坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

外出多し

2008年11月30日 | 坊主の家計簿
 11月30日

 諸々  缶ミルクティー      120円
     タバコ          300円
     コロッケパン       130円
     ラーメン         580円
     喫茶店          980円
     居酒屋         4209円

 合計              6319円
 11月累計         109719円

 なんか外出ばっかりしてる気がするのぉ。。。

『席次』という鬼神

2008年11月28日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 11月28日

 諸々  喫茶店         1650円
     表白なんぞのセット   2000円
     かつカレー        700円
     タンガクラブビール   1000円
     プカプカ        2000円ぐらい?
     ガンジャ        2000円ぐらい?

 合計              9350円
 11月累計         102740円

 所用で外出。ついでに飲み。

 『席次』っちゅうもんがある。非常に下らない、アホの極致の差別思想である。まあ、『上座』『下座』のあれでんな。
 当然、上座には偉い人が座り、下座には偉くない人が座る。
 席に付けない人、なんぞも居る。
 時代劇なんぞで、まあ、最近なら『篤姫』なんぞでも、西郷は偉くなる前は篤姫と同じ席に付けなかったのではなかったか。篤姫はどうか憶えてないが、薩摩の殿様と西郷は身分が違うので同じ席に付けない。故に西郷は庭にいる。庭に居る西郷に対して殿様は縁側から指示する。
 席次は身分なのだ。下らない、ナンセンス極まりないのだが、不思議な事に今も続いている。
 「いや、俺は気にせえへんねんけど、一応世間ではそうなっている」
 っちゅう事である。故に、「なんとなく」この差別的な事柄が今も続いている。

 ふと、『世間という幽霊』という言葉を思いつく。
 「世間では。。。」等というが、そんな世間等はどこにもない。あるのは自分の脳味噌の中だけの幻想にしか過ぎない。幽霊と同じである。
 幽霊と云うよりも、鬼神か。実態のない『鬼神』に、『世間』という鬼神に脅えている。
 「反すると祟りがあるのではないのか」
 なんぞと。
 祟りはない。あるのは『世間知らず』と云われるだけの話である。
 言葉を代えよう。『差別知らず』と云われるだけの話である。
 「あいつは席次も知らないとは、なんて差別知らずなんだ」
 「席次を守らないあいつは、単に差別を知らないダメなやつなんだ」
 と。

 「下らない、下らない」等と云いつつも、この差別思考は未だに残って居る。
 単純な話である。実際に辞める人が少ないだけの話である。

如来の家

2008年11月27日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 11月27日

 外食  回転寿司        439円
 食類  諸々          715円
     黒霧島        1580円
 雑費  散髪         2000円
     コピー        2000円ぐらい

 合計             6734円
 11月累計         93390円

 ちょい、バタバタとしてます。

 と云う事で、メモ。というか、打ち込み作業。

【菩薩もかくのごとし。初地を得已るを「如来の家に生まる」と名づく。一切天・龍・夜叉・乾闥婆 乃至 声聞・辟支仏等、共に供養し恭敬するところなり。何をもってのゆえに。この家、過咎あることなし。かるがゆえに世間道を転じて出世間道に入る。】(龍樹『十住毘婆沙論・入初地品』より。但し真宗聖典162ページより)


【なぜ歓喜なのかという時に、「如来の家に生まれる」ということが成り立ったからだということです。しかも、「如来の家」というのは、それは単に如来を親とする家ということではなくて、「如来を生み出す家」だということなんです。「如来を生み出す家」、そういう家に生まれたのだということです。これは僧伽です。僧伽に身を置くということは、その僧伽に身を置いた者が同時に、実は如来として生みだされて行く、生産されていくという、そういう意味をもっているということです。そういったことが、この「歓喜」ということの大きな意味として見られています。特にその「如来の家」のところでは、「この家、過咎あることなし。かるがゆえに世間道を転じて出世間道に入る」ともあります。だから「家」というのは「世間道を転じて出世間道に入らせる」という、そういう働きを家はするのだと、だから「歓喜」なのだということが、はっきりとおさえられてあることです。】(竹中智秀『いのちの願いに聞く七章』38~39ページより)


【常に仏がたを信じ敬えば、大いなる供養をすることになる。大いなる供養をすれば、その人は仏の不思議を信じる人である。常に尊い法を信じ敬えば、仏の教えを聞いても飽きることがない。仏の教えを聞いて飽きることがなければ、その人は法の不思議を信じる人である。常に清らかな僧を信じ敬えば、信心が退転しない。信心が退転しなければ、その人の信の力はゆるぐことがない。信の力がゆるぐことがなければ、心のはたらきが清らかですぐれたものになる。心のはたらきが清らかですぐれたものになれば、善知識に親しみ近づくことができる。善知識に近づくことができれば、広大な善根を積むことになる。広大な善根を積めば、その人はさとりを開く因となる力を成就する。人がさとりを開く因となる力を成就すれば、間違いなく仏になることができるというすぐれた思いを得る。間違いなく仏になることができるというすぐれた思いを得れば、仏がたに護られる。仏がたに護られるなら、菩提心をおこすことができる。菩提心をおこせば、仏の功徳を修めることができる。仏の功徳を修めれば、如来の家に生まれることができる。如来の家に生まれることができれば、そこでの善は利他のはたらきをする。利他のはたらきをすれば、信楽の心が清らかになる。信楽の心が清らかになれば、この上なくすぐれた心を得る。この上なくすぐれた心を得れば、常に菩薩の行を修める。常に菩薩の行を修めれば、大乗の法に身をそなえることができる。大乗の法を身にそなえることができれば、正しく仏を供養することができる。正しく仏を供養すれば念仏の心が動揺しない。念仏の心が動揺しなければ、常に数限りない仏がたを見たてまつる。常に数限りない仏がたを見たてまつれば、如来は永久に不変であることを知る。如来が永久に不変であることを知れば、さとりの法が不滅であることを知る。さとりの法が不滅であることを知れば、自由自在な弁舌の智慧を得ることができる。自由自在な弁舌の智慧を得ることができれば、広大無辺の法を説き述べることができる。広大無辺の法を説き述べることができれば、慈しみの心から衆生を救うことができる。慈しみの心から衆生を救うことができれば、堅固な慈悲の心を得る。堅固な慈悲の心を得れば、奥深い教えを喜び味わうことができる。奥深い教えを喜び味わえば、迷いの罪を離れることができる。迷いの罪を離れることができれば、おごり高ぶりやなまけの心を離れる。おごり高ぶりやなまけ心を離れるなら、すべての人々を残らず救うことができる。すべての人々を残らず救うことができれば、迷いの世界にいて疲れることはない。」】(『華厳経・賢首品』より。但し真宗聖典230~232ページより。現代語訳は本願寺出版社・現代語訳『顕浄土真実教行信証文類』209~212より)


【今後あなた方がお二人によって作られる家が、いかなるものに向っても等しく開放され、いかなるものをも歓んで迎え容れるというような、そんな広やかな、そんな温かい、そんな文字通りの「如来の家」として新しく創り出されるであろうことを、私は学院に学ばれたお二人の上に、秘かに期待しないではいられぬからなのです。】(信国淳『一蓮托生の生活』より)

衆会

2008年11月26日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 11月26日

 外食  ラーメン       619円
     担々麺        680円
 雑費  スポドリ       100円
     喫茶店       1360円

 合計            2759円
 11月累計        86656円

 所用で外出。
 当然、飲み。(あ、当然、酒ね)

 親族。
 『血』で繋がった他人同士。
 決して好みではない人間関係。

 ♪このにわに あつまる われら  
  よのわざの しなこそ かわれ
  もろともに めぐみに とけて
  むつみあう こころの こえに
  さんぶつの うれしき しらべ
  (羽田野仁『衆会』)

 ほな、寝ます。

名前だけ

2008年11月25日 | 坊主の家計簿
 11月25日

 外食  釜揚げ大       380円
 雑費  ココア        120円
     タコ焼3      1500円
     タンガクラブビール  500円
     タクシー       200円
     居酒屋       1000円

 合計            3700円
 11月累計        83897円

 学習会後にタンガクラブへ。終わった時間が何時もより遅かったので、そのままタンガクラブに行ったのだが、当然、腹が減っている。ちゅう事で、タコ焼である。
 ちなみに1500円のタコ焼を私一人で食べたわけではない。学習会後にタンガクラブに行った人たちの為に私が買ったのだ。つまり、私が『おごった』のだ。つまり、「ふっふっふっふ。。。下々の者達よ。私のタコ焼を食べなさい」と、おごったのだ。
 で、この『おごった』事によって、私の心に起った『驕り』を書きたい気分もあるのだが、なんせ終電で帰って来たのでそんな時間はない。

 帰宅してテレビをつけたら眞鍋かをりが短パン(キャロット・スカートと云うのやったっけ?)で、黒パンストで出てた。しかも、どっかの家で焼そばを食べてた。多分、そこのお父さんは大変である。『眞鍋かをりの黒パンスト』である。エロいぞ。むっちゃ、エロいぞ。。。

 って、違う、っちゅうねん。

 何やら、堀北真希がハリウッドデビューするらしい。しかも主演らしい。
 まあ、事務所の問題もあるのだろうが、蒼井優と宮崎あおいの方が役者としては上だろうが。真希ちゃんが素敵でキレイでなのは認めるが、でも、同世代の役者としては蒼井優、宮崎あおいの方が上やろうが。。。

 って、違う、っちゅうねん。

 さて、このベロンベロンに酔っぱらっている中で決して書けるとは思えない事にチャレンジしてみようと思う。

 真宗仏教は『国王不礼』『神祇不拝』なんぞというが、別にそれは全仏教の話だろう。この両方がなかったら仏教ではないやろう。別に真宗だけの話ではない。
 真宗仏教の特徴は『無戒名字の比丘』だと思う。つまり『名前だけ』っちゅうやつやね。
 名前だけである。名前だけの仏弟子である。名前だけであるが故に『僧侶』も『檀家』もなく、つまり、『出家』『在家』の区別なく、共に『門徒』である。
 しかし、それが故に『国王不礼』『神祇不拝』が真宗仏教の特色として見出されたのかも知れない。
 『無戒名字の比丘』として、共に『門徒』であるが故に、『国王不礼』『神祇不拝』が真宗門徒の特色として出て来たのではないかと。
 本来、全ての仏弟子にとっての必須要項である『国王不礼』『神祇不拝』が、真宗門徒の特色として出て来たのではないかと。

 学習会後にも諸々話してたんだが、やっぱし『無戒名字の比丘』、つまり、『名前だけの仏弟子』っちゅうのが大切ではないかと。
 「あんな僧侶は。。。」は、『名前だけの仏弟子』ではない。
 まあ、『名ばかりの比丘』だから、なんとなく出家者ぽいのだが、うち等には関係なく、『共に仏弟子』でしかない。
 決して立派であるわけもなく、また、『僧侶』と『檀家』の区別が生じる世界でもない。あくまでも『名前だけ』である。でも『名前だけ』であって、つまり、中身の伴わない『名前だけ』、つまり、『カッコだけ』であっても、仏弟子であることには違いない。
 どんな立派な仏弟子であろうが、同じ仏弟子でしかない。シャリホツや、モクレンなんぞの釈迦の高弟とも同じく仏弟子でしかない世界である。
 それが故に『仏弟子』として自覚出来る。だから『国王不礼』『神祇不拝』なのだ。

 って、やっぱし無理やったのぉ。。。
 でも、仏弟子は、仏弟子にしか過ぎない。
 優秀な人だけが仏弟子ではない。どんな人でも仏弟子に成れるのが『ただ念仏』の真宗仏教である。

 うぅぅぅ。。。寝よ。
 その前に、歯磨きせんと。

 え~。。。なんとなく、飲んでた続き、っちゅう事で。

念仏者の先生たち

2008年11月24日 | 坊主の家計簿
 11月24日

 1円も使ってません。

 11月累計         80197円

 宮城先生が数日前にお亡くなりになられたらしい。
 ネット情報によると昨日が通夜だったらしい。(http://blog.livedoor.jp/rococo8787/archives/51253038.html
 今日が葬儀なんだろう。

【私たちが、善き人に遇うということは、善き人を通して、自分の願いそのものに出遇うということです。自分自身に遇うということが、善き人に遇うということなのです。善き人に遇うということが、先生べったりになるというのではない。善き人は、どこまでも私に私自身を遇わせてくださった方でございます】(『真の仏弟子』113ページより)

【たすからないもの、除かれているものという自覚が、たすかりたいという願いを、いよいよ強くするものでありまして、いつも仏法のご縁の真ん中にあるものは、かえっていつものことと思うて、おろそかであると。いつもそこにおりながら、しかし、本当に求めたことがない。】(『真の仏弟子』131ページより)

 宮城先生の法話は聞いた事がないはずである。書物を通じての出会いであった。
 宮城先生の本の中で一番最初に買ったのは上記引用の『真の仏弟子』である。いつ買ったのかは憶えていないが、10年以上前の学生だった頃だと思う。坊さんに成り立てホヤホヤの頃だったと思う。
 当時の専修学院院長だった恩師・竹中先生は得度ホヤホヤの私たちにこんな事を云った。
 「何かあったら頭を撫でて、得度して頭を丸めた時を思い出しなさい」
 と。
 それから10数年の年月を経て、頭は丸坊主でなく、遊びに行く時はヘアージェルなんぞを塗って髪の毛を立たしている。髪の毛の立ち具合を気にはするが、そんな言葉をすっかり忘れていた。
 坊さん装束も不便なく揃い、毎日の仕事では「お坊さん」と呼ばれる事にも、すっかり慣れた。

【そういう、近くにあってしかももっとも遠くにいるのが仏法者でございます。】(『真の仏弟子』131ページより)

 「何かあったら頭を撫でて、得度した時に頭を丸めた時を思い出しなさい」
 という、竹中先生の言葉を『たまには』だったのか、『何かあったら』だったのか、を、すっかり忘れている。
 でも、宮城先生の『真の仏弟子』をパラパラと読む事を通じて、恩師・竹中先生の言葉を思い出すことが出来た。

 真宗・念仏者の先生たち。
 
 私の法名は『釈学生』と云う。
 『生きる』という事自体が難しかった私だったので、俗名の『学』と合わせた。
 仏教の教えに生きる事を学ぶ。その事によって、『学』が『生きる』事が出来る、と。
 また、『ゆゆしき学生(インテリ)』に成りたくない!と。
 そんな意味で名告った。

 でも、すっかり、忘れている日常でしかない。
 こういう事を書きながらでも、

【われよりほかには仏法を存知したるものなきように思い、自分こそが仏法の中心だと思っている】(『真の仏弟子』131ページより)

 のが、紛れもなく、今の私である。

【その思いにおいて、仏法を求める心をまったくもたないのが仏法者でございます。それに対して、常に仏法に背くもの、除かれたものとしての目覚めにおいて、大切に仏法を求めるものが念仏者なのです。】(『真の仏弟子』131ページより)

 明日は学習会である。発表は『念仏者であろうとするもの』と名告って居られる方である。多分、『背くもの』『除かれたもの』としての目覚めの困難さを実感されておられるから『念仏者であろうとするもの』と、名告られて居られるのだと思う。
 しっかりと学ばせて頂いてこようと思う。

満中陰の年賀状

2008年11月23日 | 坊主の家計簿
 11月23日

 食類  野菜ジュース6     888円
     諸々          569円
 雑費  タバコ10      3000円

 合計             4457円
 11月累計         80197円

 私は別に『信長の野望』ばっかりしているわけではない。仕事もしているのだ。え~。。。今日は新たなストーリーを始める。本願寺との教義の違いで追い出された一派が島津に逃げ込み、島津家の家臣として打倒本願寺を目指すストーリーである。
 
 って、やっぱし『信長の野望』ばっかしやっているのぉ。。。

 っちゅう事で、「私も仕事をしている」っちゅう事を見せつけなければならない。
 ん?別に見せつける必要はないのだが、なんとなく珍しく仕事話し。

 今日は普段の御参り+満中陰の法事あり。
 11時からの法事で、今の寺に来てからは珍しく葬儀会館での法事。
 今の寺での法事は1時間半コースである。私は、カダ&表白の後に無量寿経を読んで小休止&法話して、阿弥陀経と正信偈を読んでいる。まあ、阿弥陀経の間に焼香をして貰って、その後に正信偈を一緒に勤行するわけでんな。
 葬儀会館に到着して気づく。
 「え~。。。ここってレンタルやんな」と。
 会館の人に、「すいません。何時まで借りてはるんですか?」と聞く。
 会館の人曰く、「時間は大丈夫なんですが、一応12時から食事となってます。」と。
 「貴様!仏事を舐めているのか!法事は1時間半ゆっくりとさせろ!」
 と、激怒する根性も勇気もなく、また、向こうの都合もあるのだろうし、いつものパターンから前の寺のパターンに変更。阿弥陀経と休憩を素っ飛ばす事に決定。
 「そしたら、1時間内で終わりますわ」と、挨拶して、着替えて法事スタート。
 久々のパターンなので時間が読めない。ちなみに私は腕時計が苦手なので時間は携帯電話でしか解らない。「まあ、急ぎめで読経してたらなんとかなるやろ」っちゅう事で、読経、読経と。
 終わったら、余裕でセーフ。なので法話をする。
 んが、焼香が終わっていない。。。焼香の案内は会館の人に任せたのだが、『1時間』の全てを読経すると思ってはったみたいである。え~。。。「ちゃんと打ち合わせしとけば良かった。。。」と、若干の後悔がありながらも、当然、法話はする。

 法話で諸々喋って、挨拶して終わろうとしたら、突然1人のオバちゃんが立ち上がる。
 「ごめんなさい。。。打ち合わせをちゃんとしてなかったから、焼香が終わってないのに法話してもうて。。。」と思ってたら、全然違う話だった。
 
 今日の法事は御参り先のお爺ちゃん。私が今の寺に来てからずっと病気だった。そのお爺ちゃんから貰った年賀状を持って来てはって、その年賀状に書かれた徒然草の言葉を読み上げてくれた。何やら、私の法話を聞いてて喋りたくなったらしい。
 こんな言葉。

【「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志満つ事なし。 生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」】(徒然草第九十三段より)

 意訳は

【「そうだから、人が、死ぬことを怖がるのなら、命を慈しまなければいけません。今、ここに命があることを喜んで、日々を楽しまなくていいわけないです。このことをよくわかっていない人は、生きていることを楽しむのを忘れてしまって、無理をしてまで、ほかの快楽を求め、命の尊さをも忘れて、危険を承知で他の財産を欲しがる物だから、いつまでたっても満足することができないのです。生きている間に生命の楽しさを感じもしないで、死ぬ直前で、死ぬのが怖くなってしまったとしたら、生命を愛するということをいい加減に考えているとしか思えません。人がみんな、生きていることを楽しまず軽薄に生きているのは、死ぬことを恐れていないからです。もしかしたら、死ぬこと怖がっているのではなく、死が近づいてきて、すぐそこにいることを忘れているからかも知れません。もしも、生きているとか死んでしまうとか、そんなことすら、もうどうでもよくなってきた人がいたとしたら、その人は思考が宇宙の彼方まで飛んでいって解放されたと言えるかも知れません」】(http://www.tsurezuregusa.com/contents/93.htmlより)

 みたいな感じになるらしい。
 但し、この部分の全文を引用してはったのかどうかは不確かである。なんせ、読み上げて頂いて、かつ見せて頂いた年賀状では、もう少し短い印象があったし。とりあえず『徒然草第93段』という事だけをメモって来ただけなので。

 ただ、思うが、故人はこういう年賀状を送る人であったらしい。
 また、その年賀状を11月半ばの法事に持って来られた人が居た。
 法話してた私は、遺族でもなく、故人でもない私は両者程『死』を感じていない。
 故人は、まさに迫り来る『死』の直面の中で書かれた年賀状であり、その年賀状を持って来られた人も、故人の思いを受けとったが故に満中陰という法事の場に持って来られたのであろう。
 私が喋った事によって、その人は『私の前』でその年賀状を披露して頂いた。

 専修学院別科時代に、寮でもあった岡崎別院の当時の輪番さん(派遣住職みたいなもん)に挨拶に行った時に、こんな言葉を頂いた。
 「あなた達はここを出た後に、色々な所で法話をするでしょう。でも、その法話を一番最初に聞くのは自分自身である事を忘れないで下さい」
 みたいな言葉を。

 法事の場に私は呼ばれて行く。『呼ばれたから行く』。仕事である。
 でも、私を(僧侶を)呼ぶ側は、まさに『死』と直面している『場』である。上記の様な年賀状を持って来る『場』である。
 なんか、そんな事を、そんな感情をおろそかにしてて、また、『自分自信が最初に聞く』と云う事を忘れて、喋っていた。そんな私を発見させて頂いた。
 
 今日の法事では、

【いつかきっと離れてしまうから
 いま
 いっぱいの想い出をつくろう】

 と云う、とある門徒さんの言葉も紹介した。
 私にとっても想い出深い法事になった。
 ありがとうございます。

 あ、ちなみに『同朋(同じ仏弟子同士)』の関係の中で、布施行は成り立ちません。布施には法施なんだろうが、私自身も法施を頂いているわけだから。

いい夫婦の日

2008年11月22日 | 坊主の家計簿
 11月22日

 1円も使ってません。

 11月累計         75740円

 と云う事で、『信長の野望ダイエット』を決行中。
 ゲームをいちからやり直して、速攻、足利領に侵攻して、さっさとブチ殺す。ふっふっふっふ。ざまーみろ、昨日の怨みじゃ。

 しっかし、仕事以外はゲームしかしないと脳味噌も弛むのぉ。。。『テレビ』というもんが、どれだけ刺激あるものかがよく解る。なんせ、ニュースにしても、バラエティーにしても、生身の人間が出て来るし、私は観ないがアニメなんぞも誰かが作って居るものだし。
 当然、ゲームだって誰かが作って居るのだろうが、やっぱし一日中ダラダラとテレビを見てても何らかの世間の動きから問われて来るものがあるのだが、ゲームは小さい画面のソフトの中だけの世界やし。世の中で何が起きようが、「浅井も朝倉も強いのぉ。。。」の方が重大になって来る。

 って、ここまで書いて思うのだが、別にゲームの中だけの話ちゃうな。『私』を中心とする『私だけの世界』なら、まあ、なんちゅうんですか?『家内安全』とでも書いとくが、『家内安全』だけならば、つまり『家内』の安全しか、求めないのであれば、世の中は二の次である。
 『家』の事が大事で、世の中の事は二の次である。
 『私』が大事なら『他人』は二の次である。
 おお!私はゲームをしなくても、ゲームの生活をしているではないか!
 まあ、『バーチャル』っちゅうヤツでんな。

 親鸞には

 【弥陀の報土をねがうひと
  外儀のすがたはことなりと
  本願名号信受して
  寤寐にわするることなかれ】

 っちゅう和讃(詩)がある。
 この『弥陀の報土をねがうひと』は、恩師曰く『みんなと一緒に生きたい!』ちゅう意味らしい。『寤寐』とは、『寝ても覚めても』ちゅう意味らしい。
 んが、私の生活は、別に『信長の野望』をしてなくとも、決して『みんなと一緒に生きたい!』と云う実態とは遠くかけ離れている。
 まあ、故に『本当の願い』なんだろうが。
 ゲームをしたりする、日常の願いは「私さえ良ければイイ」なんだが、それでも、私の心の奥底にある本当の願いは『みんなと一緒に生きたい!』ちゅう願いのはずである。
 まあ、なんちゅうんですか?「寂しい」ちゅう感情はあるし。
 「寂しい」にも色んな段階があって、最強の寂しさは「誰でもエエから私に反応してくれ」ちゅう事なんだろうし。

 死んだら誰にも会えない。生きているから『誰か』に会える。誰かが反応してくれる。
 つまり、無視されない。誰かが何らかの反応を示してくれる。
 それだけでも『有り難い』のだが、当然、んな事、日常で思うわけがない。日常で思うのは『好かれたい人』『キライな人』『どうでもエエ人』なんぞと区分しているわけだし。イヤな反応は、んなもん『イヤ!』に決まっている。余程、孤独の極致にある人以外は、イヤに決まっている。

 ふと、良寛を思い出す。孤独を愛した人なんだろうが、逆に『人との出会い』を大切にした人。
 そういや、恩師から紹介して頂いた尾崎放哉ちゅう人も居る。

 【咳をしても一人】

 なんぞのけったいな句を読む人。

 『独り』だから、『ふたり』になる事が奇跡みたいな事。
 『独り言』でなく、『会話』が出来る事が奇跡みたいな事。

 今日、11月22日は『いい夫婦の日』らしい。
 『ふたり』で居る事が『当り前』なら、『有り難い』とは思えない。都合のイイ事にだけ『有り難い』と思う。『独り』でない事を『有り難い』とは思えなくなる。

 【「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。ーーーこのことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。】 (ダンマパダより)

 私はワガママであり、そして、多くの人達も私と同じくワガママであると思う。決して孤独でなく、ワガママの中で孤独に陥っている。

 昔に、ある先輩がこんな事を云った事がある。
 「今日、電車に乗っててビックリしてんけど、隣に座っている人の事を俺は人間と思ってなかった」
 と。
 『人間』を『風景』として『眺めていた』と。
 自分がバーチャルな世界に生きている事に気づいたからビックリしはったのだろう。

 生きている事は奇跡みたいな事だと思う。
 けど、それが『当り前』になっている。

信長の野望ダイエット

2008年11月21日 | 坊主の家計簿
 11月21日

 外食  ラーメン半チャン   700円
 食類  諸々         707円
 雑費  諸々        1329円
     信長の野望2    4530円

 合計            7266円
 11月累計        75740円

 急にお休みを貰ったのでラッキー♪

 っちゅう事で、任天堂DS用の『信長の野望2』を買う。一昨日は誘惑に勝って騎馬武者三昧の名作『乱』を見て気分を誤摩化したのだが、んなもん見終わったら増々欲しくなってもうて、しかも今日は休みである。え~。。。アマゾンで買うよりも500円高いけど、「今日やりたい」という誘惑に負けてもうてゲーム購入。

 とりあえず本願寺用の新武将を作りまくってゲームスタート。
 「ふっふっふっふ。。。私は信長の野望の天才なんだよ」
 と、ゲームをしてたのだが、恐るべきDS。なんかワケの解らん攻撃を仕掛けて来る。調べると何やら『文化』とか『技術』とかがこのゲームのポイントであるらしい。『開墾』と『商業』ばっかりやってたから圧倒的に戦力の差が出て来てもうてたらしく、それが原因で戦争に勝てない。うぅぅぅぅ。。。

 ちゅう事で、今日はゲーム三昧っちゅう事で。
 でも、ゲーム三昧は眼が疲れるけど、「え~い!メシをゆっくり喰っているヒマはない」っちゅう事で、ダイエット効果があるのではないかと勝手に思う。おやつ食べへんし。
 今日も、「野菜が高いのぉ。。。」とブツブツ云いながらスーパーでお買い物してた結果、比較的安かった大根と鶏肉を煮込んだのを作ったのだが、余り食べなかったし。『食欲』よりも『天下統一』である。出来れば天下統一までに5キロダイエットが出来ればエエのだが。。。
 って、何を書いているのやら。。。この時期に、そんな生活してたら風邪ひく、っちゅうねん。しっかりと食べて『冬こそ脂肪』の「背脂バンザイ!」である。暖かい下着を買うよりも、自分の身に脂肪をまとった方がどれだけ暖かいか。1年に1キロぐらいづつ、見事に脂肪をまとう様になって、どれだけ冬がらくちんになった事か。脂肪の御陰で仕事を休む程の風邪はひいてないぞ。。。
 って、何を書いてるのやら。。。

 しっかし、まさか足利に負けるとは。。。ショックや。。。宇喜多にも負けたし、ショックやねん。
 まあ、天下統一は簡単に出来たらオモロない。
 『文化』と『技術』を高めて仕切り直しやで。
 足利、首を洗って待っとけ。お前の茶器は俺のもんや。

ボロボロ

2008年11月20日 | 坊主の家計簿
 11月20日

 食類  諸々        476円
 雑費  喫茶店       400円
     居酒屋      3950円
     回数券      3700円
     回数券      3000円

 合計          11526円
 11月累計       68474円

 麻生氏がぁ~。。。

 別に漢字が読まれへんかってもエエと思うねんけど、あるコメンテーターが云ってた「今まで誰も注意してくれへんかった」っちゅうのは問題やなぁ。。。
 ほんで、公共工事してバラまく事の景気対策よりも、直接バラまいた方が無駄にダムなんぞを作らんでもエエ分だけマシなのかも知らんが、でも、なんか自民党内部でもグチャグチャでんがな。。。
 『医者は非常識』も別にエエと思うねんけど、自民党の支持団体やんけ。。。しかも、速攻謝罪するって、ポリシーがないやんけ。。。

 なんか、ボロボロやのぉ。。。

2008年11月19日 | 坊主の家計簿
 11月19日

 外食  回転寿司        609円
 食類  諸々          348円
 雑費  レンタル1       105円

 合計             1062円
 11月累計         56948円

 お昼休憩でテレビ観てたら、なにやら黒澤明監督の『乱』の紹介をしてたので観る。騎馬武者も見たかったし。やっぱり騎馬武者は黒澤映画やのぉ。。。素晴らしい。
 前回観たのは何年前やったんだろうか?とりあえず騎馬武者がいっぱい出て来るので何度か観たと思うのだが、騎馬武者ばかりに眼が行って、映画の内容に関しては無頓着だったのだが、人間の業を描いた映画だったとは。。。知らなんだ。。。

 しかし、寒い。。。

帰宅後爆睡

2008年11月18日 | 坊主の家計簿
 11月18日

 食類  諸々         320円
 雑費  グレンリベット   2300円
     居酒屋       3050円?

 合計            5670円
 11月累計        55886円

 所用で外出。
 終電で帰宅後爆睡。

 どうでもエエねんけど、この『帰宅後爆睡』っていう漢字だけの言葉は中国人に通じるのかな?
 っちゅうか、中国に『爆睡』っちゅう言葉はあるのか?
 っちゅうか、『爆睡』って日本語としてどこまで通じるねんやろ。

小児救命第四話・『物知り』は『世間知らず』

2008年11月17日 | 坊主の家計簿
 11月17日

 雑費  薬局諸々        1900円
 食類  諸々           611円
 外食  ラーメン餃子       550円
 
 合計              3061円
 11月累計          50216円

 録画していた『小児医療・第四話』を観ようと、テープを巻き戻しする。
 「この辺だろうな?」と思う辺りで止めて、再生する。
 「まぁサッカー。。。」である。まさか、先週木曜日にサッカーの試合があったなんて。。。うぅぅぅぅ。。。
 しゃーないので録画していた半分チョイだけ観る。で、ストーリーを見る為に『小児医療』と検索する。
 さすがは弱小ドラマである。検索で出て来ない。
 『小児医療 ドラマ』で検索する。
 ドラマの名前をずっと間違えてたやんけ。。。『小児医療』でなく、『小児救命』だったとは。。。ずっと間違えてたやんけ。。。
 ちょっとだけショックやけど、まあ、別にエエわ。

 薬局でお買い物。衣類用の防虫剤なんぞも買う。帰宅して作業、作業と。
 テレビを聞きながらの作業だったのだが、何やら上沼恵美子の番組をやってた。
 上沼恵美子は物知りである。なんせ「女っていうのは」等と平気で云っている。

 今日は夕方からも御仕事の日。少し離れた山の手の新興住宅に住んでいる所に御参り。
 今年初の『クリスマス・イルミネーション』っちゅうのか?家をキラキラした灯りで飾ってた。

 男「彼女、指輪してないけど独身?」
 女「いえ、私は仏教徒なの」

 そうなのである。結婚指輪はキリスト教のものなのだ。仏教には当然関係がない。故に、仏教徒は本来結婚指輪なんぞは不要である。
 しかし、そうはなかなかいかない。なんせ『物知りの人』が、「結婚式には指輪が必要なのだ」と決めつけて来る。つまり自分が知っている知識が全てに通じるものだと信じて疑わない人がいる。んなわけがあるわけがないのだが。。。

 しゃて、きっと『物知りの人』にとって、「女にとっての一番の幸福は結婚である」と信じて疑わない人が多いと思われる。これは、その逆、つまり「男にとっての一番の幸福は結婚である」とは余り聞かない。っちゅうか、聞いた事がない。
 まあ、背後には『男が仕事をして、女が家庭を守る』という幻想があるのだろうし、女性が『外』で生涯働くと云う事がまだ定着していない事も原因の一つであると考えられる。

 何やら、『小児救命・第四話』のストーリーを見ると、真奈美タンも彼氏とナカナカ会えないみたいであり、このままでは生涯独身のままで『医師として生きる』事になりそうである。
 多分、『物知りの人』なら、「ああ、真奈美さんはなんて可哀相な。。。」と、なるのかも知れない。
 大きな御世話や、っちゅうねん。
 
 当然、女性にとって人生最大の目的は結婚して子どもを産む事『だけ』ではない。そういう人も居るのだろうが、そうでない人も居る。
 例えば仏教徒である。仏教徒にとっての人生最大の目的は輪廻からの解脱である。
 え~。。。真宗門徒に限ろう。真宗門徒なら『生死を離れる』事である。その為に、生涯、仏教を聞き、念仏申して行く事が人生最大の目的である。
 思いつくままに羅列すると

【人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。】(三帰依文より)

【ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。】(親鸞)

 なんぞか。

【「あなたは何者か」と問われた私の見い出した答えは、「私は成仏への(南無阿弥陀仏を本当の私として発見し続ける)旅人です」というものなのです。】(渡辺尚子)

 と云うのもある。

 何が目的、あるいは最大の幸福なんぞは、人それぞれなのだ。
 当然、『結婚指輪』と云うもんを使うのも宗教によって異なる。
 つまり『物知りの人』とは、実は何も解っちゃいない。単に自分の経験した事を『絶対的である』と信じて疑わないだけである。
 当然、「世間では」等と云うかも知れないが、そんな『世間』なんぞはない。個々を無視した世間なんぞがあり得るわけがない。『世間』いや、『世界』とは、様々な人達が集まって出来ているだけの話であって、『個々』の集まりにしか過ぎない。
 結婚を人生最大の目的と感じる人も居るのだろうし、また、仏教を聞いて行く事を人生最大の目的にしている人もいるだけの話である。
 そして『個』を無視する。『個』よりも先に世間を立てる。『個の選び』よりも先に『世間の選び』が先である。

 「結婚する事が女にとっての最大の目的である」のならば、それに対して個人の意見として「私は違う」ではなく、「そうか、女にとっては結婚する事が人生の目的なのだ」になる人も居る。つまり、自分の人生を世間に売り渡している。
 当然、そういう人生もあっても構わない。
 ただ、『物知りの人』はそれを『普通』とする。
 『普通』とは『普く通じる』である。つまり、個々の尊重なくして『普通』なんぞはあり得ない。「あの人は普通ではない」とは、最早、論理矛盾なのだ。

 「女はこうだから」
 「男はこうだから」
 と、決めつける事は誰にも出来ない。そんな権限など誰も持ち合わせていない。
 『物知りの人』こそが、『世間知らず』なのである。

 別に『学者』だけが『物知り』ではない。
 常識に囚われているのが『物知り』である。
 何かの固定概念に囚われているのが『物知り』なのである。

 そして、何かの固定概念には、多分、全ての人が囚われていると思う。

『知識』と『信仰』

2008年11月16日 | 坊主の家計簿
 11月16日

 外食  ちゃんぽん      730円
 食類  諸々         337円

 合計            1067円
 11月累計        47155円

 何やら、『蓮如を知らなかった真宗僧侶』が居たらしい。
 んなもん、最初は誰も知らん、っちゅうねん。。。
 また、蓮如を知らない真宗僧侶が『劣っている』とは別に思わん。勉強すればエエだけの話だ。学校のテストでなら欠点間違いなしだろうが、それと信仰は別である。信仰のテストでなら、口先だけで南無阿弥陀仏と云えればイイ。
 南無阿弥陀仏と念仏申す人を念仏者と云い、念仏者に『僧侶』も『門徒』も差はない。あるのは教団内の資格の話、つまり娑婆での『僧侶』であり、『門徒』である。
 「○○をするのが真宗門徒である」の中の『○○』の中には『念仏』しか入れる事は出来ない。それ以外の事を入れたいのならば、真宗門徒を辞めてから入れればイイ。
 例えば『○○』の中に、社会運動や、ボランティアや、慈善活動等を入れるのであれば、真宗門徒を辞めてから入れればイイ。そんなもんは、真宗門徒の条件には入らない。他の様々な修行も同じである。あくまでも『○○』の中には『念仏』しか入らない。真宗僧侶(門徒)とは、念仏申す念仏者の事である。
 当然、知識なんぞも問題になるわけがない。
 知識を深める、社会活動なんぞを熱心にするのならば、勝手にすればイイ。そんな事が真宗門徒の条件である話は聞いた事がない。
 まあ、人間は差別が好きで、知識だろうが、行動だろうが、念仏の数だろうが、何を使っても差別したがる。それだけの話である。当然、世間での評価だとか、社会的地位だとか、身分だとか、血統だとか、そういうものに対する批判原理が真宗仏教の世界である。

 ちなみに私も蓮如の事はよく知らない。通り一遍の事は『知って』いるが、別に研究者でもないのでよく知らない。

 『真宗の生活』という小冊子がある。それの2009年度版にこういう事が書いてあった。

【北陸の小さな寺に育った私には、「御開山」は身近な人だった。ただし「ごかいさん」がどういう人かは知らなかった。「あみださん」も「ほんこさん(報恩講)」も「おたいっさん(春の聖徳太子御忌)」も「おふみさん(御文)」も、みな親戚のような人だと思っていた。
 「親鸞」という人の名は中学校で習った。その人が「ごかいさん」だと了解するのは、もう少し後である。】(2009年度版『真宗の生活』10ページより)

【『歎異抄』はそれまでに何度か読んだこともあり、友人たちと物知りげに議論したこともあった。しかしそれは知識、教養としての古典であり、真宗念仏の僧伽復興の悲願と念力から生まれた書物であるとなどと考えもしなかった。まして「親鸞聖人」と、聖人と尊称することはとても恥ずかしくて口にできる言葉ではなかった。
 しかし先生は、そのような私のちっぽけな自尊心を自白のもとに引き出してくださったのである。「君はいったい何者なのか」「何をしにここに来たのか」。そういう無言の問いかけをしてくださったのだと気づくのは、それからさらに十数年という年月を経なければならないのだが、ともかく私は信國先生という念仏の人によって、手を引っ張られるように「真宗の門」の前まで連れてこられたのである。
 それから長い時を経た。「念仏もうしなさい」という師の教えを繰り返し聞きながら、どうにか「親鸞聖人」とその人の名を呼ぶことのできるところまで来たようだ。】(2009年度版『真宗の生活』12ページより)

 書かれたのは専修学院長の狐野秀存先生である。
 つまり、私の母校の恩師である。
 
 親鸞の事は当然、知っている。が、その『親鸞』を『宗祖としての親鸞聖人』としているのか?と聞かれると、私には答えられない。狐野先生達、多くの念仏者達が『宗祖としての親鸞聖人』として出会われているから、私もその先生たちの教えを聞いて行こうとはするが、本当に「宗祖としての親鸞聖人になっているのか?」と聞かれると、黙らざるを得ない。
 知識や教養としての『親鸞』なら知っているが、『宗祖としての親鸞聖人』としては黙らざるを得ない。

 『ごかいさん』と北陸辺りでは云うらしい。北陸の爺ちゃん、婆ちゃんなんぞは「ごかいさん」「親鸞聖人」と呼ぶ人が多いのであろう。
 その人達よりもひょっとすると今の私の方が知識や教養では詳しいかも知れない。でも、どうなのだろうか?知識や教養で詳しかろうとも、私には『宗祖としての親鸞聖人』と呼ぶ事は難しい。
 でも、きっと、形だけ僧侶の格好をして念仏申す私であっても、そういう人達から『同じ念仏者』として接して頂ける。
 そういう人達が呼ぶ『宗祖としての親鸞聖人』との出会いへの道を今は歩ませて頂いているだけである。

 ちなみに真宗仏教、っちゅうか、『ただ念仏』は

【念仏は容易であるから、どんな人にでもできるが、ほかの行為は行なうのに困難であるから、あらゆる人の能力に応ずることができない。
 それであるから、一切の生きとし生けるものを平等に往生させようとするためには、困難なものを捨て、容易な行為を取って、仏の本願とされたのであろうか。
 もしも、堂塔を建立し、仏像を造ることによって本願とされると、貧しく賤しい者たちは往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも裕福な者は少ないのに、貧しく賤しい人は非常に多い。
 もしも、智慧や才覚のすぐれた者をもって、本願の対象とされるならば、愚かな智慧のない者は往生する望みを完全に絶たれたことになる。しかも、智慧ある者は少なく、愚かな者は非常に多い。
 もしも、よく見、聞いて学問をしている者をもって、本願の対象とされるならば、わずかしか見聞きしないで、学問をあまりしていない者たちは、往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、よく聞いて学問している人は少なく、学問のない者は非常に多い。
 もしも、戒律を堅持している者をもって本願の対象とされるならば、破壊や無戒の人は往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、持戒の者は少なく、破戒の者は非常に多い。
 それ以外の行為をする者もこれに準じて理解することができよう。当然これで理解できたのであるが、以上の多くの行為をもって、本願とされるならば、往生できる者は少なく、往生しない者は多いであろう。】(法然『選択本願念仏集』より。但し現代語訳は、中公バックス『日本の名著 法然』より)

 である。