坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

尼僧物語

2011年02月28日 | 坊主の家計簿
 変な時間にまた寝てしまった。。。そのまま朝まで寝れば良かったのかも知れないが、コタツで電気&テレビ付けっぱなしやったので、とりあえず起きてみたりしている。

 ダラダラと深夜テレビを見る。チャンネルを変えると、何やら旅番組。吉本の若手お笑い芸人のダイアンが出てて、まあ、それはそれで無難な深夜番組なんだろうが、驚いたのは画面右上にあったテロップ。『京大熊野寮・寮長(29)』。なにやらダイアンと一緒にテレビに映っていたのは京大熊野寮の寮長らしい。熊野寮の寮長ってテレビに映っても大丈夫なのか?っちゅうか、『熊野寮』自体、テレビ対象になってエエのか?真っ赤かやろ、あそこ。

 なんぞと思って、検索してみると、

 http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2008/10/post-9868.html

 ちょっと変わったみたい。

 検索していると、変な所(BAR)発見。

 http://www.wix.com/blackriot/black-riot

 素晴らしい。。。怪しさ満点やな。



 昨日『美人尼僧』というタイトルにしたので、今日は『尼僧物語』

 http://movie.goo.ne.jp/movies/p6740/

 多分、勝手な妄想としては「ヘップバーンに尼僧の格好をさせたかっただけ」というのかも知れない。
 例えば、今度「蒼井優ちゃんに菓子職人の格好をやらせたかっただけ」みたいな映画があるが、まあ、そんなものなのかも知れない。
 ちなみに、蒼井優の尼僧、ちょっと違うなぁ。。。宮凬あおいも違うなぁ。。。木村多江とかがエエなぁ。。。出来れば様々な事情でもって夫を殺してしまった、とか、で、その為に出家したとかがエエなぁ。。。

 あ、尼僧物語。

 昨日&数日前に行った学習会(?)で同じ様な話が出てた。まあ、なんちゅうんですやろ。「僧侶としてのこだわり?」みたいなの。
 数日前に行った学習会では教誨師もやってたり、その他、様々な出会いを求めて活動なさっている先輩住職。「一応」法衣を着て話しておられたのだが、話してた内容はいわゆる『法話』ではない。いわゆる『法話』ではないのだが、ない証拠(?)でその後の質疑応答で「坊さんらしい話」みたいなリクエストもあったし(笑)
 けど、なんじゃ、非常にしっかりとなさった方だったので、依存症について話して居られる事、依存症について紹介してはった事が「完璧に真宗やんけ」と。
 アルコール依存症の人は(まあ、私も怪しいのだが)「私はアル中ではない」というらしい。まあ、私がさっき『(まあ、私も怪しいのだが)』と書いた事がその証明だったりするのだが。。。
 「俺は昼間から飲んでないから大丈夫だ」とか(笑)
 まあ、他と比べて「俺はまだマシ、大丈夫」とアルコール依存症はいうらしい。
 で、依存症を治す為には「私は依存症であり、私はアルコールに対して無力である」みたいな事から認める事から始めるらしい。

【「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。】

 やんな。

 大谷派でささやかれる都市伝説として「坊さんらしくするのがダメ」というのがある。まあ、私は営業&楽という理由で丸坊主なんだが、これまた先日ツイッターでみかけた都市伝説では「真宗の坊さんは丸坊主にしたらアカン」っちゅうのがあった。いや~、別に丸坊主にして怒られた事はないが。でも、同級生が実家に帰った時に父親(住職)から、「髪の毛は何の為にあるんや」なんぞと、丸坊主にしている事を怒られたと言ってたが(笑)
 髪の毛は大事でっせ。ほら、市川海老蔵がワイドショーなんぞに撮影される時にパーカーのフードを被ったりしてますやん。あれって、単純に寒いからだと思う。私も寝る時にフードを被って寝てるし。頭、冷たい、冷たい。まあ、営業の為なので仕方がないのだが。

 でも、まあ、「衣が似合わん」っちゅうのは褒め言葉として使われているのは知っている。「衣を着た『いわゆる僧侶』の枠に当てはまらない」という意味合いでの褒め言葉。

 仏教には仏教の専門用語があったりして、また、漢文で読経したりしている。基本、「何を言うてますねんや」でもあったりする。専門的に勉強している人達の中でしか通じない言葉がそのまま世間に通じる、等という錯覚を持ってたり。悪いクセ。

 少し前にツイッターでとある真言宗僧侶が清めの塩について呟いておられた。確か「場合によっては僧侶を辞めなければならないかも」みたいな事。素晴らしい。。。その他の事に関してはともかく、こういう覚悟をもって僧侶をして居られるっちゅうのは名僧だと思ったりする。

 尼僧物語。もう、見てからかなりの年数が経過しているので、あやふやなんだが、主人公の尼僧が教団との関係で尼僧を辞める。尼僧をしていたら人を救えないからだ。

 少し話は変わるが、今日の昼過ぎにテレビを見てたら相撲の八百長騒動についてやってた。パネリストの1人が「相撲はスポーツなのか?」という事を仰っておられた。え~。。。日本に『スポーツ』という概念が入って来る前から相撲はあってでんなぁ。。。その中に八百長も含まれて、含まれた上での相撲ならば、それも含めての『相撲』なんだろう。別に相撲をスポーツ化しなくてもエエと思ったりする。あれは、ああいうもんなのだ。女性差別の相撲。あ、『大相撲』と言った方がエエのか?まあ、女性差別も含めたのが相撲であって、それが故に国際的ではないのか?日本人が英語をマスターして「国際化」なんぞと言って喜んでいるのと変わらん気がする。個々に違いを認め合うのが国際化なんだろうし。なので、相撲は、元々、ああいうもんであって、現在流行思想からするならば、女性差別で、八百長も含めたのが相撲なんだろう。そこにエエも悪いも関係ない。

 で、尼僧物語。

 親鸞は比叡山を降りた。誤解を産む表現だが、「すべての人が救われる道でないと私は救われない」みたいなものか。
 挙げ句に僧籍剥奪。非僧非俗の愚禿釈親鸞。
 
 当然、私は親鸞ではない。親鸞ではないが、親鸞の精神の影響を多大に受けている。『精神』っちゅうか、まあ、生き方、でんな。
 親鸞は比叡山を降りて、かつ、平仮名で本を書いたり、当時の流行曲、っちゅうか、今でなら初音ミクを使ってユーチューブに仏教をテーマにした曲をアップするみたいな事をやってはった(違うかも知れんが。。。)。

 そういう『変わって行ける力』が信仰の力であったりすると思ったりもするのだが、んなもん、これまたそれぞれ。「あの人は頑固やから真宗を解っていない』というのも、色眼鏡にしか過ぎない。自分の信仰を誇っているだけの話。で、そういう事を必ずやってしまうわけであって、でんなぁ。。。まあ、んなもん。

 信仰なんぞは全く個人のもん。誤解を生む言葉だが、現われ方なんぞ、人それぞれやろ。誰が決めつける事が出来るねん。決めつけるのは相手を落とし込みたい時に世間のやり方としてやっているわけであって、親鸞は『迫害した側』でなく『迫害された側』。
 で、「それはオカシイやろ。あんたら、そんな決めつけで生きてたら地獄に落ちるぞ」なんぞと言って首を切られた先輩念仏者。っちゅうか、『決めつけ』が地獄を作り出しとるわけであってでんなぁ。。。「なんで俺の人生はこうやねん」でも。

 尼僧物語では主人公の尼僧は教団を辞めて、尼僧を辞める。辞めざるを得なかった事情が生じたから。辞めなければ出会って来た人達を救う事が出来なかったから。

 まあ、ヘップバーン演じる尼僧が、大谷派の僧侶だったのならば、別に辞めずとも「衣の似合わんやつやのぉ。。。」で済んだかも知れないが。

 水子供養とか、ペット供養についても書きたいと思うのだが、寝な。。。
 まあ、生きている生身の人間が、生きている生身の人間が多く居ている環境の中で、生きている生身の人間を相手にしている。

美人尼僧

2011年02月27日 | 坊主の家計簿
 学習会。
 え~。。。予定によると21時には「すいません、今日ヘロヘロなので先に失礼します」が24時前やもんやなぁ。。。

 今日は葬儀もあって御仕事忙しい。葬儀と還骨・初七日法要の間に少しだけでも仮眠をしようと布団に潜り込む。20分ぐらいは寝れそうだ。
 娘乱入。パパの布団に潜り込んで来る。でも、決して昼寝の為に潜り込んで来るのではなく、基本、「遊ぼ」である。かわゆい。。。こういう状態で「パパ、ひな人形を買って」等と言われたら思想を捨てて買ってしまいそうだ。
 で、寝れずに再び出かける。帰宅して10分だけ眼を休める。
 少しだけ楽になったのだが、それでも肩はパンパン。葬儀って、基本、「無茶苦茶緊張する」し。

 で、学習会終了。銭湯でゆっくり計画も断念して、近所のコンビニで晩御飯(?)を買って、ついでに週刊ポストを立ち読みしようと思ったのだが、え~。。。近所のコンビニでは売ってなかった。売り切れなのか最初からないのかは知らん。しんどいのでそこまで聞いてないし。

 今週の週刊ポストには『[ありがたーくお聞きなされ] 美人尼僧の「ひと言」説法』というグラビアが掲載されているらしい。大谷派からもとある情報によると3名出ているらしい。うち2人はツイッター情報でも知っていたし、実際に会った事がある人でもあるので、興味しんしん。
 でも、非常に素朴に感じるのだが、まあ、確かに知っている2人は『美人』である。でも、え~。。。知っている女性の僧侶で、もっと『(個人的美的感覚として)美人』がいる。好みの問題なんだろうが、まあ、それでも『黒木メイサそっくり』の女性僧侶だっていたりする。その辺のアイドルや女優さんよりも『外見』だけならベッピンさんは結構居たりする。ただ、まあ、『外見』だけの話なんだが。。。

 ちなみに男性僧侶でも、無茶苦茶カッチョイイ人も居てたりする。これまた、ジャニーズに居ても全く不思議ではない人が。
 でも、まあ、女性、男性、関係なく、アイドル・女優&男優に比べるとダンスも出来なければ芝居も出来ないだろう。もっと根本的な話をすれば「その道を選ばなかった」のだから。街中でも「無茶苦茶キレイやん」「無茶苦茶カッチョエエやん」なんぞは居る。けど、まあ、その道を選ばなかったわけでんな。
 要するに、アイドルも、女優&男優も、その道を選んで、しっかりとしたバックボーンがあって、プロ意識なんぞもあって、それが故に『アイドル』と呼ばれたり『女優』『男優』としてスターになっているわけでんな。グラビアアイドルも同じらしい。

 で、『美人尼僧』なんだが、どういう選考基準だったのかは知らないが、知っている2人は、しっかりした先輩。一人は近所の本屋で本が平積みされている人だし、もう一人は教団内で頑張って居られる方。まあ、音楽活動もしているのだが、音楽活動よりも、やはり教団内部での仕事の評価の方がデカイと思う。
 他の『美人尼僧』として選ばれた方々は知らない。今日、立ち読みも出来なかったし。でも、まあ、それぞれの所で、それぞれに頑張って居られ、その事が何かしらの社会的評価に繋がって居られる方々ではないのかと勝手に想像したりする。
 当然、あくまでも『社会的評価』であるが。

 でも『美人尼僧』。
 え~。。。大谷派教団は性差別にも結構頑張っていてでんなぁ。。。それ専門の人達も居てたりするのだが。。。

 先に書いた様に、週刊ポストの選考基準がどういう基準だったのかは知らない。『美人』だけで女性の僧侶を評価するのであれば、それこそもっと他に居てただろうし。
 でも、『美人尼僧』っちゅうのは、なぁ。。。少し問題ではないのか?

 『少し』と書いたが、『女性差別』という視点からだけなら結構な問題だと思たりもするのだが、でも、『仏教を広げる』という視点からなら、話は別だったりする。何の『一言法話』が書いてあったのかは知らないが、まあ、どういう編集になっているのかはともかく、あの2人の先輩たちがいい加減な事を言うとは思えない。

 私もなんだが、下衆な野郎は、下衆だ(そのままか)。きっと『美人尼僧』という言葉だけで下衆な野郎は下衆な妄想をかき立てて週刊誌を手に取ってしまったりもするだろう。
 2人のうちの1人は人脈的に見ても、結構女性差別に煩い方だと勝手に妄想したりする。「よく、納得したなぁ。。。」と。
 『美人尼僧』などと、ある意味商品化されたタイトルの記事に。まあ、企画意図を聞いていたのかどうかは知らないが。

 『美人尼僧』に紹介された方々がどういう思いで取材を受けて記事の承諾を受けたのかは全く知らない。
 知らないのだが、私には友人が年賀状に書いていた

 『私は仏法興隆の為に出来る事は何でもやろうと誓います』

 という言葉を思い出してしまう。

 しっかし、「私の方が美人なのに、なんで私が取り上げられないの!」と、非常に生々しい煩悩が燃え上がっている女性の僧侶が居ていて欲しいと思ったりする。いや、人間やし(笑)
 私は『イケメン僧侶』の雑誌グラビアなら、「なんで俺が載ってないねん」と、煩悩が燃え上がりまっせ、間違いなく(笑)

 あ、首が動かん。。。寝よ。サロンパス、もうちょっと頑張ってくれよな。明日は銭湯に行って、え~。。。寺の通信作りか。。。っちゅうか、その前に法事もあるし。
 そや、「あの人、エエ声やなぁ。。。」「エエ法話しはるなぁ。。。」という言葉に対して敏感に燃え上がる煩悩。

【凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず】(宗祖親鸞聖人)

 っちゅうのは、そのまんまやな。


 

2011年2月26日の学習内容

2011年02月26日 | 坊主の家計簿
  長尾雅人『仏教の源流―――インド』

二 降誕から出家まで(文庫版54頁~64頁)

 *懐妊  
【マーヤ夫人は、天から白像が降りて来て胎内に入ったと夢見て懐妊しました】(54頁より)


 *出産
【また女の人が右手を上に伸ばして花を摘むというポーズはインドでは美人を象徴する一つのポーズで、民間信仰の女神がよくこの姿で表現されています。仏教徒もまた、仏陀の母にこのポーズを適用したわけで、それ故、右脇から釈尊は誕生することになります。】(54頁~55頁より)


 *生誕
【「天上天下、唯我独尊」というのは、何か非常に傲慢ないい方のようにも聞えますが、それはそうではなく、仏教徒がそのように最高貴の存在として釈尊を受けとっていたということを示しているのです。】(56頁より)


 *幼児時代
【この御子は三十二相を具えて居られますから、家に留まって王位につかれたなら、恐らく転輪聖王になられるでしょうし、もし出家されるなら、必ず仏陀になられるに違いありません。】(58頁より)


 *青年時代
【釈尊の若い頃のこともいろいろ伝えられています。非常に才能の高い人で、いわば文武両道にかけて秀でた人だったことが強調されます。】(59頁より)

【しかし他方、むしろ蒲柳(ほりゅう)の質で(註・からだが弱く病気にかかりやすい体質)あまり頑丈な体ではなかったことが事実のようですし、またその人柄から考えて、果してどこまで武道などに興味を抱いたかは疑わしく思われます。むしろ物思いに沈むことが多く、「生」ということの意味について、深く沈思黙考するという場面が、どの『仏伝』にも描写されています。】(59頁より)

【そこで王さまは、出家など思い立たないように、出来るだけ沈鬱の環境を除いて気分を引き立てようと、いろいろの方策を講じました。】(60頁より)

【要するに、青春を謳歌するようにいろいろ仕向けたわけで、釈尊はその若い頃、感覚的な豪奢な生活を送ったということになっています。】(60頁より)


 *結婚生活
【才色兼備のヤショーダラーという娘と結婚して、ラーフラ(漢訳では羅睺羅)という男の子も生れました。ラーフラというのは、「障害」という意味です。】(60頁より)


 *四門出遊

@東の門・老人
【「誰もがあのようになります。あなたは今は若いけれども、やがて必ずあのようになります」】(62頁より)

@南の門・病人
【「あれは病人です。 あなたは今は若々しくて健康だけれども、やはりいつかは必ず病気になるのです】(62頁より)

@西の門・死人
【「あれは人が死んだのでございます。あなたもやがては必ず死ぬのです」】(62頁より)

@北の門・沙門(出家した修行者)
【神々が沙門の姿をして現われたのです。その歩きぶりは、如何にも悠揚として落ちついた態度であり、その顔色も如何にも晴ればれとして深い内観をたたえています。】(63頁より)

【これこそ自分の進むべき道である、自分もまた出家しなければならない】(63頁より)



三 出家から成道まで(文庫版65頁~78頁)

 *出家前夜
【いよいよ出家を思い立った釈尊は、ある晩そっと城を抜け出るのですが、その時一人子のラーフラをもういちど抱いてみたいと思いました。しかし、自分の妻であるヤショーダラーが目を覚ますかもしれないというので、それもやめて、そのまま足音を忍ばせて城の外へ出ます。】(66頁より)


 *出家
【こうして出家しますと、釈尊は自分の身につけていた宝石、王冠、高貴な衣服などをすべて脱いで頭も剃り、それらいっさいのものをチャンナに持たせて、カピラヴァストゥへ帰らせるのです。(67頁より)


 *先生
【マガダへ行った釈尊は、そこで二人の先生を訪ねています。アーラーラ・カーラーマという先生と、ウドラカ・ラーマプッタという先生ですが、これは二人とも禅定を中心的な方法とする禅定の師であります。】(68頁より)

@アーラーラ・カーラーマ
【南伝仏教の文献によると、釈迦は出家直後に道を求めんとして、彼のもとを訪れ「空無辺処」の教えを聞いて、間もなくその境地を証得した。彼は釈迦が自分と同じ境地を得たことを知ると、自分の弟子の300人を共に率いていくことを要請した。しかし釈迦はその境地は真の悟りを得る道ではないと覚り、彼のもとを去って次にウッダカ・ラーマ・プッタのもとへ行ったという。 なお、『方廣大荘厳経』7では彼の説いた境地は「無所有処」とするので、北伝仏教の仏説ではこれを一般視する向きが多い。】(wikipediaより)

 註・空無辺処
【空無辺処(くうむへんしょ)とは、無色界の(下から数えて)第1天。無量空処(むりょうくうしょ)とも言う。物質的存在がまったく無い空間の無限性についての三昧の境地。
物的存在たるこの肉体を厭い、無辺の虚空の自在を欣び、空無辺の理(ことわり)を解し、修行して生ずる処である。欲界と色界とにおける一切の物質的な形を離れ、一切の作意のない、無辺の空を観じる禅定。形のあるこの肉体を厭い、大空は無限であることを達観すること。無色界には空間的な場所はないが、果報の違いに依って感じるので「処」と名付ける。】(wikipediaより)

 註・無所有処
【無所有処(むしょうしょ)とは、無色界の(下から数えて)第3天。いかなるものもそこに存在しない三昧の境地。
 空は無辺なりと観じて、空を破した人が、さらに識が三世(過去・現在・未来)にわたって無辺であるを厭(いと)い、所縁共に所有なしと観じ、この行力に依って生まるる処であるから、無所有処地という。何も存在しないと観察し達観する事。】(wikipediaより)

@ウドラカ・ラーマプッタ
【彼は、非想非非想処の境地までを証得し、釈迦にこの境地を示すも、釈迦は即座にこの境地に至った。しかるに彼もアーラーラと同じく、彼の僧団を共に率いていこうと釈迦に要請するも、釈迦自身はこの境地もいまだ真の悟りを得る道ではないと感じ、去って自ら道を求めたという。】(wikipediaより)

 註・非想非非想処(有頂天)
【有(Bhava=存在)の頂(agra)を意味しており、三界(上から無色界・色界・欲界)のうち、無色界の最高の処を指す。非想非非想天、あるいは非想非非想処と言う場合もある。
『倶舎論』に於いて、三界の中で最上の場所である無色界の最高天、非想非非想天が、全ての世界の中で最上の場所にある(頂点に有る)ことから、有頂天と言う。非想非非想処天とは、この天に生じる者は、下地の如き麁想(そそう)なきを以て「非想」、または「非有想」といい、しかも、なお細想なきに非(あら)ざるを以て「非非想」、または「非無想」という。非有想なるが為に外道(仏教以外)は、この天処を以て真の涅槃処とし、非無想なるが為に内道を説く仏教においては、なお、これを生死の境とする。】(wikipediaより)


 *苦行
【当時のインドでは、苦行者はたいへんに尊敬されて居り、苦行は解脱を得るための最も重要な方法と考えられていました】(69頁より)
 *苦行の放棄
【苦行が解脱への道と信じられていた当時ですから、釈尊も一応はこれを試みる必要があったのでしょう。それを生命にかけて試みられました。しかしやがて、苦行が何の役にも立たない無益なものであることを知って、それを放棄する決心をします。これは周囲の人からは、堕落と受けとられました。前に申しましたように、苦行者はたいへんに尊敬されていましたから、それだけ逆に、苦行を止めることは軽蔑されることになります。しかし、真に解脱の道を求める釈尊は、敢然(註・かんぜん)として苦行の放棄に踏み切りました。】(72頁より)

 *村娘
【スジャータからミルクとご飯を混ぜたお粥(乳粥という)をもらって食べることができました。スジャータは実は、ある願いごとがあって、近くの大きな老木に毎日供え物をしていたのですが、ある日その木の下に、やせ衰えた釈尊が座っているのを見て、自分の願いに応じて樹の精・樹精が姿を現わしてくれたのだと思い、喜んで念入りに乳粥を作って供えたのでした。】(72頁より)

 *成道
【西岸にあった右の菩提樹の樹の下に来て、草を敷いて座ります。そして、「今度こそは悟りを開かない限りは、この座を立たないであろう」という、非常に大きな不動の決意を持って座ったのでした。その結果、ついに十二月八日(漢訳仏典の伝える月と日)の夜が更けて明星が輝く頃、「この上ない最高の悟り」(無上正等菩提)に達せられたのです。】(73頁)
 
 註・ウェーサーカ祭
【ウェーサーカ祭の正確な開催日は、その地域や宗派の採用する暦によって異なる。仏滅紀元を採用する上座部仏教では、満月の出る Uposatha の日(たいてい仏滅紀元の5月か6月)にウェーサーカ祭を行う。中国では、中国暦でいう4月の最初の満月の日にあたる。西洋のグレゴリオ暦では年ごとに異なるが、大体4月か5月に当てはまる。
ウェーサーカ祭が「釈迦の誕生日」と非公式に呼ばれることがあるのは、この祭りが釈迦の誕生・悟り(ニルヴァーナ、涅槃)・入滅(パリニルヴァーナ、般涅槃)の三大仏事に結びついているからである(日本の仏教では降誕会・成道会・涅槃会は別々に行われるが、南伝仏教ではこれらは同じ月の同じ日に起こったこととされる)。】(wikipediaより)

 *降魔成道
【さらにまた魔王は、その娘三人を派遣して、釈尊を誘惑させようとします。三人の娘は、肌も露にして歌ったり踊ったり、流目を送ったり、甘い言葉をささやいたり、わざと裳をかかげて進んだり、あなたのような偉大な人のお給仕をしたいと申し出たり、あらゆる媚態をつくして誘惑につとめます。しかし、釈尊が不動であることは、いうまでもありません。】(76頁より)

【その魔とは、煩悩のことだと解されています。】(77頁より)





 感想

@親鸞の夢告
【行者、宿報にてたとひ女犯すとも、われ玉女の身となりて犯せられん。一生のあひだ、よく荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしめん】

 六角堂でのこの夢告は『降魔』であったのだろうか?そんな疑問にふとかられる。

 上記の言葉から真っ先に思い出されるのは『一心正念直来(オネガイダカラ スグキテオクレヨ)』という池山栄吉先生の言葉である。
 『降魔』であったのか、無かったのか?というのならば、「降魔であった」という言葉が適確なのかも知れない。しかしながら、宗祖親鸞聖人は『煩悩具足の仏』(笠原一男氏)とも呼ばれる。煩悩を身に抱えられた宗祖である。

 釈尊が菩提樹の下で「今度こそは悟りを開かない限りは、この座を立たないであろう」という決意で草を敷いて座られる。

 わたしの まちがひだつた
 わたしの まちがひだつた
 こうして 草にすわれば それがわかる
 (八木重吉『草にすわる』)


 スジャータは
【スジャータは「もし私が相当な家に嫁ぎ、男子を生むことがあれば、毎年百千金の祭祀(Balikamma)を施さん」】(wikipediaより)

 
 という願いを持っていたらしい。欲(煩悩)である。
 
 この時期になると、仏壇(お内仏)の前に受験の願書等を置いて居られる方々も居られる。スジャータの願いである。その『スジャータの願い』を持って居られる方々から布施(乳粥)をお預かりして生活している。

【一般的に、釈迦はスジャータから乳がゆの供養を得て悟りを得た後に説法して弟子となったのは、五比丘であり、優婆夷(女性在家信者)ができたのもその後と考えられるが、彼女を最初の優婆夷とする仏典もある。】(wikipediaより)

 らしい。

 宗祖にとってスジャータは、共に阿弥陀如来より「煩悩具足のわれら」と呼びかけられる同朋であったに違いない。





 え~と、当日の学習会内容を含めてブログにアップしようと思っていましたが、東北関東の大震災が起こり、そちらの情報収集に忙しくなり、申し訳ございませんが、今月は当日の内容の報告はなしという事にさせて頂きます。

摂取の光明

2011年02月26日 | 坊主の家計簿
 う~ん。。。変な時間に寝てもうた。。。っちゅうか、倒れ込んでもうた。。。頑張って酒飲んで寝ないと。明日、忙しいし。

 図書館で借りて来た『やなせたかし アンパンマンの遺書』。放ったらかし状態で、今日、「あれ?返却日って何時やったっけ?」と見たら、3月1日。。。焦って読む、一気に読む。
 200頁少しなので、割とすぐに読める。やなせたかし氏の自伝みたいなもんでんな。でも、タイトルは『アンパンマンの遺書』。何やら、『カミさん』が亡くなられたらしい。タイトルは『アンパンマンの遺書』なのだが、亡くなられた『カミさん』へのラブレターみたいな本。きっと、やなせたかしさんにとって『アンパンマンの遺書』を書く事がグリーフケア(悲嘆ケア)になったのだろう。

 昨夜、友人よりメールを頂く。先日朝まで飲んでた店をやっている人で、私が朝まで飲んでグチャグチャにグチャグチャ話してた事がグリーフケアになっていたらしく、その感謝。お兄ちゃんの三七日だったらしい。「グリーフケアなんぞという言葉をどこで憶えてん!」なんぞと疑問に思ったりもするのだが、本が好きな人なので、きっと何かで読んだのかも知れない。っちゅうか、まあ、いつもグチャグチャになりつつ、グチャグチャに話させて頂いているので、むっちゃケアされているのだが。

 先日、とある所で、初めて会った先輩。何やら、その先輩の寺のホームページには、大切な人を亡くされた方々の文章が載っているらしい。まあ、「書く」という事は、誰かに話したりするのと同じく、気持ちの整理にもなる。これを金にするのならば、って、おい!(笑)でも、競争が激しい葬儀社にとって、他社との差別化のサービスになったりすると思ったりもする。っちゅうか、大阪にある某葬儀社は、遺族の為が気楽に来れてケア出来る場所なんぞも作っていたりするし。で、むっちゃエエ仕事してはるし。しかも利用料はタダ。まあ、厳密には会社組織なのでサービスの一つなのだろうけど。

 グリーフケア。え~と、一応、講座なんぞに通って勉強もしたのだけど、基本は飲み屋で学んだ。『人生における大切な事は砂場で学んだ』やったっけ?なんかそういうタイトルの本があったらしいが、私にとっては『人生における大切な事は飲み屋で学んだ』でもあったりする。
 そら、別に『坊主バー』なんぞの看板あげんでも、いわゆる『小箱』と呼ばれるバーや、多分、多くのホステス&ホストが居てる飲み屋で、

 「あら、○○さん、久しぶりじゃない。どうしてたの?」
 「いや、この間、オヤジが死んでなぁ。。。」

 から始まる会話も多いと思う。
 で、ホステス&ホストは、当然『お客様』なのだし、商売なんだから、『商売』を通じての人間関係なんだから、話を聞く。途中で泣き出す人も居てる。それが他のお客さんが居てる時もあれば、他のお客さんが居なくなってから話始める事もある。その場合場合によって違うのだが。
 私も親しい人が死んだ時に飲み屋に行って話しながら泣いたりする事もある。っちゅうか、先日朝まで飲んでた店では何度か泣いた事があったりするのだが。。。別に、飲み屋では珍しくない光景だと、個人的経験では思ったりもする。

 親しい人が死んだ時、特に自殺なんぞで死んだ場合は、笑い話にする場合も多々ある。
 「いや~、やっぱしガス吸ってラリろうと思ったんですかねぇ~」なんぞと。その他、諸々。ああいうのも飲み屋らしくて好き。心の中は泣いてるし。表現の仕方が違うだけ。

 先日、テレビを観てたら銀座のナンバーワンのホステスさんが出てた。で、人の話を聞くコツとして「タマに相手に聞き返す」というのを紹介してはった。
 テレビを観つつ「若い!」と思ったりする。んなもんは、テクニックとか、コツ、っちゅう前に、人の話を聞いてたら、聞き取れなかったりする部分や、確認したい部分が出てくるから、当然、聞き返したりもする。まあ、話をすんなり聞けてしまう場合もあるので、その場合のコツなのかも知れんが。。。だから私はナンバーワンに成れなかったのか。。。っちゅうか、ホステス違うけど。

 以前にも書いたと思うのだが、とある神主さんが、キタ新地のホステスさんに「私も巫女になりたい」と言われた時に、「何をいうてるねん。あんたらがやってる事が巫女の仕事やで」と。

 よく行くバー、っちゅうか、まあ、最近、全く新規開拓をしてなくて、昔から行っている馴染みのバーしか行かないのだが、バーでは音楽も武器だったりする。音楽療法っちゅうやつでんな。まあ、私の場合はクラシックでなく、シオンだったり、ソウルフラワーの『杓子定規』だったり、その時の気分なんだが。

 先日、熱っぽく(今日もなんだが)布団の中からiPhoneでツイッター遊びをしてた。諸々書き込みながら、っちゅうか、何を書き込んでいたのかイマイチ憶えていないのだが、「読経は音楽療法だ」みたいな事も書いた。だって、泣く人も居てるし。
 読経の内容、書いてある内容は漢文なので当然、読経しているだけでは意味は通じない。また、亡くなられた方を思い出して泣くような内容ではない。
 
 私もお経を『現代日本語で読みたい派』なんだが、なので、すべての門徒さん&新しく、また、「葬式だけやって」での出会いであっても正信偈の現代意訳の本を配ったりしている。一時期はその解説本も配ったりしていたのだが、これは経済的理由で断念。
 読経は、死を悼むものではない。悼むものではないのだが、その事が培って来た音楽療法的側面もあったりする。

 最初に感じたのは坊さん道場時代にお盆の手伝いで行った寺。お盆の忙しい時なので話しているヒマは無かったりする。なので『スーパー読経マシーン』として読経、読経のはしご。
 とある家に行ったら、中学生ぐらいの女の子が一人。スーパー読経マシーンは挨拶だけして、読経、読経。
 帰ろうとしたら、女の子は泣いてた。
 その後もそういう経験は多々。宗教音楽としての読経。まあ、声明か。

 最初に働いた寺は、いわゆる『葬式寺』。そこの住職はモンゴルのホーミーが使える。なにやら、忙しい中で舌を楽にする為に読経してたら自然に身に付いたらしい。え~。。。日本人でホーミーを使える人が何人居てるのか知らんが、『住職』と同時に『音楽家』でもあるのだろう。
 ホーミーは家畜の音楽療法としての価値もあったりする。ラクダやったかな?何かのタレント突撃ドキュメント番組でラクダか何かをホーミーで泣かせるシーンがあったし。泣く事で慰撫出来る。楽になれる。

 んな事を書いて居ると声明の恩師から怒られそうなんだが、いや、現場の叩き上げでして。。。

 今日はお通夜だった。初めて行った葬儀会館だったので、案内が来て控え室から会場へ向かうエレベーターの中で、「声、大丈夫ですやんね?」と。同時刻に上の階で通夜があったので。
 いや、最後辺りに声、やたらと張り上げますねん、私。これも声明の先生が聴いたら、「そんな事教えてません!」と怒られると思うのだが、メリハリ付けまくりでして。。。
 んが、今日は、ずっと続いている微熱で、イマイチ声が出なかったのだが。。。

 ん?何を書いてるねんや。そろそろとりあえず布団の中に入っとかな。寝れるかどうかは解らんが。

 世間的な価値を与えられる。
 例えば『グリーフケア』等という価値観が出てくれば、坊さんが普段からやっている事に光が当たったりする。「おお、なんや、俺らが普段やっとる事はグリーフケア、っちゅう意味もあってんのぉ。。。」なんぞと。
 水商売。いまだに差別する人も居てるが、最近は水商売をテーマにしたテレビドラマなんぞもあって、『キャバ嬢』になりたい娘さんたちも多いらしい。ちなみにヨーロッパのどこかに国(忘れた)ではウエイターの社会的地位が高いらしい。うん、『サービス』っちゅうのをよく解っとる。
 あ。。。
 世間的な価値観、何かしらのスポットライトを浴びて、初めて社会的な価値観が評価される。
 でも、それまでは、ごくごく当り前の事。
 家事(家庭内再生産労働)しかり。

 でも、そういうスポットライトを浴びずとも、何かの『価値』として見出される事がなくとも、んなもんは、所詮、虚仮。その時々の流行。

 癒し、癒され、世話になり、何かの役に立っている。

ダラダラ♪

2011年02月25日 | 坊主の家計簿
 焦って、学習会のレジメ(?)を作ってました。
 え~。。。直前までやらないのは寺の通信でも同じなんだが、あ、寺の通信も作らな。。。

 という事で、学習会ブログの宣伝。

 http://blog.goo.ne.jp/samgham/

 ブログでの初回は教授(?)が担当。
 2回目は私が担当。まあ、参加人数も少ないし。

 ダラダラと始まって、ダラダラと長時間やって、ダラダラ終わる学習会(あくまでも個人的感想)。
 だから、結構、クォリティーが高かったりするのではないかと、勝手に思う。
 一応、最初に勤行(パーリー語の三帰依文)をやって、最後にも念仏するのだが、勤行が始まる前もダラダラ、終わった後もダラダラ。中もダラダラ。
 ダラダラだから、意見、言い易い、言い易い。

 冬場の私は、なんとなくストーブ担当。若干『太った』とはいえ、やっぱし体脂肪も少ないやろうし、っちゅうか、単純に寒がりの根性なしなんだろうが。。。
 ストーブに木を突っ込んだりしつつの学習会。
 平均、4時間~5時間ぐらい、シラフでダラダラの学習会。

 話は脱線しまくり。
 でも、その『脱線』が、それぞれの生活の中で感じている事を喋れるし、なんせ『ダラダラ』なので、カッコ付けて喋る事もなく、ダラダラと。
 で、ダラダラと、もう、結構続いていたりする。
 多分、無くならん。なんせ、ダラダラしてるし♪

 ちなみに『釈尊以前』から初めて親鸞までやる予定なのだが、え~。。。親鸞に到達するまでにあと何十年かかる事やら(笑)

 ダラダラ♪

リア充

2011年02月23日 | 坊主の家計簿
 なんか、熱っぽいなぁ。。。

 NHKでやってた『「ネットが革命を起こした~アラブ・若者たちの攻防~」』(http://www.nhk.or.jp/special/onair/110220.html)を見る。録画してたので。
 
 見て、初めて知ったのだが、フェイスブックって、情報を暗号で送れるのね。メールなんぞで「ムバラク、テメーの首は太いんだよ」なんぞと書くと「これはダメ」となっていたのが暗号化されてフェイスブックまで送られるのでムバラクの首が太いとか「草野仁みたいな体格しやがって」とかいうのでもなんでもフェイスブックになら書き込めるらしい。
 って、ようするに『民主化兵器』やんけ。これに対抗するには、ムバラクはファイスブックの株を大量に買い占めれば良かったのではないかと思ったりする。むっちゃ、お金持ちやったみたいやし。買い占めて大株主になって、大株主の意向として「俺の悪口は全部消せ」なんぞと。まあ、株式会社になっているのかどうかは知らんが。。。

 ファイスブックには入っていない。まあ、そのうちに入るのかも知れないが。っちゅうか、まあ、入るのだろうが。

 ホームページ→ブログ→ミクシィ→ツイッター。どれもこれも騒がれて「ビジネスチャンスだ!」とか、「ツイッターで世界は変わる」なんぞと。iPhoneもそうか。iPadなんぞも。その度に、ホームページで成功した話、まあ、生野のキムチ作るのが上手なオバはんが金持ちになったとか、ツイッターで情報発信する事によって店が流行ったとか、まあ。基本は情報発信の道具。非常に便利な道具。
 iPhoneでは『食べログ』をよく見てる。旅行計画にも便利。で、食べログを上手に使っている、というか、明らかに関係者がポイントを上げる為に投稿している店なんぞもあったりする。口コミを金にする商売もあったし、ネットでの口コミも大きな影響を持っていたりする。

 最近『リア従』という言葉を知った。っちゅうか、以前から見かけていた言葉なんだが、特に関心もなく読み流していた。え~。。。『リア従』という言葉を使う文章やし(笑)ツイッターだろうが、んなもん、一々丁寧に読まん。

 『リア充』とは

【「リアル(現実の生活)が充実している」の略 
 ブログやSNSなどを通した関係ではなく、実社会における人間関係や趣味活動を楽しんでいること。または、そのような人。インターネットなどで使われる俗語。】(http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/230343/m0u/り/

 らしい。
 ネットも現実生活の一部だと思ったりするのだが。。。
 
 インターネットが流行り出した頃に、ネットに対する規制の話が出てた。ネットを使った犯罪。まあ、その犯罪の中に、エジプトやチュニジアなんぞの中東諸国の革命も入っていたりするのだろうが。

 でも、まあ、『リア充』らしい。

 最近、CDはレコードに戻すべきなのでは?なんぞと考えたりする。CDはデーターで、データーならばネット上に落ちている。最近、音楽自体、飲みに行って聞くとか、後は娘と一緒に見る子ども番組での音楽ぐらいだから余り関係がないのだが、それこそ、金が無かった学生時代(今も無いが。。。にレンタルレコード屋に通ってレコードからカセットテープにダビングしてた時代にネットがあれば落とし放題だっただろうし。
 「CD?あんなもんは単なるデーターでしょ。やっぱりホンマもんの音はレコードで聴いて下さいよ」なんぞと。

 『リア充』。まあ、「どれだけネットで遊んどるねん!」なんだが、ネットだけでは満足出来ない何かがあるのだろう。その『何か』って、結構大切なものだと思ったりする。
 のだが、当然、それぞれの人次第。ネットだけが掛け替えのない人と通じる機会である場合もあるし、その『温かさ』も知っている。
 でも、その温かさは『人間』の温かさ。言葉を発する人の温かさ。人の温かさを感じれる適度な距離感は人それぞれ。直接会っての対人関係が苦手な方はネットでの距離感が一番だったりもするのだろうし。それを否定する権利は誰にもない。
 でも『リア充』という言葉を使う方も居られる。多分、その距離感では満足出来ないのだろう。飲み屋のネエちゃんを口説くみたいなものなのかも知れない。
 「なあ、なあ、そろそろオッチャンと深い関係になろうや」
 なんぞと。で、深い関係になったら、さっさと離れたりする場合もあるのだろうし(笑)

 このブログの新しい機能で、『打ち込んだ文字数が表示される』というのがある。まあ、改行とかで厳密ではないのだろうが。

 今現在は2094文字らしい。『2094』を打ち込む前までで。400字の原稿用紙で約5枚。え~。。。坊さん道場時代の朝の感話の量でんな。5枚ぐらいが平均やったかな?もっと多い時もあったけど。前の日に当時はシラフだったり飲んだりだったりと、今みたいに「飲んでない時はブログを書きません」という状況ではないし。まあ、なんじゃかんじゃで原稿用紙に書き込んで、朝の感話で喋って、提出。

 今日はとある所でプチ法話。まあ、法話に『プチ』もクソもないのだが。
 法話は出来るだけ、その場の空気で喋りたい。まあ、短い時間だから出来る事なんだろうけど。
 今日は基本、頭が「ボー」っとしてたので、「何を喋ろうか?」と、「ひょっとするとこのままノーゲストだったりすると法話せずに勤行だけでもエエかも知れん」なんぞと。でも、人が来られていたので何か喋る。10分ぐらい前に着替えながらネタ、というか、話の導入を探す。丁度『宗派』についての話を聴いたので、それを導入口にして話す。

 人に話す時には相手の反応がある。その場で直接顔を見れる。
 私にとっての『リア充』って、まあ、ブログに書き込んでいるのと、直接会って話すのとの違いはその辺だったりする。

 なんか『リア充』という言葉が指し示す意志は「もっと解り合いたい」という孤独感だと思ったりする。

 

生きてたりする

2011年02月21日 | 坊主の家計簿
 ママ→娘ラインの家族で流行ってた風邪にあえなくかかる。ただ、まあ、みんな症状か軽く、インフルエンザなのか、それとも同じもんを食べて、同じ所に住んでいたから同時に風邪になったのかは解らん。まあ、風邪かなんか知らんが、胃にも咳にも来ずに熱だけ少しでる。

 パソコンを立ち上げるのは酒を飲んでから、というルールが別にあるわけでもないのだが、なんとなくシラフの時には滅多に立ち上げず、また、立ち上げてメールチェックする事はあっても、そのままこのブログを書く事は尚更なく、よってご無沙汰。

 熱がなんとかなりそうになった日は外出予定の日。っちゅうか、まあ、仕事で毎日外出だし、その他の用事で外出はしてたんだが、坊さん会合で、飲み会込みの外出予定。さっさと帰ろうと思ったのだが、病み上がり(?)のビール、コップ2杯で酔う。酔うと酒にだらしないので、そのまま飲み続け、他の人達と別れてとっとと帰ろうと思いつつ、足はよく行くバーに向かってたりする。
 入店したのが21時30分ぐらい。「アカン、今日は酔っぱらってる。もうもう飲まれへん」と6時間半。店を出たのが朝の4時。
 ラーメン食べて4時30分。少し待ったら電車が走る、っちゅうか、タクシー代も勿体なかったので電車待ち。
 寒かった。。。で、またまた。熱はないのだが、頭が痛い。

 今日は友人の法事(?)。
 (?)なのは、別に読経するわけでもなく、友人の息子の成人式祝いも兼ねてやし。
 
 自分の子どもなんて全く想像も出来なかった時代に、友人の子どもは出来て、当時の彼女と出産祝いを兼ねて遊びに行った時に、「ほら、お前も抱っこしてやってえや」と言われた時に、「落としたら死ぬようなもんを抱っこ出来ひん」と、まあ、単純に赤ちゃんが怖くて抱っこ出来なかったのが、最早二十歳。彼女が出来たらしく、彼女との写真なんぞも見せて貰う。彼女は若い頃の友人に少し似てて、友人と誕生日も同じらしい。

 死んで2年か。俺が結婚直前やったし。3回忌ぐらいなもんでんな。

 友人の息子は、彼のパパに似ている。顔も性格も。「気の弱そう」な所がそっくり。でも、まあ、実際は解らん。んなもん、人間は関係存在だし、『内弁慶』という言葉もある。
 彼は自分の親父の顔を憶えているのかな?彼がかなり小さかった時に離婚したはずだし。その後、彼と親父が会っているのかどうかは知らない。

 集まったメンバー、私が18才ぐらいの時から知り合った人を中心とする、っちゅうか、一人だけは二度目の人も居てたけど、でも、その人も「会った事はないけど、共通の仲間」みたいな人。
 なので、昔話もする。

 話を聞いてて思い出したのだが、友人は藤井誠二の『先生、もう生きていけない! 少女たちは、なぜ死を思いとどまったか?』(三一書房 1988年)に載ってた。当然、仮名。
 あの本の中の写真は、今となっては『少女たちは、なぜ死を思いとどまったか?』という本のタイトルに関して、「その時だけやったやないかい!」なんぞとツッコミを入れたくなるのだが、実家で首吊って死んだ旧友がモデル。写真の彼女の事を、写真が撮影された当時好きだったので、私が贈った傘なんぞも映っている。で、本が出た当時に友人と飲みつつ、「ほら、お前、○○の写真も載ってるねんから買って読め」と2人で飲んでる時に言われた事を思い出す。
 結局、買ったのか、貰ったのか憶えていないのだが、読んだ記憶はある。本棚には無い、のかな?引っ越しが多いので捨てたのかどこかに紛れ込んでいるのか、実家に置いてあるのか、解らん。
 
 旧友たちと会って、息子の前では喋り難い事もある。まあ、『男関係』(友人は女)でんな。そんな事もあの本の中には書いてあったはず。

 最年長の私が18ぐらいの時に「無茶苦茶カッチョエエやんけ!」とファンだった『お姉さん』は、今や『お婆ちゃん』。外見も少しは老けたのだが、見事なまでのガキだった娘に赤ちゃんが出来たらしい。うちの娘よりも少し上の。家で作ったお茶を持って来て貰ったのだが、その中の容器の1つが『赤ちゃん麦茶』(笑)「おお、見慣れたペットボトルやんけ」である。

 友人の息子は『いじられキャラ』らしい。
 大学2年生の彼は就職について諸々考えているらしく、そんな話も出る。
 『いじられキャラ』は、学生時代には金にならんし、多分、イヤな事でもあるのだろうが、社会に出たらこれが金になる。
 「金になりまっせ!」と言ってたら、旧友が「確かにそうやけど、坊主が言う事ではないな(笑)」と。
 でも、金になる。

 人間は関係存在なので、私も『いじられキャラ』の部分もある。キャラなんぞ自由自在、人格なんぞ固定されていないわけなんだし。
 で、何だって金にすりゃ、エエのだ。社会人なんだし。ん?『社会人』という言葉は変やな。なんだって金にせんと生きて行けん。
 『いじられキャラ』は好かれている証拠。かわいらしく思われている証拠。しっかりしているキャラは放っとかれる事が多いけど、『いじられキャラ』は放っとかれへん。「この人は私がついていなきゃ」等と思わせたら勝ち。

 死んだ友人は、死ぬ前に、「ああ、こいつはもう、長くないな」と感じた電話があった。演じていたのか、ホンマに解らなかったのか今となっては解らないが、携帯に電話があって着信履歴が残ってたので電話をしたら「誰ですか?」みたいな感じで。しばらくすると「ゴメン、ゴメン、私、最近、アカンねん」等と。それは寂しくて気を引こうとしていたのか、それともホンマに脳味噌がアカンかったのかは不明なんだが、まあ、両方ともの症状としてはアカン。実際にそのすぐ後に死んだし。私は忙しかった事、まあ、典型的なイイワケなんだが、「ああ、アカンな」と思った。「もう、長くないな」と。でも、じゃ、何か出来るか?と言えば、当時の私には何も出来なかった。

 明日は、一応の予定では休みである。
 基本、頭が痛い中出かけて、頭が痛いし、ママに「友達の法事に行くけど、晩御飯までには帰る」と言って来たので、先に帰る。帰りの車中で瞬間居眠り運転。危なかった。。。
 帰宅しても頭が痛い。とっとと寝ればエエのだが、なんか寝れずに、かと言ってパソコンを立ち上げる気力もなく、ダラダラと深夜テレビなんぞを見る。
 ようやく何時もなら寝る時間からパソコンを立ち上げて、飲み始める。ペース、早いぞ。

 友人の息子。赤ちゃん時代に一度だけ会って、次に会った時は友人が死んだ時。で、今日合わせて3回目。生まれる前から知っている彼に対して何かが出来る等とは全く思えないし、出来る余裕もない。冷たいのだが。今日会ったメンバーから何か連絡があれば自分が出来る範囲で何かするかも知れないが。
 
 「でも、俺には娘が居てて」なんだが、でも、パパである私は今日は外出。先日もだらしなく朝まで飲んでしまう。
 娘が泣いてて寂しそうにしてても、「ゴメン、パパは出かけんとアカンねん」とか。それ以外の日常でも、パパの機嫌次第。娘が起きて泣いてて、ママは朝早くの家事。私は眠い。「もうちょっと寝かしてえや。。。」の時など、娘をすぐに抱っこ出来ない。娘でもそうである。

 無縁の慈悲(対象のない慈悲)。
 って、あーた。
 そこまで徹底されるのなら、『出来ない』しかない。娘であっても、自分の都合次第が私である。対象のない慈悲など、全く不可能としか言えない。
 『慈悲』という言葉は結構うっとうしい言葉でもあるので、ひらたく『一緒に生きる』なんぞと変換してみるが、なら、尚更。
 「誰々とは一緒に生きるけど、あんたはアカン」ですらない。
 「誰々とは一緒に生きる」という人でさえ、自分の都合次第、気分次第。

 さっきまでテレビで見てた深夜にやってた映画。なんか、ユースケサンタマリアが主演(?)の恋愛もん。何個かのストーリーがあって、途中別のドキュメントを見てたり、うじゃうじゃしてたので、全編、ちゃんと見てない。でも、その最後辺りにユースケ演じる主人公が、全くダメな自分を発見する。そのダメな自分と一緒に生きてくれている『つまらない女』を『掛け替えのない人』と見出す。

悲しみの空間を作ろう

2011年02月15日 | 坊主の家計簿
 ママ風邪→娘風邪。
 「風邪を治すのも仕事や!」なんだが、まあ、ひいたもんはシャーナイし、風邪ひいててもママの仕事はあるし。なので娘に風邪がうつる。
 
 咳がコホコホしてたのだが、食欲はバリバリの娘である。
 
 今日は久々にマクドナルドへ。「なんとなく」なんだが、なんとなく入って、なんとなく注文。
 店員さん「御一緒にチキンナゲットも如何でしょうか?只今100円になっておりますが」
 との事。勧められたものは無条件に拒否してしまうので、
 私「要らん」と。
 んが、しばらくたって「ちょっと待って、今、100円なん?」と、ついでに買ってしまう。ムッチャ久々のチキンナゲット。特に好きでもないのだが、100円であの量なら満足である。

 買って帰って家で食べていると娘が寄って来る。っちゅうか、「くれ!」である。両手にチキンナゲットを持って少しづつかじっては別のに。ママ曰く「どれも同じか確かめているのと違う?」との事。
 これが夜の餃子でも。両手に餃子を持ってでんな。。。

 しんどそうだったので熱を測ると38度半ば。いや~。。。風邪でんな、多分。明日、ママと娘揃って病院に行ってこい、っちゅうねん。

 私は風邪をひいてはいけない身分である。
 寺社会は身分社会であって、『風邪をひいてイイ身分』と『風邪をひいては良くない身分』とに別けられている。。。あ、まあ、嘘なんだが。。。でも、まあ、誰か代わりが居てるのと、居てないのとでは違って来る。私は前代務住職のママが居てるので、まあ、葬儀とか法事とかを除けば、まあ、なんとかなる。なので実は『風邪をひいてイイ身分』だったりするのだが、非常に残念な事にママが先に風邪をひいたので、まあ、しゃーない。
 なので、明日の昼御飯は焼肉食べ放題やな。御近所で60分980円(プラス消費税)の店と、90分1200円(プラス消費税)の店があるし。ホルモン補給である。

 しっかし、38度半ばの熱を出しながらも両手にチキンナゲット&餃子を持つ食欲。うん、さすがは我が娘である。私のDNAが流れているのかどうかは知らん(んなもん、男が解るかい)のだが、私が「娘」として共に生きている我が娘である。いや、素晴らしい。


 今日は資料整理もする。クリアファイルに突っ込んでた諸々の紙資料を「クリアファイルはコストがかかる」っちゅう事で、デッカイ分厚い封筒に変更。これならコストも安いし、どんどん突っ込める。まあ、仕事系の大事なもんは変わらずクリアファイル保存なんだが。

 どこでの講義だったのか全く憶えていないのだが、2005年10月18日の菅原伸郎さんの講義資料が出て来た。赤ペンで書き込んでいる所を見ると「資料を貰っただけ」ではなく、ちゃんと講義を受けたみたいである、のだが、全く憶えていない。。。
 けど、講義資料のタイトルが『悲しみの空間を作ろう』である。何やら、靖国問題の講義だったみたいである。
 資料の最後は清沢満之の有名な

【宗教的天地に入ろうと思う人は、形而下の孝行心も、愛国心も、その他仁義も道徳も科学も哲学も、一切目にかけぬようになって、始めて宗教的信念の広大なる天地が開かるるのである。(中略)ここに到ると、道徳を守るもよければ、知識を求むるもよし、商売するもよければ、政治に関係するもよく、漁猟するもよければ、また国に事あるときは銃を肩にして戦争に出かけるもよいのである。】(清沢満之『宗教的信念の必須条件』より。ただし、『清沢満之先生のことば』 大河内了悟・佐々木蓮麿共編より)

 が書いてあった。全文を読みたい人はこちらをどうぞ。
 
 http://d.hatena.ne.jp/jinryuji/20100914

 資料は原文なんだが、明治の文章も読み難いのでこっちをブログでは引用。
 で、この講義では非常に評判の悪い

【また国に事あるときは銃を肩にして戦争に出かけるもよいのである。】

 だけではなく、え~。。。上記引用では解り難いので、原文引用

【孝行心も、愛国心も捨てねばならぬ。』

 という部分にもアンダーラインが引いてある。

 面白い事に

【国に事ある時は銃を肩にして戦争に出かけるもよい】(テキストのまま)

 では、「清沢満之は戦争を肯定した」と批判されているのだが、

【孝行心も、愛国心も捨てねばならぬ。』

 の部分では

【ナショナリズムの相対化
「故に真面目に宗教的天地に入らうと思ふ人ならば、釈尊がその伝記もて教へ給ひし如 く、親も捨てねばなりませぬ、妻子も捨てねばなりませぬ、財産も捨てねばなりませぬ、 国家も捨てねばなりませぬ、進んでは自分其者も捨てねばなりませぬ。語を換えて云へば、 宗教的天地に入らうと思ふ人は、形而下の孝行心も、愛国心も捨てねばならぬ」(77 頁)。
 非戦論に近い立場であるが、清沢の弟子の中には、暁烏敏のように積極的な戦争協力へ と踏む込んでいった者も少なくはなかった。】(http://www.kgurs.jp/PDF/resume070126.pdfより)

 という意見もある。

 そして、非常に面白い事なのだが、私は昨日買って来た無添加ワイン(最近安いぞ!)を飲んで酔っぱらって来ており、かつ、もう4時前で眠いのである。


 ♪とわの闇より すくわれし
  身の幸なにに くらぶべき
  六字のみ名を となえつつ
  世の生業に  いそしまん
 (真宗宗歌の2番)

 『真宗宗歌』は

【大正12年(1923)の立教開宗700年記念に真宗各派協和会が毎日新聞紙上で作品を公募し、真宗大谷派土呂基の作品を選定。】(http://www.terakoya.com/sanka/m_shuka.html

 という事らしい。何やら、ネット情報では作者が30才の時の作品らしい。
 ここで論文なら、作者の『土呂基氏』と、日本を中心とする世界で何があったのかの年表なんぞを書いて見ると面白いのだろうが、んなもん、酔っぱらいには無理。

 『悲しみの空間を作ろう』という講義のタイトルが心に響く。

 資料整理する前に、整理する為に郵送物を読まなければならない。適当にサラッと眼を通して「これは必要、これは要らん」なんだが、気になったのはしっかりと読む。

 母校から送られて来た機関誌を遅まきながら読む。
 本科時代の班担『木人(ぼくじん)』先生の講義録もあった。私が本科時代に尊敬して大好きだった別科生(現職員)の講義録もあった。
 ちなみに私は当時、班担の先生を『木人(ぼくじん)』と呼んだ事はない。名字に「先生」を付けて呼んでいた。ただ、同じ班だった兄ちゃんが、「少林寺木人拳に出てくる、木人にそっくり」という事で『木人(ぼくじん)』と呼んでいて、それが卒業して懐かしくなって、私も『○○先生』というよりも『木人(ぼくじん)』という印象の方が強くなっているだけの話である。

 自我意識から離れる事が出来ない。

 そんな事が徹底して書いてあった。

 ママに対して「風邪を治すのも仕事や」なら、私は「風邪をひかないようにするのも仕事」である。
 風邪の予防には安眠が一番だと思うのだが、え~。。。4時過ぎた(笑)

 残念というか、悲しい事に、私は真宗仏教に出会われた方がよく語られる「私が最低だ」とは言えない。どうしても自己保身とプライドが勝ってしまう。だから、「われら」に逃げ込む。
 だから、『悲しみの空間を作ろう』という言葉に敏感に反応してしまい、多くの資料の中でも眼に留まったりする。

 木人(ぼくじん)先生には、学生時代に無茶苦茶迷惑をかけた。生意気盛だったし。謝りに行きたいなぁ~、と思いつつ、なかなか行けなかったりもする。
 そんな時にも「悲しみの空間を作ろう」という言葉が響いて来る。

 「娘の熱が下がりますように」と、御本尊の前で祈ったりもしてしまう。合格祈願をしている、家内安全を祈っているのと何ら変わりない。
 肯定は出来ない。「こうありたい」「こうなって貰いたい」というのは迷いでしかない。そして、迷いを生きている。

 娘の熱が下がって、ママの風邪が早く治りますように。。。

政府は全ての男子にチョコレートを配給せよ!

2011年02月14日 | 坊主の家計簿
 特に意味はないのだが、今日は休肝日にしよう。ついでに『休肝日』も辞書登録したし。

 今日は主に読書。ここ数日は「今日も」になるのか。最近にしては珍しい。

 その他、久々にスーパーでお買い物。まあ、「よく行ってる」っちゅうたら、行っているのだが、今日は久々に献立を考えつつ。
 「風邪を治すのも仕事だ!」という事で、風邪ママの代わりにスーパーへ。風邪ママなので基本お粥なんだが、お粥だけでは寂しいし、栄養もアカン。シラスが賞味期限の問題で安かったのと、ホタルイカも賞味期限の問題で安かったので、その他も含めてなんだが、お買い物。野菜系はぎょうさんあるし。
 炭水化物に、タンパク質に、青物野菜に、食物繊維。先日和歌山で買ったナメコもエエ感じやったし。簡単に出来て体が温まって、後片付けも簡単なのがエエ。

 深夜、関西だけかも知らんが、蒼井優ちゃん主演の『百万円と苦虫女』をやってた。録画予約してたので、別に放っといても良かったのだが、「寝る前に蒼井優ちゃん」という事で、少しだけ見る。っちゅうか、半分ぐらい見てもうたのだが。大きな画面の蒼井優ちゃんは、パソコンの小さな画面の蒼井優ちゃんと変わる事なく素晴らしい。どこまで小さい画面でも素晴らしいのか実験してみたくなるのだが、まあ、そんなヒマでもない。いや、ヒマなんだが、ヒマな時間を「ボケー」っとしている最中に、そんな実験で気力を使いたくない。
 「貴様!それでも蒼井優ちゃんのファンなのか!ファンだったら『気力を使う』等と言わずに『楽しみ』として実験しろ!」なんぞと言われるかも知らんが、疲れるもんは疲れる。好きなネエちゃんと遊びに行っても疲れるもんは疲れる。楽しく気分的にリフレッシュしようがなんだろうが、疲れるもんは疲れる。
 
 ああ、無精や。。。

 明日はバレンタインデーらしい。まあ、昨今は事情が違ってたりするのだろうが、昔は男子がときめく日だった。悲しみの、いや、不安と哀しみと絶望の日でもあったのだが。。。

 え~。。。商売でもなんでもそうなんだろうが、マメって大事でんな。

 という事で、私が生涯に貰ったチョコレートの数が少ないのは、全て「私が無精だった」という事で。「無精だったからモテなかった」という事で気持ちを慰めて寝よ。

沈まぬ太陽

2011年02月13日 | 坊主の家計簿
 今日の仕事は早朝に一件。後は午後から。なので、早朝の仕事が終わって再び布団に潜り込む。寒い、っちゅうねん。
 布団に潜り込んでiPhoneで遊ぶ。娘はまだ寝てる。
 ママは咳コンコン。風邪みたい。
 10時ぐらいに娘、ようやく眼が覚める。
 娘、寝る時はママと一緒なんだが、起きる時は一人。ママは家事があるのでとっとと起きているし、私も仕事でだいたいの場合は起きている(除く休日)。
 今日は、目が覚めたら「パパ発見!」。娘、なんか楽しそうにケタケタ笑い。起きた瞬間は少し愚図ったのだが、私が「もう少し寝るか?」なんぞとトントンしたりしてらた、起きたのだが、なんか布団を被ったり。私が布団をめくるとケタケタ笑う。朝から御機嫌な娘。私もムチャ嬉しく、楽しい朝。

 昨日は大阪も、『大阪にしたら』という限定付きなんだが、大雪。寺での仕事以外に依頼された遠方の仕事があったので少し焦る。場所は大阪郊外の住宅地。地図でしか見た事がないので、どんな所か解らない。
 寺での仕事が終わって、ツイッターで情報集め。何やら住宅地では雪に慣れていない大阪らしく、立ち往生した車なんぞの情報も。「ヤバイかも知れん。。。」と、2時間30分前に出る。まあ、放っといても2時間前には出る予定だったのだが、念のために出来るだけ早く移動し始める。依頼された仕事なので遅刻したらシャレにならん。自分の所ならばそれまでのつき合いや、これからのつき合いもあるけど、依頼されて初めて行って、多分今後行く事がない所だろうし。
 2時間30分前に出て、結局30分ちょいで到着(笑)
 いや~、昨日、祝日だったのね。事故もなかったので渋滞もなく30分ちょいで到着。「いや~、良かった良かった」なんだが、ヒマ。まあ、いつもの事なんだが。
 食事して、近所にあったブックオフへ。そのブックオフから何も無ければ10分以内で到着出来る距離だったのだが、完全に住宅街の道の入るし、少し山手なので用心して1時間の予定を組んでブックオフで時間を潰す。
 
 ブックオフも久しぶりの気がする。久しぶり、っちゅうても数ヶ月振りなんだろうが。そんなに経ってないかな?まあ、でも、久しぶり。まずは宗教100円コーナーに行って、次は宗教のコーナーに行って面白そうな本を探すがイマイチ。タマに奇跡的な本が100円コーナーで売られてたりするし。『米沢英雄著作集』なんぞも全巻揃いではなかったが、ブックオフで100円で売られてたぞ。
 今回は特に収穫なし。NHKのシルクロードの本が多分全巻揃いで一冊100円で売られていたのが気になったのだが、まあ、読まんやろうし。NHKのオンデマンドで配信してたかどうか憶えてないが、まあ、図書館に行けば映像であるし。なので、辞め。
 トイレも借りたいし、何か買おうと探してたら、『利権』の本があったので、なんとなく買う。もう一冊、読んだかどうか忘れたが、「忘れたし、なんとなくしか憶えてない。っちゅう事は買っとけ」っちゅう事で井沢氏の『穢れと茶碗』を買う。あ、そうか『逆説の日本史』の方で読んだのか。まあ、ええわ。さっさと読めそうな本やし。

 帰宅して利権の本を少し読む。大阪モロですし。なんかで諸々読んだりしたので別に目新しい事もなく読んでて、少しiPhone検索。面白そうなルポの本があったので、夜遅くまで開いている本屋に買いに行く。

 森功『と銀行』。解放同盟飛鳥支部長だった小西氏のルポ。三和銀行の淡路支店の担当だった人、小西氏と関係が深かった人の取材を通じて『小西邦彦』という人間に迫った素晴らしいルポ。22時ぐらいから読み始めて、途中シャワー浴びる時間を除いて一気に読む。ムチャ、面白い。
 「面白い」と言っては失礼か。でも、一気に読めた。
 
 著者の『森功』という方の本を読んだのは初めてだったのだが、素晴らしい。なんせ、今日、許永中氏について書かれた本も買いに行って読んでたし。

 今日は、ママが咳コンコン。以前に救急車で運ばれた事もあるので、今日はなんとなく飲みに行きたい気分だったのだが、辞め。辞めて読書。
 眼が疲れる。。。昨晩300ページオーバーの本を一気に読んだし、今日も結構読んだので眼が。。。眼もだが、脳味噌もお疲れ気味だったので、昨日録画しておいた『沈まぬ太陽』を見る。

 『沈まぬ太陽』。頑固もんの渡辺謙演じる主人公と、弱さ故に魂を売ってしまった三浦友和演じる主人公の友人を中心にした、日本航空をモデルにした映画。
 なんか、悪意に満ちとるのぉ。。。三浦友和演じる人物が少し可哀想になる。まあ、主人公との対比で安っぽい映画や小説にありがちな作りなんだろう。なんじゃかんじゃいいつつ、全部見てしまったのだが。。。
 
 けど、ラストシーンの渡辺謙演じる主人公がアフリカの大地で夕日を見ながらの独白は結構気に入った。夕日の『沈まぬ太陽』が全ての生活にいそしむ人たちを優しく包み込んでいる、みたいな独白が。なんか、原作が少しだけ読みたくなった。けど、まあ、読まんやろうけど。
 「夕日が全ての人を優しく包み込む」みたいなセリフだったのかどうかは確かではないのだが、個人的心象として。非常に共感出来る。

 森功『と銀行』で読む小西邦彦氏。当然、ひとつのルポである。しかも取材範囲も限られているのだが、でも、報道等で伝え聞く小西邦彦氏のイメージとは違う。
 利権の中で被害者としての三和銀行、というイメージと全然違って来る。それを三和銀行の支店長まで勤めた社員が語っている。

 今日は、森功『許永中 日本の闇を背負い続けた男』を120ページちょい読む。

 
 全く話が変わるのだが、最近にしては珍しく2日続けての本屋通い。いや~、世の中には色んな意見があるのぉ。。。
 本に関して『電子書籍』なんぞがある。当然、便利なんだが、全てが電子書籍になるわけもない。まあ、なるには100年以上かかるだろう。ラジオが出来ても新聞は無くならない。テレビが出来てもラジオは無くならない。ネットが出来てもテレビは無くならない。なくなるわけもない。
 ただ、え~。。。ネットで『違法』なんだが、諸々のダウンロードのサイトもあるし、ユーチューブで曲も聴けたりする時代。CDよりもレコードを売り出した方がエエと思ったりもするのだが。「レコードの音がホンマもんで、音楽はデーターやない」なんぞと。データーやったらコピーし放題やし。

 あ、電子書籍賛成派もいれば、電子書籍反対派もいるだろう。まあ、それぞれの思い入れの違いだったりするのだろう。便利なのは電子書籍なんだろうが、『本』という今までのデーターだけではない『本』というイメージを大事にしはる人にとっては電子書籍よりも『本』が大事なんだろうし。まあ、私だって、金が無くて『本』で買えなくてコピーした本を、金が出来たら『本』で買いたいと思ってしまうのであって。。。まあ、それぞれの思い入れの違いでんな。

 私の意見だけが決して『正しい』わけでもなく、それはそれぞれの立場からの見方によってかわって来る。まあ、議論が浅いか深いか、の問題もあるが、それだって、その人なり。
 小西氏に対して「こんな悪いヤツ!」っちゅう意見もあれば、『ルポを読んで』という情報を得て「そうか。。。こういう見方やこういう事があってんや」なんぞという私の意見もあれば、「何を言うてるねん、俺は小西から。。。」っちゅう意見もあるのだろう。
 
 『沈まぬ太陽』は、そんな私たちを包み込んでくれる世界なんだろう。


 ちょっと、『真宗宗歌』についての歴史が知りたくなった。
 いや、単純に、

 ♪世の生業に いそしまん

 っちゅう歌詞が。
 大正12年に出来たらしい。どんな時代背景だったんだろう。

 まあ、イイや、今晩は。



【最後にA君へ

 今、あなたに会いたいような、絶対に顔も見たくないような複雑な思いでいます。私たちの宝物だった、たった一人の愛娘を、あんなかたちで奪い取ったあなたの行為を、決して許すことはできません。
 母であるがゆえに、娘がされたことと同じことをしてやりたいという、どうしようもない怒りと悔しさと憎しみがあります。
 その一方で、これもまた母であるがゆえに、どんなに時間がかかってもあなたを更生させてやりたいと願う気持ちがあることも嘘ではありません。
 一見、相反する感情が、私の心の中に同居していて、その割合の比率は日々同じではないまま、不思議なバランスを保っています。
 もし、私があなたの母であるなら……、
 真っ先に、思い切り抱きしめて、共に泣きたい。言葉はなくとも、一緒に苦しみたい。今まで、あなたの眼は母である私を超えて、いったいどこを見ていたのでしょう。私の声があなたの乾いた心に届き、揺さぶることはなかったのでしょうか。思い切り抱きしめて、温かい血の流れを伝えてきたでしょうか。
 そして、あんな恐ろしいことをしてしまうまで自分を追いつめていくことに、どうしてもっと早く気づいてやれなかったのでしょうか。たった一人の母なのに、どうしてわかってやれなかったのか。
 氷のように冷たく固まってしまったあなたの心。そのうえ、それを深い海の底に沈めてしまった。
 でも、深く暗い海底からそれを捜し出し、ていねいにゆっくりと氷を溶かし、ゆったりとほぐすことができるのは親の愛しかない。とりわけ、母の愛が太陽の温かさで包み込む以外に、道はないと思うのです。
 罪を罪と自覚し、心の底からわき出る悔恨と謝罪の思いがいっぱいにつまった、微塵のよどみもない澄みきった涙を、亡くなった二人の霊前で、苦しんだ被害者の方々の前で流すことこそ、本当の更生と信じます。
 それまで、共に苦しみ、共に闘おう。あなたは私の大切な息子なのだから。 】(山下京子『彩花へ -「生きる力」をありがとう』より)

大道

2011年02月11日 | 坊主の家計簿
 木曜日は『告発~国選弁護人』の日。いや~、やっぱし、若村麻由美スンゲーわ。

 んが、昼間に録画してた『ドラゴン桜』の、え~。。。今日は第何話や。第何話か知らんけど『 泣くな!お前の人生だ!』っちゅうヤツも良かった。

 亀。のろまな亀。道場時代の先生に『のろまな亀』が居てた。当然、私からすりゃ「どこがのろまな亀やねん」なんだが、まあ、確かに冴えないオヤジだった。他の「優秀っぽい先生」が居てる中だったので。でも、その先生は朝勤行の後の感話で「私はのろまな亀ですが、私なりに歩んで行きたいと思います」やったかな?そんな事を仰って居られた。

 今日再放送だったドラゴン桜の『 泣くな!お前の人生だ!』っちゅう回。二卵性双生児の兄弟の話。
 弟は地域で有名な進学校へ通っている。兄は地域で有名な偏差値36のバカ学校へ通っている。親も弟にだけ期待している。弟が東大に入る事を期待して、兄は弟が勉強している間は家に帰れない。弟の勉強の邪魔をしない為に。兄は、弟の為に犠牲になろうとしている。それが「兄としての役目」だと。
 決して勉強がキライなわけではない。偏差値36の学校でも欠席せずに宿題も珍しくきちんと出す生徒。その学校では非常に珍しい努力する生徒。

 ある日、弟が兄を殴る。弟にとって兄が偏差値36の地域で有名なバカ学校に通っているという事が彼女にバレたからだ。そして弟は彼女に軽蔑され、バラした兄を殴る。
 殴られた場所は喫茶店。騒動で喫茶店の人が110番通報してしまう。
 弟は兄を殴ったのは兄と同じ高校のチャラついた学生だと言い張り、兄は弟を庇う為に「この傷は転んで出来た」と言い張る。

 そしてなんじゃかんじゃで兄は自分の人生を歩み出す。なんじゃかんじゃのなんじゃかんじゃで、まあ、弟が兄の事を「テメーなんか大キライなんだよ。両親もお前なんか要らないと言っているんだよ」と言う。徹底的にバカにされる。弟にとって兄、何かと自分を庇ってくれる兄に対する心苦しさが「ありがとう」という言葉ではなく、罵倒する形で爆発して出てしまった。
 で、なんじゃかんじゃのかんじゃかんじゃでもって、兄も自分の道を歩み始める。

 出来る弟と比べて、出来ない自分。親も出来ない兄に期待していない。いつの間にかその弟と比べての『出来ない自分』という幻想に負けてしまった。
 阿部演じる弁護士教師は言う。「お前にだって出来るさ。」と。「元暴走族でクズみたいな俺が弁護士になれたように」と。

 ちなみに別に私は暴走族を「クズ」なんぞと思っていない。もし娘が暴走族に入ったなら「腐ってやるのなら辞めとけ」としか言わんやろ。っちゅうか、まあ、「ケ!世の中なんて」なんぞと思う時期は非常に大事な時期だと思ったりするのだが、まあ、親としてでんな。親としては娘に自分の人生に対して腐って貰いたくないわけなんだし。暴走族に入るにしても「パパ!今日はどこそこ走って来たよ!」と、深夜までパソコンで遊んでいる私に報告して貰いたいもんだ。そしたらパパは「そうか、寒かったやろ。一緒にラーメンでも食べるか?」なんぞと言うかも知れん。「爆音を鳴らすのは信号無視する時だけにしとけよ。迷惑やから。あと、迷惑やから住宅街は静かに走れよ」なんぞと言うかも知れん。まあ、あくまでも『知れん』という仮定の話なんだが。。。
 そういえば、先日、平日の昼間に走っている暴走族グループが居った。っちゅうか、信号を守る暴走族グループも居った。あれはエエこっちゃ。学校をサボってるのか、単に仕事が休みなのか、夜勤だったのか知らんが、住宅街の爆音は迷惑や。迷惑っちゅう事は危険を伴う。世の中には暴走族よりもヤクザよりも怖い素人なんぞ沢山居てるし。あまり迷惑をかけると警察よりもその人達が怖い。危険である。ストレス溜って、暴走族がうっとうしかったら「なんじゃ、このガキが!」と、車で突っ込まれたりしたら危ない。

 あ、話が。。。

 で、阿部演じる弁護士教師の言葉でもって兄は幻想に打ち勝ち、自分の道を歩み出す。。。

 っちゅうか、これもまた番組に対するツッコミなんだが、別に「弟の犠牲になっていた自分」「幻想に負けていた自分」っちゅうのを否定してもシャーナイ。それだって自分だった事には間違いないのだし。
 よくある宗教話なんだろうが、「あの頃の私は」なんなんだろう。確かに「あの頃の私は」というのも大事なんだろうが、「『あの頃の私』という時期がなければ今の私はなかった」っちゅう方が好きやな。
 過去の自分や、自分が属していたグループを否定する事によって、え~。。。キツい言い方、っちゅうか、まあ、そのまんまなんだが、過去の自分や自分の属していたグループを差別する事によって今の自分の優越感を味わう、っちゅうのは『腐っている』のと何ら変わらん。もっとも臭い腐り方だと思うのだが。
 ようありまんがな、例えば『元ヤンキー○○』とか(笑)「私も昔はそうだった」って、テメー、今の方が臭いぞ(笑)腐臭がプンプンしてくりゃ。

 『のろまな亀』の先生。結構好きだった先生。
 私は道場時代、どちらかというと成績は優秀だった。まあ、当り前、っちゅうたら当り前であって、結構多くの坊さん先輩達から話を聞いて居たし、自分で「入ろう」と選んで入学したわけなんだから。でも、なんか惹かれた。まあ、高校中退だし、エリートでは無かっただからなんだろう。
 エリートでは無かったが故にエリートの人達を差別してしまう。「あいつに真宗が解るのか?」なんぞと。まあ、勝手に決めつけてしまっているわけでんな、『個人』を無視して。それぞれが抱える苦悩を無視して。自分の『出来ない』事を売り物にして、誇りにして、そこから真宗仏教を利用して、道具にして、差別する。
 「へっへ、今は俺の方が先に進んでいるんだぜ」なんぞと、退転する。転がり落ちて退く。
 でも、道はある。
 道があった。

 あ、寝な。

弔電

2011年02月10日 | 坊主の家計簿
 京都に行く予定だったんだが、中止。久々の雨。雨の京都も好きだけど、ロウソクや法衣なんぞの買い出しを兼ねての京都行きだったので、「雨の中はいや」っちゅう事で、親子京都買い出しツアーに日を改めて行く事にする。途中の八幡市にエエ感じの野菜直売所もあるし。
 とりあえず散髪に行く。散髪して貰ってたら銭湯に行きたくなる。いつもは御近所銭湯なんだが、今日は御近所、っちゅうか、車で10分、自転車で15~20分ぐらいの所にあるスーパー銭湯へ。
 御近所銭湯の最安値は300円。スーパー銭湯が600円。倍の値段なんだが、なんとなく銭湯でひたすらゆっくりしたかったので「まあ、エエか」と。ついでの買い物もあったので車で出かける。
 え~。。。むっちゃ、ゆっくりした。2時間少しかな?途中『寝風呂』で、ホンマに寝てもうたし。『炭酸泉』なんぞという初めての風呂もあって、これがシャワシャワしてて気持ちよかった。2月末までは午前中は450円なので、結構、エエかも知れん。

 買い物終わって帰宅したのが夜。オカンから電話。何やらオカンの兄妹のヨメはん、私にとってはオバさんにあたる人が亡くなったらしい。名前を聞いても全く思い出せない。オカン、10人兄妹やし。おっちゃんも、おばちゃんも、いとこも多すぎて、殆ど憶えていない。
 用件は、「弔電を送れ」だった。瞬間、「アホか?テメーに命令される筋合いはない」なんぞと思ったんだが、よう考えてみると、結婚式の時に香典、違うわ、え~。。。お祝い貰ってるし、弔電ぐらいは送っておこうと。
 
 弔電。いつもは『聞く側』。葬儀の時に弔電披露の時間があって、その後に「それでは御導師様御読経をヨロピク♪」なんぞと返されて、軽く頭を下げて読経再開。弔電披露中は特にやる事もないので聞いた数だけは結構多い。んが、まあ、憶えていないのだが。
 少し調べてみると、まあ、『文例』なんぞもあって、名前を放り込むだけでも出来るらしいのだが、ちょっとなぁ~。。。まあ、何か考えよ。っちゅうか、明日には送らんとアカンから、適当になんか書こ。メールでの申し込みもアリみたいやし。短い法話にしよ。

 電報を申し込む自体がむっちゃ久々である。確か、18ぐらいの時にバイト関連で「電報だけ」っちゅうのがあって、申し込んだ事がある。え~。。。変わらず文字数で値段が違うのね。メールで文字なんぞ瞬間的に送れる時代に。
 んなもん、葬儀社(もしくは寺)が指定のメールアドレスを連絡して、当日の会場でディスプレーに表示して行けばエエと思ったりするのだが。消えたり、動いたりする文字も出来まんがな。怪しいのは紹介しなければエエのだろうし。メールアドレスを伝えるのが困難だったら、「○○市○○町の○○葬儀社で検索して、故人の名前の所をクイックしたらメッセージが書き込めるようになるから」なんぞと。悪戯は削除したらエエねんし。香典をクレジット決済にして、クレジット決済の香典を振り込んだ方のみ書き込める、っちゅう形にしてもエエねんやろうし。んなら、香典袋代、弔電の台紙や電報代も不要になりまっせ。長い文章も書けるし。65文字までで1380円。「はあ?」やな。以後5文字毎mに90円やし。ツイッターの140文字でナンボかかるねん。短い文章を書く方が難しいから、まあ、文例を使ったりする方も多いだろうし。
 まあ、台紙はタダのにして、その分、少しだけ長めの文章にしよ。

 亡くなったおばちゃんの事は、全く憶えていない。でも、喪主のおっちゃんの事はなんとなく憶えている。っちゅうか、名前だけなんだが。
 住所をネット検索したら内灘の近くだったのね。最寄りの駅が内灘だし。
 なら斎場は米軍試射場の着弾地観測場があった内灘の斎場になるのかな?住所が金沢市なので金沢市の斎場になるのかな?仕事がなければ行ってみたい気もするのだが、依頼された仕事もあって絶対に行けないわな。
 葬儀は多分、っちゅうか、大谷派。誰がやって、どんな法話をしはるねんやろ。

 明日(10日)の通夜、明後日(11日)の葬儀で、金沢市粟崎町の左官屋の葬儀をやるお寺さん、宜しく御願致します。

凡夫が凡夫に流す情報

2011年02月09日 | 坊主の家計簿
 ドラマ三昧。
 昼間に再放送している『ドラゴン桜』を録画で2話分見て、本日深夜に放送してた『ギラギラ』を見る。ギラギラの続きを見たくなったので、ネット上に落ちている動画で1話分だけ見る。

 もうすぐ5時。明日は休み♪
 なんだが、まあ、坊さんの休みなんぞあって無いようなものなんだが、一応、休み。

 明日は京都に行く予定。森達也。

 http://www.kyoto-minpo.net/event/archives/2011/02/09/post_3183.php

 昨日は買い出し。御参りが一件だけので。でも、ゆっくり出来る御参り先なので、ゆっくりと御参りしてから親子3人で和歌山買い出しツアーへ。
 なにやら売り上げ日本一のJAの直売所。『打出』やったかな?泉南から峠を越えてちょろっと行った所にある。それ程の衝撃はなかった、っちゅうか、梅干しとか高かったけど、まあ、八朔が安かったし、満足。多分、二度と行かんと思うが。もっとええ所もあるし。
 帰りに泉南の海岸沿いにある直売所によって、ふきのとうなんぞも買って、海岸をぶらぶらと。娘との海は何回目かなのだが、それでも打ち寄せる波を見ながら「あ!」っと。やっぱりまだ珍しいのだろうし、新たな発見があったのだろう。
 ついでに泉佐野の漁協に寄って生きたマンマの舌平目を買って、これまたついでに泉大津のブックオフのベビー用品版の店に寄る。積み木が欲しかったのだ。なんか、ドイツのブランドもんの積み木が売ってたので、それをゲット。きっと噛んだりもするかも知れへんし、まあ、無難に。色もついてないし、パパ理想の積み木。

 昨日、帰宅してから少しだけ娘と遊ぶ。娘は積み木を積んだりしてたのだが、パパが昔を思い出して積み木で遊んだりしていると、わしゃわしゃわしゃ、っと潰す(笑)気に入らないのだろうし。っちゅうか、まあ、積み木を積んだ後のガキの行動パターンやな。っちゅうか、別にガキだけの話でなく、エロティシズム、っちゅうやつやね。過剰と蕩尽、っちゅうやつやね。

 明日は何やらメディア論らしい。
 『メディア論』自体が、メディアに染まっている証明だと思ってしまったりするのだが、

 「喧嘩に強くなるコツは、自分の弱さを知ることだ」(byテレビドラマ『ドラゴン桜』より)

 なんだし、まあ、メディアに染まっている、っちゅう事を知らんと始まらんわな。

 これを『メディア』なんぞと定義してしまうから矮小化なんだろうが、まあ、誰かの、何かの影響を受けて生きているわけである。そこから逃げれるわけもない。

 上記リンクで誰が書いたのか知らないが、

【自分で考えることと、自分で考えているつもりとは違う。】

 っちゅう言葉があった。
 んな事を言うのならば、誰だって『自分で考えているつもり』だろう。
 様々な情報を集めて「自分で考えている」なんぞと言っても、何かの影響から逃れられるわけもない。一番危ないのは、まあ、「テレビでやってた」「新聞で読んだ」の代わりに、自分が発見したテレビや新聞に出ない情報を鵜呑みにしてしまう事なんだろう。カルト的宗教教団に多いパターンなんだろうし、まあ、選民思想でんな。

 森達也氏は『A』シリーズや、放送禁止の歌が実は『放送禁止』というタブーが幻想でしかなかった、っちゅう本なんぞで有名であったり、あるいは死刑囚のルポなんぞで有名だったしするのだろう。そういう森達也氏の思索の方法は好きであるが、だからといって「森達也氏が言う事だから正しい」なんぞではあり得ない。森達也氏が得た情報や思索は彼のものである。
 で、彼から得た情報や思索を通じて、私がしてきた様々な思索や得た情報なんぞでもって、私が『自分で考えているつもり』になっている事と、明日は合わせて、また、『自分が考えているつもり』なんだろう。

 っちゅうか、『自分が考えている』事と、『自分が考えているつもり』との違いは、自己責任でしかないのだが。。。

 今日見てた、っちゅうか、この「今日見てた」という段階で私がどれだけ周囲に影響されているのかが解るのだが、今日見てたドラゴン桜の中で、長澤まさみ演じる女子高生が親離れをするシーンがあった。長澤まさみはそれ程好きな女優さんではないが、っちゅうか、ちなみにこれだって私の過去の様々な影響でもって作られた私の価値観でしかないのだが、まあ、でも、そういう価値観をもっているのが紛れも無く今の私なので、話はそのまま続けるが、それ程好きでない長澤まさみ演じる女子高生が親離れをするシーンがあった。美しかったぞ、芝居は下手やったけど。芝居は下手やったけど、思わず泣いてもうたぞ。
 でも、まあ、『ドラゴン桜』の中での長澤まさみは、親や、その他の学校の先生の言う事よりも、阿部演じる弁護士教師の言う事を信じただけなんだが、そこに自己決定があった。

【たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。】(宗祖親鸞聖人)

 である。

 テレビドラマ『ギラギラ』には、コーヘイっちゅう元ナンバーワンホストの事を友人がとことん信じきっている事に対して、『ホスト』という仕事を『女を騙す仕事』としか思っていない兄ちゃんが、「俺はホストを信じない。でも、こいつが信じるあんたは信じる」なんぞと言ってた。

 記者クラブが流す情報が怪しければ、その他の情報だって怪しい。官房機密費&記者クラブの問題が示しているのは『情報を流すのは機械でなく生身の人間である』という事だ。

仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ

2011年02月07日 | 坊主の家計簿
 御仕事バタバタと。

 昼間に録画してたバラエティー番組をさっきまで見てた。ボケ~、と見てたら『かりゆし58』っちゅうバンドの兄ちゃんが出てた。「どっかで聞いた名前やな~」って思ってたら、本山の法要(っちゅうか、イベント)に出る人うやった。

 http://higashihonganji.or.jp/goenki/gyoji/kyobutai/

 ライヴよりもシンポジウムと郷土料理の振舞いに関心があって、「絶対に行きたい!」なんだが、御仕事入ったのでとっとと諦める。御仕事、御仕事、でっせ。

 非常な贅沢発言。録画出来るブルーレイが欲しい。
 え~。。。ヤマダ電機で東芝レグザ(うちのテレビと同じ)の1テラのハードディスクが付いて、ブルーレイが焼けて、で、ポイントを引いたら5万円台。他のメーカーに比べて圧倒的に安い。

 娘が最近、ぬいぐるみを持つようになった。厳密には『ぬいぐるみ』というよりも、ほれ、え~。。。名前が出てこん。指人形でなく、手袋みたいに手を突っ込む人形。あれの、トラッキーのパッチモン、ママ曰くなにやら『しまじろう君』というらしいが、私的にはトラッキーのパッチモンがお気に入りらしく、よく抱っこしたり、叩き付けたりして遊んでいる。
 で、その『しまじろう』とかいうトラッキーのパッチモンのDVDもあるらしい。で、うちにはDVDが見れるパソコンが3台もあるのだが、リビングに置いてあるテレビでは見れない。パソコンから繋いで見れん事もないらしいのだが、やはり画面が。眼、悪なったらいややし。なので、「働け、パパ!」という事で。
 っちゅうか、まあ、資料的な番組をブルーレイに焼いて保存しておきたいし。ハードディスクが壊れたら泣かんとアカンし。

 あ、話が。。。

 で、その『かりゆし58』っちゅうバンドの歌が少し流れてた。


 ♪アンマーよ 
  アナタは私のすべてを許し すべてを信じ すべてを包み込んで
  惜しみもせずに何もかも 私の上に注ぎ続けてきたのに
  アンマーよ 
  私はそれでも気付かずに思いのままに過ごしてきたのでした
  (中略)
  アンマーよ 
  私はアナタに言ってはいけない 決して口にしてはいけない言葉を
  加減もせずに投げつけては アナタの心を踏みにじったのに
  アンマーよ 
  アナタはそれでも変わることなく 私を愛してくれました
  (かりゆり58『アンマー』より)

 
 「法事で使えるかも知れん。。。と、商売っけ丸出し意識なんだが、こういう私を包み込んで下さる阿弥陀さま。」なんぞと思ってしまうくらいであったりする。


 先日、法友のブログを読んでいると、中嶋ユキノという方の『アイシテルの言葉』

 http://blog.nakajima-yukino.com/article/41099041.html

 という曲を紹介してはった。スンバらしい!あ、素晴らしい!

 で、愛である。え~。。。仏教用語としての『愛』でなく、慈悲、って言った方がエエのかな?

 ちなみに私の法話は、ほぼ、この路線である。なんせ、今日も曽我先生の

【仏から信ぜられている『絶対に』何もかも承知の上で信ぜられている。】(曽我量深)

 という言葉を紹介して来たぐらいである。

 で、今日、『かりゆし58』の『アンマー』っていう曲を少しだけなんだが、聞いて思ったんだが、「疲れとるのぉ~」と。

 ラブソングは大昔からあるんだろう。また、私がそういう歌に興味がなかっただけなのかも知らないが、いわゆる『癒し』の曲って多くない?

 母親に対する曲も以前だったら


 ♪おかあさん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました
  膀胱炎にかかった時から あそこを氷で冷やす快感を覚えてしまった
  ぼくはお風呂が大嫌いになり 何枚も何枚もボロボロに皮がはげ落ちて
  むき出しになった皮下脂肪のしつこさが耐え切れず
  赤紫の玄関口で一人で泣いていたんです
  おかあさん、もう一度アンパンが食いたい
  正月に作ってくれた栗キントンが食いたい
  ブタ肉だらけの砂糖のたっぷり入ったスキヤキが食いたい
  好き嫌いは庶民の恥です
  おかあさん、今朝から下痢が止まらないのです
  おかあさん、血管もちぎれてしまったみたいです
  おかあさん、血が止まらないのです 血が止まらないのです
  おかあさん、おかあさん 赤い色は大嫌いです!
 (遠藤ミチロウ『お母さん、いい加減あなたの顔は 忘れてしまいました』より)

 
 みたいな感じやったやん。
 って、引用してみたら、これも強烈な救いを求める歌詞やってんな。
 そういえば、シドのマイウェイも強烈な救いを求める歌やったもんや。
 変わったのは、言葉がより直接かどうかなんだろう。

 っちゅうか、パンクと他のジャンルとの違いだけの気もするのだが。。。


 ツイッター。え~。。。実は、あまり見てなかったりもするのだが、ツイッターを始めて一番良かった事は、『衲僧』というハンドルネームの人のつぶやき&ブログを見る事が出来た事。え~。。。無茶苦茶面白い。文才があるとはこういう人の事を言ったりするのではないか?と思ったりする。
 あ、ブログのアドレス。

 http://blog.livedoor.jp/busterbonze/

 その衲僧さんのブログで面白可笑しく釈尊の伝記を書いてある。その中で釈尊がお父さんに対して

【『阿弥陀』の三文字は私の教えの中でも第一の要諦なのです。だから、この『阿弥陀』を唱えさえすれば、必ず天国に行けるのですよ!」】(http://blog.livedoor.jp/busterbonze/archives/1261446.htmlより)

 と、とある伝記の意訳で書いてある部分がある。

 念仏者も当然、仏教の歴史に生きている空の行者である。

【阿頼耶識が無記だということは、悪業を積み重ねてきた人間も、現在は悪ではないといわれていることである。言葉を換えれば今日までの悪が許されているということであろう。(酔っぱらっているので中略)
 ある所でその話をした時、長く仏教の勉強をしてこられた一人の男性が「私も無記ですか!」と急に声をあげて嗚咽されたことがあった。許されていることへの感動がこみあげてきたのであろう。凡夫が凡夫のままで、そのまま許されている───阿頼耶識が無覆無記だというのは、それを私たちに語りかけているのである。】(太田久紀『『唯識の読み方』86~87頁より)


 ♪「アイシテル」
  その言葉を 君に言える ただそれだけで
  この不確かな 街の真ん中に 帰る場所ができたよ
  (中嶋ユキノ『アイシテルの言葉』より)


【日本の語で云ふて見るなら阿弥陀仏と云ふ過境の普善者が救ふから安心せよ護るから心配するなと呼んで呉れたる呼び聲である。鳴呼我等にカと命とを与へたるは南無阿弥陀仏である。
 実に絶対過境の慈悲である。御彿の博愛である。此を人殺のかけ聲にしたと聞て喜んで居る人々は碓だあきれるより外ハない。】(高木顕明『余が社会主義』より)

鬼のパンツ

2011年02月04日 | 坊主の家計簿
 近所で厄除けの大法会があり縁日が立つので親子で出かける。お昼御飯兼用。
 なんか、久々の縁日だったのだが、『厚木しろころホルモン』とか『蒜山焼きそば』とか、B-1グランプリに出るようなB級グルメも出てるのね。食べなかったけど。私は「100円以上は払わん」と縁日でもケチ(笑)なので、私が食べたものは『キャベツ焼き』『完熟トマトの大阪焼き』『近所の肉屋のコロッケ(50円)』『焼きそば』『油かす玉こんにゃく』『豚汁』。ママは、ゴージャスに『蒜山焼きそば』とか『ケバブサンド』なんぞを食べてた。娘はベビーカステラを握りしめ、後、コロッケを握りしめ、パパ&ママから諸々。
 娘も結構な距離を歩いたし、人ごみで疲れたのか、帰って来て速攻3時間も寝てた。パパは娘の横でゲーム。いや、一緒に寝ようと思ったんだが、なんか、寝付けなくってでんな。娘が起きたら寝ようと思ったんだが、娘が起きたのは晩御飯タイムやったし。
 なので、21時前から倒れる様にコタツで少しだけ寝てもうた。なので、今日も深夜に元気。ああ、こんな事やってるから体に悪いねんやろうなぁ。。。

 30分程度の仮眠の後、娘と遊んで、っちゅうか、まあ、抱っこしてテレビを見るだけなんだが、娘の睡魔待ち。そろそろ眠そうになった娘を連れて、ママと娘は寝室へ。私のフリータイム。

 『告発~国選弁護人』(http://www.tv-asahi.co.jp/kokuhatsu/)というドラマにハマってて、初回から録画して毎回観ている。他のドラマは知らんが、今やってるドラマの個人的ヒット。
 毎回凄いのだが、今回はスンゲかった。え~。。。若村麻由美っていう女優さん、スンゲーな。スンゲー迫力の芝居してはった。以前にワイドショーで話題になった時は「誰やこいつ?」という感じだったのだが、いや、スンゲーわ。
 
 今回の『告発~国選弁護人』のモチーフは、多分、畠山鈴香氏。まあ、当然、ドラマなので別の物語なんだが、ふと畠山鈴香氏を思い出した。

 関連して、林眞須美氏の事を思い出した。
 両者とも、逮捕前から「こいつが怪しい!」とマスコミに騒がれた人。

 林眞須美氏に関しては、尊敬する念仏者の先輩が支援をしているので、その先輩から冤罪についての話を伺った事がある。その時に感じたのだが、まあ、近所で嫌われていたらしい。林眞須美氏が犯人である事が、まあ、多分、その地域にとって一番安心出来る事だったのかも知れない。「あ、やっぱり、あの人が」みたいな感じなんだろう。でも、林眞須美氏の夫、林健治氏が、林眞須美氏からヒ素を飲まされた林健治氏が「眞須美は金にならん事はしない」みたいな発言をした事を聞いて、妙に説得力を感じた。

 
 何やら、大相撲での八百長で騒がれている。ふと、疑問に思ったのだが、「八百長って何の罪になるねん」と。利害関係者、まあ、大相撲で博打をしている人にとっては犯罪なんだろうが、別に大相撲で八百長をしようがなんだろうが、大相撲ファンも楽しく見ていたのではないのか?
 昼間の『ちちんぷいぷい』というバラエティー系ワイドショー(?)で解説してくれていたのだが、ギャンブル(競艇とか競輪、競馬)なんぞでの八百長は犯罪になるらしい。まあ、『ちちんぷいぷい』ではその事にもふれながら、「警察が別件で捜査した結果出て来た情報をマスコミに流してエエのか?」という事を問題にしてはった。さすがは『ちちんぷいぷい』である。何かで逮捕された芸能人の携帯を警察が調べた結果、その芸能人が不倫している事が解って、その情報をマスコミに流す。「それって、アリなの?」と。さすがである。
 なんだが、私の関心は、「大相撲の八百長が犯罪になれへんのやったらワイドショーネタやろ」と。けど、トップニュース扱いやの。なにやら、その事で公益法人を取り下げになるとかならないとか。まあ、取り下げになっても大丈夫なぐらいにはしっかりした組織だと思ったりするのだが。っちゅうか、別に八百長をやっていようが『大相撲』は『大相撲』なんだから、別にエエやんけ。ある意味、八百長も大相撲の中のひとつやろ。それも含めた伝統としての大相撲やろ。
 なんだが、まあ、「こいつら、悪いやつでっせ!」なんだろう。

 【相手を鬼と見る人は 自分もまた鬼である】(曽我量深先生)

 私は『相手』を『鬼』と見る『鬼』である。

 『八百長』。別にまあ、勝負事はしないが、でも会話の流れや様子で「知っていても知らない振りをする」事は多々ある。「え~、そうなんですか!」なんぞと。まあ、水商売の時のクセである。知っている事でも「知らない振り」をした方が私が判断する全体の流れや、相手との関係で都合のエエ場合が多々ある。後で、「なんや、知ってたんかい」と言われても「いやいや、ごにょごにょ」である。これも『嘘』には違いない。私なりの八百長である。

 当然、その他の嘘も沢山する。
 にも関わらず、他人の嘘を許せなかったりする。
 自分の生活を顧みる事なく、「あいつは悪いヤツや」なんぞと平気で思い、発言したりしてしまう。だから、鬼に違いはない。

 今日は仕事の合間に少し時間が空いた。「次の御参り先まで話しとこ」と思ったのだが、失敗。なので、少しだけ時間があく。
 娘がいつもの『いないいないばぁ』の録画を見てた。昨日のにはなかったので今日放送分だと思うのだが、『鬼のパンツ』が流れてた。ママが好きなのか何なのか知らんが、娘のオムツを替える時によく歌っているのですっかり憶えてしまった。


 ♪鬼のパンツは いいパンツ
  つよいぞ つよいぞ
  トラの毛皮で できている
  つよいぞ つよいぞ
  5年はいても やぶれない
  つよいぞ つよいぞ
  10年はいても やぶれない
  つよいぞ つよいぞ
 (『鬼のパンツ』より)

 
 『鬼のパンツ』が『強い』というのは、幻想である。んが、まあ、『鬼=強い』みたいな幻想でもって『鬼』は成り立っているので、まあ、『鬼のパンツ』も強いのだろう。

 
 民主党・小沢氏が強制起訴されたらしい。え~。。。確か、過去に2回プロの検察が調べて『シロ』だった様な気がするのだが。。。で、今回は何やら『民意』らしい。『民意』って、俺も入っているのか?俺は「よう知らん」ぞ。
 検察にも間違いはあるのだろうが、でもプロの検察が『シロ』と判断したのを「なんでシロやねん!んなもんオカシイ!やり直せ、こら!」っちゅうので強制起訴して裁判をするのは、まあ、そういう仕組みがあるのだし、まあ、やったらエエと思うのだが、でも、それで「政治家としてケジメをつけるべき」っちゅうのは変やろ。
 民主党も労働組合が大支持団体なら、んな事で「民主党を辞めるべきだ」なんぞと言ってたら、労働組合って何の為のあるねん?小沢氏が有罪になるか、そのまま無罪になるのかは解らない。
 その『解らない今』、まあ、ある会社員が痴漢容疑で逮捕されて起訴されたとする。その会社員が「私はやってません。私は無罪です」にも関わらず会社側は「いや、そうは言っても世間の眼があるからね。。。」と、解雇されたり、左遷されたりした時に相談するのが労働組合やろ。アホか?カスか?

 っちゅうか、アホになり、カスになれ。鬼である事を自覚しろ。
 「鬼は外、福は内」で真っ先に追出されるのは自分である、と。

 
 ♪はこう はこう 鬼のパンツ
  はこう はこう 鬼のパンツ
  あなたも 私も おじいちゃんも おばあちゃんも
  みんなではこう 鬼のパンツ


 『鬼のパンツ』の歌詞は、こう続く。



 




 ちなみに、ママが歌っている歌詞は別の歌詞だ。動画検索して出て来た結果に合わせた&『あなたも 私も おじいちゃんも おばあちゃんも』と、『私』が入っている事が気に入ったので、まあ、八百長でんな(笑)