坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

静かに暮らし生きる権利(ヴィクトル・ハラ)

2006年07月31日 | 坊主の家計簿
 7月31日
 
 楽々   温泉            600円
      プール           200円
      マッサージ機        500円 
 衣料   Tシャツ3          990円
      ドライメッシュT      1000円
 食料   豚肉            300円
      焼そば麺2          36円
      野菜ジュース4       709円
 外食   焼き肉晩飯ビール     3077円
 雑費   夕刊フジ          120円
 
 合計        7532円
 7月合計    108802円

 月末やけど、毎度同じく奨学金返済を前倒ししているので明日郵便局で振り込んでから。

 と云う事で、公文の課題をやって「全然気合いが入ってまへんなぁ。。。」と、自分の字を見て思う。まあ、しばらくサボってたし、しゃーないか。地味に練習やな。

 終わって夕方から近所の温泉へ。今日はこの間知った『水着を持って行けば200円プラスでプールに入れる』と云う事でプール三昧。結構泳げるもんやな。

 そういや、昨日観てたブログである坊さんが「今日は年に何度あるか解らない忙しい日だった」って書いてあったんだが、思わず「そんなもん日常茶飯事じゃ!」と突っ込みを入れようとしたんだが、まあ、寺によって違うし。
 ん?話が。。。
 そや、結構体力ついて来たなぁ~、と我ながら関心してたわけだ。しかし、脂肪もついて来たので潜水がしにくい。。。

 温泉を出て、毎度の焼き肉屋へ。
 活字を求めてコンビニに行く。店を出たら中学生が「帰ってメシ喰って風呂入ってあいのり観て寝て、明日、朝起きて。。。平凡でつまらんなぁ~」

 「平凡のどこが悪いねん、こら。」
 と、心が呟いたのだが、冷静に考えると中学生時代は平凡なんてイヤでイヤで仕方がなかったなぁ。
 それは高校に入っても続いていたし、思春期真っ盛りだったし、管理教育なんていまだに吐き気が出そうなくらいキライだったし、そのくせ色んな問題意識で爆発しそうやったし、「お前等、バイクに夜乗ってて虫がぶつかって来て殺してしまう事になんも感じんのか?」とか言い出すと学校が増々おもろなくなって来て、中退→家出と云う黄金パターンで『平凡』から抜け出たのだが、結局、刺激に溢れる生活・仕事でも毎日やってたら『平凡』なもんでっせ。
 家出して、バイトで貯めた金で旅暮らししてたけど、毎日旅暮らしならそれが『平凡』でっせ。

 今はそんな『平凡』な暮らしが好きで好きでたまらない。
 んが、当然そんな『平凡』な暮らしを守る為には結構色々やらんとあかんかったりする。いきなりミサイル撃ち込まれたら終わりやし、この国の外交が気になる。
 焼き肉は好きやけど、一番安全な(安い中では)牛肉であるオーストラリアの肉もアメリカ牛肉の解禁でどうなるか解らない。日本の牛肉は抗生物質で信用ならんし。
 街に出たら、「やってられるか!」の人達も沢山居てるし、私の『平凡』が揺さぶられるし。
 「旅行に行くならハワイやで。だってハワイにはホームレスが居てないし、貧乏な人もみかけん」と云ってた人が居て、その時も議論したはずやけど先住民族の問題もあるし。
 教団には教団の責任もあるし、諸々の差別問題も世界中にあるわけやし、イスラエルのクソボケが暴れとるわけやし、虐殺されとるわけやし、あれかって眼には見えへんけど『眼の前』で起ってるわけやし。

 『平凡』っちゅうのは結構大変でっせ。
 牛かって、雑草かって平凡に生きたいだけでっせ(多分。。。)

けんのみ

2006年07月30日 | 坊主の家計簿
 7月30日
 
 雑費     缶コーヒー         120円
        タバコ3          900円
        エスカップ12       628円
        トクホン          598円
 外食     唐揚げラーメンライス    820円
 レンタル屋  8 Mile           180円

 合計        3246円
 7月累計    101270円

 明日休みなんだが、2日に学習会で外出やし、次の休みは夏休み(16日から)までないので体力気力回復日。
 とは云え、去年の夏よりだいぶマシやな。同じ位の気温でも、体が慣れたっちゅうか、要するにこのクソ暑い日中に4枚も重ね着するという、坊主になる前はこんなに大変やと思わなかったクソ暑い衣装に身を包んでいるわけだが、だいぶ体が慣れて来たみたいなや。オバちゃん等がシャツ1枚で汗流してても、こっちは結構平気やったりするし。っちゅうか、夏の間に汗を散々流して体重を2キロぐらいしぼりたい野望もあるのだが。。。

 と云う事で、近所のラーメン屋で晩飯喰って、帰りにDVDを借りて観てた。明日は公文の課題をやらんとあかんし、レンタルは1枚のみ。

 8 Mile
 なんか精神病系のサスペンスを探してたんだが、興味をひかれるのはほぼ観てしまったみたいなので、これに決定。

 黒人音楽をあまり聴かないのでラップとかヒップホップっちゅうのは苦手ジャンル。なので、この映画を観ても変わらず興味なし。んが、ヒップホップの舞台になる世界(デトロイトらしい)が「ファック!」「ビッチ!」の連発の世界で、要するに「アホボケカス!しまいには殺すぞ!」の大阪と変わらん事が判明。
 そういえば、昔の大阪を舞台にした映画でも、そんな喧嘩のシーンがあった気がするのだが。。。

 歯磨きして寝よ。

『子供』は純粋である

2006年07月29日 | 坊主の家計簿
 7月29日

 食類等     ミネラル水6         414円
         パスタ1.4×2         194円
         リングイネ2         176円
         レモン果汁          228円
         ちくわ             59円
         納豆3×2          136円
         わかめ            100円
 レンタル屋   GO!GO! 7188『蛇足歩行』  300円
         GO!GO! 7188『とのさまツアー』300円

 合計            1907円 
 7月累計         98024円

 そうか、『ジェットにんぢん』とは『ジッタリン・ジン』やったんか。。。コンビニ以外で初めて聴いて初めて解った。
 と云う事で、バテバテなのでビート注入。最近お気に入りのGO!GO! 7188のライヴDVDを買おうかどうか悩んでいたのだが、とりあえずレンタル屋で借りる。エエ感じやなぁ~。ついでに初スタジオ版CDを借りたのだが、「一発録音でっか?」みたいな感じでエエ感じ。ライヴ版聴いてるみたい。

 
 「子どもは純粋である」=「純粋でない子どもは『子どもらしく』ない」
 「日本の子どもは最近すれてきた。それに比べてアジアやアフリカなどの発展途上国の子ども達の眼はキラキラしている」

 これを例えば『女』に代えてみる。

 「女は優しい」=「優しくない女は『女らしく』ない」
 「最近の日本の女はすれてきた。それに比べてアジアやアフリカなどの発展途上国の女達はまだ優しさを残している」
 
 「女は気配りが上手である」=「気配り出来ない女は『女らしく』ない」
 「最近の日本の女はすれてきた。それに比べてアジアやアフリカなどの発展途上国の女達はまだ優しさを残している」

 「女はかわいい」=「かわゆくない女は『女らしく』ない」
 「最近の日本の女はすれてきた。それに比べてアジアやアフリカなどの発展途上国の女達はまだかわゆさを残している」
 
 「女は奥ゆかしい」=「奥ゆかしくない女は『女らしく』ない」
 「最近の日本の女はすれてきた。それに比べてアジアやアフリカなどの発展途上国の女達はまだ奥ゆかしさを残している」

 まあ、『子どもは純粋だ』なんて、そんなもんやろう。
 男達、あるいは『大人』『長老』等から押し付けられて来た価値観に悲鳴を上げる。そういう声はよく聞く。当然子どもも悲鳴を上げている。ただ、あいつらは基本的に言語で伝える手段にまだ慣れていない。故に暴れたりする。

 でも、『女』でも、『男』でも、『子ども』でも同じではないのか?そんな固定化された偏見を押し付けられるのは『苦』でしかなく、「本当の私を見て」「本当の私を愛して」と。

 「お母さん、お父さん。僕は本当は純粋なんかじゃないんだ。でもお母さんや、お父さんが僕に純粋さを求めるから僕は演技してただけなんだ。でも、僕はもういっぱいいっぱいなんだ。だから僕は僕として生きる。決して『子供』としてなんか生きたくないんだ。僕は僕として生きたいんだ。」
 「だって、僕、お母さんや、お父さんの事が大好きだし。大好きな人の前で嘘なんかついて生きたくないんだ」
 「だから僕、純粋なんかじゃないんだ。『子供は純粋だ』なんて決めつけないで。」


 抑圧の悪循環。
 『子ども』あるいは『発展途上国』と云うキーワード。
 要するに『先進国』に生きる『大人』である『私』は、ドロドロに汚れていて穢くって大嫌い。

 ♪全身恥部 全身恥部
  体の一部が恥部じゃない
  私は全部恥部なんだ
  (http://www.youtube.com/watch?v=7OyYiI4PMRk&NR

 罪悪深重煩悩具足のわれら


 押しつけの価値観での『子供』は純粋である。純粋である存在を『子供』と云う。
 それは現実の生身の存在の『子ども』とは別の存在である。
 頭の中の理想の『子供』を、現実の生身の『子ども』に押し付ける事は暴力以外のなにものでもない。
 そんな暴力を振るう人達が、要するに『子どもは純粋だ』という暴力を振るう人が『優しい』わけがない。たんに自分が嫌いなだけだろう。

国際指名手配を受けている逃亡教祖はカツラではないのか?

2006年07月28日 | 坊主の家計簿
 7月28日

 食類    鯖寿司      200円
       ゴーヤ2     150円
       甘長唐辛子    130円

 合計          480円
 7月累計      96117円

 なんか、最近野菜の摂取量が減っているので、今日はお野菜の日。

 昨日のワイドショーで気になったニュースがあって、諸々検索したのだが、ネットではなかったので、昨日買った週刊文春より
 【小学六年生の書道の時間にはクラスメートが「夢」と書く中、ひとりだけ「内蔵破裂」と恐ろしい言葉を書いたこともある。】(週刊文春8月3日号165ページより)
 ちなみに『http://www.nikkansports.com/general/p-gn-tp0-20060725-65516.html』のニュースのガキ。

 え~、『子どもは純粋だ』と云う妄想の弊害。
 ちなみに弊害はもっと多くあるんだろう。例えば子どもの中に純粋でない心が芽生えたとする。例えば「ねたみ、うらみ、そねみ」の心などが自分の心にもあると感じた子どもは『子どもは純粋である』という妄想の世の中で心優しき人達がそう云っているのだし、『子どもは純粋でなければならない→私はそうではない』や、あるいは『純粋のふりをする』。まあ、心綺麗なお人方の妄想で苦しめられる子どもか。まあ、ええ加減にそういう妄想を持った人達はそれがあくまで妄想にしか過ぎないと云う事に気づいて頂きたいのだが、いかんせん『心優しき人』が気づくわけもない。社会の善を一身に背負われた方々が気づこうとするわけがない。

 あ、話が。。。
 『内臓破裂』う~ん、私がもし少年の学校の書道担任なら朱色で『陰茎爆竹』と書いて、「フッフッフッフ。。。君はまだ修行が足らん」と勝ち誇った笑いを少年に見せるだろう。
 しかし、課題がもし『夢』と書きなさいならともかく、「それぞれ好きな文字を書いて良い」という授業内容でなら『夢』と書くのも自由だし、『内臓破裂』と書くのも自由だろうが。
 それとも、なにか?純粋な子どもは『夢』や『青空』等と書かなければならないのか?あるいは『笑顔』とか、そういう健康的なイメージを書かなければならないのか?あるいは『憂国』とか、『万世一系』とか、『天皇陛下万歳』とか、『人工授精』とか書かなければならないのか?
 狭い世の中や。。。そら学級崩壊する方が自然であって、学級崩壊しない方が恐ろしい。

 とは云え、世の中のメインストリートは『よゐこ社会』であって、決して『内蔵破裂』と書くガキには居心地がよくないだろう。しかも『子どもは純粋でならなければならない』という心優しき人達の押しつけによって『内蔵破裂』のガキはよりいっそう居場所をなくして行く。→同級生から「あの子、子どものクセに純粋じゃないのよ」と除け者にされる。ついでに夜回り先生から「彼は腐っているのでなく、腐らされたのだ」等と云われて、心優しきファシストの皆様方も納得して、「そうだ、彼は『腐っている』のでなく、『腐らされた』のだ」と、その偏見で腐った脳味噌にプラスして「私達が救ってあげなければ!」とますます美しさに磨きがかかりドモホルンリンクルを顔に塗りたくる様な美しき人の誕生。
 己の醜悪さを隠す為に『特に子ども』を憐れみ悲しむ人の誕生。

 もう18年ぐらい前だろうか?当時世話になってた高校教師でもある兄ちゃんから、「今日、学校で『子供』が差別用語だと教わった」と聞いてから、一応『子供』でなく、『子ども』と注意している気ではある。しかし、漢字を『子供』から『子ども』にしても、
 『腐らされた生徒はいるけど、腐った生徒なんていない』の生徒を『子ども』に置き換えてみても同じなんだろうし置き換えてみると『腐らされた子どもはいるけど、腐った子どもなんていない』や、
 『子どもは純粋だ』にしても、変わらず『子供』のまんま。利用されまくり。

 と、38にもなって変わらずガキの頃に受けた管理教育を敵対視する私の意見。
 んが、別に学者さんじゃないのでこういう(https://www.nanzanopen.com/sensei/individual/036.html研究はしないが。でも大切な研究やな。インテリの学者としてちゃんと前提を問う仕事をしてはるし。

 私の『子ども観』の基本はあくまでも『一人の人間』として尊重して、その人間には当然個別差、能力差があるんだから、その個別差、能力差でみればいいだけなんだが。。。

同塵

2006年07月27日 | 坊主の家計簿
 7月27日

 雑費   缶コーヒー           120円
      週刊文春            320円
      温泉              600円
      マッサージ機          100円
      煙草              300円
      市民税           16000円
      青草人の会年会費       5000円
      東西本願寺の会カンパ     5000円
      真宗年間購読         3000円
 外食   焼き肉ビール飯        3024円

 合計          33464円
 7月累計        95637円

 昨日の野望、温泉へ。&風呂上がりに焼き肉屋で晩飯&晩酌。
 途中、コンビニに寄って週刊誌を買う。今回は巻頭特集が気に入ったので(っちゅうか、あんまり週刊誌が置いてなかったし)週刊文春。
 巻頭特集は天皇の靖国発言。諸々、興味深く読む。

 思うのだが、『A級戦犯分祀』ちゅうのは、新たな靖国の始まりやねんな。
 それは別にA級戦犯分祀によって禊ぎを済ませ、天皇の靖国参拝を認めるだけでなく、A級戦犯以外は戦争の犠牲者でしかなかったと。

 青少年犯罪が起った時によく語られる心優しき人達のコメントで
 「子どもは純粋な存在です。ですから、そんな純粋な子ども達が犯罪を犯したと云う事は、周囲の大人達が悪いのです。そういう社会環境を作り出して来た私達大人に責任があるのです。」
 こういうコメントをする人達は、青少年時代に犯罪行為を犯した事がないのだろうか?社会や学校、親、大人達に疑問を感じつつもそのまま学校生活、青少年時代を過ごしたのだろうか?あるいは全くのよゐこで社会や学校、親、大人達に反抗心も疑問も感じなかったのだろうか?あるいはすっかり『大人の心』になってしまって、青少年時代の悔しさを忘却してしまったのだろうか?
 「自分の人生は自分で決めてもよい」と云う事は私が凄く嬉しかった事である。私の人生なんだから、私の人生の中での事は私が責任を取れる。それは社会や学校、親、大人達等に奪われていた『と思い込んで居た』私の人生の回復。
 よって、
 「子どもは純粋な存在です。ですから、そんな純粋な子ども達が犯罪を犯したと云う事は、周囲の大人達が悪いのです。そういう社会環境を作り出して来た私達大人に責任があるのです。」
 等と云うコメントは私にとっては外道のコメントとしか思えない。
 当然、そういう『世』を作り出して来た私にも責任はある。しかし、まずは本人、つまり青少年犯罪者の『個』の確立を私は当然優先する。

 A級戦犯分祀によって、他の靖国に祀られている人達は単なる戦争犠牲者になる。確かに犠牲者でもある。しかし、戦争に彼らが戦争に行ったと云う彼らの人生を否定するつもりはない。
 多くの戦争に行って生き残った人達が戦争反対を叫んで居る。それは「戦争に行った」という責任から来ているものだと私は感じる。また、戦争を体験した人しかり。彼らには彼らなりのたった一度きりの人生があり、戦争体験を否定する事は彼らにとって彼らの一時期の人生を「間違って居た」と懺悔であり、その懺悔が故の「戦争は二度としたらあかん」なんだろう。
 あるいは強制連行・従軍慰安婦。彼らも同じ。彼らの人生がたった一度きりの人生だからこそ叫ばずには居られなかったのではないのか?
 
 そういう『個』を無視する、たった一度の人生を否定していく様な発想・思想は真っ向批判する。

 週刊文春なんぞ滅多に読まないが、元ヤンキー先生の義家氏も連載してたのね。
 【人が人に対して『キモチワルイ』なんて言っていいはずがないだろう。バカ、アホならまだシャレで通じる。でも、相手に対して『キモチワルイ』、それは最も相手を侮辱する言葉だ!】(週刊文春8月3日号98ページより)

 珍しく意見があう。但し今回の連載の結論には同意出来ないが、この言葉は同意する。んが、私は『キモチワルイ』とシャレや皮肉を込めて使うが。
 しかし、義家氏が云うように相手を大真面目に侮辱する言葉は許せない。

 【腐らされた生徒はいるけど、腐った生徒なんていない】(月刊同朋2005年9月号の水谷修氏へのインタビュー記事より)
 この言葉は、単なるインタビュー記事だけでなく、月刊同朋記事内の見出しの一つになっている。
 『腐っている人間』或いは『腐らされた人間』とはどういう人間なんだろうか?
 例えば水谷氏はやたらと『夜の世界』『薬物』などと云うが、例えば夜の世界の住人、あるいはジャンキーが「私は腐っています。ですから助けて下さい」なら解る。本人自身が「私は腐っています」と云ってるんだから。
 しかし、夜の世界の住人あるいは、ジャンキーが水谷氏の月刊同朋2005年9月号のインタビュー記事を読んだら激怒するだろう。いや、「だって坊さんの世界の雑誌だろ。そんなの健全で当たり前じゃん!」で済むか(笑)まあ、誰も期待してないわな(爆)当然、『人それぞれ』だが。私は水谷氏のような偏見でもって生身の人間を決めつけようとする事は思想信条にあわんし、宗教的にも反する。
 
 義家氏が『キモチワルイ』と云う発言にキレたように、私も『腐らされた』と云う言葉にキレている。
 また、水谷氏が『腐らされた』と云う表現方法を取るのを青少年に限定しても同じだ。私はその『腐らされた』人間だったし、周りにも沢山居たし、また『大人』と呼ばれる年齢になっても同じである。水谷氏が『腐らされた生徒』と呼ぶ高校生との付き合いもあったし、よって『腐らされた生徒』等と云う言葉は差別発言以前の人間が人間に対して言ってはいけない言葉だと感じる。

 しかし、そういうコメントを見出しの一つにまでして、ついでに
 【水谷さんは決して善人の立場に立たない。善に立っていることに無自覚な現代の風潮が、子どもたちの問題をはじめ、あらゆることの根本にあることを改めて教えられた。】(月刊同朋2005年9月号25ページより)
 等と『インタビューを終えて』の感想にする感性が私には全く解らない。前提を問え!

 と云う事で、月刊同朋は今年限りで購読辞め。頭が痛い文章なんぞこれ以上読む気にならん。しかも別に『教化費』等の名目で必要経費として落とせるわけもない。自腹を切って読むにはもったいない。っちゅうか、怒りが収まらんかったら購読するだろうが、今は読む気にもならん。

 どうも大谷派教団は『エリート路線』に向かっている気がする。
 私は高倉会館で(確か)水俣の漁師の話や、反戦運動家・彫刻家の話を聞きにいけなくて残念だと思う。それは『世のいのり』なんだろうし、非常に聞きたかった。しかし、水谷氏の立場は廃悪修善なんだろうし、それ以上に非常に怖い『健全思想』『優生思想』の臭いがプンプンして仕方がない。
 しかし、当然『エリート路線』では受け入れられるんだろう。『悪人』と呼ばれた事のない人達の間では受け入れやすいのかもしれないし。
 また、当然の如く伝統教団真宗大谷派で反モラル的な事を期待する私が間違っているのだろう。当然、そうでない先輩達に出会って感動して真宗大谷派教団に入ったのだが。。。
 
 また同様にこれはほんのごく一部なんだろうが、「行動しないとダメ!」、解りやすく云うと「社会運動に関わらないとダメ!」みたいな風潮にも危惧する。
 
 部屋掃除してたらこんな事が書いてあったチラシが出て来た。
【現在、日本国内に見ても、世界的に見ても、歴史的に見ても大変な時代転換の時に向かっております。そういう時に、ここにこうして会合した我々一人ひとりがですね、真宗門徒としての信心に生きるということが、要求されておるんでしょう。必ずしも、本当の信心をいただいたら、黙っとるわけにはいかん、何か行動にあわらされないかん、ということを皆言いますけれども、行動というのは、積極的に動くのも行動です。黙っておるのも一つの行動です。反動という行動もあります。行動さえすればいいというもんじゃないんです。
 何もしないということも一つの行動です。あえて逆らっていくということも一つの行動です。だから、一体何をもって行動とするのかという、行動という事の範囲が広うなりますね。それは、私どもが、日々いただく全てのことが皆、我が身を明らかにする問いとしての意味を持っておった。その問いを生きるということが行動ですね。一人ひとりの行動をこうあらねばならんと決めるのではない。決めたらそれはイデオロギーです。真宗の門徒たるものはこうあるべきである、そういうことを親鸞さんは言ってません。必ずしも我々が考えておる行動という意味ではないんではないかと私は思うんですね。
 そこに、我々が限りなく限りなくこの自分の人生に聞いていく。何を聞くかというと、終わりのない問題を聞いていくんです。問題に終わりがないということは、私の歩みにも終わりがないということです。歩みにも終わりがないということは、世界が広がり続けていくということです。我が身の世界が公共の世界へ生まれ変わり生まれ変わっていくということです。そういうことが、生きておるしるしと、前回のときにですね、生きるしるしとは何かということがまた一つテーマになったようですけれども、こういうことも特に現代において、我々が深く考えていかなければならない問題ではないかと思うんですね。】(和田稠 2005年3月11日の『同塵の集い』講義より。但し主催同塵の集い2006年7月13日難波別院での高橋法信氏の講義のチラシより) 

 まあ、和田先生は「天皇に人権を」と云った人だし、関係ないのかもしれないが、『同塵の集い』はいわゆる『社会的な活動』もしている人達が多く居る会なんだが。。。しかも私の事を『腐らされた』などとはあの人達は絶対に云わなかったし。

日本は天皇を中心とする神の国である(森喜朗)

2006年07月26日 | 坊主の家計簿
 7月26日

 雑費    缶コーヒー      120円
       携帯電話      4305円
 食類    豆腐          59円
       ところてん       98円
       鮭アラ焼き      125円
       発泡酒        175円
       鶏そぼろ飯      128円

 合計            5010円
 7月累計         62173円

 あ~あ、夕寝して起きたら22時ちょい過ぎやんけ。。。ど疲れモードやったから、御近所の楽々ヘルシーツアーで健康ランド→焼き肉屋に行くつもりやったのに。。。ケ!

 報道ステーションを観てたらこんなニュース(http://www.asahi.com/national/update/0725/OSK200607250185.html)。
 確か、「平和憲法の芽生えがここにある。」みたいな報道内容だったけど、え~、報道ステーション、かなり無理がありまっせ。

 靖国のA級戦犯分祀も天皇の大御心によってなされ、憲法9条の改憲阻止も天皇の大御心によってでしか出来ないのならば、この国の国民は天皇の奴隷でしかない。

メモして寝る

2006年07月25日 | 坊主の家計簿
 7月25日

 雑費    缶コーヒー         120円
       野菜ジュース        105円
       コロッケ2個         84円
       手土産の発泡酒12    1476円
       タバコ           320円
 外食    ラーメン          590円
       回転寿司          420円
 交通費   JR             160円
       JR             290円
       タクシー         1220円

 合計         4785円
 7月累計      57163円

 学習会。喋り足らん、っちゅうか、喋った事の自己整理

 
 【慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。】

 哀れに思われる筋合いもなければ、悲しまれる筋合いもない。

 【しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。】
 
 よって、そんなもんに救って貰う筋合いはない。こっちから願い下げじゃ。

 【浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。】

 煩悩具足の『われら』


 ♪かぜもないのに  ほろほろと  だいちのうえに  かえりゆく
  はなをみつめて  なみだした  しんらんさまは  なつかしい

  よはのあらしに  はなはちる  ひともむじょうの かぜにちる
  はかないうきよに なみだした  しんらんさまは  なつかしい

  とうさまかあさま うしのうて  ひとりるてんの  さびしさに
  こころのみおやを さがします  しんらんさまは  なつかしい

  じひのなみだに  めがさめて  くおんのみおやを ふしおがみ
  ほとけのいのち  たたえます  しんらんさまは  なつかしい

  やみにさまよう  われらをば  みむねにしつかと いだきしめ
  ひかりにかえれと しめします  しんらんさまは  なつかしい

  まずしきものの  てをとりて  われもさびしき  ぼんぶぞと
  だいちのうえに  ひれふした  しんらんさまは  なつかしい

  あらしいばらじ  ふみこえて  ただしんじつの  びゃくどうを
  あゆみつづけし  わがちちの  しんらんさまは  なつかしい
  (多磨全生園・真宗報恩会で歌い継がれている歌らしい)

被害者責任 ~水俣に想いをはせる~

2006年07月24日 | 坊主の家計簿
 7月24日

 雑費   タバコ         300円
 食類   モロヘイヤ        78円
      豚バラ         256円
 酒    芋焼酎        1700円
      黒糖焼酎       1890円

 合計         4399円
 7月累計      52378円

 皆さん。生きてるのって辛いですね。。。
 っちゅうか、クソッタレ!!!
 いや、でんな。最近吸ってる中国タバコを売ってる自動販売機は限られていて、昨日バコバコ吸ってたので残り少ないし買いに行ったんだ。で、ついでにこの前買った泡盛は600mlなので当然無くなるのも早く、自販機近くの酒屋で芋焼酎を買ったんだ。で、「さあ、帰って公文でもやるか。。。」と団地の階段を上ってたらだな焼酎を入れてたビニール袋の底が抜けやがって、パッシャーン!と、やな。。。で、これが道端なら「クソッタレ、ボケが!」と近所の自販機なりチャリンコなりを蹴飛ばして済む話なんだが、自宅団地の、しかも、部屋の入り口の、ほん近くやったから放って置くわけにもいかず、なんせそのまま放っておくと最大被害者は私になるんだし、翌朝起きて、階段を下りて行く時に芋焼酎臭い階段&割れた一升瓶の破片はイヤやし、怪我したらアホみたいやしやな。よって、階段掃除。。。あ~あ。。。なんか、心が折れてやる気を一切なくしてしまって明日は公文サボリ。

 こういう時は誰かのせいにすると楽である。
 そうだ、あの酒屋の親父がもっと分厚いビニール袋、もしくは袋を二重にして呉れてたら酒が割れずに済んだんや。あのおっさんが悪い。んが、抗議に行っても「そんなもん、うちは知りまへんで。兄ちゃんがビニール袋の下を自転車の前カゴで傷つけたから割れただけやん」と云われたら口答え出来ないので、とりあえず「あのおっさんに1700円分の不幸が訪れますように」と祈っとこ。
 しかーし!こういう不幸があった後には必ず良い事が訪れて来るはずなので、これは先日買った宝くじで2億円当る前触れである。そしたら『幸運のおっさん』として祝杯の酒はあのおっさんの酒屋で一番高い酒でも買ってやろう。

 と、何時までも終わらない梅雨と同じくジメジメした性格。

 しかし、梅雨の被害、すんごいなぁ。九州、特に鹿児島無茶苦茶やん。まあ、基本的には天災なんだが、被害者責任として河川工事は的確であったのか?などを調べて、人災の部分があれば被害者責任でもって徹底抗議して貰いたい。また、天災であっても、「困った時はお互い様」なので、国や自治体に救助を求める被害者責任を果たして貰いたい。
 泣き寝入るする事も慢心である。当事者には当事者としての責任がある。泣き寝入りして功徳を積んだつもりなら大間違いである。我慢も慢心である。『寝た子を起こす』のは当事者であり、つまり戦争被害者であり、在日朝鮮人であり、被差別民であり、障害者であり、その他様々な被差別者であり、犠牲者である。
 周囲に頼っても誰も助けて呉れるわけがない。最近、っちゅうか、ずっと流行してるんだろうが、特に最近大流行の『優しい社会』に誤摩化されるな。あんなもん、ただの誤摩化しの論理であり、慰撫・癒しでしかない。助かるのは常に自分自身であり、自分自身を助けるのも自分自身でしかない。『みんなの責任』『社会の責任』に誤摩化されて被害者責任を果たさずに誰の人生を生きているのか。自己責任を徹底しないと心優しき人達の作り出すムードに誤摩化されてしまうだけ。心優しき皆様は、余裕がある時は助けるが、余裕がなければ助けてくれない。だって『優しくなりたい』だけなんだし。そんなもんに頼ってどないしまんねん。
 
 そういえば、あ、うちの寺は忙しいです。なので、あまりゆっくりお参り先の人と喋っている時間がありません。&、私はお参り先には法衣で行っています。別に『殺すな 殺されるな 殺させるな』とプリントされたTシャツや、『兵戈無用』とプリントされたTシャツを来てお参りしているわけではありません。
 なのだが、今日も2件のお参り先のお婆ちゃんから戦争の話を聞いた。別にこっちが会話を振ったわけではない。ただ単に世間話しの流れの中で私からすると「え?」という感じでお婆ちゃんが戦争時代の話をしだした。
 
 「戦争だけは絶対にしたらあかん」と、普段、非常に温厚なお婆ちゃんが云ってた。
 まあ、そのお婆ちゃんに「すいません。。。最近ミスが多くなって来たので御布施の袋に名前を書いて貰えませんか?」と頼んだら、戦時中に軍事工場に狩り出されて戦争中なので米軍の空爆から逃れる為に非常に暗い工場の中で、暗くて見え難いので眼を近づけて爆弾の火薬を入れる部分を機械で削ってたら切り粉が眼に入って一時は失明した、という話をしてくれた。で、そこから戦時中の話をお婆ちゃんから聞いて居たのだが。最後に「戦争だけは絶対にしたらあかん」と。

 もう一人のお婆ちゃんも、「梅雨がナカナカあけまへんなぁ~」と読経が終わって話かけたら、崖崩れの話から、戦争中に粗菓史してた先の山間部の話になって戦争中の話を聞かせてもらった。

 二人とも、多分、去年とかならこんな話はしなかったように感じる。やっぱり戦争を経験したが故の最近の『キナ臭さ』を感じているんだと感じた。

欽ちゃんプロレス

2006年07月23日 | 坊主の家計簿
 7月23日

 雑費   クエン酸飲料       120円
      ツタヤ更新料       200円
      タバコ          300円
 外食   回転寿司         420円
      餃子ラーメンライス    750円

 合計         1790円
 7月累計      47979円

 さすがにお疲れ。仕事が終わってダルダルモード。
 ツタヤ会員の有効期限近し。と云う事でツタヤへ。ついでに更新したら3本無料らしいので、「ダルダルモードにはビデオでっせ」と
 『ガルフ・ウォー』
 『バス174』
 のDVDと、『GO!GO!7188』のライヴCDを借りる。
 んが、野球のオールスターだったのね。なのでダラダラとテレビを観て過ごす。藤本MVPおめでとう。

 で、欽ちゃん球団の田舎芝居は良かったなぁ~。もう最初から最後まで臭くってたまらないんだが、ああいうドサ回りの田舎芝居は結構受けるんだろうし、なんせ元々芸能界の人やし、まあ勝手にやってればイイ。
 で、ここは田舎芝居ついでに『欽ちゃん野球スクール』っちゅうのは如何だろうか?
 「みんな、山本を許してやってくれよ。山本だって本当に野球が好きなんだ。」とファン&マスコミに宣伝する。
 欽ちゃんは保護司の資格なんかも取ってやな、全国の不良を更生さす。っちゅうのは如何だろうか?「スポーツしてる人間は肉体も精神も健康である」というアホの風潮はまだ残って居ると思うし。
 『夜回り欽ちゃん』と云うのもエエかもしらん。新宿などを深夜にうろついているガキに「君達、こんな所で青春をくすぶらしていないで僕と山本と一緒に野球をしようよ!」と云うのはどうだろうか?
 「ウルセー、デブ!テメーみたいな犯罪者に云われたくないよ!」と山本が殴られる。殴られてボコボコになっても一切反撃しない山本は絵になるではないか。
 欽ちゃんは泣く。「辞めてくれ!そんな事してないで、一緒に野球をやろうよ。」号泣しながら土下座をしてガキに頼み込む欽ちゃん。
 この辺りでガキも一緒に泣いて貰おう。
 「欽ちゃん。。。いや、萩本さん。俺達が間違ってた。俺達も本当は熱くなれるものが欲しかったんだ。だからこうやって深夜の街を徘徊して喧嘩ばっかりしてたんだ。」
 変わらず号泣しながら土下座状態の欽ちゃん。「君達。。。」と、もっと泣く。
 「萩本さん。」と、ガキも土下座する。「悪かった、俺達が悪かった」と。
 「解ってくれたら良いんだ。解ってくれたら。さあ、君達も覚醒剤を打たずにホームランを打とう!」
 当然、テレビカメラは回って居る。
 時は経ち、ガキ達は深夜の乱れた生活から欽ちゃん農園で働きながら野球を始める。出来ればこの辺りで青空が欲しい。青空の下、懸命に自然に囲まれた農園で働く『元新宿のガキ』に、青空の下で汗を流しながら働く『笑顔』が欲しい。青空と汗に負けない様なさわやかな笑顔が欲しい。出来れば一緒に山本にも笑って貰いたい。

 と云うような『テレビ田舎芝居』が半年後には出来そうな気がするのだが。。。どうせやるならそこまでやれ。

 感情っちゅうのは、もの凄く大切なものだと思う。
 別におもしろくなければ笑う必要はないし、悲しくなければ泣く必要もない。

 問い「下線Bの部分で作者は何を云いたかったのでしょう。100字以内に述べよ」
 答え「作者じゃないので解りません。そんな事は作者に聞いてみるのが一番であって、私に聞く問題ではありません。その上で私に聞くのならば、それは私の感性と先生の感性との違いを確かめあう会話の道具としてならば理解出来ますが、それはこういう期末試験のテスト用紙には相応しくありません。直接の対話、あるいは交換日記等の方法が正しい方法だと考えます。先生、好きです。交換日記して下さい。」
 先生「まあ、山田君ったら。。。ああ、イケナイ。。。生徒との禁断のアバンチュール。教育委員会に呼び出される私。でも、私は愛を貫くの。そう、私は愛に生きる女になるの!」

 テレビとか、小説なんぞと云うものは基本的にオーバーな感情表現が多いと感じる。映画でもなんでもなんだろうが。『作りもの』だし。
 でも、その作りものの感情表現の方が受けたりする場合を非常に感じる。『酔いたい』んだ。要するに。『酔いたい=孤独』でもいいんだろう。ガキは別にオモチャが本当に欲しいから泣くじゃくっているのでなく、途中からは保護者に振り向いて貰いたいのではないのか?
 大人になってもそれはあんまり変わらん気がする。オーバーな感情表現をする事によって、酔う事によって『認めて貰いたい』と。出来れば同じ『酔い』を感じれる人が欲しい、と。

 当然、作りものの台詞がかった言葉は『つくりもの』が故に受ける。当たり前だ。作りものなんだし。受けるように作られた言葉なんだから。
 で、それは別に小説とかテレビドラマ、映画などでは当然害はない。最初から作りものと解っているんだし。別に構わない。作りものは作りものの作品として、それを読んだり観たりしてる間は『酔わせてもらってナンボ』の世界なんだし。作者は『酔わせてナンボ』の世界なんだし。
 でも、それが『作品』以外から出て来たら、うっとうしい。長渕の歌はうっとうしいが、あれは歌だから許せる。でも、例えばイラクで人質になりながらも、解放されて直後のカメラの前で「でも、私、イラクの人達をきらいになれない」と云う様な『セリフ』を云う事は、うっとうしいを通り越して大真面目に怖い。それに感動した人達も怖くて仕方がない。

 作られた言葉だから感動するのは当然であるが、それは『作品』の外から出てはならない。いや、当然出るんだろうが、でも、それはあくまでも作られた言葉のセリフでしかない、という様な冷静さ、大阪でなら「ちょっと臭かったかな」ぐらいの照れ笑いが欲しい。その照れ笑いもなくセリフを云った本人ですらそのセリフに酔い、その言葉を聞いた人達もそのセリフに酔う。「感動しました」と云う自分が発したセリフの感想を聞く事によってまた自分のセリフに酔う。酔う事を辞めようとしない。酔い続けようとする。酔う事によって評価されたんだし、褒められたんだし。褒められたら嬉しいんだから酔う事を辞めようとはなかなか思えるわけも無い。

 ヒーローでも、作られたセリフでもなんでもエエのだが、そんな人がつくり出したもんに従う義理などないぞ。

われら

2006年07月22日 | 坊主の家計簿
 7月23日

 外食  豚汁飯ポパイかき揚げ    558円
 雑費  タバコ           300円

 合計           858円
 7月累計       46189円

 今日は落語会。

 「寺は道場じゃ!」
 と、総代さん。
 こういうのが同朋会運動なんだろうが、っちゅうか、よその寺では深夜まで遊んで居るのだが、え~。。。ついさっき帰って来ました。朝まで付き合ってたら明日の仕事がやな。。。
 んが、こういう人達が居る『場』が大真面目に同朋会運動っちゅうもんやと感じるのだが。。。
 え~。。。夕方5時半くらいからスタートなので、ベロンベロンでおます。途中で抜けて来たのですが、ダメっす。。。

 んが、んが、
 「落ちこぼれを教えという教えと」と
 「落ちこぼれが救われる教え」とは違う。

 親鸞っちゅうオッちゃんの醍醐味は、私個人的には、多分こんな読み方をしたらあかんのだろうが、個人的に感動したもんはしゃーない。
 親鸞の醍醐味は
 真の仏弟子→悲しきかな愚禿鸞→アジャセの救い
 だと感じる。

 故に私にとっては
 「落ちこぼれを救えという教え」と
 「落ちこぼれが救われる教え」とは全く違う。

 この辺はいつも酔っぱらって書きなぐっているプラス、今日はベロンベロンにしても結構真面目。

星が降る夜 

2006年07月21日 | 坊主の家計簿
 7月21日

 食類   バケット        100円
      じゅんさい        98円
      豪州純米ワンカップ2  210円
      じゃがいも3      100円
      イカゲソ        147円
      納豆3×2       156円
      たまご10       149円

 合計         960円
 7月累計     45331円

 昼過ぎ、雨が上がった後のお参り先に伊勢の夫婦岩の写真があった。少し大きな写真だったのだが、写真に日付がついてあって、あきらかに記念品などではなく、記念写真。
 「伊勢に行ってきはったんですか?」と夫婦岩の話から、私も「小学校の修学旅行で行きましたよ」と、大阪ではスタンダードな伊勢参りの修学旅行の話。ほぼ無理矢理買わされる仕組みになっている赤福の話とか、「何故伊勢神宮に小学生を無理矢理参らせるのか?」の話は抜き。
 写真は、オバちゃんの連れ合い、要するに今日は居なかったけど、いつもはだいたい居るオッちゃんが撮って来た写真だった。
 「修学旅行で撮ってきたんですよ」とオバちゃん。
 「え?」と私。

 オッちゃんは、小学生の時に修学旅行に行けなかった。戦争でそんな場合じゃなかった。だから定年も迎えて、同級生との半世紀以上経っての修学旅行。枕投げはしたのだろうか?
 「もの凄い話ですね。まるで映画のようですやん」と私。
 なにやらオバちゃんによると、今、結構流行っているらしい。各地で半世紀以上経過しての修学旅行に行ってる人達が結構いるらしい。

 オッちゃんより少し年下のオバちゃんは修学旅行には行けたらしい。でも、やっぱり戦争は経験したらしく、道の途中でアメリカの艦載機に狙われて射撃された事もあるらしい。また、オバちゃんの所は都市部から離れた村だったけど、少し離れた所にある街が夜に空襲されている所を観たらしい。
 「こんな事云ったらあれやけど、星が降るようで綺麗だった」と。「流星が街に落ちて街が燃えてるみたいだった」と。

 オバちゃんと、オッちゃんには中学生になる孫が居る。中学校の宿題で「お爺ちゃん、お婆ちゃんから戦争の話を聞いて来るように」というのがあったらしく、そんな話も語りついだらしい。


 別のオバちゃん。暑がりの寒がりの気性の激しそうなオバちゃん。もう、扇風機とか冬場ならヒーターを私から30センチぐらいの距離で「暑いやろ」「寒いやろ」と。そんなオバちゃん。
 最近、息子夫婦が週に2泊3日で遊びに来るらしい。
 お孫さんが障害者。体も知恵も。
 お孫さんは自分の歩けなくなった足をさすりながら「ようなれよ、ようなれよ」と云うらしい。
 「お爺ちゃんが僕の足をさすりながら云ってくれててん」
 今日は、そのお爺ちゃんの命日。

 
 ♪見上げてごらん夜の星を
  小さな星の小さな光りが
  ささやかな幸せをうたってる

  見上げてごらん夜の星を
  ボクらのように名もない星が
  ささやかな幸せを祈ってる
  (永六輔『見上げてごらん夜の星を』より


 と云う事で、久しぶりのじゅんさい、当然生ではないけどヌメヌメして美味かったなぁ~。
 「お客さん。じゅんさいって、タンみたいでしょ」
 と、恐らくじゅんさいを喰ってる時に絶対に云ってはいけない一言を発して店をクビになった板前も居てると勝手に思う。っちゅうか、そういう板前も、店にいたまえ。。。

 ♪見上げてごらん夜の星を。。。


 今日はお疲れモード。

うつくしい こころを そだてよう

2006年07月20日 | 坊主の家計簿
 7月20日

 雑費   タバコ            300円
 食類   ソーセージエッグマフィン   200円
      発泡酒            175円
      カップ麺2個         156円
      エビ天             49円
      うどん玉            18円
      嵯峨豆腐            98円

 合計         996円
 7月累計     44371円

 あ~、よう寝た。
 シャワー浴びて寝よ。
 
 の前に、http://www.sankei.co.jp/news/060720/sha060.htm
 『A級戦犯合祀に不快感』って、おい、昭和天皇の戦争責任はどないなってるんや?と、思わずテレビに突っ込みを入れたくなった。
 &、当然天皇の政治介入はあってはならないので当然『国民』は無視するべきだろう。
 んが、右翼&神道界の衝撃はデカイんだろうな。『大御心』という言葉があるのを初めて知ったのだが、その『大御心』に反する行為を現状の靖国神社は行なっている事になるんだろうし、それは日本国としては全く関係ない事だが、神道界にとってはかなり衝撃的な事なんだろう。
 靖国問題は別にA級戦犯を分祀したからといって解決するわけもなく、今の天皇だって護国神社には参拝してるのだし。

 国家の為に死ぬことが名誉である。と云う事が靖国の本質だと私は思う。
 なら、その『名誉』を与えるのは別に靖国神社でなくても構わない。「天皇陛下にもったいなくも参拝して頂き」というのは、戦時中を体験した人や、その人達の影響がある人には通じる理屈なんだろうが、今はどうなんだろうか?
 
 現在の日本は日米安保条約がある。日米安保の中で、アメリカ主導の中での戦争に巻き込まれる可能性の方がデカイのではないのか?
 あるいは『国連主導』。こっちの方がデカイか。北朝鮮に関してもあくまで国連を使うのだろうし。
 アメリカ主導、国連主導の中での靖国神社。別に天皇の命令ではない。天皇の為に死ぬのではない、世界平和の為に、国際貢献の為に死ぬのだ。なので、
 「天皇陛下万歳!」と云って死んで行くのではなく、
 「世界平和万歳!」と云って死んで行くのだ。

 心のノートで『社会貢献』が語られるのはそういう事ではないのか?


 【「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。】(ダンマパダより)
 
 とは、最近すっかりハマっている言葉である。
 別にこれは国家にとって名誉ある死でも、国際社会にとって名誉ある死でもない。あくまでも信仰上の問題である。また、当然そこには名誉などない。
 東条英機は念仏申して死んで行ったのなら往く先は同じだろうし、靖国に祀られている真宗門徒とも往く先は同じである。
 あるいはこれから『国際貢献』『世界平和』という名目で殺される人がもし悲しいかな出て来るとして、その人が生前に念仏申しているのなら往く先は同じである。
 連続殺人犯が死ぬまでに念仏申していたら、国家によって死刑されたとしても往く先は同じである。
 当然、毎日御参りしている先の過去帳に載ってる人達とも往く先は同じである。

 『名誉』ああ、なんて甘美な響きだ。
 んが、名誉で往けるのは結局、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の『天』なんだろう。極楽浄土ではない。

 
 これから増々語られて行くだろう『世界平和の為に』『社会貢献』等々。あるいは
 【うつくしい こころを そだてよう】(『こころのノート小学校1・2年』より)

 
   崖     石垣りん

  戦争の終わり、
  サイパン島の崖の上から
  次々に身を投げた女たち。

  美徳やら義理やら体裁やら
  何やら。
  火だの男だのに追いつめられて。

  とばなければならないからとびこんだ。
  ゆき場のないゆき場所。
  (崖はいつも女をまっさかさまにする)

  それがねぇ
  まだ一人も海にとどかないのだ。
  十五年もたつというのに
  どうしたんだろう。
  あの、
  女。

非戦平和法要

2006年07月19日 | 坊主の家計簿
 7月19日

 雑費   宝くじ        300円
 外食   かき揚げ蕎麦     326円
 会費   非戦平和法要     500円
 
 合計        1126円
 7月累計     43375円

 仕事忙し。→夜回り済んで近所の寺の非戦平和法要。万札くずすのに2億円購入。
 んで、非戦平和法要。
 『非戦』と『反戦』っちゅうのが、いまいち私の中ではっきりしていない。っちゅうか、あんまり厳密に言葉の定義&問題視していない。んが、その寺の役僧さんも云っていたが『反戦法要』の時より『非戦平和法要』になってからの方が近所の人達が沢山来てる。以前は当時の私も含めて遠方組の方が多かったし。
 そんなことなのかな~、とフト思う。っちゅうか、重要な問題なんだが。
 
 んで、今日は仕事が忙しかったので「絶対に早く帰る」つもりだったのだが、あの寺に行ったらやっぱり無理か。。。結局、さっきまで、つまり深夜1時近くまで遊んでたもんなぁ。。。反省、反省。

 お寺のチラシに素敵な詩が紹介されていたので、そのまま紹介。『ダンマパダ』をもとにした詞らしい。


 
  たったいま   谷川俊太郎

 たったいま死ぬかもしれない
 こころの底からそう思えれば
 あらそいもいさかいもしたくなくなる
 だれもがたったいま死ぬかもしれない

 死ぬことはこわくなくなる
 安らかに生きていければ
 
 こころはいつもふらふらしている
 こころはいつもふるえている
 こころはいつもさまよっている
 こころは晴れたり曇ったり

 そんなこころの深みには
 ひとすじの清らかな流れがあるはず

大衆部

2006年07月18日 | 坊主の家計簿
 7月18日

 雑費    ボールペン     105円
       霧吹き       105円
       JR         380円
       タバコ       300円
 食類    玉子サンド     190円
       ホットドック    160円
       きつねうどん    240円
       ウーロン茶     100円
       唐揚げ       275円
 飲み代   坊主バー     1450円

 合計        3305円
 7月累計     42249円

 
 坊主バー当番。の前に通夜。
 「おつかれ~っす」
 と云う事で。話をスペシャル端折る。っちゅうか、毎度だが。

 この前にテレビ観てたら南米のある島のキリスト教会が、現地の風習を取り入れた儀式をやってた。もの凄く『進歩的』に感じた。まあ、あくまでも『儀式」とかの話なんだろうが。。。
 ああ、あと10歳若かったらだんじり引きたかった。。。この年で、しかも喫煙者には無理やなぁ。。。

 追加、っちゅうか、寝る前の一言。
 私はこの辺りの節に慣れてないので、参列者の中の1人2人の正信偈ではこの辺りの節とはタイミングがずれまくり。しかも、1人2人の声なんぞ、ほぼ聞こえないので、ずれまくり。ん?『づれまくり』か?
 え~、オバちゃん。無視してゴメン。

ヒーロー

2006年07月17日 | 坊主の家計簿
 7月17日

 外食   カレーラーメン    294円
      中国タバコ      300円

 合計        594円
 7月累計    38944円

 さりげなく喫煙復活。いや、中南海メンソールワンが美味くってでんな。。。また気が向いたらタバコ辞めよ。

 さっきテレビ観てたら筑紫の番組でヒーローについてやってた。
 「現代のヒーローは?」って、高遠菜穂子に決まってまんがな。心のノートを読んでみ。あれで育ったガキに「あなたのヒーローは誰ですか?」って聞いたら「高遠菜穂子さんみたいになりたいです」と答えよんぞ。

 ちなみに私にはヒーローは居ない。釈尊、法然、親鸞は信仰上で大切な人達だが、別にヒーローじゃないし。カリスマ視したくないし。

 自由の女神はヒーローなんだろうか?
 『民衆を導く自由の女神』を観たりすると、足下に死体が転がっているがあれは敵の死体なんだろうか?それとも味方の死体なんだろうか?
 『味方の屍を乗り越えて銃を持って解放に突き進む』なんだろうか?それとも
 『敵の屍を乗り越えて銃を持って解放に突き進む』なんだろうか?

 まあ、そうは云うものの私も昔は全共闘がヒーローだったりしたのだが。まあ、『ノンポリ』なんぞと云う言葉が象徴するように慢心バリバリの正義の味方に酔っぱらいたいムードはあかんな。『ノンポリ』等と云いながら大衆運動出来るわけがない。運動が広がるわけがない。まあ、今も同じ失敗を繰り返しているだけの気がするな。「何もしない人達」とか。

 小川伸介と云うドキュメント映画の監督が居る。名作『パルチザン前史』を撮影し、その後に非常に退屈な『1000年刻みの日時計』と云うのを撮った。もう、退屈で退屈で途中に寝るしかない様な映画だった。若かった私には。
 当然、ヒーローなんて出て来ない。確か4時間近い映画の中で唯一の盛り上がりぽかったのが村祭のシーンぐらいで、あとは全然憶えていない。単なる東北の一つの村を記録しただけの映画。地味な地味な地味な映画で、地味な地味な地味な地味な村人しか出て来なかった気がする。確か監督自身も「この映画は必ず寝ます」みたいな事を云ってた記憶がある。それ程退屈な映画。
 故に、優しい映画。非常に優しい映画。

 ヒーローなんて要らない。

 
 あ、陸上自衛隊の皆様、イラクでの仕事御苦労様でした。本当に御無事でなによりです。
 きつい仕事だったでしょうが(http://www.tokyo-np.co.jp/feature/iraq/060311T1600.shtml)、まずはビールでも飲んでゆっくりして下さい。