坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

害虫

2006年03月31日 | 坊主の家計簿
 3月31日

 何時もなら仕事が終わる時間に起きた。まあ、疲れているのだろう。
 月末で、金が余っているので生活用品の買い出しに行こうと思ったら、寒かったのでやめ。
 マスター時代ならこういう時には酒を買い込むのだが、今は飲み屋をやっていないので洗剤とか、主食のパスタとか調味料とかの生活必需品を買い込むのが一番なのだが。。。私の性格ならきっと無駄に金を使い込んでしまうので。

 と云う事で、今日は一歩も外出せず。

 3月累計   97683円


 昨日借りて来た『害虫』(http://www.nikkatsu.com/oldmovie/gaichu/top.html)を観る。
 冒頭のシーンがイキナリ母親役の『りょう』のリストカットシーン。。。暗い。。。しかし、りょうは変わらず信じられないくらいに綺麗やな。

 『宮崎あおい』という娘さんが演じる主人公はあの後どうなって行くのだろうか?
 映画自体は何ら救いのない映画。
 様々な縁によって世間で云う『道』を外れて行く主人公。エンディングまでそれは変わらない。
 エンディング後をもし画くのなら、チンピラに犯されて、金欲しさに少女売春をする主人公。

 この映画に救いがあるとするならば、少女が不登校になりプッシャー(麻薬の売人)と親しくなって、ホームレスの知恵遅れのオッさんと知り合って、と云う『そこにも人が居てた』と云う場面。

 ヤクザって、利益関係がある場面なら『ヤクザ』なんだろうが、それ以外はただの人。

 私が坊主に成る前に、ある旧知の先輩が噂を聞きつけて会った事がある。
 「お前は人間を観たいねんやろ。そしたら坊主になんか成るよりも俺と一緒にヤクザに成って売春してるネーちゃんのパンツ洗ってた方が余程人間が観れるぞ。」
 喧嘩弱い、っちゅうねん。。。

 『在日』の会議で「在日一世の人達の話を聞きたい」と云うムード。本とか映画でなく、実際に会って。
 知ってる在日一世って、飲み屋をやってた時代、ミナミに居てた時代に日本橋辺りに居てた『やりてババア』。

 きっと映画の主人公は、そういう『やりてババア』の元で働くんだろう。
 で、自暴自棄にならずに生き残っていたならば、現役(?)を退いた後は『やりてババア』に成るのだろう。

 そうやって『生きて行く人』が居る。

 近所の先輩坊主と喋る。元サラリーマン。私は元飲み屋のマスター。
 二人して云う。「今の仕事は金の心配がない」。
 サラリーマンなら営業成績。私なら売り上げ。を気にする必要がない。
 そういう職業である『坊主』。

 だからこそ言いたい。
 私はどんな生き方でも認める。だから自暴自棄にだけは成ってくれるな。どんな人生でも、私は認めるし、許す。
 だから、そういう様々な人生を送る人を認めない思想を私は徹底批判する。

小さい

2006年03月30日 | 坊主の家計簿
 3月30日
 
 生活   散髪         2000円
 学費   公文         4200円
 雑費   タバコ2個       600円
      缶コーヒー       120円
 外食   回転寿司        577円
 食類   発泡酒         145円
      ひじき煮        138円
      キャベツ         98円
      粗挽きソーセージ2袋  256円
      牛           189円
      豚           261円
      チャルメラ         1円
      黒糖焼酎        980円
      菜の花         128円
      エノキ          68円
      きゅうり          1円
      うどん玉         18円
      にんにく          1円
 道楽   レンタル&メモリー  1554円

 合計     11335円
 3月累計   97683円

 朝方、タバコの自動販売機にて。「ん?なんでスイッチ押しても出てけえへんねん。こら」と、もう一回押したらしっかりと2個出て来るんですね。。。別にまとめて出てこなくってもいいんだよ。一個づつ出て来てもいいんだよ。
 仕事が終わって散髪へ。後、近所のレンタル屋でビデオ&プレステのメモリーを買う。なして本体が440円でメモリーがそれより高いと云う事にイマイチ納得しがたいものがあるのだが、まあ、ええか。ついでにレンタルビデオを数本借りる。ついでにゲームソフトも観る、んが、やっぱりネットで買うのが一番安いな。2200円ぐらいまとめて買ったので送料がタダだったし。
 明日は、和歌山辺りに桜見物に行こうと思っていたのだが、明日も寒いのね。よって辞め。まだバイク(原チャリだが)ではきつそうだ。部屋でまったりしとこ。


 なにか、非常に小さなものを感じる。抑圧され、小さくされたもの。
 元々小さなものではなかった。「小さくされたもの」だ。故にウズウズとエネルギーが充満している。
 爆発する。
 「やってられるか!ボケ!」
 「ホッホッホ!なんて哀れな人達なのでしょうか。」
 自分が大きくなる事によって、小さくされたものから解放されようとする。で、他を小さくする。
 繰り返し。繰り返し。
 そんな繰り返しがイヤになる。

 あれは『赤ひげ』だっただろうか?山本周五郎の。なんか、そんな小説に長屋の『仏みたいな人』が出て来る。その『仏みたいな人』は人を殺した。愛する人を殺した。殺したが故に、優しく成らざるを得なかった。

 「どんな人でも救う」からこそ自分が救われた。救われたのは「どんな人でも救う」からである。
 『どんな人』って、どんな人なんだろう?

 今日、なんとなく借りた日本映画で『害虫』と云うのがある。タイトルだけで借りた。
 『害虫』しかり、『害虫扱いされた人』しかり。排除され、同じ生き物として観られない存在。
 小さく、小さくされた存在。

 「みんなと一緒に生きたい!」

個人

2006年03月29日 | 坊主の家計簿
 3月29日
 
 雑費    缶コーヒー   120円
 食類    たまご     180円

 合計       300円
 3月累計   86348円

 さすがに疲れたので、今日はサボリ。
 仕事が終わって、たっぷり寝て、宅配便で付いたプレステのゲームをしながらボンヤリ遊ぶ。
 ので、ボンヤリしてます。

 昨日、キヨスクで『朝日新聞社長 逮捕』とか云う見出しに惹かれる。なんの事はない、朝日新聞の社長の息子がドラッグで捕まったらしい。
 当然未成年ではなかったはずである。しかし『朝日新聞の社長の息子』である。
 頭が悪い話だ。

 例の『武部幹事長の長男』の話を思い出す。例え長男に入金していたとしても別人格である。名前は知らないので『長男』と記すが、『長男』は武部幹事長とは別人格である。長男を経由して武部幹事長に入金されていたのならともかく、別人格である。
 当然『朝日新聞の社長』と、その息子も別人格である。別人格にも関わらず平気でマスコミで騒ぎ立てる『頭の悪さ』は腹立たしい。

 我々日本国民は天皇の赤子ではない。天皇家は本家でもないし、本家だとしても別人格である。天皇家が、『分家』であるホームレス支援を行ったと云う話は聞いた事がない。
 寺社会には変わらず身分制度の名残りが残っている。それは『寺の坊守(住職の配偶者)』『寺の婿養子』に変わらず『寺族』と云う旧身分出身者が多い事からもあきらかである。

 また、『住職』とその家族とは別人格である。住職の配偶者並びに息子だからといって仏教に詳しいわけでもなんでもない。寺と云う場に居てるが故に、或いは住職と云う僧侶が家族に対して仏教教育をしていたならともかく、ただ単に『配偶者』『子ども』と云うだけで仏教に詳しくなれるはずがない。そんなもんは釈尊の時代の

 【生まれによって<バラモン>となるのではない。生まれによって<バラモンならざる者>となるものでもない。行為によって<バラモン>なのである。行為によって<バラモンならざる者>なのである。】
 
 でもあきらかな事だ。

 んが、そういう『武部幹事長の長男に入金』『朝日新聞の社長の息子逮捕』『寺族』と云う幻覚が多過ぎる。
 幻覚とは何もドラックを使わなくても観ているものである。

 姉歯氏の配偶者が自殺したらしい。病弱だった事などや、人が自殺する経緯など誰にも解らないのだが。。。
 しかし、今朝起きて一番始めのニュースがそのニュースだった事もありブルーだ。
 姉歯氏と、その配偶者は『別人格』である。仮に自殺した配偶者が、証人喚問(?)等で姉歯氏が「妻が病弱だったので。。。」と語ろうとも耐震偽装の問題で必要以上に責任を感じる必要はない。別人格であるからだ。耐震偽装の問題は姉歯氏の問題であってそこまで責任を感じる必要はない。

 少し、個人と云う事が忘却されつつある感を受ける。『個人主義』は評判が悪い。
 個人主義とは決して一人よがりではないはずである。個人としての自覚の中で、「私をとりまく社会」は当然必要不可欠な存在であるが、個人よりも先に『社会』が来ていいわけがない。社会の中に埋没する個人は『死人』である。
 まずは、個々の存在として『今此処に生きている私』と云う絶対的な事実の存在があり、そして関係存在がある。先に関係存在を持って来るのは自己の忘却である。
 
 仏教ならば、仏教に帰依するのは誰でもなく『私』である。その私を抜きにした『仏教』なんぞ『お話』にしか過ぎない。
 たまたま寺の配偶者であった『と云う機縁でもって私は仏教を学び始めた』
 たまたま寺で産まれた『と云う機縁でもって私は仏教を学び始めた』
 たまたま好きになった女の子が寺の娘だった『と云う機縁でもって私は仏教を学び始めた』
 たまたま友達に僧侶が居て関心があったので『と云う機縁でもって私は仏教を学び始めた』
 たまたま実家が仏教を信仰していて『と云う機縁でもって私は仏教を学び始めた』
 たまたま仏教系の大学に入学して『と云う機縁でもって私は仏教を学び始めた』
 たまたま生きてる中で様々な問題に出会って仏教に関心を持ち始めた『と云う機縁でもって私は仏教を学び始めた』
 にしても『私』である。
 『私』がないのは『お話』である。

 個人、『私』が忘却されて居る。
 煩悩を観たくない、綺麗な私で居たい。と云う保守。と云う幻覚。

 「私の家系は尊い血筋だ」
 「私の親は偉い人だ」
 「私の親は犯罪者だ」
 「私の配偶者は偉い人だ」
 「私の配偶者は犯罪者だ」
 「私の息子は犯罪者だ」
 すべて幻覚。個人がない。幽霊みたいなものである。

 国家の為に闘うと云う。
 国家の為に闘うのなら、国家の為に闘えない人達を隔離する事は何の理屈にもなっていない。それは国家エゴの証明ではないのか?国家の為に闘おうとしようとしない人達を『非国民』とするのは、国家エゴの証明ではないのか?

 私はボランティア活動が好きである。しかし、ボランティア活動を「しようとしない人達」を「冷たい人」「共に生きようとしない人」等と言い放つ事を避ける。云いたくなる自分を徹底批判する。

 個人的には阪神大震災以降、『個人』が忘れられようとしている動きを感じる。
 ボランティアで云うのなら、ボランティア活動をしようとしない人達に対して「共に生きようとしない」と言い放つ。
 あるいは、ボランティア活動をする人達に対して「偽善者だ」「聖道の慈悲だ」と。
 共に『個人』の忘却でないのか?

 縁起・無我と云っても『我』がない『無我』なら『お話』である。

自然

2006年03月28日 | 坊主の家計簿
 3月28日

 雑費    缶コーヒー    120円
       午後ティー    120円
       タバコ      300円
 飲み代   ドグラマグラ  1800円
 外食    天下一品     840円

 合計     3180円
 3月累計  86048円

 学習会。参加者は少なかったが、担当だったのでしっかり読み込んで行ったので個人的には良かった。安田理深先生の徹底した妥協なき批判精神をよく感じれた。

 んが、学習会には電車で来ましょう。。。と云う事で、一人ドグラマグラへ。
 渡辺美奈代が居た。本人よりは若いんだろうが(確か32とか云ってたな)。
 なんか、『自然』の話。
 疲れた都会人は自然に行く。自然は受け入れて呉れる。都会人が疲れるのはだいたい人間関係で疲れる。裏山の土砂崩れなど都会にはない。人間関係で疲れる。故に自然に逃げる。人が居ない場所に逃げる。海山川風に逃げる。自己を逃避する。自我を忘却する。エゴで疲れる。

 法然・親鸞は山を降りた。念仏は摂取不捨である。人間関係で疲れる事を引き受けて行ける。エゴ的存在である事を『わが身』と出来る。煩悩具足の凡夫のわれらに帰する事が出来るが故に、逃げずにすむ。

 晩飯を食べ損なっていたので、帰りに天下一品でこってり&焼き飯セット。お腹いっぱい&3連続終電は疲れるっちゅうねん。。。

手鞠

2006年03月27日 | 坊主の家計簿
 3月27日

 雑費   缶コーヒー2本    240円
      アミノバリュー    150円
      タバコ        300円
 外食   回転寿司       420円
      らーめん       399円
 飲み代  手鞠        3790円
      ブラウンシュガー  2100円
 生活   携帯電話      4305円
      白足袋       1500円

 合計      13204円
 3月累計    82868円

 大阪・本町の居酒屋『手鞠』では、ただいま春のタケノコキャンペーンをやっています。
 特にタケノコの天ぷらが美味かった。

頭が動かん。。。

2006年03月26日 | 坊主の家計簿
 3月26日

 食類   発泡酒      175円
      たこ天       49円
      うどん玉      18円
      ノリ弁      310円
 雑費   缶コーヒー    120円
      JR        160円
      大塚レモン    120円
      南海       320円
      缶ココア     110円
 外食   らーめん     400円

 合計     1382円
 3月累計  69664円

 仕事終わって学習会。
 早く帰るつもりやったのに。。。また終電。。。んが、南海電車の機関誌(?)で、安藤裕子が表紙のやつをゲット。素晴らしい!
 学習会はウパニシャッドの『輪廻と業』。
 『輪廻』っちゅうと否定していたが、輪廻思想が発明されたから差別が絶対的固定化出来ないと云う事も教えて貰った。輪廻思想がなければはのまま。
 んで、当然それを仏教と照らし合わしたりしつつ『後ろ向きの業』と『前向きの業』なんぞと云うのも教えて貰ったのだが、そこまで書く気力が今日はない。。。頭が動かん。。。

 明日も外出。早く帰ろ。

参拝

2006年03月25日 | 坊主の家計簿
 3月25日

 雑費   缶コーヒー     120円
      タバコ       300円
 御土産  生しば漬け     630円
 食類   発泡酒       178円
      ポテトサラダ     63円
      菜の花からし和え  114円
      豚ミンチ      100円

 合計      1505円
 3月累計   68282円

 お寺から団体参拝で、真宗本廟(東本願寺)へ。修復工事現場視察。っちゅうか、土曜は工事してないのね。
 ヘルメットを被らされる。『東本願寺』のロゴ入り。
 「こ、これは、団体参拝とは嘘であって、実はこれから工事現場に転がっている鉄パイプと、使えない屋根瓦を叩き割ったヤツで武装してデモでも行くんですかい!」
 どうせなら『大谷派』と書いて貰いたかった。やっぱりヘルメットには『○○派』でっせ。

 修復現場は凄かった。さすがに世界最大級の木造建築物の修復現場で、木も凄いし、洗った瓦もでかかったし重かったが、それよりも何よりも工事現場がデカイ。『ラチェット』『たんかん』『ビティー』等の言葉に弱い私は、「ここまでのもんは維新派にも作れんで。。。」と、工事用の屋根にも感動。夜とかに、修復中の屋根にもスポットライトを当てつつ、あの工事現場内でライブとか芝居をやったらエエのに。

 修復現場視察を終えて、メシ喰って&酒飲んで、岡崎別院へ。ここには我が母校の専修学院がある。しかも別科時代の一年間は岡崎別院に住んでたわけだし、懐かしく、感動。ついでに、私の原点である専修学院の食堂前でタバコを吸う。ついでに食堂内を覗いたが、さすがに入るのは辞めた。出来たら厨房に入ってみたかったのだが。。。

 で、北山別院→大安へ。お土産物。まあ、『お土産物』なんだが、私にとっては別科時代の想い出でもあり、「ああ、大安の漬け物が高かったから、よう漬け物作ったなぁ~」と。まあ、でも、大安の生しば漬けは美味かったのでゲット。ついでに試食三昧。おっちゃん、おばちゃんらは大量に漬け物ゲットしている中、「ああ、この漬け物は、あいつがよく使ってたなぁ~」とかと、みょうな感動。

 帰って来て、スーパーで惣菜買ってプラス、パスタでメシ。
 で、課題をやる。

 浄土論註は面白い。。。別科時代はそんなに感じなかったのだが、今読み返すと無茶苦茶面白い。

【何等の世界にも    仏法功徳宝なからんには
 我願わくは皆往生して 仏法を示すこと仏の如くせん

 仏はもと、どうしてこの願いを起こされたかというと、ある意思の弱い菩薩を見られるのに、ただ仏がまします国土で修行することばかりを楽って、(無仏の国に仏道をおこそうとするような)堅い慈悲の心がない。
 だから願いを興され、私が仏となるときは、我が国土の菩薩は皆、慈悲の心が勇猛でしっかりしており、自ら願って清浄の国土をすて、他方国土の仏法僧ましまさぬ処に至って、仏法僧の三宝を永遠にたもって失わしめず荘厳し、それを人々に示すこと、あたかも仏がましますごとくにして、仏法の種をいたるところに(まいて)絶やさないようにしよう、と願われたのである。】(解読浄土論註巻上より)

 北山別院で貰った『共にあゆむ VOL.60 ささえあう世界をめざして』という本願寺派(西本願寺)パンフレット(?)の中にこんな言葉が載ってあった。
 【現在我が教団を見ると、ろう者の聞法の場は限られています。すべての人の平等を説いてるはずの仏教ですが、ろう者の社会参加という面では一般社会から大きく遅れをとっていると言わざるを得ません。】

 大谷派の今の門首さんは、確か殆ど耳が聞こえなかったはず。別に「門首が。。。」と云う問題でもないが、契機には成りやすい事も確かだ。
 共同作業所時代に手話を習おうと思っていたのだが、それ以前に仕事が忙しい。。。パン職人にはパン屋の本分があるし、その他の事でやっている余裕なんぞなかった。今もそれ程余裕があるわけでもない。んが、関心だけは忘れずに持っておきたい。


 「あ~、今日も御文書くか。」
 「上人。。。」
 「なんじゃ?」
 「それって、聖道の慈悲と違いますん?」
 「。。。。。お前、大丈夫か?」


 そういや、今日はスーツを着て行った。これは専修学院時代の躾けなんだが。。。
 何の時だっただろうか?別科時代にイラク戦争が始まった。で、その直後ぐらいに何かで本山に学院生全員で参拝した時にある先生が
 「今、親鸞聖人はここには居らずにイラクに行ってるかも解りませんね。」
 とかと、語っておられた。

奈良県少年補導条例(案)

2006年03月24日 | 坊主の家計簿
 3月24日

 雑費   缶コーヒー       120円
      タバコ         300円
 外食   らーめん定食      714円

 合計     1134円
 3月累計  66777円

 その他、ネットでゲームを買う。
 
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 http://www.police.pref.nara.jp/ikenbosyu/shounenhodoujourei/060220.htm

 http://www.naben.or.jp/shonenhodou.htm

 「親に成って初めて解る事がある」と、よく云われるが、
 「親に成って忘れる事もある」と、私は言いたい。

 だいたい、『健全』ってなんやねん?ガキの自由を奪う事が『健全』なのか?

 よく、健全な大人はガキが不良になる事を恐れる。
 私の店には高校生がよく飲みに来ていた。バイトした金で飲みに来てた。タバコ吸ってたし、当然酒も飲んでたし、キツい酒を無理矢理おぼえさしたし、結構エエやつらやった。深夜まで遊んでたから、まあ、あいつらは立派な『不良』なんだろう。
 私は17で高校辞めたので、18歳は当然働いて居た。働いた金で飲み歩いていた。
 確か18の時に一人暮らしを初めてして、で、15歳(16か?)の家出少女と付き合った。半分一緒に住んでたようなものだった。
 親は子どもが不良になる事を恐れる。でも、それは子どもにとったら『大きなお世話』以外の何ものでもない。

 「万が一の事があったらどうするのですか?」
 って、死んだらエエだけの話じゃないか?子どもはペットではない。いや、ペットと同じく首輪でつながれるのなら、首輪から放されて死んだ方がましだ。首輪をつけて『可愛い』と云う感性が解らん。檻に閉じ込めておいて『可愛い』と云う感性が解らん。

 私には左腕にザックリした傷がある。17針縫った、馬鹿な傷。当然、この傷と一生付き合って行かなければならないんだろうが、親の云う事を聞いて『真面目に生きていた』と過程する人生よりも100億万倍マシである。

 ちなみにこれを見ている不健全な奈良県警に補導される様な少年少女に教えておいてあげよう。これは当然仏教と何ら関係のない『街のルール』である。特に深夜のミナミなどは治安が悪いのでくれぐれもこのルールは憶えておいた方がいい。
 街には『襲う側の人間』と、『襲われる側』の人間が居る。なら、『襲う側』に立ち、「どこなら襲いやすいか?」と観察しろ。街はぼんやりと歩くものではない。常に「どの場所なら襲いやすいか?」と観察しながら歩けばイイ。また、「どういう人間が襲いやすいか?」も観察すればイイ。そしたら『危険』が見えて来る。見えて来たら大丈夫。それに注意しながら歩けばイイ。
 私にはいくらiPodが流行っているからといって、ひとけの少ない夜道をヘッドホンを耳に突っ込んで歩いているヤツの気が知れん。あんなもん、『音』と云う大事な情報をシャットアウトしているわけだし、首にヒモぶら下げて「これで絞めて下さい」と云っている様なものじゃないか。そうやって、常に危険を感じながら歩けばイイ。

 襲われて、泣いて騒いでも誰も助けて呉れない。そんな所で「私の人権を奪うのか?」等と云っても通用しない。どれだけ『安全な街』を作ろうが、どれだけ『助け合いの街』を作ろうが、必ず危険はある。常に『生きているのは自分だ』と云う事を忘れるな。

王ジャパン

2006年03月23日 | 坊主の家計簿
 3月23日

 雑費   缶コーヒー        120円
      スポンジ2袋       110円
 食類   昔ながら・味噌5袋    188円
      昔ながら・とんこつ5袋  187円
      昔ながら・醤油5袋    188円
      マカディアチョコレート  131円
      アーモンドチョコレート  131円
      クランキチョコレート    94円
      高カカオチョコレート   169円
      カレールー10皿分     92円
      青ネギ           98円
      発泡酒          175円

 合計      1731円
 3月累計   65643円
 
 この間買った『マルちゃん・昔ながらのらーめん』が美味かったので買いに行ったついでに、全種類買う。ついでにチョコレートも諸々買い込む。疲れた時はチョコレートでっせ。

 会議の予習(?)をしながら、ふと疑問。
 「王監督はいつ帰化したのだろうか?」と。巨人に居たわけだし、しかも『ジャパン』の監督だからてっきり帰化していると思っていたのだが、してなかったのね。偏見だったな。申し訳ない。
 本読んでて初めて知ったのだが、王監督は高校生時代に春の高校野球大会での優勝投手だったらしい。しかし、『日本国籍でない』と云う理由でもって国体には出れなかったらしい。その王監督が『日本代表監督』となり、今回WBCで優勝した。

 帰化と云う問題に関心が出て来た。先に私は「王監督は帰化してなかったの?」と書き込んだが、まあ、日本人である私の意識はそんなものである。日本に居て、日本人として産まれて、日本国籍を持つ事が当たり前だから。

 王監督は1940年生まれなので、産まれた時は『帝国臣民』の日本国籍があった。しかし、1952年に日本国籍を喪失した。

 【名前までも改めさして、日本化をさせるということに従来の政府が力を入れておった結果、朝鮮人として日本に長く土着した人もあれば、あるいは日本人になり切った人もある。】(1951年10月29日、参議院、平和条約特別委員会議録第五号よりの吉田茂首相のコメント。但し引用は、田中宏『在日外国人』より)

 日本人の一部の人達は安易に『帰化』と言ってしまう。「選挙権が欲しけりゃ帰化すればいいだけじゃん」等と。
 しかし、元は『日本国籍』を有していた人達が、『御国』の都合によって、また『日本国籍』を喪失される。で、「日本人になりたきゃ、一から帰化しろ」と。
 まあ、「なめとんか!」の話だな。

 帰化しない『在日』は、戦時中の日本帝国主義時代の名残りである。

 同様に私(達)日本人にとっては、安易に『帰化』を勧める事は、単に日本の恥部を隠す事にしか繋がらないと感じる。

 私は『真宗門徒』と云う事に誇りを持って居る。そして誇りを持って居るが故に『問われ続ける事』と『批判』を大事にしたい、と考えて居る。
 安易に帰化を勧める事はその恥部を隠す事であり、日本人としての責任、過去の事実から問われて来る事から逃げる道だと感じる。事実は事実である。そういう事実の上に今の私は生きている。その事実を覆い隠す事は、私を産み育てて呉れた先祖に失礼であり、私に対しても失礼である。
 その『失礼』を平気で犯し、何が『自由主義史観』なものだと。自由は、自分を覆い隠す事なのか?見たくない自分を覆い隠す事が自由なのか?自分自身から、自分達の先祖がやって来た事から逃げるのが自由なのか?そんなものは自由でもなんでもない、他人の人生を生きているだけだ。言い訳だけの人生を生きているだけだ。
 自由とは、自分の恥部も引っ括めて「これが私だ!」と生き切って行ける事ではないのか?「あの時の私はおかしかった」で自由になれるのか?「いや、あの時はあいつ等の挑発に乗ってしまって。。。」で自由になれるのか?「何で私だけを責めるねん。あいつ等もやってたから私もやっただけじゃないか!」で自由になれるのか?そんなのは自由でもなんでもない。単なるパシリである。

 ♪今が好きだから 昔忘れたくないの
  (鈴木君代『ドライブスルー』より)

保守

2006年03月22日 | 坊主の家計簿
 3月22日

 雑費    缶ミルクティー2本   240円
       タバコ         300円
 外食    焼き肉ビール     2390円

 合計     2930円
 3月累計  63912円


 御彼岸終わって、晩飯作るのが面倒だったので近くの中華料理屋でチャンポンでも喰うか?と思ったら水曜日だったのね。お休みやんけ。。。
 と云う事で、いつもの焼き肉屋へ。
 新聞読みながら焼き肉を喰っていたら、新聞の広告に『ヤンキー先生』が。。。また新しい本でも出したのか?

 私は10数年前から、次に日本が戦争をした時にA級戦犯として長渕剛をあげている。あの芝居がかった『歌』など偽の感動であって、大真面目に長渕ファンが理解出来ない。とは云え、『順子』とかを歌っていた時代の、要するにデビュー当時の長渕は別にキライではない。レコードを買ったり借りたりする程の評価はしていないが、害はない。しかし、ロックをやり始めたあたりからの長渕は間違いなくA級戦犯だ。ちなみにあんなもんはロックでも何でもない。
 一度統計を出してもらいたいのだが、恐らく『カルト教団』と呼ばれる教団の長渕ファンの確立はかなり多いのでは?と感じる。両方とも『嘘』だし。『嘘』を『真』にしているし。
 『嘘』なら、私が大好きなデビット・ボウイの様に『嘘』を貫いて『誰も信じない』くらいに『嘘』を貫いてもらいたいのだが、まあ、長渕ファンは『嘘』を『真』にしたいのだろう。そこに人間の自体を忘却して居ればいい。まあ、カルトと同じだな。
 
 で、長渕を同じくA級戦犯の仲間入りをはたしたのが高遠菜穂子である。あいつも自分が何者かが解っていない。確か高遠は独身だったと思うのだが、まあ、『有閑マダムの娯楽』のボランティアであって、イラクのシンナー少年を憐れんで「ホッホッホッホ!私って素晴らしく愛に満ちあふれているでしょう!」と見難い自分を誤摩化していればいいだけの話だ。まあ高遠ファンも同様であろう。で、私は大真面目に高遠ファンを理解する事が出来ない。単に自分のプライドを保ちたい、見難い自分を見出したくないが故に、慈善活動を行なっているのだろう。プライドの高い有閑マダムの女性解放運動と同じであろう。単に自分を誇りたいだけではないのか?「このように素晴らしく美しい私が、何故、暴力的な穢れた男共の云う事を聞かなければならないのか?」と、プライドの高い有閑マダムのエゴの拡大であろう。
 ちなみに私は女性解放運動は好きである。人間解放運動だから。しかし、人間解放運動に繋がらない女性解放運動なんぞ、単なる有閑マダムのエゴでしかない。
 
 で、ヤンキー先生もやはりA級戦犯だな。まあ、厳密に云うのなら『元ヤンキー先生』なんだろうが。
 『元ヤンキー』と云うのは非常に保守的である。そんなもんは『元ヤンキー』に接すれば一目瞭然である。「俺も若い頃はロックとか聞いてたよ」である。決して元ヤンキーはストーンズなんぞ聞かないであろう。ビートルズとか、特にポールマッカートニーのファンぽい。あるいはやはり長渕か。
 更生したが故に、過去の自分を否定する事によって現在の自分、社会生活を送る為に懸命になるが故に保守的になる事は必然なのかも知れない。しかし、それは非常に『うっとうしく』『見難い』。
 更生したが故に、今の自分を問う事が出来ない。
 「私は更生した」と。で、『更生前』の私とは違うと。
 更生したが故に、自分は問われない立場である。

 それは人間が『仏』になる様なものである。『仏』に成るが故に、問われる事をしない、出来ない。問われるべきは常に『更生前』の他者であり、つまり煩悩具足の凡夫である。で、更生したが故に『仏の座』に居座り込む事ができ、当然、煩悩具足の凡夫ではあり得ない。
 んが、そういう保守思想の『ヤンキー先生』を好きな真宗僧侶が居るのも確かだ。私には理解出来ないのだが、私からするとそれは『念仏』を中心に据えていない、念仏から問われる事をしていないだけの話であって、故に念仏に様々な条件を付けて行くのだろうが。
 そういう保守的な動きが当然大谷派にもある。

 「高遠菜穂子さんの様な素晴らしい人がなぜ批判されなければ成らないのか?」と、有閑マダムの肩を持ち、同様に、「私達の様な善意の活動が何故批判されなければならないのか?」と、自分(達)を『批判されない立場』に置くのが保守思想であろう。

 『聖者』は問われない。問われないが故に『聖者』であって、『俗』ではない。
 問われない、問われる事を避けるのは、例えば『男らしい男』と云うのを、まあ、結婚してたら『亭主関白』か?決してパートナーである『妻』の云う事を聞かない。『妻』はあくまでも『妻』である。或いは『奥さん』である。そういう『妻』であり、『奥さん』からの批判に耳を傾けようとしない『亭主関白』の横暴な男性と同じである。

  
 http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0239661264

彼岸

2006年03月21日 | 坊主の家計簿
 3月21日

 食類  豪州肉       307円
     発泡酒       175円
 雑費  タバコ       300円
     缶コーヒー2本   240円

 合計      1022円
 3月累計   60982円

 彼岸中日終わって峠を越える。
 感話は、内容以前に早口やったなぁ。。。まあ、原稿を書いてないし、慣れずに緊張してるから早口に成ってしまうのだが、まあ、今後気をつけよ。
 あとは、資料の正確さだな。掲示板に書いてブログにも転載した『三浄肉』も、見聞疑の
 1 自分のために殺すのをみていない
 2 自分のために殺したのだと聞いていない
 3 自分のために殺したのではないかという疑いのない
 やったし。
 読んで憶えてて、話す事は、確かに私の中ではそういう風に成って居たのかも解らないが、伝える場合にはキチンと伝えないと。その上で「私はこう受けとった」と。そういう風にしなければ。

 しっかし、変わらずうちの住職は法話が上手いなぁ。もっと出て行ったらいいと思うのだが。っちゅうか、最近は他の役職で忙しいし、かつ、学校にも行っているし、基本的にうちの寺は忙しいし。しかも役僧(私だ)も、ちょっと頼りないしなぁ~。
 寺っちゅうもんは、それぞれがそれぞれの役割を果たす事が基本だと思う。うちの寺なら住職が居て、坊守が居て、私が居る。そういう基本の元に、それぞれがそれぞれに『出て行っている』。住職は『代表取締役社長』みたいなもんだし、当然優先なんだろうが、でも私も出させて貰ってるし。関わっている会議があるし、そういう時は優先的に出させて貰っている。
 そういうそれぞれの基本の元に自由に出掛けられる環境っちゅうのは非常にいい。
 と、云う事で、もっと『役僧』としてキンバって住職にもっと『外でも法話出来る環境』を作りたいと感じた日でもあった。
 そして、
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 WBC 投稿者:エロ坊主 投稿日: 3月21日(火)23時11分1秒 eaoska247174.adsl.ppp.infoweb.ne.jp   引用
 王ジャパンがWBCの初代王者になったらしい。
 アメリカも、キューバも、韓国も悔しいかも知れないが、一番悔しがっているのは亀田兄弟ではないだろうか?
 「なに?王ジャパンがWBCの初代王者になったやと?どれだけ強いねん。俺等が試したろうやんけ」と。
 亀田兄弟が相手なら、王ジャパンもメンバーを考えなければいけない。確かに野球選手は動体視力も運動神経もいいが、相手は亀田兄弟である。
 よって、ここは引退後にKー1入りが噂される清原や、やはり引退後にプライド入りが噂される下柳をメンバーに加えるべきであろう。この二人が居れば亀田兄弟と云えどもWBC初代王者を奪う事は難しいと考えられる。
 しかし、亀田兄弟には、あの親父が居る。しかし、王ジャパンの監督である王貞治も現役時代は日本刀を持ってブイブイいわしてた人だ。この二人の戦いも注目したい所である。。。

 っちゅう、くらいに疲れた。。。
 http://www.d7.dion.ne.jp/~winning/question.html#q3

深津三蔵

2006年03月20日 | 坊主の家計簿
 3月20日

 食類    黒糖焼酎         980円
       発泡酒          175円
       納豆3パック        58円
       ちぎり天          69円
 外食    回転寿司         360円
 雑費    缶コーヒー        120円
       缶ミルクティー      120円
       タバコ          300円
 ダイソー  サプリ12と茶3    1575円
 娯楽品   プレイステーション    440円

 合計     4197円
 3月累計  59960円

 ダイソーのサプリメントは『コラーゲン』3、『ブルーベリー』3、『ウコン』3、『マカ』3。
 ダイソーの茶は、『どくだみ茶』2、『減肥茶』1。

 ひゃひゃひゃひゃ!ついにプレイステーションを買ってしまった!って、440円で喜ぶなよな。。。前のは人にあげて、プレステ2は売り払った。まあ、実況パワフルプロ野球専用機として。一応。。。

 明日少し喋る為に資料の準備だけする。あとはぶっつけ本番と云う事で。
 聞法とは「本願のいわれを聞く」なんだろうけど、感話やし。
 っちゅうか、同じやねんやろうけど。念仏の勧めでんな。
 「どんな人でも救われる」が故に私も救われる。唯除→罪悪深重煩悩具足の凡夫。
 故に『どんな人』でも。殺人を犯した人でも、私と同じく救われる。
 「あいつは殺人を犯したから救いの道はない」なら念仏ではない。殺人を犯した人達とも共に歩んで行けるのが念仏。

 法要が終わって、買い出しに行って晩飯作りながらテレビを付けてたら西遊記で深津三蔵が
 「人を助けない御経なんてクソ喰らえです。」
 とかって、云ってた。

プレステ&コショウの一大事

2006年03月19日 | 坊主の家計簿
 3月19日

 雑費   缶コーヒー     100円
      エスカップ12本  648円

 合計      748円
 3月累計  55763円

 おつかれ~っす。
 と、ワイン飲んで早く寝よ。

 仕事中に30分程中途半端な時間が出来た。次に行く所は、すぐ近くだったので動くのも面倒だ。ので、近所にあったブックオフに避難。寒いし。
 例の『PSE法』と云う悪法のせいなのか、プレステが550円で売って居た。で、ここから2割引なので440円か。。。悩む。。。
 ちなみに『PSE法』は何処かのリサイクル業者が覚悟を決めて4月からも電化製品を売るべきだな。で、摘発されたら裁判で最高裁まで闘えば良い。支援カンパぐらいなら多少はする。恐らく最低でも1000万人ぐらいは『悪法』だと思って居るはずなので、一人当たり10円でも1億だ。気合い入れて闘え。支援はする。どぶろくを公然と作って居るおっさんを見習え。

 話がそれた。プレステが440円だ。440円は今月はあまりお金を使っていないので買える。っちゅうか、飲みに行った帰りの天下一品こってりラーメンを辞めてだな、ん?天下一品は辞められへんから。。。っちゅうか、440円ぐらいなんとかなるわい。
 で、これに『実況パワフルプロ野球』の古いソフトが680円で売って居たので、合計1120円で我が家にゲームがやって来る。
 Macはゲームが圧倒的に少ないし、やりたいゲームがない。
 しかし、これは安全なのだ。私はゲーム大好きっ子であって、『子』やないから、『ゲーム大好き中年』か、まあ、なんでもええわ、とりあえずゲームが好きで前にウインを持って居る時など大変だったのだ。ウインから足を洗ったと云う事はゲームからも足を洗ったのだが。。。
 最近、ミクシィでネットで知り合った旧知の人と再会した。信長の野望のオンライン版にハマっているらしく、無茶苦茶気に成るのだが、信長の野望は私にとっては禁物であって、平気で一ヶ月ぐらい遊んでしまう。仕事以外の時間を信長の野望に費やすであろう。しかもオンライン版はかなり難しそうなのできっと延々とやってしまうであろう。よってプレステ2は「買っては行けない」し、ウインも同じである。
 しかし、「プレステぐらいエエやんけ。。。」と。しかもプレステ本体が440円やし。
 うぅぅぅぅ。。。悩む、迷う。

 とりあえず今日の所はプレステに勝った。

 で、最近掲示板よりも圧倒的にこのブログの方が観ている人が多い事が判明。掲示板のアクセス数なんてイチイチ数えてられるけい!んが、ブログは勝手に出てくるし。しかも御丁寧に『閲覧数』と『アクセスIP数』と分けて出てきやがる。このブログは無料なので(家計簿をなんで金払ってつけなあかんねん)、噂に聞く『IP解析』とやらは知らん。
 &、このブログは無料のクセして結構頑張って呉れてテキストなんぞで埋まる事がない位に容量があってやな、
 っちゅうことで、聖カミソリ新聞に書き込んだ中で、お気に入りのネタも転載する事に決定。両方観てる人は無視しといて下さい。
 
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 彼岸の中日 投稿者:エロ坊主 投稿日: 3月19日(日)22時36分26秒 eaoska255116.adsl.ppp.infoweb.ne.jp   引用
 葬儀の控え室で、「彼岸の中日に感話して」との住職よりのお達し。
 何しよかなぁ~。法事とかなら、座っているすぐ眼の前に人が居てるわけやし、まあ、法要でも似た様なもんやねんやろうけど。。。人が眼の前に居てたら安心出来るわけやし、どっかにネタなんか転がっているわけやし、そのネタを元に喋って、で、会話しつつ、また喋れば結構時間なんぞ過ぎるし。まあ、『法要の場』と云うのにまだ慣れていないからなぁ。。。

 やはりここはスタンダードに『コショウの一大事』か。


 「この間よ、ある有名な歴史あるラーメン屋に行ったら、コショウ置いとれへんねん。ラーメン屋にコショウがないっちゅうのはどういう事やねん。笑わせるで、あれで名店やて。あそこのラーメン屋で喰ってるヤツ等に気が知れんわ。まあ、『伝統』に溺れて『コショウ』を忘れよったんやろうけど(笑)」
 「え?その店って、ただ単に味に自信があってコショウを出せへんだけ違うん?」
 「でも、コショウやで。ラーメンには絶対必要やろ。コショウのないラーメンなんてラーメン違うで。しかもコショウの代わりに変なもん置いとるし」
 「変なもんって何が置いてあったん?」
 「なんかな、『ホワイトペッパー』っちゅうのとな、『ブラックペッパー』っちゅうのを置いとるねん。変なもん2種類も置くねんやったらコショウを置いたらエエやんけ。絶対にあそこは潰れるで。コショウのないラーメン屋なんてラーメン屋違うしな。客は『伝統』とか『名店』とかの看板に騙されてるだけやで。哀れな客なや(笑)」
 「あんな。。。『ホワイトペッパー』『ブラックペッパー』って、コショウやぞ。呼び方が違うだけやし、SBとかのコショウにしたかったら混ぜたらエエだけやんけ。。。」

 誰もがそれぞれの人生を生きておられます。で、それぞれの人生の中でかけがいのない出会いも会ったでしょう。先の彼にとってはある店で食べた『コショウをかけたラーメン』が無茶苦茶美味かったのでしょう。しかし、彼はその事によって自分を縛ってしまったのです。『コショウをかけなくても食べて美味しいラーメンの味』に出会おうとせずに、また、『ホワイトペッパー』『ブラックペッパー』がコショウの別の呼び名だと気づく事が出来なかったのです。また、『コショウのないラーメン屋で食べている客』を馬鹿にしだしたのです。
 しかし私は彼を笑えません。何故なら、私も彼と同じ間違いをしているかも解らないからです。皆様にもないでしょうか?自分の人生の中で出会ったものだけを頑なに信じ込み、そこで満足してしまい、新たな世界に踏み出そうとせずにそこから他を裁きあざ笑っている。そういう事はないでしょうか?
 例えば、私にとって原始仏典と云うのはそういう対象でした。どうしても『大乗』『真宗』と云う『名前』に私はこだわってしまいます。その中で『原始仏典』と云うと何かレベルの低そうな、いや、この場合の『レベルが低い』とは『難しい』『誰にも出来ない』と云う意味での『レベルが低い』と云う意味ですが、そういう偏見を持っていました。それは私自身が『仏教=真宗』と云う出会い方をしただけの話です。しかし、私は私の人生を生きている中において『そういう出会い方』をしたので、私にはそれしかなく、それしかないが故に原始仏典を偏見でもって読もうとすらしませんでした。
 先の彼で云うなら『ラーメンにはコショウ』と云う事です。そういう決め付けでもって、自分の体験でもってしか物事を観ようとしませんでした。真宗こそが仏教であると。
 いや、やはり私にとっては『真宗こそが仏教』なのです。しかし、『真宗こそが仏教』なら原始仏典にも『真宗』があってもおかしくないのです。しかし、私はそういう確かめを自分自身でしようとせずに、原始仏典を学んでおられる方々を馬鹿にしていました。申し訳ございません。
 原始仏典については今日はお話致しません。
 今日は、私達が如何に自分自身の体験に甘え、相手も自分も固定化してしまっているのか?と云う事を問題にしたいと考えています。
 ここで少し本を紹介したいと思います。竹中智秀と云う方の『大悲を行じる人』と云う東本願寺から出ている薄い本です。私は200円で買ったのですが、今値上がりしていてもそれほどは値上がりしていないと思います。
 この本の中で竹中先生はこう書かれておられます。
 【本願に帰し、念仏申す者となったということですが、いつの間にか、如来の本願の名号を自我を中心にしながら、それを私有化するといいますか、本願の名号すら自我を立てるための手段にするといいますか、それを利用するという問題が出てくるのです。それほど根の深い自我の問題ということがあって、それを私に外から知らせてくるものが十七願です。すなわち諸仏善知識の教命といいますか、勧めです。それと同時に、実はその本願の名号をすら私有化するというそういう根の深い自我を私自身に、その内から知らせてくれるもの、それが果遂の誓いといわれる二十願です。だから、その本願に遭い、すでに念仏を申す生活を始めている中で、なおその本願の名号すら私有化してしまうという、さらに深い自我を、さらに深い自力の執心を知らせてくださるもの、それが十七願の諸仏善知識であり、二十願の果遂の誓いであることを、親鸞聖人は克明に見い出されているのです。実は本願の名号と言い、念仏の信心と言っているけども、さらに深い自我があったと。そういう自力の執心を深く懺悔しながら、十八願の世界へ転入してゆくという、これが転入です。だから、いつの今か、ということではなしに、本願に遭い、念仏申す身になった者にとっては、「いつでも今」というかたちで、さらに深い自我に目覚め、いよいよ本願に帰してゆくという意味を持つのが三願転入です。】
 ここに居る私達は先程も一緒に勤行をして、念仏申しました。しかし、何処かで自分が出会った念仏と云う事で、自分や他人を固定化していないでしょうか?自分のモノサシを絶対的な『善』とし、あるいは言い換えて『愚かな凡夫でございます』と言いながら固定化していないでしょうか?そういいながらも賢者に成っていないでしょうか?賢者になって自分のモノサシで計っていないでしょうか?自分が出会ったモノサシを絶対的なものにしていないでしょうか?
 『浄土宗のひとは愚者になりて往生す』とは親鸞聖人が書かれた『教え』の言葉です。私達はどこまでも『教えを聞く身』であるはずです。
 今年の始め、和田先生と云う大切な長老が亡くなられました。先生はよく仰ってました「『解った!』と云う瞬間から眼がトロンとして来よるのです。」と、特に私達僧侶が座っている辺りを見つめて仰っておられました。


 いかん、最初、最近気に入って居る『ネタ話し』で遊ぼうと思ってたら、酔っぱらって来てマジに成ってしまった。。。んが、これは使えんな。酔っぱらって書いたし(笑)
 まあ、15分ぐらいで2座やし、お勧めの本を紹介しながら、その場でその本から感じた事をその場で喋ろ。

カリスマ

2006年03月18日 | 坊主の家計簿
 3月18日

 外食   らーめん       189円
 雑費   タバコ        300円
      缶コーヒー      120円
 食類   白ワイン       268円
      海藻玉子10個    168円
      細うどん        18円
      中華そば        18円
      豪州牛肉       380円
 弁当   ノリ弁&鶏カラ    504円

 合計      1965円
 3月累計   55015円

 牛はやっぱりオーストラリアでんな。日本の閉鎖空間で育てられた牛はイマイチ信用ならん。オーストラリアのバカデカイ空間で育てられた赤身でっせ。やっぱり。
 と、明日の葬儀に備えて元祖アミノ酸の肉を喰らう日。

 今日の通夜は婦人会の人達とだった。今居る寺には、恐らくこの辺り最強最大の60数人の構成員を誇る婦人会がある。で、その中の20人が村の通夜にはやって来る。「恐るべし」なのだ。。。
 何が「恐るべし」かと云うと、『声の音域』である。明後日からの彼岸でも婦人会の人達と一緒勤行をするのだが、リードボーカル(?)は当然住職であって、私はパーカッション(?)兼サブボーカルみたいなもんであって、よって声の音域は婦人会の人達と勤行慣れしている住職に合わしていれば問題ないのだが、今夜は住職は他の二つの通夜に行ったので、頼りが。。。
 まあ、基本的に声を低めに出せばいいのだが、それでも合わせ慣れていないと困る。


 帰って来て、2夜連続の『女王の教室』を観る。っちゅうか、2夜連続のスペシャルバージョンは観たが、その前の通常バージョンはタマにしか観てなかったので、イマイチ掴みにくい。
 
 『親鸞の死を悲しむ犬神人』っちゅうのがあってだな、で、何かの本で読んだのだが、ある被差別に伝わる話で「親鸞聖人は、私達の事を友達と仰って呉れた」みたいなのがあった。当然、直接的な関係はないのだが、『被差別者』として。
 犬神人は寺とも当然関わりを持っていた。ある意味寺側の支援組織だったのかも解らない。きちんと調べた事がないのだが。
 が、親鸞とは接し方が違うのかったのであろう。
 んが、当然『親鸞の様な僧侶』も沢山居たであろう。別に親鸞を特別視したくないし、特別視しなくても親鸞は親鸞だし。別に親鸞と同じ様な生き方をした僧侶が親鸞と同時代に居たとしても親鸞の評価は何ら変わりえない。別にカリスマ視してないし。

 
 ちなみに『女王の教室』には西田尚美も出てた。これはガキの頃に喰ってた3個20円のタコ焼きの中にタコが入っていた位に嬉しかった。
 と、今日も勉強せず。。。ぅぅぅぅ。。。御文の練習だけはしといたが。。。

生起するものはすべて滅するものである(律蔵・大品より)

2006年03月17日 | 坊主の家計簿
 3月17日

 雑費   缶コーヒー    120円
 食類   中華麺2玉     50円
      発泡酒      145円
      菜の花      198円
      豚バラ      380円
      鳥モモ肉     370円
 
 合計      1263円
 3月累計   53050円

 多分、私の坊主歴初めての一日3回枕経。ちなみに今居ている寺は別に葬儀業者と業務提携をしているわけではない。まあ、私みたいな役僧を雇える規模の寺だから、デカイと云えばデカイのだろうが。。。
 朝行って、枕経の予定が書いてあって、よく知った名前。入院中だったオーバー100のお婆ちゃん。「まあ、ここまで生きれてんから、今年の桜くらい観てからでもよかったんちゃうん?」とか思いつつ、一日の予定を考えて居たら、坊守さんより別の門徒さんが亡くなったとの事。え?っと思いつつも、最初のお婆ちゃんの枕経に行って、いったん寺に位牌等を置きに戻ると、また別の門徒さんが亡くなったとの事。
 さすがに、一日3件も枕経に行くと気分が滅入る。が、住職が体調不良で寝込んでいるので、気分を滅入らしている場合でもないので気合い、気合い、と、メシを喰う。
 今日は、中華麺を2玉使った豚バラと菜の花の焼そば。買って来た分を全部使って喰ったので栄養満点やな。

 この間に作って放って置いた『赤カブの酢漬け』は失敗。やはり米酢で作った事が最大の敗因である。何時もはレモンで作るのだが、レモンがなかったし。。。で、しゃーないので昨夜から水に浸けておいて塩抜き&酢抜き。で、この間買ったカットトマトの缶詰と、残って居た椎茸と、今日買って来た鶏肉で煮込む。まあ、パスタソースにするなり、スープとして飲むなり、適当にしよ。

 一日に門徒さんが3人も同時に亡くなると、何か意味を見出したくなる。が、当然意味はない。私の意味付けで人が、それぞれの中で生きてこられた人が亡くなった事、その人にとってはたった一度の生を終え、死を迎えられた事を、私の意味付けで判断を下してしまう事は亡くなった方に対する冒涜である。
 また、3人が亡くなられる事は、『私にとって珍しい』事であって、所詮『私』からの視点でしかない。私の価値判断でしかない。それを何か特別な理由でもって、『私』にとって意味付けをしようとする事は、ただ単なる『私と云う世界存在』から、『私と云う自我関心』に引き蘢る事でしかない。

 そういう事は往々にして、世の中に偏在している。
 『前生が悪かった』等とは、その最たるものではないのだろうか?或いは『先祖供養が足りなかった』『信心が足りない』等々。
 何か一つの意味付けをして『楽』に成りたい気持ちもよく解るが、その対象にされた人はたまったものではない。


 (1)”自分は仏となることはできない”というように自らを侮慢する過失によって劣弱心を有している人々に対して、菩提への勇猛心を発起せしめるため、
 (2)”自分は仏となれるが、他の人は仏になれない”というように慢思して劣れる人々を軽蔑する想いを断って、他の人々に対して師に対するが如きの尊重を生ぜしめるため、
 (3)有情の過失が本来的に空であるのにそのことを知らずにそれに執着することを断って、空の真実に対する正しい智慧を生ぜしめるため、
 (4)一切法が縁起であり本来的に清浄なる空であるという真実を知ることなく、それを虚無の如くに理解することを断って、本来清浄なる智を生ぜしめるため、
 (5)自分に対する強い愛着のために断つべきを断たず空性を虚無の如くに理解することを断って、自他平等性を見る大慈悲心を生ぜしめるため
     (小川一乗『仏性思想』P67より)


 【入園者たちは『人間回復の橋』と呼びました。その橋を渡って玉光さんは訪れ、こう言われたそうです。
 「人間回復というのは、あなたがたの人間を回復することだけではありません。皆さんが本当に人間回復されないと、そこへ閉じ込めた側の人間もじつは回復されないのです。」
 そのとき、叔父にひためいたものがあったそうです。
 「世を捨てた私を、外の世界の人はかかわりのないものと思っていると思っていたが、それがじつはそうではなくて、私という人間がここにいるということは、私だけの問題ではなくて、私にかかわりのある多くの人々の問題でもあったのだ。」
 と気がついたのでした。】(中村薫『いのちを差別するもの』P11より。但しブログの都合上、段落で表現すべき事を「」に変更)