久々にお勉強。っちゅうか、本読み。
今日は仲野先生の勧衆偈。講義録なので読みやすい。っちゅうか、仲野先生、マラリアになりすぎ(笑)
んで、『嘘も方便』ではなく『有相方便(うそうほうべん)』らしい。色も形もない『無相』ではなく、『有相方便』→『有相の方便』→『嘘も方便』。。。バンザイ!バンザイ!らしい。。。詳しい事は知らんが。。。
仲野先生は元所属寺に来てたらしい。勧衆偈の講義録の中にも寺の名前が出て来てたし。
うちの寺には西元宗助先生が来てたらしい。前住職が学生時代に専修学院に来られた関係もあり、親戚の寺に来てた関係もあるらしい。
元所属寺にも、うちの寺にも来てたのが中川先生。今は北海道の豚丼の本場で学長をされているらしい。あ、帯広のラーメンも美味いぞ。稚内も美味いし、っちゅうか、厳密には『美味い店がある』っちゅう話なんだが、やっぱし北海道はラーメン王国やのぉ。。。なにやらうちの寺の8月の仕事はお盆辺りに集中させるらしく、その他はヒマらしい。「北海道にツーリング行ったらアカン?」ってヨメはんにいうたら、「行ってもエエけど帰って来たら荷物ないで」との事。。。シクシク。。。まあ、ヨメはんの出産予定日辺りにツーリングもクソもないのだが。。。ガキをラーメン好きに育てて(洗脳して)大きくなったら行こ。
あ、先生をふと思う。
「先生が居ないのは自分が先生になっているからだ」やったけな?そんな言葉を聞いた事がある。
仲野先生の先生である安田先生は生涯『いち学生』という立場を貫かれたらしい。「弟子、いっぱい居てまんがな」なんだが、書生であり、学生だったのだろう。
勧衆偈の最初辺りを親鸞聖人は
【『観経義』(玄義分)に、道俗時衆等、おのおの無上心を発せども、生死ははなはだ厭いがたく、仏法また欣いがたし。共に金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。正しく金剛心を受け、一念に相応して後、果、涅槃を得ん者と云えり。】(P235より)
と読んだらしい。
以下、酔っぱらいメモ。
【真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建めに「我一心」と言えり。また「如彼名義欲如実修行相応故」と言えり。
おおよそ大信海を案ずれば、貴賎・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず・善にあらず・頓にあらず・漸にあらず・定にあらず・散にあらず、正観にあらず・邪観にあらず・有念にあらず・無念にあらず、尋常にあらず・臨終にあらず、多念にあらず・一念にあらず、ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり。たとえば亜伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。】(P236より)
【律宗の用欽の云わく、法難を説く中に、良にこの法をもって凡を転じて聖と成すこと、掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆえに、おおよそ浅き衆生は、多く疑惑を生ぜん。すなわち『大本』(大経)に「易往而無人」と云えり。かるがゆえに知りぬ、難信なり、と。
『聞持記』に云わく、不簡愚痴 性に利鈍あり、不択豪賎 報に強弱あり、不論久近 功に浅深あり、不選善悪 行に好醜あり、取決誓猛信臨終悪相 すなわち『観経』の下品中生に地獄の衆火一時に倶に至ると等、具縛凡愚 二惑全くあるがゆえに、屠沽下類刹那超越成仏之法可謂一切世間甚難信也 屠は謂わく殺を宰どる、沽はすなわち醞売、かくのごときの悪人、ただ十念に由ってすなわち超往を得、あに難信にあらずや、と。】(P238より)
今日は仲野先生の勧衆偈。講義録なので読みやすい。っちゅうか、仲野先生、マラリアになりすぎ(笑)
んで、『嘘も方便』ではなく『有相方便(うそうほうべん)』らしい。色も形もない『無相』ではなく、『有相方便』→『有相の方便』→『嘘も方便』。。。バンザイ!バンザイ!らしい。。。詳しい事は知らんが。。。
仲野先生は元所属寺に来てたらしい。勧衆偈の講義録の中にも寺の名前が出て来てたし。
うちの寺には西元宗助先生が来てたらしい。前住職が学生時代に専修学院に来られた関係もあり、親戚の寺に来てた関係もあるらしい。
元所属寺にも、うちの寺にも来てたのが中川先生。今は北海道の豚丼の本場で学長をされているらしい。あ、帯広のラーメンも美味いぞ。稚内も美味いし、っちゅうか、厳密には『美味い店がある』っちゅう話なんだが、やっぱし北海道はラーメン王国やのぉ。。。なにやらうちの寺の8月の仕事はお盆辺りに集中させるらしく、その他はヒマらしい。「北海道にツーリング行ったらアカン?」ってヨメはんにいうたら、「行ってもエエけど帰って来たら荷物ないで」との事。。。シクシク。。。まあ、ヨメはんの出産予定日辺りにツーリングもクソもないのだが。。。ガキをラーメン好きに育てて(洗脳して)大きくなったら行こ。
あ、先生をふと思う。
「先生が居ないのは自分が先生になっているからだ」やったけな?そんな言葉を聞いた事がある。
仲野先生の先生である安田先生は生涯『いち学生』という立場を貫かれたらしい。「弟子、いっぱい居てまんがな」なんだが、書生であり、学生だったのだろう。
勧衆偈の最初辺りを親鸞聖人は
【『観経義』(玄義分)に、道俗時衆等、おのおの無上心を発せども、生死ははなはだ厭いがたく、仏法また欣いがたし。共に金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。正しく金剛心を受け、一念に相応して後、果、涅槃を得ん者と云えり。】(P235より)
と読んだらしい。
以下、酔っぱらいメモ。
【真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建めに「我一心」と言えり。また「如彼名義欲如実修行相応故」と言えり。
おおよそ大信海を案ずれば、貴賎・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず・善にあらず・頓にあらず・漸にあらず・定にあらず・散にあらず、正観にあらず・邪観にあらず・有念にあらず・無念にあらず、尋常にあらず・臨終にあらず、多念にあらず・一念にあらず、ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり。たとえば亜伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。】(P236より)
【律宗の用欽の云わく、法難を説く中に、良にこの法をもって凡を転じて聖と成すこと、掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆえに、おおよそ浅き衆生は、多く疑惑を生ぜん。すなわち『大本』(大経)に「易往而無人」と云えり。かるがゆえに知りぬ、難信なり、と。
『聞持記』に云わく、不簡愚痴 性に利鈍あり、不択豪賎 報に強弱あり、不論久近 功に浅深あり、不選善悪 行に好醜あり、取決誓猛信臨終悪相 すなわち『観経』の下品中生に地獄の衆火一時に倶に至ると等、具縛凡愚 二惑全くあるがゆえに、屠沽下類刹那超越成仏之法可謂一切世間甚難信也 屠は謂わく殺を宰どる、沽はすなわち醞売、かくのごときの悪人、ただ十念に由ってすなわち超往を得、あに難信にあらずや、と。】(P238より)