坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

師弟

2009年06月30日 | 坊主の家計簿
 久々にお勉強。っちゅうか、本読み。
 今日は仲野先生の勧衆偈。講義録なので読みやすい。っちゅうか、仲野先生、マラリアになりすぎ(笑)
 
 んで、『嘘も方便』ではなく『有相方便(うそうほうべん)』らしい。色も形もない『無相』ではなく、『有相方便』→『有相の方便』→『嘘も方便』。。。バンザイ!バンザイ!らしい。。。詳しい事は知らんが。。。

 仲野先生は元所属寺に来てたらしい。勧衆偈の講義録の中にも寺の名前が出て来てたし。
 うちの寺には西元宗助先生が来てたらしい。前住職が学生時代に専修学院に来られた関係もあり、親戚の寺に来てた関係もあるらしい。
 
 元所属寺にも、うちの寺にも来てたのが中川先生。今は北海道の豚丼の本場で学長をされているらしい。あ、帯広のラーメンも美味いぞ。稚内も美味いし、っちゅうか、厳密には『美味い店がある』っちゅう話なんだが、やっぱし北海道はラーメン王国やのぉ。。。なにやらうちの寺の8月の仕事はお盆辺りに集中させるらしく、その他はヒマらしい。「北海道にツーリング行ったらアカン?」ってヨメはんにいうたら、「行ってもエエけど帰って来たら荷物ないで」との事。。。シクシク。。。まあ、ヨメはんの出産予定日辺りにツーリングもクソもないのだが。。。ガキをラーメン好きに育てて(洗脳して)大きくなったら行こ。

 あ、先生をふと思う。

 「先生が居ないのは自分が先生になっているからだ」やったけな?そんな言葉を聞いた事がある。
 仲野先生の先生である安田先生は生涯『いち学生』という立場を貫かれたらしい。「弟子、いっぱい居てまんがな」なんだが、書生であり、学生だったのだろう。

 勧衆偈の最初辺りを親鸞聖人は

【『観経義』(玄義分)に、道俗時衆等、おのおの無上心を発せども、生死ははなはだ厭いがたく、仏法また欣いがたし。共に金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。正しく金剛心を受け、一念に相応して後、果、涅槃を得ん者と云えり。】(P235より)

 と読んだらしい。

 以下、酔っぱらいメモ。

【真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建めに「我一心」と言えり。また「如彼名義欲如実修行相応故」と言えり。
 おおよそ大信海を案ずれば、貴賎・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず・善にあらず・頓にあらず・漸にあらず・定にあらず・散にあらず、正観にあらず・邪観にあらず・有念にあらず・無念にあらず、尋常にあらず・臨終にあらず、多念にあらず・一念にあらず、ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり。たとえば亜伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。】(P236より)

【律宗の用欽の云わく、法難を説く中に、良にこの法をもって凡を転じて聖と成すこと、掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆえに、おおよそ浅き衆生は、多く疑惑を生ぜん。すなわち『大本』(大経)に「易往而無人」と云えり。かるがゆえに知りぬ、難信なり、と。
 『聞持記』に云わく、不簡愚痴 性に利鈍あり、不択豪賎 報に強弱あり、不論久近 功に浅深あり、不選善悪 行に好醜あり、取決誓猛信臨終悪相 すなわち『観経』の下品中生に地獄の衆火一時に倶に至ると等、具縛凡愚 二惑全くあるがゆえに、屠沽下類刹那超越成仏之法可謂一切世間甚難信也 屠は謂わく殺を宰どる、沽はすなわち醞売、かくのごときの悪人、ただ十念に由ってすなわち超往を得、あに難信にあらずや、と。】(P238より)

腹巻きと中陰

2009年06月29日 | 坊主の家計簿
 腹が。。。毎年の事なんかも知らんが夏場になるとビールが美味い→腹壊す。まあ、寝てる時に腹出したりしてたしなぁ。。。
 っちゅう事で、腹巻き復活と。

 何じゃかんじゃで6月末である。なんか知らんが前に住んでた市から「税金を払いなさい」と来てる第一回目の期限が明日だったりする。今、住んでる所に払うもんかと思てたら、前住んでた所に払うのね。まあ、「うちのショバで稼いでんから、出て行こうがショバ代は払ってけ」みたいなもんなのかしら。

 そういや、東国原知事が自民党総裁候補ウンタラカンタラである。わが大阪の橋下知事がコメントを求められて「東さん」なんぞと芸名で呼んでたが、え~と、微妙に失礼だと思うし、「テメーら、やっぱし芸人仲間け」と云いたくなったりするのだが、呼びなれた名前っちゅうのはナカナカ変わらんのであろう。ちなみに婿で名前の変わった私に対しても名前が変わってから知り合った住職さん達から旧姓で呼ばれてて(笑)いや、最初のうちは今の名字で呼んでてくれてたんだが、話し込んでいるうちにいつの間にか旧姓で呼んではってでんなぁ。。。まあ、最初に認識したのが旧姓時代だったからしゃーないのだろう。それに今の姓で呼ぶと前住職の事を思い出したりしてややこしいのかも知れんし。まあ、そのうちに私も今の姓で呼ばれる事になれ、周囲も今の姓で呼びなれてくれたりするのかも知れん。

 あ、そやそや東国原知事。機を見るに敏、っちゅう感じでんな。
 次の選挙は『政権交代祭り』だと思ってたんがだ、仮に東国原知事が自民党総裁戦に出て、勝ち残り、自民党総裁として戦えば、政権交代祭りVS地方自治祭りになる。とりあえず投票率は上がるだろうし、それだけでもエエ効果だと思ったりもする。

 しゃて、明日は自坊でのお参りの後、手伝い先の中陰。
 個人的な事情で云うのなら、住職になってよく喋るようになった。っちゅうか、そういえば最初に居た寺でも喋りまくってて月参りで3時間とかやってたしなぁ(笑)なんか似た様な状況に(笑)
 前の寺では中陰は住職がやってた。タンマに行く事があっても住職がゆっくりと時間をかけて話してはったみたいである。それが私になった。

 うちの婆ちゃんは、爺ちゃんが死んで2年後に死んだ。私がガキの頃。
 爺ちゃんが死んでから婆ちゃんの様子がおかしくなった。今にして思えば当然の事なんだろうけど、当時は「???」であって、わがままになってすぐにキレたりする婆ちゃんを見てて悲しくなった。婆ちゃん子だったし。
 中陰。一週間に『一回しか』なのか『一回も』なのかは知らんが、私とっては『一回も』である。

スケジュール帳

2009年06月27日 | 坊主の家計簿
 朝から「イザ!」っちゅう感じで、昼飯食ったのが17時前。。。17時前って、早い晩ご飯やんなぁ。。。
 ちょい仮眠してから学習会に行こうと思てたんだが、体が云う事を聞いてくれずに辞め。っちゅう事で、ご近所戦闘に行って「うぃ~、疲れたぜ。。。」っちゅう感じで筋を伸ばして、王将で餃子ビール&ジンギスカン定食を喰って、帰りにチャリで走りまくる。

 あ、ちなみに来月から家計簿を復活さすのでついでにタイトル変更しとこ。

 え~と、なんか忙しいぞ。
 っちゅう事で、パソコンからスケジュール帳(?)をプリントアウトして使っているのだが、いや、文房具屋さんに売ってまへんでしてん。ほれ、あのシステム手帳とかいうやつは売っててんけど、高いし。来週の日程に『東西本願寺デモ』とあるのだが、参加出来るんかなぁ。。。んで、青草のスクーリングの締め切りは7月5日までね。メモ、メモと。

己が分を思量せよ。

2009年06月24日 | 坊主の家計簿
 昨日は仕事でバタバタした後に学習会→飲み。居酒屋で飲んだ後、親しい大好きな先輩と「もう一件行きまひょか」っちゅう感じ。
 っちゅう事で、飲む、飲む。
 よって、今日はヘロヘロ。。。

 しかし、結構『激動』っちゅう感じの最近である。
 結婚して、住職になり、再来月にはパパにもなる。諸々の事情によって別の寺の手伝いなんぞもしてるし、某会の代表になったりしたし。激動、激動である。
 んが、んな事を云いながらでも、こうやってネットで遊んだり、飲みに行ったりする時間があったりする。まあ、頭の中はパンクしそうなくらいにあれやこれやとあるのだが、とりあえず日々の生活をしつつやっている。
 んが、忘れ物が多い。。。
 昨日は手伝いに行く寺での仕事に必要だった勤行本を忘れて向こうの寺で借りる。学習会に行く途中に「財布に金入れ忘れたやんけ」と云う事で銀行に行ったら、ATMコーナーで直前に104円で買ったペットボトルのレモンティーを忘れる。出かける時に自転車のカギを忘れるなんぞは日常茶飯事。そういや、向こうの寺に「法事の日程大丈夫ですよ」っちゅう電話をするのを忘れとるやんけ。。。
 「私は大丈夫である」ではなく、「私は大丈夫でない」と。
 大丈夫でないのなら、マメにメモである。マメにメモして、「私は大丈夫ではない」と。

 煩悩具足の身である。故に「私は大丈夫ではない」と、佛の教えを聞いて行くしかないと。

 先日、いとこの住職襲職法要で講師の玉光先輩が母校での思い出なんぞも語って居られた。自分にひつこく関わって下さった先生達との出会いによって卒業時には「生涯親鸞聖人の教えにこだわって生きて行く」という決断をされたらしい。
 そういえば別の先輩は「常に親鸞から見られている気がする」と書かれておられた。
 その母校は専修学院という。専修とは『専修念仏』の『専修』である。専修念仏の道場である。

 『念仏も』ではない。『ただ念仏』である。
 念仏が弾圧されて法然や親鸞が流罪にされ、法然の弟子、親鸞の兄弟弟子が死罪になったわけではない。『専修念仏』『ただ念仏』が故に弾圧されたのだ。『念仏も』なら弾圧されなかった。

【私に云く、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者能くこれを思量せよ。】(法然『選択本願念仏集』より)

【また云わく、『大集経』に云わく、「我が末法の時の中の億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得るものあらじ」と。当今、末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と。已上
 しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、己が分を思量せよ。】(親鸞『教行信証』より)

具縛の凡愚

2009年06月22日 | 坊主の家計簿
 所用で外出。ついでに久々のドグラマグラへ。
 つー事で酔うてマフ。

 帰り道の交差点で聞いた言葉。学生らしい男の子が、女の子に喋ってた。
 
「あいつ、自分が他人を妬んで仕方がない、って云う事をメールで相談して来よるねんけど、俺も一緒やから答えられへんかったわ」

 と。

 「俺も一緒やねん、って答えたら良かったやんけ」と、交差点ですれ違った酔っぱらいは思っただけである。
 こういう時に発言出来ないのは『恥ずかしい』からである。
 「変なオッサンと思われたらどうしよ」なんぞと。

 諸々の事情で、諸々の事があって、ふと「自分はそういう事は克服出来た」なんぞと優越感に浸ってしまう自分が居たのだが、結局、一緒やね。

丸刈り

2009年06月21日 | 坊主の家計簿
 久々の丸坊主。いや、数日前からしようと思ってて、昨日いとこの住職襲職法要の前にやってまお、なんぞと思ってたんだが、何じゃかんじゃで散髪屋に行けなかったわけでんな。
 散髪屋で「丸刈りの一番薄いの」って云うたら「どうしはったんですか?」って(笑)いや、営業活動に役立つかと思って(笑)

 今日は、なんじゃかんじゃで疲れてマフ。

来月からの法要

2009年06月19日 | 坊主の家計簿
 昨日、一昨日とよく働き、よく遊んだ(飲んだ)ので、今日はゲリゲリ。行きたい法要があったのだがゲリゲリで断念。
 っちゅう事で、今日届いたランドローバーのクロスバイクでご近所を走り回る。ゲリゲリなので「あ、トイレ」と、トイレトイレでトイレ巡り(?)

 今日は前住職の命日。簡単にお勤めをする。そういや、私は何代目の住職か知らない。蓮如の弟子が作った寺だから結構な数の住職が居てたはずである。

【皆さんお一人おひとりの上に諸仏如来が輝いておられます】(和田先生 ただし『青草196号』に掲載の狐野先生2008年青草スクーリングでの講義より。)

 代々の住職も、それぞれの時代の門徒さんも寺を私の代までバトンタッチして頂いた方々。
 『住職』といっても門徒の代表にしか過ぎない。
 前住職の命日は、ある意味代々この寺に関わって来られた『すべての門徒』の代表命日。
 来月からは法要にしよ。

帰る処が無く孤独である

2009年06月16日 | 坊主の家計簿
 今日は陸運局へ。陸運局ちゃうわ、え~と、軽自動車の名義変更をするところへ、車を売ってくれた先輩とお出かけ。
 お出かけまでに時間があったので、愛車の初洗車。梅雨入りしたはずなんだが、晴れの日が続いているし、「水遊び、水遊び」と洗車する。

 夕方からは代打の通夜。ちなみに明日も代打の通夜だったりする。

 人生に代打はない。

 っちゅう、言葉でも掲示板に書こかな。1行やから、縦書きの方がエエかな。字をでっかくして3行にしよかな。

 んでもって『月光』をもう一度聞いてみたりする。この歌って『青草』っちゅう母校の卒業生機関誌に紹介されてた歌なんかな?まあ、歌の感じもキライな感じやし、歌い方も「お前はボイストレーニングでもしとるんかい!」って云いたくなる。

 あ、思い出したのでついでに。
 今晩の通夜。私の通夜では阿弥陀経と正信偈をやる。で、阿弥陀経が終わって正信偈を読んでたら背後から数人の声がする。
 私は声自慢である。正信偈の最後辺りの声を張り上げる辺りは見せ所であったりする。なんちゅうんですか?モーツアルトのレクイエムみたいな感じで頑張っとるわけなんですが、え~と、ついて来れんわな。。。
 後ろで私語をしてた人が居てた。何を喋っているのか知らんけど、私には「正信偈って一緒に勤行しなあかんのに、何を1人で、声張り上げとるねん」と聞こえた。

 『月光』を聞きながら「なんで救いを求めるねんやろ?」なんぞと思ったりもする。まあ、んなもんは「さみしいからに決まっとるやんけ」なんだが。「さみしいから、分かり合いたい」っちゅうやつでっせ。逆にいうと、分かり合えないから、さみしい。
 でも、『分かり合いたい』っちゅうもんがあるから、「さみしい」。どうでもエエのなら、んな感情は出てけえへんし。

 「さみしい」という出会い方。
 「救いを求める」という出会い方。

仏々想念

2009年06月15日 | 坊主の家計簿
 お仕事後、法務局に提出書類訂正の為にハンコを持ってお出かけ。他にも少々問題があったんだが、なんとかクリア。
 後、ミナミへ。え~と、
 ビ~ックビックビックビックカメラ♪
 と、洗脳されそうなぐらいに長時間居ったのぉ。。。買うソフトは決めてたんだが、解説本を選んだり、ついでに「おお!Mac用のこんな雑誌が!」「おお!Mac用のフリーソフト満載の雑誌が!」なんぞとすっかり長居する。ついでにMac売り場に居た兄ちゃんに諸々質問なんぞもする。
 え~。。。今使っているヨメはんのiMacちゃんは、最早下取り価格がつかないらしい。。。なんでやねん、しっかり動いとるし、最新OSもしっかり入ったやんけ。。。
 んが、重い口を「世間話でエエから」と言って割らした発言によるとそういう事らしい。ああ、パソコンの世界って怖いのぉ。。。

 んでもって、最新OSをブチ込んで、次はメモリー増強して、あと数年は頑張ってもらわんと。

 っちゅう事で、帰宅後、新しいOSをブチ込んで、その他のソフトもブチ込んで、諸々実験。ツー事で、疲れた。。。けど、まあ、楽しいのだが。

 最新OS記念でブログデザイン変更。

 つーか、メモリー増強して、ちょっと調子の悪いキーボードやマウスを買ってたりしてたら、今回の買い物代をプラスしたら安い新品ウインマシーンが買えたりすると思ったりもするのだが、まあ、エエか。勿体ないオバケが出そうやし(笑)

 そういや、一昨日夢の中に某恩師が出てきた。私の質問に対して恩師は答えてくれ、その内容は覚えていないのだが、『月光』っちゅう曲を勧めてくれた。歌手も『なんとなく』だったんだが、『月光』っちゅうタイトルだけは明確に憶えてた。

 よって、検索する。

 アンパンマンの曲に

 ♪なんのために 生まれて
  なにをして 生きるのか
  こたえられない なんて
  そんなのは いやだ!

 っちゅう歌詞がある。某恩師はこの言葉を「浄土の片隅に生まれたものの叫びである」やったけな?そんな風に云ったらしい。その場に私は居なかったのだが、専修学院時代の学院祭のテーマ決め会議での出来事。

 『月光』では

 ♪「理由」をもっと喋り続けて
  私が眠れるまで
 (鬼束ちひろ『月光』より)

 っちゅう言葉に引っかかる。
 仏々想念っちゅう言葉と、仏法を聞く事の大切さを思いつつ、新しいOS&ブラウザでユーチューブがちゃんと使えるかチェックして寝よ。
 あ、上記の歌を検索して、貼付けるわけやね。知ってる曲なんかな?名前はどっかで聞いたんやけど。

 

太田竜が死んでたらしい。。。

2009年06月14日 | 坊主の家計簿
 太田竜が死んでたらしい。。。
 (http://mainichi.jp/select/person/news/20090614ddm041060149000c.html

 ちょうど、昨夜の元所属寺で北海道と大谷派との話題が出た時に「え~と、ほら、第四インターの人でんがな」と、思いっきり名前が出て来なかったのだが、死んでたらしい。

【シャモ搾取階級のアイヌ侵略の歴史は、宗教的征服の歴史である。彼ら(シャモ権力)の宗教とは、
第一、仏教
第二、神道
第三、キリスト教
この三者である。
 徳川幕府・松前藩の統治時代の『宗教戦争』の主力は仏教である。とりわけ、真宗大谷派の教団である。(中略)大谷派の坊主どもは、松前藩時代から今日にいたるまで、シャモ国家権力の忠実な走狗として金ピカのころもをまとい、支配階級の高みから、アイヌを見くだしている。】(太田竜『アイヌモシリから出撃せよ』より)

 全然関係ないのだが、個人お仕事用のホームページと、寺のホームページを作ろうと思い、諸々模索する。新しくウインマシーンを買って、ウイン用の簡単なホームページソフトで作ろうかと思ってたんだが、え~。。。面倒。やっぱし、使い慣れたMacでエエわ、とそのままMacを使い続ける事に決定。んが、OSだけは最新のやつにして、なんちゃらパックでついてくるソフトで作ろ。使い慣れへんウインで脳みそ疲れるのイヤやし、経費削減、っと。

 個人お仕事用のホームページは寺とは別会計。他の仲間達と一緒に「なんかしまひょ」と云っているんだが、それだけに依存してもうたらアカンし。まずは個人で動ける所から動け、動け、働け、働け、でんな。

 寺のホームページは寺の歴史だの、行事だの、なんじゃかんじゃ。寺報やら、掲示板の言葉やら、なんじゃかんじゃ。
 ついでに家族のページなんぞも作って、「うちの子情報」なんぞも載せようかしら(笑)
 
 人の顔や生活が見えなければ、人だって数字になる。

三沢が死んだ。。。

2009年06月13日 | 坊主の家計簿
 三沢が死んだ。

 有名と無名。の死
 金持ちと貧乏。の死

 煩悩(欲望)はどちらに向くのだろうか?

 聞こえない声。


【ぼくの家庭の平安、ぼくの村の平安、ぼくの国の平安、その平安のどれにでも誰かがいつも泣いている。そんな涙を犠牲にしながらようやく成り立つような平安なんて一体何だろう。
    (中略)
 形ばかりの中身のない自分勝手な平安は本当は決して求めてはならないものであるに違いない。それなのに私たちはいつもそんな形ばかりの平安を求めてしまう。そんな私たちをまさしく問いただしてくるものは、悲しいけれど唯一「幼な児の涙」という名の被抑圧的な被支配的な被差別的な現実である。】(尾畑文正『親鸞への旅』より )

大谷派の決断

2009年06月12日 | 坊主の家計簿
 よっと。
 え~。。。昨日は飲み歩き。ファニーメイ→ら→カムズ。当然(?)電車がないので初タクシー帰宅。
 
 あ、その前に掲示板に

   善い天気
   悪い天気
    と
  天すらも裁くのが
   凡夫(ただのひと)
   である

 なんぞと書く。え~。。。厳密には書いていない。仕事から帰って黒板にチョークで書こうとしたら家族の皆様買い物中。「チョークある場所、解らん。。。」っちゅう事で、パソコンから打ち出して、近所のコンビニで拡大コピーして完成。
 前日予定していた言葉

【梅雨 「うっとうしい」 と、 ワガママの雨】
 
 は、エライ晴れてたので辞め。梅雨が本格的になりだしたら使うかも知らんが、まあ、その時の気分で言葉なんぞ変わるし。

 しゃて、さっきまで前夜録画しておいた『ルビコンの決断』っちゅう番組を見る。
 (http://www.tv-tokyo.co.jp/rubicon/backnumber/090611.html)
 『おぼうさんどっとこむ』(http://www.obohsan.com/)
 っちゅう会社をやっている社長さんの特集。興味深く見る。

 「葬儀費用を安くしたい。」っちゅうのは、まあ、余程特定の教団&寺に対して信仰心があつい人でない限り、共通の感覚だと思ったりするのだが、どうなんだろうか?
 以前も書いたが、子どもの頃の私の意識では『お坊さん=泥棒』だったし。
 布施なんぞも信仰心があるが故に布施なんだろうし、なければ単に収奪されているに過ぎない。だから、「布施が高い」なんぞの声が出て来る。高いもクソもないのだ。ホンマは。
 大阪での葬儀の相場は15万ぐらいかな?これに食事&車代&初七日がついて20万ぐらいだと思う。
 んが、古くからの村での相場はその半額ぐらいだったりする。
 福祉の葬儀が5万円だったはず。
 結構、「え?」って云うような『相場』で坊さんは葬式をしてたりする(笑)東京と大阪の相場の違いがあるんだろうけど、『おぼうさんどっとこむ』の葬儀価格を見て「なんや、うちの方が安いやんけ。。。」と思われる住職も結構居たりすると思うのだが(笑)
 なんだが、まあ、情報がない。『おぼうさんどっとこむ』は『布施』という非常に怪しげなもんを明確にした、情報を広く打ち出して安心して多くの方々に利用出来るようにしただけでも素晴らしい。
 
 ちなみに私も似たような事を始める。ただし、私は大谷派僧侶なので『大谷派限定』である。あくまでも大谷派の教えを広める為に、その入り口として葬儀をするだけの話である。当然、戒名でなく法名だし、他宗派の方は大谷派に改宗して頂く。
 寺を通すと『寺の相場』になるので、寺を通さずに個人的にやる。まあ、その後、寺とも付き合って頂ければ幸いなんだが、「寺と付き合うと寄付とかうるさいしイヤ」なら、個人的付き合いでも全然構わない。そんな贅沢は云わん。ちょっとでもエエから話を聞いてくれたらエエだけの事である。

 仏事に関するハードルが高い。
 これは色々な宗派の『僧侶』が居てるからなんだろうが、今日行って来た(代打の通夜)葬儀会館ではいちいち「○○でよろしいでございましょうか?」と。一瞬「俺はどんだけ威張り散らしてる坊主やねん」と思ってまう程、クソ丁寧な扱い。
 また、最近チラホラ読み出している本が本願寺派から出てるやつなんやけど、やはり本願寺派と大谷派では『僧侶』と云う事に対する意識が違っていると思ったりもする。大谷派は『僧』と『俗』の差を縮めよう、縮めようとしているとしか思えないのだが、本願寺派はそうでもないみたいである。まあ、『門の主』(門主=本願寺派)と、『門徒の首座』(門首=大谷派)との違いか。大谷派は『門首』ですら『門徒』扱いだし。
 『僧』と『俗』だから、ハードルが高い気がしたりするのだが。。。

 「おじゅっさん、葬儀のお布施、これぐらいでよろしいでっか」
 「もう少し高くして貰わないと。。。」
 「あ、ほな宜しいわ。ウチらだけでもやれますし。せっかく導師で呼んだろ思たのに、偉そうにしやがって。ウチらだけでやりまっさ」

【大谷派教団では、門首制と、「門徒はすべて帰敬式を受けて」という、この二つが新しい宗憲の柱なのです。「門徒はすべて帰敬式を受けよう」、ということは、本当に画期的な意味をもつわけです。(中略)
 私は直接確かめてはいないのですが、大谷派の参議会から声が挙がって、「百万人帰敬式運動」ということが始まっているというのです。百万人の門徒の人が帰敬式を受けられたら、日本は変わるでしょう。門徒の人たちの声が上がって、百万人帰敬式運動が始まるということであれば、すばらしいことです。そうすると、住職さんは段々と仕事がなくなるかもしれません。「逮夜参りはもう結構です、私たちでお内仏のお勤めをします」ということになるのではないでしょうか。本来そういうことだったのが門徒の行儀なのです。
 門徒の行儀として蓮如上人の時からずっと大事に伝統されたのが、在家勤行なのです。お内仏の前で、家族そろって毎日朝夕の勤行をしていたのです。生活にまでなっていくわけです。聞法が一つの生活を作り出すというのが、お内仏のお勤めということです。これは門徒の行儀なのです。しかし、それが江戸時代以来の檀家制度の中で崩れていったのです。
 それが、今度、「門徒はすべて帰敬式を受けて欲しい」として、百万人帰敬式運動ということが始まっていくというのは、これは本当に宗門が再生していくチャンスです。】(竹中智秀『浄土を本国としてこの世を生きる』P143~145より)

【経典を読誦してもらう側にとってみれば、自分達が経典を読誦するよりは、専門家である方々が経典を読誦した方がより多くの利他を引きだしうるはずだというところにたっているかと思います。そのための布施と供養なのです。そうすると、利他を引き出すということに直接関わる者が専門家であるなら、専門家は回向利益という構造において民衆を支配することが非常に容易だという面がでてまいります。「お布施が安いとうかばれんぞ」、というのは完全に支配です。宗教に専門的に関わっているものがもつところの支配権です。
 そういう点でいえば「余道に事うる」とか「天を拝す」とか「鬼神を祀る」というような問題も、個人だけの目で見れば、そうとやかく問題にならないかと思うんですけど、鬼神を祀るにしろ、天を拝するにしろ、それぞれの専門家の存在があるということです。その専門家への布施によって、その行為は成り立っている。より多くの利他を引き出すために専門家がある。その専門家に布施供養することによって、そこから利益を引きだすという宗教構造だろうと思います。そうすると、専門外の人々は布施をすることで、先ほど言いました収奪の問題、専門家のあり方次第によってはどんな利益がでてくるかという、そういう支配される関係を結ばざるをえません。そして、その宗教が回向利益という構造にある場合は、収奪・支配の関係をまぬがれません。】(平野修『鬼神からの解放』上巻 P81~82より)

 っちゅうのが大谷派やし。

私の脂

2009年06月10日 | 坊主の家計簿
 報恩講が終わったので法務局へ。書類を提出するだけだったので、あっけなく済む。訂正なんぞがあった場合は電話で連絡があるらしい。
 ふ~、やれやれと。

 これで引っ越しも終わり、住職修習も終わり、報恩講も終わり、法務局も終わった。これで一段落。

 っちゅう事で、お仕事モードである。寺を使ってやる事と、寺を使わずにやる事があって、これがまた、ゆっくりしているヒマがない。
 
 寺を使わない方は、企画はとっくに出来上がっているので電話回線やホームページなんぞの準備をして速攻スタート。
 
 寺の方は別に急がんでもエエ。明日雨が止んだら、寺の掲示板(黒板でっせ)に

  梅雨
  「うっとうしい」
  と、ワガママの雨

 とでも書いて、後は月末までに最初の寺報を作ればエエだけである。寺報に載せる記事(?)も初っ端なので書く事は山ほどある。多分、B4を二つ折りにして「4ページ♪」と(笑)近所に両面コピー出来るコンビニもあるみたいやし、20円×100部の2000円のお楽しみ。

 そういや、前住職の親友住職さんは、寺の掲示板(?)を毎日書き換えているらしい。「だって、毎日気にしてくれるやん」との事。
 おお!これは。。。ブログと同じやないかい。うちのブログも、結構更新している方なのか知らんが、結構アクセス数も頑張って来てまっせ。そんな感じで、出来れば毎日、っちゅうか、雨の中書くのはイヤやし、っちゅうか、傘持って書けばエエのかな?
 でも、まあ、毎日は大変やし、え~と、気が向いた時に更新、ん?寺の掲示板も『更新』でエエのかな?まあ、そうしよ。せっかくの黒板やし、チョークで書こ。墨は気合いの入った時、っちゅう事で。っちゅうか、ブログと同じく、結構ハマって更新したりするかも知れんが。

 そういや、法名の意味について色々書いて渡す、っちゅうのが定番になって来た。っちゅうても、帰敬式2人、明日の葬儀1人だけなんだが。法名を考える時に、諸々考えるわけだし、単にそれを書いて渡すだけなんだが、結構気に入っている。その作業が楽しかったりする。帰敬式だけでなく、葬儀でもやってもうたので、続けんとアカン。「なんであの人だけ」になるし。っちゅうか、そのまま通夜説法に使えるし。っちゅうか、使ったし。便利やし、エエ感じ。まあ、渡された方がどう思っているかは知らんが、まあ、法名の意味が解ってエエのでは?なんぞと勝手に思ったりしている。

 本日のタイトル、迷った末に『お寺ライフ』っちゅう事に決定。
 あまり『お寺ライフ』とは関係ないのだが、体重が2~3キロ減った。え~と、3週間ぐらいになるのかな?ここに来て。
 そうなのだ、ムコ殿は大変なのだ。。。というわけではなく、え~と、1食で豚バラ肉を200グラム使った油タップリの焼きスパゲティーとか、自分が食べたいもの=脂!なんぞの食生活が変わったので、体重&ウエスト、減る、減る。
 ウエストは減り過ぎてもジーパン&スーツのサイズを変えんとアカンから、「減っても後3センチまでである。。。」と、夜食にラーメン食べてもうた。。。
 ちなみに、ご近所に以前もタンマに行ってた焼き肉食べ放題の店があって、え~(笑)
 痩せすぎると、冬場、寒いのだ。。。脂肪は大事でっせ。
 あ、やっぱし、タイトルを『私の脂』に変更。

猫に起こされる

2009年06月09日 | 坊主の家計簿
 昨日、報恩講終了。
 来て下さった住職さん達に「すいません。。。後の法話で『同朋奉讃』について喋りたいので、今年は同朋奉讃式で。。。」とお願いする。
 「別にエエけど、時間は大丈夫なんか?」と心配してくれて、「ほな、ゆっくり勤行しまひょか」っちゅう事になる。
 開式前にホワイトボードにページ数の流れを書いて、「今年の報恩講は皆様と一緒に勤行したいと思います」なんぞと説明する。まあ、殆どの方は初めての和讃だっただろうから、和讃になると声が小さくなったけど、まあ、ああいうやり方も『あり』ではないかと。
 のち、急遽作った『御俗姓御文』を読む。え~。。。寺、小さなってんや。。。声、デカイ、っちゅうねん。
 急いで座敷に行って挨拶して、着替えて、トイレ行って、タバコ吸って、いざ出陣。法話。
 え~。。。結局45分ぐらいかな?話があっちに行ったり、うろうろしつつ、話す。話の流れ、なし(笑)んが、中途半端に作ったレジメに途中しばられたりしつつ、「今度はレジメ、辞めよ」と勝手に決める。
 作った資料も大半は使わず。親鸞の「いなかのひとびと」っちゅうのも使わず。
 法話は、その場の生きもんやな、やっぱし。

 終了して「やれやれ」っちゅう事で、本堂で総代さんたちと飲む。っちゅうか、飲んでたのは私ともう一人だけだったのだが。
 総代さん達が帰った後、座敷に行って最後まで残っておられた前住職の親友と飲む。諸々話を聞いて、酒がすすむ、すすむ。

 皆さんが帰られた後、「ふ~」と、布団に横になる。「あかん、寝てまう、っちゅうねん」っちゅう事で、「ごめん、ミナミに行って来るわ」と、ミナミへ。ヘロヘロや、っちゅうねん。結局ビール1杯で「あきまへん」っちゅう事で、さっさと帰る事に決定。帰り道に食べた『ガリガリ君』と、地元で食べた激辛ラーメンでなんとか持ち直す。
 んが、帰宅して、速攻「眠い。。。」っちゅう事で、寝る。

 朝、早朝、っちゅうか、以前の生活なら下手すると起きてる時間に、私が寝ている頭のすぐ近くで猫が紙袋か何かをガシャガシャやりだした。「テメー、何時やと思ってるねん」と、引っ張りだして部屋から追い出す。もう一度寝ようと思ったんだが、それまでに結構寝ているのでナカナカ寝付けない。諦めて「そういや、あそこの風呂屋何時からやったかな?」と、朝風呂の時間を調べたりしてたら、「うぅぅぅ。。。眠いぜ。。。」っちゅう事で、もう一度寝る。

 今日は、寺のお参りはない。んが、緊急手伝いの寺の仕事があったので出かける。
 帰宅すると「葬儀」との事。

 ついに来たか。。。自坊での葬儀である。
 枕経に行って、院号を付けるらしいので、院号と法名を考える。まだお参りに行った事がない所だったので、挨拶して、「どういう人だったんですか?」と聞いて考えた院号と法名を「こういう理由で付けました」っちゅうのを書く。これはそのまま通夜説法で使って、向こうの人たちに渡すつもり。

 書き上げるとヘロヘロ。「え~。。。ちょっと脳みそ休めます」っちゅう事で、晩ご飯までほんの少しだけ仮眠。
 のち復活。メシを軽く喰って、ヨメはんとご近所散策&ヨメはん行きつけの居酒屋へ。
 美味いし、ボリューム大で、お気に入り。一連の調査が終わったらまた行こ。

 しゃて、今日は猫に起こされずにゆっくりと寝れるかな?

人事は尽くせん。。。

2009年06月07日 | 坊主の家計簿
 出稼ぎ法事。え~。。。こういう場合は『あまり余計な事は言わん事にしよ」っちゅう感じである。向こうの法事のやり方を聞いて、雑談して「ほな、さいなら」っちゅうのがエエ感じである。
 んが、最後の法事で読経が終わった後に「何かご挨拶を」っちゅう事。。。『ご挨拶』もなんも、「知らん」っちゅう感じなんだが、そうとも云っておられずに話し始める。喋っている途中で「あ、満中陰(49日)やってんや」と気付き、話、延長。
 なんじゃかんじゃで。結構喋ってもうた。普段の法事よりも長く喋ってもうた。

 っちゅう事で、報恩講準備。帰宅すると「掃除は終わったよ♪」っちゅう事。
 ムコ殿、姑に豹変。「まあ、これで掃除したと云えるのかしら」と、掃除、掃除。この辺は前に居た寺で鍛えられた(?)ので、懸命にやる。んが、「しんどい。。。もう、サボる。報恩講終わってからゆっくり掃除する。。。」と、断念、断念。けど、まあ、『許せる範囲』にはなったかな?
 と、ムコ姑はうるさい。
 っちゅうか、こういう場合で『姑』って使うのって、完璧にステロタイプの差別表現やよなぁ。。。『男は暴力的だ!』と一緒やんけ。。。

 という事で報恩講。いわゆる『自坊』っちゅうヤツでの初の報恩講。んが、案内状も私が来る前だし、どういう風な流れなのかも知らん。初体験である。
 中途半端である。

 『人事を尽くして天命を待つ』でなく、『天命に安んじて人事を尽くす』と清沢満之は云ったらしい。さすがは求道者の清沢満之らしい。
 私は『人事を尽くす』などと決して云えない。中途半端である。
 中途半端なので、中途半端なマンマで喋ろ。

【宿善のあつきものは、今生にも善根を修し悪業をおそる。宿善すくなきものは、今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は、今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。】(聖覚上人・唯信鈔より)

【誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。】(親鸞聖人)

【現世、世界は五濁の世となり、又、仏のいない時代である。だが悲しむべきは何もない。仏は人間の形をとっていないだけであり、いつでも我々のそばにいらっしゃるのだし、阿弥陀の本願も又、人間が救われるまで続くのである。阿弥陀の本願とはすなわち人間往生の願であり、浄土往生へと続く道なのである。
 浄土とは浄らかな土ということであるのだが、この浄らかな土において穢れたものーーーつまり五濁の世ーーーを浄らかにすることによって浄土本来の力となるのである。
 ただ他力の力を信じ阿弥陀の願に信順して授けて頂いていくことが、この『五濁の世 無仏の時』にあって救われる唯一の道なのである。
 浄土とは、そのような救われてゆくものの国なのである】(前住職の聖典より)