11月23日
食類 野菜ジュース6 888円
諸々 569円
雑費 タバコ10 3000円
合計 4457円
11月累計 80197円
私は別に『信長の野望』ばっかりしているわけではない。仕事もしているのだ。え~。。。今日は新たなストーリーを始める。本願寺との教義の違いで追い出された一派が島津に逃げ込み、島津家の家臣として打倒本願寺を目指すストーリーである。
って、やっぱし『信長の野望』ばっかしやっているのぉ。。。
っちゅう事で、「私も仕事をしている」っちゅう事を見せつけなければならない。
ん?別に見せつける必要はないのだが、なんとなく珍しく仕事話し。
今日は普段の御参り+満中陰の法事あり。
11時からの法事で、今の寺に来てからは珍しく葬儀会館での法事。
今の寺での法事は1時間半コースである。私は、カダ&表白の後に無量寿経を読んで小休止&法話して、阿弥陀経と正信偈を読んでいる。まあ、阿弥陀経の間に焼香をして貰って、その後に正信偈を一緒に勤行するわけでんな。
葬儀会館に到着して気づく。
「え~。。。ここってレンタルやんな」と。
会館の人に、「すいません。何時まで借りてはるんですか?」と聞く。
会館の人曰く、「時間は大丈夫なんですが、一応12時から食事となってます。」と。
「貴様!仏事を舐めているのか!法事は1時間半ゆっくりとさせろ!」
と、激怒する根性も勇気もなく、また、向こうの都合もあるのだろうし、いつものパターンから前の寺のパターンに変更。阿弥陀経と休憩を素っ飛ばす事に決定。
「そしたら、1時間内で終わりますわ」と、挨拶して、着替えて法事スタート。
久々のパターンなので時間が読めない。ちなみに私は腕時計が苦手なので時間は携帯電話でしか解らない。「まあ、急ぎめで読経してたらなんとかなるやろ」っちゅう事で、読経、読経と。
終わったら、余裕でセーフ。なので法話をする。
んが、焼香が終わっていない。。。焼香の案内は会館の人に任せたのだが、『1時間』の全てを読経すると思ってはったみたいである。え~。。。「ちゃんと打ち合わせしとけば良かった。。。」と、若干の後悔がありながらも、当然、法話はする。
法話で諸々喋って、挨拶して終わろうとしたら、突然1人のオバちゃんが立ち上がる。
「ごめんなさい。。。打ち合わせをちゃんとしてなかったから、焼香が終わってないのに法話してもうて。。。」と思ってたら、全然違う話だった。
今日の法事は御参り先のお爺ちゃん。私が今の寺に来てからずっと病気だった。そのお爺ちゃんから貰った年賀状を持って来てはって、その年賀状に書かれた徒然草の言葉を読み上げてくれた。何やら、私の法話を聞いてて喋りたくなったらしい。
こんな言葉。
【「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志満つ事なし。 生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」】(徒然草第九十三段より)
意訳は
【「そうだから、人が、死ぬことを怖がるのなら、命を慈しまなければいけません。今、ここに命があることを喜んで、日々を楽しまなくていいわけないです。このことをよくわかっていない人は、生きていることを楽しむのを忘れてしまって、無理をしてまで、ほかの快楽を求め、命の尊さをも忘れて、危険を承知で他の財産を欲しがる物だから、いつまでたっても満足することができないのです。生きている間に生命の楽しさを感じもしないで、死ぬ直前で、死ぬのが怖くなってしまったとしたら、生命を愛するということをいい加減に考えているとしか思えません。人がみんな、生きていることを楽しまず軽薄に生きているのは、死ぬことを恐れていないからです。もしかしたら、死ぬこと怖がっているのではなく、死が近づいてきて、すぐそこにいることを忘れているからかも知れません。もしも、生きているとか死んでしまうとか、そんなことすら、もうどうでもよくなってきた人がいたとしたら、その人は思考が宇宙の彼方まで飛んでいって解放されたと言えるかも知れません」】(
http://www.tsurezuregusa.com/contents/93.htmlより)
みたいな感じになるらしい。
但し、この部分の全文を引用してはったのかどうかは不確かである。なんせ、読み上げて頂いて、かつ見せて頂いた年賀状では、もう少し短い印象があったし。とりあえず『徒然草第93段』という事だけをメモって来ただけなので。
ただ、思うが、故人はこういう年賀状を送る人であったらしい。
また、その年賀状を11月半ばの法事に持って来られた人が居た。
法話してた私は、遺族でもなく、故人でもない私は両者程『死』を感じていない。
故人は、まさに迫り来る『死』の直面の中で書かれた年賀状であり、その年賀状を持って来られた人も、故人の思いを受けとったが故に満中陰という法事の場に持って来られたのであろう。
私が喋った事によって、その人は『私の前』でその年賀状を披露して頂いた。
専修学院別科時代に、寮でもあった岡崎別院の当時の輪番さん(派遣住職みたいなもん)に挨拶に行った時に、こんな言葉を頂いた。
「あなた達はここを出た後に、色々な所で法話をするでしょう。でも、その法話を一番最初に聞くのは自分自身である事を忘れないで下さい」
みたいな言葉を。
法事の場に私は呼ばれて行く。『呼ばれたから行く』。仕事である。
でも、私を(僧侶を)呼ぶ側は、まさに『死』と直面している『場』である。上記の様な年賀状を持って来る『場』である。
なんか、そんな事を、そんな感情をおろそかにしてて、また、『自分自信が最初に聞く』と云う事を忘れて、喋っていた。そんな私を発見させて頂いた。
今日の法事では、
【いつかきっと離れてしまうから
いま
いっぱいの想い出をつくろう】
と云う、とある門徒さんの言葉も紹介した。
私にとっても想い出深い法事になった。
ありがとうございます。
あ、ちなみに『同朋(同じ仏弟子同士)』の関係の中で、布施行は成り立ちません。布施には法施なんだろうが、私自身も法施を頂いているわけだから。