すっかりコタツで寝落ちしてしまっていて、ヒマなので、いや、ヒマではないのだが、ボケーっとしたいので録画していたテレビを諸々。
ドキュメント『狂気の正体』
http://www.ntv.co.jp/program/detail/21818236.html
連合赤軍事件で人を8人殺してしまった事で獄中に居られた方の話。
連合赤軍。今でも、正直、憧れがあったりする。だから、静岡市にある植垣さんがやっているスナックに行ったならば、私はむアイドルと出会った様な感動も出て来るであろう。
単なる殺人犯でもなく、単なる一個人としてでもなく、やはり「昔に好きだったアイドル」と出会った様な感動が出て来るであろう。テレビを観ていてもそういう感情が出て来たわけだし。
それは、昔に革命に憧れたが故である。政治思想云々もあるだろうが、例えば先日観た三島由紀夫の映画で森田必勝が出て来た時に「右翼や!」ではなく、思想の違いはあるにしても同じく革命を目指した人としての尊敬の念が今もあるからである。
ただ、今はそれを肯定しない。例えば重信房子と一緒にパレスチナに行った人と何度か会った時も、憧れもあるが、その人が今やっている事に対しては否定的であるし、好きか嫌いかで言えば嫌いなジャンルの人だ。だが、どこかで憧れもあったりする。が、肯定はしない。思想の偏り、過激性は人を排除する事にしか繋がらない。それが、如何なる大義名分、いかにも『正しそう』な、社会正義ぽくあろうとも、排除にしか繋がらない。で、私は排除が好きであるが故に、血気盛んな若かりし日に、いや、今もかも知れないが、正義をブン廻して排除を肯定する論理に立ちたい煩悩は盛んである。
敵を作り、同志を作る。そういう私の在り方に対して、某元(?)過激派先輩坊主は「お前はセクトが好きやのぉ…」と指摘して呉れた。『行動する若手念佛者の会』とかいうのを立ち上げた時の話だ。その先輩からは褒めて貰えると思っていたら、その先輩から頂いた言葉は私の期待にそぐわなかったが、今から考えると、しっかりと私を見守ってくれていたんだなぁ…と思う。
課題。信仰上の課題というのは人それぞれである。今の私は元革命家であった恩師が語る「信を弘誓の仏地に立てる」と、恩師が恩師の師に対して「先生も一緒に立ち上がりましょう!」と言った時に言われた言葉を噛み締めている。
課題。信仰上の課題は人それぞれである。
「世の中で一番問題なのは私自身である」
というのが、恐らく仏教という、いや、仏教全般は解らないので『真宗仏教』と限定するが、あくまでも私が救われる道である。
連合赤軍事件で8人の人を殺してしまった植垣さん。植垣さんには植垣さんの人生としての課題があり、その道は植垣さんしか歩けない。私の課題は、この世の中で一番問題な、厄介な私の課題は私の仏道である。
今日の某会議で、人権関係発表での私の発表部分は先日の『鶴橋デモ』でやる事を決めた。
「鶴橋大虐殺」というアジテーションをした中学生は、直接的には同じ運動をやっているお父さんの影響を受けたのかも知れないが、でも、私の心の中に「気に入らないヤツらはみんなブッ殺す!」というのは簡単に見つけられる。排外主義は、何も鶴橋デモをやった人達だけの問題でなく、「鶴橋大虐殺」を言った中学生を育てたのは彼女の父親だけではない。
もし仮に彼女の父親だけの仕業にするのならば、仏教は成り立たない。縁起を無視している。
在日コリアンに対する排外主義は、一部の運動団体だけの話しではなく、『排外主義』という煩悩を抱えた生身の人間存在としては全く同等である。同じ悲しみを抱えた存在として、全くの同等である。共に如来より悲しまれる存在として全く同等である。
ドキュメント『狂気の正体』
http://www.ntv.co.jp/program/detail/21818236.html
連合赤軍事件で人を8人殺してしまった事で獄中に居られた方の話。
連合赤軍。今でも、正直、憧れがあったりする。だから、静岡市にある植垣さんがやっているスナックに行ったならば、私はむアイドルと出会った様な感動も出て来るであろう。
単なる殺人犯でもなく、単なる一個人としてでもなく、やはり「昔に好きだったアイドル」と出会った様な感動が出て来るであろう。テレビを観ていてもそういう感情が出て来たわけだし。
それは、昔に革命に憧れたが故である。政治思想云々もあるだろうが、例えば先日観た三島由紀夫の映画で森田必勝が出て来た時に「右翼や!」ではなく、思想の違いはあるにしても同じく革命を目指した人としての尊敬の念が今もあるからである。
ただ、今はそれを肯定しない。例えば重信房子と一緒にパレスチナに行った人と何度か会った時も、憧れもあるが、その人が今やっている事に対しては否定的であるし、好きか嫌いかで言えば嫌いなジャンルの人だ。だが、どこかで憧れもあったりする。が、肯定はしない。思想の偏り、過激性は人を排除する事にしか繋がらない。それが、如何なる大義名分、いかにも『正しそう』な、社会正義ぽくあろうとも、排除にしか繋がらない。で、私は排除が好きであるが故に、血気盛んな若かりし日に、いや、今もかも知れないが、正義をブン廻して排除を肯定する論理に立ちたい煩悩は盛んである。
敵を作り、同志を作る。そういう私の在り方に対して、某元(?)過激派先輩坊主は「お前はセクトが好きやのぉ…」と指摘して呉れた。『行動する若手念佛者の会』とかいうのを立ち上げた時の話だ。その先輩からは褒めて貰えると思っていたら、その先輩から頂いた言葉は私の期待にそぐわなかったが、今から考えると、しっかりと私を見守ってくれていたんだなぁ…と思う。
課題。信仰上の課題というのは人それぞれである。今の私は元革命家であった恩師が語る「信を弘誓の仏地に立てる」と、恩師が恩師の師に対して「先生も一緒に立ち上がりましょう!」と言った時に言われた言葉を噛み締めている。
課題。信仰上の課題は人それぞれである。
「世の中で一番問題なのは私自身である」
というのが、恐らく仏教という、いや、仏教全般は解らないので『真宗仏教』と限定するが、あくまでも私が救われる道である。
連合赤軍事件で8人の人を殺してしまった植垣さん。植垣さんには植垣さんの人生としての課題があり、その道は植垣さんしか歩けない。私の課題は、この世の中で一番問題な、厄介な私の課題は私の仏道である。
今日の某会議で、人権関係発表での私の発表部分は先日の『鶴橋デモ』でやる事を決めた。
「鶴橋大虐殺」というアジテーションをした中学生は、直接的には同じ運動をやっているお父さんの影響を受けたのかも知れないが、でも、私の心の中に「気に入らないヤツらはみんなブッ殺す!」というのは簡単に見つけられる。排外主義は、何も鶴橋デモをやった人達だけの問題でなく、「鶴橋大虐殺」を言った中学生を育てたのは彼女の父親だけではない。
もし仮に彼女の父親だけの仕業にするのならば、仏教は成り立たない。縁起を無視している。
在日コリアンに対する排外主義は、一部の運動団体だけの話しではなく、『排外主義』という煩悩を抱えた生身の人間存在としては全く同等である。同じ悲しみを抱えた存在として、全くの同等である。共に如来より悲しまれる存在として全く同等である。