坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

蟻の街

2014年07月11日 | 坊主の家計簿
こち亀情報、蟻の街。


【昭和二十五年の一月下旬のある朝。藤田元治先生の、いかめしい法律事務所の戸を叩いた一介のバタヤがあった。
 面倒くさい前置きは一切なしで、あの壊れた建物をバタヤばかりで協同経営するから、仕切り場として使わせてくれと単刀直入に申しでた。
 ヤクザの親分の顧問であり、
 傷害前科五犯であり、
 十五ヶ月のバタヤ体験者。
 だから、この事業の最適任者であると主張した。
 いうまでもなく、彼は小沢求である。
 前科五犯といっても、ちいさな喧嘩口論などはひとつもなしというのだから、みずから日本一のバタヤをもって任じ、戦後派の浮浪者が何百人何千人集まってもびくともしないと豪語するのも、まんざら嘘ではないらしい。】(松居桃樓師『蟻の街の奇蹟』)
http://www.fumon.or.jp/arino.html


【蟻の街があった一角は、同胞援護会が管理していた製材工場跡と約600坪の土地を小沢求というヤクザ上がりの男が同会より借り受け、あり合わせの板で周りを囲い、廃品の仕切り場を立ち上げた。そして仕事のない人々を日雇いで雇いあげ、ガラスくず、鉄・銅くず、縄くず、紙くず等を拾い集めて回収させ、再生工場へ送る事業を行った。当時はこのような業務を行う労働者は『バタヤ』と呼ばれ、収集して来た物品を買い取る業者は、安く買いたたくため、バタヤの生活は貧困を極めた。これに憤慨した小沢が、バタヤ達に適切な報酬を支払うための仕切り場を立ち上げようと考えたことが、この事業立ち上げの発端であった。小沢の仕切り場での報酬は拾い集めた物品の種類や重さによる正当な出来高払いだった。さらに小沢は、この仕切り場で働く労働者とその家族たちをその敷地内に住まわせ、一種の生活共同体を形成した。】
http://ja.wikipedia.org/wiki/蟻の街

経済的徴兵制度

2014年07月10日 | 坊主の家計簿
 モーニングバードのそもそも総研で「集団的自衛権の先に本当に徴兵制はないのか?」という特集をやっていたので、録画して観てた。
http://matome.naver.jp/odai/2140495393466343101

 集団的自衛権や改憲の議論で「徴兵されるぞ!」というのは好きではない。徴兵制度が議論の中心になれば、「徴兵制度がないなら大丈夫」というムードになりがちである。原発事故での被曝デマで恐怖を煽り立てて「実際、大した事ないやん」となってしまっているのと同じである。

 経済的徴兵制度という言葉がある。

【「世界個人情報機関」のスタッフ、パメラは言う。「もはや徴兵制などいらないのです。政府は格差を拡大する政策を次々と打ち出すだけでいい。経済的追い詰められた国民は、イデオロギーのためでなく、生活苦のために黙っていても戦争にいってくれますから。ある者は兵士としてある者は戦争請負会社の派遣社員として巨大な利益を生み出す戦争ビジネスを支えているのです。」】
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/notice/book-hinkontaikoku.htm

 実際に今でも自衛隊員の本籍地は

【出身地ではなくて、本籍がどこかということで若干出身地ということは違っているかもしれませんけれども、北海道が圧倒的に多くて、それに続く、福岡ですとか青森、あとは熊本といったところが続いているんですけれども、そういった県の3倍程度、本籍が北海道の人が多いという形になっています。東京は、こうした福岡とか青森に比べても、かなり少ないという形になってきています。】(東北防衛局中村吉利局長)
http://www.mod.go.jp/rdb/tohoku/fmradio/2505gatuhousou-yamagata.html

 らしい。

堤愛子「ミュータントの危惧」

2014年07月08日 | 坊主の家計簿
【私は巨大タンポポを「恐怖」の象徴ではなく、「生命のしたたかさ」の象徴として、また「放射能汚染への抵抗」の象徴として見たい。そしてそれ以上に、野に咲くタンポポの一つとして、その生命をまっとうしていってほしいと願う。】

という視点があるが故に

【かけがえのない生命をおびやかすものに対しては、私も断固反対する。公害然り、原発然り。
 そして、「障害者はかわいそう」「障害児なんて産みたくない」とする考え方や、「障害」を恐怖の象徴に仕立てようとする人々の意識も、「障害」をもつ人々のかけがえのない生命と人生をおびやかすものとしてやはり「反対!!」といいつづけていくつもりだ。】
(堤愛子「ミュータントの危惧」より)
http://www.geocities.jp/aichan822/myuutanntonokigu.htm


優生思想と決別しようとしない反原発・反被曝は、人間の能力過信の原発推進と何が違う?

みえないばくだん

2014年07月08日 | 坊主の家計簿
「みえないばくだん」という絵本を発見。
え~と、とりあえず「敵=悪」という「ガンダムでも観て勉強せえ」という絵本であって、それだけでも子どもに読むべき絵本ではないのだが、とんでもないデマ絵本。差別絵本。



【「みえないばくだん」という絵本が出版されている。

原発事故で被曝した子どもが大きくなって結婚して「おててのかたちがかわっているあかちゃん」が生まれる話しだ。
平仮名ばかりの絵本だから、作者は子どもにも読ませるつもりで書いたのだろう。

そして、原発がどんなに危険なものかということを、社会に向かって叫びたいのだろう。

しかし「福島の子ども」がこの本を読んでどういう気持ちになるか、それは作者の想像力の外にあるのではないかと思わざるを得ない。

仮に本当に爆弾が仕掛けられてしまったとして、決して取り除くことのできないその爆弾を抱えた子どもに向かって、作者は何と言っているつもりなのだろう。
「爆弾を仕掛けられた人」というステグマ(烙印)を背負って、差別と闘いながら頑張って生きて行きなさいと激励しているつもりなのだろうか。

思うに結局、この絵本は「外の目」でしか作られていないのだ。

作者の善意は疑いもないが、善意が人を苦しめることだっていくらもあるのである。
福島の子どもや母親に向かって「そんなに心配することはない、大丈夫だ」という学者は、反原発サイドからは御用学者だと指弾される。

そう批判するのが正義だと観念されている。

しかし、そこで生活している住民にとってみれば、専門家のそうした言葉は日常のやりきれないストレスを多少とも減じてくれる。
福島に住んでいるものが、そこに住むという自分の選択が間違っていないことを裏づけてくれる専門家の意見を信用したいと思うのは自然なことだ。
これは確かに情報受容のバイアス(偏り)には違いないが、この被災者心理を知らずに無神経に外から「善意」を押し付ける者(どぎつい見出しで売り上げを伸ばそうとする一部週刊誌は論外)への反発があることを知って欲しいと思う。
放射線との確たる因果関係が実証されてないにもかかわらず、先天異常の写真を講演会場でスクリーンに映し出すようなことをやってのける無神経さは許されるものではない。

放射能災害の被害者である福島県民がそのことを一生隠し続けて生きなければならないような社会状況を作ることが、脱原発を実現するための必要条件であるかのように反原発論者が考えているとすれば、それは明らかに間違っている。

少なくとも被害者の心情からはかけ離れている。
広島や長崎の被曝者の中には、被曝したことを隠しながら生きた人も少なくない。
水俣病も同じようなことがあっただろう。

私たちは、今度の原発災害に遭遇することによって過去最大級の「差別の社会問題」を抱えこむことになったと言っていい。】
(清水修二『原発とは結局なんだったのか』より)
http://www.twitlonger.com/show/mmhunr

http://m.youtube.com/watch?v=7k8DtTzna5c

穢れを祓う儀式

2014年07月07日 | 坊主の家計簿
社会運動だって穢れを祓う儀式にしてしまう。デモや集会に参加する事で穢れを祓い「私達は清浄、あの人達は穢れが多い」と。

それは当然社会運動だけでなく、教えを聞く事が穢れを祓い儀式になっていたり、沢山勉強する事が穢れを祓い儀式になっていたり。

わかりやすいのは仕事かな?有能で仕事がバリバリ出来て穢れを祓い儀式がちゃんと出来ている人と、「ニート」「ホームレス」と呼ばれる人達など。後者は社会問題になる。まあ、本人が嫌がっていたら別だけど、なぜ無条件に「気の毒」と思われなければならないのか?単に生きているだけで「かわいそうに…」と涙目で言われないといけないのか?

穢れを祓えども祓えども、「清浄になりたい!」という穢れがまとわりつくだけ。

「俺たち最高!」

2014年07月07日 | 坊主の家計簿
排他的、つまり「俺たち最高!」という集団であるのかどうか?というのが、カルトであるのかないのか?の違いだと思ったりする。まあ、どんな教えであっても、自分自身の信仰姿勢が問われて来る。

大谷派視点からすると他の教団は変であり、他宗はもっと変であり、他の宗教はもっともっと変である。
当たり前である。自分の視点、色眼鏡で見ているのだから。

その色眼鏡を問わずに「俺たち最高!」と、必ず思ってしまうのが「悲しいけど、私達なんですよ」と。

あ、昨日の「仏青みたいなもの」の所感。

七夕

2014年07月07日 | 坊主の家計簿
七夕の願い事って、基本は「思い通りに生きたい」ということだと思う。それだけ、思い通りに生きれていない現実がある。

人間といっても、その場その場の弾みで生きている。その弾みの結果が自分が思っている事とは全然違った現実が待っている。

「思い通りに生きたい」というのは、その迷いを深めるだけやけど、その底には「私を認めて欲しい」→「私が納得出来る私になれますように」と。

世間の価値観に縛られている中で呻く。世間に認められるような私なら引き受け、認められない私なら捨てる。そうやって、迷いを深める。
だから、阿弥陀さんは「えらばす、きらわず、みすてず」と。どんな私であっても決して見捨てない。それは裁く自我を否定するから。

「いい一年だった」「悪い一年だった」、「良い人」「悪い人」などと決められるわけがない。誰に決めつけられるワケもない。それも思いでしかない。

竹中先生は「阿弥陀さんの本願といっても、それは『みんなと一緒に生きたい』という事ですよ」と。

自我を超えて、どんな自他であろうとも、決して、えらばす・きらわず・みすてず、の生き方。
解放への道。

人間に会いたい

2014年07月06日 | 坊主の家計簿
夜道で改造スクーターに乗った兄ちゃんが友達のチャリンコを足で押しながら走ってた。強烈に人に会いたいんだろうね。

安田先生が相応学舎で講義中、外を走る暴走族の煩い音に腹を立てた大谷大学柔道部員が「シメたろ」と立ち上がった瞬間に安田先生が「辞めろ!あれは彼らの宗教心の表現なんだ!」と。好きなエピソード。血気盛んな柔道部員も今は大谷大学教授。

ホロ酔い気分で自転車乗ってウロウロしてます。

真宗に出会う

2014年07月05日 | 坊主の家計簿
「真宗に出会った」云々。そんなもんは、お寺生まれ育った人は生まれた時から出会っているもんであって、そこに感動があるとか無いとか関係ないもんだと思う。

それは真宗の教えにどこかで出会った人も同じであって、少なくとも「あいつは真宗に出会ってない」という人はその事に対する自覚がないだけなんだと思う。出会った真宗を「私のもの」にしてしまうから「あいつは真宗に出会ってない」云々と。外なる縁は決して私のものではない。

また、内なる因に能力もクソもなく、誰にでも必ずあるものであって、どこに誇る資格があるのか?裁く資格があるのか?

出世間というが、世間を越えた価値観があるが故に世間に帰る事が出来る。全ての人たちが私と同じように苦悩している、と。

宗教を使っての差別、聖なるものと俗。
寺で生まれ育った人から「在家の人に仏教がわかるんですかね?」と言われた事があったが、何か、そういう「特殊」なものにしてしまうのは、真宗の教えを殺しているだけだと思う。

何故、ケマン界や、ギジョウタイグウが教えに説かれているのか?それが故に「煩悩具足のわれら」に帰る事が出来る。

北朝鮮に自衛隊

2014年07月02日 | 坊主の家計簿
 「拉致被害者を救出する為に北朝鮮に自衛隊を派遣せよ!」という意見があるが、実質、それは戦争になる。故に、自衛権を解釈したとしても、現状は歯止めがかかっている。故に外交の問題で解決して行くしかない。

 だが、拉致被害者救出の為の法改正として

【例えば、自衛隊法八十四条の三に「在外邦人等の輸送」とあるのを「邦人の救出」に変えるとか】
http://www.yobieki-br.jp/opinion/araya/ara_zie_rachi.html

と、元自衛隊の荒谷卓氏は仰っている。
 今回の閣議決定は

【(イ)自衛隊の部隊が、領域国政府の同意に基づき、当該領域国における邦人救出などの「武力の行使」を伴わない警察的な活動を行う場合には、領域国政府の同意が及ぶ範囲、すなわち、その領域において権力が維持されている範囲で活動することは当然であり、これは、その範囲においては「国家に準ずる組織」は存在していないということを意味する。】
http://www.huffingtonpost.jp/2014/07/01/right-of-collective-self-defense_n_5549648.html?utm_hp_ref=japan

と歯止めがかかっており、また、韓国政府も

【朝鮮半島の安保や韓国の国益に影響を及ぼす事案では、韓国の同意がない限り、日本の集団的自衛権行使は「決して容認できない」と強調した。】
http://www.asahi.com/articles/ASG716FJBG71UHBI032.html

と。
 当然、日本が米韓の同意なく拉致被害者を救出しに自衛隊を派遣する事など不可能であるが、

【安倍首相に提出された有識者懇談会の報告書では、在外自国民の保護・救出に関連し、「領域国の同意がない場合にも(中略)ほかに救済の手段がない場合には、自衛権の行使として許容される場合がある」と記述された。これは自衛隊による北朝鮮の拉致被害者救出を念頭においているとされる。】
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/05/19/2014051901845.html

という議論があった事や、今回の閣議決定でもわざわざ決定された「動き」だある事は注意すべきだと思う。

座から問われる

2014年07月02日 | 坊主の家計簿
 『ブットンくんぬりえ』という素敵なものと一緒に帰敬式の冊子が送られて来た。

【せっかく人間に生まれてきたのです。ただ自分の思いだけに生きて夢幻のごとく老い死んでいくのではなく、仏・法・僧に帰依し聞法していくことによって、自我の妄執に縛られ振り廻されていることに目覚め、思いを転じて、量りなきいのちと光の世界へ生まれ変わっていく、明るく生き生きとした人生への入門式である「帰敬式」を、できるだけ早く受式されますようお勧めいたします。】(冊子より。藤井善隆先生)

 仏弟子としての名告り。
 単なる「私は南無阿弥陀仏に帰依します」だけでも構わないが、あとは業だと思う。私には「南無阿弥陀佛に帰依します」だけでは弱かった。それが故に得度し、僧侶になった。当時よく思い出していた言葉は長州力の「誰か俺を縛ってくれ!」だった。そして僧侶という名告りを上げる、社会的身体として周囲からも『僧侶』として見なされる。「あんた坊さんやねんからもっとしっかりせなアカンで」と。そういう時に「いや、真宗は僧侶も門徒も同じですから」というのは逃げであって、あくまでも自分が名告った、自分自身が座っている座から問われる。

 念仏は学業ではない。だが、多く学んで居られる方々を見ると、当然それは社会的な仕事としての側面もあるのだろうが、「この人はどこまで深い業があるのだろうか?」と感じてしまう。それが故に教えを聞かざる学ばざるを得ないのだろう。

 今の私は住職である。住職修習の時にうろ覚えだったが反芻していた言葉は

【我々は寺の住職というわけですが、その住職は正覚阿弥陀法王の善力住持というところからくるわけです。すなわち住持職です。よく大衆を住持することのできる者のことで、これは阿弥陀如来のことです。だから、我々が住職を名告るとか呼ばれるとかいうことは実は値しないものが、その名を名告りその名で呼ばれるということで、そこには深い懺悔があることです。】(竹中智秀先生『いのちの願いに聞く七章』142ページより)

 である。