坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

警察=治安維持

2008年10月31日 | 坊主の家計簿
 10月31日

 食類  パン          199円
     諸々          452円
 外食  チャンポンセット    750円
 雑費  ガソリン        398円

 合計             1799円
 10月累計        142422円

 お休み♪
 なので、原チャリに乗って少し離れた店まで長崎チャンポンを食べに出かける。ついでにバッテリー補充の為にウロウロと走る。まあ、ショート・ツーリングでんな。林道で登った山の上は寒かったぞ。
 帰り道に『ねずみ取り』っちゅうヤツに引っかかりそうになる。
 っちゅうか、今日はやたらと警官が取締をしていたのだが、今月のノルマが危なかったのだろうか?大丈夫な時には、駅前交番のすぐ横、つまり、車が駐車していると無茶苦茶迷惑になる所でさえ、駐車違反のキップを切らないのだが、まあ、ノルマが達成出来なかっただろう。捕まえようと思ったら、幾らでも捕まえる事が出来るのだし。

 しゃて、数日前にこのブログでも紹介した『デモ』での逮捕が、やはり「不当逮捕だ!」として問題になっているらしい。
 あ、ちなみに前回の記事(http://blog.goo.ne.jp/erovows/e/5cb25bccf296c8dfee66c859011ea69c)で、
【ブログ(http://d.hatena.ne.jp/festa_hansen/)に飛ぶとビラも紹介されていたのだが、まあ、ちゃんと『デモ』と書いてあり】
 と書いたのは間違いだった。『デモ』は『11月30日』らしく、今回は『ツアー』であったらしい。訂正とお詫びをこの場を借りて。

 んが、やっぱり『デモ』だと思うのだが。。。
 支援者?の方々の
 『麻生でてこい!!リアリティツアー救援会ブログ』(http://asoudetekoiq.blog8.fc2.com/
 っちゅうのが出来たらしい。
 記事を読み、紹介されていた動画を見る。
 この動画(http://jp.youtube.com/watch?v=3Uw701vV15U&NR=1)を見ると、逮捕された瞬間っちゅうのは、主催者の人(?)が、ポスターを上に掲げ、マイクも使わずに少し周囲に説明して歩き出した瞬間に逮捕されている。
 え~。。。事前に届けでをしとけ、っちゅうねん。。。アホが。。。
 当然、事前に届け出をしておけば逮捕される事がなかった事件である。
 映像を見る限りではデモ側が『暴力を振るった』には見えない。が、まあ、ぶつかっただけでも「暴力だ!」というのが警察、っちゅうもんである。それが公務執行妨害っちゅうわけの解らん罪になったりする。届けでさえしておけば、こんな事にはならなかったのだろうが、なんせ「アホ」なので仕方がない、っちゅうたら仕方がないのだろうが。。。

 司馬遼太郎の『翔ぶが如く』っちゅう長編小説がある。この小説の最初辺りには川路利良という、日本の警察を作った人が中心人物として出て来る。で、日本の警察が最初にやった大きな仕事として不平氏族を蜂起さす、と云う事も書かれている。単純である。不平氏族が一斉に蜂起されると日本が危ないからである。特に薩摩=西郷と一斉に蜂起されると、危ないからである。故に、個別に蜂起させて、個別に叩き潰して行った事が書かれている。
 まあ、日本の警察、っちゅうもんは、こういうもんである。当然の事ながら『治安維持』なのだ。

 ちなみに麻生氏は現在の日本の総理大臣である。私は自民党には投票していないが、まあ、それでも有権者であり、前回衆院選では落選候補に投票したが、それでも有権者である。
 その有権者が選んだ国会議員が選んだのが麻生総理である。
 今回のデモ参加者の中でも選挙権を持たれた方々が多く居られると思うが、その人達『も』選んだ総理である。
 当然、警察は治安維持の為に乗り出して来る。しかも無許可であった。なんか、殆ど「捕まえて下さい」と云っている様なものではないか。
 まあ、起訴されるのかどうかは解らんが、しっかりと『痛い目』にあって来ればエエ。支援者もしっかり居ているみたいであり、仮に起訴されたとしても大丈夫だろうが、それでも逮捕された3人が何の仕事をしているか知らんが、仕事に支障も出て来るだろうに。届けでをしとけば良かったのに。ホンマにアホやのぉ。。。

『小児医療』第三話

2008年10月30日 | 坊主の家計簿
 10月30日

 雑費  ワイン         350円
     居酒屋        6840円

 合計             7190円
 10月累計        140623円

 所用で外出。
 なので、小西真奈美タン主演『小児医療』は録画で観る。

 しゃて、第三話なり。

 『親が居てても子は育つ』
 とは、とある人から教えて頂いて、結構気に入って居る。
 そりゃ、そうである。親が居なければ子どもは産まれないが、育つ環境の中では『親が居てても子は育つ』でしかない。事実として、親が居なくとも育っている人達がいるのだから。
 でも、「子どもには父性と母性が必要なんです」等という人も居る。全く事実を無視した幻想の世界を先に立てる方々も多い。
 真奈美タンもその被害者であった。まあ、『真奈美タン』っちゅうか、テレビドラマ『小児医療』の主人公なんだが、面倒なので『真奈美タン』で通すが。
 
 子どもの頃に両親が離婚したり、あるいは両親が亡くなったり、あるいは最初から孤児だったりする人達も居ている。事実居て、生きて居られる。
 だが、今回の『小児医療』もそうなんだが、『親からの愛情』っちゅうもんを全面に打ち出し、『親からの愛情』を受けないと子どもは『育たない』みたいな事を云う人も居る。
 今回出て来た女の子もそうだったし、真奈美タンが子どもの頃もそうだったみたいである。親からの愛情を受けたいが、受けれないが故に悩み苦しむ。
 苦しめばエエのに。
 と、単純に思う。今回出て来た女の子は、真奈美タンとの出会いがなければ、きっとグレるだろう。
 グレればエエのに。
 単純な話である。グレて不良になって、自分と同じ若かりし時から『苦』に出会い、『苦』と格闘する人達との交流を深めればエエのに。まあ、PTAとか、夜回り先生からは付け狙われるだろうが、グレればエエ。それも人生である。
 だが、単純に思うのだが、ある程度の年齢に達すると、つまり、『自我』なんぞが芽生える時ぐらいからは、その『親の愛情』なんちゅうのも比較になっていないか?
 「周りの家族には親が揃っているのに。。。」とか、
 「私の親は私に対する愛情が足りない」なんぞと。
 
 真奈美タンは、親からの愛情不足でもって、子どもの頃に自殺を考えたらしい。自殺を考えられるのは立派な自我である。自我があるが故に自殺なんぞを考えられる。
 真奈美タンは今でもそうなんだが、周囲が見えていない。その親がどれだけ苦労しているのかが、全く見えていない。
 今回出て来た少女も同じであって、やはり真奈美タンと同じく、親からの愛情不足で自殺を考えたらしいが、両親は忙しく働いて居る。両親とも、忙しく働いて居る。なぜ、その『忙しく働いて居る姿』を見ようとしないのか?
 当然、ガキには難しい事なんだと思う。故に、単純に「寂しいから、私に注目して!」という事なのかも知れない。
 んが、やはり、それだけでない気がする。やはり周囲との比較があるのではないのか?
 「○○さん家は、毎日一緒に晩御飯を食べるのに、私は何時も1人で食べる」
 なんぞと。
 当然、そういう外との比較をしてしまうのが私(達)なのであり、その比較がある現状であるが故に、その比較の中で悩んだり、孤独感が強まったりする。
 「外の人達は愛情に包まれた生活をしているのに、なんで私だけ。。。」
 である。

 テレビドラマ『小児医療』は、あくまでもテレビドラマである。が、『テレビ』というマスメディアを通じて今回も『親からの愛情の大切さ』なんぞの偏見を再生産している。
 当然、そういうのが現状であるのだろうが、事実として親からの愛情がなくても生きている人達は沢山居ているし、また、今日の豊かな日本の中で、『親からの愛情が足りない』人達にとって、今回のテレビドラマはどうだったのだろうか?夜の21時過ぎに、まだ両親とも仕事で忙しく帰宅出来ずに、1人で晩御飯を食べている少女が今回のテレビドラマを見たらどういう感情を抱くのだろうか?

 『家庭』っちゅうのは様々な形がある。当然である。両親が揃ってなくとも家庭であり、両親が忙しく働いていて『親からの愛情』が足りなくとも家庭である。
 一人暮らしでも、家庭である。
 家庭に決められた形なんぞない。
 勝手に『健康な家庭の姿』なんぞを決められる権限を持つ人はいない。
 その、誰かが勝手に決めたであろう『健康な家庭の姿』という妄想によって、「私の所はそれに当てはまらない」なんぞという、妄想の被害者を再生産する必要もないだろうに。
 現実に、そういう妄想の被害者は、別に『健康な家庭』だけでなく、その事柄、例えば「私は負け組だ。。。」なんぞも含めて多く居る事だと思うし、そういう人達に対する『応急処置』は当然必要不可欠な事だとは思うが、応急処置だけで終わるのなら、被害者は次から次へと再生産されて行くばかりである。

御近所リゾート

2008年10月29日 | 坊主の家計簿
 10月29日

 外食  ぶっかけ小       280円
 雑費  温泉          600円
     古本          105円
     焼肉ビール      3710円
 
 合計             4695円
 10月累計        133433円

 古本は、徳川宗英『徳川四百年の内緒話~ライバル敵将篇』。
 
 普段、部屋ではシャワーしか使わないので、肩がパンパンにでんなぁ。。。っちゅう事で、御近所温泉へ。
 帰りには定番の焼肉ビール。その前に古本屋に寄って、上記の本を購入。エエ感じのマッタリ本。
 温泉でマッタリして、焼き肉屋でマッタリして、部屋に帰ってマッタリ寝る。

 しかし、急に寒なって来たやんけ。。。

5周年近し

2008年10月28日 | 坊主の家計簿
 10月28日

 外食  味噌らーめん        600円
 雑費  カレー粉          629円
     100円ショップ      300円
     薬局           2572円
     泡盛・白百合       1200円
     するめ           105円
     タンガクラブ・ビール    500円
     HOBO          2100円?
     カプセルホテル      2500円
     水             120円

 合計              10626円
 10月累計          128738円

 お買い物→タンガクラブへ。
 帰りに5周年近しのHOBOへ。久しぶりだったので、思わずダベってたら終電が。。。っちゅう事で、となりのカプセルホテルで爆睡。

腹立つノリ

2008年10月27日 | 坊主の家計簿
 10月27日

 外食  ぶっかけうどん      280円
 雑費  ペット水30      1770円
     無添加ワイン       398円
 食類  諸々          1001円

 合計              3449円
 10月累計         118112円

 何やら巨人・原監督がWBCの監督にもなるらしい。。。なんでや、なんで原監督やねん。世代交代したいねんやったら古田が居るやろうが。監督経験はゼロやけど、清原も居るやろうが。清原監督、桑田ヘッドコーチでもエエのんと違うんか?っちゅうか、原監督って、監督としての評判は無茶苦茶悪いやんけ。野村を筆頭に、野球解説者なんぞからも、ボロクソに云われてなかったか?
 しかし、結局、原監督らしい。何か『大人の事情』っちゅうもんがあるらしい。
 
 っちゅう事で、本日のタイトルは原WBC監督記念で『腹立つノリ』っちゅう事で。

 巨人=読売グループっちゅうと、ナベツネである。この渡邉恒雄氏が出世したきっかけは高史明氏である。
 高史明氏が共産党時代に山村工作隊のリーダーとして奥多摩で活動していた時に、渡邉恒雄氏が突入取材を試み、成功したらしい。

【1952年 日本共産党山村工作隊を取材するため奥多摩のアジトに潜入し、拘束される。無事解放されるが、このとき隊のリーダーだったのが、『生きることの意味』の著者、高史明であったという。このスクープが認められて政治部に異動】(ウィキペディアより】

 昨日まで高史明氏の『闇を喰む』を読んでいたので、そのシーンはよく憶えている。
 なんか、「殺っちまおうぜ!」というメンバーの意見もあったらしいのだが、高史明氏が反対して渡邉恒雄氏は解放され、そして出世街道を歩んだらしい。
 しかし、共産党という組織の中で、いくら活動中であったとは云え「殺っちまおうぜ!」っちゅう意見はどんな『ノリ』やねん。きっと『腹立つノリ』であった事、間違いなしである。
 
 こういう『腹立つノリ』っちゅうのは多々あるだろう。光市母子殺害事件に関する報道も『腹立つノリ』であり、それに便乗して煽る人達も『腹立つノリ』である。
 こういう『腹立つノリ』が充満している。

 高史明氏は、著書『生きることの意味』の中で、『ナーム・ハム・ダブ』と念仏申している在日一世の父の事を書かれている。っちゅうか、『生きることの意味』は、高史明氏の少年期の物語であると同時に、ある在日一世の念仏者の物語でもある。
 高史明氏の父は云う。

【戦争のとき、がんこに沈黙を守りつづけ、にこりともしなかった父は、一度として朝鮮人であることをやめたことのない人だったのでした。朝鮮人の一人として、あの戦争をきっぱりと拒みつづけていた父のうえに、どうして敗戦ということが起こりうるでしょう。
 すべてはあとになって思いあたったことですが、あの戦争を憎む父の思いは、ほんとうに強いものだったといえます。この父は”八月十五日”のあとも、いつもと変わりなく土方仕事に出かけたものでした。その父の顔には、かつて見たことのない微笑があったといえます。
 父は、軍国主義日本の敗戦を心から、喜んでいたのでした。でも、この父は、同時にその深い心の底において、人びととしての日本人を、自分の朝鮮を限りなく愛していたと同じように思うことができる人だったのでした。
 戦後まもなく、駅の近くに闇市ができはじめたころのことです。この闇市から、悪いうわさが流れてきたことがありました。朝鮮人が闇市でいばっている、といううわさです。多くの朝鮮人がみんなそうだったわけではないとしても、なかにはそうしたことが事実としてあったのでしょう。このうわさが、父の耳に入ったときのことです。父は、きびしくまゆをひそめて、およそ次のように言ったものでした。
〈朝鮮は、いまやっと解放を迎えたばかりだというのに、よくもまあ、いばっている暇があったもんだ!〉
 そしてまた、父はつづけたのでした。
〈日本人は、朝鮮が困っているとき、助けてくれようとしなかった。じゃが、いまは、日本が困難にみまわれているときじゃろ。朝鮮人は、この困っている日本人を踏みつけにして、うらみを買うようなことをしていいのじゃろか。これまでの日本人と同じことをしては、なんにもなるまい。他人のうらみを買うことをしたら、あとできっとそれは我が身に返ってくることになるんじゃ。困っているときは、だれとでも助け合うのが、人のとる道じゃろ。この人の道を踏みはずしたら、朝鮮の解放もありゃせん。解放されたというからには、困っている人を助けてこそ、ほんとうの解放というもんになるのじゃないのか。いま困っている日本人を、困っているからといって踏みつけにするようにやつは、また朝鮮を滅ぼすようなことをするにちがいないんだ〉】(高史明『生きることの意味』より。ちなみに文庫版では236~238ページより)

 煩悩しかない私は『腹立つノリ』ばかりである。なんせ、今日のタイトルも『原辰則』という巨人軍の監督を文字って『腹立つノリ』にしている事が、その証明である。
 様々な『大人の事情』があったにしろ、「原監督、おめでとうございます」の一言も言えず、『腹立つノリ』である。
 しかし、原監督が原辰則氏であった御陰で『腹立つノリ』という言葉を思いつき、その事で、私の『腹立つノリ』が光市母子殺害事件報道や、それを煽る人達と、何ら変わる事のない同じ人間である、という事を確認出来た事は非常に有り難い事である。
 私は高史明氏の父親の言葉を借りるならば

【他人のうらみを買うことをしたら、あとできっとそれは我が身に返ってくることになるんじゃ。】

 という事を繰り返そうと、再生産しようとしていただけである。その事は同時に

【いま困っている日本人を、困っているからといって踏みつけにするようにやつは、また朝鮮を滅ぼすようなことをするにちがいないんだ】

 つまり、私が私を滅ぼそうとする事に通じる。
 そのまま使わせて頂くが、『腹立つノリ』の私であるが故に念仏申さずにはおれないのだ。念仏の歴史に生きておられる方々の言葉を求めるのだ。
 お念仏の歴史を生きておられる方は

【いま困っている日本人を、困っているからといって踏みつけにするようにやつは、また朝鮮を滅ぼすようなことをするにちがいないんだ】

 と語った。

内弁慶

2008年10月26日 | 坊主の家計簿
 10月26日

 雑費  洗剤類           396円
 食類  黒霧島          1580円
     レトルトカレー4      272円
     その他諸々         690円
    
 合計               2938円
 10月累計          114663円

 夕方、テレビニュースを見てたら気になるニュースを発見。



【麻生太郎首相宅を見に行こうなどとネットで呼び掛け、無届けの集会やデモをしたなどとして、警視庁は26日、男3人を都公安条例違反や公務執行妨害などの疑いで現行犯逮捕した、と発表した。3人は調べに氏名なども黙秘しているという。

 公安部によると、1人の男は同日午後3時50分ごろ、事前に警察署に届けを出さず、渋谷駅ハチ公口の広場で集会し、デモをした疑いがある。同庁は主催者の1人とみている。また、ほかの2人は、この男の逮捕を阻止しようとして警察官に抵抗し、暴れるなどした疑いがある。

 集会やデモは、労組などでつくる実行委員会が開く「反戦と抵抗の祭」の企画。同日夕、約40人で渋谷駅から渋谷区の麻生首相宅へ向けて行進していた。

 同日夜、渋谷署の前には、逮捕された3人の仲間ら十数人が座り込み、入り口をふさぐ50人以上の警察官とにらみあった。麻生首相の似顔絵を描いたプラカードをあげながら「麻生太郎を糾弾する」「警察は金持ちの味方か」などとシュプレヒコールをあげ続けた。】(http://www.asahi.com/national/update/1026/TKY200810260162.html


 
 え~。。。『無届け』ってなんやねん、『無届け』って。。。
 とは云え、気になるので、もう少し調べる。
 多分、主催者らしき人達のホームページを発見。
 http://saluton.asablo.jp/blog/2008/10/25/3846504
 ブログ(http://d.hatena.ne.jp/festa_hansen/)に飛ぶとビラも紹介されていたのだが、まあ、ちゃんと『デモ』と書いてあり、上記ホームページを見ると結構過激な文章であり、そらマークされるわな。今の公安はヒマみたいやし。
 まあ、『逮捕』とあるが、基本は無届けが悪い。なんとなくの想像だが、無届けデモである以上、また、それがネットで公表されている以上、当然、警察はやって来る。「ただちに解散しなさい!」とかメガホンマイクで云うだろう。で、押し合いへしあいしてたら警官が転けたりして逮捕とかなんかな?
 これが『無届け』でなければ「不当逮捕だ!」なんだろうが、無届けでデモしてたらなぁ。。。基本、「アホ」である。まあ、こういうアホはキライではないのだが、この事でもって「国家は不当に我々を弾圧した」とかは辞めた方がエエぞ。

 しゃて、その麻生氏は今日、秋葉原で街頭演説を行っていたらしい。こういうのを『内弁慶』と呼ぶ。まあ、秋葉原なら支持率の低い麻生氏でも受け入れて、かつ、秋葉原では絶大なる人気がある、という神話があるらしいので秋葉原なのだろう。

 個人的な体験から考えると、無届けデモをした人達も私は内弁慶であると思う。きっと今頃は、もの凄く盛り上がって居るのではないかと勝手に想像する。なんせ、逮捕者が出たのだから。

 最初にデモ、っちゅうもんに参加した時は18歳だったかな?なんのデモだったのかは忘れた。色んなもんに行ってたし。でも、なんか違和感を感じた。
 単純な話である。「警官だって人間やん」である。
 警官がデモ隊を殴ってイイ理屈がないのと同じく、デモ隊が警官を殴ってイイ理屈もない。デモはアピールする為の『デモ』なんだし、統治する側の警官が、決められたコース以外に行ったら阻止するのが警官の仕事である。その警官に暴力を振るったら革命もクソもないやろ。警官の支持を得られない革命なんぞあり得るわけがない。それは『革命』っちゅう名前の暴力支配にしか過ぎない。
 『市民』というが、警官だって『体制側』でなく、市民でしかない。同じ人間でしかない。
 その同じ人間を信じられないやり方が何を目指しているのか?

 内弁慶。
 身内ウケ。

 その場での居場所を求める。親しい関係だけの人間関係での居場所を求める。
 家族なら家族内。セクト内ならセクト内。民族内なら民族内。国家内なら国家内。

 靖国の英霊は、他国では殺人者の霊でしかない。
 立場が違えば、英霊は人殺しの霊でしかない。

 麻生氏。自民党政府のトップであり、現在の日本の総理でもある。
 でも、単なる人間でしかない。単なる人間であるから、自分を受け入れてくれるであろう『秋葉原』っちゅう所で総理就任後初の街頭演説をしたのだと思う。
 
 総理だから。
 デモ隊だから。
 っちゅうのでない。
 人間だから。
 人間なのだ。
 それが人間なのだ。

 私は今日も酔って居る。
 酔っぱらって、世間を『見渡しながら』こんな事を書いている。情けない、っちゅうたらありゃしない。きっと『傍観者』という言葉がピッタリな私でしかない。
 私の世界に閉じ篭った意見でしかない。
 「もっと、現場を知りなさい」と云う批判が耳を突く。

 今日、逮捕された人達。又、麻生氏。
 それぞれの人達。
 私は、それ等の人達の事を知らない。
 ただ、思う。
 無礼かも知れないが、「同じやんけ」って。私と同じやんけ、って。

 生きている。間違いなく、生きている。生きて、生活して居られる。それぞれの人生を歩んで居られる。

 麻生氏は逮捕されなかった。
 デモ隊の3人は逮捕されたらしい。

 別に自民党支持者ではないので麻生氏が特別に偉いとは思わない。ただ、日本の総理として御苦労されているのだろう。
 同じく、デモ隊の3人もそれぞれの政治思想でもって逮捕されただけなんだろう。

 誰が偉くて、誰が悪いねん。
 酔っぱらいには、よう解らん。
 ただ、この酔っぱらいは、酔っぱらった『気分』で思うのだが、それぞれの人生でしかないのなら、逮捕された3人だけが悪者のされるのは変や。

いちょう通信

2008年10月25日 | 坊主の家計簿
 10月25日

 外食  ラーメン          409円
 食類  諸々            368円
     無洗米          1680円
     野菜ジュース6      1068円
     ノンフライ麺5       298円
 
 合計               3823円
 10月累計          111725円

 所属寺での学習会だったのだが、別件もあったし、少し熱っぽいので今日はサボリ。

 秋である。食欲の秋であり、読書の秋であり、両方が合わさってメタボの秋でもある。10月も末になって来て、「紅葉はまだかな?」みたいな会話もする。
 『こうよう』と打ち込むと『紅葉』と出て来る。
 『もみじ』と打ち込んでも『紅葉』と出て来る。
 どうやら『もみじ』は『こうよう』が存在意義であると日本語文化圏では思われているのだろう。
 
 『こうよう』しなくても『もみじ』は『もみじ』でしかない。
 けど、『もみじ』は『こうよう』を求められる。

 『いちょう』と打ち込むと『銀杏』と出て来る。
 『ぎんなん』と打ち込むと『茶碗蒸し』と出て来る。え~。。。違う、『銀杏』と出て来る。
 どうやら、『いちょう』は『ぎんなん』としての存在意義を与えられているのかも知れない。まあ、私にとっては『茶碗蒸し』なんだが。『ぎんなん』なんぞは茶碗蒸しに入ってなかったら食べんぞ。茶碗蒸しに入っているから、「せっかくやし」と云う事で食べるが、あんなもんは喰わんぞ。
 っちゅう事で、私にとっての『ぎんなん』の存在意義は茶碗蒸しの中でしか与えられない。「焼いて喰うたら美味い」とかいう人も居て、死んだ爺ちゃんなんかも『ぎんなん』を焼いて食べてたが、私は認めん。断固として認めん。『ぎんなん』とは茶碗蒸しの中で初めて存在意義を持つのだ。

 というのは、当然、ワガママでしかない。
 『こうよう』していない『もみじ』も、『ぎんなん』が実ってない『いちょう』も存在している。
 茶碗蒸し以外の食べ方も『ぎんなん』にはあるのだろうし、それ以前に、『ぎんなん』は人間に食べられる為に存在しているわけではない。
 勝手に決めつけているだけの話でしかない。
 
 『花』と勝手に呼んでいる状態の植物は、別に人の眼を楽します為に存在しているわけではない。仏壇や、墓地に供える為の『生け贄』の為に存在しているわけではない。

 『もみじ』も、『いちょう』も、それぞれがそれぞれに存在している。
 『花』が咲かなくとも『桜』は『桜』でしかない。
 それを見出せないだけの話である。

 人はどうなんだろうか?
 『利用価値』という言葉を思いつく。
 当然、判断するのは『私』でしかない。あくまでも『私』にとっての利用価値にしか過ぎない。私にとって利用価値が『ある』『ない』の話にしか過ぎない。

 「私なんて、どうなってもイイの!」
 と、自分自身の存在価値を見失った状態の人は叫ぶ。

 娑婆世間では『もみじ』は『こうよう』であり、『いちょう』は『ぎんなん』である。
 そういう中で、私(達)は苦しめられる。
 『私』という自分自身の存在が、自分自身が決めつけている価値判断でもって苦しめられている。つまり、『私』は何かの利用価値があるが故に初めて価値を認められる存在であると、『思い込んでいる』。偏見でもって『思い込んでいる』。

 『こうよう』でなくとも『もみじ』は『もみじ』でしかない。
 同じく『いちょう』は『いちょう』でしかない。
 『いちょう』はきっとこう云いたいのではないかと勝手に思う。

 「金メダルを取らなくても私は私でしかない!」
 
 って。
 あ、これはアマレスの『伊調馨』か。

 え~。。。寝よ。

長谷川京子

2008年10月24日 | 坊主の家計簿
 10月24日

 雑費  洗剤          198円
     タバコ10      3000円
 食類  諸々         1277円
     豆腐(昨日)      120円

 合計             4595円
 10月累計        107902円

 仕事中、無性にお好み焼きが食べたくなったので材料購入と。面倒なので『お好み焼きの粉』っちゅうもんを買って来て作る。
 今日初めて知った事。
 お好み焼き粉には『出汁粉&山芋粉入り』のと、『出汁粉入り』のと、『山芋粉入り』の三種類がある。また、山芋粉の分量もそれぞれ違っていて、なかなか楽しい。
 っちゅう事で、お好み焼きを作って食べてたら、なにやら長谷川京子が結婚したらしい。まあ、それはそれでエエのだが、長谷川京子って、女優だったのか?なんかテレビに出てる人、っちゅう認識はあって、「こいつは将来エエ熟女になるで。野田聖子、小谷真生子の次の熟女ナンバーワンかも知れんのぉ。。。」とは思っていたのだが、女優だったのか。
 そういや、『ドラゴン桜』に出てたけど、あれはタレントが芝居しているもんやと思ってたんやけど、女優さんやったのか。

 しゃて、何やら日本の株価がまた暴落したらしい。
 私がこれだけ株価の事に関して諸々云いたくなるのは当然、小谷真生子の影響である。『ワールドビジネスサテライト』っちゅう大阪では23時から19チャンネルでやっている番組の影響である。
 その割に『株』っちゅうもんにも、『経済』っちゅうもんにも全く詳しくないのだが。なんせ、小谷真生子見たさに観ているだけだから。
 
 『株』っちゅうもんは、ホンマに解らん。
 例えば、私が資本金1000万円の会社を作ったとする。5万円で200株か。そのうち『上場』なんちゅうもんを出来るようになり、上場する。すると、株価が50万円になった。5万の株価が50万円である。10倍の価値がついたわけでんな。その後株価はどんどん上昇して行って、20倍の100万円までなった。1000万が2億になったわけでんな。
 んが、その後、株価は暴落して10万円になった。ピーク時の10分の1である。大暴落である。
 でも、元々は5万円だったと思うのだが。。。5万円以下にまで下がったら「わっちゃ!」やけど、元々は5万円だったのが、確かに一時期は100万円になったとしても、10万円になっても倍は得しとるやんけ、と、株に関してズブの素人は思う。元々の5万円になったとしても元に戻っただけである。
 日経平均株価、っちゅうもんが、まあ、ソニーだったらソニーの株が元々一株ナンボなのか知らないが、それは元の値段よりも下回っているのか?下回ってたら「わっちゃ!」なんだろうが、「日経平均株価が7000円を下回り、バブル後の最安値を更新するかも解らん」っちゅうたかって、あーた、元々ナンボでしてん。

 長谷川京子は女優であるらしい。ただ、熟女候補としての価値は膨大な価値なんだろうが、女優としての価値はそれ程でもないと思う。
 女優としての価値なら蒼井優の方が遥かに高い。
 芸能人としての価値や、熟女候補としての価値は長谷川京子の方が高いが、女優としての価値は遥かに蒼井優の方が高い。
 と、まあ、私はそういう価値観を持っている。

 と、まあ、評価、っちゅうもんを勝手に決めたりするのだが、所詮、他人の評価は、他人の評価でしかないと思うのだが。当然、他人の評価だから、私だって長谷川京子の株価は女優としては最低ラインで、将来の熟女候補としては満点である。きっと、『熟女・長谷川京子』の元値50円の株式が1000円であっても「今が買い時である」と判断するだろうし、『女優・長谷川京子』の元値50円の株式が80円であっても「まだまだ暴落する」と勝手に評価するだろう。
 ん?話が変な方向に。。。
 
 元値が50円なら、仮に1000円であれば、950円は世間の評価でしかない。その世間の評価を『基本』に考えてしまうと、株価の暴落が大変な事になるのだろうが、「元値は50円である。」という、価値観があれば別に「元に戻っただけやんけ」と思うのだが。まあ、世の中の『経済』っちゅうもんは、そう簡単には動いてないらしく、大変らしい。
 でも、元々はナンボやってん。。。と、テレビを見ながら思う。

 テレビがあればテレビがある生活が当り前になる。お好み焼きが食べたければ食べれる状態が当り前になれば、それが当り前になる。酒が飲みたきゃ、買って来れば飲める生活が当り前になれば、それが当り前になる。
 基準になる。
 基準はどんどんと拡大して行く。
 パソコンや携帯がある生活が、何時の間にか基準になる。
 「夏は涼しく、冬は暖かい生活」が基準になり、今の季節を「暑いのか寒いのか解らん季節」になる。つまり、冷暖房という欲望を使えない時期に満足出来なくなる。暑ければ冷房で欲を満たす事ができ、寒ければ暖房で欲を満たす事が出来るのだが、今の季節は「どっちやねん」になる。
 「腹が減ったから、食べ物を食べたい」でなく、「美味しいものがあるから、美味しいものを食べたい」になる。食べるものは「美味しくなきゃイヤ!」になる。「美味しくなければ食べない」になる。
 拡大化された欲望が基準になる。現実、なっている。で、その欲望を『当り前』にしている。欲望を満足させる事が豊かであり、欲望を満足させれない事を貧しいと。
 食べる事が出来る、出来ない、でなく、どれだけ欲望を満足させるかが基準になっている。

 自己実現。「自分の思い通りに生きたい」と。
 思い通りに生きれれ豊かな人生であり、思い通りに生きれなければ貧しいと。
 欲望が基準である。
 バブルである。

 長谷川京子は女優であるらしい。私は認めたくないが、まあ、女優なんだろう。
 長谷川京子の本名は知らないが、女優を辞めたとしても、長谷川京子は長谷川京子なんだろう。きっと、15年後にウレウレの熟女ナンバーワンになるのだろうが、別に熟女ナンバーワンでなくても、長谷川京子は長谷川京子なんだろう。
 なんちゅうても、長谷川京子なんだし。それ以上や、それ以下の評価は妄想にしか過ぎないわけなんだし。お婆ちゃんになっても長谷川京子は長谷川京子でしかないわけなんだし。

 この列島を日本と呼ぶのであるならば、別に『美しく』なくても、『経済大国』でなくても、日本は日本でしかない。

『小児医療』第二話

2008年10月23日 | 坊主の家計簿
 10月23日

 食類  かに飯&海鮮       300円
 
 合計               300円
 10月累計         103307円

 あまり有名な話ではないのだが、多くのお寺は年中無休24時間営業であったりする。
 一応、休みもある。例えば31日なんぞもそうである。31日は2ヶ月に1回ぐらいしかないので、多くの寺は『基本』休みである。だが、当然、『基本』でしかない。年末年始も休みにしている所が多いだろうが、それもあくまで『基本』でしかない。基本は基本なので、緊急時には関係ない。
 緊急時、つまり、どなたかが亡くなられた時には関係ない。正月だろうが、休みの日であろうが関係ない。当り前である。亡くなられる方が日時を選べないのと同じ様に、それに関わる私たちも同じである。
 だが、まあ、私は住職ではないので、結構しっかりと休ませて貰って居るのだが、住職達の話を聞くと「旅行に行っててもすぐに帰ってこなあかん時もある」なんぞと大変みたいである。

 年中無休24時間営業が寺の実態であっても、現状はそこまで仕事がないが故に目立たないだけの話である。また、深夜に亡くなられても朝まで待つ方も多く、早朝に連絡がある場合もあるが、それでも夜中に飲んでいる先輩住職が寺から連絡があり、急いで大量の水を飲んで急いで寺に帰られる場面も見たことがある。
 あとは、目立つか目立たないかの差である。

 目立つか、目立たないか。
 つまり、有名であるか、無名であるかの違いだけである。

 真奈美タンの病院は24時間体制の小児科病院であるらしい。当然、深夜は手薄だし、必要不可欠な病院である事には間違いがないのだが、なにかそういう病院にばかり眼が行く。昼間に頑張られておられる病院が多くあり、その病院も真奈美タンの病院と同じく必要不可欠な病院であるにも関わらず。

 寺にも同じ事が云える。
 多くの寺は基本24時間体制である。だが、現状は小さな寺が多く、24時間稼働していない。稼働していない事をあげつらって「あの寺はサボっている」等と云う権利は誰にもない。
 大きな寺なら、大きな寺なりの仕事があり、その現場で頑張っておられるだけであって、それが小さな寺であっても同じである。大きな寺で様々な行事が出来る寺は有名になるのだろうが、小さな寺で、例えば兼業をしながらも、それでも御自分たち『門徒集団』の寺を守っておられる方も居られる。目立つ事はないが、それでも頑張っておられる方々も居られる。
 ある意味、大きな寺は目立ちやすい。小さな寺は目立ち難い。
 そういう現状の中で、「何もしていない坊主」等と云える様な権限を持つ、そういう判断を出来る人は、そういう特権意識、差別意識を持つ事が出来る権限を与えられた人は居ない。居るならばそれは正真正銘の確信的差別者である。

 『寺』という組織、あるいは『教団』という組織は無名の人達の支えがなければ成り立つ事が出来ない。
 法要でも、寺の行事でも同じである。あえて『無名』と書いたが、それぞれに名前を持つ、それぞれの人達の存在なくして法要も、行事も出来ない。それどころか、寺の維持も、教団の維持も出来ない。

 さて、クイズです。
 「大阪城を造った人は誰でしょう?」
 大阪城を造ったのは豊臣秀吉だけではない。無名の多くの大工さんであり、多くの肉体労働をした方々も居られる。
 しかし、大阪城を造った人は豊臣秀吉だけになっている。それは無名の人達を無視する思想である。今は単にそういう思想がはびこっているだけの話である。当然、昔からの事なんだろうが、今も変わらずはびこっている。
 それでも人は生き、そしてそれぞれの人生を歩み、そして死んで行く。
 その中に差は一切ない。あるのは人間の主観、つまり偏見でしかない。

 多くの『無名』と呼ばれる方々を無視する思想を私は悪魔の思想と呼ぶ。
 それぞれの人生を無視する発想方法を国家中心の国家に魂を売り渡した売国奴と呼ぶ。

 以前にも書いたが、ソウルフラワーの中川が阪神大震災の折に被災地を巡りながら『がんばろう』という労働歌に

 ♪がんばれる人は
 
 という歌詞を付け加えざるを得なかった。
 つまり

 ♪がんばろう
  がんばれる人は

 と、歌わざるを得なかった。
 それは中川が被災地で出会った人から感じた事である。
 頑張る事が出来ない縁にある人達との出会いの中から産まれて来た言葉が

 ♪がんばろう
  がんばれる人は

 である。
 『がんばろう!』という合い言葉が変わらず流行中である。しかし、その『頑張ろう』という言葉によって、「私は頑張る事が出来ない」という卑下し、鬱になる人達もいるのが、この世界の現状である。娑婆世間での社会貢献が『こころのノート』を筆頭に囁かれるが、そんなもんは、それぞれの人生でしかあり得ない。
 
 靖国の英霊以外にも、多くの戦死者は『日本国内』に限定しても居られる。英霊と無名である。
 『思い通り』と『思いの外』である。そして、『思いの外』が日々起る。
 また、いつまでも有頂天に居続ける事は無理である。当然の事ながら、『有頂天』は迷いの極致である。その有頂天からの発想方法でもって、人を斬り裁くのは如何なものであろうか?
 人間に人間を差別する権限は一切ない。
 どんな人間であっても差別される筋合いは一切ない。
 誰も、そんな権限を持ち得ない。
 持ち得るのは単なる煩悩である。
 煩悩=菩提ではない。
 煩悩→菩提である。
 煩悩が多ければ多い程、つまり差別意識が強ければ強い程、より強烈に菩提を願わずにはおられない。他人事でなく、求道する私の歩みとして願わずにおられない。

 私は目立ちたがり屋である。
 それが私の課題である。
 『無名』よりも『有名』になりたいのが私の実態である。
 だが、それでは『有名』である時、あるいは『有頂天』である時の私しか、私は私自身を私として認める事が出来ない。
 つまり
 「こういう時の私は好き」
 「こういう時の私はキライ」
 である。
 有頂天になり、その逆に「私なんて居なくてもイイんだ」になる。
 それは迷いであり、偏見でしかない。そんな権限が『迷い』の中に居続け、『偏見』しか持ち得ない私にあるわけがない。
 しかし、変わらず私は迷いの中、偏見の中にしか生きる事は出来ない。
 恐らく、私と同じく迷い、偏見の中でしか生きれない人達と何ら変わり得る事のない存在にしか過ぎない。全く平等の、全く対等の『差別者』として、存在しているにしか過ぎない。

 私は私に出来る事しか出来ない。
 私は私として生きる事しか出来ない。
 そして、今日も私は私として生きている。
 誰からも卑下される、差別される筋合いのない存在として生きている。
 ただ、その事を伝えたいだけである。

自転車誘拐事件

2008年10月22日 | 坊主の家計簿
 10月22日

 雑費  身代金        1500円
 外食  担々麺セット      800円
 食類  諸々          804円

 合計             3104円
 10月累計        103007円

 休み♪
 なので当然『休む』。

 ちょっくら泥棒に入られた人が居てて、21日に少し盛り上がる。そういう話で盛り上がっていたからだろうか、っちゅうか、全く関係はないのだが、私も自転車誘拐犯により、愛車を誘拐される。しかも、堂々と鉄製の看板でもって犯行声明が書かれてあり、「自転車を返して欲しければ身代金1500円を持って以下の地図の所まで来い」との事。
 一瞬「警察に連絡すべきか。。。」とも思ったのだが、なんせ愛車が返って来る事が最優先であり、しかも身代金が1500円だった事もあり、殺気立った眼で地図の場所に出向く。
 「誘拐犯め。。。どんな顔しとるねん」
 と、様々な悪そうな顔を想像していたのだが、なんか非常に気の弱そうな初老の犯人だった。しかも非常に腰が低い。私は殺気のやり場をなくしてしまったのだが、なんせ誘拐犯である。用心しなければ、いつ刺されるかもしれない。私は周囲を見渡し、すかさず武器になりそうなモノをみつけ、凶器と犯人との距離を伺いながら会話を求めた。
 「自転車の鍵はお持ちですか?」
 と、犯人はもの静かに語る。私は用心しながらポケットに片手を突っ込んだ。この瞬間が危ない。視線を外す時も危ないが、片手をポケットに突っ込むと運動能力が半減してしまう。しかも不幸な事に自転車の鍵はジーンズの右ポケットに入れて居た。失敗であった。右利きの私にとって右手をポケットに入れてしまう事はとても危険な行為であった。
 それでも用心しながら私はポケットから鍵を出し、犯人に命じられるがままに自転車の鍵を開けた。犯人は私に命じた。
 「事務所の方に」
 来た。これからが本番である。なんせ取引はまだ終わっていない。私は事務所に入る。事務所にも別の初老の犯人がいた。なにやらこの犯行は初老の犯人2人での犯行らしい。
 「金は用意して来たか?」
 と、犯人は云う。私も
 「用意して来た」
 と。
 緊張の瞬間である。
 犯人は「では、そちらに」と、視線を自動販売機の方に向けた。
 「ん?」と私は思いつつも、その自動販売機を見る。見つめる。睨みつける様に見つめる。なんと、なんと、信じられないだろうが、そこには『自転車1500円』「原付2500円』と書いてあった。
 最近、誘拐等の犯行が組織化されているとは聞いていたが、まさか身代金を自動販売機で支払うまでに組織化されているとは全く想像もしていなかった。
 私は千円札2枚を自動販売機に入れ、500円のお釣りを受けとった。そして、1500円の変わりに出て来たのは、なんと『領収書』であった。身代金の領収書である。この領収書は税務署で落とす事が出来るのだろうか?税務署に行った時に、
 「この領収書はなんですか?」
 「自転車が誘拐された時の身代金です」
 「そうですか。。。最近は多いですから気をつけて下さいね」
 という様な心温まる会話が税務署ではなされているのだろうか?
 私はそういう疑念を持ちつつも、領収書を再び見た。犯行グループの手がかりになる事が書かれているかも知れない。愛車が戻って来たからには警察にいくのみである。愛車の安全は保障されたのだ。あとは犯行グループが痛い目にあって、クサいメシを喰う番である。
 しかし、その領収書には恐るべき事が書かれていた。
 「○○市」と、私の住んでいる市の名義と、市役所の連絡先が書かれていたのだ。
 私は眼を疑った。本気で疑った。しかし、何度見てもその領収書に書かれていた文字は変わる事がなかった。
 確かに、我が市が借金ダルマ状態で赤字塗れである事は知っていたが、まさか善良な一市民の自転車を誘拐して身代金を奪う行為までしているとは信じられなかった。
 当然、私が書いた事を読まれる方々も同じ気持であろう。しかし、これが日本のある地方自治体の実状である。

飲みまくり

2008年10月21日 | 坊主の家計簿
 10月21日

 雑費  回数券         3700円
     諸々         10000円ぐらいか。。。

 合計             13700円
 10月累計          99903円

 学習会♪
 しかも、次の日休み♪
 っちゅう事で、飲みまくりであった。

憲法20条改憲の都市伝説

2008年10月20日 | 坊主の家計簿
 10月20日

 外食  回転寿司        376円
 食類  諸々          182円

 合計              558円
 10月累計         86203円

 「まあ、藤川が打たれて負けてんから、しゃーないか。」
 と、思いつつ御近所スーパーにお買い物。帰宅してテレビチャンネルを弄ってたら『やりすぎコージー』が。深夜からゴールデンになったのね。今日は『都市伝説』。

 しゃて、来年の阪神であるが、広島・栗原が阪神にトレードで来てくれるという都市伝説があるらしい。何やら、新しくなる広島球場に阪神百貨店の名物『いか焼き』の店舗を出店するのがトレード条件らしい。また、ルイスは純粋に金で買って来るらしい。これでクリーンナップ&エースが『元広島』というワケの解らん状態になるのだが、まあ、阪神百貨店にはなんでも売ってるし、別にエエのではないかと思ったりするのだが。
 ああ。。。

 しゃて、続いての都市伝説であるが、これは今後の日本文化を考えるに非常に重大な事柄である。また、伝統仏教教団に属する私にとっても非常に重大な事柄である。
 自民党の憲法20条の改憲案は

【国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない。】

 であるが、この場合の『習俗的行為』が当然の事、問題となってくる。
 解りやすいのが靖国神社への公式参拝である。現状、靖国神社は特定の宗教団体であり、決して習俗ではない。同じく、伝統仏教も習俗ではない。
 もう一つ議論に上がっているのは宗教法人への税制優遇である。まあ、宗教施設に対する固定資産税がない。しかし、この国は借金ダルマである。
 由緒正しい貧乏人家庭に生まれ育った私は『固定資産税』なんぞがどれくらいのもんなのかは知らないが、例えば大阪なら本町、っちゅうオモクソ大阪の中心地のビジネス街に『南御堂』っちゅう所があるが、あそこが固定資産税を取られたらどれくらいするのかな?1000万ぐらいするのかな?
 っちゅう、安易な計算で、全国平均100万として、面倒なので×10000として、100億か?大谷派だけで年間100億の新たな税収。これを全部の宗教法人で考えるならば1000億ぐらいにはなるのかな?
 年間1000億の新たな税収。結構、でかいぞ。
 そして、払う側にとっては痛い。余程大きな宗教法人なら問題はないのかも知れないが、まあ、少ないのかも知れない。
 特に、伝統教団なんぞは痛い、っちゅうか、壊滅の危機すらあるのではないのか?
 そこで、取引である。
 「(揉み手しながら)え~。。。伝統教団は習俗と云う事で宜しいですか?」と。
 つまり、『宗教』でなら固定資産税がかかるが、『習俗』には変わらず非課税であると。
 『伝統教団』つまり、全国の神社仏閣なんだが、神道系は問題なく「え~。。。私らは習俗でよろしおま」と云うのかも知れない。
 困るのは仏教教団である。習俗になれば非課税であるが、そうしてしまうと靖国神社に対する総理の公式参拝を反対出来なくなる。
 当然、反対する理由は様々であるが、基本は憲法20条である。マスコミも『違憲』かどうかを基本の判断基準にしているのだろうし。違憲でなければ、後はそれぞれの考え方の相違でしかない。論調が弱くなる。

 現実、多くの伝統仏教の末寺は「固定資産税を払え!」となると、その生活が困窮する。っちゅうか、無理な所も多々ある。っちゅうか、無理な所がほとんどではないかとも思う。豊かな寺よりも、貧しい寺の方が多い。兼業をしながら住職をやっている人の方が多いと思うのだが。そんな状況下で、新たに「固定資産税を払え!」である。

 個人的に聞いた話では、ある過疎地の住職さんの話を思い出す。その住職さんの寺はバカでかいらしい。バカでかいのだが、なんせ過疎地であり、御参り先が『2件!』しかない。当然、寺の維持も生活も出来ない。故に、都市部に出て来て働いておられ、稼いだ金で寺の運営費に廻しているらしい。都市部での自分の生活もあり、でも、『寺』がある以上、寺を守っていかなければならない。しかも『バカでかい寺』であるが故に、補修・保全費も大変らしい。
 当然、そういう所にも固定資産税はかかって来る。払えるわけがない。

 交換条件は『習俗』である。靖国神社を筆頭に宗教が習俗になる。
 当然の事、その判断を下すのは国家である。国家が「ここは習俗でなく、宗教やな」と判断すれば固定資産税がかかって来る。当然、御国のする事に反対する団体は『習俗』とは認めて貰えない。
 教団を挙げての靖国反対、死刑反対の大谷派なんぞは、現状『習俗』なんぞと認めて貰えるわけがない。

 当然、大谷派が「私たちの教団は多くの寺を抱え、その多くの寺を見殺しにするわけもいかず、苦肉の策として習俗の道を選びます」でも、各寺院はひとつひとつが独立した宗教法人であり、まあ、大谷派から出て行けば問題なく『靖国反対』『死刑反対』と出来るし、あるいは、大谷派が「私たちは宗祖の教えを曲げる事はあってはならない事であり、その為に多くの末寺に御迷惑を御掛けいたす事になりますが、教団としても出来るだけの援助をさせて頂くという事で、私たちの教団は習俗への道を絶ちます」と云う場合にでも、習俗の道を選んだ教団に入ればエエだけの事でもあるし、自分達で連合を組んで独立しても構わない事でもあるが、なんにしても、各伝統教団は大混乱必須である。

 しゃて、今年の阪神の敗北の原因であるが、やはり前半に勝ち過ぎたのではないのか?当然、勝ち数だけでは優勝していてもおかしくない数字であるが、『巨人』という巨人がいる。まあ、そのままなんだが。。。っちゅうか、中日にも負けたし。
 前半戦にあれだけ勝つと、やはり野球選手も人間である以上、驕り高ぶりも出て来て当り前の事である。逆に巨人は前半戦に調子が悪かった分だけ「必死のパッチ」という精神状態だったのだろうし。この差が出たのではないかと考える。
 
 伝統仏教教団は税制上優遇されていた。この『優遇』を当り前の事としてして来た。
 当然、各宗教法人を支えている人達の多くは有権者である以上は、当然の事だったのだろうが、それでも『坊主丸儲け』という言葉もある。つまり、習俗的儀礼としての葬儀や法事等はするが、それと個人の信仰は別だったりする場合もある。また、宗教そのものに関心がなく、ただ、習俗として葬儀をしていた場合もある。つまり『寺を支える側』の意識は、最早『寺は習俗である』という認識もある。
 つまり、習俗の施設として『寺』は必要なのであって、宗教として必要でなくなって来ている場合もある。
 あるいは『遊び場』であるとか。信仰の場でなくなって来ている場合もある。
 そういう中で「習俗か、宗教か」という問題が降り掛かり、その中で「宗教のままだと固定資産税を払わなければならない」のならば、「習俗にして貰えば固定資産税を払わなくとも済む」のならば、「ほな、習俗にしときまへん?」とでんな。 

 まあ、いわゆる『新興宗教』と呼ばれる教団。先に『創価学会』と『親鸞会』の名前を出したが、まあ、恐らく両教団共「うちは宗教教団である」というだろう。また、それだけのパワーもあるのだろうし。『新興宗教』と呼ばれて来たが故に、それだけのパワーがあるだろう。それは、恐らく他の『新興宗教』と呼ばれる教団も同じであろう。
 危ないのは、いわゆる『伝統仏教教団』という名前でもって呼ばれて来た教団である。
 つまり、私が属する教団である。

 宗教法人で優遇されている。優遇は『当然』でなく、あくまでも『優遇』でしかない。
 その優遇が絶たれ、『国家の税収不足』という大義名分で絶たれてしまうかも解らない。

 という『都市伝説』がどうやらあるようである。っちゅうか、私の頭の中にしかない『都市伝説』なんだが。。。別名『妄想』ともいうのだが。。。

朝食りんごヨーグルト

2008年10月19日 | 坊主の家計簿
 10月19日

 外食  かき揚げ蕎麦       347円
 食類  諸々           740円
 
 合計              1087円
 10月累計          85645円

 ネット検索で調べものをしてたら、眼が痛い。。。
 &、昨夜、寝る前にシャワーを浴びて出て来たら、何がどうなっているのか全く解らんのだが、ぎっくり腰再発。。。よって現在私は二重の苦しみを受けているわけなんだが、眼の痛みは眼薬で大分楽になり、今回のぎっくり腰は前回みたいに酷くないので、それ程大変なわけではないのだが。

 しかし、宮崎あおいの『朝食りんごヨーグルト』の新しいCMは凄いぞ。宮崎あおいの魅力&名女優振りが満載である。特にあの「シャキシャキ」の表情の変わり方は素晴らしいではないか。と、まあ、ファンやから思うのかも知らんが。
 ちなみに歌詞は

   ♪ダラダラ ダラダラ のち シャキシャキ
    モジモジ モジモジ のち シャキシャキ
    そんな毎日
    グズグズ グズグズ のち シャキシャキ
    メソメソ メソメソ のち シャキシャキ
    朝食りんごヨーグルト
    ゴロゴロ ゴロゴロ のち プリプリ
  (http://www.glico-dairy.co.jp/tvcm/choshoku_ringo7.htmlより)

 らしい。
 なんか、エエのぉ。『のち』がエエ。その場で「シャキシャキ」でなく、『のち』がエエ。

 ふと、煩悩即菩提、っちゅう言葉を思い出す。
 まあ、
 『無碍光の利益より 威徳広大の信をえて かならず煩悩のこほりとけ すなわち菩提のみずとなる』(親鸞)
 っちゅうやつでんな。
 
 宮崎あおいちゃんは道を求めたのだ。故に目覚める為に『朝食りんごヨーグルト』を食べたのだ。
 か、どうかは知らんが。。。

 学生時代にある先生より「0点が全ての人を救う」やったけな?そんな事を聞いた。なんか高校生か、中学生か忘れたが、そういう人達の前で話された時に、そういう話をなされたらしい。但し、記憶は危ういのだが。
 まあ、自分が0点の最低であるが故に、全ての人達を尊敬出来る、っちゅう意味合いではないかと、今の私は思ったりする。
 けど、まあ、0点の自覚なんぞ無理なわけだ。『0点』が素晴らしいのなら、『0点』が100点になる。「0点が素晴らしいのなら私も0点に近づこう」なんぞと思ったりする。そして100点や、60点なんぞの高得点の人を馬鹿にしたりしてしまうわけだ。
 「ふっふっふっふ。。。あの人たちは0点が満点である事を知らないから、高得点を目指しているのだ。私は違う。私は0点満点を目指す」なんぞと、馬鹿にする、まあ、点数で人を差別しているわけだ。
 0点のというのは事実である。事実0点でしかない。
 0点が良ければ0点を目指し、高得点の人を馬鹿にし、差別してしまう有り様そのものが「お前は0点じゃ!」と。
 何かの価値観でもって、やはり他人を斬り裁いてしまう。そこからなんぞ逃げだす事は出来ない。故に『朝食りんごヨーグルト』を食べよう!

 ん?

 

『小児医療』第一話

2008年10月18日 | 坊主の家計簿
 10月18日

 外食  昼飯          578円
 食類  諸々          882円

 合計             1460円
 10月累計         84558円

 小西真奈美タン主演の『小児医療』を見る。当然録画なり。放送は木曜21時で6チャンネル。大阪以外の地域は知らん。
 第一話の視聴率は9.6%。え~、TVでの前回主演の『きらきら研修医』の初回視聴率が10.4%だったらしい。時間が22時から21時になり、視聴率が落ちるとは。。。
 ドラマとしてはどうなんだろうか?まあ、子どもの頃に親から虐待を受けて愛情が足りなかった主人公が、「もっと私を見て、見て!」と、周囲の反対を押し切って24時間の小児科病院、緊急も受け入れまっせ、の24時間態勢のコンビニ小児科病院を作る物語なんだが、ちょっとドラマとしての作り方が雑な気がするのだが。連続ドラマなんだから、もっと丁寧にゆっくりと作ればエエと思うのだが。なんか単純にTVドラマとして見づらい。

 あ、ちなみに
 『子どもの頃に親から虐待を受けて愛情が足りなかった主人公が、「もっと私を見て、見て!」と、周囲の反対を押し切って24時間の小児科病院、緊急も受け入れまっせ、の24時間態勢のコンビニ小児科病院を作る物語』
 と書いたが、当然、あくまでも私の主観でしかない。
 んが、ドラマの中でも開業初日から問題となり、多分次回からも問題となって来ると思うのだが、人間は休みなく働けない。
 一応、初回の設定では、まあ、諸々の理由もあり開業した初日から多くのスタッフが徹夜である。勤務体系は崩壊している。
 こういう時にテレビドラマなんぞでは主人公が「私が頑張りますから」と云って、24時間体制の中で2時間程度の仮眠だけで働いたりする。当然、それが毎日である。
 肉体的、精神的に緊張感が保てるとは思えず、当然医療ミスなんぞも出てくるであろう。また、当然の事、そういう生活を続けて居ると倒れる。
 「私が頑張りますから」とは、『頑張れる範囲』ならば必要なんだろうが、無理な事は無理なのだ。無理な事は1週間続けばエエ方、長くても1ヶ月続けば上出来なんだろうし、特に『医師』である。

 ドラマでやって居られるような病院が出来れば、それは素晴らしい事。だが、現状で『無理』ならば、例えばテレビ内の設定ではあの地域で困っているのは主に夜間である。ならば24時間態勢は入院患者のみに絞り、夜間専門の小児科でもエエのではないのか?「将来的には24時間にしたいのですが、今現在はスタッフ不足の問題でそういう事にさせて頂きます」とでんな。
 それでも、例えば20時から翌朝8時であっても12時間と大変だが、まあ、24時間に比べると半分である。主人公も体を休める時間があるし、昼間は入院患者とじっくりする時間も出てくる。地域全体で考えると手薄な夜間、深夜、早朝の小児医療を保つ事が出来る。いち病院としては無理だが、地域全体でカバー出来れば、無理してぶっ倒れて、ブッ潰れて、せっかく手薄な時間の医療が崩壊しては元も子もないのではないのか?毎日の事なんだし。

 っちゅうか、テレビドラマや、っちゅうねん。。。

 一個人で全てをやろうとするのは単なる虚栄心だと思ってみたりもするのだが。
 そういう中で「私が頑張りますから」という、ヒーローあるいはヒロインなんぞがテレビや漫画なんぞでは活躍し、それに憧れたりもするのだろうが、『裏方』が居なければ芝居は出来ない。
 あえて、『裏方」と書いたが、他のスタッフが居なければ芝居は出来ない。
 故に『裏方』は決して裏方ではない。芝居の舞台に立たなくとも必要不可欠な存在である。目立たなくとも必要不可欠な人である。

 世間で目立つ行動を取りたい人を私は『売国奴』、つまり『国家に魂を売り渡した奴隷』と勝手に呼んでいるのであるが、まあ、私も売国奴である。
 だが、誰しもが世間で目立つ人、つまり『有名人』であるわけがない。多くは無名である。
 無名であっても、『有名人』と同じ価値しかない。当り前である。同じ人間としては同じ価値しか持ち得る事など出来ない。価値が違うのは娑婆世界である。娑婆世界は差別社会であるが故に人の価値が変わって来る。
 「あの人は素晴らしい」
 「あの人は下らない」
 等々は単なる主観の差別でしかない。

 真奈美タンがやりたい事に共感はするが、別にヒロインでなくても、無名の人でもエエやんけ。と思う。現状は夜間に限定した小児医療であっても充分素晴らしいではないか。
 っちゅうか、テレビドラマや、っちゅうねん。
 っちゅうか、視聴率の悪い無名のドラマや、っちゅうねん。それでも真奈美タンが出てるから毎回録画やな。永久保存でっせ。

2008年10月17日 | 坊主の家計簿
 10月17日

 雑費 エスカップ12        628円
 外食 長崎ちゃんぽんセット     920円!
    和風きつねラーメン      280円
    担々麺            680円

 合計               2508円
 10月累計           83098円

 一昨日、スーパー深酒をして、昨日は二日酔いに酒を押し込む。まあ、しんどいわな(笑)
 今日はタンガクラブで会議(?)だったので、お出かけ。んが、3連ちゃんになるので終電前に帰宅。

 帰宅して、ネットで本の『大人買い』。
 ああ、魅惑の大人買い。。。恐るべしクレジットカード。請求は来なくてエエぞ。年金みたいに間違って呉れてもエエぞ。送るだけ送って、クレジットカードの請求は要らんから。
 というわけにはいかんのだろうが。。。

 少し前にも古本の大人買いをした。あ!クレジットカード以外の郵便振込の分の家計簿書いてないやんけ。え~。。。今度にしよ。
 前回の大人買いは、『西元宗助』っちゅう人の本。念仏者であり、教育者であり、解放運動の人でもある。少し勉強しとかんとアカンのでネットで大人買い。
 ただ、根津氏の本を先に読んでいるので、いまだに一冊も読んでいないのだが。。。

 今日は、『高史明』っちゅう人の本を大人買いする。
 その他に、恩師に借りてノートしながら丁寧に読み込んだのだが、学生時代で金がなくて買えなかった藤場先生の本も大人買いする。え~。。。藤場先生の本は新品なので、え~。。。クレジットカードの請求が怖い。。。

 本。何じゃかんじゃで今まで結構読んで来たのだが、最近は『求め方』が足らん、っちゅう気がする。なんちゅうんですか?法話を聞くにしても、本を読むにしても、キリキリした感情で、それこそ『救いを求める』っちゅう感じが薄らいで来た。寝転がって読んでても、「おお!」と思わず身を起こしてしまうような言葉との出会い。
 言葉は変わらず、ある。だが、それを求める側、つまり私の側が「救われてしまった」のだろう。それこそ、和田先生が、「解った瞬間に眼がトロンとして来よるんですよ」と、私たち『僧侶』の方を向いて語られていたが、見事にそういう感じやなぁ。。。
 解ったから、解った事でもって斬り裁く。

 先日、ある先輩と『個人』っちゅう事について議論していたのだが、専修学院ではよく「個人になっとらんか?」と問われた。つまり「共に生きようとしているのか?」と。「変わらず『自分さえよければ構わない』という生活になっとらんか?」と。
 問われ続ける事。

 大人買いした本、つまり西元宗助氏の本も、高史明氏の本も、正直な話、仕事の延長みたいな事があったから大人買いをした。
 両氏の本を大人買いして読むのも、レポートを書く為みたいなものである。レポートを書く『資料』みたいなものである。それを仕事、まあ、純粋な金銭がらみの仕事ではないが、それでも仕事的な意味合い、つまり、純粋に「救われたい」という、何かの言葉との出会いを求めて買った本ではない。本屋で真剣に言葉との出会い、一冊の本との出会いを求めて買ったわけではない。
 つまり、両氏が書かれた、あるいは講義録で書かれ、何かを伝えようとした、その大切な肝腎要の部分を私は殺している。無視している。
 仕事や知的好奇心なんぞの事柄で、両氏が伝えようとしている『念仏』を殺している。冒涜している。
 だから、読もう。

【「私はいかにも喜んでいるかのような、ありがたそうな、世界一の信者のような顔をする、そればかりか、自分でも本当にそう思ったりすることのある、恥ずかしいもの」】(西元宗助氏『念仏に生かされて』より)

 こういう言葉を残して下さる人達の本を読もう。
 娑婆だし、仕事からみで出会った両氏であるが、でも、大切な先生、本当の意味での『先を生きる方々』として、読もう。