坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

今日書いた事

2020年07月26日 | 坊主の家計簿
「困った人ではなく、困っている人」という言葉を最近ネットで見た。元知的障がい者施設職員としては当たり前の話。

ふと、植松氏が私受持の利用者だと想像する。彼を「困った人」というのならば、私は施設職員として失格だ。
コメント

四年前に書いた事

2020年07月26日 | 坊主の家計簿


 この写真は知的障がい者施設で働く私の腕である。以前も書いたが私の腕は比較的綺麗な方であって、例えば4月から来た新人さんの腕は私の十倍以上の引っ掻き傷がある。
 なぜこの様な傷が出来るかというと、一番最近出来た傷は突然引っ掻かれたが、一番多いパターンは、暴れ出した利用者さんが他の利用者さんに振るう暴力の盾になるから。言葉や促しや、手を引っ張ったりしてよそに行ってくれる人はイイのだが、向かって来る利用者さんが居たり、全く動こうとしない利用者さんが居た場合は盾になって利用者さんを暴力から守らないといけない。
 暴れる利用者さんを抑え込む事を「身体拘束」というが、この身体拘束は基本、「やってはいけない事」になっている。言い方を変えると、簡単にしてはいけない事である。「あ、暴れたな。身体拘束ね。」は虐待に繋がる。身体拘束の中には居室に閉じ込めるという事も入る。障がい者虐待防止法では緊急時の場合は許されるらしいが、まあ、ほぼ、全ての施設で隔離は行っていないのではないかと思われる。それよりも、「盾になれ」と。
 昔、知的障がい者は座敷牢に閉じ込められていた。その事によって他人への暴力は阻止出来る。「でも、それって人間としてオカシイやん。」からの流れで今の施設があるわけであって、故に全国各地の知的障がい者施設で働く人たちの多くは盾になって利用者さんからの暴力を日々当然の事として受けている。ある意味、金銭を受け取っているが故に人権がないのが私の様な末端の施設職員である。

 今日起った悲惨な事件の施設も私が働く施設と同じく最重度の知的障がい者を受け入れているらしい。故に、容疑者の彼も恐らく毎日の様に叩かれ引っ掻かれ噛み付かれ等の暴力を受けていただろう。

 施設職員と利用者さんとの間には、当然、人間と人間なので相性がある。例えば、今日もある先輩がトイレ誘導しても小便が出なかったが、直後に私がトイレ誘導すると出る。そんなもんだ。先輩後輩関係なく。
容疑者の彼はどうだったのだろうか?養護学校の教員を目指していたという情報もある事から察するに当初は熱い気持ちで施設職員になったのではないのだろうか?だが、利用者さんとの関係が思い通りに行かなくて苦しんでいたのではないだろうか?そして、その分だけ散々暴力を受けたのではないだろうか?そういう日々のストレスの積み重ねが、彼を容疑者にしてしまってのではないだろうか?

 彼が衆議院議長に送った手紙の中に「施設で働いている職員の生気の欠けた瞳」とあるが、それは彼自身の事ではないのか?
 彼の手紙の中には施設に居た利用者さんや保護者への愛も感じられる。ただ、その愛の形が利用者さんや保護者にとっては「大きな迷惑」以外の何物でもなかった。

 オウム真理教のテロ事件も彼らの宗教観の中では慈悲の行動であった。ただ、被害者にとっては大きなお世話の大迷惑でしかなかった。
 安楽死なんかとんでもない。だが、彼を追い詰めた恐らく大きな要因である最重度の知的障がい者施設で安月給で働く労働者が毎日どれ程の暴力を利用者さんの人権を護る為に受けているのか?彼を一方的な「悪魔」とし、死刑という安楽死をされるのではなく、彼の苦しみの一端でも理解しようとするべきではないのだろうか?

 今日の仕事は9時45分からだった。8時30分から始まる朝の引継ぎには当然出る事が出来なかったが、引継ぎでもその話題で持ちきりだったそうだ。私みたいな一年に満たない新米職員でも同じ現場、かつ、元とはいえ同じ施設職員が起こしたであろう大量殺人であるが故に大きな衝撃を受けている。上司になればなる程、職員教育の事も含めて大きな衝撃を受けているだろう。

 だが、これだけ大きな事件にも関わらず、この事件はすぐに忘れさられそうな気がする。
 名前も顔写真も出ない(出せない)犠牲者。顔を見る事、名前を見る事によって感情移入出来る部分が多々あり、性別と年齢という記号でしか出て来ない。19人という記号でしか出て来ない。まあ、これは今後ジャーナリストが名前や写真は親族がイヤがるプライバシーの侵害に当たるとしても、個別にどういう人であったのか?が出て来るだろう。ただ、それを読むのは、少数か。非常に残念だが、殺された被害者は「施設内」の人であったが故に、「私たちとは違う」という意識もどこかであるだろう。それは、殺人事件を起して「施設内」で殺される(死刑)人たちに対する意識とリンクする。

 明日は早番で7時出勤。一番の暴れん坊は切れ痔で御機嫌ナナメで、明日も多分暴れるのだろう。そして、多分、叩かれるのだろう。
 障がい者は、社会的に問題になるが故にただ単なる「個性」とは呼ばれずに「障がい者」と呼ばれ、その中でも家族も含めた地域社会だけでは面倒が見切れないような「厄介者(あえて)」であるが故に施設に入り、そして、私の生活が成り立っている。私の生活にとっての大切な、顔の見える「お陰様」である。
 だが、正直、一番の暴れん坊が帰省して居ない日の仕事は、もう、それだけで仕事の疲れが半分になる。当然他にも「迷惑(あえて)」な利用者さんが多くいるが、彼が居ないだけで、本当、楽になる。でも、それって、ある意味、その利用者さんの安楽死を願っているわけだ。

 南無阿弥陀仏。

 容疑者の彼のツイッター、2015年6月9日のツイートに「尊敬する人、阿弥陀如来君」とある。
 私は容疑者の彼が起こした事件によって、自分の支援の在り方、心持の在り方を慚愧する。お陰様を踏み躙るような私でしかない。それが故に、明日からの支援の力になる。正直、馴れてしまって雑になっている部分も多々ある。が、「んじゃ、共に生きるって何よ。縁起って、何よ」と。ごめんなさい、と。

 容疑者の彼はこれから恐らく一生涯隔離される。隔離されている中で、彼から「ごめんなさい」と聞けるのだろうか?いや、それは彼の人権を蹂躙している。今も彼の心の奥底では悲鳴を上げているのだろう。
コメント

人が考える事

2020年07月24日 | 坊主の家計簿
優生思想って、

・人助けする人は貴い。
・どんな苦しい困難や病気や障害があっても生きている人は貴い。

的な事も優生思想に含めて考えないと魔境に陥ると思う。

言い方を変えると

・人を見捨てる人を穢れにしない。
・自暴自棄になったり、自殺する人を穢れにしない。

共に御縁だと思う。
コメント

雨に濡れる

2020年06月25日 | 坊主の家計簿
家賃支払いの為に不動産屋へ。ついでに少し離れた激安スーパーで買物してたら雨が降り出していた。外出時から降り出しそうだったから鞄の中から折畳み傘を取り出して、雨に濡れながら自転車で帰宅していたら、なんかこの「雨に濡れる」という感覚が懐かしく思えた。

最後の仕事は岩手県で寺の用務員だった。法務も少し手伝っていたけど、メインの仕事は朝からツナギ服を着て、草刈機なり、ナタとノコギリなどを腰に差して境内整備。最初から雨が降っていたらカッパを着ての作業。でも、カッパは暑いから「危ないかな?」程度ならツナギ服で作業。そして、家から離れた所での作業時に急に降り出すとズブ濡れになる。そんな屋外仕事。

坊さん時代は雨でも傘をさして自転車で御参りしていた。
工場などで働いていた時は職場まで自転車だったり。
そんな雨に濡れる。

抗うつ剤を飲み始めて9日目かな?効いて来るまで2週間程度かかるらしいから、まだ調子は変わらない。効いて来て、何とかなれば何かの仕事もしたいし、そうすると、また雨に濡れる。ズボンが濡れてピッチリしたりする、あのイヤな感覚。でも、今は懐かしい。働く為、生きる為に雨に濡れる。引き篭もらずに雨に濡れる。
コメント

抗うつ剤

2020年06月18日 | 坊主の家計簿
抗うつ剤というものを始めて飲むと眼がシャキーン!として落着きなくひたすら部屋掃除をするようなものだと思っていたら全然違って(当然冗談です)医師曰く「効果が出るまで1〜2週間かかります」との事で、昨晩から服薬を始めての今の感想としては、とりあえず眠い。けど、寝れない。あと、胃が重い。

診察?は、内科や歯科とは違って、社会に出てからの事を聞かれた。予想もして居なかったし、通院出来る程度には回復したとはいえ、頭がボケボケなので、「一番長い仕事は水商売」と言った後に、僧侶学校に行った事を話していたら「あ、そっちの方が長いです」と、無茶苦茶。まあ、向こうはプロだし、否定もせずに色々話す。収入の話になった時に「預金が無くなって行く事は不安では無いですか?」と聞かれたけど、「不安な時もありますが、今は、正直、もう、どうでもエエかな?と思います」的な話をした辺りで、診察?終了。とりあえず、睡眠薬は依存性があるから出さずに、薬を飲んで様子を見ましょう。との事。最後辺りにマスクを取ってニコッと笑った口が歯抜けで思い出したら笑いそうになるけど、笑いもせずに丁寧に丁寧に御礼を行って診察室を出る。でも、あの笑顔はプロやな。

一緒に診察室を出た医師が受付に診断書?を渡して支払いと次の予約。この病院しか電話しなかったけど、電話対応者が、一言ずつ、ゆっくり話している姿勢が気に入って通院したけど、次回予約時も「無理だったら変更して下さいね」という一言が物凄く楽だった。

これは何の病気でも同じかも知れないけど、うつ病も理解され難い。私は脳というものに興味があったり、精神医学に多少興味があったりしたから「気持ち」の問題でない事は理解していたけど、最新では

「過労やストレスからうつ病が発症する経緯を(1)過労などでHHV6が唾液に出る(2)嗅球に再感染し、SITH1を作る(3)SITH1によって嗅球や海馬などで脳細胞の状態が激変する(4)意欲減退などが起きる」
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/asahi/nation/ASN6F5VHZN65PPZB00D

という説もあるらしい。
当然、疲労やストレスを感じ易い個性、或いは感じ難い個性もそこにプラスされる。でも、結果としては「気持ち」の問題ではなく、脳の問題。
別な言い方をするならば、うつ病発症前は「気持ち」の問題だったかも知れないが、発症後は脳の問題になる。だから、動けなくなる。

多分、大谷派の仕事をする事もないだろうし、お金もかかるし、そろそろ大谷派僧侶資格を返そうと思っていたりする。でも、当然、信仰は捨てる気はない。お世話になった恩師や先輩たちも多くいるが故に今の私がある事は事実だし、だから「生きていられる」(by鈴木君代)だったりもする。

また、同時にうつ病に対する偏見や差別に対して「あなたは地獄を作っています」という事を伝える事も南無阿弥陀佛の現れ方の一つだと思う。当然、相手を「大人の喧嘩」で追い込むのではなく、

「恨みに依らず『悲しいね』と言えるかどうか。南無阿弥陀佛と言えるかどうか」(by鍵主先生)

という言葉も忘れずに、自己を正義としてしまいたい煩悩を見つめつつ、でも、偏見は偏見ですし。

寝込み始めて約2年半。ようやく服薬して、これがどれぐらい続くのなんて解らない。私は多分、軽度だと思われるが、重度の方は一生だった。でも、私に巡って来たこの業と、今は出会って行くしかない。
コメント

「南無阿弥陀佛」というレッテル

2020年06月13日 | 坊主の家計簿
頭が割れそうな程度にイライラする事があり、酒とタバコで何とかしています。当然、酒もタバコも向精神薬という、合法ドラッグです。故に、一応は人様からゴタゴタ言われる筋合いはないのですが、最近は「健康国家ナチス」





あ、違う、「健康国家日本」なので、「酒呑み=アルコール依存症」「喫煙者=ニコチン依存症」という風潮が強まりつつあります。

病気としての認定は、個を社会の中で認証する為には必要な作業なのかも知れません。例えば、単なる対人関係が不得意な「あいつ鬱陶しいのぉ…」だった人がアスペルガーというレッテルを貼る事によって社会認知されます。排除の対象では無くなります。でも、それは同時に「治療しなければならない病人」としてです。

障害者解放運動で「青い芝」というのがありました。この人たちが見事なまでにアナーキーでパンクで、大好きだったりします。でも、青い芝の人たちは、合宿生活の中で大仏空という天台僧と共に歎異抄を学んでいました。青い芝には親鸞の精神が生きています。

私が「青い芝」系の人に初めて出会ったのは、30歳頃に働いていた共同作業所のパン屋を通じてです。そのパン屋自体も大阪の市民運動家たちが作ったものですし、代表だった脳性麻痺の人も含めて、物凄く刺激を得たのですが、所属している関連団体の集会で「青い芝」の影響をモロに得た人に出会いました。
私は支援者として参加していたのですが、あくまでも障害者の集まりです。その中で「あんたら、車椅子を押して貰ってる事を卑下したらアカンで。当たり前の事や」などと。その人は壇上で発言しました。それは車椅子を押して「支援者」として参加している私にとっては「偉そうな顔するなよ」と同時に、「アンタはアンタやろ!」と、当時はまだ求道熱心だった私の心に直撃しました。
その後に発せられた言葉、「障害を隠す必要はない」は、「アンタを隠す必要はない」と聞こえました。

レッテルを貼る事によって、理解不能な他者を排除せずに社会の仲間入り(認知)するという作業は、現状では必要な事なのかも知れません。でも、そのレッテルが「南無阿弥陀佛」というレッテルだった場合はどうなのでしょうか?アルコール依存症というレッテルでは無く南無阿弥陀佛というレッテル。ニコチン依存症というレッテルでは無く南無阿弥陀佛というレッテル。

仮にアンジャッシュ渡部だったっけ?に「セックス依存症」というレッテルが貼られて「ああ、アイツも辛かったんやろな」では無く、南無阿弥陀佛というレッテル。病気でなく、個性として、業としての認知。

数日前に「犬猫などのペットは往生出来るのか?」という記事を読みました。それは、往生する主体が他者にあるのか?それとも自分にあるのか?という設問だと私は思います。私は往生する主体は自分にあると思っているので、犬猫だろうが、往生します。私が往生する時に、排除すべき対象はありません。

故に、今日、頭が割れそうな程度にイライラした原因の言葉を発した人も同じです。私には理解不可能な事、当たり前ですね、他人ですから、でも、その人の人生の中で考えて発した言葉だっただけ。立場が違うから私は頭が割れそうにイライラしただけの話。どちらが正しいもクソもない。違うだけの話。共に「南無阿弥陀佛」というレッテルを貼られたもの同士の話。
コメント

イメージ

2020年06月10日 | 坊主の家計簿
優れたルポだと言っても、いや、だからこそ、ルポで人のイメージを決め付けるというのは如何なものなのだろうか?

私は小池百合子都知事について書かれた「女帝」というルポ本は読んでいない。本が読めない状態だから当たり前だ。でも、仮に読んだとしても、「あくまでも一つのルポにしか過ぎない」という気持ちは捨てたくない。

最近、チト私が無礼をしてしまったが故に疎遠になってしまったが、ある事件?の親族が友人に居た。新聞雑誌報道も散々されたし、また、数冊のルポ本も書かれた。でも、その友人は「そんな人ではない!」と言っていた。そして、別のルポ本が出版された時に「是非読んで下さい」と贈って貰った。
私は、その人に直接会った事はなく、ただ、新聞やルポで書かれたイメージと、友人から聞いたイメージとで、勝手に「多分、こんな人だろう」というイメージを持っているが、実際に会ってみたいと解らないし、また、直接会ったとしても、先入観もあるだろうし、また、所詮は私が作り出したイメージでしかない。

これは、誰に対してでも同じ事。そして、「あ、この人は私が思っていたイメージとは違ってこんな人だったんだ」という驚きの連続は、友人関係や家族でもあるはず。だって他人だし。「違う!本当のあなたはこんな人だ!」と私がイメージする事を相手に押し付ける事は暴力にしか過ぎない。

私は大阪府民だし、東京都民であったとしても政治思想が違うが故に小池百合子氏には投票しないが、でも、ルポなどで作られたイメージから現実の小池百合子氏を判断する事は、言葉は悪いが、かなり頭が悪い。恐らく「女帝」は非常に優れたルポ本なんだろう。だから、そのイメージに囚われる。
その囚われたイメージから「女帝を読んで投票する人の気持ちがわからない」ではなく、都知事として何を実現出来たのか?今から何をやろうとしているのか?で判断すべきではないのか?

私も含めて、恐らく誰しもが噂話を含めたイメージで誰かを決め付ける。だって、楽だし。「あいつはああいうヤツなんだ」と、何処かで決め付けている。でも、所詮はイメージ。仮のもの。仮のものは絶対ではなく、仮のものを絶対視する事は、単なるバカ。

そう、バカでしかない。バカなんだ。だから、他人だけでなく自分ですらイメージで凝り固める。そして、バカな頭で価値判断する。
「これは害虫だから殺して良し」
「こいつは悪人だから排除して良し」
などなど。
イメージで凝り固めたもので価値判断して、楽になろうとする。思考から逃げる。現実逃避してイメージを優先する。そして、どんどんとイメージが再生産されて行き、ますます現実よりもイメージが大切になって行く。

南無不可思議光如来。解らんのだ。自分も解らないし、他人も解らない。でも、決め付けてしまっているという私が課題になる。
コメント

苦悩の優劣

2020年06月09日 | 坊主の家計簿
「この方は両手両足を失っても希望は失わずに念佛の道を歩まれた」的な言葉の裏にある差別性が気になる。誰が他人の苦悩を理解出来るのだろうか?

私が大谷専修学院に入った時に、寺の後継ぎ息子が多くいた。そして、その中の多くは寺を継ぐ事をイヤがっていた。これを読まれる僧侶の方には同じような体験をした方も多いかも知れない。でも、世間的に見れば、「就職にも食い扶持にも困らなくて何を悩んでいるのだろうか?」にもなる。当然、寺の大小もあるが、ある方は「あなたたちは大きな寺に産まれた悩みは理解出来ないでしょうね」と言っておられたそうだ。
悩みなんて、相対的なものでなく、もっと個人的なものだと思う。仮に男前でアスペルガーでもなく、お金持ちの家に産まれたとしても、悩みはあるのかも知れないし、「あの人の悩みは私より」云々は、自分にも他人にも失礼だと思う。誰にも比較出来ない悩みが、恐らく誰にでもあるのだろうし、その悩みから病んでしまう事もある。それは誰にも理解出来ないし、また、それぞれが間違いなく貴い悩みだと思う。

でも、「あの方は両手両足を失って」云々と。いわゆる身体障害者と呼ばれる立場になる事で、また、精神的に病んだりする事で「あの人は不幸だ」などと決め付けられてしまう。当然、それは善意であり、優しさから来る言葉だったりするし、また、それらの状態の人たちが生き易いような環境整備は必要だが、でも、不幸と決め付ける事は違うのではないか?

うちのオカンは言わなかったが、大阪ではホームレス状態の人に対して「努力せえへんかったらあんな風になるで」という教育が行われている家庭もあるらしい。
ホームレス=不幸ではない。慰るような優しい言葉がホームレス状態の人にとっては「何を見下しとんねん」とは色々な人から良く聞いた言葉。「なんであんな視線で見られなアカンねん」と、そんな言葉も良く聞いた。蔑むような視線も、憐むような視線も、共に「鬱陶しい」と。

うちから自転車で10分程度の所にある釜ヶ崎は、別名「愛憐地区」とも呼ぶが、地元の人たちは、ほぼみんな「カマ」と呼ぶ。釜ヶ崎のカマであり、愛憐という一時期付けられていた行政用語はきらう人が多い。というか、会った事がない。愛憐される筋合いなんてない、人として生きる、である。

私は、うつ病疑惑で寝込んでいる時に突然離婚を突きつけられて、最愛の子どもを含む家族も、仕事も、住所を一気に失ってしまった。それから約2年が経過して、ようやく通院しようとする気持ちになれた。故に、世間では私の愚痴は受け入れてられ易いのかも知れない。「そりゃ大変やったの」と、受け入れられ易いのかも知れない。でも、そうではない苦悩も同等だと思う。

18歳の時だったかな?確か当時15歳ぐらいだった、物凄い美少女がいた。ただ、顔が少し日本人離れした白人っぽい顔立ちで「みんなから変な顔と呼ばれる」と、不登校になる程度には悩んでいた。当然それは、白人っぽい美少女だったが故でのイジメだったとは思うが、それでも彼女が悩んでいた事は、自分の顔だった。アイドルにもなれそうな顔が彼女のコンプレックスだった。

苦悩に優劣なんかない。世間受けする苦悩はあるかも知れないが、そんな事はどうでも良い。自分が抱えている苦悩だけが、自分にとっては真であり、粗末にする必要性なんか一切ない。「あの人たちの苦悩に比べたらあんなの苦悩なんて」という、人権無視して意見に従う必要なんて一切ない。
コメント

梅干し

2020年06月08日 | 坊主の家計簿
今年は梅干しを作ろうと密かな決意。ただ、スーパーで見ると梅が高い。調べると最大の産直である和歌山県が暖冬で歴史的な不作らしい。

梅干し、厳密には干さないから梅漬けを作るのは初めて。故に色々と調べていたら、梅酒用は青梅、梅干し用は完熟梅と時期が違うらしい。

梅干しは、実家オカンが毎年作っていた。うちのベランダには屋根があったけど、2階にあった私の部屋とベランダの入口スペース、風通しも陽当たりも良いスペースに梅が干されていた。とは、いえ、シワクチャになるまで干すのではなく、オカンの梅干しは果肉たっぷりで「塩分控えめ?はぁ?」という塩辛くて、汁にたっぷり浸かったジューシーな梅干しだった。
実家を出てからも時折、梅干しを送って貰ったり、土産に持って帰っていた。最後は東北で再婚してからだった。

オカンは軽度認知症になっていた。私は年老いてからの子どもだし、結構な年齢だったりする。だから、「仕方がない」というのも失礼な話だが、仕方がない。

最後の梅干しは、固かった。「あれ?漬け方が甘いのかな?」と思って塩を大量に追加してみたけど、今回、梅干しの作り方を学んで解った。完熟梅でなく、梅酒用の青梅で漬けたみたい。固い梅は塩漬けしたり、干したりして柔らかくなるのでなく、元々完熟した柔らかい梅らしい。

オカンはまだ生きているし、今年も変わらず梅干しを漬けているのかも知れない。最早私よりも孫にしか興味がないみたいだし、私はまだ東北に居る事になっている。故に孫とは時折話しているのだと思う。離婚云々の話になれば、オカンも電話し難いだろうし、それが良いと思うし、元相方にもお願いした。
とはいえ「仕事で大阪に帰って来た」と言って、顔を出して梅干しがあれば土産に貰って来ようかと思う。また固ければ、刻んでバラ寿司に混ぜたり、山芋短冊と和えたりと色々と料理に使えそうだし。

とはいえ、今年はマザコン上等でオカンの梅干しを目指して人生初の梅干し作りにチャレンジしてみようと思う。
コメント

約束

2020年06月08日 | 坊主の家計簿
久々の散髪帰りに税務署に行くと「新型コロナの影響で今は予約制なんですよ」との事。仕方がないから予約を入れて帰宅する。

「あ、病院に行こう」と思った。今日は比較的調子も良かったし、税務署で削がれた気分が病院に向かったかも知れない。
精神科に電話するのは初めてだし、他の病院と比較出来ないけど、相手の人は物凄くゆっくりと、ひと言ひと言を丁寧に話していた。なんか、それだけでもまた少し楽になれた。
でも、今日突然なんて無理、というか、午後は休診だったし、早くて来週との事。来週の調子なんて解らないし、一度電話を切ったけど、ひと言ひと言をゆっくりと話す対応が気に入ったのか、もう一度電話して予約を入れてみた。まあ、歩いてでも行ける距離だし、なんせ精神科なので寝不足だろうが何だろうか「まあいいか」と。

少し前に、息子から「明日FaceTimeで話したい」という連絡があった。調子が絶不調だった事もあって「また今度ね」になった。でも、早く元気になりたい。娘との「元気になったら遊びに行こうね」という約束も果たせていない。人に会う事が困難な状況下で、離れてしまった子どもたちに会うという気力は、当然ながら他の人たちと会う事よりも遥かに必要である。

抗うつ剤の副作用なりが鬱陶しくて、服薬はイヤだけど、でも、医師と相談して飲んでみるか。
コメント