坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

死事人

2010年07月31日 | 坊主の家計簿
 1 千葉法務大臣。死刑せえへんかって落選した千葉法務大臣が死刑を執行。まあ、死刑制度についての議論は別に死刑執行せんでも出来るわけやろ。まして法務大臣やねんし、刑場を公開する事だって、死刑を執行せんでも出来るわけやろ。死刑執行して、次の選挙では「私はちゃんと法務大臣として人を殺しました」と。立ち会った態度は罪の自覚からして素晴らしいけど、イヤな言い方をすると「人を殺してまで次の選挙に当選したいんかい」と。
 まあ、法務大臣を続けて、また、次の選挙にはキチンと当選して、死刑制度を廃止する為に法務大臣まで任される政治家として、キライな言葉だが、頑張って頂きたい。まあ、私なんぞに言われんでも、本人が一番自覚なさっておられるのだろうが。

 2 大野君!!!おめでとう!!!!!である。
 いや、友人の親友が、あ、記念に全文掲載

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 第22回堺自由都市文学賞を受賞 星野泰司さん41
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撮影・永井哲朗
 葬儀会社の若手社員の葛藤(かっとう)を描いた受賞作「俺は死事(しごと)人」は、僧侶である自らを重ね合わせた。葬儀で利益を追求する仕事に悩む主人公が、独り暮らしの老婦とのふれあいなどをきっかけに生きがいを見いだしていく物語。「生死は表裏一体。死と向き合うことで、生きる喜びを感じるはず」と願う。
 大阪の町工場に育ち、大学では仏教学を専攻したが、中退して小説家を目指した。30歳で再び、仏教の専門学校へ。そこで「仏教の教えは人が幸せに生きる知恵。素晴らしさを伝えたい」と、浄土真宗の僧籍を取得した。
 最初に勤めた大阪府内の“葬式寺”で、年間約100件の葬儀をこなした。布教とは無縁のビジネスに戸惑った。それでも生死にかかわった人に向き合い、悩める心を穏やかに導く活動に目覚めた。今も府内の別の寺で、檀家(だんか)らの「心の往診」に努める。
 奇抜なタイトルは「僧侶も葬儀会社の仕事も、死に直面する重い仕事だから」という。堺自由都市文学賞は今回で最後。「何が何でも取りたかった賞。間に合って幸運です」。6作目で栄冠をつかんだ。(大阪社会部 阿部健)
(2010年7月29日 読売新聞)

 http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20100729bk02.htm

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“生”への願望全編に」
堺自由都市文学賞受賞
 28日発表された「第22回堺自由都市文学賞」(堺市など主催、読売新聞大阪本社など後援)で、受賞作に選ばれた柏原市国分市場の僧侶・星野泰司さん(41)の「俺は死事(しごと)人」。僧としての体験を基に、葬儀会社の若手社員の葛藤(かっとう)を描いた作品に、選考委員の作家3氏は「鮮やかな人物の造形」「“生”の願望が全編を通じて想(おも)えてくる」などと高く評価した。

 選考委員の藤本義一さんは「主人公の“正直”な心象が、ゆっくりした物語の沼を描いて進行していく」と評し、眉村卓さんは「焦りや義務感、仕事に伴う心理などが、過不足なく描かれている」と称賛。難波利三さんは「題名の不気味さとは不似合いな、気持ちの良い読後感」とたたえた。

 星野さんは、これまで書いた小説の大半を同賞に応募し、6度目の挑戦。最終回で受賞し、「ホンマに読んでもらいたいと思える先生に読んでもらえ、この賞に懸け、この賞で物書きとして成長してきた。喜びはひとしお」と語った。

 佳作には高知市の片岡真さん(37)の「桜咲荘(さくらさきそう)」と、河内長野市の船越和太流(わたる)さん(64)の「伊津子の切符売り」、堺市長特別賞は同市南区の会社員松川明彦さん(41)の「うたかたのうた」が選ばれた。表彰式は11月20日、市立西文化会館で行われる。

(2010年7月29日 読売新聞)

 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100729-OYT8T00082.htm

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 で、ある。
 ちなみに東京・四谷坊主バーが出来た当初に行かれた方は「星野?誰やそれは?」なのかも知らんが、要するに「大野」である。複雑な事情で「大野」なのだが、まあ、星野でもある。
 私も友人の親友なので何度か会った事がある程度しかないのだが、やはり嬉しい。むっちゃ、嬉しい。
 いや、単に「これでこれから作家の道が開けるかも知れんのぉ。そしたらオカンに楽させてあげれるかも知れんのぉ」っちゅう事もあるにはあるのだが、選んだテーマが一番嬉しい。

 「僧侶も葬儀会社の仕事も、死に直面する重い仕事だから」

 という言葉は、ホンマ、素晴らしく、涙がちょちょ切れる。
 私も僧侶として最初に働いた寺がいわゆる『葬式寺』だった。ただ、大野(星野)君が働いていた様な『大手』ではなかったが、それでもかなりの数の葬儀を任せて頂いた。で、その寺の住職より、葬儀社の仕事がどれだけ大変な仕事であって、営業に何度も何度も足を運んで本当に信頼されて「あんたに私の葬儀を任せたで」と言われるぐらいの信頼が出来て葬式を任せて貰えるのだと。で、私は、その葬儀社の方が取って来られた仕事の中で「僧侶」としての役割を任せて頂き、私が受け取る給料は別にして、恐らくその営業の方の月収近い金額を『布施』として預かるわけだ。預かってたわけだ。いや、ホンマ、頭が下がるで。
 いわゆる『葬式寺』は評判が悪い。なんせ、「うちの檀家を取りやがって」とか「うちの地域の檀家を取りやがって」とかである。まあ、ヒマなバーのマスターが「うちの客を取りやがって」とボヤいているのと変わらん。
 けど、まあ、いわゆる『葬式寺』がセリエAなのも知っている。檀家制度にあぐらをかけない緊張感が『葬式寺』にはある。

 「僧侶も葬儀会社の仕事も、死に直面する重い仕事だから」

 である。

 『葬式寺』で働く僧侶を『葬式坊主』と言ったりもする。多くは蔑視である。『葬式寺』も蔑視である。『葬式仏教』も蔑視である。
 でも、なんでメシ喰ってまんねん。法話だけでメシ喰える、あるいは学問だけでメシ喰える僧侶がどれだけ居てまんねん。多くは、葬式に関連する月参りも含めた仏事でメシ喰ってるのと違うんけ。それが『解りやすい形』だから「俺は葬式ばっかりしてる寺(僧侶)と違うねん」なのかも知れんが、真宗にとっての葬儀は念仏相続の仏事でしかないわけだし、仏教は対機説法だから、葬儀の現場には葬儀の現場の法話があるだけの話である。その為のテクニックとしてグリーフケアなんぞもあるし。グリーフワークも「中陰中に正信偈を憶えましょう」とやっておられる方も居ている。

 もっと言うのならば、ビハーラは葬式仏教である。諸々調べると、なんか、「葬式仏教と呼ばれたくないからビハーラをやっている」なんぞという意見もあったが、何を寝言こいとるねん。ビハーラだけして葬儀は誰かに任すんかい。「私たちビハーラ僧は死人ではなく生きている人を相手にしているんです」なんぞと寝言をこくんかい。葬儀には遺族が居てるし、誰も立ち会わない葬儀だって、葬儀社の人は居てるし、まして、読経している私が居てるではないか。
 たった一度の誰にも代わる事が出来ない尊い人生を送られた方に「ごくろうさまでした」と。冷蔵庫の前だろうが、どこだろうが、その人に向き合う態度が生きている人間に問われる事ではないのか?「冷蔵庫の前で参列者も居ないし適当にやろ」は、故人に対してだけでなく、生きている私も含めた人間に対する冒涜である。
 あ、冷蔵庫、って、葬儀社の冷蔵庫ね。腐乱が激しい場合、冷蔵庫で葬儀をやるらしい。まあ、葬儀社によって、あるいは季節によって違うのだろうが。

 ん?話が。
 いや、大野(星野)君が受賞した事も嬉しかったが(書いたか。。。)、やはり、作品である。
 この作品が出版社から出版されるのかどうかは知らないが、出版されると嬉しい。同時に話題になったりするともっと嬉しい。
 この作品が有名になったりするともっともっと嬉しい。だって、『葬式坊主』のイメージが変わるっしょ。だって『葬式坊主』だったから書けた作品なんだろうし。(ちなみに現役の葬式坊主は小説を書いている余裕はほぼない)。

 ちなみに大野(星野)君が働いて居る寺には、若手本願寺派一の運動坊主が居ている。
 彼も、運動系の本を出すらしいが、この『運動坊主』と『葬式坊主』とを比較したりすると、これは個人的偏見も踏まえた上なんだが、やはり『運動坊主』は「かっちょエエ」になったりする。個人的偏見だけでなく、結構多くの人達も同じ意見だと思うのだが。まあ、確かにエエ仕事してはるし。
 でも、多くの『悲嘆の現場』で活躍されているセリエAの葬式坊主だって社会派やろ。悲嘆の現場でっせ。

 ん?酔いが。。。疲れてるから、酔いが早い早い。
 なので、親鸞が善光寺聖としての仕事でメシ喰ってたという事については、また後日。

権力の味

2010年07月28日 | 坊主の家計簿
【私は、国土交通副大臣だった辻元さんが23年に及んだJR不採用問題で汗をかき、解雇された労働者の側にとって大きな前進となる条件で決着を見たことを大きく評価している。沖縄・普天間基地問題でも、鳩山総理や小沢幹事長とも頻繁に連絡を取り、昨年末の「辺野古決定」を止める大きな役割を黒子として果たしていたこともよく知っている。辻元さんは社民党が、政権内にいることの強みを生かして、仕事の成果を重ねていきたいという思いがあったし、その能力があった。】(保坂展人ブログhttp://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/b52ee0686bdc7b9fa16f96cd08debfa8より)

 お腹が痛いよぉ。。。ちょっと食べ過ぎたかも知れんぞ、今日は。
 昼飯はスパゲティー。いつも「大盛りで」とママにいうので、今日は、むっちゃ大盛りで出て来た。「こんなに食べれるかなぁ。。。」と内心思いつつ、あっさり平らげてしまう。
 夜。「夜は控えめにしとかんとアカンのぉ。。。」と思いつつ、結局いつもぐらいに食べる。で、食べ終わって「体が動かん。。。」と。食べ過ぎや、っちゅうねん。。。
 今日は、御仕事ヒマ。月末なので寺の通信をそろそろ作らないとイケナイのだが、結局、娘と遊んだり、寝転がってテレビを見て過ごす。「おお、自堕落な住職だぜ!」なんだが、ここしばらく結構バタバタしてたので休まんと。

 「住職になったら、あれをやろ、これをやろ」と諸々考えていた事もなかなか進まないし、諸々の状況も変わって来た。思いと現実は違って当然なんだが、現実の生活の中で出来る事、やり始める事からやって行かなアカンし、まあ、少しだがやれる事はやれたし、これからも変わらずやって行く事だろう。

 辻元氏が社民党を離れるらしい。多分、無所属なのか『ピースボー党』という政党を作って党首になるのかは知らんが、まあ、民主党と協力して、自分の政策を実現して行こうとするのだろう。上記に引用した保坂展人氏からの情報は初めて知った。「え?そんな事をやってたんですか?」である。副大臣という立場だから出来た事が多々あるのだろう。また、政権与党だから出来た事もあるのだろう。政治家を目指すのならば自分の政策を実現したいが為に『上』を目指すのは当然であり、辻元氏だって恐らく総理大臣を目指しているのかも知れない。総理大臣として御自分の政策を実現して行く、あるいは、党に影響力を与えられる立場になり、党のマニフェストに自分の政策が採用されるとか。辻元氏は社民党と民主党との連立で副大臣になり、政策を実現して行く、それが完全でなくとも、自分の政策が実現出来る喜び、まあ、これを『権力の味』というのだろうが、誰だって同じだと思うのだが。
 雇われのバーテンはマスターに成りたいだろうし、料理人は自分で店を出したい。サラリーマンは出世したい。寺で働く僧侶は住職になりたい。そんなもんだと思うのだが。それが批難される筋合いはないと思うのだが。

 しっかし、政治はセクトやのぉ。。。理想でならば、辻元氏が野党であっても、辻元氏の政策が実現されていければ一番だと思うのだが、残念ながら人間がやる事なので『今の所は』という限定を付けたいが、まあ、不可能だったのだろう。だから社民党を離れるのだろうし。悲しい話や。でも、現実から理想に立った苦労話でもある。
 けど、社民党を離れた辻元氏は、無所属、もしくは民主党に入ったりすれば単なる一議員である。田中眞紀子氏と同じである。
 民主党にとっては衆議院3分の2に向けて貴重な1議席である。なので大歓迎は当たり前なんだが、大丈夫か?選挙事情もあるらしいが、社民党に残って次期党首を目指して、そして民主党との連立の道もあったと思うのだが、まあ、人間のやる事だし、様々な事情があるのだろう。

アホにつける薬

2010年07月27日 | 坊主の家計簿
 今週、『八尾』という滅多に行かない街に学習会で出かけるので八尾のラーメン屋を調べる。食べログの最上位は『大盛軒』(http://r.tabelog.com/osaka/A2707/A270705/27047918/)という素晴らしい店名のラーメン屋だった。つけ麺が750円とちょい高めなのだが、なんと大盛りが無料らしい。大盛りは麺400グラムらしい。。。ああ、素晴らしい。。。大盛りのつけ麺をワシワシ食べれるわけだ。麺も美味そうである。酢も置いてあるらしい。私は魚介系&豚骨つけ麺に酢をたっぷし入れて食べるのが大好きなのだ。750円はちょっと高いが、まあ、麺400グラムだし、十分納得出来る価格である。

 と、まあ、若干夏バテ気味なんだが、食欲は一切落ちていない、っちゅうか、食欲が加速している状態であり、ウエストが心配なんだが、夏場は短パンが多く、短パンにベルトはしないし、ヒモやし、「まあ、別にええわ」である。
 今日なんぞ、晩飯喰った後2時間ぐらい経過した後でママに「ちょっとラーメン食べて来るわ」と、御近所にこってりしたラーメンを食べに行ってしまったぐらいである。いや~、「あっさりは敵である」やな。

 で、まあ、今朝、出かける時に鼻緒が切れる。厳密には切れてないのだが、抜けてもうて、「こんなんで車に乗れません~」状態だったので新品を出す。
 「鼻緒が切れるなんて、不吉な。。。」なんだが、よう考えてみると、鼻緒は必ず切れる(抜ける、だが)ものであり、必ず履けなくなるものである。今日は、一日外出の日だったので、「よくぞ出かける前に切れてくれた。。。」と感謝しなければいけない。
 と、まあ、そういう現象になんじゃかんじゃと意味を付けたがるわけでんな。あったまわり~のぉ。。。である。これを治療する為には

 7月28日 八尾・大盛軒でつけ麺薬400グラム
 7月31日 千日前・マッチョで野菜&ニンニク&あぶらマシラーメン薬中盛り
 8月2日  西本町・笑福で野菜&ニンニク&あぶらマシつけ麺薬300グラム

 の投薬が必要であると勝手に決めよ。

 ちなみに、アホにつける薬はないらしい。という事は、アホは治さなくてもエエらしい♪ラッキー♪

 

もっと二郎を!

2010年07月26日 | 坊主の家計簿
 暑い。暑いぞ。
 明日の大阪の予想最高気温は36℃らしいが、何やら今日に比べてマイナス1℃らしい。っちゅう事は今日は37℃あったのか?湿気には弱いが、暑さには強い私がかなりヘタっているのだから、暑さに弱い人は大変やな。
 ちなみに、さっき寝室を見たら、娘もママも、あっちこっちに転がりながら寝てやがった(笑)娘の都合上、冷房除湿しているのだが、特に、娘、パパの布団を真横に占領して寝てやがった(笑)

 という事で、普段から能力がない私の能力が10パーセントぐらいである。なので、録画してた朝まで生テレビをみながら「うぅぅぅ。。。」と自己嫌悪に陥る。「こいつら、クーラーの聞いた所で議論しやがって。。。」あ、違うわ。
 あの、勝間とかいう女人、あったまエエのぉ~。流通芸人の金子哲雄のファンなので出ている番組は結構みたりするのだが、その中でも出て来ていたのだが、やっぱし朝生での議論を聞いたりすると、「この女人は、ホンマ、あったまエエのぉ。。。」と。同世代なんだが、呆れ返る程あたまがエエのぉ。
 それに比べて私は。。。ああ、グチグチ、ダラダラ。。。

 落ち込んだついでにラーメンサイトを見る。二郎である。聖地、二郎本店である。

 http://r.tabelog.com/tokyo/A1314/A131402/13006051/

 大阪の二郎系ラーメン屋の記事や、他のラーメン紹介サイトを見て、これまた落ち込む。。。
 「ああ、私なんて、偽物のラーメンマニアだわ」
 と、自己嫌悪に陥る。
 なんせ、私は「マシマシ」という言葉をいった事がない。「マシマシ」という言葉をいったことがないラーメンマニアなんぞ「ラーメンマニア」とは呼べないではないか。きっとホンマもんのラーメンマニアから失笑を浴びせかけられる事間違いなしであり、想像するだけで「ああ。。。」と落ち込み、自己嫌悪に陥った一日であった。

 ちなみに「落ち込む」のも、自己嫌悪という、え~。。。もう、クソ暑いので『』も「」も面倒くさくなって来ている、っちゅうか、漢字変換もめんどくさくなってきているので、え~い!めんどくさい!!!なんだが、落ち込む事も攻撃である。『自己嫌悪』である。自己を攻撃しとるわけでんな。「テメーなんぞ生きている資格がないんだよ!」である。
 
 で、この自己嫌悪はきっと世間では「それが努力するきっかけになるのだよ」と。今、高校野球をやっているらしいが、「その流した涙が力になるのだ」なんぞときっとどこかの監督なんぞは語っているのだろう。で、「先生!」なんぞと学園ドラマが始まったりしているのかも知れない。
 んが、まあ、これは世間で生きて行くには必須であったりする。だって、坊さんだって、読経の練習とかするもん。CD買ったり、私なんぞ15万ぐらいだったかな?まあ、10万以上するビデオまで買ったぞ。で、「練習、練習」である。千本ノックではなく、千本読経である。それこそ、喉から血が出るまで練習したもんだ。。。(暑いのでかなり嘘が入ってます)
 
 けど、まあ、「マシマシ」もいった事がなく、二郎本店に行った事のないラーメンマニアだって、自称ラーメンマニアでエエじゃん。と。

 ふっふっふっふ。。。これが『念仏者の名告り』なんだよ。。。と、ホンマかどうか解らん不確かな情報を暑さの勢いで流してみたりする。その勢いでもって「つまり、私とラーメンとの一直線の関係なのだ」と。そして、その時に私をラーメンマニアの道に導いて頂いた人が恩師になり、多くのラーメンマニアが友になる。しかしながら、私は変わらずに自己の体験を誇るのである。「え?高山にラーメンツアーに行った事がないの?」「今の魚介系ラーメンを語るのならば、まずは朱華園に行かないと話にならない」なんぞと。

 って、何の話や?暑くてよう解らんぞ。っちゅうか、当然飲んでるし。
 
 まあ、卑下ビームに、慢心ビームでんな。

 で、

 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100724-OYT1T00081.htm

 ひきこもりが70万人、予備軍155万人を抱えられるような豊かな日本である。しかしながら、これは世間的には問題なんだろう。なんせ、税金の問題がある。また、マスコミは経済である。ひきこもりは金にならん。だから問題として騒ぐのである。

 え~。。。これはブログに書いたのかな?
 少し前によく行くバーで飲んでたら、見慣れぬ男子発見。まあ、酔っぱらっていたし、なぜか一緒に行った友人達を放ったらかしにして、その男子と話し込む。東京の某一流大学の学生らしい。久しぶりにレヴィ=ストロースの話なんぞをしたりして結構楽しかった。でも、その男子は今の大学を辞めるらしい。で、精神医学の方向に行きたいと。諸々話してて意気投合したのだが、「だって、みんなオカシイですやん」と。誰がまともで、誰がオカシイなんぞを決めれる資格が誰にあるのか?「そりゃ、エエこっちゃ、エエこっちゃ」と、ヘタしたら自分の息子であってもおかしくない男子に話す。

 世間の誰からも見捨てられても、「私だけは決して見捨てない」っちゅうのが、阿弥陀ビームである。
 なので今日も自己嫌悪の煩悩で一日を過ごしたわけである。

 どうでもええけど、この『ビーム』って、今、通じるのか?まあ、エエわ。暑いし。

『清潔はビョーキだ』(by 藤田紘一郎)

2010年07月24日 | 坊主の家計簿
 ど、ど、ど、ど、ど疲れ様でございます。

 2点。
 
 1つめ。
 金賢姫氏が帰られたらしい。なにやら反発が多々あるみたいだが、んなもん、日本に来てから拉致関係の新しい重大な情報が解ったのならば、日本政府は単なる無能である。
 今回の来日で結構なお金がかかったらしいが、拉致問題のキャンペーン費用としては安いのでは?あれだけの広告をうったらナンボかかりまんねん。ギャラが一説によると1000万近くで、警備費だの、チャーター代だの、なんじゃかんじゃで仮に5千万かかったとして、5千万であれだけのキャンペーンがうてたのだからキャンペーン費用としては安くあがったのではないのか?まあ、法律的な話は別にして。
 金賢姫氏には2人の子どもがいてるらしい。何才か解らんが、子どもには金がいるし、今、どういう生活をしているのか知らないが、仮に1000万近くのギャラを提示されれば、そら日本でもどこでも行くだろうに。出稼ぎみたいなもんでんがな。

 
 2つめ。
 道頓堀の『大たこ』が最高裁で立ち退きが決定したらしい。

 http://mainichi.jp/select/today/news/20100723k0000m040076000c.html

 ちなみに、大阪に旅行に来て、「大阪一の有名店だから」と、『大たこ』でだけたこ焼きを食べて、「これだったら東京の方が美味しい」と決めつけないでもらいたい。『一番有名=一番美味しい』ではない。まあ、私があまり好きではないからだけなんだが。。。これまた伝統ある有名店の会津屋にでも行ってから判断して頂きたい。決して、「ニューカマーの名店に行け!」とか、「下町の名店に行け!」なんぞといわん。私だって東京の蕎麦屋=『神田のやぶそば』だけを食べて「東京の蕎麦ってイマイチやなぁ。。。」とか決して言わんし。
 ん?とにかく『大たこ』に立ち退き命令が最高裁で確定したらしい。
 私の人生の中で『大たこ』が無くなろうと全く問題はない。なので、『大たこ』が経営不振で潰れるのならば勝手に潰れればエエだけであって、オーナーと店員さんに対して「これからどうやって生活していきはるねんやろ」と少々の心配をニュース報道や噂で聞いたならばその瞬間だけ思った事であろう。
 だが、立ち退き命令って、なんやねん。テレビで見た話でなら、『大たこ』のオッサンは「土地を買う」と言ってたはずやぞ。まあ、ミナミの超一等地であっても買えるだけの金は持っとるやろうし、十分稼げるやろ。銀行ローンだって「ああ、『大たこ』さんがついに土地を買いはるのですか。もう、全額融資させて頂きますよ」やろ。最近、行列は減って来たといっても、粉もんは儲かるし、あれだけ売れてたら、売り上げ、スンゲーやろ。
 だが、立ち退き命令が最高裁で決まったらしい。

 『いのちいきいき天王寺博』というテーマのわりに、天王寺動物園という動物虐待の施設があり(当時。最近は行ってないから知らん。多くの動物がノイローゼ)、かつ、有料化で柵を作って路上生活者を排除したのは1987年。
 天王寺公園の青空カラオケの立ち退きは2003年。
 恐らく、多くの大阪観光情報誌に紹介されているであろう、というか、恐らく『大阪のたこ焼き=大たこ』と勝ってに思い込んでいる人が多くいるであろう観光名所すらも立ち退きになるらしい。

 【ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
 ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
 ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
 ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した。しかし、それは遅すぎた。】
 (マルティン・ニーメラー『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』)

 何を目指して国作りをしとるねん。

 ただ、この『大たこ』騒動って、大阪市の観光キャンペーンと違うやろなぁ。。。あの土地って、大阪市が取り上げても使いようがないやろ。また、大阪って確か観光都市を目指しているはずであり、『大たこ』は金看板である。まあ、平松市長が「私は『大たこ』のたこ焼きがキライや。あれが大阪を代表するたこ焼きと観光客に勘違いされたら困る」なんぞと思っているのかも知れんが。。。
 まあ、観光キャンペーンならば、これまた非常に安いキャンペーンである。
 ただ、ホンマに立ち退きならば、別に「『大たこ』だから」、という事ではなく、「大阪を代表するたこ焼き屋やから」というわけでなく、きっと他にも大阪市から立ち退き命令を受けた所もあるのだろうが、それは残念ながら知らなかったが、今回は知ったので、んなもん、反対に決まってる。別に『大たこ』の客やないけど、署名に行かなアカンな。

 で、ついでにもう一点。

【大相撲の境川部屋が、名古屋場所中の部屋宿舎にしている愛知県扶桑町の土地を、過去に暴力団と関係のあった男性社長(63)の建築会社=同町=から提供されていたことが23日、わかった。同社取締役を務める社長の次男(36)も暴力団と関係があると同日、一部で報道された。】(http://mainichi.jp/enta/sports/general/news/20100723dde041050024000c.htmlより)

 らしい。

 大真面目に考えるのだが、ヤクザの人の葬儀に宗教法人に席を置く人間は関わっては行けなくなるのか?
 門徒(檀家)にヤクザの人が居たらマスコミに告発される世の中になるのか?
 「あなたは宗教法人の代表役員として税制面で優遇されながら、暴力団関係者の葬儀を執行し、御布施を受け取るのですか?」
 「あなたは宗教法人の代表役員として税制面で優遇されながら、暴力団関係者からの寄付金を受け取り、寺の改築をしようとするのですか?」
 とか、マスコミに叩かれる日が来るのか?そんな世の中、真っ平ゴメンやぞ。

【「あってはならない」ものが「ある」のは社会が悪い。そういう社会として成り立たせている仕組みが悪い。だから、仕組みを変え、社会を変えなければならない。そういうことだったろう。これのどこが悪いといわれるかもしれないが、私はあえて異を唱えたい。「あってはならない」ものが「ある」という、そもそもの発想が逆立ちしていると思うのだ。こういう発想においては、「あってはならない」という正しい理念をもった自分がいて、そこからまちがった現実が見下されている。それは、プラス・マイナスの符号をつけるところが違っていたり反対だったりするだけで、いてはならないやつらを社会から一掃しようという平沼的思想と基本的に同じである。】(宮崎学『近代の奈落』240~241頁より)

 もう一丁。

【「志着するところなし」というのは、どれが善いとか悪いとか、どの人生はだめだとか善いとかいうことが出来ない。どの人生も、どのいのちも、手を合わせずにはおれない厳粛さが貫いている。】(佐野明弘『迷いに帰る』70~71頁より)

潰された人生

2010年07月23日 | 坊主の家計簿
 明日、早起きせねばならぬ。なんせ遠方に出かけるのだが、朝からの仕事、つまり「ラッシュアワー!」の中、車を走らさねばならぬ。なので、これはかなりの余裕をとって置かなければならない。ちなみに今日も「夕方のラッシュに引っかかるかなぁ。。。」と、心配して余裕をもって出かける。2時間以上前についてやんの(笑)まあ、1時間前には到着する予定だったから、1時間早かった。なので近所で時間を潰す。

 ん?この「潰す」って、「無駄な時間」という事やな。もっと、『有意義な時間を過ごせたのに。。。』である。
 つまり、私が『意義』、「私にとって意味ある時間」と言う事で、私の生活を斬り裁いている証明である。

あの『人』は今

2010年07月22日 | 坊主の家計簿
 今日は休み♪
 って、昼間にも書いたっけ。。。非常に珍しく昼間&シラフでブログを書いたら、打ち間違いが多い、っちゅうのはどういう事やねん(笑)

 休みだったので、まったり過ごす。晩飯喰って「パパ、眠い。。。」と、ママから「どれだけ寝るねん」と言われつつ、そのまま寝る。目の上に置いたハンカチを娘が取っては置き、取っては置き、しながらも「パパ、眠い。。。」と、寝る。
 起きて体の疲れをなんとかせんとアカンので今日も銭湯へ。風呂上がりに毎度の100円ローソンに行ったら50円引きと30円引きの豚ホルモンが売ってたので、夜食、っちゅうか、帰宅して電子レンジで暖めて、缶酎ハイのアテにする。

 深夜テレビ。『シルチルミチル』やったっけな?を見る。ADの堀くんは10年後「あの人は今」なんぞのコーナーに出るねんやろな~、と、大きな御世話を考えながら見たりする。

 そういや今日は珍しくツイッターでも遊ぶ。いや、滅多に書き込みしないのだ。んが、今日は、珍しく書き込んだりする。「布団の中から出るのがイヤだった」という明確な理由でなんだが。。。

 http://mainichi.jp/enta/sports/news/20100722k0000m050122000c.html

 何やら、松ケ根親方とかいう人が暴力団との関係がうんたらかんたらである。で、謝罪がうんたらかんたらである。
 もっというのならば、相撲協会は公益法人だからとかうんたらかんたらである。

 意味なくタイトルを『あの人は今』とつけて見たりする。いや、よく行ってた店のマスターがテキ屋で働いててこの時期1日21時間ぐらい働いたりしているわけだ。同時に山菱のバッチを貰ったりしているわけだ。特攻服を、サラリーマンにとってのスーツ、坊さんにとっての法衣と同じく買って着なければいけない場面もあるらしい。で、そういう話を、もう、20年来の付き合いなので、同席した時等に愚痴られる。「聞いてえや」である。20年来の付き合いなのでこっちも当然聞く。今は客同士だが、っちゅうか、元々は私が最初にやった店の客だったし、でも、その後にその人が店をやりだして、こっちが客だった歴史の方が長く、深夜に「しんどい。。。」と、よく行った、一時期毎日行ってたので、んなもん、そのマスターが何の仕事をしてようと私にとっては関係がない。ただ、その労働条件に「きっついっすね」である。

 で、仮に宗教法人の代表役員の私がそのマスターと一緒に飲んでいる所が写真に撮られたりすると問題になったりするのだろうか?

 私が「よっしゃ、坊主になろ」と最初に決断したきっかけは、とある本願寺派の僧侶である。坊主バーに出入りしていた先輩の親友で、その先輩を訪ねて来たらしいのだが、べろんべろんの泥酔状態で、正直、うっとうしかった。その人もそれを感じたのだろう。私に対して「お前、文句あったら殺したる、っちゅうのは違うやろ。お前が本当にやりたい事は違うやろ!こっちに来い!こっちに来んかい!」と。で、その親友に対して「こいつを坊主にせえ」と。私も「解りました。成ります」と。で、成っているのだが、その僧侶が荒れていた原因は「旧知のヤクザがビビってた」である。元々法律でとある暴力団を潰そうとして法律の勉強をしている中でそこの人達と『出会った』。人と人との出会いである。その僧侶が旧知の暴力団幹部の葬儀をやったら問題になるのか?

 というか、門徒に暴力団員が居ている寺もあるだろう。で、付き合えば問題になるのか?
 そこに毎月出入りしている事が問題になるのか?そこから布施を預かれば問題になるのか?
 「今度、うちの寺の修復をしますねん」
 「本山から親鸞聖人750回忌の寄付金が来てまして、頼んますわ」
 の時に、その家は外さなければならないのか?
 
 というか、外したら、それこそ大問題ではないのか?故に、本山修復の中に『当たり前』の様に、暴力団員からの『志』も入っているのではないのか?これが問題になるのか?
 「あなたは暴力団員ですね。ですから、あなたからの布施も志もお預かりする事が出来ません」というような宗教者は、宗教者なのか?まあ、宗教には多々あるから限定するのならば、それが真宗門徒か?真宗教団か?

 私は松ケ根親方が誰なのか全く知らない。んが、んなもん、暴力団関係者といっても人間やろ。同じ人やろ。


【ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
 ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
 ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
 ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した。しかし、それは遅すぎた。】
 (マルティン・ニーメラー『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』)


 ヤクザはケガレなのか?人ではなく、ケガレなのか?

 タイトルを

【あの『人』は今】

 に変更。

 どこからどこまでが『人』であって、ここから先は『人でなし』と決めつける権限を人が持っているのだろうか?

 「お前、あんなヤツらと一緒に遊んでるねんやったら、一緒に遊んだれへんわ」
 
 が、大相撲で今起こっている排除だろう。マスコミが騒ぎ立てる排除運動だろう。

 単なる、人権無視やんけ。

 人は、人や。人以上でも、人以下でもない。
 職業に貴賤がないのならば、ヤクザに貴賤があるわけないやろ。

 生活=死殺

 罪を犯さずに、誰が生きてるねん。

 

葬儀社坊主

2010年07月21日 | 坊主の家計簿
 休みだったので爆睡。昼過ぎに起きる。ママと娘は出かけるみたいだったので、パパはダラダラと。エエ加減に腹も減って来たので御近所定食屋へ。日替わり定食400円を食べて週刊誌を読む。

 週刊誌の記事で『布施の相場』について書かれてあった。まあ、イオンの坊さん派遣に関する記事なんだが、以前にも何度か書いたので、今回は置いておく。
 気になったのは、某僧侶の話として、マンション坊主に関しての批判が書かれてあった事だ。え~「読経の質が落ちる」やったけな(笑)。

 マンション坊主だけでなく、最近では葬儀社が僧侶を養成しているという噂も聞く。『養成している』といっても、まあ、どこか適当な宗派で僧侶資格を得て、葬儀社に依頼された葬儀を執行しているのであろう。その場合に「○○寺」として無断で葬儀を行っていたのならば問題なんだろうが、○○寺に断りを得ていたら問題はないだろう。また、○○宗の僧侶が違う教団の方法でもって葬儀をする事はアカンが、「うちは元々○○宗なんですが」と、旧来の檀家制度の宗派であるが、葬儀をするにあたって特に宗派にこだわらなければ、別に何宗でやっても構わないはずである。檀家制度は江戸時代の遺物である。なんら、法的な、仏法的、世間の法律的であっても問題はないはずである。問題があるのは檀家制度が利権化している事にあぐらをかいて居る寺だけである。「うちの檀家を取りやがって!」である。心情的には解るが、なんら問題はない。恥ずかしいだけの話であって、これはよく言うのだが、「檀家を離れる時に金を持って来い」は脅迫でいけるのではないのか?「代々の付き合いのあるお寺様から脅迫されました」と。それこそ週刊誌ネタであり、週刊誌と共に、その教団と警察に訴えるべきやな。

 しゃて、葬儀社が僧侶を育成したらどうなるか?きっと、役割としては葬儀の際んぼ読経担当である事は当然として、ケア係だろう。大手であればある程、『心のケア』というサービスを大事に考えるであろう。というか、やってはるし。
 葬儀社で僧侶担当の社員を募集したりとする。大学の心理学部なんぞに求人が来たらオモロイかも知れん。心理学部を卒業して葬儀社で僧侶として働くというのは、非常にアリではないか。
 まあ、別に心理学をやってなくとも、「私はこの仕事で生きる」と決めたのならば、独学、あるいは、各講習会に出て、グリーフワークや、グリーフケアの勉強をしたり。そういう形で葬儀社勤務で僧侶として働く生き方だって「アリ」だろう。それこそ、プロである。プロの葬式坊主である。読経なんぞはCDを聞いて練習すれば、その辺の住職よりも正確な読経が出来るであろう。そして、プロの葬式坊主として、毎日、多くの悲嘆に出会い、プロとして「布施」でなくサラリーマンとして『心のケア』に特化すればいい。実際に大手の葬儀社では、自分達の顧客をメインに、『遺族』の心のケアの場を設けている所がある。顧客管理でもあり、利用者に対するアフターサービスである。
 これが『商売』である。

 だが、そこに特定宗派の教えはない。。。のか、どうかは解らんが。。。

 まあ、何にしても「マンション坊主は質が下がる」とは偏見以外のなにものでもない。寺の住職だって、ゴルフ三昧の生活をしている人だっているだろう。あるいは、飲み屋歩きをしているとか(笑)。まあ、飲み屋歩きは私の事なんだが。

 「○○だからダメ」
 とは、
 「女だからダメ」「在家出身者だからだめ」とかと同じ偏見以外のなにものでもない。つまり、修行が足りん(笑)
 「いや、私は体験したから」ならば、個人的体験を全てに拡大解釈してしまっているだけの話である。
 私は在家出身の小さな寺の住職だが、寺生まれで大きな寺の住職の中に立派な人が居ているのも多くの体験でもって知っている。
 まあ、「何が立派」で、「何が立派でない」のかの基準はええ加減な個人的妄想にしか過ぎないのだが、例えば読経の質、つまり、経典の理解度や、間違いなく読経出来る、エエ声である、なんぞを例にとるならば、そんなものはマンション坊主も、大きな寺の住職も違いはない。個人の資質や経験の違いだけである。大きな寺の住職だけが「読経の質が高い」なんぞとは全く思わん。違いはない。個人の問題である。
 個人の問題を、その個人に対するレッテル全体に拡大解釈してしまうのは如何なものなんだろうか?

 まあ、伝統教団の住職、まあ、私もそうだが、イオンの坊さん派遣だろうが、マンション坊主だろうが、葬儀社だろうが、多くの批判は、単に利権の問題ではないのか?
 「あんなのが出て来たら、うち等の生活が危ないやんけ!」と。
 で、その事に慌てふためくのが生活者であり、布施で生活しているものではない。布施で生活している、布施を徹底するのならば、イオンが出て来ようが、マンション坊主が出て来ようが、葬儀社が出て来ようが、布施で生きる事を徹底すれば良い。生活出来なければメシを食べなければいい。極論ならばそういう事だろう。
 だが、騒ぐ。布施の大事さを語りつつ、生活の問題で騒ぐ。それが生活者だ。出家僧侶ではない。出家僧侶が布施の高い低い、布施がイオンから派遣された僧侶や、マンション坊主や、葬儀社に流れて行く事に騒ぐとは到底思えないのだが。。。

 ちなみに真宗僧侶は出家僧侶ではない。生活者である。
 生活者である以上、出家僧侶や、マンション坊主、イオン、葬儀社と全く変わらん。
 故に、出家僧侶の中で自分達の生活の質を落とすのがイヤで、イオン、葬儀社、マンション坊主を批判するのは生活者としてよく解る。
 ただ、「教え」はどないだってまんねん。

愛が生まれた日~『故人』と『諸仏』~

2010年07月20日 | 坊主の家計簿
 あ~、缶酎ハイが美味いぞ。もう1本買ってくりゃ良かったな。買いに行くのは面倒なので、ビールにしよ。
 と、風呂上がり。あ、厳密には銭湯上がり。
 数日、っちゅうか、え~と、しばらく続いた忙しい日々も終了である。なので銭湯である。銭湯なので風呂上がりの缶酎ハイである。まあ、単に銭湯の近くに100円ローソンがあるだけの話なんだが。

 そういや、今日、仕事中の開いた時間に仮眠する。仮眠は毎度の事なんだが、今日は少しだけ遠方に出かけていたので車の中で仮眠。日陰に車を停めて、iPhoneの目覚まし時計をかけて「よっしゃ、寝るぞ!」と、即睡眠。
 「アホかこら!殺す気か!!!」と3分後に目覚める。暑くて暑くてたまらん。一応、窓を少しだけ開けたし、日陰だったのだが、問答無用に暑かった。まあ、坊さんルックやったから、暑くて当たり前なんだが、それよりも睡魔が勝ってでんなぁ。。。
 しゃーないのでアイドリング状態でカーエアコンをかけて寝る。これまた10分チョイで暑くて目が覚める。エアコンかけているので多少は涼しいのだが、さっきまでの熱が体に籠ってたのかな?
 多少頭が楽になったので復帰。近所のコンビニでアイスを買って喰ったら体も復帰。なんとかその後の仕事も無事終了。帰宅してメシ喰って、テレビをボケーっと見る。

 カンブリア宮殿で孫正義が出てた。何やら、ソフトバンクは300年計画をしているらしい。300年っちゅうたら、(多分)江戸幕府よりも長いぞ。江戸幕府が出来た時から薩長対策をしていたような感じの事をソフトバンクは考えているのか?これはかなり

 ♪ぐるぐるぐるぐるどっかーん
  うれしくなっちゃうな~

 の話である。

 ということで、私も300年計画を立ててみようと衝動的に思ったりする。

 1 とりあえず300年間生きてみる

 無理だ。。。

 2 300年間毎日1円貯金をする。

 106800円にしかならん。。。いや、しかし、西川きよし師匠も「小さなことからコツコツ」と仰っておられたように、やはり小さな事から初めないといけない。毎日10円貯金なら、パパの小遣いにとってはかなりの痛手になるので1円貯金から始めないといけないのかも知れんが、よく考えてみたら300年後の物価が解らん。。。300年後の10万円って、何が買えるねん。っちゅうか、『1円』っちゅう単位があるのか?
 んが、まあ、「1円」という単位が無くなっても、誰かが始めなければ始まらない。釈尊が最初の法輪を回してくれなきゃ、今、回っているわけがない。んが、まあ、1円貯金は「する気がない」

 300年というが、私が預かっている寺は300年以上である。500年以上である。
 何やら作られた方の末裔によると「道場やったで」との事らしいので、まあ、『寺』になるまでの長い間は道場だったのだろう。今は『内陣』っちゅうのもあり、小さいながらも寺形式なのだが。

 そういや、『東本願寺』は『真宗本廟』になって、『根本道場』になったらしいが、なら、なんで今回の修復作業の時に道場形式にしなかったのだろうか???高倉会館や、専修学院には内陣はないぞ。
 等と、よく考えてみたら、修復作業の時って、俺、もう大谷派に入っててんや。。。今から「やり変えろ!」っちゅうたら、金がかかるのぉ。。。かつ、勿体ないのぉ。。。今ある形を生かして行くしかないか。

 と、まあ、銭湯でボンヤリしながら、んな事を考える。
 いや、今日の最初の仕事は法事だった。私が住職になってからの新しい付き合いの方でして、仏壇の相談をされた時も、「三つ折り本尊というのがありますよ」と、「本町に南御堂という所がありまして、そうです、そうです。御堂会館の奥です。その奥の右手にある建物の二階に上がって『三つ折り本尊を下さい』と言ったら買えますよ」と紹介したら、中陰中に買って来られたわけである。私は、基本「三つ折り本尊さえあればエエ」という意見なので、っちゅうか、個人的道場体験で三つ折り本尊と3つの仏具を置いた場が「御本尊がある場所」という体験をしてたので、「それで十分やんけ」と。仏壇の様な派手さはないけど、信仰上の問題は全くない。
 とはいえ、仏壇が「宗教的ムードを醸し出す」という魅力も知っている。まあ、舞台装置だ。舞台装置は金に余裕があれば買えばエエだけの話である。なくても信仰上は全く問題がない。

 300年後、当然、檀家制度は無くなっているだろう。同時に檀家制度と密接な旧来の身分差別も無くなっているだろう。
 で、これまた、「当然!!!」真宗仏教の教えは続いているはずである。その為に、『今』が問われているわけである。

 と、いう事で、パパはヘロヘロの状態ながら、「ああ、もう、法話サボって読経だけして帰りたいよぉ。。。」という魔に完璧に支配されながら、「アカン、アカン」と法話する。
 ちなみに葬儀からしばらくの法話は、殆どグリーフワークの勧めである。『故人』を『諸仏』として見出していく仕事が真宗のグリーフワークやろ。

 


 『愛が生まれた通夜』なんぞという言葉を思いついたりもするが、まあ、タイトルは別にしよ。

唯一の癒し

2010年07月19日 | 坊主の家計簿
 結構忙しい日が、むっちゃ忙しい日に急遽変更。「ああ、御仕事を頂ける幸福。。。」と、ヒマな寺の住職はシミジミ思ったりする。

 帰宅する。帰宅してからも明日の準備が山程あったのだが、とりあえずメシを食わねばならない。また、娘とのコミュニケーションの時間も少し欲しい。だって「ママ!ママ!」だし。パパ、寂しい。。。なんだが、パパは寺を守りつつ家族を養っていかんとアカンので御仕事、御仕事である。
 で、メシを食べ始めたのが20時。そうなのである。龍馬伝の時間である。娘がガサガサしてたりしてちゃんと見れないのだが、まあ、見る。
 「あ、蒼井優ちゃんや!」と。早速娘に「ほら、蒼井優ちゃんだよ」と紹介するのだが、娘はことみちゃん(NHK教育『いないいないばあっ!)の方が好きみたいである。なのでイマイチ興味を持ってくれなかったのだが、んな事は関係なく、パパは龍馬伝を見る。
 
 見ながらフト思ったんだが、幕末には吉田松陰の所なんぞを筆頭に様々な塾があり、様々な先生が居てた。で、色んな所を訪ねた人も結構おったんだと思う。
 母校・大谷専修学院も過激な道場だが、藩(教団)のものであったりする。教団外から大谷派の僧侶資格を得る為でなく、例えば知ってるだけで浄土宗や、本願寺派からも来られていたが、まあ、藩(教団)のもんである。
 そう考えたりすると、例えば無くなるという噂がある『オモロイ坊主を囲む会』なんぞは脱藩浪士の集まりか(笑)あるいは、ひとつの寺でひとつの教団ぐらいの(以上だったりしたりして。。。)パワーがある應典院(http://www.outenin.com/)なんぞは松下村塾か。
 なんぞと意味なく考えてみたりする。
 いや、ほれ、最後辺りで長州藩と薩摩藩が揉めまんがな。で、その時に坂本龍馬が「日本人同士で争っている場合でないぜよ。そんな事してたら日本は宇宙人に侵略されるぜよ。最早UFOは地球に来とるぜよ。だから次の参議院選にはもう一度党として候補者を立てんとアカンぜよ」とか言ってましたやん。あのシーンを見ながら思ったわけである。

 これはブログに書いたのかどうか憶えていないが、今は宗教の時代ではないかと勝手に思ったりする。坊さんには評判が悪い、悪い割にその実「読んだ事がある人が少ない」、島田氏の『葬式は、要らない』だって、あれは宗教本でっせ。島田氏がなんかの雑誌に「葬式や戒名が象徴的な『こうしなければならない』という固定概念を壊したい」みたいな事をインタビューで答えてあったけど、それって仏教に通じる所がありまんがな。龍樹好きの宮崎氏なんぞが『葬式は、要らない』に関してどういう評価をしているのか知らんが。。。
 また、江戸時代の遺物である檀家制度の中で仏教に出会う人も当然多くいるが、伝統仏教から「離れようとする」「固定概念で決めつけられた事から解放されたい」っちゅうのは、もの凄い宗教精神だと思ったりするのだが。そして、きっと『いわゆる世間の目』や、親族なんぞから批判を喰らったりしながら「伝統的な葬式はしない」っちゅうのは、もの凄く宗教を求めている気がするのだが。だからチャンスだと感じる。
 また、昨今の『癒しブーム』でも、基本にあるのは「癒さなければならない私」であり、道を求めておられるわけだ。高遠氏を含めて。
 自分の言う事を聞くペットを飼うのも、背景には孤独がある。癒しを求めざるを得ない、つまり、宗教を求めざるを得ない『働き』がある。ネットが流行るのも「私を見て」であり、「誰かと通じたい」であり、「何かに触れたい」である。ツイッターなんぞ、その筆頭やろ。あの見事なまでの、まあ、丁寧に書いておられる人も居てるが、多くは「それがどうしてんや」である。「今から朝飯」って、「それがどうしてんや!」なんだが、ヒマな時には読んでしまっている。そして、その人の生活実態に触れる喜びを感じたり出来る。毎日読んでいるツイッターの人で、何宗か解らんが僧侶の方のツイッターなんぞは、自分で「自分が書いている事は下らんし、これを読むのは変態である。」みたいな事を書いてあって、で、確かに、ほぼ、何の意味もない事を書いて居る。しかしながら、すべての言葉の心底には「みんなと一緒に生きたい!」「解り合いたい!」という働きがあると私は勝手に信じているので、ダラダラと「下らん事、書いとるのぉ。。。」と読んだりしているのだが。

 文明が盛んになり、『個人化=孤独化』が進めば進む程、宗教は求められる。人間は、どこまで行っても人間でしかない。
 それが『バー』だろうが、暴走族だろうが、ミクシィのコミュニティーだろうが、2チャンネルの『名無し友達』であろうが。人は人を求める。
 疲れた人は、人間社会から距離を離したがる。あれは距離感の問題である。その距離感が一定を求められるのであれば、しんどいだけである。全く知らん人からタメ口を聞かれたら「はあ?」と典型的「敬語か目下に対する言葉か」の日本人バリバリの私は思ったりする。その距離感の問題で、自分の距離感に適応しない人、あるいは『世間』の距離感に適応出来ない人を『ひきこもり』なんぞと決めつけてしまうのは如何なものなんだろうか?そして、その『ひきこもり』という幻想で、自分すら縛ってしまって「私はダメだ」等と抑圧してしまっているのは一体なんなのだ?

 先日、何を読んでいたのか忘れたが、『無限』という言葉に出会った。
 自他を縛るのは『限り』である。限りが無いから無限である。固定概念からの解放である。


  あたかも牢獄を逃れるごとく
  人はみな自己の前を逃れんとすれども
  世に一つの大いなる奇跡あり
  我は感ず 『いのちみな生きらるべし』
  (リルケ)


『己に願いはなくとも願いをかけられた身だ』(藤元正樹)


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 滅多に飲まないコーヒーを飲んで、栄養ドリンクを2本も飲んだのでテンションが。。。焼酎で下げているのだが。。。

 なので、オマケ。

【信心は自力の心のない百パーセントの信頼です。英語には「信心」にかわる言葉がないのです。だから私は、英語に訳すときには蓮如上人が使われた「安心」という言葉を使います。「心が平和に落ち着いたさま」ということで、英語のピースですね。けれども意味としてはピースを越えています。
 浄土真宗の教えが私に教えてくださったことは、自己をありのままに見ること、ふつうの人間としての私自身を受け入れること、そして、自分の人間らしさと常に接触を保つということです。人がなしうるもっとも偉大なことは、偽りのない自分ーーー限界を背負った弱い存在ーーーに気づくことですね。そのことが真に目覚めることの出発点であると思います。】(ピーター・ライト。東本願寺「真宗会館」の情報誌『プラ・ティ』2010vol.7より)

 『世界でひとつだけの花』は大ヒットした。

【金子みすゞは「みんなちがって みんないい」と歌ったが、その裏にある彼女の苦悩は想像を絶するほど深い。
 しかし、みすゞは、「みんな問題をかかえて生きているんだ」という視点を見つけることで救われ、皆と和解し、人間に差別をみないやさしさを得た。】(蓑輪秀邦『仏教の人間観』真宗2010年7月号142頁より)

縁起の回復

2010年07月17日 | 坊主の家計簿
 共生の慶び。

 ツイッターみたいな感じで、ブログを使ってみたりする。

 コメント、すんまそん。。。そんな状態やないっす。。。


【日ごろのこころにては、往生かなうべからず】


 いや~。。。久々の出会いの中で、見失っていた慶びを発見。
 
 キンチョールは殺虫剤だが、え~。。。気づかんかった所で緊張して生活しててんなぁ。。。

 

   草に すわる

  わたしの まちがひだつた
  わたしのまちがひだつた
  こうして 草にすわれば それがわかる

  (八木重吉)

無二のスピリチュアル・ケア

2010年07月14日 | 坊主の家計簿
 「今週のパパは忙しい」宣言により、ママ、不機嫌。
 ちなみに、昨日は24時30分頃の帰宅。ママ&娘は当然睡眠中。
 本日は19時30分過ぎの帰宅。
 「晩ご飯食べれるのは今日ぐらいしかないかも知れん」と言っていたのだが、ママ、不機嫌。帰宅したらイズミヤ系でよく見かけた198円のバラ寿司(ちらし寿司)が。。。「あんな、これは夜の7時頃から半額になってやなぁ、しかも人気がないから必ず半額になるねんや!」と言いそうになったのだが、不機嫌なママをこれ以上不機嫌にさせても仕方がないので、パソコン仕事をしながら198円のバラ寿司(ちらし寿司)を食べる。若干怒っているので、炒め物は食べなかった。
 
 っちゅうか、帰宅したら、ママと娘の入浴タイムだったので「今日の晩ご飯は?」と聞けなかったので、テーブルに置いてあるものを一人で食ってエエもんか解らんし、今日はすっかり御仕事モードだったので、帰宅して速攻パソコンで御仕事御仕事であって、ママと娘が風呂から出て来ても、止まるわけがなく、ひたすら御仕事御仕事である。
 
 ちなみに、今週は忙しい。月曜日から金曜日まで、朝から晩まで予定がパンパンである。
 んが、これって、ヒマな寺の住職にしては珍しい事であるが、サラリーマンだろうが、バーテンだろうが、工員だろうが、こんなもんである。「晩ご飯食べれるねんやったら電話して来てね」みたいな話も多々ある。娘が早寝だからママも寝てるが、うちはいったん寺の仕事が終わってからの外出なので、娘の顔も見れるし、抱っこも出来る。ただ、今日も、恐らく明日も「少しでエエから脳みそを休憩させてくれ。。。」っちゅう感じになるのだが、世の中の多くのパパよりは非常に恵まれた環境にある。その分、金はないが。。。

 ちなみに、寺でも忙しい所は忙しい。最初に働いた寺は、大真面目に一日平均10時間ぐらい働いていた。『葬式寺』と呼ばれる寺で働いて居られる人達の労働条件は、厳しい場合がある。これは私ではないが、マイカーで一日300キロ(!)走って、ガソリン代も出ずに日当が確か1万3千円という話も聞いたし。思わず、以前に運送業界で働いていたので「運送屋以下やな」と、その旧友に話した事がある。
 なので、これまた『ちなみに』なのであるが、その次、要するに今居る寺の前に働いて居た寺の住職の悪口をいうヤツは許さん。。。なんか違う気もするが、んなもん個人的体験では大恩人である。
 ちなみに、最初に働いていた寺の住職にも今となっては非常に感謝している。だって、最初の半年以上は、どう考えても使い物になれへんかったし。使い物になれへん状態で、散々、月参りや、山程の法事や、かなりの件数の葬儀をやらせて頂いたお陰で、今は経験年数の割には『位牌以外』はベテランでっせ(笑)

 ん?上がったテンションを下げる為に飲み始めた酒が、そろそろ来とるのぉ。。。

 個人的体験。
 個人的経験。
 個人の人生=それぞれの人生。

 ヒマが当たり前だから、当たり前でなくなった時に不機嫌になるのは当然であったりする。だけど私は過去の仕事経験等を振り返りつつ「んなもん、何が『親として失格やねん』」と、ママが冗談まじりで『親として失格』と言った言葉に対して「ムカ!」っとしたりする。そして私を立てる。
 「この暑い中、慣れないネクタイ締めて、スーツ着て仕事しとるねんぞ」と。「それもこれも銭の為やんけ」と。「その銭で」(ここから出来れば大きな声で読んで頂きたい)「お前等を食わしとるねんやんけ!!!」と、横暴パパ。独裁者パパ。忙しい事に対する対象を、テンションが上がっている事を、疲れを、ママと娘に向けてしまったりしている。

 今日は、参加出来なかったが、母校の夏合宿二日目。夜はテーマ座談。今年のテーマは『真実に生きよう』であり、サブタイトルは

 『我ら、深き悲しみに立たん』

 である。

 もう、私の生活は『私は、自己満足にしか立てない』であり、『私は、他人を踏みつけて我が身を立てる』であり、『私は、家族を道具にして我が身を立てる』でしかない。
 それが、我が身の真実である。生活実態である。
 「『生活』という言葉の裏には『死殺』という言葉が隠れている」と、恩師から教えて頂いたが、私の生活の上は血塗れである。
 
 最近、平気で虫を殺すようになった。「娘が」という大義名分で、ママに「殺虫剤買って来て」と頼んで、殺しまくっている。問答無用である。「テメー、うちの娘に何をしようと思ってるねん」と、殺しまくる。「娘の為に」という大義名分が出来たので、平気になって来た。ただ、これも厳密にいうのならば『娘と関係している私』であり、基本は『私が大事』でしかない。その『娘』も非常に固定化された、私にとって「こういう風にあって欲しい」という娘でしかない。同時に「私にとってうっとうしい」である。それを『娘』という言葉を使って罪から逃れようとしているだけの話である。娘を罪逃れの道具にしている。

【誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。】(親鸞)

 という言葉が好きだ。『好きだ』と言ってしまうと怒られそうな気もするのだが、好きなものは仕方がない。『好き』という感情表現で伝えたい言葉なので仕方がない。その言葉が発せられる流れ的に、その次の展開との間の言葉。

 『我ら、深き悲しみに立たん』

 の『我ら』。

 「お前がだけが悪いんじゃ!!!」
 ではなく
 「我ら」



悪人ゆかりの地

2010年07月13日 | 坊主の家計簿
 母校の夏合宿。なんだが、仕事の都合で日帰り。
 様々な刺激を頂いたのだが、その話は『置いといて』、母校は京都・岡崎にある。交通の便が悪い。最寄りの電車駅から徒歩15分(で、行けたっけ?)であり、もしくはバスである。バスなら一本で大阪市内まで帰って来れる電車に乗れるのだが、最寄りの電車駅からなら三条で乗り換えであり、え~。。。帰りが危ない。
 一応、午後10時に今日の予定が終了だったのだが、午後10時からなら、我が家に帰って来れるか微妙である。一番の安全パイは三条、もしくは丸太町までタクシーを使う事なんだが、「それやったら車で行っちゃえ」と、車で出かける。まあ、行きしなだけ阪神高速700円を使っても、結局安上がりだし、何よりも安心である。

 大阪方面から京都市内に行く時には国道一号線を使う。で、国道一号線から堀川通りへ。堀川通りには西本願寺がある。信号待ちで西本願寺前に。なにやら看板に「新撰組ゆかりの地」とかウンタラかんたら。車は堀川丸太町で右折して岡崎方面へ。途中『黒谷さん』っちゅう名前で有名な寺の看板に、これまた「新撰組ゆかりの地」とかウンタラかんたら。
 「ん?」と、疑問に思う。「これって、『第6師団ゆかりの地』って、書いてあるのと変わらんよなぁ。。。」と。ちなみに東本願寺は確かめていない。
 
 んが、まあ、『第6師団(別に他でもエエのだが)ゆかりの地』と書いてあっても別にエエ、っちゅうたらエエんだが、やっぱし印象が違いまんがな。まあ、同じ『軍隊』なんだし、殺戮集団である事には変わりがない。でも、印象が違う。少なくとも私の中では印象が違う。『第6師団ゆかりの地』と書いてあるのならば、「戦争協力をした事を反省しとらんのか?」なんだが、『新撰組ゆかりの地』ならば、「おお、『新撰組ゆかりの地』という事で観光客に入って来てもらって、そこで多少でも仏教に触れてもらったらエエ話やのぉ。。。」になったりする。
 でも、まあ、同じやんけ。

 昨日、選挙報道を見つつ、飽きたので録画していた龍馬伝を見る。岡田以蔵が殺された。
 と、まあ、『岡田以蔵が殺された』と書いてしまう。武市半平太よりも岡田以蔵に私は感情移入してしまう。ちなみに、以前読んだ小説では武市半平太から毒まんじゅうを渡された=武市半平太から見捨てられた→自白した、みたいな流れだったと思うので。「へっへっへっへ。。。武市さんよ。あんただって俺と同じ赤い血が流れてるんだろ」みたいな感じで、武市半平太に使われて見捨てられる岡田以蔵に感情移入してしまったりする。
 で、理由は様々なんだろうが、岡田以蔵も結構人気があると思ったりするのだが。
 岡田以蔵は人殺しである。理由は様々であれ、人殺しである。なんせ『人斬り以蔵』である。

 録画して見ていないのだが、土曜だったかな?NHKで永山則夫の番組をやってた。永山則夫も岡田以蔵と同じやろ。

 千葉法務大臣が落選した。一説によると原因のひとつに千葉法務大臣が死刑に反対であるからである、という説があるらしい。

 山内容堂や後藤象二郎が千葉法務大臣であって、「以蔵、お前の死罪を許してやろう」とか言ったなら、それこそ御涙頂戴物語ではないのか?「死罪は出て居るが、死罪を断行するには私の許可がいる。私はお前の斬首の許可を絶対にしない」等と云ってたら、御涙頂戴物語であって、それこそ「容堂公は名君じゃ」と。昨日の放送でそういうシーンがあれば、涙無くしては見れない名シーンではないのか?それこそ、幕末の美談として語り継がれる話ではないのか?
 だが、現実には「以蔵を殺せ!」であり、「首謀者の半平太を殺せ!」と、死刑賛成の意見が多いみたいである。

 そういうのは『ご都合主義』ではないのか?死刑賛成派なら、「以蔵を殺せ!」であり、「半平太を殺せ!」である。しかし、過去の事であり、その素性を知れば知る程、その死に、殺される事に対して涙する。
 「遺族の気持ちを考えろ!」であるのならば、以蔵に殺された人達の遺族は龍馬伝には出て来なかったはずであるが、半平太が首謀者となって殺した吉田東洋を義理の叔父に持つ後藤象二郎は龍馬伝では『なんとなく悪役』であったりする。
 「吐け!お前が東洋様を殺したのだろう!」と以蔵を厳しく虐待し、半平太に強く迫り、嘘の証言で「俺が吉田東洋を殺した」と言った坂本龍馬を殺そうとした立場に、「そうや、後藤象二郎。お前がどれだけ悔しい思いをしたのか」と。坂本龍馬や、テレビの向こうで半平太や以蔵に感情移入している人達に対して「遺族感情を考えろ!俺の気持ちを考えろ!」と。
 しかし、龍馬伝では『なんとなく悪役』である。これは死刑賛成派の人達を悪役にしてしまっている『立場』の人達と変わらん。

 新撰組も第6師団(別に他でもエエのだが。。。)も戦闘部隊であり、殺人集団である。でも、イメージが変わって来る。新撰組がイヤなら奇兵隊でもエエ。『奇兵隊ゆかりの地』と書かれた平和を願う寺でもエエ。

 平和を願う、平和ボケかも知らんが、死刑反対であり、戦争反対の平和ボケの寺に、

「敵を恨むな、敵を討つな、復讐の連鎖を絶て」

 という法然上人の伝統をくむ、浄土宗、浄土真宗の寺に、デカデカと『新撰組ゆかりの地』みたいな事が書かれてあった。

【「仏心とはなにか。たとえば殺人を犯した人がいたとする。真の仏心とは、殺された人の立場にたって殺人者をにくむことではない。むしろその逆である。殺人者に、君、からだは大切にしなさいよ、と声をかけることである。」】(花山信勝氏 但し『中公文庫 小林弘忠 巣鴨プリズン 187ページより)

♪ぐるぐる、ぐるぐる、どっかーん

2010年07月11日 | 坊主の家計簿
 元所属寺の『仏青みたいなもん』に行く。
 子育ての先輩に怒られる。
 いや、

 ♪ぐるぐる、ぐるぐる、どっかーん

 ですやん。あれが出来ない。「42にもなったエエ中年がなんで『♪ぐるぐる、ぐるぐる、どっかーん』をやらんとアカンねん」という気分なんだが、1つ年上で、1つ年上の子どもを持つ、つまり『子どもが出来た時はタメ年』の先輩から、「そら『♪ぐるぐる、ぐるぐる、どっかーん』を一緒にやらんとアカンで」と怒られる。
 う~ん。。。

 しかしながらよく考えてみると、現実としてはあり得ない話なんだが、20代前半で子どもが産まれていたとしても

 ♪ぐるぐる、ぐるぐる、どっかーん

 は出来なかったであろう。
 「なんで、パンクスが『♪ぐるぐる、ぐるぐる、どっかーん』なんて子ども騙しの事をせなアカンねん」と。っちゅうか、子ども番組を見ながら「この、子ども騙しが」と言ったらママから「何をいうてるねん。この子は子どもや」と。
 そうか。。。子どもには「議員定数削減は危ないでっせ」っちゅう報道特集よりも、っちゅうか、結局『♪ぐるぐる、ぐるぐる、どっかーん』を見てもうたからちゃんと見れなかったが、まあ、報道特集よりも『♪ぐるぐる、ぐるぐる、どっかーん』の方が大切なんだろう。そして、私が子どもと一緒に生きる以上、私は報道特集ではなく『♪ぐるぐる、ぐるぐる、どっかーん』を見なければならないのであろう。。。

 う~ん。。。難しく、面白い。。。

 しゃて、元所属寺の『仏青みたいなもん』は「最近の私」という事で話す会である。要するに「マスター、ちょっと聞いてえや」の会である。なので、今回の私の発表(?)は『♪ぐるぐる、ぐるぐる、どっかーん』である。
 
 いや~。。。やっちまいました。人生、初体験。初の『財布を取られる』っちゅう体験。
 なんだが、原因は

 1 私が酔っぱらい過ぎ
 2 終電でさっさと帰れ
 3 終電がなくなったらタクシーで帰れ

 なんがだ、『♪ぐるぐる、ぐるぐる、どっかーん』状態になってしまって、道で寝てしまったからである。数年間はそんな事はなかったのだが、最近、結構道で寝てしまう事が多々あって、んが、道で爆睡してしまう事はなかったのだが、今回は結構(4時間以上)寝てしまって、で、起きたら財布が無くなってた。。。ああ、これは30代前半以来振りである。まあ、あの時は財布ではなく、鞄を取られたのだが。。。ちなみに被害金額は今回

 1 現金5000円以内(覚えているわけがない)
 2 ヤマダ電気のポイントカード(5000円ぐらい)

 である。カードは保険が利くらしく、なにやら1万5千円使われていたらしいのだがクリアー。
 でも、合計2万5千円なんだが、コンビニでカードで買い物したら、思いっきり映像残っとるぞ。リスクの高いしのぎやのぉ。。。

 まあ、これで今月の小遣いが「く、くるしい。。。」なんだが、まあ、生きとるし。

 んが、これは他の事で頭が結構一杯いっぱいだから、まあ、たいして落ち込む事も出来ないのであって、落ち込む気分的余裕があれば、「ああ、俺はなんてダメ人間なんだ。。。」なんぞと落ち込めたりもするのだろうが、まあ「なんとかなる」っちゅう範囲であって、っちゅうか、人生究極に腹をくくれば「なんとかなる」なんだろうが、今回はそんな大した事ではなく「パパの小遣いが。。。」っちゅう程度であったからなんだが、やはりそれ以上に「他の事で頭パンパンでおますわ」である。

 しゃて、選挙である。今日、移動中のカーラジオでハイヒール・モモコが語っていた事なんだが、「サッカーの日本代表選手の名前は覚えたけど、今回の選挙の人の名前は覚えられへんかった」と。
 確かにそうである。私もモモコ程忙しくはなかったであろうが、結構バタバタしていたので、比例代表の名前に「駒野」と書いてしまうそうである。決して「本田」でも「遠藤」でもなく「駒野」という辺りが個人的関心で誇りたい部分ではあるのだが、ん?まあ、正直「誰が出るねん」であったりもする。幸い、昔関係あった人が出たりするし、「まあ、あの人に入れといたろ」みたいな気分もあり、選挙区では特に支持政党はないのだが、「支持政党がないからこの政党に入れとこ」っちゅう政党の候補者に投票しようかと考えている。
 ちなみに、弱小政党であって、「まあ、当選はしないであろう」という候補者であっても、それは誰しもが「当選しないであろう」という幻想に縛られている事も問題であるような気がしたりする。よって、やはり投票したい人に、もしくは「まあ、こいつでもエエか」という候補者に投票せんとアカンと思う。別に馬券買ってるわけやないねんし。

 さて、最近注目のドラマ、この夏(?)からの注目ドラマは崖っぷちのエリーである。西原理恵子原作である。「最下位には最下位 の戦い方があるじゃ!」である。見ていない人は絶対に見た方がエエ。特に貧乏人とか、路上生活者に対して無条件に哀れみを覚えてしまう人は絶対に見た方がエエ。
 アウトローを含めたアウトサイダーに対して無条件に哀れみを覚えてしまう人は絶対に見た方がエエ。
 人生は

 ♪ぐるぐる、ぐるぐる、どっかーん

 やぞ。

 崖っぷちのエリーの初回では主人公が5万円欲しさにタバスコ6本入りのトマトジュースをジョッキで飲むシーンがあった。美しいシーンである。生きんとアカンのや。

 プライドでメシが食えるわけもない。
 テメーのプライドでは、娘と一緒に生活出来ん。

 選挙は馬券を買うのではない。当たり馬券を欲しさに当選の倍率が高い候補者に投票するものではない。ならば、最初から勝ち負けが決まったものである。大政党が圧倒的に優位な選挙戦の中で、投票者がそんな事に便乗しなければならない筋合いは一切ない。

 勝ち馬に乗る。
 負ける事を恐れる。
 プライドが高い。

 カイコの中のマユ人間。