4月22日
食類 ボストンレタス 158円
牛肉 100円
鯖寿司 200円
イカゲソ 100円
マグロカツ 100円
雑費 公文学費 4200円
合計 4858円
4月累計 110748円
さっきまで蒼井優ちゃん初主演テレビドラマ
『おせん』を観てた。
ドラマ自体が面白いし、蒼井優ちゃんの着物の着付け方も話題になるだろうし、まあ、打ち切られる事はないだろう。一安心。
ドラマの設定は時代遅れの料亭。漫画が原作だし、テレビドラマだから当然批判すべき所も多いのだが、伝えたい部分は評価する。
『おせん』の舞台である料亭では大根の面取りをしない。面取りした大根は捨てられるから。まあ、別に捨てずに皮と一緒に浅漬けにすればエエのだが、まあ、ドラマだし。
面取りするのも手間、面取りせずにゆっくりと煮込むのも手間。同じ手間なら大根を無駄にしない為の手間を選ぶのがその料亭が選んだルール。
光市母子殺害事件。本村氏は政治家になった方がエエと思うのだが。。。民主党とかからの比例区で。
判決はやはり死刑判決。
日本は『和国』と云う。和風。
当然、『和国』であった時代などない。
排除し、裁き続けた時代。
それでも和国。これから目指すべき和国。これから目指すのが和国なのだ。和風なのだ。決して時代遅れでも、時代が進んだからでもなく、これから選ぶべき道が和国なのだ。
人権とは国権に対する言葉であるらしい。
あさま山荘事件を筆頭に、左翼学生がとった暴力行為。あさま山荘では警察側に死傷者が出ている。きっと、左翼学生が投石した事によって、ゲバ棒でもって振るった暴力の被害者は警察側にもいる事であろう。
左翼学生は『やられた事』ばかりを叫ぶ。自分達民衆に権力が暴力を振るった。
権力といっても、現在の『権力』は自由選挙がある中での権力である。
大阪府の橋下知事は予算カットの為に警官の人数を減らすらしいが、橋下知事は大阪府民が選んだ知事である。選挙に参加出来なかった定住外国人が『権力』というのなら解るが、選挙権を持ち得た人間が、大昔からの伝統でもって『権力』等と云うのは馬鹿馬鹿しくて仕方がない。
権力側と云っても、自分達が選挙で選んだ政治家であり、その政治家が決めた法律であり、政治家の権限で人員を削減出来るような権力である。
権力を養っているのは、人民の税金である。
つまり、権力といっても、そんなものは存在しない。ロシア革命の時代ではない。エエ加減に眼を覚ませ。
左翼学生が振るった暴力には理由があるらしい。何やら『元暴力学生』曰く、「権力側が人民に対して暴力を振るう事を表現するため」であるらしい。
そりゃそうだろう。権力なんぞ暴力を振るうものだ。
だが、左翼学生が暴力を肯定化する為の大義名分であったにしろ、暴力をふるわれた『権力側』はたまったものではない。殺された警察官はたまったものではない。
左翼学生、まあ、今は『元』になるのだろうが、自分達が昔に大義名分をつけて振るった暴力に対しての総括は出来ているのだろうか?
大義名分さえあれば暴力を肯定化出来る思想を自己批判出来るのだろうか?
現在でも、当然多くの、まあ、『元』になるのだろうが、左翼が多く居る。学生運動上がりの人達は多くいる。多くの市民運動の現場にも多く居る。人権運動、解放運動の中にも多く居る。それ等の人達は、自分達の行動を総括出来ているのだろうか?自己批判しているのだろうか?それとも変わらず、『権力』だの、『体制』だのと、妄想を並べ立て、大義名分さえあれば人を傷つけ、他人の人権を犯しても構わないと信じ込んでいるのだろうか?
死刑は、暴力である。
国家、つまり、私たちによる殺人である。
権力が殺すのでもなく、体制が殺すのでもなく、私たちが殺すのだ。
同じ人間を。
いかなる大義名分であろうが、それが共同体の秩序であろうが、殺人は殺人である。暴力は暴力である。人間が決めた大義名分であろうが、そんなものは、どれだけ素晴らしい論理や、思想・宗教であっても、所詮人間が決めたものでしかない。言い逃れである。
「俺たちみんな、勇気がなかったんだよ!」
と、映画『実録・連合赤軍』で、あさま山荘内部での連合赤軍少年は叫ぶ。
聖火リレー。
珍しい事に、右派も、左派も共同して抗議している。
なんとなくの印象だが、例えば拉致事件という人権侵害に関しては右派主導であり、左派は余り協力して来なかった印象があるのだが、今回は別。右派も、左派も一緒になっての中国批判。
まあ、最早、『右派』とか『左派』とかいう時代ではないのだろうが。。。
日本での聖火リレーは4月26日。
気になって少しだけ調べてみたら、色々な動きがありそうだ。
あるキャスターが「日本で何も起らなければ、日本人が人権意識が欠落しているみたいですし。。。」との事。
日本は和国を目指す。日本は和国である。
平和的なデモや、集会ならともかく、妨害行為を煽ってどうする。
妨害行為、つまり、萩本欽一氏であり、星野仙一氏に対して、聖火を無理矢理奪おうとする暴力的行為を振るう事が、果たして『人権』なのか?そんな人権等、人権の名に値しない。人権の名を騙った単なる暴力・人権侵害でしかない。
仏教寺院、善光寺は地元の期待を裏切って聖火リレーでの会場を貸すのを辞めた。
今回のオリンピックは北京オリンピックである。
大阪でも中国人観光客が増えて来ている。
これから増々豊かになって行くであろう中国からの観光客を長野は欲しいだろう。
今回の聖火リレーでの善光寺スタートは絶好の観光アピールであった。中国人観光客を増やす絶好のチャンスであった。
だが、善光寺は辞めた。
諸々の噂もあるが、まあ、『辞めた』という事だけは事実である。地元の期待を裏切って辞めた。
当然、長野での聖火リレーはスタート場所を変えて行われるようである。
だから、長野の街は変わらずに混乱するであろう。長野の人にとってみれば、「何を善光寺だけ。。。」なんだろうが、やはり善光寺は仏教寺院なのだ。
「俺たちみんな、勇気がなかったんだよ!」と叫んだ、映画『実録・連合赤軍』での連合赤軍少年。
暴力の連鎖。
ある恩師が、「善光寺に対して賛同と支持を表明するハガキを善光寺に送ろう!」という運動を始めた。
文面には異論があるのでそのまま掲載しないが、私も善光寺に対しては感謝と賞賛の意があるので同意する。
ただ、善光寺の住所を紹介するのは違うと判断したので、善光寺のホームページ(
http://www.zenkoji.jp/index2.html)に掲載されている住所を参照して、
「感動した!」
「ありがとう」
でも、何かのメッセージを書いてそれぞれが勝手に送ればイイと思う。
暴力の連鎖。
勇気がない。
暴力を振るう勇気でなく、暴力を振るわない勇気。
暴力を止める為に暴力を振るうのが暴力の連鎖である。
平和の為に振るってしまうのも暴力である。
如何なる大義名分があろうとも、暴力行為を決して認めないし、肯定しない。
人権の為、平和の為であっても。やられた他者には関係ない話しである。
死刑制度を辞める勇気、
戦争を認めない勇気、
憲法9条を貫く勇気。
善光寺は辞めた。それだけの話しである。
今回の聖火リレーは、中国側の暴力、人権派の暴力、様々な暴力が渦巻いている。
中国は決してチベット弾圧を暴力行動と認めないだろうし、人権派は妨害行動を暴力であると認めないであろう。
大義名分が大好きで、いいわけ、言い逃れが大好きで、決して罪を罪として認めたくない私(たち)らしい話しであるが、所詮、煩悩にしか過ぎない。煩悩があるが故に、『暴力』という事実を、事実として引き受ける事が出来ないだけの話しであって、ならば、少なくともそういう私(たち)の身の事実を認める事からしか始まらないのではないだろうか?
「あなたはあなたに成ればイイ。あなたはあなたであればイイ」という言葉があるが、まずは、私(たち)がどういう人間であるのかを見つめない限り、何も始まらないのではないのか?
「俺たちみんな、勇気がなかったんだよ!」(映画『実録・連合赤軍』より)