坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

16ギガ

2009年04月30日 | 坊主の家計簿
 法要準備。「動け!動け!」と動きまくる。
 疲れての帰路、「あ、そういやSDカードを買っとかんとアカンねんやった」と電気屋へ。前に買った8メガのやつは仏前結婚式&披露宴が入ったままであって、え~。。。要するにこのMacではDVDに焼けないのでそのまま状態。まあ、DVDに焼いても保存しときそうな気がするのだが。
 今度の法要も記録しておきたいので、SDカードを求めて電気屋へ。16ギガが6980円で売ってたのでゲット。余りにも安かったので店員に「これって大丈夫なん?」と一応聞く。店員は当然「大丈夫ですよ」と答えるしかないのだが、これで何かあった時に「お前の店の店員が大丈夫って云うたから買ってんやんけ!」と云えるし。 
 しかし、16ギガである。最初に買ったパソコンのハードディスクはどれくらいやったかな?何にしても恐ろしい数字である。

 帰宅してパソコン探し。やっぱしDELLかな?パソコン業界のユニクロみたいなもんやろうし。安いのがエエ。評判も諸々見たが、まあ、大量に売れれば文句も大量なわけであって、んなもんやろ。

日本

2009年04月29日 | 坊主の家計簿
 元所属寺の永代経法要へ。
 んが。。。クタビレ果てて仕事終了後に「30分だけ仮眠しよ」モードだったのだが、クタビレモードが勝つ。よって法要終了後の飲み会だけ参加。

 いや、今居る寺の大法要前だったので行けるかどうか解らん状況だったのだが、え~。。。気分的な余裕がなく、半年前の報恩講時には「もっと光を!」っちゅう仏具の輝きも今は全く気にならない状況であって、「まあ、門徒さん達が仏具磨きしてくれてんし~」っちゅう事で「私は降ろして、並べるだけ♪」っちゅう、まあ、単純に『むっちゃサボリモード』なのであって、そういう状態で放ったらかしにしてて、かつ、本堂の内装(?)もいじったので「え~。。。解りません。。。」っちゅう事もあって、放ったらかしにしてたら昨日本堂に行くと『ニュー本堂』があって、どうやら住職が全部やってくれたみたいなので、ここは甘える。
 
 っちゅうか、後の諸々の片付け&掃除とかを考えると「あ、1日あったら十分や」っちゅう事で、元所属寺の法要に行こうと思てたんだが、せっかく上げて貰った着れる衣の色を着て、嫌がってた『内陣出仕』なんぞもやろうと思てたんだが、すっかりダウン。
 
 元所属寺の法要での飲み会。え~。。。毎度の事ながら、残って居る参加者全員からの自己紹介&意見。それを聞きつつ、何やら法話では『家族』っちゅう事を問題にもしてはったらしい。
 
 『家族』
 家族は大事だと思うが、旧来の『家族』が差別の象徴であった事も確かである。だからといって『家族』から逃げることなんぞ出来るわけもない。『逃げようとする』=『粗末にする』みたいなもんであって、そうではなく、問題がある『場』であるのなら、そこで闘って行くしかないわけであって、それが『家族』がサンガになる『道』だったりと思うのだが。
 『家長の云う事は絶対である』とか、『女は男の云う事を聞かなければならない』とか、そんなもんは単なる差別肯定でしかなく、それが『古き善き日本』なんぞというのは、単なる「天皇陛下万歳!」と何ら変わる事がない。

 『面倒だから逃げる』→『苦悩からの逃避』ではなく、娑婆世間で苦労するのが大乗仏教だろうが。それが、生きてる実感だろうが。
 三法印と、四法印との差は『一切皆苦』があるかないかの話。
 「伯母様の云う通りです」なら、苦悩などない。それは『我慢』でしかない。解放を目指すが故に『苦』である。

 「ああ、世の中こうなってるねんな。。。」は、単なる我慢大会であって、んなもんは単にサウナで「ふっふっふっふ。。。あいつは俺よりも先にサウナから逃げよった」と同じようなもんやろ。
 だから、仕来りとか、ウゼ~我慢大会をしとるねんやろ。

【世のすみうきはいとうたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。】(念仏法語より)



『ナホコ、メキシコへ』(第一話)

2009年04月28日 | 坊主の家計簿
 「みんな、私を止めないで!メキシコの子どもたちが私を待って居るの!」(『ナホコ、メキシコへ』第一話)

 え~と。。。連載が続くとは思えんのだが、まあ。

 ツアー会社に電話して、予約して、即日入金なので銀行で振込。
 ふ~、っと。
 後は大法要が済んだら仕事を辞めて、部屋の片付けを軽くしてから新婚ツアーでっせ。
 んが、まあ、これで生活が落ち着くわけもなく、婿入り道具のウイン・パソコンを買わんとアカンし、ここ数年Macユーザーの私にとっては「今のウインってどうなってるねん」と軽く勉強から始めんとアカンし、これまた大変。引っ越しもあるし、向こうでの新婚生活準備もあるし、軽自動車も買わんとアカンし、出来たらそれ等を住職修習までにやってまいたいし。
 住職修習が終われば速攻『住職継承式』っちゅうもんもやらんとアカン。頼みにしていた法話の講師がダメだったので、向こうの勧めもあって「お前が喋れ」っちゅう事になったので、下調べの準備期間も少しは欲しいし。
 それが終われば本格的に向こうでの生活が始まり、向こうでの生活は、速攻仕事を作っていかんとどうしようもないし。

 しゃて、豚インフルエンザなんぞが発生したらしい。それが冒頭の連載に繋がるわけなんだが(笑)

 もう1つ、気になるニュースがあった。
 何やら、小学校で悪さしたガキに教師が注意をしたらしい。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090428k0000e040036000c.html
 ただそれだけの事なんだが、不思議な事に最高裁まで裁判沙汰になったらしい。
 いや~。。。世の中はやはり広い。デッカイ。私には全く理解不能である。
 この『事件』といっていいのかよく解らん出来事は、別に難しく考える必要がないと思う。最初に喧嘩を売ったのはガキの方なのだ。教師にケリを入れたわけだから喧嘩を売ったわけでんな。喧嘩を売って喧嘩に負けて心的外傷後ストレス障害(PTSD)になるのは勝手だが、そんなもんは「知ったこっちゃねえ」やろ。
 これが『喧嘩を売られて殴られた』とか『喧嘩を売られて恫喝された』とかなら話は別だが、最初に喧嘩を売ってケリを入れたのは誰やねん???単に喧嘩に負けて悔しかっただけの話やろ。喧嘩を売って負けたガキが心的外傷後ストレス障害になろうが、そんなもんは知ったこっちゃないやろ。

 思い通りにならない事が『当り前』なのであって、思い通りにならない事に対して心的外傷後ストレス障害をイチイチ発症してたら、その内に
 「ぼくは彼女に告白をしたけど、彼女に断られました。その夜からぼくは夜も寝れずに泣き叫んだりする毎日です。毎日が辛くて辛くてどうしようもありません。医者に相談すると心的外傷後ストレス障害だと云われたので告訴する事に決めました」
 なんぞという訴状が出て来るぞ。で、それが最高裁まで行ってやな、マスコミも「この事件は今後の恋愛関係における注目されるべき裁判です」なんぞと(笑)

 心が傷つかないようにしたいのなれば、死ねばイイ。生きてりゃ、必ず『思い通り』になる事の方が少なく、必ず心が傷付く。『心』と云うよりも厳密には『思い』が傷つく。
 『思い』が傷つかないようになった社会は他者不在である。個性がない社会である。個性がなく、なんとなく漠然とした『世間の仕来り』なんぞに則り、個もクソもなく、漠然とした『日本人として』『日本国民として』『人間として』なんぞという幻想に縛られて、違いを認めない社会の出来上がり。それを求めているのだろうが。周囲を同化する事は出来なくとも、漠然とした『大きな力』に同化しようとする事によって、傷つく事をからは多少避けれるしな。まあ、こころのノートと、ファッション雑誌と、冠婚葬祭入門なんぞの仕来り本でもしっかり読んどけ(笑)

決定

2009年04月27日 | 坊主の家計簿
 新婚旅行まで残り少なくなって来たので最終決定会議。
 まず、第一希望プランを決めて、第二希望も決めとく。これに日程の変化を加えれば何とかなるやろう、っちゅう発想でんな。
 んで、決まる。

新婚ツアーズのダメ社員

2009年04月26日 | 坊主の家計簿
 午後から急な法事が入る。『そろそろ仮眠しよモード』だったので、焦って顔を洗って歯磨きして、いざ出陣。焦って居るのが読経にも出て、早い、早い。『前の寺モード』の読経スピード。しかも、喉がカスカスだったので声が詰まる、詰まる。
 え~。。。と云う事で、恐らく、多分、今居る寺での最後の法事。ん?甘いか。。。29日もあるし。
 読経スピードが速かったので、法話も諸々。着替え中に『南無妙法蓮華経』『南無大師遍照金剛』とかいう声が聞こえたので、『南無阿弥陀仏』の由来とか、丁度法名に『信楽』ってついてたので、住職がつけたその法名が法話後に一緒に勤行する正信偈に出て来る事や、それまでに読んでた無量寿経に出て来る事なんぞを説明して、後は、まあ、毎度、っちゅうか、平等→掛け買いのない人生、っちゅう話をする。
 んが、住職になって「何時何時ダレダレの法事がある」っちゅう事が解るようになれば、もうちょいネタを作って喋ろ。まあ、今は『武者修行中』みたいなもんでんな。出てとこ勝負やし。

 帰宅して爆睡。
 復活して新婚ツアーズ企画。メールでの幹部会議によって「函館、無理」っちゅう意見が一致したので、無理せずのドライブ旅行が楽しめそう。
 んが、先程私は気づいてしまったのだが、北海道のホテルは安い。例えば『シェラトンホテル札幌』なんぞと聞くだけでバブリーなホテルがあるが、ネットで調べたら4月の最安値はツインでならば一人当たり3939円である。え~。。。私がよく泊まるミナミのカプセルホテルは2500円だが、カプセルホテルの個室料金並みやんけ。恐るべし北海道。
 その他、宿泊企画している、まあ、新婚ツアーズにもってこいの良さげなホテルもネット検索してみたら意外な値段で泊まれる事を発見。正規料金はそれぞれ数万の部屋でも、ネットでなら安い。先日買った『まっぷる北海道』に掲載されている価格と全然違う。
 っちゅう事は、単に1泊5日のレンタカー付きプランで後は個別にホテルに予約した方が安く済む可能性がある。同じホテルに宿泊してもだ。全く同じ旅行をしても安く済む場合がある。
 うぅぅぅぅ。。。私は主婦として、あ、主夫か。主夫として失格である。また、新婚ツアーズの社員としても失格である。
 しかもフリープランの4泊5日のツアーなら、ツアー会社選定のホテルに限定されるのだが、ホテルを新婚ツアーズで選べるならば、ツアー会社の選んだホテルの地域に限定される必要がなくなって来る。しかも、ホテル側が企画した様々なプランを選択する事も出来るのである。ツアー会社はパックなのでそこまで個別のホテル側の企画にまで対応していない。

 悲しきかな愚禿エロ。情報の少なさに沈没し、ツアー会社の陰謀に迷惑して、自由旅行に入ることを喜ばず、安く出来る事に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。

 しかし、やはり娑婆の時間的制約がある。私は大法要前であり、日常の仕事もある。家事もせんとアカンし、やはりイチイチ調べてられないのである。
 しかも、それだけではない。やはり今日の21時から西原理恵子のテレビがあると知ったのならテレビも見なければならない。飲みにも行きたいし、こうしてネットで遊びたい。
 つまり、真っ向から『新婚ツアーズ』に向き合う事が出来ないのである。きっと、同じ旅行プランでももう少し安く出来たはずである。全く私は『新婚ツアーズ』の名に値しないダメダメ社員である。
 きっと、社長が厳しければ私は速攻クビであろう。
 「エロ坊主君、君はネットで落ちているツアーのパンフレットを見たに過ぎないのだよ。そんな事でウチで仕事して行けると思ってるの?」なんぞと云われる事必須である。
 「しかも、君にはもっと仕事に向き合う時間があったのではない?単にサボってただけじゃない。そんな人は新婚ツアーズの社員として相応しくありません」と云われる事必須である。
 ああ、「酒飲んでいるヒマがあるなら仕事をせえ!」と云われる事必須である。
 しかし、私は遊びたく、酒も飲みたく、テレビも見たいダメダメ社員である。
 ついでに、なんとなくだが、この展開の先に親鸞の教行信証・信巻の展開を持って行きたくなる気分ではあるのだが、「あ、そんな能力ないや」だし、「そろそろ眠いや」である。つまり、仏弟子の名に値しない。え~。。。社会的には『僧侶』だから、僧侶としてダメダメである。

【まじめ人間・明恵は怒る。
 「そればかりか、お前(法然)は、大乗仏教を軽しめ菩提心を否定している。これひとえに、お前には、苦しみから解放されたいという思いがあるだけで、仏法を愛しそのために命をささげるという気概がないのだ」。
 私は、まじめな青年がこのような怒りを懐いて大いなるものに命をささげるとして、愚かな行為に酔うことを、法然が一番気にしていたのだと思うのだが。自分の命より大切なものなどという言い方は大袈裟であるだけでなく、下々の庶民の命などより大切だということを含意することになり、独善に陥るだけではなかろうか。】(菱木政晴『ただ念仏して』103~104ページより)

 え~と、とりあえず寝よ。

新婚ツアーズ幹部会議

2009年04月25日 | 坊主の家計簿
 新婚ツアーズ幹部会議。ん?夫婦会議か。
 行き先は北海道に決定。
 行きたい所をピックアップする。
 函館、旭山動物園、花畑牧場、二風谷。え~。。。4泊5日なんだが、冷静に考えると行き帰りとも札幌にするとムチャ大変なので、せっかくネットカフェでの幹部会議の結果を変更して、飛行場を変更する事に居酒屋幹部会議で決定。
 空港変更&レンタカー乗り捨て出来るツアーを帰宅してから探し出し、明日は選んだ中からツアーを決定しなアカンのか。。。

サラムの在りか

2009年04月24日 | 坊主の家計簿
 法要準備!!!
 で、走り廻った後に、丁章さんの『新著出版祝い』っちゅう名目の飲み会。
 新著を手にしてパラパラと読むと大谷派僧侶・望月廣三&慶子氏との出会いなんぞも書かれていたのだが、空きっ腹で飲み始めたので酒が回る、回る。

 あ、本の宣伝。
 丁章『サラムの在りか』
 (http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32229922

裸一貫

2009年04月23日 | 坊主の家計簿
 スマップ・クサナギである。素晴らしい、素晴らしいぞ。近年まれに見る見事な酔っぱらいではないか。しかもフルチンだったらしい。フルチンになる程の酔っぱらいはかなり珍しいぞ。多くの酔っぱらいを見てきた私でもかなり珍しい。素晴らしい。。。クサナギ君、君には酒造会社から沢山のCMオファーが来るであろう。また、居酒屋チェーンからも来るであろう。まあ、居酒屋チェーンはジャニーズが断りそうな気がするし、またスマップって出演料が高そうやし。
 
 っちゅうか、また『芸能活動の自粛』らしい。単に酔っぱらってフルチンになって叫んでただけやんけ。アホくさ。

 っちゅう事で、、さっさとテレビを消して新婚ツアーズ。
 なにやら新婦(?)が「移動は電車よりも飛行機の方がエエ」等と言い出したので、旅行計画変更中。飛行機がアカン云うてたから新潟&米沢だったのだが、飛行機使えるねんやったら北海道やろ。
 沖縄もエエのだが、沖縄は暑い(笑)やっぱし初産にしては高齢出産なので新郎も若干気を使う。それに妊婦は泳げんやろうし、せっかくの沖縄リゾートの魅力半減である。っちゅうか、新婦は「沖縄料理がキライ」であるらしい。
 ちなみにラーメンもキライであって、なぜこういう人間にまで基本的人権が与えられているのか解らんのだが、まあ、『基本』やし、しゃーないのか。新潟&米沢と云うのはラーメンマニアにとっては聖地であり、ドライブコースには喜多方というこれまた聖地が入っていながらもラーメンを食す事が出来ない事は拷問であり、ならば北海道である。ん?札幌ラーメン、旭川ラーメン、室蘭カレーラーメンもあるのだが、ラーメンマニアの私をして「ラーメンだけではない!」と云わせる美味なるものが北海道には多いし。
 っちゅうても、新婚旅行は1人では行けないので何処に行くのかは新婦との相談&企画会議によって決まるのだが、ふっふっふっふ。。。私の企画に勝ってみろ。。。ん?

 ある程度のツアーを絞り込めたので、本日の新婚ツアーズは終了。
 
 ネットでクサナギネタを少し探す。
 前も誰かの時に書いたのか、書いてないのかすっかり憶えていないのだが、『自粛』って、『喪中』やな。
 喪中には世間の眼に対して笑う事すらプチタブー状態であるのと同じく、自粛期間もやはり生活を慎まないといけないのであろう。決して釈放されたら速攻に「いや~。。。警察で酒飲まれへんかったから肝臓の調子もエエし、今日は酒が進むわ」なんぞはアカンのだろう。やはり酒を飲むにしても自宅で世間の眼を気にしつつ、「バカやろー!なんで俺が逮捕されて仕事を自粛しなければならないんだよー!」と大声で叫ぶしかないのだろう。まあ、大声だしても良さそうなエエマンションに住んでそうやし。「フッフッフッフ。。。フルチンし放題」なんぞと(笑)
 喪中には神社に行けないのと同じく、クサナギ君は自粛期間に居酒屋にもバーにも行ってはイケナイのであろう。行くと、きっと写真週刊誌に「反省の色なし」なんぞと書かれたりするのだろう。

 まあ、何にしても私が芸能記者ならば、復帰会見の時に「クサナギさん、裸一貫からやり直す気持ちでしょうか?」なんぞと言いたいもんだ。

宗教的平等

2009年04月22日 | 坊主の家計簿
 ポストに某会からの郵便物。開封してみたら

【新作DVD『承元の法難』堂々完成!!】

 と書かれたチラシが。。。
 http://www.saikyoji.net/jougen.htm
 安いし、婿入り道具に最適なので、購入決定。向こうの寺の住所で申し込んどこ。

 先日の『「僧と俗」意見交換会』でも痛烈に感じたが人間は差別が好きなのだ。『好き』とは言い方が変やな。差別する事が標準セットされている、と言い直した方がエエな。
 「あの坊さんは素晴らしい。それに比べて。。。」なんぞと。単なる能力差別でしかない。その能力差別を問題意識の深さを勘違いしたりする。単純な話である。差別が標準セットされている自分を問題にした事がないから。
 信仰とは基本、個人的なもんである。仏道を歩むのは自分自身でしかない。他人に歩まそうとするから「あの坊主は。。。」になる。僧侶だけが仏道を歩むのではない。誰だって歩めるが故に仏道なんだろう。特に真宗仏教なんぞは。

 奪われていた人権を取り返そうとする人達が多くいる。
 往生成仏の道を絶たれていた人達が宗教的平等を目指そうとした。

【無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連にひとしくて 供養恭敬をすすめしむ】(親鸞)

 真宗門徒は僧も俗も引っ括めて『名告りのみの修行僧』である。
 真宗門徒が仏弟子である以上、釈尊の直弟子と平等である。当然、法然や親鸞とも平等である。
 当然、『僧』と『俗』も平等でしかない。
 だが、

【聖人 親鸞 のたまわく、いにしえ我が本師聖人の御前に、聖信房、勢観房、念仏房已下の人々おおかりし時、はかりなき諍論をし侍る事ありき。そのゆえは「聖人 源空 の御信心と、善信が信心といささかもかわるところあるべからず、ただ一なり」と申したりしに、このひとびととがめていわく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるる事いわれなし。いかでかひとしかるべき」と。善信申して云わく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆえは、深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおおけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、一たび他力信心のことわりをうけ給わりしよりこのかた、まったくわたくしなし。しかれば、聖人の御信心も、他力よりたまわらせたまう、善信が信心も他力なり。かるがゆえにひとしくしてかわるところなし、と申すなり」と、申し侍りしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまわく、「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず。信心のかわりおうておわしまさん人々は、わがまいらん浄土へはよもまいらせたまわじ。よくよくこころえらるべき事なり」と云々 ここに、めんめんしたをまき、くちをとじてやみにけり。】(御伝鈔より)

 法然門下の中でさえも、こういう状況下であった。

 今でも天皇を何か『特別な人間』であると思われている人達も多くおられる。
 また、最近はテレビなんぞを見てても「あの人はもの凄いオーラを持っている」なんぞと平気で云ったりしている。

【今日、私たち真宗門徒自身が、念仏者に対する敬意を忘れてしまっているのではないか。そんな気がしてなりません。念仏する者は、ただそれだけで敬意を払われるべき存在なのです。念仏者という人が尊いというよりも、その人を通して念仏が出てきているという事実が尊い。その尊さは、お念仏が誰の口から出てきても同じで、その人の人格や才能や経験によって左右されない。その価値や意義はそういうことでは少しも異なることはないのです。「南無阿弥陀仏」とその名を称する声となって、法蔵菩薩の精神が私たちの前に飛び出しているのだということです。だから、念仏者に対する弾圧は、法蔵菩薩の精神すなわち菩提心に対する弾圧なのです。】(藤場俊基『親鸞の仏教と宗教弾圧』164ページより)

【目標が平等であることと方法が平等であることは同様に大切なことなのだ。不平等な方法、すなわち、神秘的で近寄りがたいものを持ち出してでないと説明できない平等な尊厳性は、実は「魔」にすぎないのである。「天皇」然り、「私の思いを越えた大いなる存在」然り、「そのために命を捨てることができるもの」然り、である。】(菱木政晴『ただ念仏して』84ページより)

 『僧(聖)』と『俗』が問題になるのは、2つである。
 「僧と俗は明確に区別されるべきである」という宗教的差別を肯定し押し進めて行こうとする考えと、宗教的差別を否定する考えである。

【経典を読誦してもらう側にとってみれば、自分達が経典を読誦するよりは、専門家である方々が経典を読誦した方がより多くの利他を引きだしうるはずだというところにたっているかと思います。そのための布施と供養なのです。そうすると、利他を引き出すということに直接関わる者が専門家であるなら、専門家は回向利益という構造において民衆を支配することが非常に容易だという面がでてまいります。】(平野修『鬼神からの解放』上巻81ページより)

 まあ、『粗悪な僧侶』でも、『粗悪な真宗門徒』でも、オーラなんぞが全くなくても、念仏は念仏。仏弟子は仏弟子。いわゆる高僧と全く変わらん。まあ、世間の倫理では「一緒にするな!」なんだろうが。

連ちゃんしんどい。。。

2009年04月21日 | 坊主の家計簿
 学習会。連ちゃんだったので終わって速攻帰ろうかと思たんだが、配達係(?)でタンガクラブへ。まあ、別の日でもよかったんだが、面倒やし。
 珍しくワインなんぞを持って行って、飲む。足らなかったのでビールを追加。

 ドグラマグラに寄って、終電で帰宅。
 傘を忘れなかった私は偉い。。。

「僧と俗」の意見交換会

2009年04月20日 | 坊主の家計簿
 『粗悪な僧侶』という事を問題にする真宗門徒が居るならば、それこそ『粗悪』以下の真宗仏教に全く関心のない証明なんだが、今も昔も変わらずエリート志向が必ずある。
 『僧』にだけ期待するのは『俗』の怠慢でしかない。
 人間は人間以上でも人間以下でもない。よって『僧(聖)』も『俗』もクソもない。

 「ああ、あの人は立派な坊さんだ」等と判断するのは、一体、どういう論理での判断なんだろうか?

【「不得外現 賢善精進之相」(散善義)というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。内は、うちという。こころのうちに煩悩を具せるゆえに、虚なり、仮なり。虚は、むなしくして実ならぬなり。仮は、かりにして、真ならぬなり。このこころは、かみにあらわせり。この信心は、まことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつわらず、へつらわず、実報土のたねとなる信心なり。しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人というは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし。懈怠のこころのみにして、うちは、むなしく、いつわり、かざり、へつらうこころのみ、つねにして、まことなるこころなきみなりとしるべしとなり。】(唯信鈔文意より)

【若し智慧高才を以て、本願と爲したまはば、愚鈍下智の者は、定んで往生の望みを絶たん。然るに智慧の者は少なく、愚癡の者は甚だ多し。若し多聞多見を以て本願と爲したまはば、少聞少見の輩は定んで往生の望みを絶たん。然るに多聞の者は少なく、少聞の者は甚だ多し。若し持戒持律を以て本願と爲したまはば、破戒無戒の人は定んで往生の望みを絶たん。然るに持戒の者は少なく、破戒の者は甚だ多し。自餘の諸行、之に準へて應に知るべし。當に知るべし、上の諸行等を以て、本願と爲したまはば、往生を得る者は少なく、往生せざる者は多からん。然れば則ち彌陀如來、法藏比丘の昔、平等の慈悲に催されて、普く一切を攝せむが爲に、造像起塔等の諸行を以て往生の本願と爲したまはず、唯稱名念佛の一行を以て、其の本願と爲たまへり。】(選擇本願念佛集より)

 っちゅう事で、通夜が終わった後に、タンガクラブでの『「僧と俗」の意見交換会』。

ハレもクソもあるか!

2009年04月19日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 帰宅して新婚ツアーズの仕事(?)宿探し、宿探し。

 しかし、新潟から米沢辺りをウロウロするのに比べて、なんで沖縄のゴージャスなリゾートホテルで泊まった方が安いねん。。。
 なんぞとブツブツ思いながらの宿探し。せめて同額程度に収めたいし。
 んが、私の心の中に「新婚旅行やから」という鬼神が。。。「新婚旅行やからリッチにいっときまひょ」という、恐るべしゼクシィの野望、広告代理店・冠婚葬祭業の野望に洗脳された私が。。。
 「負けるか、負けるもんか。。。」なんぞと思いつつ諸々調べてたら睡魔に負ける。
 そのまま14時間寝てやんの。

 まあ、ハレとケとケガレも、全部「ケ!」と。ん?なんのこっちゃ。まあ、『ハレ』でも『ケガレ』でも日常の感覚を忘れんと、「ハレの日やし、パー!っといっときまひょ」にはせずに、地味に新婚ツアーズの仕事は続く。

阿弥陀さんが空をとぶ

2009年04月18日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 手渡しの内祝を住職夫妻と、総代さん(厳密には責任役員含む)達に渡したし、気分的にもラクラク。
 よって、新婚旅行計画。

 まあ、「忙しいから」と向こうに任せてあったのだが、やはりしゃしゃり出る。
 前回の話では、新潟&米沢ツアーだった。まあ、『天地人』やったかな?そのキャラが結構かわゆいらしく、調べると米沢なんだが、やはり新潟が上杉家の発祥の地であり捨て難い。
 また、新潟は『親鸞流罪の地』であり、恵信尼と親鸞が京都で出会っていたのならば、親鸞の新婚旅行であった事になる。まあ、『新婚旅行』とは呼ばんかっただろうが。。。
 故に『新潟』という言葉を聞いた瞬間に、「そうか。。。君もようやく親鸞に興味をもってくれたんだね」なんぞと酔っぱらいつつヌカしていたわけなんだが、新潟は結構行ってる、っちゅうか、去年も行ったしなぁ。。。
 新潟から米沢辺りにかけてのドライブ観光を今日考えていたのだが、やはり沖縄や北海道も捨て難い。。。

 沖縄は純粋リゾート。っちゅうか、那覇空港自体が軍事施設やし、沖縄上空の高度何メートルか忘れたが、とりあえず米軍が抑えているから飛行機にとってはかなりヤバイ飛行方法をせんとアカンかったはずである。朝食にスパムを食べて純粋リゾートもクソもないのだが、まあ、リゾート気分満喫出来るし。
 梅雨が心配だったのだが、沖縄の梅雨はスコールみたいな感じらしい。ヤマトみたいに『ジメジメ曇り空』みたいな感じではないらしい。っちゅうか、『ジメジメ曇り空』の森もキレイやろうし、別にエエのだが。

 北海道は『旭山動物園』。ハニー・ディープ・ウエット(誰も知らんか)のソノシートを持っている私としては、やはり「ファッキン動物園!」の立場であり、動物園の気の狂った生きもんを「かわいい」というのは、同じく気が狂っているとしか思わん。つまり動物園は気の狂った動物と気の狂った人間しかいない空間であり、そんな所は行きたくもない。行くとしたら

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   高村光太郎『ぼろぼろな駝鳥』

  何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
  動物園の四坪半のぬかるみの中では、
  足が大股過ぎるぢゃないか。
  頚があんまり長過ぎるぢゃないか。
  雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢゃないか。
  腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
  駝鳥の眼は遠くばかりを見てゐるぢゃないか。
  身も世もないように燃えてゐるぢゃないか。
  瑠璃色の風が今にも吹いてくるのを待ちかまへてゐるぢゃないか。
  あの小さな素朴な顔が無辺大の夢で逆まいてゐるぢゃないか。
  これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。
  人間よ、
  もう止せ、こんな事は。
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 なんぞをビラにしてバラまくとかそういうことでしか行きたくないのだが、しかし、旭山動物園。潰れかけの施設を再興した企画力は研修旅行には最適である。あ、新婚旅行にも、多分、エエ感じであろう。まあ、動物の怨みが我が子に降ってかかるかも知らんが、私がチビチリガマで土を食べたのと同じく、怨みを身につけて、我が子にも動物園の酷さを出産前から体験して貰いたい気分もある。
 っちゅうか、やはり、潰れかけの施設を再興した企画力を体験したいし。
 映画にもなったらしい。っちゅうか、映画の予告でしか知らんのだが。。。
 
 『旭山動物園物語 ペンギンが空をとぶ』っちゅう映画らしい。
 これは
 『真宗同朋会物語 阿弥陀さんが空をとぶ』っちゅう映画でもエエし、
 『○○寺物語 阿弥陀さんが空をとぶ』っちゅう映画でもエエ。
 まあ、『住立空中尊』っちゅう業界用語もあるし。
 っちゅうか、真宗の本尊論については恩師・竹中先生から諸々教えて頂いた記憶があるのだが、記憶があるだけで憶えていない。。。
 っちゅう事で本を引っぱり出してくる。

【浄土を捨てて、地獄化している娑婆の真っ只中へ阿弥陀如来が突出してこられたんです。これが住立空中尊です。
 (中略)
 これは言葉として表せば「欲生我国」という本願招喚の勅命です。それが南無阿弥陀仏です。我々の前に阿弥陀仏が南無阿弥陀仏になって現れているのです。だから、浄土へ行っても阿弥陀仏は留守なんです。なぜかというと娑婆に来ているからです。】(竹中智秀先生『いのちの願いに聞く七章』363ページより)

【私たちが本願に遇うということは、この世とこの世のすべての者に対して絶対的な信頼をもつということです。そういうことがあってはじめて無仏の世界へと出ていけるのです。】(竹中智秀先生『無三宝処への往生』より。但し『阿弥陀仏の国か、天皇の国か』259~260ページより))

 って、確か、新婚旅行計画を書いていたはずやんなぁ。。。
 っちゅうか、サラッとだが本を読んでたら大変な時間になってもうた。寝よ。

女の子2

2009年04月17日 | 坊主の家計簿
 休みだったので住職修習の書類を提出しに大谷派の大阪支部(?)へ。
 え~。。。全国の大谷派関係者の皆様、御存知だったでしょうか?私は初めて知って衝撃を受けたのですが、私が普段『総代さん』と呼んでいる人は『総代』ではなかったのです。。。『責任役員』というのが正式名称だったらしく、つまり住職修習に一緒に行く『総代』には入らないのです。。。
 一瞬、何を云われているのか全く解らなかったのだが、確かに書類上でも『責任役員』の欄に名前が書いてあったので理解したのだが、え~。。。全員の総代からの委任状が必要なのか。。。とは云え、これは連れ合い側に任さんとアカン事なので私の書類は終了。あとの提出も向こう任せやし。よって気分が結構ラクラクモードに。

 帰宅して「娯楽、娯楽」とレンタルDVD三昧。

 『レッドクリフ』
 騎馬武者マニアにはお勧め。

 『ガリレオ(エピソードゼロ)』
 長澤まさみ、変わらずうっとうしい。香里奈は変わらず素晴らしい。

 『容疑者Xの献身』
 変わらず「じつに面白い」なんだが、裏テーマで『女性の自立』っちゅうのを感じた。
 松雪泰子が演じる役柄は元ホステスの弁当屋主人。ホステス時代に貯めた金で弁当屋を開いた。弁当屋の名前は女子中学生の子どもの名前。この辺りならば家賃6万ぐらいのコーポに住みながら親子二人で暮らしている。
 そこに元夫がやって来て、トラブルの末に元夫を親子で殺してしまう。それを助けるのが『容疑者X』である。
 構図的には『困っている女だけの家族を男が助ける』という構図。
 なんだが、彼女は途中からそれを拒否する。きっと、彼女は、彼女としての人生を歩みたかったのだと勝手に思ったりする。
 まあ、当然、それだけの映画ではなく、非常に素晴らしい映画であり、堤真一の魅力爆発の映画である。あまり書くとまだ新作なのでネタバレしてもおもろないやろうし。

 私の子どもは女の子らしい。最終的に生まれてみんと解らんし、身体的には女の子であっても、女の子を連れて来て「私はこの人と結婚します」と言い出すかも知らんが、まあ、今の所は。
 父ちゃんは思う。男が女を守らんとアカン義務もないし、女が男に頼らんとアカン義務もない。それぞれの人間関係で勝手にやっとけばエエ話である。
 同じく『親』が『子』を守らんとアカン義務も、『子』が『親』に従わんとアカン義務もない。養育義務はあったと思うが、んなもんはメシ喰わせばエエねんやろうし。
 個別の人間関係でっせ。仮に私の子が「私はこの人と結婚します」と云って来たら、「そうか。わざわざ云いに来てくれてありがとう」から始めんとアカンし、その相手が私が気に入らんようなカスだったら、対等な人間関係として「お前はあんなカスのどこがエエねん?脳味噌腐ってるんと違うか?」なんぞと毎度のボロカス批判をするだろうが、選ぶのは私でなく私の子なんだし。そういう時に少なくとも「お父ちゃんがそういうねんやったら辞めとくわ」というようなカス奴隷になるような人間関係だけは作らんようにしときたいなぁ。。。なんぞと父ちゃんは思う。
 
 とは云え、父ちゃんとの人間関係も、私の子の人間関係の一部でしかない。
 私の子は私の所有物でもなければ、私有化出来る存在でもないし。
 ただ、私の子が女の子であるのならば、女性差別がますます『親の情』としても問題になって来るのだが、この『親の情』は『子どもを私有化する情』なので問題ありなんだが、それは上記でも書いたか。
 まあ、とりあえず、私の子に、「お前の父ちゃんと母ちゃんが結婚した時の内祝に送った本や」っちゅうて、真宗ブックレットの『女と男のあいだで』を押し付ける事なく、さりげなく「この本を読んで感想文を書いたら5千円の小遣いあげる」っちゅう感じで、あ、これもアカンのぉ。。。まあ、父親からの推薦図書として読んで呉れたら父ちゃんは非常に嬉しかったりするのだが、まあ、これも子どもの勝手やな。出来れば上野千鶴子よりも田中美津を好きになる様な子になって貰いたいと、これまた親のエゴ。

 ああ、私はエゴの塊やから、私の子が化粧とかしだすと「お前は男の奴隷か!」なんぞと言い出したりするのだろうが、サカリがついた思春期はんなもんやし、父ちゃんだっていまだに髪の毛立たしてるしなぁ。。。
 まあ、エゴ対エゴのサシで勝負しようや。とりあえず「それが当り前や!」とか云うたもん負け、つまりエゴから逃げたもん負け、っちゅう事で。

 しかし、ガキが出来て、そのガキの性別が解ればますます「こういう風に育てたい」というエゴが出て来る。オモロイもんや、ホンマ。

 ヘロヘロに疲れている脳味噌で、このブログのタイトル変更。
 単に『エロ坊主の日記』にしとこ。

女の子1

2009年04月16日 | 坊主の家計簿
 ガキの性別が分かったとかで単身赴任中の夫は待ち合わせ場所に行く。
 ふっふっふっふ。。。予想通りに女の子だった。

 子どもの性別って、出産前に知りたければ知れるらしい。私は知りたい派だったので聞いてみたわけだ。知りたい理由は単純明解に、出産前でも生きとるわけやし。なら、性別も知りたいでんがな。

 で、この子は生まれながらにして業を持っている。まあ、継ぐか継がんかは別にして『寺生まれの女の子』っちゅうやつである。結構、諸々情報でもって『寺生まれの女の子』が大変である事は知っている。なんせ、今の所は基本『男社会』やし。
 男が生まれれば喜び、女が生まれれば男程ではない。っちゅう話も聞いたりする。まあ、両方共『道具』なわけでんな。寺を継がす道具。道具として最適なのは男子である、っちゅうのは天皇家と変わらん。まあ、真宗は元々が女系なので『女系』『男系』はあまり聞かないが。
 
 私の子は女の子。当然、「男の子なら良かったのに。。。」という発言をした人は、私に生涯怨み続けられ、自殺に追い込まれても文句を云ってはいけない。殺されても、殴られても、文句を云ってはいけない。っちゅうか、まあ、徹底して差別を指摘しまくってやる事間違いなし。謝罪するまでは徹底批判する。即、裁判に持ち込むかも知らん。なんせ、この父ちゃんは気が短く、喧嘩っ早いのだ。暴力でも、論理でも、徹底的に追い込んでやる。差別をするのなら殺される覚悟でしやがれ。