坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

除夜の鐘

2008年12月31日 | 坊主の家計簿
 12月31日

 1円も使ってません。

 12月累計     139972円

 昼過ぎに起きてダラダラと。
 2日分の家計簿を書いて、ついでに今日の分も。も少ししたら除夜の鐘で出かけるし。


【(梵行品)また言わく、その時に、王舎大城に阿闍世王あり。その性弊悪にしてよく殺戮を行ず。口の四悪、貪・恚・愚痴を具して、その心熾盛なり。乃至 しかるに眷属のために現世の五欲の楽に貪着するがゆえに、父の王辜なきに横に逆害を加す。父を害するに因って、己が心に悔熱を生ず。】(252ページより)

 『苦悩は如来の陣痛である。』とかいう言葉がある。誰の言葉かすっかり忘れたが、真宗仏教の歴史の言葉。

 煩悩は除夜の鐘でなくなる事はない。
 正月というハレの日を迎えるにあたって、煩悩を消し去る必要もない。
 苦悩から逃げたい、イヤな事から逃げだしたい、というのが、年間を通しての日常ではなかろうか。その日常は決してハレの日であっても変わる事などあり得ない。あり得るわけがない。

 都合の悪い事柄から逃げだそうとする、排除しようとする。
 『ハレの場』に相応しい、相応しくない。
 「こういう私はイヤ」
 「ああいう他人はイヤ」
 そんな煩悩が除夜の鐘で『なくなった』という気分の方が危ない。

 煩悩具足の凡夫の自覚。
 煩悩は煩悩である。決して当然の事ではない。
 正月というハレの日の前に、煩悩を忘れるのではなく、煩悩であった事を見つめる。
 他の誰でもなく、私自身の1年間であった事を認める。
 逃げも隠れも出来ない、他の誰でもなく、私自身の1年間であった事を認める。
 罪は罪である。煩悩は煩悩である。
 「みんなやってるし、気にせんでもエエやん」
 ではなく、他の誰でもなく、間違いなく私自身の1年間であった、と。
 それが、どんな1年間であろうと、「この1年間は私の人生の中の掛替えのない1年間であった」と。

疲れが。。。

2008年12月30日 | 坊主の家計簿
 12月30日

 外食  ラーメン       530円
     鴨汁うどん&そば   730円
 雑費  アイス2       182円
     ジュース       105円
     電車         150円
 食類  パン2        215円
     諸々         692円
 
 合計            2604円
 12月累計       139972円

 カプセルでギリギリまで寝る。
 意味なく新世界へ。え~。。。新世界&じゃんじゃん横丁は放っとくと全部串カツ屋になるのと違うか?
 意味なく釜ヶ崎へ。越冬闘争の日程チェック。
 帰宅して、ダラダラ過ごす。

忘年会

2008年12月29日 | 坊主の家計簿
 12月29日

 食類  諸々          574円
 雑費  カプセルホテル    2500円
     スポーツドリンク    150円

 合計             3224円
 12月累計        137368円

 チーム・バリカン(?)の忘年会。
 とりあえず、飲む。飲む。飲む。
 居酒屋→タンガクラブ→『ら』
 気がついたら電車なし。
 カプセルで爆睡。

終わった!!!

2008年12月28日 | 坊主の家計簿
 12月28日

 外食  かけうどん       280円
 雑費  靴2        12915円
     喫茶店         300円
     薬局         1144円
     居酒屋        5558円
     回数券        3700円

 合計            23897円
 12月累計        134144円

 仕事後、所用で外出。
 バーゲンで靴ゲット。
 
 当然、飲む。
 あ~。。。忙しかった。。。後半は鼻血流す毎日やったもんなぁ。。。
 と云う事で、ビールをガブガブ。→寝る→トイレ→寝る→トイレ→寝る→トイレを朝まで繰り返す。
 あ、ちなみに『トイレ』は『吐きに行く』のではなく、純粋におしっこ。

あと1日

2008年12月27日 | 坊主の家計簿
 12月27日

 雑費  缶ミルクティー      120円
     毎日かあさん5      880円
     温泉マッサージ     1000円
     焼肉ビール飯      3633円
 食類  のり弁          290円
 
 合計              5923円
 12月累計         110247円

 学習会。同じ時間にヘンリー松山ライヴ。
 どちらに行こうか仕事中、若干悩む。
 んが、昨日ヘロヘロで遊びに行けなかった人間が、今日になって遊びに、あるいは学習会に行けるわけもなく、両方断念して爆睡と。
 「いかん、いかん、これではいかん」
 と、目覚めてから御近所温泉へ。明日も仕事だし、っちゅうか、明日で終わりなんだが、とりあえず明日仕事出来る体力&気力をなんとか確保せんとアカンし。
 帰りには焼肉ビール飯。
 と云う事でまったりして寝ます。

天空のロストワールド

2008年12月26日 | 坊主の家計簿
 12月26日

 外食  ラーメン         304円
 雑費  散髪          2000円
     タバコ20       6000円
 食類  無添加ワイン       398円
     諸々           622円

 合計              9324円
 12月累計         104324円

 靴、買わなアカンし、街に出ようと思いつつも仮眠。「アカン、アカン、そろそろ起きなアカン」と気合で起きるも「このまま出かけるとヤバいのぉ。。。」と断念。

 っちゅう事で、蒼井優ちゃんが出てた『天空のロストワールド』を見る。当然、録画。
 大変である。蒼井優ちゃんが土人と接触する。「テレビ局は何を考えとるねん。蒼井優ちゃんが生け贄で食べられたらどうするねん!」と若干激怒する。

 と、まあ、これは典型的な差別である。『土人』に対する偏見である。ちなみに『土人』は差別用語であるとは一切認めんが、『土人が人を食べる』っちゅうのは偏見でしかない。
 んが、んが。これが『土人』なら差別だが、え~。。。夜の街の住人はどうやねん。こら、夜回りPTA。答えんかい。貴様ら『夜の街=危険』と、夜の住人に対する偏見&差別しとるが、どんな了見やねん。

 と、まあ、若干激怒するが、なんせ蒼井優ちゃんが出ているので怒りはすぐに収まる。

 番組としては、え~。。。地元の人たちが怖れたりする山に、ヘリコプターで登ったりするのはどんなもんやねん。多分、企画意図としては現代文明に対する警告みたいなもんもあったと思うが、企画意図とやってる事が全然違うんと違うか?
 まあ、蒼井優ちゃんが出てるから文句はないけどやなぁ。。。

クリスマスの恥

2008年12月25日 | 坊主の家計簿
 12月25日

 食類  ペット水小12     600円
     諸々          195円

 合計              795円
 12月累計         95000円

 う~い~。。。
 昨日も夕寝で爆睡、今日も爆睡と。但し、昨日は目覚めたら『深夜1時過ぎ!』っちゅう爆裂的な時間だったのだが、今日は20時過ぎ。
 起きてテレビをつける。チャンネル、ウロチョロ。
 『大食いなでしこが行く!全国“デカ盛り店”ベスト30』っちゅう番組にハマる。

 『デカ盛り』あるいは『テラメシ』とも云ったりもするのだが、ボリューム満点のメシ。ちなみに私は基本少食である。宇都宮まきちゃんの様に回転寿司50皿も食べた事もなく、せいぜい『ラーメン&焼き飯』『ラーメン大盛り』程度である。
 しかし、デカ盛りには夢がある。
 今日の『デカ盛りナンバーワン』に選ばれた店の女将さんは戦中や、その後に台風で被災した時の「食べれなかった」時の苦労があり、それが現在のデカ盛り店の遠因になっているらしい。「お腹いっぱい食べて貰いたい」そういう気持からデカ盛りになっているらしい。

 しゃて、不景気である。なんか「マスコミが煽っている」という評判もあるらしいが、マスコミは広告収入という世の中で一番どうでもエエ事柄で成り立って居るので不景気になると当然困る。だから、この「マスコミが煽っている」という指摘はどうなんだろうか?なんかピント外れの気がするのだが。
 私は、不景気以前に、『もったいない不景気』でもある気がするのだが。え~『MOTTAINAI』か。なんか世界語にして流行させようとしている人達がいるらしく、私も賛成するのだが、『MOTTAINAI』では不景気になる。車は別に5年や、10年で新車に乗り換えなくとも、マメにメンテしてたら充分走るらしい。タクシーの運転手曰く「100万キロでも走る」との事。まあ、タクシーなんぞは年間10万キロぐらい走ってるのだろうし。
 そのしわ寄せが期間工であったり、派遣労働者に行く。っちゅうか、行っている。

 クリスマスである。クリスマスになると「ああ、日本人だ。。。」と思ったりする。ちなみに『日本人』等はいない。国民の象徴は天皇だが、天皇が日本人か?あんな生活をした日本人は珍しい。
 『日本人』は居ない。日本国籍を持っている人達は多くいるが、『日本人』はいない。そんな人は居ない。それぞれの宗教や、それぞれの習俗を持った人達が居ているだけである。また、個々が違う。『日本人の性格』等はあり得ない。っちゅうか、誰にも決めれない。
 が、何か『日本人』として定義つけられる。真宗門徒には真宗門徒の伝統文化があり、『真宗門徒のしるし』が、つまり他の宗教をやっている人達とは違う『しるし』があるにも関わらず、『日本人』として、まあ、『作られた日本国民』としてある。まあ、『長いものには巻かれろ』みたいな感じのヤツなんだが、これが最早『作られた日本人像』でしかない。一向一揆や、法華一揆をやった日本人の伝統もある。
 だが、それ等が忘却されつつあり、クリスマスにはクリスマスを煽る。クリスマスをしなくても別にバチは当らない。が、『恥』であるという様な支配イデオロギーの内面化、っちゅうか、奴隷根性っちゅうか、そういうものを煽る。
 『恥』とは武士道においては重大な事柄なんだろうが、仏教には一切関係ない。プライドなんぞ自我解放の邪魔にしかならない。
 
 自己責任。え~。。。左派系では無茶苦茶評判が悪い言葉なんだが、自己責任がなければどうしょうもないではないか?と私は思う。
 派遣労働者や、期間工員が首を切られたのは、派遣社員や、期間工員の自己責任でしかない。
 経営者や、周囲の人達の責任ではない。単純な話である。経営者や、周囲の人達は困らない。困るのは首を斬られた当事者である。
 こういう自己責任をハッキリさせずに「社会が悪い」等と社会の責任にしてしまうと、当事者の生きる力が奪われる。
 悪いが、経営者や、周囲の人達は困らないのだ。困るのは当事者なのだ。ここで自己責任をハッキリささずに周囲の問題にしていると、労働者は奴隷のままである。
 『日本人』等居ないにも関わらず、漠然として『日本人』に自らを当てはめようとしているのと変わりない。自己がない。
 自分の人生なのだ。他の誰でもなく、自分の人生でしかない。自分の人生は、自分で選んで決めるしかないのだ。

【谷はすべて身を起こし】
 (イザヤ書40ー4より)

【この世の中に貧富の凹凸があるとすれば、いっぱい持っている人が、率先してまず自分の身を削いで貧しい谷間を埋めていく。荒れ地を造成していくときの、盛り上がっているところをブルドーザーで削ってへこんでいるところに持っていって、平にする道理です。しかし、聖書の言葉は、そうではない。逆だと言うんですね。言われてみれば、確かにそうです。世の中甘かないというか、いっぱい持っている人が、進んで貧しい人たちに関心を向けるかというと、これ絶対といっていいくらいあり得ない。絶対といっちゃ言い過ぎですけれども、ほとんど無理。だいたい貧しい人たちに気持がフッと向いている人たちというのは、自分もそこそこかつかつの中でがんばっている人たちが多いです。そして、何はともあれ豊かさの中にいる人に、「お前ら早く気がつけよ」。これは無理な注文なんです。むしろ、現実にしんどいとこに立たされているその人が、しんどさをまず叫んでいけ、訴えていきなさいというのです。足を踏まれてるのなら「痛い」と、踏まれている人がまず声を上げる。】(本田哲郎    『1996年度さけび』37~38ページより)

 クリスマス→除夜の鐘→初詣と、この3回ともに参加する人がどれだけ居ているのかは知らない。
 もし、参加するのであれば、それは「世間がそうだから」ではなく、あくまでも「私が行きたいから」と。
 宗教的には3つはバラバラだが、んな事は関係ない。参加する、参加しないという意志が自分にあるのか、世間にあるのかが問題である。
 参加意志があくまでも『世間』なら、辞めとけばイイだけの話である。恥を怖れる程、恥ずかしい事はない。

 デカ盛り。貧しかった時代。食べるのに困った時代だからデカ盛り。安くて、美味くて、かつ、デカ盛り。
 「いっぱい食べて行ってね」という気持のデカ盛り。貧しかった時代の遺物。その遺物が、遺物ではなくなった。

 声を挙げる。
 「首にするな!」
 「住む所をよこせ!」
 「生活を保障しろ!」
 決して恥ずかしい事ではない。
 『恥を忍ぶ』方が、『武士は食わねど高楊枝』の方が、カッコ付けて、余程恥ずかしい。
 『世間様』を気にして生きる方が、余程恥ずかしい。

【イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。】
 (マタイ12ー9~14)

【ただ仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず】(親鸞)

クリスマスのしきたり

2008年12月24日 | 坊主の家計簿
 12月24日

 食類  諸々        646円
 外食  塩ラーメン     409円

 合計           1054円
 12月累計       94205円

 近所の鳥肉屋の前に行列が。。。
 と云う事で、クリスマスのしきたり。

 1 家族、または恋人と夜を過ごす
 2 ケーキを食べる
 3 鳥肉を喰う

 う~ん。。。
 やはり100年後ぐらいには、これらの事が固定化されて『日本のしきたり』みたいな本に『クリスマス』という項目が出来て書かれるのかなぁ。。。

 1 クリスマスの夜に一人で過ごしているとサンタからバチを与えられる
 2 ケーキを食べないとサンタからバチを与えられる
 3 鳥肉を食べないとサンタからバチを与えられる

 「ったく、やってられないよな。うちの爺ちゃん、毎年12月24日になると『今日はクリスマスだぞ。お前も恋人と泊まる為のホテルを予約したか?レストランを予約したか?ちゃんとしたクリスマスを過ごさないとバチが当たるぞ』とか云って来やがるんだぜ。ったく、抹香臭い話ばかりしやがって」

 と、100年後のガキに云われる事、必須。っちゅうか、『伝統』ってこうやって作られて行くのやし。
 その内にクリスマスになると『一本のフライドチキン』を家族3人でわけあって食べる美談なんぞが作られるのかも知れない。

【「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』】(ヨハネ2の13~16)

『阿弥陀仏の国か、天皇の国か』

2008年12月23日 | 坊主の家計簿
 12月23日

 雑費  居酒屋       3810円
     タバコ3(昨日)   900円
 外食  ちゃんぽん      800円

 合計            5510円
 12月累計        93151円

 所用で外出。っちゅうか、近所やねんけど。御近所居酒屋で「こゆい。。。もっとポップな話を。。。」っちゅう人達と飲み会。

 え~と、今日は天皇誕生日。
 『阿弥陀仏の国か、天皇の国か』という竹中先生の著作のタイトルから感じる事について書こうと思いつつ、ちょっと飲み過ぎた。。。
 徐々に酔いが醒めつつあって、頭が痛いので寝る。

 ♪未来は僕等の手の中



如来の子

2008年12月22日 | 坊主の家計簿
 12月22日

 雑費  缶ミルクティー      120円
     ビデオテープ3      980円
     薬局          4687円
     喫茶店          480円
     居酒屋         3440円

 合計              9707円
 12月累計          87641円

 所用で外出。
 なんだが、その前に本日蒼井優ちゃんが出るテレビがあり、3時間近くらしいので180分のビデオテープを買って来て録画予約。
 んで、外出。なんだが、昨日、足の甲を捻挫してもうて、おもくそ腫れまくっているのでゆっくり準備、ゆっくり行動。試しに走ってみたら、やっぱり痛かった。
 師走なのに。。。これでは全日本仏教会が主催しているマラソン大会に出れないではないか。。。っちゅうか、そんなイベントないけど。 

 ヘロヘロでもあるし、捻挫の事もあるので終電前に帰宅。え~と、電車に乗ったのが22時ジャスト。終電には見られない子連れの夫婦が居てた。多分、3歳ぐらいのガキと、産まれたてホヤホヤ、ん?もう少し経ってるかな?でも、赤ちゃん。
 
 帰宅して廣瀬先生の『誕生を祝う』(東本願寺伝道ブックス23)を読む。

【「生まれること」とは、肉体の誕生することの説明語ではなくて、「生まれる」ということが「生きること」の内容になってこそ、初めて人間の一生は、事実は死に向っての人生であっても、その中身は「生まれる」という事実を一刻一刻と生きていくのである。生命の終わる時まで、「生まれる」という事実を生きていくのである。悲しみがやってくれば、悲しみを通して、悲しまなかった時の自分ではなくて、悲しむ自分に新しく生まれるのであり、辛いことがやってくれば、辛い時がなかった時の自分ではなくて、辛いことを引き受けて生きていくような新しい自分に生まれる。そのように人生とは、生まれていく生なのでしょう。そして生命の終わる時、すなわち、死の瞬間が一番新しい自分になって「生」を全うしていく。そういう人生が、親鸞聖人が教えてくださった「往生」ということの本来の意味なのだと思います。】(『誕生を祝う』68ページより)

 子連れの夫婦は『お父さん』『お母さん』。子どもが出来た事によって『お父さん』『お母さん』として新しく生まれる。

 親子。子は親の『供え物』ではない。故に『子供』という漢字はおかしい。

【子どもである前に一人の人間であるということ、どんな人も一人の人間である。その人間にもの申す、語りかける。それを忘れたところでは、決してほんとうのつながりはない】(宮城先生『他人さえもいとおしく』30ページより)

【子育ての最終地点は、この子が、この子に成ってくれればいいのだ。この子がこの子で在ってくれればよかったのだ。そうだった、そうだった、と思いがここに至ったときにのみ、親である私の意見を引っ込めることができたし、子どもの言い分に耳を傾けることができて、一つ一つの山を乗り越えてきたのです。】(渡辺尚子『あなたは、あなたに成ればいい』196ページより)

【初子として、親を育てる役割を一番重く荷負った陽子は、今、私の手元から飛び立とうとしています。
 「陽子、あなたは、陽子になればいい」
 それが私の願いです。
 そして、私をお母さんに育ててくれて、ありがとう。】(渡辺尚子『あなたは、あなたに成ればいい』68ページより)

 夫婦は、子が出来る事によって『お父さん』『お母さん』になれる。
 でも、その前に、連れ合いが居てる事によって『お父さん』『お母さん』に成れる。
 子も、連れ合いも、有り難い事である。
 同時にそれは、個人を取り巻くすべての環境があるが故である。決して『家系』という限定された環境ではなく、『日本』という限定された環境ではなく、『人間』という限定された環境ではない。全ての生命あるものも、生命なきものも含めた『いのち』と呼ばれるものがあるが故である。
 関係存在を生きている。決して無駄なものなどあり得ない。何一つ欠けても今の現実はあり得ない。

 私一人だけの幸福なら、親子も夫婦も成り立たない。
 同じく、夫婦、親子だけの幸福ならば、つまり「他所はどうでもエエ」なら、常に『家』の塀を高くする事を考えなければならない。

【今後あなた方がお二人によって作られる家が、いかなるものに向っても等しく開放され、いかなるものをも歓んで迎え容れるというような、そんな広やかな、そんな温かい、そんな文字通りの「如来の家」として新しく創り出されるであろうことを、私は学院に学ばれたお二人の上に、秘かに期待しないではいられぬからなのです。】(信国淳『一蓮托生の生活』より)

 『如来の家』に産まれる『如来の子』。親子共に『如来の子』。

「思てたんと違う!」(by西田)

2008年12月21日 | 坊主の家計簿
 12月21日

 食類  発泡酒12      996円
     諸々        1329円
 
 合計            2325円
 12月累計        77934円

 大変である。うちのパソコンでネットを立ち上げるとニフティーのホームページが勝手に出て来るのだが、なんと、なんと、宇都宮まきちゃんの顔がいきなり出て来た。スゲー。。。まきちゃん、人気もんやんけ。。。ニフティーって、関西ローカルとちゃうもんな。全国区やもんな。ん?関西人向けに設定しているのか?よう知らんが。
 ちなみにこんな記事
 http://sports.nifty.com/cs/headline/details/et-sp-kfuln20081221006011/1.htm

 しゃて、M-1である。18時から近所で通夜だったので、19時過ぎから見始める。丁度、笑い飯の途中。
 優勝はNONSTYLEだった。確か『まなかな』一押しの漫才コンビだったはず。で、『まなかな』と宇都宮まきちゃんは同じ高校の先輩後輩になるのか。ダブってないけど。
 当然、まきちゃんが先輩で、後輩の『まなかな』の方が先に売れた、っちゅうか、あの2人はガキの頃からの有名人か。。。
 しかし、今に見てろよ。まきちゃんだって全国区になり、今回の本が売れればワニブックスから写真集も出るらしいのだ(http://utsunomiyamaki.laff.jp/blog/2008/12/post-e333.html)。
 今に見てろよ、まなかな。お前等の売りは双子だけやろ。まきちゃんなんぞ、『貧乏』と『大食い』っちゅう二枚看板があるねんぞ。

 しゃて、M-1である。
 笑い飯の西田が、消えて行く時に
 「思てたんと違う!」
 と言い残して消えて行った。今日のM-1で一番笑たシーンである。

 と、ここから「思てたんと違う!」と云う西田の言葉から諸々書こうと思てたんだが、『宇都宮まきちゃんが全国ネットのネットのトップページ写真が出た!』と云う「思てたんと違う!」という出来事があり、よって「思てたんと違う!」と云う道を選択せざる得なくなり、しかも、M-1見ながら6本498円と云う激安発泡酒を飲んでたので、この時間になると結構酔っぱらって来てるし、かつ、しんどく、「思てたんと違う!」と云う事に対して書けない状態に陥ってしまってて、これもまあ、「思てたんと違う!」と云う事である。
 そして、私の人生は「思てたんと違う!」の連続であり、きっとこれからも「思てたんと違う!」と何度言わなければならないのか?と、西田の「思てたんと違う!」という言葉を聞いて思ったりもするのだが、それ以前に私は「思てたんと違う!」と云う酔っぱらい状態に陥っており、ああ、「思てたんと違う!」「思てたんと違う!」「思てたんと違う!」と、とりあえず3回ぐらいコピペして寝ようかと思う。

 ちなみに真宗門徒は、この「思てたんと違う!」と云う時に「南無阿弥陀仏」と云ったりもする。
 きっと西田が熱心な真宗門徒であったのなら、
 「ああ、有り難や、有り難や。また今日も私の小ささ、私が如何に自分の思いの中だけに生きていたのかという事に気づかせて頂きました。有り難や、有り難や、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
 と云っていたと思うのだが、残念ながら西田は熱心な真宗門徒ではないのだろうし、私もまた熱心な真宗門徒ではないので、ああいう場面では「思てたんと違う!」と云う事間違いなしである。
  
 そして、西田は知らんが、私なら、その「思てたんと違う!」と云う場合に、自分の『思い』を間違いとするのでなく、「審査員が悪いんや」とか、「相方が悪かった」と、決して「私が悪かった」とは言えないし、思えない。
 「思てたんと違う!」という場合には必ず、私の思いを立てるのだ。それが『私の思い』っちゅうヤツの正体であり、他に『私の思い』なんぞはない。
 『私の思い』っちゅうヤツは絶対に常に『私の思い』っちゅうヤツを立てる。常に『私の思い』が先にある。
 故に、私自身が『私の思い』とかけ離れた存在であれば、『私の思い』は私自身を裁く。徹底的に斬り裁く。まあ、いわゆる『落ち込む』っちゅうやつやね。
 私の今が『私の思い』に適えば喜び、私の今が『私の思い』に適わなければ落ち込む。
 他人が『私の思い』にとって都合が良ければ『良い人』であり、他人が『私の思い』にとって都合が悪ければ『悪い人』である。
 それだけの話でしかない。
 そして、そこから逃れられるとは思えない。つまり、煩悩がなくなり、解脱する事などはあり得ない。

 「思てたんと違う!」
 と、常に、『私の思い』に支配されている。喜怒哀楽や、良い人・悪い人。それが当然になっている。『私の思い』が当然な顔をしている。
 その事は愚かである。間違っている。煩悩は煩悩でしかない。

 「思てたんと違う!」
 を『苦』と云う。
 「こんな私なんて。。。」
 「あいつは悪いヤツだ!」
 等と、私はすぐに斬り裁く。『私の思い』に適うかどうかで私や他人を斬り裁く。斬り裁き続けている。
 他でもない私が地獄を作り出し続けているにも関わらず、全く、その事が罪であるとは思ってもいない。
 
 『私の思い』は常に私が正しい。
 私が正しく、決して『私に罪がある』とは思えない。その事は破滅への道である。

 常に選び、キライ、見捨てるのが『私の思い』
 それは『苦』でしかない。
 だから、
 
 『そこに人が居られる』(by中川先生)

 と。

爆睡中

2008年12月20日 | 坊主の家計簿
 12月20日

 雑費  缶ミルクティー       120円
 外食  焼肉ビールメシ      2240円

 合計               2360円
 12月累計           75609円

 仕事終わって、
 
 ♪ホルモン ホルモン

 と、焼き肉屋へ。ビールも飲んで白飯も食べて、帰宅後爆睡。

 とりあえず深夜(っちゅうか、早朝)に眼が覚めてます。
 シャワーも浴びたし、歯磨きして寝よ。

水曜日は水アカを落とす日

2008年12月19日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 12月19日

 外食  ちくわ天蕎麦       326円
 雑費  缶ミルクティー      120円
     薬局          1324円
     ジャケット       3990円
 食類  諸々          1014円

 合計              6774円
 12月累計          73249円

 そろそろ、『ド』が付く程疲れて来たのぉ。。。
 20、21、22、23、24、25、26、27、28
 と、後9日か。。。

 と云う事で、今日もバタバタ御仕事終わった後はダラダラと『GOD HANDS』とかいう手品番組を見る。
 手品も凄かったのだが、途中やってたCMで『水曜日は水アカを落とす日』という衝撃の事実を知る。しかも、「何故水曜日なのか?」と云う事に対して「キンチョウが勝手に決めました」というコメントが。
 http://www.suiyoubihamizuakawootosuhi.com/
 素晴らしい、素晴らしいぞ。

 今日、2008年12月19日は友引らしい。
 これも水アカを落とす日と同じく誰かが勝手に決めたのだろう。
 仕事中に墓の相談で「墓には長男しか入ったらアカンと聞いてんけど」と云う話を聞いたのだが、あれも水アカを落とす日と同じ誰かが勝手に決めたのだろう。
 こういう会話に対する答えなんぞはなく、その時のケースで諸々喋ったりしているのだが一番よくいうのは「根拠を示せ」という事である。
 「そんな事を云う人には『根拠を示せ!』って云ってやったらエエですやん」と。
 当然、根拠なんぞない。水アカを落とす日と同じく誰かが勝手に決めただけの事である。

 しゃて、『水曜日は水アカを落とす日』という事については「キンチョウが勝手に決めました」と。これが2008年である。
 しかーし、100年後には『キンチョウが勝手に決めました』と云う事が忘れ去られ、そして「水曜日は水アカを落とす日」と云う事だけが固定化されるかも知れない。
 
 「ちょっと、奥さん、聞いてえや。今度来たウチのヨメ。水曜日に水アカを落とせへんねんで」
 「うそ!ホンマ?ほんまに最近の若い子は教育がなってないし、世間知らずで困るわ」

 女性の役割を固定化しているが、え~。。。その辺、御了承を。文句があるのなら何時でも受けて立つ。
 
 もとい。
 上記のオバはん2人の会話は当然架空であるが、似た様な話は幾らでもある。

 「最近の若いヤツ等は『チャペル』とかいうバテレンの寺で結婚式をしとるが、日本人は昔から神社で結婚式をすると決まっているのだ」

 神社で結婚式が行われるようになったのは、1897年(明治30年)に東京日比谷大神宮で行われたのが公式には初めてらしい。
 1879年(明治12年)に新潟であったらしいが、非常に珍しかったらしく新聞記事にもなっているらしい。
 まあ、神社での結婚式っちゅうても、100年ちょいである。100年ちょいで「昔から」もクソもない。単に時代の流れについていけない年寄りが戯言をヌカして、「最近の若いヤツ等は」(意訳 私は正しい)にしか過ぎない。世間知らずは「昔はこうだった」というたかが100年ぐらいの歴史を誇りたがる年寄りの方である。
 つまり、

 「なあ、聞いてえや。うちの爺ちゃんが「日本人の結婚式は昔から神社と決まっとる」とかイイよんねんやんか」
 「うそ?マジで?ほんま、年寄りは世間知らずやなぁ。。。」

 である。

 ちなみに仏前結婚式は1893年(明治26年)に本願寺派の藤井宣正が東京白蓮社会堂でしたのが初めてだと云われている。

 それまでは『結婚式』なんぞなかったのだ。単にキリスト教の影響を受けて作ったにしか過ぎない。

 で、ここからはまだ調べてないので勝手な想像で書くのだが、キリスト教の人達が神の御前で結婚を誓うように、日本では『天皇』でなかったのか。当時は神道国家であり、天皇は神であった。
 それまでの結婚なんぞはエエ加減なもんだったはずである。『結婚式』なんぞでは当然なく、また、床の間がある部屋での杯事なんぞも、床の間がない家では無理である。また、『結婚』という概念も今とは違うし。
 そういうかなりエエ加減な『結婚』っちゅうか、まあ、『夫婦』になる、っちゅう事をそれぞれの神社を通して天皇に誓う、みたいな働きがあったのが『神前結婚式』でなかったのか?と勝手に想像する。
 
 ちなみに神社での結婚式が少々広まったきっかけは1900年(明治33年)大正天皇(当時は皇太子)に神前結婚式をした事かららしい。

 『水曜日は水アカを落とす日』であるとキンチョウが勝手に決めたらしい。
 三三九度は小笠原流が勝手に決めたらしい。
 誰かが勝手に決めた事に対して無条件に受け入れてしまう、「昔からそうだった」「世間ではそうである」等という人を奴隷と云う。自己責任のない奴隷にしか過ぎない。
 世間知らずであるが故に、世間に魂を売り渡した奴隷にしか過ぎない。
 当然、生きていて面白いわけがない。言葉を言い換えよう。もっと面白い世界がある。世界はデカイのだ。限りなくデカイのだ。狭い檻の中に閉じ込められた奴隷が楽しいわけがない。


 

木曜日

2008年12月18日 | 坊主の家計簿
 12月18日

 雑費  ミルクティー         120円
     レモンティー(昨日)     120円
 外食  ちゃんぽん          660円
 食類  ペット水小12        600円
     黒霧島&発泡酒       1765円
     諸々             426円

 合計                3691円
 12月累計            66475円

 結構バタバタしてます。

 皆さん、知ってますか?今日は木曜日だったんですよ。明日は金曜日でゴミの日ですよ(うちの地域)。
 
 木曜日なので御近所温泉が休み。
 ゆっくり湯船に浸かりたかったのだが、断念。

哀しい味

2008年12月17日 | 坊主の家計簿
 12月17日

 外食  回転寿司        609円
 食類  諸々          500円

 合計             1109円
 12月累計         62784円

 昨日、終電で帰宅して本願寺派の仏前結婚式を少し調べてからさっさと寝たのだが、え~。。。今日も体が重い。
 つーか、最近、外食か、弁当&惣菜の生活やもんなぁ。。。青汁や、サプリメントを飲んだりしてるねんけど、ちゃんとメシ作らんと悪循環やのぉ。。。

 
 http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00146015.html
 http://www.asahi.com/national/update/1216/OSK200812160077.html


 近所の兄ちゃんが、近所のコンビニで強盗未遂をして逮捕されたらしい。
 派遣の仕事がなくなって、金が無いからしばらく水ばかり飲んで生活してたらしい。
 逮捕される事によって、久しぶりにメシが食べれたと思う。
 久しぶりだったから、何を食べたかは知らないが、多分、美味しかったと思う。

 何を食べたかは知らない。
 でも、その味を私は『哀しい味』と呼びたくなる。
 本人はどうだったのかは知らない。久しぶりの食事だったから、やはり美味しかっただろう。
 でも、私の偏見色眼鏡では、やはり哀しい味と呼びたい。
 御本人には迷惑極まりない、殴られるかも知れない話だが、私は哀しい味であると言いたい。

 『己が身をひきくらべて』という釈尊の言葉がある。

【すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。】(ダンマパダ・129)

【すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。】(ダンマパダ・130)

 哀しい味は食べたくない、食べさしたくない。