坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

家族サービス

2010年03月29日 | 坊主の家計簿
 昨日、学習会から帰って来たのが0時過ぎ。そこから寺報作りが始まって、月末なので他の諸々の事もやらんとアカンし、それらもやりつつ、ふっふっふっふ。。。印刷&折り込みも完成したぜ。
 まだ月末までには日数があるのだが、明日は別の予定があるし、明後日、明々後日は家族サービスなのだ。ん?この『家族サービス』っちゅう言葉って、「ホンマはやりたくないねんけどなぁ。。。まあ、サービス、サービス」っちゅう感じを受けるから『家族サービス』ではないか。なんせ行きたい所を決めたのは結局私だったし、ママと娘にサービスされてパパは「家族サービスを『してやってる』」なんぞと威張ろう(笑)
 なので、月末2日、っちゅうか、明日も予定が入っているので、通信ももっと早く作りたかったのだが、講師の先生から昨日の学習会で講題の返事を聞けたので、っちゅうか、まあ、聞かんと4月号の寺報は『報恩講特集』っちゅうか、報恩講の案内も兼ねてになるので、講題が決まらんと書けない。
 一応、依頼した講題は『仏教の人間観』である。そのままにするのか、どうするのかを考えて頂いていたのだが、結局『仏教の人間観』に講師の先生からのサブテーマがつく形で決定。帰り道の自転車&ラーメン屋で諸々考えて、帰宅してから数冊本をチェックして一気に書き上げる。

 なので、今日は娘と殆ど遊べず。落ち着いたのが深夜だったし、落ち着いた頃には娘、寝てるし。
 
 娘は『つかまり立ち』っちゅうのだろうか?コタツの端なんぞにつかまって、コタツ上のモノで手の届く範囲のモノを物色する。ハイハイも力強くなって来ているので寝転がっているパパの背中でガードしていると、パパの背中を超えようと一生懸命になる。
 「おお、お前は早くも親父の背中を越えようとしているのか。しかし、娘よ、よく聞け。親父の背中なんぞ『越えよう』としなくても構わないのだ。なんせ君の親父は大したヤツではないし、また、君は君の道を歩けばいいのだ。」
 なんぞと思いつつ、それでも一生懸命に親父の背中を越えようとしている娘である。
 で、これがナカナカ気持ちいい。「もうちょっと下」とか注文を出すのだが、まだ言葉が通じない娘なので、仕方なくパパがずり下がったりしながら娘に背中を押してもらう。まだ体重が軽いので力は弱いのだが、非常に気持ちいい。

 しかし、この娘も、大きくなって「背中を押して」と言ったら、喜んで押してくれる時期もあるだろうが、そのうちに「じゃあ、10分100円ね」なんぞと言い出して、そのうちに「パパ、10分100円だったら労働基準法に触れるからパパの為に10分150円にしてあげる」になり、そのうちに「パパの背中なんて、なんで押さないといけないの?気持ち悪い」なんぞと言われたりするのだろう。。。等と、妄想が広がる。

 ちなみに、今さっき『仏教の人間観』っちゅう言葉で検索したら、橋本凝胤という法相宗の方が『仏教の人間観』というタイトルの本を書かれていたそうな。少し気になって調べたら天動説の人だった(笑)

 地動説か、天動説なのか、っちゅうのは思想の問題である。んなもん、数学的にはどっちでもエエねんやろ。「ややこしい」か、「ややこしくない」かぐらいの話やろ。
 ただ、天動説は自己中心である。自己中心的は問題なんだが、事実やろ。やっぱし「家族サービス」なんぞと言ってしまうし。そういう自己中心的価値観を問題にせん限り、つまり『自分』を問題にせん限り、学校で地動説を教えて貰って『良い子』を演じてたらしんどいぞ。

愚痴の海

2010年03月27日 | 坊主の家計簿
 ホームページ(http://web.me.com/enngakuji/tera/home.html)に寺の通信をアップする。
 そろそろ来月4月号を作らんとアカン時期なんだが。。。にも関わらず、アップしてなかった2月号と3月号をアップする。いや~、サボってました(笑)
 通信はパソコンで作っているのでアップするのは簡単、なはずなんだが、2月号の最後の面のデーターが『編集前』のやつでして、え~。。。一体、何があったのか、何がどうなってこうなったのか「全く解らん!」のだが、事実として、使い物にならないテキストしか残ってなくて、しゃーないので紙面を見ながら「なんでや、こんなはずやなかったのに。。。」なんぞと愚痴りながら打ち込む。まあ、自分が書いた文章とは云え、一応このブログみたいにダラダラ書いて居るわけではなく(紙面が足らんわ)、かつ、寺の経費を使ってコピーして配布しているものなので『一応』真面目に書いているし、恩師の言葉の引用もあったりするので、「これはなかなか勉強になるの」と。

 勉強といえば、今日は葬儀社の方と、葬儀関連のNPOの方のお話を聞いて来た。これもむっちゃ勉強になった。
 んが、その事をまとめてブログに書き込めるだけの気力が残っておらず、え~。。。
 
 ただ、なんちゅうねんやろう。え~。。。「全ての人に仏性がある」という事を再確認出来た。葬儀社の方の立場からのお話、的確な表現ではないだろうが『葬儀社や宗教者に依頼する側の立場』からのNPOの方のお話を聞いてて、「全ての人に仏性がある」。え~。。。つまり「みんな、ホンマは南無阿弥陀仏と言いたいんや」(by延塚先生)。ん?え~と、「みんな救いを求めとるんや!」か。ん?「みんな本当は『みんなと一緒に生きたい!』って願っとるんや!」か。
 ん?アカン、だんだん酒も入って来て酔うて来とるし、うまい事言えん。全ては「なんで2月号の最後の面のテキストがちゃんとなっとらんねんや!」と。なんぞとまあ、なんちゅうんでしょうか、事実を事実として引き受けられない私が騒いどるわけでして。「これはなかなか勉強になるの」なんぞとさっき書いたが、まあ、確かにそれほど『騒ぐ』もんでは無かったが、「こら、なんでやねん」と。「なんでもういっぺん打ち込まんとアカンねん」と。「くそ、ボケ。2月号の最後は『テキストが残っていない為にホームページにアップ出来ません」なんぞと書いて済まそうと思ったやんけ。けど、まあ、ホームページにアップしたいのは私であり、アップ出来なくて一番ムカムカするのも私であったりする。そういう『小さな』事なんだが、これだって『事実を事実として引き受ける事ができない』っちゅう問題、つまり『苦』の問題だったりする。

 ちなみに、ネットには書けないが、私だって大変なんである。「ちょっと聞いてえや」から始まって、愚痴愚痴愚痴をひたすら喋りたい気分、満載である。先日、久々にミナミに出て、「久しぶりやんけ」っちゅうちゅう事で、深酒してもうて、終電ブッチしてもうた時に、酔っぱらったおっちゃんはひたすら「いや~。人間って、おもろいぞ」っちゅう事ばっかりを『典型的な酔っぱらい』として喋っていたのだが、ありゃ、ちょっとカッコ付けたりしてるわけであって、んなもん、愚痴愚痴愚痴を誰かに聞いて貰いたくて、しゃーない、しゃーない。今だって、その気分、満載である。んが、ネットに書けないだけの話である。まあ、誰か私の支援の会を作ってくれ(笑)

 誰かに『苦』の内容を話と、もっというと、『話続ける』と、「あれ?私ってこんな事思ってたの?」にもなったりする。いや~、人間っておもろいぞ。その時には、当然、『誰か』が必要だとやっぱし思う。私なら、ネットで『書けない』っちゅうのもあるが、やっぱし、直接知っている人に対して「いや、こんな事があってですね」なんぞと愚痴愚痴愚痴りたい。

 『苦』を感じるのは『思い』であり、苦を愚痴愚痴愚痴だけで満足させるのは流転にしか他ならない。迷いを続けるだけである。他の『苦』が来るから。
 けど、親鸞は涅槃経の引用をする前に『誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。』と書いて居る。そこから、苦海のまっただ中に沈んでいる人がどうやって救われて行くのかを引用している。他人事じゃないし、親鸞はその人に共感している。歴史的には逆の時間軸だろうが、きっとその人は感動して泣いていると勝手に思う。
 「なんで、私の気持ち解ってくれるの?」
 って。

プチ赤狩り

2010年03月22日 | 坊主の家計簿
 先日、オートバックスで修理の待ち時間に店内徘徊をしてて、ETCコーナーに足が止まる。「パパになったし、これから娘と一緒にドライブ行くのにETCはあった方がエエかなぁ。。。」なんぞと悩む。
 帰宅してママに相談。「確か、5月ぐらいからETCの法律が変わるらしいで」との事。
 検索してみたら6月からETCがなくとも私が乗っている軽自動車なら上限1000円になる予定らしい。

 http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010010801000628.html

 いや、『高速道路無料化』って金がないから諦めたんやと思ってたら、まだ諦めてなかったのね。まあ、個人的にはETCの機械を買わない分だけ助かるので非常にありがたい話である。

 しっかし、ニュースについて行けなかったりする。。。
 大阪では橋下知事が公立高校授業料無料化に関して「朝鮮高校がうんたらかんたら」なんぞと言ってたニュースを見ながら、「なんで公立高校の授業料無料化に朝鮮高校が関係あるねん」と思ってたら、なんや、私立高校・各種学校に対しても授業料の助成があるのね。
 で、なんで私学に対して助成しなあかんねん。私学に行きたい人たちは、自費で行ったらエエやんけ。公立の保育園なんぞと違って学校の数、むっちゃ多いやんけ。競争率の平均って、1倍あるのか?
 まあ、「頭が悪くて一番偏差値の低い公立高校に入れません」で、「入れる高校は私学しかありません」ならば、「いや、すんまへんなぁ。。。ホンマは公立高校で学びたい人たち全ての人が入学出来るだけの公立高校を作りたいねんけど、これから子ども減って来ますやんか。だから高校を作るわけにも行きまへんねん。授業料を面倒みるから私学に行ってくれるかなぁ。。。」なら理解出来るが、んなもん、「私は公立の学校でなく私学のこの学校に行きたい!」なんぞという、つまり私学出身の私みたいなヤツの授業料の面倒をなんで税金で賄わなアカンねん。んなもん、私学に行きたいヤツの勝手やろ。そんな所に金を使うほど、この国に金あるんか?
 よって、私立高校に対する授業料の助成に対して反対なんだが、やるねんやったら平等にやらんとアカンやろ。朝鮮高校だけを除外する、除外する理由は

【橋下知事は、朝鮮学校の高校にあたる高級学校への補助金については、教室から金総書記の肖像画を外す▽使用する教科書の記述で「敬愛なる金総書記」などと個人崇拝の表記をしないことや竹島や日本海の呼称について、日本側の主張も併記するなどの配慮をする▽財務状態を公開するーなどを予算執行の条件として提示した。そのうえで、学校と朝鮮総連との関係を絶つ必要があると強調した。】(http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/368012/

 らしいが、んなもん、宗教団体系の高校はどないなりまんねん。行った事はないけど、多分、大谷派系の高校には大谷派の御本尊もあるやろうし、親鸞に関して学ぶ時間なんぞもあったりするかも知れんぞ。真宗仏教の教えは、『国』という限定を超えとるぞ。アナーキーやぞ。んなアナーキーな人間を生み出す高校に対して助成するのであったら、んなもん朝鮮高校に対しても助成したれや。
 んが、これは各宗教団体系の高校が『風景』になっているのかも知れん。キリスト教系の学校の生徒がクリスチャンになったり、仏教系の高校の生徒が自覚的仏教徒になったりしていない、つまり、宗教教育の観点からすると『劣等生』ばかりを生み出しているのが問題だったりするのかも知れん。野球で有名なPL高校なんぞも当然PL教団の高校なんだが、同級生でPLを受験したやつは「PLに入ったら野球部のマネージャーになりたい」なんぞという理由だったぞ。「私はPL高校でPLの教義に少しでも触れたい」なんぞという理由ではなかったぞ。以前働いて居た寺の近くに大阪で有数の進学校があったのだが、仏教系の進学校を受験する理由は「エエ大学に行きたいから」という理由が殆どだったりすると思う。
 で、朝鮮高校はどう違うねん。「私も北朝鮮の工作員になりたいです」なんぞというヤツは過去に何人居ってん(笑)単なる朝鮮高校に対する差別やんけ。

 んでもって、当然の事ながら、この差別は「行政が認めない高校に対しては助成しない」っちゅう事になるのだろう。つまり、大谷派が問題になれば「逆賊・大谷派の高校に対してなんで授業料を助成しなければならないのか?」にも繋がるやろ。行政が『助成する私学、助成出来ない私学』と、行政の判断でもって、つまり、その時の『都合』によって判断する事はアカンやろ。『プチ赤狩り』やんけ。

 
【ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
 ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
 ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
 ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。】
 (マルティン・ニーメラー『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』)

修理

2010年03月21日 | 坊主の家計簿
 車の定期点検で見つかった所の部品が届いたので修理して貰いに近所のオートバックスへ。前オーナーは八尾の修理工場を使っていたらしいのだが、「遠い」っちゅう事で近所のオートバックス。2つ離れた地下鉄のほぼ駅前にあるし、便利便利。
 メインは昨年初夏からおかしかったアイドリングの修理。何やら『イグニッションコイル』っちゅう部分がアカンかったらしく、1つのプラグの火花が漏れていたらしい。
 車、治る。速い、速い。「うちの車って、こんなに速かったんかい」っちゅうぐらいに速い。特にスタートダッシュがバッチシ。まあ、エンジンパワーが3分の2になってたかも知れんねんしのぉ。。。燃費もよくなるであろう。

 「点検して貰って初めてどこが悪かったのかという事に気づかされました。さて、皆様は人生の点検をされておられるでしょうか?悪い所に気づかずに『当たり前』にしているのではないでしょうか?年に一度の大掛かりな点検作業。それが報恩講です。」

 なんぞと、思わず書きたくなるぐらいに車が快調で嬉しいぞ。まあ、定期点検と他の部品代込みで2万ぐらいかかったけど、燃費も良くなるやろうし、エエ感じやんけ。
 部品が先日聞いていた価格よりも多少安く済んだので、ついでにiPodや、iPhoneをFM電波に変換してカーラジオのFMで聞ける、っちゅう機械を2180円で買う。充電も出来るみたいし。これでiPhoneがやって来てから出番の機会が失われてしまっているiPodを車に積んどけばエエわけやし。オートバックスの駐車場でセッティングして、iPhoneに繋いでみたら、非常にエエ感じである。基本『AMラジオっ子』、すまん『AMラジオ中年』なんだが、遠くに行ったりすると電波が入らんようになるし、かつ、法要前に車で移動しながら声明の練習なんぞも出来る。法要時の声明なんぞ滅多に使わんから練習しとかんとアカンのだが、そういう時にも便利である。

仏華を供える

2010年03月18日 | 坊主の家計簿
 仏華を供える。
 諸々の事情でもって、住職になって今回で3回目。最初の時は急だったし、前回は全く時間なし。今回もバタバタしている中なんだが、「そろそろ準備をちゃんとしてからやろ」と、昨日ホームセンターへゴムホースを買いに行く。
 別にゴムホースで仏華に水を撒くのではない。華を入れる仏具の中にゴムホースを切ったやつを押し込むのだ。すると「あら不思議」っちゅう感じでもって、華が思った所に止まってくれる。仏具の中に剣山は入らず、『オアシス』っちゅうのか?華を固定するもんをイチイチ買ってたら経費がかかりすぎる。よって、ゴムホース。まあ、ベテランには不要なのだが、っちゅうか、使っているのは最初に居た寺で私の後に入って来た方しか知らないし。まあ、その方も、父親から教えて貰ったみたいなので、私のゴムホースは清沢満之批判である(笑)いや、清沢満之批判の大家の方がやってた方法みたいなので。

 仏華、っちゅうか、活け花自体がそうなんだろうが、あれは空間芸術である。なので、当然、先生について習えば一番なんだろうが、「空間芸術やったら、店の内装を作るのと変わらんやろ」なんぞと思いつつ、自己流でやる。だって、店の内装も誰かに教わったわけではないし、色んな店とか、雑誌とかで独学で学んだだけやし。なので結構楽しんでやっている。っちゅうか、華が思う所に止まってくれたら、楽しい♪楽しい♪

 仏華を使ってよく法話したりする。っちゅうか、かなりの確率で使ったりする。

 ♪花屋の店先に並んだ
  いろんな花を見ていた
  ひとそれぞれ好みはあるけど
  どれもみんなきれいだね
  この中で誰が一番だなんて
  争うこともしないで
  バケツの中誇らしげに
  しゃんと胸を張っている
 (SMAP『世界に一つだけの花』より)

 っちゅうのが仏華の基本だと思ったりする。だって『活け花』じゃん。『死に花』とちゃうぞ。やったら、『死に花』を作らんように、ひとつひとつの花が輝いて、そして、全体として「おお、エエ感じやんけ」っちゅうのが仏華の基本だと勝手に思う。だって、習った事ないし。

 なので、今の所、多くの花を使う事が出来ない。まあ、小さい寺なので花瓶の仏具も小さいし、多くの花を使ってひとつひとつの花を生かす技術は今の私に無かったりするし、かつ、花を習いに行くような余裕もない。
 なので、こつこつと。

 ちなみに『『世界に一つだけの花』の

 ♪それなのに僕ら人間は
  どうしてこうも比べたがる?
  一人一人違うのにその中で
  一番になりたがる?

 の部分を、業界用語で『機の深信』と言ったりする。んでもって

 ♪そうさ 僕らは
  世界に一つだけの花
  一人一人違う種を持つ
  その花を咲かせることだけに
  一生懸命になればいい

 っちゅう部分を『法の深信』と言ったりする。

 これまたついでなんだが、清沢満之っちゅう人は、今の大谷派が、『大谷派なる由縁』っちゅうか、まあ、今の大谷派は清沢満之が居なければ間違いなくなかった。んが、その清沢満之すらも批判する大谷派の伝統が大好きだったりする。確か最初に清沢満之批判をしたのは清沢満之の直弟子だったはずだし。
 批判する事で、師を『死に花』にするのではないと思う。だって、サンガだし。

 仏華を活ける時に、やはり私の中で、「あ、この花をメインにしよ」なんぞと思ってしまう。今日は百合があったので、「百合って高いし、花が大きいし」なんぞと。なので、百合をメインに活けてしまうのだが、百合を目立たす為に他の花があるわけではない。やっぱし、一々の花を輝かせてナンボである。一々の花を輝かせないと仏華が仏華で無くなってしまう。

 師は大輪の花である。しかしながら恩師達に教えて頂いた事は、指摘された事は、「結局、全ての人たちを『諸仏』として見いだせるかどうかなんだよね」という事あったりする。だって、私は、私の好み、つまり、清沢満之批判以前の問題で、私の感覚の中で「この人は好き、この人は嫌い」と、つまり、「この人には価値があって、この人には価値がない」なんぞとやってしまうのが私だし。
 それを『仏教』という名目でやってしまう。
 例えば、昨日も引用した

【念仏とは、「あらゆるいのちあるものと共に生きたいという仏の願いを忘れず、心に思い念じる」ことだ。】

 という言葉は、恩師の言葉なんだが、私は『仏教』という名目でもって、「この人の云う事は聞くけど、この人の云う事は聞かん」なんぞと。恩師をカリスマ化してしまう事によって、つまり、恩師を我がエゴを満足させる為の道具に使う事によって、他を切り裁く。

 仏教は釈尊であるが、釈尊に対して「教えを広めて下さい」と懇願したのは私(たち)である。
 無量無数の方々の願いである。
 大阪城を造ったのは豊臣秀吉ではなく、多くの職人さんであったのと同じく。

 ひとつひとつの花が、それぞれに輝く世界を『浄土』なんぞと呼ぶ。

 んが、私の仏華にはゴムホースも必要ならば、「ごめん、今日は忙しいから娘と一緒に居てられへんねん」というママと娘の協力があり、花を提供して下さった方の協力があり→無量無数の『それぞれ』の『お陰様』がある。

 『それぞれ』と言ってしまうのは、私に『個』があるからなんだが、しかしながらやはり私に『個』がある以上、『個』からの解放の道を歩まざるを得ないわけであって、故に『それぞれ』であり、『バラバラで一緒』である。

俗名の伝統と、法名の伝統

2010年03月17日 | 坊主の家計簿
 なにやら鳩山邦夫氏が坂本龍馬になるらしい。与謝野氏と舛添氏を繋いで新党を作るとかうんたらかんたらである。舛添氏は人気があるから、新党を作れば結構エエ感じになるのかも知れん。ついでに『国民新党』『平沼グループ』と結束して、自民党からも議員を引き連れて新党を作れば結構デカイ勢力になったりするかも知れん。でも、「それって、自民党とどう違うねん」と突っ込みを入れたくなる気がするのだが。。。単に『自民党』っちゅう看板で勝てなくなったから、「ほな、看板かえましょか?」と。「どうせうちのおじいちゃんが作った党やし」なんぞと言いながらでんな。。。
 新党の名前は『日本自由党』っちゅうのはどうだろうか?んで、兄弟合併して、新生『自由民主党』を立ち上げての政界大編成、保守合同の衆参共に圧倒的大多数の議席を持つ政党の完成でっせ。
 
 いや、これは面白くないか。それならば『友達の友達』に日本国籍を取得して貰って党首になってもらう、っちゅうのはどうだろうか?なんせ、アルカイダである。日本にアルカイダの政党が出来るのだ。極右&極左の反米勢力を結集して北朝鮮、イラン、パレスチナと連携を組み、中南米諸国と連携を組み、裏で中国と繋がってアメリカ帝国を壊滅させるのだ。「私、坂本龍馬は黒船の恨みは忘れておりません。武市さん、あなたは若かった。私の様に何度も輪廻を重ねて、今ようやく黒船を追い出す事が出来るのです。」「龍馬、そうだったのか。俺が悪かった。龍馬を裏切り者扱いして悪かった。そして私は若かった。確かに一度の生涯だけで黒船を追い出せる事など不可能だったのだ。龍馬、今夜は飲み明かそう」なんぞと。。。

 しっかし、龍馬伝を見るたびに、「坂本龍馬を暗殺したのは岩崎弥太郎ではないのか?」なんぞと疑ってしまうのだが。。。
 っちゅうか、龍馬ってそんなに偉かったのか?よう知らんが。薩長同盟だって、んなもん、桂も西郷も政治家やし、心中では手を組みたかったに違いないわけであって、「だって、坂本龍馬が勧めたんだもん♪」と大義名分を立てただけではないのか?坂本龍馬の裏には武器商人・グラバーがおったわけであって、んなもん、薩長が手を組んでグラバーから武器買って倒幕したらエエねんし。まあ、自民党政権を倒す為に小沢氏と手を組んだ労働組合みたいなもんでっせ。「政権交代をしないと日本は変わらない」なんぞと倒幕運動でっせ。まあ、心中は政権を取りたかったのだろうが。それが政治やし。

 そう考えると鳩山邦夫氏の動きは注目に値するのではないか。なんせ、「友達の友達がアルカイダ」なんぞと発言してしまう『お調子者』である。エエキャラである。なんとなく、どこか憎みきれないキャラである。こういうキャラだからこそ、結構「だって、邦夫が云うんだし♪」という感じでやなぁ。。。しかも『鳩山ブランド』やし。

 政界の次のテーマは現行憲法の改憲であろう。政権交代は終わったし。次は『改憲祭り』である。当然、民主党も割れるであろう。ならば、鳩山兄弟が中心となった新生『自由民主党』が改憲を実現すれば、お爺ちゃんの念願だった

【平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う。
 世界の平和と国家の独立及び国民の自由を保護するため、集団安全保障体制の下、国力と国情に相応した自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退に備える。】(自由民主党『党の政綱・六』http://www.jimin.jp/jimin/jimin/rittou/index.htmlより)

 が適えられる。ちなみに自由民主党の党の政綱や、立党宣言が出された昭和三十年十一月十五日当時の総理大臣は鳩山一郎氏であり、っちゅう事は自由民主党の総裁も鳩山一郎氏だったのであろう。
 そう考えると、鳩山由紀夫総理が普天間基地移設問題で「なんで日本に米軍基地があらなアカンねん」等という世論を高めている事がよく解る。つまり、鳩山兄弟はお爺ちゃん思いのエエ孫なのである。「お爺ちゃんが適えられなかった事を。。。」と。レッツ美談である。近年稀に見るお爺ちゃん孝行のエエ話ではないか。。。

 ちなみに釋氏(法名)が受け継ぎ伝えて来た事もある。

【念仏とは、「あらゆるいのちあるものと共に生きたいという仏の願いを忘れず、心に思い念じる」ことだ。
 その願いは、時代、人種、民族。国境、宗教、文化の違いを超えて、受け継ぎ伝えられてきた。
 それは迷いと不安を抱えて生きている私たち一人ひとりにかけられた願いだ。
 その願いをかけておられる阿弥陀仏のいわれをよく聞きわけ、信じて生きるという表明が「南無阿弥陀仏」という真実の言葉。
 「なみあむだぶつ」には、「いのち」の広さ、深さ、重さがこめられている。
 「念仏」をあえて英訳するなら「キャリィ・オン・ブッダ」(Carry on Buddha)になる。
 キャリィ・オンとは、大切な事をたしかに受け継いで伝えていくと言う意味だ。「いのちの願いをうけつぎ伝える」こと。それは人間に生まれた者の大きな使命を現している。】(戸次公正氏)

 である。

 憲法九条の願いは別に憲法の話だけではない。

【比丘達よ、人間の寿命が十歳のとき、七日の間激しい戦乱が生じた。彼らはお互いに鹿の想を受けた。そして、彼らは各々鋭い刀を手に持って現れた、その鋭い刀によって、『これは鹿だ。これは鹿だ』と、各々がお互い生命を奪い合うのである。しかし、比丘達よ、これらの衆生のある者に、次のような念が生じたのである。『我々はだれをも害することはできないし、まただれもが我々を害することはできないのだ。それでは、我々は叢林や樹木の間の穴に寄り掛かり、河の洞穴や岩窟に隠れ、木の根や果実を食して身を保つことにしよう。』
 そこで、彼らは叢林や樹木の間の穴に寄り掛かり、河の洞穴や岩窟に隠れ、木の根や果実を食して身を保ったのである。そして、その七日が経過した後、彼らは叢林や樹木の間の穴や、河の洞穴や岩窟から出てきて、お互いに抱き合い相集まって、喜び祝って、こう言った。
『喜ばしいことだ。あなたも生きているのか。あなたも生きているのか。』
 そのとき、比丘達よ、彼ら衆生には次のような念が生じたのである。
 『我々は不善法を行じたことにより、長いこと近親を滅ぼすことをしてきたのだ。それならば、我々は善法を行じようではないか。では、どのような善を行じたらよいのだろうか。そう、我々は殺生を禁じよう。我々はこの善法を受持することにしよう。』
 そこで、彼らは殺生を禁じて、この善法を受持した。そして、彼らは善法を受持することによって、寿命は延び、顔色は美しさを増していったのである。彼らの寿命は延び、顔色は美しさを増していき、人間の寿命が十歳のとき、その子の寿命は二十歳となったのである。 】(転輪聖王獅子吼経より。ただしhttp://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/tennrinnou.htmからの引用)

 っちゅう経典もある。

自分の時間

2010年03月15日 | 坊主の家計簿
【ところが、黒悪道としてこの「浄土の真宗は証道いま盛なり」の「証道」を読むと、まったく違ったものになります。それは「黒悪道」というのですから、その迷える者、そういった世界に突き進んでいく者たちが後を絶たないということです。救いを捨てて生きようとする者たちが後を絶たないということを、「証道いま盛なり」と言うのです。むしろ仏教を捨ててでも念仏に生きた人たちが増えたということです。仏教の救いを捨てて、念仏に生きた人たちが後を絶たないということを、「証道いま盛なり」と言っているのではないでしょうか。黒悪道が目指すものは、救いを求めるのではなく、救いから救わざる者に向かって歩みだすことです。】(梶山敬一『真宗』2010年3月号42頁より)

 という文章を読んでいると、膝の上に居た娘が「パパ、それを私にも読ませて」と、手を差し出して来る。さすがは本願である。力ある言葉は乳幼児さえも動かすのであろう。。。
 つーか、まあ、何にでも手を出したいお年頃なんだろうが。。。

 しゃて、今日は初めて行く所の法事。何やら葬儀→満中陰までは田舎のお寺さんにやって貰ったらしいのだが、「近くのお寺さん」っちゅう事で連絡して来てくれたので一周忌法要。法事が始まる前に雑談してたら、何やらその寺の先代住職は、いわゆる『お東紛争』に深く関わっておられたらしく、寺の名前を云ってくれたのだが、寺の名前では解らずに、名前を聞いたら、名前はうる憶え。でも、キーワードから「ひょっとして○○さんですか?」と、当時の宗務総長の名前を言って、帰って来て寺の名前で調べたら、その宗務総長だった。で、当時の宗務総長の息子さん(?)である、現住職が付けた院号付きの法名が素晴らしく、法話ではその院号と法名を使って喋らせて頂いた。

 夜は、報恩講の講師依頼に出かける。「5分だけ時間を下さい」だったのだが、結局2時間ちょい話してた事になるのか。
 ちなみに講師の法話は聞いた事がない。でも、寺の歴史の事も踏まえての選択だったし、梶原先生が『医師』としての現場の中から法話をして下さるように、依頼した講師の方も多くの『苦』を抱えた方々との出会いの中で生活しておられるので今回来て頂く事にした。
 諸々話している途中でも他に数名来客があり、電話がある。まあ、依頼していた場所が講師の職場でもあるからなんだろうが、「夜、何時でんねん」っちゅう話でもある。

 元々飲み屋をやってた私は接客は得意でもある。まあ、それでないと店なんぞやってられへんし。でも、決して『人と話す事が好き』というわけでもない。だから、飲み屋時代に店が終わった後に飲みに行ってたし。今でも、学習会なんぞの帰りに終電までに時間があれば一人で飲みに行く。まあ、飲みに行った先で喋りまくったりするのだが、あれは『自分の時間』であって、『付き合い』ではない。
 当然、『付き合い』も楽しいのだが、それこそ、デートが終わった後にでも一人で飲みに出かけるぐらいだったし。数人で飲みに行ってワイワイした後でも、帰りに一人で飲みに行きたくなるようなヤツである。

 『自分の時間』。それこそ、このネット遊びの時間なんぞは典型的な『自分の時間』だったりする。辞めようと思ったら「眠い」で済む。んが、他人と一緒ならばそうはいかん。相手に断らんとアカン。「ゴメン、眠いから帰るわ」とか、「ゴメン、しんどいから帰るわ」なんぞと。

 梶原先生の文章を読んでて「安心、安心なんぞといっておるが、安心なんか宗教の堕落じゃないか!」といった意味合いの安田先生の言葉を思い出す。

 娘を膝の上に抱っこして本を読んでいると、娘が手を出して来る。パパは「仕方がないな」と、本を置いて娘と向き合うのだが、やはり「仕方がない」と。つまり、娘よりも『自分の時間』=『我』を大事にしている事を思い知らされる。

カニ

2010年03月14日 | 坊主の家計簿
 晩ご飯を食べながら『史上空前のリレー旅大阪発!ニッポン縦断ローカル線』っちゅう、恐らく関西ローカルのグルメ旅番組を見る。メッセンジャーあいはらと、宇都宮まきちゃんも出てたし。
 見ながらママと2人で「旅行に行きたい。。。」と呟く。

 そんな経済的余裕があるのかないのか知らんが、気分的にパッスンパッスンなのでネットで「かに」と検索して調べる。
 かにである。かにツアーである。茹でガニ、焼きガニ、カニの刺身、カニの天ぷら、カニ酢、そしてカニ鍋→かに雑炊のフルコースである。。。食われへん、っちゅうねん。10年程前に、つまり30歳ぐらいの時にやって「もう、カニの顔なんかみたくない」「他のもんはないのか。。。」と悲鳴を上げた事が、40になって出来るとも思わんのだが、気分的欲求では「そんな事云うて、カニが足らんかったらどうするねん!!!」と。まあ、「他のもんを食っとけ」なんだが、せっかくカニなので、カニ三昧をしたい気分ではあるのだが、う~ん。。。
 
 牡蠣でもエエ。カキフライ、生ガキ、酢ガキ、焼きガキ、牡蠣鍋、次の日は日生名物『カキオコ』で牡蠣三昧だ!!!って、俺、そんなに牡蠣好きやなかってんなぁ。。。酢ガキも、生ガキも食べられへんし。

 本当に行きたい所は『茨城空港』やったっけ?あれが出来たので茨城だったりする。親鸞旧跡巡り第二弾に行きたいし、笠間の街に泊まりたい。エエ街やったし。んが、遠い。一泊二日の日程でしか無理なので、しかも金銭的にも厳しい。往復の飛行機代だけで2人で2万以上するし。向こうでレンタカー借りたりしてたら大変、大変。なので、却下。

 熊野にイルカを食いに行きたい気もするのだが、イルカやマグロなんぞのデッカイ魚(あれは魚や。勝手に哺乳類にするな)は水銀疑惑もあって、ママに食べさせたくないし。個人的にはイルカを食いながら大量の酒を飲んで、その辺に白人が歩いてたら「テメーは野菜だけ食っとけ!」と大根でドタマをぶん殴りたい気もしないわけでもないのだが。まあ、典型的なステレオタイプの差別行動なんだが。。。

 よう考えると、娘にとって初の『お泊まり』になる。っちゅうか、初旅行なんだが。
 一応、パパは京都で襦袢を買いたい。大阪でも売ってるのか知らんが、どこで売ってるのか知らん。買い親しんだ法衣店で買うのが無難だし。んなら、ついでに本山に娘を連れて初の寺参り。ん?うち、寺か。っちゅうか、この間、仲人の寺にも行ったのぉ。。。んが、まあ、初の本山参りである。
 経済的理由でもって車で行く予定なので、行った事のない近江八幡にある住蓮・安楽の墓にも行きたい。

 娘の名前は恵里である。「里に恵まれ、里を恵む」の恵里である。名前の裏には流罪がある。「里に恵まれ」だけではなく、それが故に「里を恵む」も入っている。

【安楽房は後鳥羽上皇に直接、念仏者を迫害し念仏を誹謗されるのに対して、回心懺悔されることをすすめ、六条河原で断首されています。
 しかし、その後鳥羽上皇は安楽房のいのちがけの念仏のすすめにより、のちに隠岐に流されて後、念仏者となり、無常講式を作り、念仏者を讃嘆しています。それが蓮如上人の白骨のお文にもなっています。
 門徒は、絶対の権力をもつ天皇も阿弥陀仏の本願真実、浄土真実に背ききることはできず、必ずその本願真実、浄土真実に信順するほかないことを充分にうけとめていたといえます。
 この伝統こそ、法難を逆縁として真宗が興隆することを証明しています。】(竹中智秀『青草第195号』より)

 である。
 だから、娘に「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、ファック!」と、指で示しているのだ。決して「パパの云う事は絶対」なんぞという私の奴隷になって貰いたくないのだ。って、まあ、これもどんなもんだか(笑)

 っちゅう事は、京都から湖東に向かうコースが出来る。まあ、帰り道でもエエのだが。っちゅう事は、やっぱし、若狭辺りかな?海が見たいし。
 良さそうな宿もあったので、ママと相談して決めよ。

♪ヒマラヤ程の消しゴムひとつ

2010年03月13日 | 坊主の家計簿
 風邪の回復に従って気力の回復も。んでもって、iPhoneのアプリをぶち込んでみたりする。ほぼ無料アプリなんだが、ひとつだけ『Bloom』っちゅうブライアン・イーノが作った音楽アプリを450円で買う。ケチなので迷ったのだが、ブライアン・イーノが450円って安い。ので、ゲット。少し遊んだけど、「おお、イーノやんけ。。。」である。

 先日、アカデミー賞関連で『アバター』っちゅう映画の監督がテレビに映ってた。「なんや、ジジイやんけ」と。いや、3D映画らしいので、勝手にもっと若い人が監督してはると思ってたんだが、55歳だったのね。

 ブライアン・イーノは61歳。『Bloom』っちゅうiPhoneアプリは2009年10月31日に出たらしいので、イーノ、変わらず若いぞ。
 いや、イーノなんぞ、今まで散々仕事して来てて、それこそロキシー・ミュージックだけでも充分過ぎる程の活躍した人生やったやろうに。ソロも素晴らしいし、んでもってiPhoneアプリですかい。いや~、若いぞ、若い。きっと、貯金も散々あるやろうし、っちゅうか、印税収入もあるやろうし、地位も名誉も財産もあって、まだiPhoneアプリを作りまっか。いや~、若い。

 若いと云えば、我が娘。関西では「おっちん」といったりするのだが、つまり座れるようになって来た。ずりずりしながら前進も出来るようになって来たし、今まで超えれなかったハードル、っちゅうか、枕なんぞのガードを超えて行きやがる。よって、パパは100円ショップに出かけて手作りベビーサークルを作る。

 用意するもの。
 ダイソーで200円で売っている、ほれ、え~と、アミアミのネット、きっと中に金属なんぞが入ってて、ものを吊るしたりするのに便利なネットがありまんがな。あれの一番デカイ(40センチ×60センチぐらいやったかな?)を10個用意する→結束バンドで固定して余った部分をカットして完成。
 娘、今の所、このハードルは超えれないのだが、その内に超えて行きやがるのだろう。

 あ、ちなみにiPhone用の正信偈のアプリがあった。
 http://www.trifeet.jp/modules/tinyd0/index.php?id=7



宗教者『天皇』

2010年03月12日 | 坊主の家計簿
 http://www.asahi.com/national/update/0311/TKY201003110238.html

 さすがは宗教者『天皇』である。
 んなもん『お爺ちゃん』としたら、「うちの孫になにをしてくさっとるねん!」っちゅう話なんだろうが、さすがは宗教者『天皇』である。
 
 いや、だって、『愛子さま登校問題』っちゅう一連の報道を見た時に真っ先に感じたのは、「おい、この問題児ってネットにアップされへんやろな」である。学習院でその『問題児』に困っている人が『名無し』で2ちゃんねるなんぞに情報提供したら、アウトでんがな。こういう事を金にする人もいてるだろうし、「お前のガキが何をしてるのか解っているのか?」と、まあ、学習院に入れるくらいの経済状況のある家庭に対して、そういう事を云って来る人も居てるやろうし。直接親が出さなくとも、狙ったら学習院下校時に生徒を捕まえて情報提供を求めたらエエだけの話やねんし。

 しかし、宗教者『天皇』は

【「事柄が愛子さまと学校、さらには数名の児童ともかかわりをもつことから、いずれかが犠牲になる形で解決がはかられることのないよう、十分に配慮を払うことが必要ではないかと思う」】(上記リンクより)

 である。
 素晴らしい。天皇にしとくのは勿体ないぐらいの宗教者である。

たこ焼きは究極の精進料理である

2010年03月11日 | 坊主の家計簿
 ようやく「御近所のニンニクらーめんを食べて風邪を治す!」っちゅうぐらいに回復。なんだが、昨日、イライラしまくり(今もだが)だったので、タバコをプカプカ吸ってもうて、咳が。。。っちゅうても、これも一時期に比べたらマシマシ♪
 なので、久々に娘と遊んだりの一日であった。。。っちゅうても、他の何かまでをする気力はなく、お参り以外にした事は「灯油を買いに行った」っちゅう事だけである。まあ、「ようやく買えたわ。」っちゅう感じである。
 
 大谷派のホームページを見たら、なにやら『子ども向けの精進料理レシピ募集』っちゅう事である。

 http://higashihonganji.jp/topics/child/child_recipe.html

 だいたい、親鸞の好物は『ますたに』(http://r.tabelog.com/kyoto/A2603/A260302/26001839/のラーメンでは無かったのか?そして流罪後に越後に流されて出来たのが『燕・三条背油らーめん』ではなかったのか?それが精進料理だと。はあ?血迷ったか。んなもんは他宗に任しといて、多いにこってりしたラーメンを食べようではないか!
 
 っちゅうても、まあ、こってりラーメンだけでは法事なんぞの後に物足りないかも知れんし、だいたい、作るとなると大変である。しかも子ども相手となると、「君たち、子どもの頃からこんなものを食べていると成人病になってしまうよ。成人病はその名の通り未成年がなると警察がやって来て逮捕されるから、なったらダメなんだよ」という問題が出て来る。きっと子どもにこってり背油ラーメンを食べさしたりしたら、その『食べさした大人』も未成年に酒とかタバコを強要したぐらいの罰則になってしまうかもしれん。それはイヤである。
 そう考えると大変である。ホルモン系もヤバい。肉系もヤバいかも知れん。タマゴもヤバいだろう。
 っちゅう事で、うどんである。讃岐地方では法事の際に必ず(?)うどんを食するように、うどんがエエ。ただ、うどんの場合、問題になるのは釜と火力である。家庭にあるような釜と火力ではエエうどんが茹で上がらん。うどんは茹でた瞬間から死に近づいて行くわけだから、やはり茹でたてがエエ。まあ、『茹でて49日目』とか『茹でて50年目』とかのうどんが食えたら話は別だが。子どもに茹でて時間が経ったうどんを食わす事は讃岐地方では児童虐待にあたるらしく、ある地方で児童虐待にあたる事を精進料理としてプレゼンするわけにはいかん。。。

 「ん!」と、私はひらめいた。たこ焼きである。たこ焼きなら誰にだって作れるし、一家に一台は必ずたこ焼きを焼くホットプレートだの、コンロ形式のがあるはずである。しかもたこ焼きを作るのは楽しく、子どもに大人気である。たこにはタウリンも豊富で、『学校』という閉鎖されたストレス空間で過ごさなければならない子どもにとって弱った肝臓を「また明日も肝臓いわしながら学校に行って来い」っちゅうのにはエエ感じである。精進料理の『精進』とは『仏道精進』っちゅう事なんだろうし、弱った肝臓の為にたこは最適である。しかも通風の危険性もなく、糖分も大丈夫だし。また、「たこ焼き食べ過ぎて成人病になってもうたわ」という声は聞いた事がない。ただし、たこ焼きの基本は「外カリ中トロ」であるので火傷には注意せんとアカンけど、んなもん、たこ焼き食って火傷するようなヤツは、お好み焼きのコテを鉄板の上に置いといてたのを忘れてて、そのまま口に入れて火傷するようなヤツやろうし、あとはその事をどれだけ笑いに結びつける事が出来るかどうかの腕を問われるだけの話である。
 しかも『たこ』は『他己』である。他と己である。
 そもそも『食』とは、他のいのちを殺して食べるものである。他のいのちを殺して、己の身にするものである。それが故に己はその責任を取らなければならない。それが仏道精進である。他のいのちを殺して生きているのが己であり、そんな己を「こんな己は好き」「こんな己はキライ」なんぞとは、

 ♪力合わせて、戦って、食べられて
  でも私たちあなたに従い尽くします
  立ち向かってって、黙って、ついてって
  でも私たち愛してくれとは言わないよ
  (「愛のうた ~ピクミンCMソング」より)

 という事に対して無礼である。

 しかもたこ焼きは真ん丸である。あの真ん丸は地球を現している。私たちは地球という星の中で多くの生き物と共に生きて、その中で『他』と『己』と分別して生きて行かざるを得ないのである。あくまでも己中心でしか物事を判断出来ず、その己中心の考え方で苦しんでいるのである。
 その事を表現しているのが紅生姜である。『紅生姜』と今日ではこういう漢字を使うが、元々は『紅勝我』である。『紅』とは血塗られた色である。己(我)中心で「他に勝ちたい勝ちたい」と思い、行動してしまい、その究極は戦争である。
 そして己(我)は天を目指す。だから、たこ焼きには天カスが入っているのだ。天を目指し、天で満足してしまう己(我)に対してたこ焼きは「んなもん、カスや」と。天すら迷いの中の世界であり、天に行きたい、天に向かいたい己(我)に対して「んなもん、カスや」と。非常に厳しい教えが天カスには詰まっているのである。

 さて、たこ焼きに忘れてはならないのがネギである。元々の漢字でいうと『根来』である。『根』とは『仏性』である。
 風邪で寝込んでた時に『縁起と空』っちゅう「何をヌカしとるねん、この学者わ」っちゅう本を読み返していたんだが、まあ、学者先生らしい仏教史を丁寧に切り込んだ論文集なんだろうが、親鸞は涅槃経の引用でのクライマックスは『無根の信』である。

【誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。】(親鸞)

 である。

【仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり】(親鸞)

 である。

 『根』は、『根本』である。
 故に、たこ焼きにはネギが必須なのである。
 ネギ抜きのたこ焼きには『他』と『己』を繋ぐ働きがない。

 っちゅう事で、風邪もマシになったので酒飲みネット♪
 眠なったので寝よ。

大変

2010年03月10日 | 坊主の家計簿
 クソ寒いし、雨降ってる中を所用で外出。いや~、ネットでは書けないが非常に貴重な体験をして来た。っちゅうても『ヤバい所』ではなく、国家の公の機関なんだが、まあ、ある意味ヤバいか(笑)誰か私の支援の会を作ってくれ~(笑)っちゅうか、速攻で手を打ってしまう私が怖い。。。風邪引いててもこういう時の頭の回転だけは早い早い。まあ、最近寝てばっかりで睡眠時間が「満足、満足。余は満足ぞ!」状態なのでクルクル回る。

 で、関係なく。
 昨日、タマタマ布団に入りながらiPhoneでネット遊びしてたら、月刊『寺門興隆』っちゅう雑誌の最新刊で「こ、これはあの先輩を取り上げた記事やんけ。。。」と。

 http://www.kohzansha.com/jimon.html

 そうなのである。このブログを初期から、っちゅうか、前の掲示板から御覧になっている方、っちゅうか、「先輩、いつも御世話になってます!」っちゅう方々は「懐かしいのぉ。。。」っちゅう方であるんだが、まあ、その方であろう人が記事になっているみたいである。まだ読んでないので解らんが。
 
 ついでにいうと、本山から寺に送られて来る、つまり役僧時代には送って来なかった(!!!!!)諸々の機関誌の中で東京の大谷派関連施設が出している中に本田哲郎氏が取り上げられていた。今は本田哲郎氏と一緒に活動してはる事が多い先輩なので、「大阪にあなたの所の宗派の方が私と一緒に活動しておられますよ」なんぞと云ってくれたのかな?まあ、「へ~」ぐらいで終わるかも知らんが(笑)

 ちなみに今回の記事で書かれているかどうか知らんが、その先輩にも見合い→住職の話があった事があるらしい。ただ、先輩のお父さんが釜ヶ崎を通じて働いておられた方だったので、見合い先の坊守(?)が「で、その方のお父さんの職業は?」と云う事でダメになったらしい。え~。。。こういう話には無条件に殺意を抱くのだが、だからといってステレオタイプにはしない。だって、

【もし勇樹さん、あなたと娘が縁あって別れることになった場合、勝光寺住職として娘を捨てて勇樹さん、あなたを選びます。どうかよろしくお願いいたします」】(能邨勇樹 能邨英士選集『よきひとのおおせをかぶりて』真宗同朋会運動を生きた人 P284~285より)

 という方も居られる。
 ちなみにうちは別。っちゅうか、以下自粛。

 『能邨英士』でこのブログ内で検索すると出て来ないので書いてなかったのかな?能邨英士さんが宗務総長だった頃に、私は東西本願寺の若手僧侶と、とある会をしてた。んで、機関誌を大谷派に送ったら議長の所に能邨英士宗務総長から直々に電話があったらしい。それもクレームではなく、「素晴らしい会ですね」みたいな感じで。直々である。なんか、その姿勢に感動した事を憶えている。

 んが、まあ、先輩が出くわした坊守さんみたいな方もおられるのであって。。。

 寺族批判をしてた、それこそ卒業生の会の機関誌にまで寺族批判をしていた私も今は見事に『寺族』である。その象徴の就職である。
 私は私の娘が寺の跡継ぎの候補者の一人になって貰いたかったりする。やっぱし。なんちゅうんですか?まだゼロ歳児の間から「ひな壇の赤はアイヌモシリ、琉球民族、被差別民衆の血塗られた赤やねんで」と英才教育しているわけだし(笑)しかも女の子であって、私が預かっている寺の伝統では女性住職はいない。女性の代表役員がママだったのだが、『住職』からは逃げはったし。道場時代からを含めると518年の歴史があるなかで女性住職がいても不思議ではない。んが、無かったわけやし。だからといって「お前が初の女性住職になるのだ!」っちゅうのも親のエゴにしか過ぎない。娘が「私もやりたい」と声を挙げて、他の候補者と比べて「んじゃ、誰がエエのか?」っちゅうのを選んでもらうしかない。まあ、私も住職として一票持つ事になるのだろうが、娘よりも適任者が居たら、娘には諦めてもらうしかない。
 と、まあ、『今』は書いて居るのだが、実際になるとやはり欲望が出て来る事だろう。それが煩悩具足の凡夫なわけなんだし。んが、まあ、んなもん『煩悩』にしか過ぎず、煩悩を肯定したら煩悩が煩悩でなくなってしまい、浄土もクソも関係なくなる。
 ちなみに、そういう事は寺の通信にも書いたので、きっと「お前、昔こんな事書いてたやんけ」であったり、「念仏申せ!」と批判してくれる人も出て来るであろう。真宗サンガですし。

 「ついで」と言ったら失礼なんだが、ついでに能邨勇樹氏の書かれた文章を久々に全文読む。

【今、改めて父を憶念するときに私は、「信念(信心)」という言葉を想起します。「信念(信心)」とは普段見えませんが、いざという時、決断の時に具現化するものだと思います。つまり、その人が何を依りどころにしているのか、本当は何を根拠としているのか、いざという時に表われるのです。たとえ日頃からどれだけ雄弁に語っていても、その時その場で決断できなければ、語っていることは観念であり空論であると言わざるを得ないのではないでしょうか。その意味で、いざという時、決断の時というのは、その人の生き様が凝縮された時ではないかと思うのです。そう考えると父は、宗門人として宗門行政に携わっていく中で、幾多の決断をしてこられました。あえて茨の道を突き進んでいかれることもありました。そのすべてが信念に基づいて歩んでおられたことであります。】(能邨勇樹 能邨英士選集『よきひとのおおせをかぶりて』真宗同朋会運動を生きた人 P284より)

 厳しい。。。「先生、ごめんなさい。。。」っちゅう感じである。私に真っ先に出て来る決断は暴力である。まあ、『暴力』と云っても色々あるが、その『色々ある中』での暴力が真っ先に出て来る。『身に迫って』でない時には他の判断、まあ、「全て、教えて貰ってるもんやで」なんぞと言えたり、決断出来たりするのだが、『身に迫って』の場合、無条件に暴力が出て来る。そういう時は「先生、ごめんなさい。。。」っちゅう状態、つまり「阿弥陀さんに合わせる顔がない」っちゅう状態で阿弥陀如来と関係せざるを得ないのだが。。。
 論理は得意、つまり「言い訳」が得意だったりするし。つまり「悪いのはアイツや!」と、決して「我に罪あり」にはなり得ない。反射的に暴力装置が働いてしまって、

【恨みに依らず、「悲しいね」って言えるかどうか、「南無阿弥陀仏」って言えるかどうか】(by鍵主良敬)
 
 には、なかなかならんかったりする。
 縁起を無視して、「あいつだけが悪い」になってしまい、『共に』も『共業』もクソもない状態に陥ってしまう。

【宅間さんに対して私(たち)は謝らんとアカンのと違うかな】(by小山広明)

 には、なり得ん。
 なり得んのだが、「ほんだら、どっちが正しいねん」と云ったら、私は諸先輩達・同朋達から伝えて頂いた念仏の教えを『正しい』と言わざるを得ない。感情では、気持ちでは、『思い』では許す事が出来なくとも、それが私を許してくれた教えだから。

【「決断をしなければならない時があったら、楽な道と大変な道の場合、大変な道を選びなさい」と言われたことがありました。その理由を尋ねると、「実際に選んでみたら分かります」と笑っておられましたが、そのあと「問題によって多少ケースが違っても、大変な道の方がほぼ正しいと、経験上思う」と言われ、それ以上語られませんでした。】(能邨勇樹 能邨英士選集『よきひとのおおせをかぶりて』真宗同朋会運動を生きた人 P285~286より)

 大変な道は大変なのだ。。。当たり前なんだが、それが『共に生きている実感』なんだが、やっぱし大変な道は大変なのだ。。。

ダウン。。。

2010年03月08日 | 坊主の家計簿
 ふっふっふっふ。。。見事に風邪でダウン。最初、タバコの吸い過ぎで喉が痛いとばっかり思ってたら、段々と熱が出て来てでんなぁ。。。よって、仕事だけして、あとは寝込む。もう、見事に「風邪やし、天下一品のこってりラーメン食わんと」っちゅう気力もなくなるぐらいに寝込む。オモクソ睡眠。
 
 んでもって、本日、少し復帰。いや、もうちょい寝込まんとアカンねんけど、ちょい用で「寝込んでる場合違うわ!」と。ついでにネット遊び。
 っちゅうか、やっぱし、寝よ。

3月3日は肉食妻帯デー

2010年03月04日 | 坊主の家計簿
 ひな祭りだった。
 今年早々だったか年末だったか忘れたが、実家のオカンから「ひな人形どうする?」との事。初孫が嬉しくてたまらないオカンは『嫁ぎ先(?)で女の子が産まれたら婿(嫁)の実家からひな人形を贈らんとアカン文化圏』の人らしく、かつ、子どもが2人とも男子だったので、ひな人形が買える事が嬉しくってたまらない感じだった。んが、残念ながら息子は「ひな壇の赤はアイヌモシリ、琉球民族、被差別民衆の血塗られた赤じゃ!」と、素直に育ったので気持ちだけ有り難く頂く事にして「いらん!」と。
 嫁ぎ先(?)であるここは女兄弟2人なのでひな人形があるのかどうか知らんが、ママが「ひな祭り♪」と、娘の初ひな祭りを楽しみにしていたらしいのだが、パパの「なんで寺に『お内裏様』を飾らんとアカンねん」という一言で終了。挙げ句にパパは娘を抱っこしながら「ひな壇の赤はアイヌモシリ、琉球民族、被差別民衆の血塗られた赤やねんで」と語りだす。
 まあ、「ひな祭りだから今日の晩ご飯はちらし寿司」なんぞと言ってたが、私は外出してたのでちらし寿司を作ってたのかどうか知らんままのひな祭りであった。

 しかし、パパは少し反省する。やはりこれは少し頑固過ぎるのではないかと。娘だってきっと「パパ、ひな祭りがしたい」なんぞと言い出すかも知れん。う~ん。。。悩む。

 っちゅう事で

 ♪あかりをつけましょ 仏壇に
  お花をあげましょ 菊の花
  正信偈の 声明
  今日は楽しい ひなまつり

  親鸞さまと 恵信尼さま
  ふたりならんで お念仏
  お婿にいらした 兄さまに
  よく似た安楽 白い顔

  金の仏具に うつる灯を
  かすかにゆする 線香
  少し焼酎 めされたか 
  あかいお顔の 住蓮

  色衣にきがえて 五条つけ
  今日は私も はれ姿
  春のやよいの このよき日
  なによりうれしい ひなまつり

 っちゅうのはどうだろうか?
 親鸞と恵信尼がいつ結婚したのが知らんが、っちゅうか、資料がなかったと思うのだが、ならば「年度は知らんが3月3日」にして、『3月3日は肉食妻帯デー』と、焼き肉を食べつつ、マッコリを飲んで祝う日にしたらエエのではないか?これなら娘&ママとの妥協案になるのではないかと?
 無理か。。。

ハンドベル

2010年03月02日 | 坊主の家計簿
 遅ればせの寺の通信を作ってたんだが、「あ、資料を読まんとアカン」っちゅう所でストップ。え~。。。明日は配布先がないし、今日行った所には「度々なんですが、また今月も遅れてまして。。。」と謝罪。なので、明日中に完成させんと。
 
 っちゅう事で、資料を読んで通信を完成させる気力がなくなったので、ネット遊び。

 先日、2月27日に『大阪宗教者九条の会五周年記念・大阪宗教者9条ネットワーク発足』
 http://osaka9j.rz.com/
 っちゅうのに参加する。
 元龍谷大学学長の信楽先生が来られると云う事で、書物でしか知らなかったし、一度お話を聞きたいと思っていたので参加する。んが、信楽先生の話も良かったけど、カトリック系の学生さんがやってたハンドベルが素晴らしかった。
 ちなみに私はパンクスである。パンクスなのでハンドベルを好んで聞く事はなかった。だからだったのだろうが、ホンマに素晴らしかった。
 
 最初に感じた事は『不効率』であった。だって、ハンドベルは一人5本程度の音階しか使われん。ピアノでやるのならば一人で充分だし、ハンドベルを機械化すればこれまた一人で出来る。でも、一人5本程度の音階のベルを持って、みんなで奏でられるメロディーが素晴らしく、素晴らしく、おっちゃん、思わず泣きそうになった。
 ちなみに、『大阪宗教者九条の会』は、超宗派、っちゅうか、目の前に天理教の法被着た人が居てたり、「念仏申したら無間地獄に堕ちるぞ!」の法華の人達も来られてた。どれだけの宗教団体の方々が来られてたのか知らんが、『念仏VS法華』みたいな宗教対立の関係の所もあっただろう。昔はそれこそ山科本願寺を焼かれたりした関係だったんだから。
 んが、今回はご一緒。その事がハンドベルと重なって、「おお、エエ感じやんけ」と。それぞれがそれぞれの現場で与えられた音を鳴らしている。それが一つのメロディーとなって、「ああ、美しい。。。」と。

 会場を本願寺派の北御堂から大谷派の南御堂に移して、南御堂で簡単な法要。集会でのお決まり(?)の決議文を採択して、御堂筋をデモ行進。
 南御堂を出るとすぐに違う意見の人達の叫び声。
 最後まで残った100人ぐらいの人達とデモ行進。不真面目な私はシュプレヒコールをせずに歩く。いや、最初にデモに参加した18頃から、どうもシュプレヒコールっちゅうのが性に合わんかって、最近はしまへんねん。と、まあ、歩いてたら、違う意見の人達がヤジ(?)で「なんや。年寄りばっかりやんけ!」と。ああ、41歳はもう年寄りなのね。。。確かに子どもも居てるし、「兄ちゃん」でなく「おっちゃん」と呼ばれる事に慣れて来たのだが、やはり年寄りなのね。。。と、若干ショック(笑)

 デモの様子がYoutubeにアップされていた。
 http://www.youtube.com/watch?v=-CmuEH1vpQE
 http://www.youtube.com/watch?v=OeFRxsNUxKc
 http://www.youtube.com/watch?v=GPQbUvs_Zuk

 ずっとバタバタしてた、っちゅうか、してるので最初のやつの始まりを少ししか見ていないのだが、ふと、小川紳介の『パルチザン前史』を思い出す。
 
 帰りに『元暴力学生』(笑)のバーで飲んで色々と喋ってたのだが、私らのデモは合法なのだ。警察に届けを出して、で、機動隊に守られてデモ行進をする。それに対して違う意見の人達は歩道から意見を叫ぶ。なので、機動隊は違う意見の人達を取り押さえようとする。最後の辺りでは5~6人に取り押さえられてたし、ひょっとしたら捕まったのかも知れん。これを逆で考えたら、無茶苦茶怖い。
 映画『靖国』の中で靖国神社内での記念行事(?)時に記念行事に対して『無許可』で抗議をした人が、『記念行事をしたい人達』から殴られていて、その後、警察に確か「病院に行こう」と連れて行かれそうになった時に「これは弾圧だ!」みたいな事を叫んでたが、あれが弾圧ならば、今回の事だって弾圧である。国家権力による言論の弾圧である。確か、最後辺りに囲まれていた人は拡声器も持ってなかった。拡声器は騒音の問題でヤバい場合もあるだろうが、大声でデモしてる私たちに叫ぼうが犯罪にはならんと思うのだが。まあ、法律はよう知らんが。
 何かのおり、例えば『佐藤訪米』でもエエのだろうし、どこかのお偉いさんが日本にやって来た時に路上から大声で「帰れ!帰れ!」と叫んで逮捕されたらたまったもんではない。

 以前は『左派』が反権力だったのかも知れんが、その左派の人達が多く支えたりする政党が与党だったりする。つまり、『国家権力の側』だったりする。
 『左派』と呼ばれてた運動の流れは市民運動になってたりする場合もある。そして、ウケが良かったりする。派遣村の人なんぞ、昨日NHKで特番組まれてたし。
 確か宮崎哲弥だったと思うが、「右翼という言葉は一時期差別用語であった」と語られていた。私も『左派』の流れの人達に若い頃育てられたのでその感覚は解る。解ると同時に私の中にそういう意識があった事、差別意識があった事を厳しく指摘されて、反省した。

 九条ネットから出馬されたとある念仏者の先輩は、「憲法改悪なんて、そんな言葉はないやろう」と、九条関係の集まりで語られておられた。バリバリの『運動家』でもあるのだが、バリバリの『念仏者』である方である。意見が違うだけなのだ。意見が違う『人』なのだ。同じ人間なのだ。意見が違うだけである。そして、意見が違うだけで『鬼』にしたりしてしまう事は、昔も今も変わりない。

 878 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。──「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。
 879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人でない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真理なのであろうか?
 880 もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であって、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
 881 またもし自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるのならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるから。
 882 諸々の愚者が相互に他人に対していうことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。
 883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の<道の人>は同一の事をを語らないのであろうか?
 884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。
 885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか? かれは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか? あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?
 886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考研を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
 887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
 888 反対者を(愚者)であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
 889 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。
 890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称しているのであれば、諸々の、<道の人>のうちには愚者は一人も存在しないことになる。
 891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。
 892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。
 893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
 894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。
 (スッタニパータ『並ぶ応答-小編』)