坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

金に勝つ

2009年01月31日 | 坊主の家計簿
 1月31日

 食類  諸々        1521円

 合計            1521円
 1月累計        124343円

 起きたら熱が。。。予定をキャンセルして、部屋で寝る事に決定。
 んが、夕方に通夜があったので、「御仕事、御仕事」と外出。
 帰宅しても、雑用をする気力がなかったので、ゴロゴロと。

 初めて『銭ゲバ』を見る。
 「母さんは金に負けた。ぼくは金に勝つ」やったかな?そんな言葉が出て来てたと思うが、てっきり「母さんは金の亡者になった。ぼくは金と付き合う」と云う意味かと思ったら全然違うかったのね。

 お金は大切である。金を粗末にする人を私は信用しないし。
 財布にも札が向きを同じにして並んでいる。お店等で釣りを貰う時も札の向きがバラバラだったりしたら、その店には行きたくなくなる。「テメー、商売人やったら金を大切にせんかい!」である。
 ついでだが、「いや~、お金なんてどうでもイイですよ」と云う坊主が居たら、金や、金に関連する『食べ物』『労働力』『土地』等を一切その坊主に与えてはいけない。孤独に餓死して貰えばエエ。カッコ付けて、そのまま死んで貰えばエエ。当然、金を否定したのだから、葬儀もする必要はない。生ゴミと一緒に捨てればイイ。あ、『生ゴミ』と一緒に捨てると迷惑か。また、生ゴミと一緒に捨てても、それを処分するのに金がいる。「こいつは、ホンマ嘘つきなやつやったのぉ」と、暴言を吐きつつ、火葬するしかないのだろう。

 とはいえ、金に振り回されるのもどうかと思う。金は必要である。でも、必要な分だけあればエエと思うのだが。
 今日の銭ゲバでは、お金持ち一家の朝食が出てた。豪華な朝食である。朝からあんな豪華なもんを食べてたら病気になったりするのでは?と思ったりするのだが。金持ちが毎日何を食べているのか知らないが、毎日『おフランス料理のフルコース』なんぞを食べてたら、え~。。。料理屋で喰ったら数万円もしそうなもんを食べてたら体を壊すと思うのだが。

 山本周五郎の『赤ひげ』に、確かこんなセリフが出て来る。
 「貧乏人も金持ちも病気の原因は食べ物だ。貧乏人は食べられなくて病気になり、金持ちは食べ過ぎて病気になる」とかなんとか。

 お金は大切である。でも、あり過ぎても、しゃーないと思ったりするのだが。
 食べ物も、体を養う分だけあればエエわけであって、昨晩の私のように食欲に負けて深夜に焼き飯大盛りなんぞを食べたりすると、次の日に胃もたれを起すわけであってやなぁ。。。

 欲が無くなる事はあり得ないけど、欲と付き合う、しかない。
 煩悩はなくなる事がないけど、煩悩と付き合っていくしかない。
 煩悩を肯定して欲ボケになるのは真っ平だし、それはキリがない。
 勉強家の友人より、「釈尊はヒマラヤぐらいの金塊があっても人間の欲望は収まらない」みたいな事を教えて頂いたが、そんなもんやろ。

 尽きる事のない金銭欲に振り回される事が、私は「金に勝った」とは思えない。
 そういう在り方に対して「恥ずかしい」と思わない限りは、金に勝つ事は無理だと思う。

「私は忙しい」

2009年01月30日 | 坊主の家計簿
 1月30日

 外食  竹輪天ぶっかけ小    380円
     焼き飯大スープ     550円
 食類  カレーパン       110円
 雑費  缶ミルクティー     120円
     タバコ         300円
     タンガクラブビール2  600円
     コピーカンパ     1000円

 合計             3060円
 1月累計         122822円

 御仕事忙し、その後所用でバタバタ、その後コピー機を借りにタンガクラブへ。
 え~。。。用件を済ましたらさっさと帰ればエエのだが、私がそんな事を出来るわけもなく、え~。。。ベロンベロンに酔っぱらっています。

 『忙しい』の『忙』とは『心を亡くす』というのが漢字の語源らしい。
 え~。。。鼻血を流す程度には忙しかったりするのだが。。。まあ、ほぼ所用で忙しいのだが。。。

 「忙しい」という言い訳で、どれだけ『心を亡くしている』事を誤摩化しているのだろうか?
 『心を亡くしている』のは常である。でも、その言い訳に『私は忙しい』と。

 一期一会。
 「私は忙しいから」なんぞと、言い逃れをする。心を亡くす。
 言い逃れが、心を亡くす。

 「他人なんか全くどうでも構わない」
 と云う罪深き極悪人の心。
 それに対して恥ずべき心。
 「私は忙しい」と、心を亡くす。

 まあ、ベロンベロンに酔っぱらう時間があって『忙しい』もクソもないにも関わらず、『私は忙しい』と、言い逃れ。
 罪から逃げようとする。
 私から逃げようとする。

世間様に対して恥ずかしい。

2009年01月29日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 1月29日

 外食  かけ大       380円
 雑費  缶ミルクティー   120円
     インク      3360円
     ラベル       698円
     散髪       2000円
 食類  諸々        435円

 合計           6993円
 1月累計       119762円

 雑用をしてたのだが、気合が。。。

 夕方に関西ローカルの『ムーブ』っちゅう番組を見てたら藤井誠二のコーナーで、最近、京都であった結婚差別の事をやってた。
 差別はなくなっていない。その象徴が『血』に対する信仰がある結婚だったりするのだろう。
 当然、少なくはなって来ているのだろうが、現実に見聞きする。

 『結婚』という一連の儀式の中で気づいた事なんだが、あ、今日は案内状を作ってたわけだ。
 『新郎・新婦』の順番である。『男・女』の順番である。これがムッチャ気に入らんかったりするのだが、まあ、慣習だったりするのだろう。
 んが、この『慣習』が問題だったりする。慣習では『男』が先なのだ。それが慣習なのだ。

 話は飛ぶが、『男は論理的』『女は感情的』等と云うが、感情的には誰だって成れるのだ。論理的は教育である。
 また、「女が屁理屈云うな!」等という言葉もある。そういう環境だったりするのだろう。そういう環境だから『男は論理的』『女は感情的』等と云うのだろう。そして論理的な女は『女らしくない』になる。

 男が論理的ならば、『男は倫理的』『女は感情的』という論理が破綻している事ぐらい明らかだと思うのだが、そういう時に『男』は感情的になったりするのかも知れない。
 「何を云うてるねん。そんなもんは昔から決まった事じゃ!」
 という、無茶苦茶感情的な論理を出して来る。

 しゃて、慣習。
 ここはあえて『常識』なんぞという言葉も使ってみたりする。
 『新郎・新婦』の順番は常識であるのかも知れない。別に『新婦・新郎』の順番であっても構わないはずなのだが、まあ、『新郎・新婦』である。
 それが常識なのだ。『男』を先に立てるのが常識なのだ。
 もとい。『世間の常識』なのだ。

 ちなみに、うちの場合には『新郎・新婦』の並びになった。少しだけ問題にしたのだが、私自身も「まあ、連絡先を向こうにしているし」と云う事とのバランスもあったりするのだが、一応『新郎・新婦』になった。
 だが、問題するべき事だと思う。
 話し合って決めるべき問題である。

 差別が常識な方にとっては被差別の方に対する差別が常識なのだ。結婚差別が常識なのだ。
 「んなもん、当り前やんけ!」
 である。
 「世間様対して恥ずかしい」
 である。

 その「世間様に対して恥ずかしい」が、差別を肯定する事でなく、差別をしてしまう事が「世間様に対して恥ずかしい」と云われるような『世間』に成らないと、世間で『仏教徒』と名告りをあげた私は、世間様に対して恥ずかしい。

郷に入れば郷も変わる

2009年01月28日 | 坊主の家計簿
 1月28日

 雑費  缶ミルクティー     120円
     エスカップ12     580円
 外食  ラーメン        690円

 合計             1390円
 1月累計         112769円

 昨日遊び過ぎたので、今日はスペシャルお疲れモード。
 仕事して、帰宅して、御近所ラーメン屋でニンニクをアホ程突っ込んだラーメンを食べて寝る。

 しゃて、何やら『まことちゃんハウス』っちゅうのが揉めてたらしい。
 http://www.asahi.com/national/update/0128/TKY200901280210.html
 楳図かずおはどちらかというとキライな漫画家に入るのだが、このニュースはなんかなぁ。。。
 『景観を破壊する』とかいうらしいが、あの程度の景観破壊なんぞは別にエエのんとちゃうん?
 多分、あの住宅地では『まことちゃんハウス』は『異物』なんだと思う。異物だから排除したくなる気持ちは解るが、どんなもんやねんやろ。
 
 自分(たち)が認める事だけを受け入れ、異物は排除する。別に何ら珍しくない、ごく日常の事。部屋にゴキブリが出て来たら大騒ぎするし。ペリーがやって来ても大騒ぎする。鼻を垂らした汚らしいガキが『グワシ!』とやったりしたもんなら大騒ぎ所の話じゃないし。
 っちゅう事でもって排除する。
 まあ、んなもんなんだろうけど、んなもんやから問題なのだ。

 なんだが、楳図かずおは最後にマスコミに『グワシ』のギャグをやったらしい。え~。。。これって、敗訴した人たちの気持ちを逆撫ですると思う。楳図かずおも又、『自分さえよければイイ』でしかない。これも良くないと思う。

 街だったり、村だったり、何かの共同体で生活する。当然、『新入り』が古くから居てる人たちに合わせる必要は一切ない。あくまでも対等である。それが基本である。『郷に入れば郷に従え』が基本ではない。それが基本の社会はファシズムだ。人権が対等に与えられている以上は、『新入り』だろうがなんだろうが、あくまでも対等でしかない。
 その『新入り』が『自分の気に入る新入り』なら向い入れ、『自分が気に入らない新入り』なら排除する。
 単に自分を守りたいだけ。保守の典型。

 『対等』とは、自分だけが特別ではないと云う事。共に特別。故に『個の尊重』が必要なんだろう。
 保守思想の人も特別な存在なのだ。全く対等なのだ。保守思想の人の『個の尊重』を排除するのならば、それは異物を排除する保守の典型である。それも保守なのだ。

 大昔に書かれた壁の落書きに『最近の若いヤツ等は』等と書かれていたらしい。当然、今も何ら変わって居ない。

 異物を認められない、自分の都合に合わせたものだけを受け入れ、異物を排除する。
 単なる自我の拡大である。自分の世界の拡大にしか過ぎない。現実の話だが、それも仮想現実である。
 そういう歴史である。そういう歴史がずっと続いて来ている。
 「私だって我慢したのだから、お前も我慢しなさい」
 である。
 
 自分がイヤな事だったら、他人に押し付けなくてイイと思う。

 『郷に入れば郷に従え』を島国根性と云う。
 在日コリアンに『通名』を名乗らせたりする。

 郷に入れば郷も変わる。
 新入りやら他所者やらを対等にみるのならば、その『郷』も新しく変わらざるえない。
 常なるものはないのだ。

豪遊

2009年01月27日 | 坊主の家計簿
 1月27日

 食類  白飯        100円
 雑費  缶ミルクティー2  240円
     居酒屋      3000円
     ドグラマグラ   3000円(?)
     ら        2800円
     タバコ       300円
     タンツー麺     680円
     タクシー     5150円

 合計          15270円
 1月累計       111379円

 学習会。来月発表なんだが、当然(?)一切手を付けずに、かつ雑用の日々で「どないしよ」だったのだが、今回の学習会でヒントを得たので「ラッキー」である。雑用が落ち着いたらやり始めよ。

 学習会後に居酒屋へ。その後ミナミに出る先輩に便乗してタクシーに乗っけて貰う。ついでに「1杯どうや?」っちゅう事でドグラマグラへ。前回オゴって貰ったので今回は「ここは私が」と珍しく支払う。
 んで、『ら』へ。ゆっくり話すのは久しぶりだったので長居してしまう。

 帰りは「カプにするかタクシーにするか」と若干迷ったのだが、ここは豪勢にタクシー帰宅。帰宅後風呂にも入らず爆睡っと。

雑用疲れ

2009年01月26日 | 坊主の家計簿
 1月26日

 雑費  缶ミルクティー     120円
 食類  諸々          636円

 合計              756円
 1月累計          96109円

 雑用ラッシュも一段落。。。っちゅう事もないのだが、今日はサボって寝転んで小説読む→夕寝で爆睡、っと。
 雑用疲れ、っちゅうやつでんな。

プリンター暴落

2009年01月25日 | 坊主の家計簿
 1月25日

 雑費  缶ミルクティー     120円
     ハガキ(?)     1230円
 外食  飯           500円ぐらい
 
 合計             1850円
 1月累計          95353円

 バタバタ雑用。
 
 仕事の帰りに電気屋へ。パソコン印刷ハガキを買いに行ったのだが、ついでにプリンターなんぞのコーナーにも。
 え~。。。今、大変な事になっとるのぉ。。。なんじゃ、あの価格は。暴落しとる、っちゅうか、ワケの解らん値段で売っとるやんけ。うちのプリンターが2万ちょいやったと思うけど、2万ちょいあったら『スキャナー、コピー機能付き』が充分買えるやんけ。。。

Photoshop

2009年01月24日 | 坊主の家計簿
 1月24日

 雑費  缶ミルクティー     120円
 食類  黒霧島        1580円
     諸々          804円

 合計             2504円
 1月累計          93502円

 ふ~。
 今日も雑用、雑用でバタバタと。んで、久しぶりに『Photoshop』なんぞと云う殆ど使ってないソフトを数年振りに使ったらムッチャ脳味噌疲れた。。。
 けど、まあ、オモロイもんやな、あれは。

如来の奴隷

2009年01月23日 | 坊主の家計簿
 1月23日

 雑費  回数券        3700円
     ハガキ         735円
     薬局          408円
     ピザ居酒屋      2606円
     タンガクラブビール   300円
 外食  ちゃんぽん焼き飯    930円

 合計             8679円
 1月累計          90998円

 所用で外出。
 電車の行き帰りに藤沢周平『密謀』を読み始める。今年の大河ドラマの直江兼続が主人公の小説でんな。

 しゃて、「人間っちゅうもんは正義では動かん。」とか云う名言を吐いたのは幕末の西郷隆盛である。
 大阪には『環状線』っちゅう電車があって、一日中グルグル廻り続けているのだが、感情も環状である。グルグル流転輪廻を繰り返しているのが感情である。
 故に、全く頼りにならない。んが、しかし、「人間はナマモノだ!」(byハッピー幸子)と云う名言があるように、っちゅうか、

【凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと】(親鸞)

 っちゅう言葉がある。
 そして反射的に感情が出てしまうもんだ。それを『迷い』とするかどうかは別にして、反射的に出るのは感情である。煩悩である。
 「ああ、また煩悩が出てたのぉ。。。」
 と、罪悪深重煩悩具足の凡夫に立ち返るかどうかは別にして、反射的に出るのは間違いなく煩悩なのだ。
 そういう煩悩に支配されているのが現実である。
 それが故に、必ず、煩悩を喜ばす方になびく。
 「政治理念」なんぞもあるのだろうが、基本は「気が合う、合わない」の話だったりする。だから、『根回し』だの『接待』だのがある。

 ちなみに『贈り物』、まあ、プレゼントでんな。そういうのの基本は『ポトラッチ』という事に一番現われているような気がする。故に、『花を贈る』なんぞという、全く、一時期の、食べる事も出来ない事がもてはやされる。あくまでも『気持ち』なのだ。役に立つ、立たないなんぞは関係がない。一番役に立つのは『金』なのだから。しかし、金は無粋とされる。また、金を包むのにまた金をかけたりもする。それは『気持ち』だから。

 感情は環状のようにグルグル巡る輪廻である。
 しかし、そういう輪廻を繰り返している現実がある。道理や、理屈で成り立たないのが現実である。
 親しい人から頼まれたら、余程理論を大切にしている人以外は、だいたい感情に流される。それが現実である。
 
 だが、しかし、「自分が何をやりたいのか?」っちゅう明確な意志があれば、それはそれで寝技も使いつつであっても、感動出来たりもする。

 感情(エゴ)の底には仏性という『本当の願い』がある。そこに感動がある。その感動でも人は動く。間違いなく動く。動かなければ仏法は嘘である。

【後鳥羽上皇は念仏者の首をはねられたんだけれども、安楽房は首をはねられてでも念仏を相続したと。そういった事が後鳥羽上皇をして念仏者に生まれ変わらせたと。そういった事が事実としてあるんです。】
 (竹中智秀先生『真宗門徒の証明』http://www.scn.tv/user/ryoukakuji/09kougi/takenaka_syoumei04.htmlより)

 竹中院長先生から私(たち)は「問題なのは仏が『ある』か『ない』かだけです。仏がないというのならばこの学院から出て行って下さい」と、厳しく云われた。

 目先の事を上手くやり過ごそうとするのならば法然上人は流罪された時に念仏申さなかったであろう。しかし、法然上人は流罪にあっても念仏申す事は決して『辞めれなかった』。
 殺された安楽坊だってその場をやり過ごす方法だってあったかも解らないが、それでも、あくまで念仏申し、自分の首を切った後鳥羽上皇に念仏を最後まで勧めた。念仏弾圧にも関わらず、その弾圧した当事者に念仏を『勧めざる得なかった』。

 念仏は自分が申すものではない。『いつでも、どこでも、だれにたいしても』であるからこそ『ただ念仏』なのだ。そして『ただ念仏』だから、法然門下は弾圧された。
 決して自分の都合、使い分けではない。それは自力の念仏である。他力は『如来の選択本願』なのだ。如来が選択する。

 故・竹中院長先生、から教えて頂いた言葉に、「阿弥陀如来の奴隷になれ」という言葉がある。
 それが、『専修念仏の真宗門徒』である。『仏弟子である』

【弥陀の本願は、何時の何処の誰にでも、本願真実という事は伝わっていくんだと。本願真実という事は、何時の何処の誰でも必ず分かっていくんだと。そういう絶対的な信頼です。そういうものを持って、難しい状況の中でも、如来の本願を信じ、そして全ての人が本願に頷いていく事があるんだという事を信じ念仏を相続したということです。そういう歴史が浄土真宗の歴史です。】
 (竹中智秀先生『真宗門徒の証明』http://www.scn.tv/user/ryoukakuji/09kougi/takenaka_syoumei04.htmlより)

草にすわる

2009年01月22日 | 坊主の家計簿
 1月22日

 外食  ラーメン        680円
 食類  惣菜          200円
 雑費  郵便局          40円
     缶ミルクティー     120円

 合計             1040円
 1月累計          82319円

 今日もバタバタと雑用。
 雑用しながらテレビをつけてたのだが、ニュース23のトップニュースが『塩を撒く僧侶』だった。
 塩は日本では穢れを祓うためにも使われる。だが、仏教ではそれが問題視されている。
 ああ、排他的な仏教原理主義がついに。。。

 って、違うか。
 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090122-OYT1T00121.htm

 しゃて、ミス熟女の志田未来が主演の映画『誰も守ってくれない』(http://www.dare-mamo.jp/)が、1月24日から上映されるらしい。
 ついでに同じく1月24日21:00~23:10に8チャンネル(他の地域は知らん)でドラマ版の『誰も守れない』っちゅうのが放映されるらしい。ドラマにはミス熟女は出ないらしい。

 『誰も守ってくれない』は容疑者家族の物語らしい。で、志田未来が容疑者家族らしい。
 これは。。。

 どうやら、次の『敵』は容疑者家族を叩く人たちであるらしい。つまりマスコミやネット等で容疑者や容疑者家族の人権蹂躙をするような『優しくない人たち』の人権は蹂躙しても構わないらしい。
 死刑賛成論者等の『優しくない人たち』の人権を蹂躙しても構わないらしい。

 まあ、んな事はないのだろうけど、っちゅうか、映画もまだ見てないし。
 でも、まあ、そういう現象が起こっても別に不思議ではない。
 人間はそういうもんやし。

 常に『悪者』を探す。『悪者』が犯罪者や、犯罪者家族や、犯罪者の肩を持つ人たちになったり、その逆に、そういう人たちを攻撃する人たちを悪者にしたりする。その事によって『私は正しい!』と。
 そういう在り方から離れられないのだと思う。
 そういう迷いから離れられないのだと思う。
 それが『同じ人間』なんだと思う。
 そんな所で人は平等なんだと思う。初めて平等に成れるのだと思う。

 『正しく在りたい』と思う。
 世間に受け入れられる為、その中で居場所を探す。居場所を求める。故に、その共同体内部の発想に保守化する。
 『内部』に対しての『外部』である。
 外部は敵である。鬼である。悪である。
 心優しき死刑廃止論者には死刑賛成論者こそが『悪』である。
 人権を大切にする心優しき人たちは、人権無視、差別発言、差別問題を起した人が『悪』である。
 
 『悪』に対する『善』である。
 様々な思想を持ち出し、『悪』を作り出し、自らを『善』の位置に持っていき、居場所を作ろうとする。
 孤独である。孤独であるが故に、居場所を求める。

【わたしのまちがいだった わたしのまちがいだった こうして草にすわれば それがわかる】(八木重吉『草にすわる』)

 『草』という、大地の居場所。

雑用の日

2009年01月21日 | 坊主の家計簿
 1月21日

 雑費  缶ミルクティー     120円
     本代振込       9400円
 食類  諸々         1371円

 合計            10891円
 1月累計          81279円

 うぎぎぎぎ。深夜まで雑用、っと。

真宗門徒の「Yes We Can!」

2009年01月20日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 1月20日

 外食  飯         590円
 食類  諸々        493円
 雑費  ハガキ20    1000円
     缶ミルクティー   120円

 合計           2203円
 1月累計        70388円

 沢尻エリカのユリの角隠しが話題らしい。よって、これは流行るかもしれない。っちゅうか、これがスタンダードになって『角隠しは白の花』というのが『しきたり』になるのかも知れない。故に100年後ぐらい後に布の角隠しをしていると
 「あの人は作法を解ってない」
 等と云われるかも知れない。まあ、んなもんやし。
 喪服は白から黒になった。んなもんでっせ。

 歴史は変わり続ける。もうすぐ『ニガー』がアメリカ合衆国大統領になったりする。
 「すんげー!」っちゅう話である。

 角隠しが『花でするもの』になれば、その発祥は沢尻エリカである。まあ、誰が考えたのか知らんが、とりあえず『沢尻エリカ』である。誰かが始めたからこそ、歴史は変わる。

 「あんな角隠しは邪道である。」と云う人もいるかも知れないが、それは『歴史』を解っていないのではないかと思う。いや、『歴史』に参加しようとしていないのではないかと思う。今ある『歴史』だって、誰かが始めた事にしか過ぎない。

 しゃて、『角隠し』の由来の一説に

【角隠しには「角を隠して夫に従順に従う」という意味が込められている。 その昔、女は嫉妬に狂うと角が生え鬼になる、という言い伝えがあり、鬼になるのを防ぐおまじないとしてお寺に参る際に角隠しをかぶったことが由来とされる説。】(http://wedding.dictionarys.jp/角隠し.htmlより)

 と云うのがあるらしい。
 そういう意味合いがあるのであれば、『角隠し』は男女共に被らなければならないはずである。
 『鬼』になるのは男女関係ない。『人』であるから『鬼』になるのであるから。
 それを『女』だけに被せる『伝統』がある。性差別の伝統である。

 当然、付けたい人は付ければエエと思う。『角隠し』の伝統を守り、『女は男に従順に従う』と云う伝統を好む人は『角隠し』を付ければエエと思う。
 だが、それが強制であったら、無茶苦茶うっとうしい話である。

 別にこれは女性解放の話だけではない。真宗仏教の話なのだ。

【男女貴賤ことごとく 弥陀の名号称するに 行住坐臥もえらばれず 時処諸縁もさはりなし】(親鸞)

 である。

 また、『白無垢』とは

【「嫁ぎ先の家風に染まる」という意味合いを持つ。】(http://wedding.dictionarys.jp/白無垢.html

 と云う事らしい。
 これも変な話である。
 『嫁ぎ先の家風に染まる』とは、『個』がない話である。『個』が『個』として互いに尊重するのならば、それは

【青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光】(仏説阿弥陀経より)
 
 でなければならない。

【バラバラでいっしょ‐差異( ちがい)をみとめる世界の発見‐】(大谷派・『蓮如上人五百回御遠忌テーマ』)

 でなければならない。

 真宗には真宗の歴史がある。真宗の風俗がある。
 『真宗の風俗』といっても、決して固定化されたものではない。言葉を改めるが、『現状固定』されたものではない。
 あくまでも、本願の歴史である。私(たち)が本当に願っているものの歴史である。

 『Yes We Can!』とは、大阪弁では「いったるで!」みたいな意味らしい。

 『角隠し』『白無垢』は、世間のしきたりである。
 選択本願のしきたりは別である。真宗門徒の伝統は別である。

 「Yes We Can!」



まつろわぬ魂

2009年01月19日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 1月19日

 食類  諸々         300円
 
 合計             300円
 1月累計         68185円

 朝、なんか暖かい。。。っちゅう事もあり、かつ「いつまで正月ボケしとるねん!」っちゅう事で、本年初の自転車参り。
 っちゅうか、通勤や、近所は自転車なんだが、今日は全ルートを自転車で廻る。
 太ももが。。。正月ボケでなまった体が。。。

 しゃて、何やら沢尻エリカが明治神宮で結婚式をしたらしい。
 テメー、出世作は『パッチギ!』ちゃうんけ。パッチギで在日の娘さん役を演じたから今日の『沢尻エリカ』があるのんと違うんけ。それやのに、なんで『明治神宮』やねん。あんな天皇制バリバリの所で結婚式をするとは何事ぞ!
 って、まあ、向こうの意向もあったのかも知らんが、神道式でやりたいのなら、神田明神でやれ。まあ、神田明神で結婚式が出来るのかどうか知らんが、ムコはんは『ハイパーメディアクリエーター』とかいうバブル丸出しの仕事をやってはるねんやし、なんとでもなるやろ。
 で、「起きろ。将門の霊よ、起きて我と共に帝都を破壊するのだ。」と、加藤になるのだ。加藤になって悪たれキャラ剥き出しの「別に」攻撃だ!

 って、何を書いてるのやら。。。

 あ、ちなみに『加藤』って、帝都物語に出て来る怨霊ね。いわゆる『日本』に排除された怨霊の化身。素晴らしい。。。沢尻エリカのキャラにピッタリではないか。
 それが明治神宮なんぞの『日本』バリバリの前で結婚を誓うなんて。。。ああ。。。って、別にファンちゃうからエエねんけど。

 神前結婚式は明治になって発明された。なんちゅうんですか?結構モダンなもんでっせ。
 志田基与師著『平成結婚式縁起』を読んでて「あ!」と思ったのだが、結婚式は発明の歴史でもある。発明されては消えていったり、残ったりしている。
 まあ、なんちゅうんですか?商売人が「部長、こんなのどうですか?」「おお!それはオモロイ。それ、いっとこ」で発明されて、飽きられたり『古くさい』となれば消えていくもんらしい。故に、古い『冠婚葬祭本』は『ゴミ』らしい(笑)まあ、古い冠婚葬祭本に『式場から出る際に風船を空に放つ』なんぞは書いてないだろうし(笑)
 ちなみに『花束贈呈』も昭和30年の発明らしい。

 今日、荷物整理をしてたら旧友の結婚式の案内状があった。まず双方の男親の名前が書いてあり、その下に『長男○○』『長女○○』とかみたいな感じである。
 まあ、男親が『戸主』であり、それを通じての『公』なんだろう。
 『公』に対する「2人は結婚しますので宜しく」みたいなもん。

 私にとっての『公』は仏教である。決して娑婆世間ではない。
 まあ、当然、娑婆世間で生きているが、第一義は何なのか?っちゅうのが問題になる。
 第一義が『世間』ならば、『仏教虚仮、世間是真』である。仏教が第一義であるが故に、『世間虚仮、唯仏是真』である。「世間は虚仮であり、ただ仏のみが真である」である。浄土に対する穢土である。第一義が世間ならば浄土を求める必要はない。求道をする必要もない。念仏申す必要もない。自分を問う必要もない。悪いのは全て周囲のせいにしてれば良いだけの話である。
 「お前が悪い!」
 と、血塗れの世界を作りだして行く事を肯定すればイイ。それは暴力の世界である。基本、喧嘩の強い人間が勝つ。言葉の暴力や、政治的な暴力も含めて、強い方が勝つ世界である。弱い人間は泣くしかない世界である。

 私は『結婚式』という儀式は仏前結婚式が一番素晴らしい結婚式であると勝手に思っている。

【「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には怨みはついに息むことがない。
 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。
 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。ーーーこのことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。】(ダンマパダより)

 今日は荷物整理。主に昔の手紙。
 え~。。。エロ坊主君は結構モテててんなぁ(笑)
 昔のラブレターなんぞもチラッと読む。んが、あれを捨てるには酒量が足らんので途中で断念。
 昔のラブレターを頂いた人たちと今、結婚していてもおかしくない。

 別れた人の手紙は『今』という時の大切さを教えてくれる。

 真宗門徒の家庭は僧伽(サンガ)である。
 阿弥陀如来を中心とする『如来の家』である。

 『女』は『男』の都合に従って生きる必要は一切ない。
 『男』も『女』の都合に従って生きる必要は一切ない。
 戸主は『男』でも『女』でもない。あくまでも『阿弥陀如来』である。
 『えらばず、きらわず、みすてず』の阿弥陀如来である。

 誰かの都合で支配される世界を拒否する。否定する。それが『世間の常識』という大義名分があろうがなんだろうが、誰かの支配下に入るのは奴隷である。何かの世間的価値観の支配下に入るのは奴隷である。

 『男らしく』『女らしく』も奴隷の概念である。
 『お爺ちゃんは山へ芝刈りに、お婆ちゃんは川に洗濯に』と、別に役割を固定化される必要は一切ない。

 『個』は『個』である。互いの『個』を尊重しあい、互いに仏からみれば『煩悩具足の凡夫』でしかない。ねたみ、うらみ、そねみ、いかり、はらだちに支配された煩悩具足の凡夫でしかない。そういう『個』を尊重する事が出来る世界は『男らしく』『女らしく』の世界ではあり得ない。娑婆世間の世界観ではあり得ない。あり得るわけがない。

 互いに、互いの都合で支配し、『モノ化』してしまい、自分の都合に合わなければ「あいつは私を愛してない」等と云うのが娑婆世間である。
 都合が良くて選べば、都合が悪くなると捨てるだけの話である。それが紛れもなく、娑婆世間に生きている現実である。
 「それでイイのか?本当にそれでイイのか?」と云うのが仏からのメッセージである。

 明治神宮で結婚式をした沢尻エリカの悪役はキャラだろう。かなり保守的な『女性』であると思われる。故に、結構、しっかりと『嫁(家の女)』をやるのかも知れないが、個人的には神田明神で結婚式をして『日本社会』から排除された『女』の怨みの化身となって貰いたかったのだが。。。

地味作業

2009年01月18日 | 坊主の家計簿
 1月18日

 雑費  缶ミルクティー      120円
 食類  諸々          1204円

 合計              1324円
 1月累計           67885円

 地味に事務作業。

女は世界の奴隷である

2009年01月17日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 1月17日

 雑費  缶ミルクティー      120円
 外食  冷やしかき揚げぶっかけ  410円

 合計               530円
 1月累計           66561円

 昨日深夜帰宅だったので、今日は爆睡と。んが、深夜2時過ぎに眼が覚めてしまう。。。どうせなら朝まで寝てくれ、っちゅうねん。。。

 狩撫麻礼原作の漫画『ボーダー』には「無為こそ過激」という言葉が出て来る。
 これが、坂口尚、漫画『あっかんべェ一休』になると同じような事を云う禅僧に対して一休は「無為は有為だ」と云う。
 まあ、両方とも解放を求めているわけでんな。『無為』に囚われると『有為』になる。「何もしない」に囚われると『何もしない』と云う事をしているわけだし。

 解放を求める。
 漫画『ボーダー』もそういう漫画だった。

【ところで、本巻は、特に昭和42年度(一九六七)の学院生たちに講義されたものを中心に、まとめられたものですが、昭和42年というときは、「大学闘争」が全共闘運動として、全国的規模で展開されろうとするときでもあったように思われます。また、私たちの学院においても、十月二十一日(土)、国際反戦デーを期して、ヴォトナム反戦ハンガースト集会がもたれました。
 思いますに、「大学解体」を叫び、「反帝・反スタ」、「反戦平和」という叫びは、単純素朴に、「人間」そのものの荒廃に対する異議申したてであり、「人間」という存在がもっている普遍的意味を回復しようという求めであるといえないでしょうか。それ故に、「大学解体」を叫び、「反帝・反スタ」、「反戦平和」を叫ぶ自己そのものが問題になりました。山本義隆氏は、そのことを「自己否定に自己否定を重ねて、最後にただ人となりて」という言葉で語っているように思われます。】(中川 皓三郎 信国淳選集第四巻『あとがき』より)

 山本義隆氏とは、東大全共闘議長だったらしい。

 解放を求めると、『当り前の事』が当り前でなくなってくる。



 ♪女は世界の奴隷である
  その通りだ。それについて考えてみろ
  それについて何かしてみろ

  俺たち男は女に顔を塗りたくらせて踊らせる
  もし、女が奴隷でいるのはいやだと言えば、男はこういう
  彼女は俺を愛してない
  もし、女が真の人間になろうとしたら、男はこういう
  彼女は男になりたいのだ
  俺たち男は女を卑下しているくせに、
  女性を上に立てたふりをする
  女は世界の奴隷である
  もし、ぼくの言うことが信じられないなら、
  一緒にいる女をよく見てくれ
  女は奴隷の中の奴隷だ

  俺たち男は女に子供を産ませて育てさせ、
  あとは放ったらかして太った雌鳥のようにしてしまう
  俺たち男は女に家庭こそ女の居場所だと教えて、
  そのくせ女は世間知らずで、友人になどできないと不平を言っている
  俺たち男は、毎日、テレビで女を馬鹿にしている
  女ってのはどうして決断力も自信もないのかねなどと
  女は幼いうちに俺たち男によって
  自由になろうという意志を殺されているのだ
  俺たち男は、女はあんまり利口でない方がいいんだよなどと言いながら
  そのくせ、女ってのは馬鹿だねと軽蔑している

  女は世界の奴隷である
  奴隷のそのまた奴隷である
  その通りだ
  わかってきただろう。叫ぶべきだ

 (JOHN LENNON「Woman Is The Nigger Of The World」日本語訳は多分、菱木政晴)