坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

修学旅行で靖国「遊就館」を訪問

2013年06月30日 | 坊主の家計簿
修学旅行で靖国「遊就館」を訪問 宝塚市教委が「不適切」と市議会で答弁…後日「利用は可能」と修正も有識者から批判 - MSN産経west http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130629/waf13062914040015-n1.htm


大人になってから行く人も少ないだろうし、事前学習を徹底して、遊就館がいかに無茶苦茶な所なのがを体験されるべきだろ。そういう意味では賛成。
でないと、テレビで「総理、これは公式参拝ですか?」の意味がわかり難いぞ。

伝統宗教団体、各地の仏教会も、「それからお待たせしました。この二週間あまり、議論にもなっていた、福島の新生児の中から、先天的な異常を抱えて生まれて来たケースについてスペシャルリポート&インタビューします。スクープです‼ 賛否はあるでしょうが、勇気あるカムアウトした当事者には温かいエールをお送りください。」などとTweetして、原発事故=奇形児の偏見、福島第一原発事故被害者差別を撒き散らしているジャーナリストを呼んで、「真実を語るが故にテレビから干されて居られる方からテレビでは語られない真実を聞きましょう」という様な「今までの伝統宗教はみんな間違っているのです。わが尊師こそが唯一正しいのです」と何が違うか全く分からない様なカルト性に喜びを見出す予算があるのなら、遊就館に行って来ればイイのに。

国会食堂『ロリアン』

2013年06月27日 | 坊主の家計簿
雑記帳:歴代首相も通った国会食堂、突然の閉店
http://mainichi.jp/select/news/20130627k0000m040052000c.html

昨日、6月26日で43年の長きに渡り衆院内で営業していた食堂『ロリアン』が閉店したらしい。Twitterで見て、「後に和民が入ったら大笑いやのに」と思って、検索したら吉野家だったのね。大手資本には変わりない。

国会食堂『ロリアン』をなさって居られたのは森島すい子さんという65歳のオバちゃんらしい。経営者が別に居るとか、何代目なのかは知らないが、何となく個人営業の食堂のイメージ。決して、吉野家の様な大資本ではないと思う。

地方の人の都会人批判の中で「都会もんは地方に大型スーパーを作って、駅前をシャッター通りにしたあと、売り上げが悪ければ出て行く。」云々とある。いや、駅前をシャッター通りにしたのは、あーたら地方の人でんがな。知らん、っちゅうねん。

とはいえ、面白い話でない事は確か。その土地の独自性が奪われる。大阪の何処でもあるコンビニチェーンで買物するよりも、『よろずや』的な場所で買物する方が面白い。

そんな事を書きながらも、今日の昼御飯は関西ローカルではあるが、チェーン店の大衆食堂。豚汁が食べたかったので。近所に適当な店がなく、車で出掛ける用事もあったので、街道沿いの大きなチェーン店。

店内は当然の如く禁煙。入口にポンプ式の手洗い石鹸があって、トイレも店内も綺麗だし、安い。

でも、なんか冷たい。決して癒されない。あくまでも『食事をする場』でしかない。

学生街でもあるので、近くには色々な店がある。ガラス戸にオカズが入った形式の店はなく、多くは定食屋。当然、『食事をしに行く』わけなんだが、それだけじゃない部分もある。私は店の人と喋らないけど、学生や、近所のオッさんオバはんに店の人が声をかけている。「ありがとう、おおきにな」だけでなく、顔が解る関係なので、「おい、今日は遅いな」「競馬、どうやった?」などなど。灰皿もチキンと置いてある。隣の人が私がメシ喰ってる横で食後の一服をやっていたりする。私もタバコ吸いだが、食事の場でタバコを吸われるのはイヤなので、鬱陶しくて「デリカシーのないヤツやな」などと思うが、それは「デリカシーのない人は外出するな」という事。

ローラとかいうタレントさんのお父さんが云々。元モー娘。の不倫が云々。「どうでもエエやんけ」と思う。

インターネットって、多くの個を発信出来る場なんだろうけど、ネットが出来てから『個』がますますバラけて来たのだろうか?私は管理教育世代、『個』を奪い取られて来た世代で、ネットがないので、情報も少なく、同じ様な考えの人を探す事が難しい、そんな時代だった。今はネットで簡単に見つける事が出来る。

孤独。孤独であるのはイヤ。ネット(メール含む)で簡単に人と通じる事が出来る様になったので、たった一日コミュニケーションが取れないだけで、以前よりも遥かに孤独になる。孤独が当たり前じゃなくなった、が故に。

独り。「独りになる事が怖いから」と、友達、仲間とつるむ。自分の小さな声を噛み殺して、意見を合わす。多分、どの時代でも行われて来た事。それがネットで加速しているだけなのかも知れない。

むっちゃ釜ヶ崎の立飲みに行きたくなったが、今日は体力がない。床が灰皿で、きったなくて、殴られたばかりの鼻に大きな絆創膏を貼ったオッさんが店員に「飲んでええんか?」と注意されたりしつつ、飲んでいる。そんな猥雑な空間。まあ、ミナミの好み店も似た様な感じだが、ちと、人と喋るのしんどい。

猥雑な空間。チンコマンコの世界で、セクハラ発言も、嫌煙者の人権も関係なく、「タバコがイヤやったら、出て行ったらええやんけ」という、人権派からすると「キー!!!この土人どもめ!!!」という世界。そんな世界が好きで、居心地がイイ。

東京電力は2003年原発停止をどう凌いだのか

2013年06月26日 | 坊主の家計簿
東京電力は2003年原発停止をどう凌いだのか - 情報の海の漂流者
http://d.hatena.ne.jp/fut573/touch/20110406/1302100183

夏でなく春。なので「2003年夏に東電は全ての原発を停めた」というのは、かなり意図的な嘘。
「原発マフィアに騙されていた!」という人は反原発運動家にも騙されている場合もあるので御注意。まあ、そんな事はどうでもイイんだろうが。

多数派同調バイアス

2013年06月26日 | 坊主の家計簿
はてなキーワード - 多数派同調バイアス
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%BF%BF%F4%C7%C9%C6%B1%C4%B4%A5%D0%A5%A4%A5%A2%A5%B9

これって、別に国家権力に限った話でなく、身近な所でいうと、友達だろ。仲間だろ。

人権云々の場で、当事者でないのでいつもは何も考えていないであろう我々が、沈鬱な表情で「そんな軽い話ではないです」「大切な問題です」などという言葉を聞くたびに心の中で大笑いしている。ありゃ、見事なマインドコントロールやな。
一度、「どうでもイイ」と言ってみりゃイイのに。人権劣等生、人権落ちこぼれ、人権不良になりゃイイのに。

あ、当然、人権だけに関わらず、原発その他込み込みで。

被差別の問題に気付くのと、解同の論理に従う事は別であるのと同じく、原発問題に気付くのと、反原発運動家の論理に従うのとは全く別。

個人になれ、っちゅうねん。独立せえ。

放下著

2013年06月25日 | 坊主の家計簿
禅語「放下著」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト
http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/060801.html

ずっと『放下着』という風に認識してたんだけど、『放下著』という方が基本なのね。勉強になった。

でも、何と無くの感覚としては、禅宗でよく言われるのかな?「いつまで馬糞を握りしめとんねん!」という、そういう言葉とダブる。確か最初に知った本なんかの話では、手を話しても高さ10センチぐらいしかないにも関わらず、ずっと木の枝にしがみついている。離しても何も恐くないにも関わらず、でも離せない。

禅宗なら『放下著』、真宗なら『お任せする』か。「阿弥陀様に総てをお任せする」。まあ、

【阿弥陀如来が全責任を負うてくださるということは、それは、自分が全責任者であることに帰着する。】(曽我量深『異るを嘆く』より)

に展開するのだろうけど、んなもん、しんどい時はしんどい。

母国・大谷専修学院の本科を卒業して4年後に別科入学。ある女の人に振られただけ。でも、本当にボロボロになって、どうしようもなくて、疲れ果てていた。

そんな時に竹中先生は、「まずは、ゆっくり休んで下さい」と、迎え入れてくれた。本科時代にずっと言われた、その後も言われた「あなたは安田先生の『自己に背くもの』を読みなさい」ではなく、その他の本や、文書や、教えでなく、「まずはゆっくりと休んで下さい」と。

『自己に背くもの』は、当然、自我。昨日貼った竹中先生のニヒリズム云々にも深く繋がる。自我や、自意識で、『失恋』という自我、自意識が深く傷付く現象に対して、「あなたは安田先生の『自己に背くもの』を読みなさい」という事は、何ら間違っていないのだろうけども、多分、私はそれを受け取れなかっただろう。で、竹中先生が言ってくれた一言は、「まずは、ゆっくり休んで下さい」と。

これは竹中先生だけでなく、大谷派の先生総てに通じる事なんだろうけど、まあ、竹中先生。竹中先生は、教学者、いわゆる学者先生だったんだろうけど、でも、それ以前に教育者だった。だから、「竹中先生」と。

私の苦悩の状況に合わせてくれて、ちゃんと私を観ててくれて、「まずは、ゆっくり休んで下さい」と。

竹中先生もひょっとして、そういう声をかけられたのかな?

「はじめに尊敬あり」(一九七七年十一月 竹中智秀先生 みどう仏青『同伴者親鸞』より)

2013年06月24日 | 坊主の家計簿
「はじめに尊敬あり」(一九七七年十一月 竹中智秀先生 みどう仏青『同伴者親鸞』より)


@「共苦」ということとニヒリズム

 去る十一月二日に本願寺爆破事件があり、そのことに関して「闇の土蜘蛛」というグループから声明文が出されました。それは東本願寺が北海道開拓でアイヌの人達を差別し迫害したということをとりあげています。その彼等の行動の原理、理論の指導者は太田竜という人で、「アイヌモシリから出撃せよ!」という論文集の中で本願寺を告発しています。かれは「三十六億の地球の人間のなかで、もっとも抑圧され、しいたげられ、奴隷化されている地獄の底に生きる最後の一人、その最後の一人のところまで辿り着くこと、それが私の組織論だ」というのです。そしてその最底辺のところまでたどりつくことによって、一つの抑圧構造、差別構造を成り立たせている社会構造を、最底辺からくつがえしていくというのです。だから本当に人の苦しむとか悲しみを共有していく、ということがそこではいわれているのですね。こういう話になると、私達が普段「如来の本願」という形でいろいろいっていますが、それとどこが違うかということになりますね。
 しかし、気がつくのはそういう差別構造、支配構造を成り立たせている社会を生きている人達、最底辺であえいでおる人達を黙認している者、そういう矛盾構造の中で差別しながら自分達の幸福を追求している者は許せない。それは殺す以外にないのだというのですね。だから本願寺なんか滅びよということになるのです。否定して否定して、葬って葬ってということしかないのです。だからそこには矛盾があるのです。つまり、あらゆる人々と苦しみを共にするという一方で、差別しているものは抹殺していくという矛盾があるのです。だからそこには激しい憎悪があります。太田竜に最終的にあるのはニヒリズムなんです。言っていることは確かにうるわしいひびきをもっているのですが、そういうことを黙認しているものは滅びよという、どうしようもない憎悪が流れているのですね。


@「転成」のはたらきとしての「海」

 ただ私がそういうことの中で考えさせられたことは、親鸞聖人もそうなんですけれども、「海」ということがよく仏教においてはいわれるのです。この「海」というのは伝統のある言葉で、特に天親とか曇鸞なんかは「如来の本願」といったもののはたらきを「海」で表わしているのです。「海」というのはあらゆるものを呑み込んでいきます。濁ったものも汚れたものも全部呑み込んでいきます。そしてそれを全部海の水に変えてしまう。そういうはたらきを「不宿」と「転成」とで表わされているのです。それは浄化作用といっていいでしょう。『正信偈』にも「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味」とありますね。「如来の本願」は、いかに煩悩に汚れているものでも、その本願にひとたび触れることがあるならば、必ずそのものを浄化するというはたらきとして、我々の上にはたらいてくるのです。
 この「転成」ということがどういうことか、ということがずっと気になっていたのですが、この太田竜の論文を読んでいく中で、太田竜という人は本当に人を愛することを知らないのではないかと思えたのです。そして人を愛し人を尊敬することを知らないものは必ずニヒリズムになるということです。私達がニヒリズムにおちていくのは、本当に尊ぶべきものを見出すことができないし、本当に愛することを知らないということなのです。ドストエフスキーもいっているのですけれども、地獄の苦しみとは本当に愛する能力が欠如していくということなんですね。そうしたものが生きていくところは地獄なんです。


@一切衆生悉有仏性ということ

 「如来の本願」というものが一つの転成としてはたらいてくるもとには何があるかというと、衆生に対して絶対的な信頼、絶対的な尊敬です。これは大乗仏教のことばでいうと「一切衆生悉有仏性」ということですね。だからどんな形でも生きておるものに対しても「汝は仏性を宿すものだ」「汝は尊いものだ」と如来が衆生に南無するのです。「如来の本願」というのは如来が衆生に南無することです。だからお前は駄目だという形では始まらんのです。お前らは滅びる以外にないのだというのではなしに、差別をして生きておるものにすら如来は南無するということです。衆生に対して決して絶望しないわけですね。だから、如来の本願がどう起こされたかというのではなしに、如来が本願を立てられたが故に私が如来に南無されている。如来によって尊敬され愛されておるということが始めにあるわけです。
 その尊敬している証拠が「畢竟呵責」とか「畢竟軟語」とかと説かれているのです。「畢竟軟語」とか「畢竟呵責」とは、そういうふうに生きることが本当にあなたの願っていることなのか、それは本当にまことなのか、というふうに語りかけてくるものなのです。と同時に、非常に厳しくそういうふうに生きることは駄目なんだ、本当に自分を尊んでいくことではないのだ、と批判がなされるのです。しかしそれは愛するが故にという慈悲にみちたものなのです。
 たから「転成」というのは始めに尊敬するということ、始めに礼拝するということがあって、堕落している現実をおもむろに開発していくのです。『大経』にある「悲化」というのはそうした大悲をもって、堕落しておる衆生を教化していく、浄化していくということなのです。

地球の支配者は爬虫類人的異星人である

2013年06月23日 | 坊主の家計簿
太田竜が福島第一原発事故前に亡くなる事なく今も生きていたら、反原発運動過激派の運動は物凄い事になっていた事だろう。太田竜抜きで『みどりの党』が出来るわけもなく、某俳優や、某女優や、某C級アイドルや、真面目な伝統教団僧侶たちもキラキラした眼で「東電は爬虫類人的異星人に支配されている!」とデモをし、某金曜日発行の週刊誌も原発推進に関与した人達を「彼らが爬虫類人的異星人だ!」と、表紙に名前を羅列していたであろう。また、自分たちとは違った意見の持主に対して「お前は爬虫類人的異星人だろ!」と言い出していた事であろうし、某東大教授は「放射能を怖がる事が出来ない人は弱虫でなく、爬虫類人的異星人だから怖くないのです」と言い出していたであろう。
まあ、太田竜が居なくとも、爬虫類人的異星人という言葉を使わないだけで、あまり変わらん気もするが…。

http://www.amazon.co.jp/dp/4880862193/ref=cm_sw_r_fa_awd_hsPXrb1K7QBCB

EM?

2013年06月22日 | 坊主の家計簿
【放射能漏れ】「奇跡の水」「未知の菌」…被災地などに怪しい除染技術横行 - SankeiBiz
http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/130621/cpb1306212008008-n1.htm

この中にはEMとかも含まれるのかな?それとも「EMやホメオパシーは違う。問題にしているのはもっと怪しいものだ!」になるのかな?なりそうな気もする所が怖い部分でもあるのだが…。

野呂美香さんと放射能対策
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1314034425

この人なんぞは、伝統仏教教団の機関紙や、教団で呼んだりしたのかな?で、「長年活動をやっている野呂美香先生がデタラメな事をいうはずがない」と、鵜呑みにしてしまう宗教やってる人、多そう。

反原発運動は、自然食系、スピリチュアル系が福島第一原発事故前から頑張っていた事もあって、そのまま引っかかってる人、かなり多い。

風疹

2013年06月21日 | 坊主の家計簿
チェルノブイリ原発事故の翌年に風疹患者増加していた!
http://takumiuna.makusta.jp/e216756.html

という、まあ、そっち系の人達が自分達に都合のイイ部分だけを取り出して流している情報があって、で、不思議な事にそっち系の人達からの情報を鵜呑みにしてしまう人達と居ているので、「あ!その情報、知ってる」という人は、下記を是非是非。

風疹流行と放射能の話、その2 - うさうさメモ
http://d.hatena.ne.jp/usausa1975/touch/20130527/p1

祟り

2013年06月19日 | 坊主の家計簿
【しかし〈たたり〉はかつて折口信夫が説いたように,もともとは神が何らかの形でこの世に現れることを意味した。】

祟り とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/祟り
より

何かを選ぶという事は、何かを捨てるという事。
原発を再稼動するにしても、再稼動しないにしても、そこに必ず「泣きている人がいる」。

それは、別に政治の話だけでなく、個人生活でも。

うちの市長は『民意』という言葉が好きみたい。でも、民意で滅罪出来るとは思えない。

個人生活の中でも同じ。

高市氏「原発事故で死者いない」

2013年06月18日 | 坊主の家計簿
時事ドットコム:高市氏「原発事故で死者いない」=公明代表は苦言
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201306%2F2013061800466&g=soc

【「被ばくによって直接亡くなられた方は今のところ確認されていないが、安全確保しなければいけないということを伝えたかった」と釈明した。】

確かに『被曝』によって直接亡くなられた方は居ていないだろうが、被曝への恐れから、助けられたかも知れない人たちを見捨ててしまった形になった浪江町などの人たちの気持ちはどうなるのだ?

【凡夫】ということが大人になってもわからなかったら、一生不幸な人だ

2013年06月14日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
「君たちはまだ小さくてわからんだろうが、【凡夫】ということが大人になってもわからなかったら、一生不幸な人だ」

http://ameblo.jp/gyo-tu-ji/entry-11320365682.html


今日の学習会は次は聖徳太子の和讃らしい。教団問題から始まって、私事務局の時は宗憲で、次は愚禿悲嘆で、今回からは聖徳太子の和讃。
聖徳太子といえば竹中智秀先生。という事でググると、出て来たサイトで出会った言葉。

「凡夫」つーのは、悪人だ。自分の思い通りに生きれない人だ。