坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

ド底辺俺ハフハフ「ラーメン旨いっ!」ハフハフ

2014年01月15日 | 坊主の家計簿
ド底辺俺ハフハフ「ラーメン旨いっ!」ハフハフ : 暇人\(^o^)/速報 http://himasoku.com/archives/51826128.html

「何を食べても美味しい」と感じられるような人生。
無欲というか、少欲知足というか、感謝の毎日。何事にでも「ありがとう」といえる様な心境。
当然、凄く大事。

宗教体験というか、別にいわゆる「宗教」と呼ばれている事だけではなく、そういう体験、心境の体験をした人は多いと思う。天地自然との一体感でもイイ。「いま、ここに、生かされている」的な。

でも、それだけで終ったら、真宗仏教は歴史に必要なかったかも。そういう体験があった人も無かった人も共に救われて行く道が真宗仏教だと思う。

感動する。
「生かさせれている」的な感動。でも、欲がまた出る。
煩悩は煩悩だから肯定はしない。グルメを肯定はしないけど、何を食べても美味しいと感じ、何を食べても感謝出来るような立派な人には、ある意味、真宗の救いは必要ないかも。

欲が出る。「ああ、世界って、こんなに素晴らしいんだ」と、生きているだけの、ただ、生きているだけの事で感動出来る経験・心境から、やはり、離れる。

宗教体験による差別の否定。
あ、別に心境でもなんでもいいんだろうけど。
体験に溺れる事なく、体験から人を見下すのではなく。

迷いに帰る。つか、迷ってるし。事実、迷ってる。
何か体験すれば、その体験から人を裁き見下してしまう。「え?私、そんなことないし」って、まあ、そんな人も居ているのかも知れないけど、でも、殆どは単にそういう自分を見つめたくないだけなのでは?

真宗仏教という歩み。深まる歩み。深まるのは迷いが深まる。迷っている、欲がバンバンに出て来る自分を、傲慢極りない自分。
いや、「われら」。
自他を裁くのではなく、裁く権利を勝ち取って行くのではなく、迷いの煩悩具足の凡夫に帰り続ける。「いや、同じやって」って。

何を食べても美味しいと感じられる人、ある意味宗教的天才も、そう感じられない人も。

天地自然との一体感。
共に煩悩具足の煩悩のわれらとしての、自立と連帯。

前双葉町長・岩本忠夫氏

2014年01月14日 | 坊主の家計簿
【「原子力には期待もし、そこに『大きな賭け』をしている。『間違ってはならない賭け』をこれからも続けていきたい。
(中略)
岩本氏は人工透析を週2回受けていたが、長男の久人さん一家と避難を強いられた。当初、南相馬市の避難所にいた頃は、ニュースを見ながら「東電、何やってんだ」と怒り、「町民のみんなに『ご苦労さん』と声をかけてやりたい」と話していたという。だが、次第に認知症の症状が表れる。3月末に福島市のアパートに移ってからは「ここはどこだ」「家に帰っぺ」と繰り返すようになっていった。】

http://onand.under.jp/genpatsu/index.php?%A3%B7%B7%EE%A3%B1%A3%B5%C6%FC%B8%E1%C1%B0%A3%B5%BB%FE%A1%A3%B4%E4%CB%DC%C3%E9%C9%D7%A1%A6%C1%B0%CA%A1%C5%E7%B8%A9%C1%D0%CD%D5%C4%AE%C4%B9%A4%CF%CA%A1%C5%E7%BB%D4%A4%CE%C9%C2%B1%A1%A4%C7%A1%C4



双葉地方原発反対同盟委員長だった歴史を持つ前双葉町長・岩本忠夫氏の福島第一原発事故以降の気持ちって物凄い壮絶やったやろなぁ…。その間の発言も聞いてみたかった気もするけど、認知症で楽になれて良かったとも思う。

アビタ

2014年01月12日 | 坊主の家計簿
国際賞受賞、福島の子ども描いたアニメ
http://yahoo.jp/6f7-gj #videotopics


ところで「ウラン映画祭」でググってもそんなに出て来ないんだが。他にもっと有名な国際映画祭で受賞したのかな?

過去に受賞した日本作品があってその時は「マスゴミ(あえて)」に報道されたけど、今回は報道されなかったというのなら「マスゴミはなぜ報道しない!」に説得力はあるし、世界的に有名な映画祭での受賞ならわかるけど、それでなきゃ単なるカルトの妄想。

悪衆生

2014年01月12日 | 坊主の家計簿
明日の法事は邪見驕慢悪衆生でやってみようか?と思いつつ軽くググる。あ、この言葉ええわ。つか、明日、多分成人式やし、成人式と掛け合わせて話そ。


【つまり、浄土真宗門徒にとって最もポピュラーな正信偈は、悪衆生が悪衆生でなくなるというのでも、善衆生になるというのではなく、悪衆生のままの救いが説かれてあるということです。
それは、絶望したらダメなんじゃなくて絶望したまま、悲しみを悲しませなくするのではなく悲しみを抱えたまま、生きていける、よろこんでいける、それがこの偈に顕されている、ということでしょうか。そのような勝手な了解から、今月の掲示板に

ナムアミダブツは
悲しみや絶望を排除する呪文ではない
悲しみや絶望を抱えたまま生きていける智慧です

と書いてみたのでありました。
絶望してもいい。悲しんでもいい。
絶望を抱えたまま生きていける。悲しみを抱えたままの「生」をよろこんでいける。悲しみをなくすのではなく、堂々と絶望し、堂々と悲しんでいける教えが仏の教え、仏教であることを知られたとき、絶望や悲しみから離れることしか考えない無明の私がはっきりする。】

http://ryoten.blog.ocn.ne.jp/jyosyoji/2012/06/post_16c2.html より

寄り添う

2014年01月11日 | 坊主の家計簿
「被害者に寄り添う」「弱者に寄り添う」「悲しみに寄り添う」まあ、何でもええわ。
んじゃ、犯罪被害者遺族と一緒になって加害者の死刑を訴えるのか?
で、死刑囚になったら今度は「国家から殺されようとしている」と、死刑囚の側に立つ。

え~と、そんなもんなんかな?被害者、弱者、悲しみって、そんなもんなん?

罪の自覚って、んなもんなん?

ドラッパ・リロイ太郎

2014年01月10日 | 坊主の家計簿
今日のアメトークすげぇ!
書き起こし面倒なのでググる。

【「私は子供の時、母が愛せなかった。日本人は白い肌をしていて、私の友達も白い肌をしていた。でも自分だけお母さんのせいで黒い肌をしていると思っていて、母を愛せなかった。」
「でも、今は自分自身も亡くなった母も愛していると言える。」
「みんな、ありがとう。」】

http://saishin-geino-news.com/archives/5241

14 Sweet Home 生野 ヘンリー松山 with A.G.浜田 20131129

2014年01月08日 | 坊主の家計簿
土着。

新潟に行った時に、駅の本屋で地元本を探してたら「新潟の方言」みたいな本があった。チラホラ立読みすると「新潟言葉も忘れられるようになった」云々かんぬん。

昔、関西は畿内であった。都の近くであった。故に「東北」だったり「北陸」であったり「鎮西」だったり。

でも今は東京。首都圏。謎の山手言葉やったかな?の標準語。東京の下町言葉でなく標準語。

日本の統一っていつ完成したんだろ。つか、まだその途中だったりする。はず。

宗祖親鸞聖人750回忌の時に企画した(全部ボツw)になったイベント。東本願寺ファッションショーという、後に築地本願寺でやったのも企画してんけど、先にやられてもうた(笑)
その中で、全国各地の正信偈というのもあった。全国各地の正信偈をその日だけは勤める。そして、その正信偈をネットでも境内でも聴けるようにする。
だって、正信偈も標準語化されつつあるやん。

私も声明の先生から「あなたは地元に帰ったら、正信偈の訛りをなおして行って下さいね」と言われたけど、速攻無視(笑)だって、親鸞がそんな事をしたとは思えない。

親鸞だっぺ。というのを茨城親鸞ツアーの時に感じた。電車に乗ってたら車内で携帯で「だっぺ」で喋ってた人が居てて、親鸞も恐らく「だっぺ」と。茨城言葉の親鸞やろ。新潟時代は新潟言葉やろうし。それが親鸞やろ。唯円に「あなた訛ってないですか?もっと綺麗な言葉を使いましょう。ほほほほ!」というような親鸞なら殴り殺せばイイだけの話。簀巻きにして筑波山に埋めるとか、鹿島沖から黒潮に流せばイイだけの話。そんな親鸞なんか要らん。

土着。
私も地元では居ずらかったタイプ。故にミナミに出て楽になったタイプ。

土着って、結局、個人。それぞれの個人。
大阪で産まれたからと行ってもお笑いが苦手な人も居てるし、別に話にオチを付けなければならない必要もない。存在の大地に足を着けるのが土着。


♪ねえ
帰りたくないかい
ねえ
帰りたくないかい
俺たちが産まれた
あの浄土へ


あ、ヘンリーさん、勝手に歌詞弄ってゴメンね。でも、そんな話やし。つか、今は真宗門徒やね(笑)
金城実よりも、知花昌一よりも、ヘンリー松山の方が真宗門徒ポイねんけど、まあ、唯念佛やし、あくまでも個人の好みね。念佛は念佛やし。


14 Sweet Home 生野 ヘンリー松山 with A.G.浜田 20131129

やしきたかじん

2014年01月08日 | 坊主の家計簿
「上沼恵美子とやしきたかじんが居てる限り大阪に未来はない」というのが私の持論である。
理由は単純で、この二人の主な芸風は東京をこき下ろして「大阪最高!」と、関ヶ原以降の大阪の恨みを成仏(仏教的意味でなくw)させる事を目的としており、もう、聞くに耐えないぐらいのレベル。
その片割れのやしきたかじん死去により、大阪に未来が見えた。これからますます大阪の東京化が進み、「大阪のヤツは東京行っても大阪弁で押し切りよる」という風潮もなくなり、なんば花月の舞台でも標準語が使われるようになり、「アホボケカス殺すぞ死ね」という意訳すると「あなたを愛してるます」という言葉を使う事も躊躇されるようになり、「アホなガキは殴らんと分からんやろ!」という事が問題になり学校からは体罰がなくなるであろう。そして、芸人が死んで笑ってたら「まあ、あの人は人が死んだのに悲しみもせず笑のネタにしてるわ」などと、所詮他人が死んで全く悲しくないにも関わらず「悲しまないとダメ!」「良い子になれない!」という風潮が大阪でも標準化されるのであろう。

ケ!
大阪は一向一揆の町じゃ。大阪には大阪ノリの真宗があるんだよ。京都や北陸のノリに従う筋合いなんかあるかボケ!



田母神俊雄氏が都知事立候補表明 選対本部長は「チャンネル桜」水島氏

2014年01月07日 | 坊主の家計簿
: J-CASTニュース
http://www.j-cast.com/2014/01/07193587.html

東京オリンピックの開会式をチャンネル桜の人が仕切れば物凄いものが出来上がるやろなぁ…。

まあ、大丈夫だとは思うけど、しばらく前までは石原都知事だった東京だし、山本太郎を当選させた東京やからなぁ…(大阪の事には触れないで下さい)

オネガイダカラ スグキテオクレヨ

2014年01月01日 | 坊主の家計簿
 

 今年の年賀状は池山先生の言葉。

  一心正念直来
  オネガイダカラ スグキテオクレヨ

 浄土往生。
 浄土往生といっても、んなもんは「私」が私に成れる世界。その為の行が念仏。愚者の自覚。


【私の専修学院での学びは、凡夫という言葉を中心に始まりました。しかし学院は生活学習の場ですから、そこで繰り広げられる私の意識生活は、その凡夫の身を裏切る自尊心との格闘でもありました。それは今日も、今も、続いています。そうした事実と思いのぶつかる日々の生活の中で、それでもここに身を置いていることの支えとしている言葉があります。それは信國先生が大病を患われた晩年のころだったのではないかと思いますが、授業で法然上人の『一枚起請文』(真宗聖典九六二頁)を取り上げられて
 「ここに『一文不知の愚どんの身になして』とあるでしょう。この『なして』という日本語は、意思をあらわす言葉です。意思して、愚鈍の身になるのです。」
 と、強い口調でおっしゃいました。「意思して、なる」。いつのまにか、如来回向とか、本願他力という教学用語を自分勝手にとりこんで、仏法を自動起床装置であるかのように錯覚する腑抜けた信仰理解にまどろんでいる私どもに、「目覚めよ」と命じる一言でした。
 凡夫とは、意思して凡夫にならなければ、自分が凡夫の身を生きていることに気付けないものです。その凡夫への意思を私どもに喚び起こす強い力が、如来の本願です。】(狐野秀存『共に是れ凡夫ならくのみ』より)


 賢者。インテリでも良いし、インテリ志向でも良い。「世間ウケする自分になりたい!」という事。だから、自分を他人を裁き続ける。苦の再生産を続ける。
 その事は世間では当然の事。だから「世間は虚仮であり、ただ仏のみ真」という言葉。

 といっても、狐野先生も書かれているが、自尊心との格闘。だから竹中先生は「念仏は自我との格闘技」であると。
 もう、絶対に、100%、必ず、そうなる。自尊心を立てる。絶対に立てる。何をやっていても必ず立てる。

 だから唯円は歎異抄を書いた。書かざるを得なかった。同じ仲間が落ちぶれて行く、インテリ化して行く姿、賢者になる道、自他を裁く事を是とする事に「ん?親鸞聖人ってそんな事、言ってたっけ?」と。「ちと、ガキやな。勉強せえ」と。

 他宗は知らんが、真宗門徒の勉強って、愚者に還る為のものではないのか?自分に出会うといってもいい。賢者になろうとしている姿を仏語によって指摘される。この場合の「仏語」は本願念仏に生きて居られる方々の言葉。

 学校の勉強なら成績がある。優劣があり、知識の多い少ないがある。「そんな事も知らないの?」的な。
 (笑)「知らないの?」って、なして、どうでもイイ事を知らなければならないのか?なぜ、どうでもイイ事を知らない事を恥と感じる必要があるのか?

 まあ、どうでもイイ事だから人を裁けるのだろうけど。本当に大切な真宗仏教の教えに「教えを知らなければ浄土往生出来ない」ってあったっけ?蓮如でも信心だろ?本願のいわれだろ?

 仏教学。まあ、裏便利。側面から真宗を見る事が出来るし、便利なもんだ。説明するには言葉は多い方がいいから、便利便利。でも、そんな事を知らなくても念仏は申せるし、浄土往生は出来る。
 真宗学も同じようなもんか。それが自分から浮いた「学」になれば。つか、なんだってそうか。

 当然、上っ面の言葉だけでは判断出来ない。だって、照れ屋なら学問用語を並べるだけの人も居てるし。また、そういう状況もあるし。

 そういや、この前に結構年下の大学院か博士課程か忘れたけど、まあ、ホープが居た。結構酔っぱらっていたので「頼むで!」と。「ちゃんと勉強教えてや」と。だって、私より圧倒的にそいつの方が真宗教学を学んでいるし。真宗聖典も読んでいる。信心に価値がないなら、そら教学を沢山知ってて教えてくれる人の方が「便利」やもん。別に生き方までは、今のそいつに訪ねたいとは思わんが。

 ん?何の話や。そやそや、浄土往生や。

 何の為の真宗学なのか。んなもん、自己をあきらかにする。漢字なら、明らか、だろうし、証らか、か。

 クリスマス記念に今年も福音書の言葉を貼った。


【「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」】(マタイ6章25~34)


 20代前半の時にこの言葉を「あなたが『今』生きているという事を、あなたは何故『今』感じる事ができないのか?」と受け取った。
 今となっては上記聖書の言葉に不満もある。「いやいや、それだけやおまへんがな。そう言い切られへん所で、みんな情けなく同じでんがな」と。
 ただ、求道の歴史。

 それは別に、いわゆる宗教書だけではない。感動する言葉は、歌詞にもある。歌詞という言葉。

 教師修練の時に、聞いている私は「はあ?」だったけど、蕎麦屋で何かの言葉に出会われた感動を法話で喋っていた先生も居られた。その時は「何や、このおっさん」でしかなかったけど、今は少なくとも、「蕎麦屋で出会った人からも大切な教えを聞く事が出来る」という事を教えてくれたから、先生と。

 ん?何の話や。まあ、ええわ。

 求道なんて人それぞれでしかない。課題も人それぞれでしかない。
 そのなかで、それぞれの方法で道を歩いて行けば良いだけの話だし、実際に歩いている。

 私は「もっと気合いを入れんかい!」という方に共感しやすいタイプ(個性)なので、そういう言葉に引かれやすい。だから強い言葉に魅かれたりする。当然、そんなもんはその時の気分でしかないけど。

 でも、場に座る。本尊の前に座る。念仏申す。そして、本願念仏の歴史に参加する。その中で色々な言葉との出会いもあるし、人間との出会いもある。それだけでいい、というか、それ以上、まあ、求めざるを得ない人は求めていれば良いだけの話。
 先の狐野先生の言葉も、狐野先生の出会い方。狐野先生の出会い方が正解であるわけもない。三願転入は親鸞の出会い方。なして、生身の今生きている人間が、その「マニュアル」に合わせなければならない。