月末。「て、てらの通信が。。。」と毎月の事なんだが。でも、イマイチ、テンションが上がらない。もっと言うと、他の事に対するやる気も起らん。布団の中でゲーム三昧で一週間ぐらい過ごしたい気分なんだが、そういうワケにも行かない。娑婆を生きているのだから、娑婆の事は娑婆でケリをつけれなければならない。まあ、適当にしか出来ないのだが。
何やら『秋バテ』という言葉があるそうな。夏の疲れを引きずったまま急に冷え込んで来た事によって体調を崩す。え~。。。そういえば、体調を崩している人も結構いるし。きっとこの事も「それは放射能被曝のせいだ!」なんぞと言いたがる人も居ているのだろう。「はあ?」なんだが、でもまあ、今年は大震災があって、放射能汚染の話が続いていて、緊張感なんぞそれ程持たないので、震災&原発事故のストレスが普段の生活に上乗せ状態なので、当然、体調を崩す人も多いだろう。んなもん、しゃーない。
原発事故で『放射能だけ』を騒いでいる人に対してある人が、「こりゃ、年間3万人も自殺者が出るわ」なんぞと愚痴っておられた。精神面を無視してどないしまんねん。『放射能も』でなく『放射能だけ』ってなぁ。。。まあ、あれも原発事故でのショックからなのかも知らんが。出来れば日頃から人間の弱さ、精神面を無視しているとは思いたくない。『放射能だけ』って、原発事故の矮小化だと思うのだが。ったく。
ここ数日、戒名について会話する機会があった。え~。。。真宗には『戒名』はありません。ですから基本(地域差や寺の事情もあるかも知れんから『基本』)『戒名料』などは不要。なので『真宗以外』の話なので事情は知らない。知らないが、戒名料に不満だったら戒名をつけて貰わない、その宗派で葬儀をやる必要もないと思うのだが。戒名料に対する不満は、要するに「その宗派を信仰してません」なんだろうし。『宗派』というと広げ過ぎだったら、「その僧侶(寺院)」でもエエかも知れん。
挙げ句に「戒名を自分でつける」。え~。。。それは『戒名』でなく、『戒名みたいなもの』でしかないのではないのか?戒を授けて下さるから『戒名』なんだろうし、自分で勝手に名告るのであれば、それは戒名ではない。
宗祖親鸞聖人の本名(?)は愚禿釈親鸞。まあ、『愚禿釈の鸞』『愚禿鸞』だったりもするのだろうが。坊さんの名前(?)を奪われて、自ら名告った。俗名は藤井善信。
え~。。。どうでもエエのだが、親鸞が歯医者とかに行って「藤井さーん!」と呼ばれた場合はどうしてたのだろうか?あ、すいまへん。全くどうでもエエ話です。「歯石取りたいよぉ。。。」と御近所歯医者を探していたので。
私は釈学生。
昨日、法要の為に衣装を着替えていたら、「あれ?これも破れてたんけ!」と。色衣のヒダヒダ部分の上が少し破れていた。目立たなかったので気づかなかった。替えがあるので、次に街に出た時の色衣と同じ色の糸を探して来ないと。
数日前も袈裟&衣の修理。衣は黒だけだったし、袈裟は裏側なので同じ様な色の糸で良かったんだが、色衣の裾は目立つし。
同じ真宗門徒の中でも私は『僧侶』であったりする。違いは法衣を着るか着ないかだけの話だったりして(笑)
法衣を着る僧侶になる、あ、当然、真宗教団限定なんだが、これは勘違いする。勘違いし易い環境に居ているわけだし、ホンマ、勘違いする。
つい最近の具体例ならば、とある初めて行った葬儀会館で葬儀をした時に、あ、通夜だったのだが、通夜が終わる。通夜が終わって衣装を畳まなければならない。私は通夜の時には黒い衣のヒダヒダがいっぱい付いたのを来ているのだが、これを畳むのに私は少々時間がかかる。「まあ、通夜も終わったし♪」と、帰ってやらないといけない事がいっぱいあったのだが、それ以前に疲れているし、ゆっくりと衣を畳んでいた。で、帰ろうとすると、控え室の外でずっと葬儀会館の職員さんが見送りの為に待ってて呉れた。「え?ごめんなさい、ごめんなさい。どんくさいから衣を畳むのに時間がかかってしまって、ごめんなさいね」だったのだが、俺、客違うし。感覚的には『葬儀スタッフの一員』なんだが。
僧侶になった時、得度した時に嬉しかった。素朴に嬉しかった。釈学生という名前も貰った(自分で考えたのだが)し、ツルツル頭。
先日、呑んでたらオカンより電話。店の外に出てかけ直したら、何やら先日亡くなった叔父さんの満中陰法要が終わったらしい。「知らせてくれよなぁ。。。」と思ったのだが、バタバタしてたし、「連絡してくれ」と頼むのを忘れていたし。
葬儀&満中陰に来た住職さんは、私も御世話になっている先輩。何やら2時間ぐらい法事をしていたらしい。「あの先輩らしいなぁ~」と思いつつ。つーか、だったら尚更法話を聞きたかったのだが。まあ、次回という事で。
通夜では多くの親戚達と久々の再会。「マー坊君?」と呼ばれつつ、坊さんの格好。同じ真宗門徒の中の坊さんの格好。面白いもので自慢したがる私が居た。儀式を執行するわけでもない。でも坊さんルックで出かけて、衣を着ている=僧侶である事を自慢したがる私が居た。
当然、『馬子にも衣装(差別用語だが)』的な意味もある。親戚に対する「ほらほら見て!」というのもあるが、それ以外にも自慢したがる私が居た。
私は釈学生で、宗祖親鸞聖人は『釈』の前に『愚禿』が付く。
『釈』だけの『僧侶』と、『愚禿釈』という『真宗門徒』
【「除霊」で中2娘死なす 傷害致死容疑、父と僧侶逮捕】
http://www.asahi.com/national/update/0927/SEB201109270003.html
この事件に『間違い』はない。父親も僧侶も、亡くなられた娘さんの病気を治したいという一心だったと思う。なので傷害致死ではなく、業務上過失致死でないのか?と思ったりもする。
『僧侶』の問題。
【経典を読誦してもらう側にとってみれば、自分達が経典を読誦するよりは、専門家である方々が経典を読誦した方がより多くの利他を引きだしうるはずだというところにたっているかと思います。そのための布施と供養なのです。そうすると、利他を引き出すということに直接関わる者が専門家であるなら、専門家は回向利益という構造において民衆を支配することが非常に容易だという面がでてまいります。「お布施が安いとうかばれんぞ」、というのは完全に支配です。宗教に専門的に関わっているものがもつところの支配権です。
そういう点でいえば「余道に事うる」とか「天を拝す」とか「鬼神を祀る」というような問題も、個人だけの目で見れば、そうとやかく問題にならないかと思うんですけど、鬼神を祀るにしろ、天を拝するにしろ、それぞれの専門家の存在があるということです。その専門家への布施によって、その行為は成り立っている。より多くの利他を引き出すために専門家がある。その専門家に布施供養することによって、そこから利益を引きだすという宗教構造だろうと思います。そうすると、専門外の人々は布施をすることで、先ほど言いました収奪の問題、専門家のあり方次第によってはどんな利益がでてくるかという、そういう支配される関係を結ばざるをえません。そして、その宗教が回向利益という構造にある場合は、収奪・支配の関係をまぬがれません。】(平野修『鬼神からの解放』上巻P81~82より)
【法然は回向を必要とし、それによって利益を引きだしていくような宗教構造全体を切られたわけです。それが不回向です。我われの方からの回向というあり方を切られた。それは教理的にも大きな問題がありますし、同時に民衆のあり方、専門家のあり方まで変えるものだったのです。ですから、回向・不回向という対立する、この表現はすさまじいものであったと考えます。民衆のあり方や、専門家のあり方まで変えるのに十分な力をもっている。それが法然のはたされた思想的な一大事業であったかと思います。回向・不回向という違いをたてられたところに法然の事業があったといえます。
そういうことを親鸞は「化身土」ということで問題にされています。そして、具体的にはあらゆる宗教は利他を表し、それが化身として実体化されることで回向の宗教は成立するとみられます。そして、化身である限り、回向ということが必要とされる。そこにそれを専門にする者と民衆という図式ができあがる。また、それが化身である限りにおいては、民衆と専門家の間には収奪の関係、同時に支配の関係が必然的についてまわる。
このように化身(利他性)、利益の構造を基礎づける、民衆からの回向を必要としないといった場合において、なお回向ということがありうるなら、それは如来からの回向にほかならないと親鸞は捉えます。】(平野修『鬼神からの解放』上巻P83~84より)
【正直にいって我々の教団は、仏教の力を借りることにより、人間が人間を教育できるもののように錯覚し、それで人を教化しようとしてきたのでありますし、しかもそれによって教団自身のエゴイズムを満たそうとし、あるいは教団の命脈を保とうとしてきたといわなければならぬものがあるのであります。そしてその結果が、今日の教団に見られるような、はなはだしい生命力の枯渇の事実であります。】(信国淳『呼応の教育』 信国淳選集第四巻P7より)
【こうして我々のブラザー・システムは、教える者と教えられる者という、教えにおける人間の二者対立的な関係を絶対にゆるすことのない、仏の人間教育そのものに相応しようとするシステムであります。】(信国淳『呼応の教育』 信国淳選集第四巻P17より)
【大谷派教団では、門首制と、「門徒はすべて帰敬式を受けて」という、この二つが新しい宗憲の柱なのです。「門徒はすべて帰敬式を受けよう」、ということは、本当に画期的な意味をもつわけです。(中略)
私は直接確かめてはいないのですが、大谷派の参議会から声が挙がって、「百万人帰敬式運動」ということが始まっているというのです。百万人の門徒の人が帰敬式を受けられたら、日本は変わるでしょう。門徒の人たちの声が上がって、百万人帰敬式運動が始まるということであれば、すばらしいことです。そうすると、住職さんは段々と仕事がなくなるかもしれません。「逮夜参りはもう結構です、私たちでお内仏のお勤めをします」ということになるのではないでしょうか。本来そういうことだったのが門徒の行儀なのです。
門徒の行儀として蓮如上人の時からずっと大事に伝統されたのが、在家勤行なのです。お内仏の前で、家族そろって毎日朝夕の勤行をしていたのです。生活にまでなっていくわけです。聞法が一つの生活を作り出すというのが、お内仏のお勤めということです。これは門徒の行儀なのです。しかし、それが江戸時代以来の檀家制度の中で崩れていったのです。
それが、今度、「門徒はすべて帰敬式を受けて欲しい」として、百万人帰敬式運動ということが始まっていくというのは、これは本当に宗門が再生していくチャンスです。】(竹中智秀『浄土を本国としてこの世を生きる』P143~145より)
【この(大谷派宗憲)9章の問題は、『僧侶』と『門徒』と規定されていますね。僕は『門徒』と云う言葉には、いわゆる広義な意味で(広い意味で)『僧侶』も含んだ内容に置いて全部が『門徒』である、という考えと、それから『在家門徒』だけが『門徒』である、という表現があると思うんです。それは二つあってもいいんですけども、今度の宗憲の中に「門徒とは」「僧侶とは」と云う事を明確に分けてしまっていいのかどうか?やはり今までの『法主』を『門首』と改めている以上、基本的には『門首』『門徒』そういうのを含めて門徒、という形が望ましいのではないのかと?しかるに宗憲の中に「僧侶は僧侶」「門徒は門徒」と、いう別な規定というか制約が書いてあります。そうすると広い意味での『門徒』と云う意味があったのに、いわゆる宗憲の中で定義付けてしまって、それが大変な権威に成ってしまって、将来『僧侶』『門徒』とはこういうものだ、という方向に行ってしまうのではないかと。それが本当に同朋教団としての真宗なのか。だからこういう言葉を使っていいのか知れないけども、宗祖の精神に帰るという事であるならば『門徒』というのは、『僧侶』も『在家門徒』も含めて『門徒』であるという言葉の方がいいのではないかと申しあげて来たのです。】(某学習会で講師の先生がある門徒さんの言葉を紹介した聞き書きより)
曹洞宗の僧侶には曹洞宗の僧侶の厳しさがあるのだろう。だから「妻帯を認めているのはオカシイ!」という厳しい批判もあったりするのだろう。
でも、私は真宗大谷派の『僧侶』である。『僧侶』から『愚禿釈』という『真宗門徒』に還らなければならない。
娘はアンパンマンに出て来る『あかちゃんまん』に夢中である。今日はママに作ってもらった『あかちゃんまん』の首から下げる顔だけの人形で大喜び。YouTubeの『あかちゃんまん』にも夢中。
パパはふと思う。「ひょっとして『あかちゃんまん』がヒーローなのか?」と。自分と同じ『あかちゃん』でありながら、力持ちで空も飛べる『あかちゃんまん』。多分、色んな事が出来なくてもどかしいであろう娘。爪もまだ自分では切れない。
最近見つけた禅僧・澤木興道の言葉
【自分で自分を「みくびる」ことが無いようでは、信仰も懺悔もない。】(http://twitter.com/#!/asakatsuzen/status/118639624049541120)
そんな苦悩をしつつ、『みくびる事』を当然とせずに、しっかりと『煩悩』と判断する為に
【屁ひとつだって人と貸し借りできんやないか。みな「自己」を生きねばならぬ。お前とわしとどちらが器量がいいか悪いか、そんなこと比べてみんかてええんじゃ。】(澤木興道http://twitter.com/#!/asakatsuzen/status/118624510160277504)
という様な真実から流れる御教えの言葉に出会って貰いたい。
何やら『秋バテ』という言葉があるそうな。夏の疲れを引きずったまま急に冷え込んで来た事によって体調を崩す。え~。。。そういえば、体調を崩している人も結構いるし。きっとこの事も「それは放射能被曝のせいだ!」なんぞと言いたがる人も居ているのだろう。「はあ?」なんだが、でもまあ、今年は大震災があって、放射能汚染の話が続いていて、緊張感なんぞそれ程持たないので、震災&原発事故のストレスが普段の生活に上乗せ状態なので、当然、体調を崩す人も多いだろう。んなもん、しゃーない。
原発事故で『放射能だけ』を騒いでいる人に対してある人が、「こりゃ、年間3万人も自殺者が出るわ」なんぞと愚痴っておられた。精神面を無視してどないしまんねん。『放射能も』でなく『放射能だけ』ってなぁ。。。まあ、あれも原発事故でのショックからなのかも知らんが。出来れば日頃から人間の弱さ、精神面を無視しているとは思いたくない。『放射能だけ』って、原発事故の矮小化だと思うのだが。ったく。
ここ数日、戒名について会話する機会があった。え~。。。真宗には『戒名』はありません。ですから基本(地域差や寺の事情もあるかも知れんから『基本』)『戒名料』などは不要。なので『真宗以外』の話なので事情は知らない。知らないが、戒名料に不満だったら戒名をつけて貰わない、その宗派で葬儀をやる必要もないと思うのだが。戒名料に対する不満は、要するに「その宗派を信仰してません」なんだろうし。『宗派』というと広げ過ぎだったら、「その僧侶(寺院)」でもエエかも知れん。
挙げ句に「戒名を自分でつける」。え~。。。それは『戒名』でなく、『戒名みたいなもの』でしかないのではないのか?戒を授けて下さるから『戒名』なんだろうし、自分で勝手に名告るのであれば、それは戒名ではない。
宗祖親鸞聖人の本名(?)は愚禿釈親鸞。まあ、『愚禿釈の鸞』『愚禿鸞』だったりもするのだろうが。坊さんの名前(?)を奪われて、自ら名告った。俗名は藤井善信。
え~。。。どうでもエエのだが、親鸞が歯医者とかに行って「藤井さーん!」と呼ばれた場合はどうしてたのだろうか?あ、すいまへん。全くどうでもエエ話です。「歯石取りたいよぉ。。。」と御近所歯医者を探していたので。
私は釈学生。
昨日、法要の為に衣装を着替えていたら、「あれ?これも破れてたんけ!」と。色衣のヒダヒダ部分の上が少し破れていた。目立たなかったので気づかなかった。替えがあるので、次に街に出た時の色衣と同じ色の糸を探して来ないと。
数日前も袈裟&衣の修理。衣は黒だけだったし、袈裟は裏側なので同じ様な色の糸で良かったんだが、色衣の裾は目立つし。
同じ真宗門徒の中でも私は『僧侶』であったりする。違いは法衣を着るか着ないかだけの話だったりして(笑)
法衣を着る僧侶になる、あ、当然、真宗教団限定なんだが、これは勘違いする。勘違いし易い環境に居ているわけだし、ホンマ、勘違いする。
つい最近の具体例ならば、とある初めて行った葬儀会館で葬儀をした時に、あ、通夜だったのだが、通夜が終わる。通夜が終わって衣装を畳まなければならない。私は通夜の時には黒い衣のヒダヒダがいっぱい付いたのを来ているのだが、これを畳むのに私は少々時間がかかる。「まあ、通夜も終わったし♪」と、帰ってやらないといけない事がいっぱいあったのだが、それ以前に疲れているし、ゆっくりと衣を畳んでいた。で、帰ろうとすると、控え室の外でずっと葬儀会館の職員さんが見送りの為に待ってて呉れた。「え?ごめんなさい、ごめんなさい。どんくさいから衣を畳むのに時間がかかってしまって、ごめんなさいね」だったのだが、俺、客違うし。感覚的には『葬儀スタッフの一員』なんだが。
僧侶になった時、得度した時に嬉しかった。素朴に嬉しかった。釈学生という名前も貰った(自分で考えたのだが)し、ツルツル頭。
先日、呑んでたらオカンより電話。店の外に出てかけ直したら、何やら先日亡くなった叔父さんの満中陰法要が終わったらしい。「知らせてくれよなぁ。。。」と思ったのだが、バタバタしてたし、「連絡してくれ」と頼むのを忘れていたし。
葬儀&満中陰に来た住職さんは、私も御世話になっている先輩。何やら2時間ぐらい法事をしていたらしい。「あの先輩らしいなぁ~」と思いつつ。つーか、だったら尚更法話を聞きたかったのだが。まあ、次回という事で。
通夜では多くの親戚達と久々の再会。「マー坊君?」と呼ばれつつ、坊さんの格好。同じ真宗門徒の中の坊さんの格好。面白いもので自慢したがる私が居た。儀式を執行するわけでもない。でも坊さんルックで出かけて、衣を着ている=僧侶である事を自慢したがる私が居た。
当然、『馬子にも衣装(差別用語だが)』的な意味もある。親戚に対する「ほらほら見て!」というのもあるが、それ以外にも自慢したがる私が居た。
私は釈学生で、宗祖親鸞聖人は『釈』の前に『愚禿』が付く。
『釈』だけの『僧侶』と、『愚禿釈』という『真宗門徒』
【「除霊」で中2娘死なす 傷害致死容疑、父と僧侶逮捕】
http://www.asahi.com/national/update/0927/SEB201109270003.html
この事件に『間違い』はない。父親も僧侶も、亡くなられた娘さんの病気を治したいという一心だったと思う。なので傷害致死ではなく、業務上過失致死でないのか?と思ったりもする。
『僧侶』の問題。
【経典を読誦してもらう側にとってみれば、自分達が経典を読誦するよりは、専門家である方々が経典を読誦した方がより多くの利他を引きだしうるはずだというところにたっているかと思います。そのための布施と供養なのです。そうすると、利他を引き出すということに直接関わる者が専門家であるなら、専門家は回向利益という構造において民衆を支配することが非常に容易だという面がでてまいります。「お布施が安いとうかばれんぞ」、というのは完全に支配です。宗教に専門的に関わっているものがもつところの支配権です。
そういう点でいえば「余道に事うる」とか「天を拝す」とか「鬼神を祀る」というような問題も、個人だけの目で見れば、そうとやかく問題にならないかと思うんですけど、鬼神を祀るにしろ、天を拝するにしろ、それぞれの専門家の存在があるということです。その専門家への布施によって、その行為は成り立っている。より多くの利他を引き出すために専門家がある。その専門家に布施供養することによって、そこから利益を引きだすという宗教構造だろうと思います。そうすると、専門外の人々は布施をすることで、先ほど言いました収奪の問題、専門家のあり方次第によってはどんな利益がでてくるかという、そういう支配される関係を結ばざるをえません。そして、その宗教が回向利益という構造にある場合は、収奪・支配の関係をまぬがれません。】(平野修『鬼神からの解放』上巻P81~82より)
【法然は回向を必要とし、それによって利益を引きだしていくような宗教構造全体を切られたわけです。それが不回向です。我われの方からの回向というあり方を切られた。それは教理的にも大きな問題がありますし、同時に民衆のあり方、専門家のあり方まで変えるものだったのです。ですから、回向・不回向という対立する、この表現はすさまじいものであったと考えます。民衆のあり方や、専門家のあり方まで変えるのに十分な力をもっている。それが法然のはたされた思想的な一大事業であったかと思います。回向・不回向という違いをたてられたところに法然の事業があったといえます。
そういうことを親鸞は「化身土」ということで問題にされています。そして、具体的にはあらゆる宗教は利他を表し、それが化身として実体化されることで回向の宗教は成立するとみられます。そして、化身である限り、回向ということが必要とされる。そこにそれを専門にする者と民衆という図式ができあがる。また、それが化身である限りにおいては、民衆と専門家の間には収奪の関係、同時に支配の関係が必然的についてまわる。
このように化身(利他性)、利益の構造を基礎づける、民衆からの回向を必要としないといった場合において、なお回向ということがありうるなら、それは如来からの回向にほかならないと親鸞は捉えます。】(平野修『鬼神からの解放』上巻P83~84より)
【正直にいって我々の教団は、仏教の力を借りることにより、人間が人間を教育できるもののように錯覚し、それで人を教化しようとしてきたのでありますし、しかもそれによって教団自身のエゴイズムを満たそうとし、あるいは教団の命脈を保とうとしてきたといわなければならぬものがあるのであります。そしてその結果が、今日の教団に見られるような、はなはだしい生命力の枯渇の事実であります。】(信国淳『呼応の教育』 信国淳選集第四巻P7より)
【こうして我々のブラザー・システムは、教える者と教えられる者という、教えにおける人間の二者対立的な関係を絶対にゆるすことのない、仏の人間教育そのものに相応しようとするシステムであります。】(信国淳『呼応の教育』 信国淳選集第四巻P17より)
【大谷派教団では、門首制と、「門徒はすべて帰敬式を受けて」という、この二つが新しい宗憲の柱なのです。「門徒はすべて帰敬式を受けよう」、ということは、本当に画期的な意味をもつわけです。(中略)
私は直接確かめてはいないのですが、大谷派の参議会から声が挙がって、「百万人帰敬式運動」ということが始まっているというのです。百万人の門徒の人が帰敬式を受けられたら、日本は変わるでしょう。門徒の人たちの声が上がって、百万人帰敬式運動が始まるということであれば、すばらしいことです。そうすると、住職さんは段々と仕事がなくなるかもしれません。「逮夜参りはもう結構です、私たちでお内仏のお勤めをします」ということになるのではないでしょうか。本来そういうことだったのが門徒の行儀なのです。
門徒の行儀として蓮如上人の時からずっと大事に伝統されたのが、在家勤行なのです。お内仏の前で、家族そろって毎日朝夕の勤行をしていたのです。生活にまでなっていくわけです。聞法が一つの生活を作り出すというのが、お内仏のお勤めということです。これは門徒の行儀なのです。しかし、それが江戸時代以来の檀家制度の中で崩れていったのです。
それが、今度、「門徒はすべて帰敬式を受けて欲しい」として、百万人帰敬式運動ということが始まっていくというのは、これは本当に宗門が再生していくチャンスです。】(竹中智秀『浄土を本国としてこの世を生きる』P143~145より)
【この(大谷派宗憲)9章の問題は、『僧侶』と『門徒』と規定されていますね。僕は『門徒』と云う言葉には、いわゆる広義な意味で(広い意味で)『僧侶』も含んだ内容に置いて全部が『門徒』である、という考えと、それから『在家門徒』だけが『門徒』である、という表現があると思うんです。それは二つあってもいいんですけども、今度の宗憲の中に「門徒とは」「僧侶とは」と云う事を明確に分けてしまっていいのかどうか?やはり今までの『法主』を『門首』と改めている以上、基本的には『門首』『門徒』そういうのを含めて門徒、という形が望ましいのではないのかと?しかるに宗憲の中に「僧侶は僧侶」「門徒は門徒」と、いう別な規定というか制約が書いてあります。そうすると広い意味での『門徒』と云う意味があったのに、いわゆる宗憲の中で定義付けてしまって、それが大変な権威に成ってしまって、将来『僧侶』『門徒』とはこういうものだ、という方向に行ってしまうのではないかと。それが本当に同朋教団としての真宗なのか。だからこういう言葉を使っていいのか知れないけども、宗祖の精神に帰るという事であるならば『門徒』というのは、『僧侶』も『在家門徒』も含めて『門徒』であるという言葉の方がいいのではないかと申しあげて来たのです。】(某学習会で講師の先生がある門徒さんの言葉を紹介した聞き書きより)
曹洞宗の僧侶には曹洞宗の僧侶の厳しさがあるのだろう。だから「妻帯を認めているのはオカシイ!」という厳しい批判もあったりするのだろう。
でも、私は真宗大谷派の『僧侶』である。『僧侶』から『愚禿釈』という『真宗門徒』に還らなければならない。
娘はアンパンマンに出て来る『あかちゃんまん』に夢中である。今日はママに作ってもらった『あかちゃんまん』の首から下げる顔だけの人形で大喜び。YouTubeの『あかちゃんまん』にも夢中。
パパはふと思う。「ひょっとして『あかちゃんまん』がヒーローなのか?」と。自分と同じ『あかちゃん』でありながら、力持ちで空も飛べる『あかちゃんまん』。多分、色んな事が出来なくてもどかしいであろう娘。爪もまだ自分では切れない。
最近見つけた禅僧・澤木興道の言葉
【自分で自分を「みくびる」ことが無いようでは、信仰も懺悔もない。】(http://twitter.com/#!/asakatsuzen/status/118639624049541120)
そんな苦悩をしつつ、『みくびる事』を当然とせずに、しっかりと『煩悩』と判断する為に
【屁ひとつだって人と貸し借りできんやないか。みな「自己」を生きねばならぬ。お前とわしとどちらが器量がいいか悪いか、そんなこと比べてみんかてええんじゃ。】(澤木興道http://twitter.com/#!/asakatsuzen/status/118624510160277504)
という様な真実から流れる御教えの言葉に出会って貰いたい。