々と、今も反原発過激派、あるいは「原発安全神話に騙されていた!」の人達がやっている事と同じ。
 ただ、私は「クールな熱血漢」らしいので、福島第一原発事故が起った時に、市民運動のエリート教育(?)を受けて来た私は、「あれ?思ったより大した事ないな」と。当時の菅直人総理が「東京が壊滅する!」と同じ様な感覚を持ってた。だから、「原発危険神話に騙されていた!!!」と(笑)

 まあ、世間で一般的に言われる様な意味での「御縁」の違い。業の違いだけの話。

 ヘイトスピーチ。差別的な意味合いでの過激な発言。ただ、大阪で「アホボケカス殺すぞ死ね」は大阪でよく聴かれる言葉だったりする。解放同盟の糾弾だって、確か内部での自己批判であったはずだが、「運動として過激な部分があった」云々。それも含めての、在特会の桜井会長の言葉を上記記事から引用するなら

【「韓国や北朝鮮の振る舞いに本気で怒ってるから、殺せとまで言うんです。単に排外主義と決めつけないでほしい。怒りを間違えないでほしい」】

 と。まあ、解放同盟が「殺せ!」と言ったかどうかは知らないが、「おい、
やり過ぎやろ」というのもあった。でも、それが生身の人間がする運動だと思う。

 在特会は大キライ。だが、在特会の人達も真剣に、あるいはそうでない人もいるだろうが、でも、それぞれの縁(業)で運動をやっておられる。
 
 自分が批判する相手の「歴史的経緯(人生)」を知らずして卑下し、差別していた「私」の歴史がある。宮崎哲弥だったと思うが、「一時期『右翼』という言葉は差別的に使われていた」と。厳密なら、「一部の人達にとって『右翼』という言葉は差別的に使われている」か。

 だから「親鸞」なのだ。「本願念仏」なのだ。親鸞に出会い、本願念仏に出会った人達から教えて頂いた「感動」は、例えば

「憲法改悪ってなんですか?『改正』という言葉を使う人達も居ている。そういう人達を無視して『改悪』という言葉はどうなのですか?」
「ブッシュさんは寝れないはずですよ。自国民だけでもあれだけの人を犠牲にして安眠など出来るはずがない。苦しんでおられるはずですよ」
(以上は憲法9条関係の大阪での東西本願寺・北御堂&南御堂、合同デモの打ち合わせ会合での某大阪市民運動会で著名な念佛者の発言)

「『やすくに問題』という時に「やすくに」に反対する人達は『靖国』という漢字を使い、賛成する人達は『靖國』という漢字を使う。まずここから紐解いていかないとなんともなりませんね…」(某、元学生運動バリバリの恩師の発言)

 真宗仏教の『過激性』ってこういう所ではないのか?だから私の一番大切な恩師が言ってた。

「親鸞さんって、どこにも居場所がなかったのと違うかな…」

 だから、「浄土」を求めざるを得ない。
 どうしてもセクトに陥ってしまって「あいつは敵だ!」「こいつは味方だ!」とやらざるを得ない。真宗なら「真宗」で義を立ててしまう。自分の立っている「場」での価値観で上下を付け必ず差別してしまう。そういうのが罪悪深重煩悩具足の凡夫である私だ。そこに立つしか、いや、「立とうとしようと」、たまに思ったりする事が出来る様になった。「毎日」とか「いつでも」なんて言えないが、たまには思ったりする事が出来るようになった。その時、同時に自分も楽になる。「他を排除する事だけ」はあり得ない。「自他を排除する」ではないのか?それだけ煩悩の働きが盛んな証ではないのか?

 様々な運動に取り組んでおられる方々が「救われているが故での行動」なら、念佛は不要ではないのか?いや、大谷派の運動坊主でタマにそういう発言をする人が居てるし。

 佐野先生の本のタイトルでもあるが「迷いに帰る」事の大切さ。

 土特の里・大阪は「適当に」「エエ加減」という言葉が好きだったりする。「適当」も「エエ加減」も、人によって違う。人それぞれ違う。ある先生から教えて頂いた言葉だが「お風呂の温度は何度が適当ですか?『エエ加減』ですか?」と。人によって違う。だから「迷いに帰る」。

「私は『僧侶』として、こうこうこういう行動をして、世間にもインテリにも認められているんだぞ!」と、自分の座から動けない=善人。そういう自我に打ち破れる状態=悪人。

 
 トイレに行って、眠気と酔いが…。

 え~、差別されている黒人のマディー・ウォーターズの名曲「フーチー・クーチー・マン」の日本語訳の歌詞。

 http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20050611

 確か、河田光夫氏について書いていたけど、途中で「あれ」で削除。

 まあ、『慢心(煩悩)』からは離れられまへんなぁ(笑)

 寝る。

おでえじに

2013年04月24日 | 坊主の家計簿
【聖書が命じていたのは、好きになれない人を好きになれとか、愛情を感じないあいてを愛するようになりなさいということではなかった。だれでも自分が大切にあつかわれることを願っている。そのように、その人をその人として大切にしなさい、ということでした。だから、あいてを好きになれなくても心配しないで。愛情を感じなくても、それはそれで大丈夫。でも、大切にしなさい、というのが、実は聖書の本当に意味だったんです。
 「敵をも愛しなさい」も正しくは「敵をも大切にしなさい」でした。弱い立場の仲間たちを平然と差別し、見下し、虐げてかえりみない人たちは、私にとっては「敵」(敵対する者)ですよね。それが宗教者であろうと大臣であろうと許せません。そういう人たちを好きになろう、愛せるようになろうとは思いません。思うべきでもありません。イエス自身、差別的な偽善的な宗教指導者たち(ファリサイ派、律法学士など)とあくまでも敵対し、歩み寄ることはしていません。やってはならないことなのです。彼らを好きになろうとか愛そうとか、そういう努力の影も見えません。にもかかわらず、イエスは言うのです。そういう敵対する関係だとしても、好きになれないあいてでも、「大切にしようよ」と。そういう彼らを大切に思うからこそ、イエスはファリサイ派の人たち、律法学士たちの非を容赦なく糾弾し、改めることを求めつづけたのです(マタイ23章を参照)。
 だれかを好きになることはすばらしいことです。だれかを愛せるようになることもとてもすばらしいことす。でも、それよりもっとすばらしいことがある、あいてをその人として大切にすること、これがいちばん大事なことだよ、と聖書は教えてくれているんですね。】
(本田哲郎神父「愛することより大切にすることを求めたい―平和を実現するために―」2011年7月8日)
 http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/honda.htm

 本田神父を最初に真宗で招いたのは(多分)俺や!!!(すいません、泥酔してます)。

【親鸞聖人が、弾圧するものに対して、晩年のお手紙にもございますけれども、念仏をさまたげるものをけっして憎んではならないと。そのもののために祈れ、といっておられます。念仏をさまたげるものは、外道性において生きておるという点では私も一緒だと、なんにも変わらない。われわれは、すぐにそれを敵とする。そうではなしにまったく一緒なんだと、ただそのことにナンマンダブツしておるか、していないかの違いだけなんだと。じつは、そのことが、決定的な違いなんですけれども、しかし、自己の外道性ということについては、なんら変わらんのです。】(和田稠『出離その期なし』186ページより)

 とっとと寝ます。

『知恵遅れと、知恵急ぎ』

2013年04月24日 | 坊主の家計簿
曽我量深「念仏は原始人の叫び也」。当然ネットに落ちてません。というか、曽我量深選集を全巻欲しい!3冊しか持ってないぞ。まあ、読みたくなったら借りに行けばエエだけの話でもあるのだが。


 『知恵遅れと、知恵急ぎ』

 という言葉を24か5の時に知った。大谷派の名古屋別院であった『生の芸術(アール・ ブリュット)』の展覧会のパンフレットに書いてあって、衝撃を受けた。

 当時の私、というか、今もなんだが、やはり『知恵急ぎ』を目指したい。変わったのは、その事が自分を苦しめる事にしかならないという事に気が付いただけ。他人を苦しめる事は自分を苦しめる事にも繋がるから、結果的に自分を苦しめている。

 『存在』という美しさ。それをいわゆる『障害者』に託すのは差別である。差別でしかない。しかしながら、その差別意識を通じて出会えるもの、差別意識を通じて自らの差別意識を問題視出来る事もあるだろう、いや、それしか『悟って』いない私(たち)にはないのではないのか?

 排除する、排除している人達から(あるいは自己・セルフ)から祈られている。

【あなた、本当の人になってください。本当の人になってくださるならば、その新しい人になったあなたのいのちのなかで、私たちは私たちの死を無駄にしないで、私たちはそこで成仏していきます。あなたのいのちのなかで、新しく私たちは成仏していきます。だから、あなたたちは、私たちを踏みにじっている限りにおいて、あなた方は何を負担としてもらうこともいらない。そうではなくて、人になってください。真の人間になって下さい。】(廣瀬杲『罪業深重』より)

【私たちが、生き物の「殺」の上に生きているとするならば、それに対して、私たちが「ありがとう」という、お礼の言葉ぐらいではすまない自分のいのちをかけての懺悔と報謝があるとするならば、草木国土をことごとく成仏せしむるような人間に、私たちが変革されなくてはならない。】(廣瀬先生『罪業深重』より)

 https://www.youtube.com/watch?v=XthvTgblizU

『人間の条件――そんなものない』

2013年04月23日 | 坊主の家計簿
『人間の条件――そんなものない』理論社・YA(ヤングアダルト)新書「よりみちパン!セ」

http://www.bakubaku.org/20shuunen-kichoukouen-tateiwa-san.html

 横塚晃一「母よ! 殺すな」をAmazonで注文したらオススメで発見。タイトルだけで衝動買い。気になって検索してみたら、講義録を発見。ただーし!今日は文章を読む気力がないのでリンクのみ。先日来のメモも文章が読めるようになったら読もう。

 しかし、『人間の条件――そんなものない』って、なんて破壊力がある言葉なんだろうか?

 今行っている教学研修院では『法話実習』という恐るべきものがある。もう始まっていて、多くの人は終わっているが、私は一番最後なので、確か6月上旬。「こんな事を喋ります」の提出が5月上旬。焚焼仙経帰楽邦でやろうと思っていたけど、少し路線変更。焚焼仙経帰楽邦は次回にしよう。出来れば曇鸞当時の道教についても調べたいし。「不老長寿は非科学的だ!」という『迷信』で読むと焚焼仙経帰楽邦が安っぽくなる気がする。

 先日、元所属寺での永代経法要の時に「青い芝の中心に念仏者」云々という事を教えて頂いた。御講師の先生の名前を検索したら青い芝関連で引っかかったので。

 『青い芝』というと、一部マニアにはヨダレものの名前である。
 
 私は2年間ほどだが、共同作業所で働いていた事があった。母校の専修学院を卒業する時に元々から名前を知っていた、これまた一部マニアにはヨダレものの共同作業所が従業員を募集していたのでコネなしで一般応募して採用して貰った。その作業所も青い芝系でもあるらしい。作業所で働く仲間+周囲の仲間達と一緒に『障害者による障害者の為の集会』にヘルパーとして参加したら、その時の講師の先生が

「あんたら自分が障害者やという事を忘れてないか?忘れそうになったら鏡で自分の姿を映してみい。どっからどうみても障害者やろ」

と。

『経教はこれを喩うるに鏡のごとし。』(善導)

 と、まあ、法話ならそういう展開も面白いのだろうけど、うだうだ話なので。

『人間の条件――そんなものない』

『凡夫というは、無明、煩悩われらが身に満ち満ちて欲も多く瞋り腹だちそねみねたむ心多く間なくして臨終の一念にいたるまでとどまらずきえずたえずと』

『人間の条件――そんなものない』

 ああ、ありがたやありがたや。ナンマンダブツ、ナンマンダブツ。

 あ、当然、酔っぱらっております。

 五怖畏 http://www.icho.gr.jp/bunko/joushouga/au_07.htm にもあったけど、やっぱり孤独だし、社会に認めて貰いたいし、エエ目もしたいし。だから、「こんな自分はイヤ」「あんなヤツはイヤ」と、自分や他人を『障害者』にしている。いわゆる『障害者』はその象徴だろ。だから「悪い事をしたらあんな(障害者)になるのよ」云々、「前世に悪い事をしたから障害者として生まれて来たのよ」云々と。障害者を作り出すような優生思想の健常者って、どんだけ病んどるねん。

ドキュメント72時間

2013年04月20日 | 坊主の家計簿
 NHK『ドキュメント72時間』というのを観る。風呂屋で何度か眼にした事があったけど、たまたま番組欄で発見して連ドラ予約。今日は梅田地下街(ウメチカ)にある立呑みの串カツ屋。
 最初から最後まで観たのは初めてだったけど、実に面白い(ガリレオの影響が…)。
 監督、誰なんだろう?テレビではディレクターか?でも、「監督」と呼びたくなる。もの凄く心温まるドキュメント番組だった。

 昼間から「生中!」のスーツ姿のお兄ちゃん。
 元は正社員だったけど会社が潰れて今はバイト生活のお姉ちゃん。
 定年後に家に居るのがイヤだから朝10時の開店早々にやって来る。撮影時だけだったのかも知れないけど、一日に何度もやって来る。家に帰りたくないらしい。だらか、朝の10時から立呑み屋。「夜はまだ来ない」と立呑み屋。映画も観尽くしたし、百貨店での時間潰しに飽きたら立呑み屋。
 「中卒なんですよ。だから仕事頑張らなきゃ」という兄ちゃんに、どこかのオッさんが説教している。

 ドキュメント72時間は一つの場所で72時間撮影したドキュメント番組。人間模様を追いかけて行く形式の番組ではないみない。詳しく知らないが、とりあえず今回は。だから、やさしい温かい。

 「仕事人間だったサラリーマンの定年後の生活」云々のドキュメントもあるだろう。社会派と呼ばれるドキュメントもあるだろう。でも、ドキュメント72時間は違う様な気がする。そこに登場する人達すべてを温かく撮影している。
 憐れむでもなく、同じ哀しみを抱えた者同士「人生、色々ありまんな」と。

 ボージャングルさん / 木原訳

「苦しむ事は悪い事です!悩む事は悪い事です!」

2013年04月19日 | 坊主の家計簿
午後から急ぎの寺務仕事。当然終わらないけど、どうしても行きたかったイベント(?)があったので行く。先輩達、かっちょエエ…。たまらんのぉ…。よだれじゅるじゅるもんでっせ。

 イベント終了後、買い物してつけ麺食べてとっとと帰宅。まだ終わらない急ぎの寺務仕事の「今日はこれだけやっておけなければ」というノルマが終わったのが今。ビールでも飲みたい気分だが、あいにく切らしている。カインズホームに行って発泡酒を買って来なければ。仕方が無いので頂き物の苦手な日本酒を飲んでます。というか、お正月に頂いた桐箱に入ったもの凄く高そうな日本酒も残っているけど、これは報恩講まで置いておこう。金粉入っているし、5月末まで持つだろう(根拠はない)。

 なんか、個人的にThe Street Slidersのマイブーム。いや、CDを全部パソコンにぶち込んだからなのだが。
 イベントへ行く地下鉄内でもスライダーズを聴いてて、なんか昔を思い出す。

 自殺しちゃった友人が数人居たりするのだが、特徴というか、症状というか、心細くなるからかも知れないが、みょうに寂しがる。孤独感は(恐らく)誰にでもあるが、より一層強くなる感じがする。無意識に救いを求めているのかも知れない。まあ、専門家でもなく、専門書を読んだわけでもなく、ただ何となく。「居場所を見失う→居場所を求める」みたいなもんか。

 本町から難波まで商店街を歩くと、途中にブックオフがある。疲れているせいだろうか?店頭にワゴンに入れられて並んでいる本をチラ見する時に「この中に私にとって大切な本があるはず」などという、何年振りだろうか?若かりし時には頻繁にあった感覚がやって来た。まあ、急いでいたのでチラ見しかせずに何も買わなかったが、あの感覚は懐かしい。スライダーズを聴きながら商店街を歩いていたから若かりし時の感覚がやって来たのかな?

 最近はめっきり本屋に行かなくなった。Amazon様々。まあ、京都に行った時は仏教専門書店に行ったりするが、滞在時間も短くなった。でも、今も、本屋の思想コーナーで「この中に私を救ってくれる本があるはず」と探している人は居ているのかな?まあ、居てるだろう。悩みが消える時代はない。というか、悩みがなくなった娑婆世界など怖くて仕方がない。

「苦しむ事は悪い事です!悩む事は悪い事です!」

が、大合唱される様な社会は真っ平御免だ。まあ、いつの時代にも不良というのはちゃんと居てくれているだろうし、それこそ、悩み苦しむ事が消えた社会だったら、「なら、その悪い事をしたやろうじゃねぇか。へっへっへっへ」と。でも、悩み苦しむ事が消えた社会なので『悩み苦しむ方法が解らない』という理由で悩み苦しんだりして(笑)


The Street Sliders~Dancin' Doll~THE LIVE!

メモメモ

2013年04月18日 | 坊主の家計簿
最近Twitterでの原発事故関連情報にも、鶴橋デモ情報にも全く追いつけていないので、メモメモ。というか、ブログも殆ど読んでない。

「危険デマ」だって人を殺す事がわからないのなら『震災関連死』と検索すればイイ。被曝以外でも人が死ぬ事を忘れている人が多過ぎる。

http://www.magadha.net/horyu/log/eid2703.html



真宗高田派本山専修寺・晨朝法話

2013年04月12日 | 坊主の家計簿
今朝の真宗高田派本山専修寺・晨朝法話は大河戸悟道師。

阿弥陀堂で阿弥陀経・念佛・回向(世尊我一心)、御影堂で正信偈・念佛和讃・回向(忘れた)。正信偈は大谷派なら中読みたいな感じ。念佛和讃は独特。聴き慣れなので「おお!宗教音楽や!」と、ちと感動。

法話は

【南無阿弥陀仏をと称おれば 十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して よろこびまもりたもうなり】
(浄土和講)

を手がかりにしながら、

【念仏もうすところに
立ち上がっていく力が
あたえられる】

という西元宗助師の言葉へ展開。西元宗助師が念佛の教えを学び始めるきっかけになった海江田老との出会い云々。

諸佛というと、私は人を通しての働きとだけしか思っていなかったのだが、佛=働きなんだし、「親鸞一人が」云々であり、今日のバッテリー上がり、というか、バッテリー上がりの後にボンネットを閉めようとして、何をどうボケていたのか分からないが、ロックをかけたままボンネットを閉めようとして、ボンネット、歪む。ボンネットが歪んだ納車4日目のホンダN-BOX+(笑)で、このボンネットが歪んだ事を仏縁に出来るか?念佛申す事が出来るか?ボンネットが歪んだだけで「新車なのに…」と思ってしまう様な私の潔癖性(えらび・きらい・みすてる、こころ)が照らし出され、「念佛申してN-BOX+に乗って行こう」と。「ボンネットが歪んだ事は諸佛の働きだ」と。
まあ、大した歪みでないからこんな事を言ってられるわけなんだが…。でも、ちと残念。まあ、無茶苦茶売れている車なので、「ボンネットの歪み」という個性が出来てドでかい駐車場でも間違わなくなるかも知れんが…。あぁ…。

高田派本山専修寺。無料の名阪国道を使えば早いし、天理までの高速道路も安い(深夜なら300円)。海もあるし、お土産(?)を買う所のオープン時間まで居てなかったので、また参拝に行こう。

http://www.shin.gr.jp/hogo/2013/04.html

西元宗助先生のこの本、というか、西元宗助先生の本は殆どあるので、読み返そ。

坂村真民 『晩年の仏陀』

2013年04月05日 | 坊主の家計簿


 わたしは晩年の仏陀が一番好きだ  
 背中が痛い背中が痛いと言いながら
 あるときはただひとりで あるときはアナンと二人で
 老樹の下や川のほとりで休んでいられる
 八十ちかい釈尊の姿に一番こころひかれる
 小鳥たちも相寄ってきただろう
 野の草たちも相競って咲いたであろう
 その頃の仏陀はもうわれわれと少しも変わりのないお姿で
 静かに全てを抱擁し
 一日でも長く生きて一人でも多くの者に
 あたたかい教えを説いてまわられた
 父のように慕わしい晩年の仏陀よ

『ローマ法王の休日』

2013年04月05日 | 坊主の家計簿
『ローマ法王の休日』 http://www.gaga.co.jp/sp/cinemas/detail/romahouou

無茶苦茶面白い。単なる心温まるコメディ映画としても面白いし、宗教映画としても面白い。

映画は次期ローマ法王選びから始まる。みんな「私が選ばれませんように…」と。何度目かの投票で選ばれた法王はその重圧で押し潰される。そういう弱さを持っている。その弱さは枢機卿の誰もが抱えている問題だったのだろうが、その中でも一番弱い枢機卿が法王として選ばれたのかな?とにかく重圧に押し潰された新法王は就任の挨拶(?)すら出来ずに逃げ出してしまう。
逃げ出してしまっている中で、ある教会で神父の話を法王が聞くシーンがある。神父は語る「神の前で傷口を見せなさい」みたいな事を。
法王は枢機卿達に連れて帰られ就任の挨拶をする。が、「私は指導する立場でなく、指導される立場である」「皆様、私の為に祈って下さい」などと云って「私には無理です」と。
映画はそこで終わる。

この映画が何を描きたかったのかはわからないが、私には見事なまで「神の教えを聞く側、教えを聞かざるを得ない弱さを持った理想の法王像」として映った。決して指導者としては立派でないかも知れないが、それでも枢機卿という選ばれたエリートの中でも最も弱い者、最も神に祝福されなければならない者として、生身の人間として独りの信仰者としてのローマ法王。なんか、そんな風に感じた。

【神さま 牧師になるには
頭がよくて 人格円満で 心の成熟した
この世の常識をしっかりと身につけて
このうえ きびしい仕事をする生活に
耐えられる人でなければといいます
それなら私は牧師として失格者です
私は何度も自分の人生の歩みに傷つき
人と人と間の憎しみとうらみの中で
どうすることもできない混乱と
自己不信にとまどいながら
人を恐れ 人の言葉に傷つきうめいています
この人のためによいことをと
祈り 願いつつしたことが かえって相手を
苦しみにおいやる結果になってしまいました
その人のために 今一番必要なこと
その求めている切実な思いを知らずして
意味のない慰めや 愛の言葉をふりまわして
よいことをしたのだと思いあがっていました
一生懸命にすればするほど
人の心が遠くはなれていく
むなしさと おろかさに苦しみました
ある日“お前は牧師になれるだけの弱さを
十分にもっているではないか その弱さを
大切にして生きよ”との み声を聞きました
弱さを思いやることができる主イエスに
ならって 生きていく者としてください】
(石井錦一『牧師になれる弱さ』)

夏目雅子と核実験

2013年04月03日 | 坊主の家計簿
 溜っていた郵便物にざっと眼を通す。

 え~、イラクの白血病の子どもは全て劣化ウラン弾が原因???まあ、夏目雅子が白血病で死んだのは中国の核実験が原因だという学者も居ているので、別に不思議ではないのだろうが。

http://ja.wikipedia.org/wiki/夏目雅子#.E7.99.BD.E8.A1.80.E7.97.85.E7.99.BA.E7.97.87.E3.81.AB.E9.96.A2.E3.81.99.E3.82.8B.E8.AA.AC

ヘイト街宣

2013年04月02日 | 坊主の家計簿
【鶴橋】5~6倍の人数のカウンターに圧倒されたヘイト街宣(3・31) http://togetter.com/li/480334

 排外主義のデモですら行う事が出来るのが排外主義でない証明だったりする。

 某在日コリアンの差別事件の支援をしていて改めて感じた事なのだが、今の私には被差別者とだけ連帯して差別者を『敵』とする事は出来ない。差別者を「解っていない」等と言えない。もっと言うと、バカにする風潮に同意出来ない。別に日本人の肩を持つつもりはない。いや、そういう風に誤解されても構わないと思って支援を続けていたが、差別事件の当事者とは未だに親しくさせて頂いている。周囲からは評判悪いかも知れないが。

 「天皇に人権を」と、和田先生が言った。厳密には和田先生の寺の通信に書かれた言葉らしいが、その事が問題になり、ある恩師は「運動論として間違っている」等と。でも、仏教を学び始めた当初の私にとっては「天皇に人権を」という言葉は光り輝く佛の言葉だった。
 和田先生は永年天皇制を問題にして居られただろうし、私もそうだった。天皇は『敵』であった。でも、「天皇に人権を」である。

 排外的デモをする人達に賛同は全く出来ない。故に、別の所で問題にする。でも、『排外的デモ』と私が呼ぶデモの参加者だって、私と同じ市民であり、凡夫である。立場が違うだけである。

 これは原発事故でも同じである。東電や、『原発推進派』と呼ばれる人達を『敵』として、『悪人』として断定し、切り裁く風潮には、運動には同調出来ない。『味方』の意見は鵜呑みにして、『敵』の意見には耳を傾けようとしない風潮には同意出来ない。

 最近親しくなった方が居られる。元々運動畑の人で、私とは違ってノンセクトながらもヘルメットを被っておられた。ブント系らしい。ブントにも知っている人が居ているし、それ以前に共通の話題、運動話で盛り上がったりもするが、その方も今は真宗に信仰を持たれている。ちゃんと、御本尊を大谷派教団から買った(?)らしい。
 私よりも遥かに頭のイイ人であると同時に、私よりも遥かに熱い(排外的)人。その熱さ故に起った生活上のトラブルで、本当に苦しんで居られる。で、恐らく、命がけの聞法をされておられる。今、一番、私の信仰において刺激を受ける方。

 ある恩師もバリバリの運動家だった。ん?学生運動の闘士と言った方が良いのかな?その恩師が靖国問題に関して「靖国に反対する人は『靖国』という漢字を使い、賛成する人達は『靖國』という漢字を使う。この辺りから紐解いていかないと解決出来ないのではないか?」みたいな事を仰っておられた。その恩師も熱い(排外的)な方なので、そういう言葉が出たのだと思う。いや、そういう風に思わざるを得ない様な盛んな、過激な煩悩があるのだと思う。

 救いの言葉はそれぞれのもの。それぞれが生活の中で課題にせざるを得ない事は違う。私は、私の自他排除の暴力性が、自他を「えらび、きらい、みすてる」事がどうしても問題になる。