坊主の家計簿

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歎異抄第十章

2013年01月26日 | 坊主の家計簿
 facebookノートって、そろそろ打ち切られそうなんだろうか…。ブログとの連携も切られたし、今の画面(?)ではノートに辿り着くのが面倒だし。
 やっぱ、gooブログだよね♪自分のブログ内検索も出来るし、もう、ノート代わり♪
 というか、せっかく打ち込んだ色々な本を「gooブログ有料化!」「gooブログ廃止!」という危機から逃れる為に、とっとと保存して置かなければ…。

 遺言。私が死んだら、このgooブログを遺稿集にして、何処か安全なサイトで保管して下さい。お!これは商売になるかな(笑)facebook墓苑とか(笑)

 という事で、先日の学校での課題発表。



  

 @歎異抄第十章 
                           
※ 表題 「汝、無量寿に帰れ。無量寿に帰って無量寿を生きよ」(信国淳先生)

※ 本文

「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。そもそもかの御在生のむかし、おなじこころざしにして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまわりしかども、そのひとびとにともないて念仏もうさるる老若、そのかずをしらずおわしますなかに、上人のおおせにあらざる異義どもを、近来はおおくおおせられおうてそうろうよし、つたえうけたまわる。いわれなき条々の子細のこと。


※現代語訳(朝日新聞出版『現代語 歎異抄(親鸞仏教センター訳・解説)』)

「念仏は、人間を苦しめる偏った価値観による意味づけや考え方を破り、解放をもたらすところに如来の意図がある。それは、言葉も及ばず、説き尽くすこともできず、考えることをも超えているからである」とおおせになりました。親鸞聖人がご在世の頃、同じ志をもって、関東から京都まではるばる聖人を訪ね、また信心を同じくして、如来の大悲によって、いまここに開かれてくる明るい真実の世界を生きたいと願った人々は、同じときに聖人から本願の御こころをお聞かせいただいた。その人々に従って念仏に生きている老若男女は、数えることもできないほどたくさんいらっしゃる。しかし、最近ではそのなかに聖人の教えとは異なった諸説を唱える人々がいると伝え聞いている。それらは、まったく根拠のない主張である。詳しく問題点を吟味してみよう。


※ 語意・語註(東本願寺出版部『歎異抄』)

(一) 無義…人間の思慮分別を超えていること。

(二) 義…最も大切な意義。

(三) 不可称不可説不可思議…言葉やはからいを超えて、真実を実現するはたらき。

(四) 御在生のむかし…親鸞聖人が生きておられた頃。

(五) 遼遠の洛陽…はるか遠い京都。

(六) 当来の報土…必ず生まれていくことが決定した真実の浄土。

(七) 上人…親鸞聖人のこと。

(八) 異議…誤った信心の了解。

(九) いわれなき…根拠のない。


※ 関連語句

【此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す】(小部経典『自説経』1, 1-3菩提品)

【縁起には一般的縁起(外縁起)と価値的縁起(内縁起)の二つがある。仏教で必要なものは価値的縁起であるが、その基礎として、またはそれを譬喩的に説明するものとして、一般的縁起(縁起一般)が説かれる。前に縁起説の基本的なものとして揚げた「これあればかれあり云云」の語句は一般的縁起を説いたものである。(中略)仏教で縁起が説かれるのはこのような多くの事実世界の現象関係を明らかにするためのものではない。仏教では苦楽迷悟などの人間の運命に関係する社会・人生の宗教的・論理的な現象の動きを正しく知るために縁起を説いた。しかし社会・人生の現象は、時間的にも空間的にも、極めて複雑に関係し合っていて、容易にこれを見究めることができない。】(水野弘元『仏教要語の基礎知識』161~162頁)


※ 所感

 歎異抄第十章というのは「おおせそうらいき」までで、後の部分は別序(中序)だと思っていて分けて読んでいたのですが、今回の課題では「いわれなき条々の子細のこと。」までである。テキスト『歎異抄』も十章は「いわれなき条々の子細のこと。」までであり、古い写本
(大谷大学『歎異抄の世界』http://web.otani.ac.jp/tannisyo/)
での確認や、

【この第十条は最初に「師訓篇」の締めくくりのような形で「無義をもって義とす」と述べ、「そもそも」からは「異義篇」を説き出す序のような体制をとっています。現代では、これらをひとつながりの文章と解釈する説と、ふたつを別物(十条の後半を「中序」とする)と考える説があります。けれども、『歎異抄』のどの写本にも、第十条をふたつに分けたものはありません。そこから想像されるのは、原本もつながっていたということです。おそらく、「そもそも」からガラッと意味が変わるので、その内容をくみとって「中序」とする説が生まれたと思われます。しかし、ここでは、ひとつながりの文章として考えていくことにしましょう。】
(朝日新聞出版『現代語 歎異抄(親鸞仏教センター訳・解説)』120頁)
という言葉を受けて諸々考えている中で

【念仏には、それらの数多くの先人達の血と涙と汗によって守られて来た祈りの歴史がこめられています。それは人間の分別や理論で信じるとかの判断で決められるものではないものでありましょう。不可称・不可説・不可思議と仰せられる歴史の事実であります。にもかかわらず、
「上人のおおせにあらざる異義どもを、近来はおおくおおせられおうてそうろうよし、つたえうけたまわる」
のであります。それは念仏の無義を義とする精神、つまり信心なき故にであります。義をもって信を立てんとする分別の傲慢さの故でありましょう。」
(藤元正樹『ただ念仏のみぞ』225頁)

という言葉との出会いがあったので、第十章全体を一文として読んでみます。


【たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。】(聖典149頁)

 現代語訳では

【たまたま行信をえたなら、はるかむかしからのご縁があったことを慶ぼう】
(東本願寺『解読教行信証』4頁)

と、「たまたま」である。親鸞は、御自分の御念仏との出会いを「たまたま」であると、決して自分の努力や才能の結果であるとは述べられていない。

 仏教は諸法因縁生である。

【二つには、いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして有らゆることなきこと、虚空のごとしと。】(聖典169頁)

 現代語訳

【二つには、あらゆる存在は因縁によって生じているので、とりもなおさず不生であって実体的にあるのではなく虚空のようなものである、と】
(東本願寺『解読教行信証』53頁)

 同じページの『諸法は因縁生』の解説には

【すべてのもの(法)は、数限りない原因(因縁)によって生じており、実体はないということ。】

とある。

 これは後ほどの課題になるのだが、歎異抄第十三章には
【故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。】
【「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいしに】

とある。

 仏教を、本願念仏の御教えを私有化し、我が努力の結果とし、自らを誇る、義を立てる道具としてしまう。そういう業(煩悩)を私は持っている。故に「私が」になる。
 私は教団の一部で『在家出身』と呼ばれる。つまり寺で生まれ育ったわけではない。その為に偏見で見られた経験もあるが故に、尚更「私が」になる。虐げられたプライドは、それをやり返す事によって回復しようとしてしまう。まるで私の努力によって僧侶になり、住職になり寺を運営しているという魔境に陥ってしまう。そこには、様々な、多くの働きが全く見えていない。
 大谷専修学院別科時代に「踏みにじっている大地から祈られている」というような事を寮での日誌に書いた時に恩師は

【猶し大地のごとし、浄穢・好悪、異心なきがゆえに】(聖典55頁)

という言葉を紹介して下さりました。

【我慢(がまん)
胴上げが、合格発表の場面などでよく見うけられます。(遊びたい気持ちをよくガマンして勉強したね、おめでとう)。「我慢」のもとの意味は、実は「胴上げ」が象徴しています。「慢」という字は「思い上がりの心」を示しています。どのように思い上がるのかというと、我というものにこだわって、自分で自分を胴上げ?するのです。みんなから胴上げされるのと違って、ちょっと寂しいすがたです。
仏教は諸法因縁生(しょほういんねんしょう)を説いています。すべてのことはお互い因となり縁となりながら、深く関係しあって存在しているということです。そこに私たちを支えている大地があります。しかし、その諸法因縁生を無視すれば、自分を支える大地をも失ってしまい、あとは自分で自分を支えるしかありません。自らを高く挙げる(高挙)ことによってしか生きることができないと思い込んでいる私たち。我慢とは、諸法因縁生に暗いという「根本的な迷い」を生きる私たちのすがたを指し示しているのです。
たとえどんなに謙虚でガマン強い人でも例外ではありません。わたしたちは、仏の言葉をとおして、諸法因縁生という大地の存在を知らされることがない限り、永遠に自分で自分の胴上げをしていくことになるのです。
「猶(なお)し大地のごとし、浄穢(じょうえ)・好悪(こうお)、異心(いしん)なきがゆえに」(真宗聖典55頁)。大地を知らされ、自らの胴上げから解放された仏弟子たちの感動の言葉です。】
(埴山和成 月刊『同朋』2002年3月号より)

 教えに帰る事の大切さを思う。

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2 コメント

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最新のヒット曲 (C.Cライダー)
2013-01-27 19:58:46
あたしもこれうたいますわ

http://www.youtube.com/watch?v=nOH6BBlbqv0&feature=youtube_gdata_player
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Unknown (エロ坊主)
2013-02-16 04:00:05
誰の歌でんの(笑)
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