坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

「私はここにいます」

2020年12月12日 | 坊主の家計簿

病人なんっちゅうのは、だいたい性格が歪むもんであって、私もメルカリ事務局の対応が悪かっただけで「アホかボケ!退会じゃ!」とメルカリ株空売りで稼いだ5万円を慰謝料代わりにして退会しようとしたら、最後の取引相手からの評価が遅くて「アホかボケ!」と。ついでに他のも色々退会すべくSuicaを使い切る目的でいつものコンビニに行くと「現金払いとの併用は出来ません」と言われ、疑問に思いつつも何も買わずに帰宅して調べ直してみてら大丈夫だったので別のコンビニでタバコを買って「アホかボケ!二度と行くか!」と。Suicaを退会しようとしたらメンテナンス中で「アホかボケ!」と、まるでモラハラを連呼するお姫様状態だったりする。


とはいえ、こういう場合に病気のせいにするのは好きではない。まるで病気が他人事のようだ。「あの人は本当は良い人なんだけど病気が言わしているよの。許してあげて」とは一見他者理解の優しい言葉っぽく思えるが、実の所は「その人自身」を見て無かったりする。病気という縁が来て性格がより歪んでしまっただけの「その人」である。眼の前の「その人」或いは自分自身以外の何処に「本当のその人(自分」が居るのだろうか?


あるBARに名物的な嫌われ者の客が居たけど、例えばそのオッさんが「実は私、境界性人格障害でして」と言った場合に「なんや、障害者か。ほなしゃーないな」になる事も私は差別だと思う。そうではなく、単に嫌なオッさんだけど、そのオッさんはそのオッさんにしか過ぎない。人に嫌われ易い損な性格(業)を抱えたオッさんにしか過ぎない。


当然、「あの人は病気だから」「あの人は障害者だから」というのは他者理解の為の方便なのかも知れない。でも、方便は方便であり、その方便から離れた所にいる方便を使えない人は単なるイヤなヤツでしか無くなる。だから単に「あいつはイヤなヤツやけど、それがアイツや」の方が好き。


「世間では善人は居場所を与えられ悪人は奪われる」とは竹中先生の言葉。他人に好かれる性格(業)の人だけではなく、嫌われ易い損な性格(業)の人も居る。損な性格の人が他人から好かれる性格になって救かるのではなく、損な性格のまま、他の世間の価値観から居場所を奪われている存在と共に立ち上がる。

最も小さくされた存在、私は勝手に「あみちゃん」と呼んでいるが、誰の心の中にもある、世間的価値観の中で押し込まれ虐待され糞塗れの姿で手を合わせて「私はここにいます」と言っている、そんな存在を解放する為に立ち上がる。「私はここにいます」と立ち上がる。


芸風

2020年12月10日 | 坊主の家計簿

ウーマンラッシュアワーがTHE MANZAIに出て、変わらず炎上している。ウーマンラッシュアワーというか、村本は罵倒しての嫌われて芸で、変な話「嫌われてナンボ」だったりする。私はメッセンジャーあいはらという下衆な芸人のファンであり、あいはら目的でYouTubeをググっていたら売れる前の村本が別の芸人と相手を罵倒し合うのがあったりして、当然ながらそこでも村本全開であった。ただ、村本って意外とダメで「こりゃ売れるまで時間がかかったのは当然か」と思ったりもした。そんな村本からすると、今炎上しまくっているのは芸人として評価されているわけだから大喜びなんだろう。

不思議なのは、そんな炎上する事に対してアレコレ言う人の存在。政治ネタでの炎上だし、発言内容に賛同した人たちが「あの発言で炎上するなんて日本の保守化」云々と。いや、芸や芸。テレビから干されている云々もバラエティー番組での村本を観れば解るだろ。漫才師としてはパラダイスと共に優秀であってもバラエティーではポンコツだし。優秀な漫才師が優秀なバラエティー芸人になれるとは限らない。当たり前の話だ。


原発事故後にまるで世の中には被曝しか問題がないように騒いでいた人たちを私は「放射脳」と呼んでいる。面白い事に放射脳の多くは「コロナ脳」になっている。


議論というのは面白くて、Aという意見に対してBという反論が出て来た時にBが正しいとは限らない。そこから議論が始まる。議論は当然誰かとだけするものではなく、自分の中でも行うものである。Bに対してCという意見が出て来たり、あるいはAが反論したりする。

被曝の問題でも同じであって、政府などのAという意見に対して「実は真実はこうだったんですよ」というBという意見が出て来る。そして、議論が苦手な人は「え?私たち騙されていたのか?」とBにハマる。カルトと同じ構造かな?議論の基本ならばBの検証をすべきであるが、「本当はBだったんだ!みんな騙されている。眼を覚ませ!」的な全くカルトと同じ差別化を利用した優生思想になりBを検証しない。ええ、大谷派にも無茶苦茶多いパターンでんな。


議論には訓練が必要だし、議論になれていない人が多いのも確かである。徹底して疑う事は、ABの仲間と対立する事でもあり、変な話、議論よりも人間関係を重んじる生き方もあって当然イイ。大谷派だったら反被曝の人間関係の中で検証されてデマだと判明している事を鵜呑みにしてデマを撒き散らす生き方もあって良い。


芸を業と言い換えてみる。或いは業を芸と言い換えてみる。

Twitterで結構な数の人たちからブロックされているので、いい芸人さんからの情報が入って来ない。それでも東京新聞・望月記者や内田樹からはブロックされていないから、本人を含めて素晴らしい芸人さんからの情報を読む事が出来る。もう、見事なまでのブレない芸風である。

右派系は興味がないから余りフォローしてないけど、それでも例えばNIKECMに対する反応などを見ていると変わらぬ芸風だったりする。

同じように、冷徹というか議論好きというか、議論下手な人を弄る私みたいな芸風の人も居たりする。

私に突然「Aに熱狂しろ!」「Bに熱狂しろ!」というのは不可能なように、他の人たちも同じなんだろう。そんな芸風なんだろう。


因果は運命論ではない。故に「私はこういう芸風なんだ」と決め付ける必要はない。「私は日本人だから」「男だから」「僧侶だから」「引き篭りだから」に縛られる必要もない。縁によって変わるし、変えて行く事が出来る。

でも、私の目指す芸は自分や他人を差別する道からの解放であって、他人の芸風を理解する事だったりする。

南無阿弥陀佛の言葉解説を「六字釈」と言ったりするが私は竹中先生から聞いた「如来の本願は『みんなと一緒に生きたい!』という事なんですよ」という言葉を上回る言葉を自分で作れない為にそのまま私の言葉として使っているが、それが私の目指す芸である。

まあ、10年後には「念佛無間!世の中を乱す念佛者を許すな!」と言い出しているかも知れないけど、残念ながらそこまで大きな変化を出来る知力&気力が無さそうだったりする。


貧乏人が不幸だと決めつけられる世の中を資本主義というのかも知れない。

2020年12月02日 | 坊主の家計簿
今年の流行語大賞にはノミネートすらされなかったが、今は世界的な金融緩和によるコロナバブルの真っ最中であり、「コロナ格差」と呼ぶべき新たな経済格差が生まれており、これは今後も続くであろう。経済格差は以前より問題にしている人も多いが、貧困は問題であっても格差は問題ではないと私は思う。単に銭儲けが上手い人がいるだけの話である。また、貧困と言っても日本の貧困は飢えない。また別の日に書くと思うが、日本の飢えは家事能力が欠如していたり、あるいは支援の情報不足の問題。

貧乏は不幸なんだろうか?では幸福とはなんであろうか?例えば私は1万円のコートを定価で買う事よりも古着で千円で買える方に幸せを感じる。人の価値観などは千差万別であり、誰からも決めつけられる筋合いは一切ない。
また、いわゆる「カルト宗教」に対する偏見も同様であり、他人から見て「騙されている」と決めつける資格は一切ない。史実の釈尊は「念佛申せ」などとは言っていない。違う信仰を持った人からすると、あるいは学者からすると「間違った教え」であろうとも、そんな事は「大きな御世話」にしか過ぎない。

仏教には「鬼神」という概念がある。辞書的な意味はスルーして、私は「権威」と抑えている。世間的価値観である。資本主義の世の中で生まれ育つと「経済的に豊かな生活をしたい」と思ってしまう。これも鬼神である。「貧乏だから不幸」と思うのは鬼神に仕える奴隷の価値観である。病気になったら不幸、障害者になったら不幸も同じく奴隷の価値観である。
当然というか、私もその奴隷の一人である。故に「不幸や」と思う事が多々ある。でも、それが私という存在を否定する煩悩である事も知っている。

「個」である。鬼神に仕える事を良しとするのではなく、個に還る。存在の事実に還る。今を粗末にしない。自分を粗末にしない。奴隷の生き方から個としての生き方を目指す。

臨床という概念が最近気になっている。頭デッカチな机上の論理、学校で習ったような事ではなく、現場に立ち、その人に向きあう。向き合ったその人を自分の価値観で縛り付ける事は愚かである。「これが正しい」なんて全く通用しない。そんな論理を「臨床」と呼ぶのだろう。そして、今までの自分の価値観を捨てる事、平座、平等に還り変わり続ける働きを「念佛」と呼ぶのだろう。

「私は病人で貧乏人だけど決して不幸ではない!」当たり前の事である。世の中と言っても一人一人の価値観の集合体にしか過ぎない。私が変わる事で世の中が変わる。