坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

読経なくとも念仏はある

2011年03月28日 | 坊主の家計簿
 あ~、咳が止まらん。さっさと寝よ。

 ツイッターをツラツラ眺めてたら、被災地で葬儀が出来ない、読経が出来ない。逆にいうと、人が亡くなった時には葬儀をしなければならない、読経しなければならない。

 当然、そういう宗派の方が多いのだろう。
 けど、今回の大災害では読経すら出来ない場合が多い。

 読経は大事。葬儀は大事。
 でも、『ただ念仏』が第一義。

 自衛隊員の方や、救急隊員の方が、僧侶でなくとも、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏申しつつ、救助活動をし、亡くなられた方々に対しても、読経は出来ずとも「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と。

 「南無阿弥陀仏と念仏申すだけで充分なのだ」と。

 読経する事が出来なくとも、僧侶がいなくとも、南無阿弥陀仏と念仏申すだけで充分なのだと。

 宗祖親鸞聖人は生涯に4度の大災害に遭われているらしい。衛生状態も悪く、自衛隊等の重機もなかった時代。何やら1000万人もの方が亡くなられたり、日本の大半の方が亡くなられたり。
 そんな状態。
 数万人の方が亡くなられた今回の大災害よりも大きな災害で亡くなられた方。
 読経が足りるわけがない。僧侶が足りるわけがない。

 僧侶も門徒も関係なく、その念仏の功徳に関係のない南無阿弥陀仏。

 今現在。読経がない状態で土葬であったり、火葬であったり。
 それは『僧侶の数が足りない』という実情でもあるが、『真宗の教えが行き渡っていない』という実情でもある。

 「あ、坊さん、別に来てくれるねんやったら有り難いけど、念仏はあるで」
 等々。
 「読経してくれたら有り難いけど、念仏はあるで」と。

 「お坊さんが来てくれなかった」
 「読経もなく土葬」
 「読経もなく火葬」
 という後悔の念を抱かしている。

 「南無阿弥陀仏があるじゃないか」

 でなく。

節電モード

2011年03月27日 | 坊主の家計簿
 喉が痛く、ブログを休んでます。。。ん?

 思う所があり禁酒中です。なので、『ブログを書く→酒とタバコが必要』という習慣になっており、え~。。。今日も自粛です。

 自粛といえば、大阪でも節電モードが流行っているのか、今日、23時過ぎに車で大阪市内を走っていたら、ヘッドライトを消灯して節電している立派な車が後ろに。それも「交差点で消して、つけるの忘れてたよ♪」とかではなさそうで、信号待ちからスタートしてもそのまんま。ずっとそのまんま。途中、私が右折しても消灯したまんまでずっと走って行かれました。偉い!まさにチーム日本の鏡であり、是非新聞記事として取り上げて頂きたい。または公共広告機構のCMでも。
 
 ちなみに交差点を右折してしばらく走ると、今度はスモールライト状態の車も発見。さすがにヘッドライトを消灯して全てを投げ出す覚悟まではなかったのだろうが、スモールライトの節電モード。

 素晴らしい。。。まさに人情の街、大阪である。私には出来ないが、ほんの30分、しかも23時という夜遅い時間に大阪市内郊外で2台の節電モードの車に遭遇した。これはきっともっと早い時間ならば、それこそ午前11時ぐらいならば、もっと多くの車が、きっとバイク以外の車は全て節電モードでヘッドライト消しているのではなかろうか?
 また今度、調査し、御報告致します。

自粛

2011年03月24日 | 坊主の家計簿
 皆様が喪に服している最中に不謹慎なので、本日は自粛させて頂きます。

 っちゅうか、京都・高倉会館で同窓生に会って「飲みに行きまひょか!」っちゅう事で、京都駅前でエエ店(安い店)を探しても無かったので、結局大阪で飲んでて、え~。。。ベロンベロンだったりします。

 明日も行く予定でして、かつ、明後日は一応午後からの仕事しかないので、え~。。。明日も自粛かも知れない。

 「喪に服せ!」
 「ジーク・ジオン!!!」
 「喪に服せ!」
 「ジーク・ジオン!!!」

天の恵み

2011年03月23日 | 坊主の家計簿
 スポーツニュースも復活。娘とママが寝た後に、こたつでそのまましばらく寝てしまって、起きたらやってた。

 何やら、プロ野球・セリーグ開幕がまだ揉めているらしい。チラホラ見てると誰かが「勇気を与えられる」とかウンタラかんたら。サッカー選手も「勇気を与えられる事が出来れば」とかウンタラかんたら。
 シャワーを浴びて、ネットを立ち上げる。

 辻仁成。。。さすがである。さすが、胡散臭さは天下一品の辻仁成。

【中山美穂、約10年ぶりの新曲は被災地応援ソング!夫・辻仁成が作曲を担当】(http://news.nifty.com/cs/entame/moviedetail/cnmtoday-N0031192/1.htm

 いや~、御商売上手である。当然、これは『直接的』には金にならん。直接的には金にならんが、人気商売の芸能人、「さすが」の一言である。

 で、「勇気を与える事が出来れば」である。
 え~。。。東北の人って、殆どが巨人と楽天のファンだと思うのだが。まあ、阪神ファンも少しは居ているかも知れない。今や日本一の人気球団だし。でも、広島球場で開催される広島対横浜の試合で「この試合を見て、少しでも東北の方に勇気を与える事が出来れば」って(笑)え~。。。その試合があった事すら気づかない、というか、ほぼ、関心がなかったりすると思ったりするのだが。
 プロ野球の開幕は純粋に電力の問題。仕事場の電力消費量が問題になれば、それは「開催したい」ではなく、「開催出来ない」。それだけの話であって、何を勘違いしとるねん。

 「あ、課長ですか。こんな時に仕事している場合じゃないですし、仕事をする気分になれないのでしばらく休ませて頂きます」と、クロネコヤマトの構内仕分け作業員が言い出したら、物流はストップする。東北に送るべき物資がストップする。
 「今、仕事をしても被災者の方々に勇気を与える事は出来ない」と、カップヌードルの工場で働く労働者が言い出す事もないだろう。仕事なんだし。

 昨日、テレビを見てて、「もう、エエ加減にせんかい!」と。テレビ内容よりもCMである。公共広告機構のCMばかり流れる。他で見るのはCM復活当初から流れているユニクロ、「まあ、ユニクロがやっとるし」という事で、洋服の青山やったかな?なんか、スーツのCM。他、知らんブランドの服飾メーカー。ニトリのCMも見た気がするのだが、CM提携している番組に当たらないのか見ない。今朝、牛丼のすき屋のCMを見た、ぐらいか。他は、ほぼ、公共広告機構のCM。
 オシムが「スピードが命」なんぞと煽り、赤星が寄附を煽り、「思いは形に現さないと伝わらない」なんぞと煽る。
 煽られると「何かしなければ、何かしなければ」である。
 公共広告機構のCMで煽られなくとも、テレビの内容でも煽っているし。

 「今、私たちに出来る事」
 って、そんなにない気がする。当然、地域差と、個人差がある。
 西日本で節電する事は「被災者の気持ちに寄り添いたい」という効果はあるが、実質の電力の問題ではない。
 大阪でも多少不便になった日常生活の中で、毎日の仕事をして、生活費の中から出来る範囲の義援金を託すぐらいのもんである。そんな中でプロ野球の開催ウンタラかんたらを見ていると、「テメーら、仕事せえ!」と。
 ただ、斎藤佑樹が「僕の仕事は野球をする事ですが、こうしたチャリティーをする事も仕事かと」みたいな事を言っていたのは賛同出来る。けど、それは野球の試合をしながらでも出来る。

 大阪の府議会議長が「天の恵み」(http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/gossip/topics/news/20110322-OHO1T00060.htm)という失言をしたらしいが、「腹芸の出来ない議長は如何なものか」なんぞと思ってしまうが、まあ、今回の大災害を『天の恵み』と思う人はかなり多いと思う。
 特に建設、建築業などにとっては『天の恵み』以外のなにものでもない。まあ、商売上手だから言わないだけの話である。「災害に強い○○住宅」などのCMを流すのは得策ではない。今の時期に流すと企業イメージのダウンにしかならず、それは今後の仕事、天の恵みを取り損ねる可能性がある。だから流さない。
 同じく、『プロ野球』という人気商売も同じ。「今やるとマズいっすよ。人気、落ちますよ」なんだろう。それが商売なんだし。『商売』という言葉がキライならば、生活手段である。

 被災地入りしているNPOや、宗教団体、その他の人達も居ている。
 NPOというと、何か純粋っぽいのだが、単なる生活手段である。専従職員はちゃんと給料を貰っている。被災地入りするのが仕事である。生活手段である。仕事の一貫として被災地に入って、情報提供して後続部隊(?)の受け入れ態勢を整えたり、あるいは、その場でやれる事をしている。きっと後続部隊には『仕事を休んでも支障のない人』『学生』『休みを利用して何かしたい人』なんぞが入るのだろうが、別に被災地入りしなくとも、それぞれの仕事をする事が被災地に対しても有用な事である。クロネコヤマトの仕分け労働者だけでなく、それぞれがそれぞれの仕事をする事が、「今、出来る事」なんだろうし、「私には何も出来ない」のならば、何もしなくても全く問題はない。生きているんだし。「私は何も出来ないし、勇気を与える事も出来ない」というのは、違う。それは世間の圧迫から生じるストレスだ。放っておいても「引き蘢りは悪だ!」みたいな感じで騒がれる昨今の中、今回の様な大災害でより一層のストレスを感じられて居られる方々も居ているだろうが、んなもん、やれる人がやればイイ。御国の非常事態だろうが、なんだろうが、「助け合いが大事だ!」「今、私たちに出来る事」なんぞと煽り立てられても、『生きている』だけで価値がある事には代わりない。

 なんぞと言いつつ。
 私は『僧侶』という仕事でメシを喰っている。読経という音楽療法も大事な仕事。
 先日、というか、昨日は遠方の葬儀会館での法事。ふと「東北へ行きてぇ。。。」と。
 今、東北では、それこそ『直葬以下』という『直葬』という葬儀を選ばれた方々をバカにする様な失言をしていた方が居られたが、亡くなられた方々の御遺体を見送る事が出来ずない場合が多々あるらしい。それは僧侶の数が足らない事も原因の一つかも知れない。真宗門徒ならば『僧侶も門徒も、皆門徒』なんだが、やはり、『僧侶』の読経が、それを見送る自衛隊員や、救急隊員、遺族の方々にとって大切である場合もある。それが理由の一つなんだが、もっと言うと、そういう場で読経する事によって、『読経の力』を再確認出来るのではないかと。
 なんか、「坊主はお経だけ読んで」と卑下される方も居られるが、今回の様な大災害で『読経の力』を再確認するのもエエのでは?
 私が行きたいのは、読経の研修に行きたい。
 当然、行けない。

 話は少し変わるが、本山の御遠忌法要に対して「延期すべきだ!」とか、「中止すべきだ!」の声もある。え~。。。多分、全国の大谷派寺院の中で、延期、中止して、現実問題として一番喜ぶ住職は私かも知れない。だって、ブログには書けないが、諸々の事情でもって今頃、今になって団体参拝の呼びかけをしているわけなんだし(笑)延期や、中止になってくれたら、どれだけありがたいか(笑)いや、ホンマ、大変でっせ。呼びかけ期間が2ヶ月もない状況で、かつ、今回の大震災。中止や、延期の声が上がっているのをどれだけ『天の恵み』と思った事か。でも、まあ、それは個人的事情なので、あくまでもワガママなので、「そりゃ、違うぜ」なんだが。

 まあ、そういう事情もあり、行けない。かつ、東北は遠い。かつ、諸々の事情で、損失金額が5万円あり、その中で義援金もあり、え~。。。「今は無理」なんだが、行きたい。
 まあ、夏休みを利用して、ママと娘に「ゴメン!どうしても行かせてくれ」と頭を下げて行くつもりなんだが。
 丁度、宮古に道場時代に一年間ずっと横で寝てたヤツの実家の寺があって、名簿を見ていると他にも居てる。なんとか連絡して、コネをつけて、「頼むから後ろについて読経させてくれ」か、被災地で勝手に読経するか。何にしても読経したい。『読経芸人』と揶揄されるが、『読経芸人』として読経したい。それが芸の肥になる。あ、『芸』ではないが、『喪失感』という、それこそ、声明の先生に怒られる様な話なんだが、私のくどい、クセのある声明をより一層『悲しみに寄り添う読経芸人』として、あの場に実際に立って読経したい。ボランティアもクソもない。被災者支援もクソもない。でも、それが正直な気持ちだったりする。
 
 だから、今、丁度学生だったり、『お寺の若さん』だったりして、あるいは、「これから僧侶としてやっていく自信がない」という方々ならば、被災地に行って読経してくればエエのではないのか?きっと、一生涯の財産になる。

 今回の大災害は主に津波の被害であり、規模が全く違うので、それこそ阪神大震災に関わった方々で現地入りなされた方々の情報を見ていると「阪神大震災での経験は役に立たないかも知れない」という情報もある。
 が、阪神大震災のボランティアが実は「自分探しの旅」でもあった側面もある。それこそ、被災地に行って『被災者』と呼ばれる方から「兄ちゃん、大丈夫か?」等と声を掛けられたり。冗談でなく、結構ある。

 助け合い、というが、物資面では確かに『助ける人』『助けられる人』かも知れないが、精神的ケアでなら、それこそ、お互いの助け合いではないのか?
 だから、「少しでも勇気を与える事が出来れば」等という、意識に違和感を感じる。
 感じるのだが、そういう事をいうのが仕事だったりするのかも知れない。
 
 大阪の府議会議長の『天の恵み』発言。
 それこそ、「被災者の人達がこんな言葉を聞いてどんな気持ちになるのか考えた事があるのか!」ならば、拡散しなければイイ。でも、マスコミでもツイッターでも情報は流れまくる。広がりまくる。その言葉で傷つく人が居ているのならば、その情報を流す事を自粛してもイイと思ったりもするのだが、でも、流し、拡散しまくる。

 『天の恵み』という言葉は当然、真宗では使わない。また、大阪府議会議長が発した『天の恵み』という言葉使いとは少し違って来るんだろうが、今回の大災害は『如来様よりの問いかけ』であったりする。あくまでも個人的感覚なんだが。

 だから、「こんな時に何も出来ない私って」なんぞと思う必要もない。
 私は勝手に『今、私たちに出来る事は?症候群』等と呼んでいるが、そこから沸き起こる『役に立つ(何か出来る)』『役に立たない(何も出来ない)』が、それこそ脅迫的にマスコミから垂れ流されている。
 それぞれのいのちが、それぞれの生活がどれだけ大切であったのか、それを奪われる、突然無くす辛さがどれだけ辛い事かを改めて教えて頂けたのが大震災。だったら、それぞれの『いのち』『生活現場』を大事にする事が一番大事ではないのか?後はそれぞれの人生。

 被災をこれ以上広げる理由があるのだろうか?

大阪に疎開する予定の方への注意点

2011年03月21日 | 坊主の家計簿
 おまけ。
 今日、昼寝している娘の横で「今日はそばにいる♪」の私はヒマだったのでツイッターで遊ぶ。
 思いついたネタで、投稿してたら、少し評判が良かったので、ブログにもアップしとこ。ツイッター消えるし。


 
 大阪にも東北の方々が疎開しに来られるらしい。大阪で東北言葉を聞く機会は滅多にないので楽しみである。大阪には、様々地域出身の方々がいるが、東北出身の方には滅多に会わない。東京の方が近いのだし。逆に東北の方も大阪には馴染がないだろう。という事で、【大阪に疎開する予定の方への注意点】

【大阪に疎開する予定の方への注意点1】大阪では「殺すぞ!」「アホか!」「ボケ!」「カス!」は、「こんにちわ」程度の意味です。ですから、余り気になさらないで下さい。

【大阪に疎開する予定の方への注意点2】馴れないうちは会話をしていて「怒られている」と感じられる事が多々ありますが、別に怒っているわけではありません。元々そういう喋り方の人が多いだけです。本当に怒っている時は眼つき顔つきが変わります。

【大阪に疎開する予定の方への注意点3】大阪の食堂で「たぬき」と書いてあるのは狸料理でなく、また、東京の「天ぷらの揚げ玉入りうどん&蕎麦」でなく、「きつねうどんの蕎麦バージョン」です。きつね蕎麦と云う言い方は殆どしません。

【大阪に疎開する予定の方への注意点4】大阪の食堂で、誰かが面白い事を言ったら「椅子から転げ落ちなければならない。」と思われて居られるかも知れませんが、嘘です。単なる都市伝説です。

【大阪に疎開する予定の方への注意点5】大阪南港、関西空港等の、大阪湾にある埋め立て地が「殺された人達で埋め尽くされている」と思われて居られるかも知れませんが、これも嘘です。探せば幾つかは出て来るかも知れませんが、基本「無い事」になっているので、無い事にしておいて下さい。

【大阪に疎開する予定の方への注意点6】大阪には各地に「551の蓬莱」という店があり、そこの豚まん(肉まん)が安くてそこそこ美味しいです。

【大阪に疎開する予定の方への注意点7】蓬莱のCMの影響で大阪の人間は「○○がある時!」「○○がない時!」等とネタを振って来る場合があります。大抵鬱陶しい人なのでずっと住むのならば冷たくあしらうのが一番だと思われてますが、そのネタを楽しんでやって人助けするのも楽しい思い出になるかも

【大阪に疎開する予定の方への注意点8】大阪に来ると「たこ焼き」「お好み焼」「串カツ」「うどん」等を食べたくなると思われてますが、それ程美味くありません。「安くてそこそこ美味しい」というのが正直な所です。

【大阪に疎開する予定の方への注意点9】大阪は昔「上方」と呼ばれていた地方都市です。ですから、東京に対するコンプレックスが強く、その意識を利用して仕事をしているタレントが殆どです。ですからテレビを見てショックを受けるかも、知れませんが「この田舎もんが!」と優越感を持たれると宜しかと

【大阪に疎開する予定の方への注意点10】全国ネットで出て居るタレントが関西ローカルのテレビ局では「いや、こんな事、全国ネットでは言えないよ」とか、「大阪はスゲーわ」等言っているシーンを見てショックを受けるかも知れませんが、そういう時に「生きるのって大変やな」と。

【大阪に疎開する予定の方への注意点11】大阪は「日本で二番目の大都会」ではなく、「日本で一番大きな地方都市」です。大きな田舎です。ですから東京とは全く違うます。きっと、近くにある街を少しだけ大きくしたのを想像して頂いて、気楽に過ごして、気に入れば定住して頂けると幸いです。

【大阪に疎開する予定の方への注意点・最後】当然、暇つぶしのネタなので真に受けないで下さい…

御遠忌2日目と17回忌

2011年03月21日 | 坊主の家計簿
 昨日から真宗本廟(東本願寺)で『宗祖親鸞聖人750回御遠忌』→『被災者支援のつどい』。
 夕方から高倉会館であった『被災者支援のつどい 法話の夕べ』だけ参加。

 講師は蓑輪秀邦先生(教学研究所長)。

 講義録メモをアップしようと思ったのだが、眠い。。。
 なので、辞め。

 あ、行った感想は、「あれは御遠忌である」と。御遠忌が『被災者支援のつどい』と名を変えて化身したのだと。「業界用語ややこしいわい!」という事で、あれは『被災者支援のつどい』という名称に変える事によって、より御遠忌を解り易くハッキリさせたのだと。
 
 ただ、その狙いが当たったのかどうかは解らない。
 何やら初日は4200人の参拝があったらしいが(http://www.asahi.com/special/10005/OSK201103200005.htmlより)、記事を読んだ時に「え?たったの4200人?」と思った。

 『被災者支援のつどい 法話の夕べ』は高倉会館、ガラガラ。当初「入れなくても構わないから、とりあえず行こう。行って表でも構わないから法話を聞こう」だったのだが、ガラガラで3人椅子に1人。
 
 当然、単に参拝者数で物事を決めては行けないのだが、御遠忌を中止せずに、例えば本願寺派の様に

【一方、西本願寺は「共に悲しみ、共に苦しむ」親鸞の遺志をついで、750回忌法要を4月9日から予定通り行う。】(http://www.asahi.com/special/10005/OSK201103200005.htmlより)という形であれば参拝を中止なされる方々も少なかったのでは?と思ってしまう。
 それぐらい大切な仏事だった。
 蓑輪先生、気合い入りまくり。当り前か。
 あれは娑婆の言葉(?)で言う『決起集会』やな。やっぱり、偏っとるの、俺(笑)

 偏りついでに。



【ワシントン草野和彦】オバマ米大統領は訪問先のブラジル・ブラジリアで19日、声明を読み上げ、リビア国民を保護するため「米軍の限定的な軍事行動の開始を承認した。行動は始まった」と宣言した。また国民への攻撃をやめないカダフィ政権に対して、「行動には結果が伴う。それが連合国の大義だ」と述べ、国際社会の強い意志を主張した。

 大統領は軍事行動について、「米国や我々のパートナーが求めた結果ではない」とし、国連決議に盛り込まれた即時停戦に応じないカダフィ政権が招いたものだと指摘した。さらに「圧政者が自国民への情けは無用と言っているのに、手をこまねいているわけにはいかない」と語った。

 大統領は米国の役割に関し「国際的なパートナーが主導する飛行禁止空域の設定を可能にする」として、仏英軍の支援的な立場であることを強調し、地上部隊の派遣はないことも改めて確認した。

 一方、クリントン米国務長官は訪問先のパリで19日、国連決議の履行を協議する多国間会議に参加後、軍事行動に至るまでの「アラブ諸国の指導力と参加は重要」として、その「正当性」を強調し、実際の作戦への参加にも期待を表明した。】(http://mainichi.jp/select/world/news/20110321k0000m030039000c.htmlより)



 である。

 【「行動には結果が伴う。それが連合国の大義だ」】

 であり、

 【「米国や我々のパートナーが求めた結果ではない」】

 であり、

 【「圧政者が自国民への情けは無用と言っているのに、手をこまねいているわけにはいかない」】

 である。

 これだってきっと『人道支援』なんだろう。

 阪神大震災直後にオウム事件があった。今でもヒステリックになっている方々も居られるが、オウム真理教の方々だって『同じ人間である』と、今日では森達也氏の『A』『A2』等が教えてくれる。
 というか、オウム真理教の幹部の方々は、非常に心優しい方々であった。大阪の幹部の方には数名、直接会った事があるのだが、非常に心優しい方々だった。それは麻原氏でも同じだったのだろう。オウム事件後の報道の中で、麻原氏の部屋の不潔さ、確か「ネズミやゴキブリが沢山」みたいな事も流れていたはずなんだが、あれは単純にネズミやゴキブリを害虫と見なさなかったからだけではないのか?と思ったりする。
 で、心優しいが故の一連のオウム事件だったのではないのか?地下鉄サリン事件等の。

 心優しい人にとっては、心優しいが故に「許せない事」が多々あるのだろう。
 そして、敵を作る。『敵』は『救われない人』になる。だからオウム真理教の『タントラ・ヴァジラヤーナ』であったり、『ポア』であったり。あれは少なくともオウム真理教の方々にとっては『殺人』ではなく『救いの為の行動』でなかったのか?

 で、偏った思考方法の私は、この『何かしなければ症候群』が、そのまま広がって行く事がうっとうしい。非常にうっとうしい。

 リビアに自衛隊は行けない。行っている場合ではない。今の日本にそんな余裕はない。
 でも、米軍に助けて貰ったりしている。「米軍に助けて貰ったままで、そのままで良いのか!」「私たちも世界の独裁者に圧政されて、殺されている方々に対して何か出来る事はないのか!」「今こそ行動する時ではないのか!」等と、『災害での被災者』が『独裁者の被害者』へと。

 日本がアジアを中心とする周辺諸国でした侵略戦争でも、今日では「侵略でなく解放である」等と。確かにそういう一面もあったのだろうが、侵略の面もある。
 タントラ・ヴァジラヤーナが『殺人』でなく、『救済』であった事と似ている。

 今日、3月20日は地下鉄サリン事件があった日。

 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110320/t10014794021000.html

 上記リンクニュースでは慰霊式が行われたらしい。
 16年目。十七回忌。

 そんな日に『ジャスミン革命』という民主化運動に対して圧政を加えているリビアに対して、日本も含む『西側諸国』の中の連合国が軍事行動を始めた。

 【ロイター通信によると、リビア国営テレビは20日、米英仏などの攻撃により、首都トリポリやベンガジの民間人地区で計48人が死亡、150人が負傷したと報じた。】(http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20110320k0000e030035000c.htmlより)

 である。

 そういう中での宗祖の御遠忌。

御遠忌の朝

2011年03月19日 | 坊主の家計簿
 駅前に新しいラーメン屋が出来た。以前も同じ場所でラーメン屋があったのだが、3ヶ月ぐらいで閉店。結構、美味しかったのだが、ラーメン650円。この辺りで650円あれば、ラーメンに焼き飯が付く。定食は400円から食べれる。多分、ミナミとかなら「美味しい」と評判になって、650円でもやって行けたのだろうが、この辺りでの商売はキツかったのか。
 今回新しく出来たラーメン屋は550円。ランチタイムには700円やったかな?唐揚げとライスが付いて700円ぐらいならば、他の中華料理屋と充分に勝負出来るし、夜でも550円ラーメンならば他の中華料理屋と勝負出来る。ライス100円でお代わり出来たはずだし。650円で腹一杯になって、かなり美味しい、っちゅうか、とんこつラーメンのスープとしては絶品のラーメンだし、まあ、勝負出来るだろう。

 以前のラーメン屋もお気に入りだった。650円と少し高いのだが、太麺でボリュームもあって、スープも結構イケた。近所にあると非常に有り難い店。でも、潰れた。
 今度の店は潰れては困る。

 前の店の店主が借金をして店を作ったのかどうか知らないし、今度の人もそう。借金をして作ったのか、実家が金持ちで御気楽商売なのかは知らん。でも、潰れると困るのだ。

 大阪でも数日前から2リットルのペットボトルの水がない。
 「水がなければビールを飲めばいいじゃない」と言われるかも知れないが、朝からビールを飲むわけにもいかない。
 私はお茶を飲まない。ほぼ白湯ばかり飲んでいるのだが、2リットルで59円やったかな?の、ミネラルウォーターも飲んでいる。そろそろ在庫が少なくなって来て、いつも買いに行く遠方の店まで行っている時間がなかったので、近くの薬局&酒屋2店、共にない。この間はあったのだが、ある噂ではカップ麺もないらしい。そういや、薬局のカップ麺コーナーには在庫が殆どなかったし。ただ、特売88円のヤツだけであって、通常価格128円の商品はあったのだが、そろそろないのかも知れない。

 こういうのを『買い占め景気』と言っていいのだろうか?商品がない、という事は、カップ麺だったり、ミネラル水だったり、電池、トイレットペーパー、紙オムツ、ナフキン、なんぞの業界は忙しくてたまらん状態なんだろう。きっと株価も上昇しているのかも知れん。
 建築業などもそうだろう。今はまだ入れる状態ではないのだろうが、これから東北では復興に向けた建築ラッシュの好景気である。地元の建築会社や、今回の災害で職を失った方々にも仕事が出来る。非常にエエ話である。きっと300数十万の失業者の方々にも仕事が入るだろうし、まあ、飯場仕事が出来る人でないと無理だが、釜ヶ崎等の寄せ場で生活して居られる方々、「万博は俺らが作ったんじゃ!」とプライドを持って居られる方々の代わりに「東北は俺らが復興させたんじゃ!」というプライドになるかも知れん。

 けど、それまでの裏に、経営に苦しんでいる方々も居られる。

 プロ野球の開幕で揉めているらしい。それ程興味がないのだが、今日の昼間、車で移動中にAMラジオのキャスターがエライ激怒してはった。いわく「こんな時に野球なんかしている場合か!」である。
 いや、あーた、こんな時もクソもないでんがな。
 まあ、説得力のあるのは東京ドームなんぞの、今、計画停電している地域でのナイターは「おい!」だろう。計画停電している地域の人達にとっては「その電力をこっちにまわせ」だったりするのだろう。
 
 今回の大災害で義援金が多く集まっている。

 ふと、香典について考えてみたりもする。
 最近、香典拒否の葬儀が多い。でも、今回の大災害で「こんな大変な時に私はぬくぬくとした生活をしていて本当にいいのだろうか?」と、感じられる方は多い。そして、罪意識を持ったりする。これは葬儀でも同じである。私は坊主バー3代目マスターが死んだ時に、かなりの『香典』ではないが、かなり高額の金で通夜の酒を用意した。これは私自身が故人に対する罪意識の禊である。香典は基本、相互扶助なんだが、罪意識を祓う禊としての、まあ、香典を払う事によって、親しい人を無くした心のケアの働きもある。だから、受けとりを拒否する事は、故人と親しい人達の心のケアを奪う事にもなる。また、香典返しをしていく作業の中で、遺族の心のケアにもなる。面倒なんだが、大切な作業である。

 今回の大災害で多くの義援金が集まっている。それは相互扶助であると同時に罪意識のケアにもなる。「こんな事しか出来ませんが。。。」と義援金を送る事によって、ほんの少しだけなんだろうが、「私はやった」と。
 祈りでも同じである。『被害者に対する祈り』と言っても、まあ、これは宗教観が問われるのだが、無霊魂ならば、祈られる対象はない。あるのは、それぞれの心の中に居る『被害者』である。だから、被害者に対して祈る事によって、心の中に存在する被害者に対する罪意識のケアになる。
 
 同時に、その姿を見る事によって、「ああ、私も死んで行く時には、みんなからああいう風に大切に思われるのだ」という安心感にもなる。だから、とても大事。

 イベントの自粛ムードが流行中。
 プロ野球の開幕に関してのアンケートでも「こんな時に開催しても、楽しめない!」(http://www.daily.co.jp/information/top/0003871877.shtmlより)等とある。その他、多く聞く声であったりもする。
 非常に心優しい感覚。きっと、優しい方なんだろう。

 私は小さなバーを経営していた。小さなバーだったので、仕入れの支払いは現金払い。その度。だから、毎月の売り上げから「ようやく、これで家賃が払える」と。そこから「これで電気代」「これで水道代」等々。最後に残ったのが私の収入。

 「こんな時に『そんな金を使っている場合か!そんな金を使っている余裕があるのなら被災地にまわせ!」

 私は『そんな金』で生活していた。また、今も多くの方々が『そんな金』で生活して居られる。

 いつもニコニコ現金払いだった小さなバーの経営と違って、手形なんぞの商売をしておられる方々も多くいる。その為に少し利子が高くとも金を回しておられたりする。

 イベント。多くの業者が出入りしている。開催が中止になればキャンセル料は発生するかも知れないし、場合によっては泣かなければならない。また、イベントを見越して、例えば、弁当屋ならば、弁当屋に納品している業者がいている。この不景気な中、イベントで入って来るお金が延期になる事によって、会社が倒産したりするケースや、「義援金を払ったから、今月は飲みに行くのを控えよ」で、潰れる店も出てくる。
 それは『仕方がない事』なんだろうか?自粛ムード、優しさの裏に泣いている人たちの姿は想像出来ないのだろうか?

 当然、それも引っ括めての商売である。小規模の商売に『営利目的』もクソもない。『生きて行く為の商売』である。『生きて行く』という事においては被災者と変わらない。自粛ムードの中で二次災害を起こしてどうする?

 助け合い『お互い様』は大事。でも、特定の『助け合い』に心を奪われて、日常に行っている生活の中での助け合い、経済活動という助け合いも忘れたらアカンと思う。
 けど、忘れてしまう。イベント中止の自粛ムード、自粛ブームになってしまう。
 それは自我中心だから。自我を離れる事など無理なのだ。

 こういう事を書くと「お前は支援する事を否定するのか!」になるのかも知れない。けど、違う。全然違う。
 支援する、あるいは「支援したいという気持ち」がなければ、そういう自我中心の私を発見する事は出来ない。

 「何かしなければ」があるから、その行動があるから、自我中心の私を発見出来る。煩悩具足の私を発見出来る。念仏申す機縁を与えて頂ける。
 清廉潔白など不可能にも関わらず、清廉潔白を求めてしまうのだろうが、それも欲望なんだろうが、清廉潔白の中ではなかなか煩悩具足の凡夫たる自己を発見する事は難しいのではないのか?

 きっと、今、一番、「助ける事が出来なかった。。。」と感じて居られるのは、現場におられる方々だろう。
 「何人助ける事が出来た」ではなく、「あの人を助ける事が出来なかった」と。

 その「あの人を助ける事が出来なかった」が罪意識になり、自暴自棄になったり。「なんでやねん、俺は一体、何をしててん。なんで、もっと早く気づいたれへんかってん!」等と。心に深い傷。

【慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々】(歎異抄第四章より)




【日本の皆様へ、

 今回の悲劇で亡くなった多くの方のことを想うと、ある部分、あるかたちで我々自身も亡くなったのだと痛切に感じます。

 人類の一部の苦しみは、全人類の苦しみです。また、人類と地球はひとつの身体です。そのひとつの身体の一部に何かが起きれば、全身にも起こります。

 このような出来事は、命のはかなさ(無常)を我々に思い起こさせてくれます。お互いを愛し合い、助け合い、人生の一瞬一瞬を大事に生きることが、我々にとって一番大切なんだと。それが亡くなった人々へのなによりもの供養です。彼らが我々の中で美しく生き続けれるように生きるのです。

 フランス、そして世界各国のプラムヴィレッジ寺院(瞑想センター)から、僧、尼僧、在家者の皆さんがともにお経をあげ、日本のみなさんに平安、癒し、保護のエネルギーを送り続けています。

 みなさまのためにお祈りしています。

 ティク・ナット・ハン】(http://www.higan.net/news/2011/03/post-5.htmlより)

筋の道

2011年03月18日 | 坊主の家計簿
 昨日は道場・同窓生の会の会報発送作業。
 朝、非常に珍しく、先輩からも電話で「今日は人手が少ないから絶対に頼む」なんぞの連絡。行く予定だったし、深夜のメールもしたのだが、前日深夜メールは、まあ(笑)え。。。今度からもっと早く連絡しよ。
 まあ、そういう「人手が少ない」と電話連絡して来るぐらいなのだから、「こりゃ、結構終わるのが遅くなるなぁ。。。」と覚悟する。
 っちゅうても、まあ、普段の仕事があるわけであって、仕事を終えて京都へ。食事も駅の立ち食いうどん。「急げ、急げ」である。
 
 京都の作業する場所に到着。「ん?なんか靴が多いやんけ。他になんかやってるのかな?」と思いつつ、部屋に入る。人、むっちゃ居てる。入ってすぐの所に院長先生も居てるし、職員やら、卒業したばかりの人やら。何やら、被災者カンパの呼びかけ文を同窓生の会と、道場の院長先生の連名で呼びかけるらしい。そういう事もあって、院長先生が声をかけたらしい。発送する紙が一枚増えるだけなのだが、まあ、院長先生らしい。久しぶりにベテラン先生や、ビハーラ研修の案内も入るので、ビハーラに関わっている先輩等も来られていて、懐かしい交流。
 あ、作業は『記録的』というか、発送作業始まって以来最短の時間で終了。2時30分頃に到着した私は30分しか働いてません(笑)

 事務局中心に近くの喫茶店へ。いつもならまだまだバリバリ作業している時間なので、続々といつものメンツが登場。まあ、「今日の終了は9時ぐらいかも知れんのぉ」だったし。

 で、まあ、結局数人で飲みに行って、終電で帰宅する。

 行った激安居酒屋。え。。。場所もエエ場所だったのだが、ヒマ。19時から23時近くまで居たのだが、満員には程遠い。3分の1も入ってたかな?19時に入店した時は私たちだけだったし。
 自粛ムードなのかも知れない。

 本山の宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要の第一期法要が中止になったらしい。

 http://www.higashihonganji.or.jp/goenki/news/detail.php?id=230
 http://www.higashihonganji.or.jp/goenki/news/detail.php?id=232
 http://www.higashihonganji.or.jp/info/news/detail.php?id=233

 まあ、名称を『被災者支援のつどい』として開催するらしいが。

 え~。。。
 様々な状況判断の中、恐らく苦渋の決断をなさったのであろうが、非常に残念である。無茶苦茶残念である。腹立たしい程に残念である。
 そうなのである。私は怒っている。

 だいたいやなぁ、それは仏法を信じてない、っちゅう事ではないのか?仏法の働きを。また、「やったら御遠忌なんぞするな!」とも。
 事実、現実問題として燃料が「それこそガソリン買うのにムッチャ並んでます」とか、「軽油が手に入りません」とか、その他の交通網も危ないらしいのだが、別に名称を『被災者支援のつどい』にしなくとも、今回の御遠忌は必然的に『被災者支援のつどい』にならざるを得ないのではないのか?何の為に『カフェあいあう』がある。様々な意見交換出来る場を作ったのだ。
 また、法話、御念仏の教えを再確認して、それぞれがぞれぞれに『青草人』、あ、これは同窓生学習会の名前なんだが、無名の市井の人として、それぞれが立ち上がって行ける力を与えてくれるのが真宗の教えではないのか?それが故の宗祖の生涯ではなかったのか?

 ちょっと、何の本に書かれてあったのか思い出せないのだが、ある本にこんな逸話が書かれてあった。
 とあるお寺の坊守(住職の配偶者)のお婆ちゃんが、亡くなりそうだった。死期が近づいて来た時にそのお婆ちゃんは葬儀の心配をした。葬儀と寺での法要が重なって、法要を中止になる事を恐れた。だからお婆ちゃんは「雪に埋めろ」と指示をした。「雪に埋めて、葬儀を伸ばせ」と。それぐらい、寺での法要を大事になさった先達がおられる。

 また、これは北陸だったか?原発反対運動の時に旗にどういう言葉を書くべきか迷っている時に、とある人がやって来て「南無阿弥陀仏」を書いたらしい。

 また、「藤井さん、驚きをとおりこした悲憤いっぱいの臨界事故。おみまいの言葉も申せません。このたいへんな状況のまっただ中で、いよいよ”真宗”を顕らかにしていくという仕事の大きさ重さ、深刻さをおもいます。どうかお身体にごむりなきよう、敬意をこめて…」(真宗ブックレット『いのちを奪う原発』収録「ヒバク」その悲しみの時代 東海村臨界事故から見えてきたこと 茨城県東海村 藤井学招)

 等と。

  浄土真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実のわが身にて
  清浄の心もさらになし
 (親鸞聖人)

 が、私であり、他人の事など全く考えようとも出来ない罪の深さを照らし出して頂けるのが真宗仏教の念仏の働きではないのか?

 また、御遠忌を縮小、あるいは中止して「義援金として被災地に送るべきだ」等という意見もあるが、それは筋が違う。御遠忌の為に集めた志であって、ならば一度返却すべきではないのか?事務処理は大変だろうが、「これだけの金額を義援金として被災地に送ろうと考えていましたが、一度、皆様にお返しして、皆様に御任せいたします」等の一文と、返還する気持ちを伝えれば、その事が運動になる。決して「大谷派として○○億円の寄附をした」と、世間的評価は得られないかも知れないが、返還した『志』が、それぞれの『志』として何倍にも、何十倍にもなるかも解らない。大谷派に託される方も居られるだろうし、「いや~、うち、最近生活に困ってるからそのまま頂くわ」かも知れないし、何に使われるかは解らない。
 解らないが、それこそ、今回の御遠忌予算に対して「割り当てるのでなく、御門徒の志に託そう」という動きがあったが、義援金に関しても、御門徒の志に託すべきではないのか?
 その結果、「大谷派として○○億円の義援金」というのは無くなるかも知れないが、でも、それぞれがぞれぞれに様々な形の義援金として『志』をなされるかも知れない。それが筋ではないのか?同朋教団としての筋ではないのか?

 また、『御遠忌を中止した』という先例があるのか無いのか知らないが、左翼的妄想から心配するのは、この事が先例となって、「御国の一大事の時に、御遠忌などしている場合か!あの大災害の時に私たちの先達は御遠忌を中止して、多額の義援金を送ったではないか!」等と。
 例えば、戦争時の銃後の守りで多額の義援金が必要になった時など。まあ、左翼的妄想なんだが。。。

明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

2011年03月16日 | 坊主の家計簿
 昨日、本山の宗祖親鸞聖人750回御遠忌に関して「現実問題、団体参拝のバスとか、交通、流通の問題で延期になっても仕方がない。」等と書いてしまったが、そういう事を書いてしまう自分の信仰の浅はかさを思い知らされる1日だった。

 御参りの仕事がなかった今日、寝付いたのは朝の10時ぐらいだった。
 福島第一原発の次から次へと入って来るツイッター情報が気になってしまい、なかなか寝れなかったのだ。
 目覚めたのは14時過ぎ。事態がより悪化していた。

 深夜と言ってよい時間帯には富士宮を中心とする震度6強の大地震。夜が明けてみないとどういう事態になっているのか解って来ないのだが。
 飛騨の方でも地震があったらしい。

 御遠忌を延期する。遠忌延期である。これを平仮名で書くと「えんきえんき」であり、なんか『えんぎ』が良さそうだったりするのだが、そういう縁担ぎは真宗ではしないし、っちゅうか、私が今さっき思いついた「デーブなんかに負けてたまるか」という、ん?まあ、エエわ。

 御遠忌を延期した場合に、それこそ末期の癌患者は行けない。
 
 また、宗祖親鸞聖人の御遠忌である。伝説で

 『明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは 』

 と、「まあ、兄ちゃん、今日はもう遅いから明日にしようや」を拒否なさった宗祖である。その宗祖の御遠忌を遠忌するのならば、それこそ、「いつ始めるのだ?」と。
 言い換える。「いつ始まるのだ?」と。

 まして、今回の御遠忌のテーマは

 『今、いのちがあなたを生きている』

 で、ある。『今』である。

 「明日もある」と生きているのが私である。今日を生き切る事なく過ごしているのが私である。だから「来年でもエエやん」等と。
 私自身も来年生きているかどうか解らないにも関わらず、まして、これは恐らく現実にある話なんだろうが、余命わずかの人が「最後に宗祖の御遠忌に御参りして」と言って居られる方が居られるかも知れない。
 私はまだ若く、「来年がある」等と平気で言ってしまえるが、ご高齢の方にとっては「え?来年に延期ですか。。。」となるかも知れない。『1年間』という重みが全く違う。
 来年になった時に「いや~、おじゅっさん。去年やったら行けてんけどなぁ。。。」と言われるかも知れない。
 まあ、全て「知れない」という仮定、妄想なんだが。。。

 今日の大地震で、静岡方面の方々の参拝も難しくなったかも知れない。
 また、この地震が拡大して行くのであれば、それこそ、今週末までにも、もっと多くの所が、もっと多くの方々が参拝出来なくなる可能性もある。解らない。全く解らない。解らないが、

 『明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは 』

 である。

 『いつかきっと離れてしまうから
  いま
  いっぱいの想い出を作ろう』
 (某門徒さん)

チリンチリンと堕落論

2011年03月15日 | 坊主の家計簿
 いかん、ツイッター中毒だ。。。
 
 うちのチャンネル権は娘が握っているので、今回の様な大災害であっても娘は「なにそれ~」である。全く興味がない。なので、私はiPhoneでツイッターをつらつら眺めたりボヤイたりしつつ情報収集をしているのだが、え~。。。ツイッターにハマってしまった。。。

 個人的の「ツイッター最強」は『衲僧』(http://twitter.com/#!/busterbonze)という多分、臨済宗の坊さんだったのだが、何やら有名ブロガー(?)らしい『きっこ』(http://twitter.com/#!/kikko_no_blog)という人も面白い。

 何が面白いって、その生命感覚だ。
 直接コピペしたいのだが、確か、この人って、ブログの記事をコピペ引用されるのを「嫌っている」という噂を見た事があり、また、ツイッターの呟きの直接リンクの仕方も解らんので、「なんとなく、こんな事言ってましたで」という形にしよ。
 まあ、だいたいの感じでは、結構大真面目な事も書き込みながら、「福島第一原発の1号機、2号機。3号機という言葉を聞いてエヴァンゲリオンを思い出す」であったり、とか、「サンシャイン牧場に水を撒いたり害虫駆除をしたり」であったり、「私はこんな時でもアニメの事やギャグをつぶやいたりする」等である。

 素晴らしい。。。素晴らしい生命感覚を表現して居られる(なんとなく上から目線、失敬)。
 さすがは、日本で有数のブログの達人である。人気があるのも解るわ。

 そんなもんじゃないのかな?生身の感情って。

 私は今回の大災害に関しては、共感出来ない。出来ない理由は、地震を感じていないから。爆睡している間に「え?大阪も揺れたん?」である。
 これは決定的に違う。同じ揺れを感じて、「あの揺れでこんな事に」と、その事を全く感じなかった人間とでは原体験が違う。
 だから、多分、ママは今回の大災害について私よりも敏感であり、首都圏でかなり大きな揺れを感じた方々は特に「私は無事だったのに、あの人達が。。。」等という罪意識もかなり出て居られるのでは?と勝手に妄想したりする。

 原発。これはちょっと敏感にならざるを得ないのだが、まあ、「天皇は京都に上京(関西人です、私)した」とデマがあるくらいなので、「こっちは安全な関西♪」であったりする。
 まあ、経済や、もっというと関係存在(縁)を生きているので無関係な事など一切ないのだが、今回の大災害に関しては、やはり原体験がない。

 『きっこ』という人は何やら東京に住んでいるらしい。プチ・パニック状態の東京である。バリバリの原体験である。
 でも、先程書いたような感覚がある事を正直に認めて居られる。

 うちのタイムライン(ツイッターで選んで読んでる時系列に並ぶ記事)では見られなくなったが、それでもいまだに「不謹慎だ!」というのもあるのだろう。その「不謹慎だ!」と、いう言葉は、きっこ氏が感じられた様な感覚に蓋をしているだけなのでは?と思ってしまう。『見ようとしない』『見てはイケナイ心』として。

【半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。】(坂口安吾『堕落論』より)

 ツイッターで、とある被災者の現場に居られる確かな人が、「被災者は客ではない」と語って居られた。あれ?御自分で消されたのか、それとも酔っぱらっている私が見つけられないのかどうか不明だが、まあ、立場的に殆ど寝て居られないのだろうし、疲れて居られる中で愚痴られた事だと思う。

 『被災者』と今は呼ばれる一人一人の方々。大切な人、あるいは思い出一杯の物を失って心傷ついて居られる方々。

 ちょっと、その証明の動画を入れますが、書き込みは続きます。

 



 『みぞうゆう』の大災害の後、様々な大切な人、思い出一杯の物を失って心傷つくのは当り前である。それこそ、チュートリアル『チリンチリン』のネタの様に、毎日ベロンベロンになるまで酒を飲んだり、上記映像では入って居ないが、M-1で優勝した時のネタでは「ゆきずりの女とも寝たよ」だったりするのだろう。今、この漫才を見るとなんか泣けて来る。

 『被災者』と呼ばれる一人一人の方々。多くの心の傷を抱えざるを得ない方々。

 心が傷つくと、ワガママを誰かに引き受けて貰いたくなる。ワガママ放題言って、そのワガママを誰かに引き受けて貰いたくなる。
 
 被災地。阪神大震災でも自衛隊、消防等の『支援する側』の過労死もあった。
 『支援する側』だって生身の人間だから、先に紹介した「被災者は客ではない」と愚痴をこぼされる方の気持ちはよく解る。ケアする側のケアの必要性、まあ、坊主に酒飲み&喫煙率が高いのも一つの証明かも知れない。

 ツイッター中毒になっている私は、実は初めてなんだが、このブログを書くと同時にツイッターの新しい情報が入る様にしている。何やら東京湾のド真ん中が震源の地震があったらしい。

 今の地震報道は主に東京のテレビ局。あ、今日、『ミヤネ屋』がやってたけど。でも、殆どが東京。
 かなり大きな揺れを感じて、死傷者も出ている東京。
 そんな中で、マスコミも、そして、政治家、総理大臣や官房長官も働かれて居られる。

 枝野官房長官は東北大学の出身らしい。きっと学友の心配もあるのだろう。でも、『政治家』という『官房長官』という仕事、立場。

 私は原体験を共有出来ない。大阪の街は変わらず、あ、コンビニの看板の電気が消えたくらい。
 だから、こんな呑気な事を言える(書ける)のだろう。

 大谷派の宗祖親鸞聖人750回忌の御遠忌は今週末から。出来れば、こんな時だからやって頂きたい。こんな時だから、参加出来る人達で宗祖の教えを再確認する法要をやる事に意味があるのでは?と思うのだが、現実問題、団体参拝のバスとか、交通、流通の問題で延期になっても仕方がない。決行を決めた12日とは事情が違って来ているし。
 来年に延期になっても、それはそれ。その事を事実として受け止めて御遠忌を勤めればいい。今週末からやるのであれば、『参拝出来ずに空席になった場所の重み』を感じて勤めるしかない。
 どちらが正しいとも言えない。今年勤めないのであれば、それなりの『法要』にすれば、例えば、大好きだった、凄く行きたかった、でも、仕事の都合で最初から行けない予定だった、でも、凄く楽しみにしていた、「大谷派、よくぞやって呉れた。大谷派に入って良かった」と言えるイベントの『宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要オープニングイベント いのちとことばの響舞台』を一年間、各教務所並びに本山でやればいい。当然、小規模だが、義援金を集める為のイベント(法要)としてやるとか。色々な事が考えられる。

 こういう事を書いて居る私も決して『心が傷ついていない=健康な状態』ではない。今回の大災害では原体験が出来ていないが、その他、様々な生活の原体験がある。人生の原体験がある。

 「私に何か出来る事はないのか?」という関係存在(縁)を確かめる事と同時に、あ、今、丁度、ツイッターで

【眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は長い。愚か者には、生死の道のりは長い。】(釈尊)

 という言葉が入って来た。
 私(たち)は、愚か者だから、『眠れない』し『疲れている』。そんな『お互い様』という感覚も大事なのでは。

 「被災者なのに、態度がデカイ」
 「ボランティアのくせに偉そう」
 
 等々。
 みんな、生身の人間。決して『聖者』じゃない。

 ボランティアに偽善が入るのは当然の事。生身の人間なんだから。
 被災者がワガママになるのは当然。生身の人間なんだから。

 それを認められないのは、私が生身の小さい人間だから。

【戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。】(坂口安吾『堕落論』より)

不安

2011年03月14日 | 坊主の家計簿
 今日もなんだが、最近、娘とママが寝た後に、こたつに入ったまま寝てしまう事が多い。なので、どうしても寝付くのが遅くなる。
 昨日もそうで、「明日、法事やんけ。。。」と思いつつ、結構遅くまで。無理にでも寝ようと布団に潜り込む。当然、なかなか寝付けない。ようやく寝れた時に、娘、大泣き。え~。。。昨日、パパ一日中外出=ママ御参りだったので、娘は一時保育。え~。。。辛かったんやろなぁ。。。大泣き。でも、パパもママも働かんとアカンし、慣れて貰わんと。なんぞと思いつつ、気を利かしたママが寝室から大泣きする娘を連れて出て行って呉れたのだが、これまた簡単に寝付く事が出来まへん。

 今日、仕事から帰って来て、お腹が空いたパパ御飯。娘も昼ご飯がまだだったみたい。またまた泣きじゃくる。パパ抱っこしながら『しまじろう』のテレビを見る。っちゅうか、私はツイッターなのだが。胃の調子が悪かったので、あんかけ卵とじうどんを作って来て呉れたママ。「あら、寝てる」と。パパ抱っこで寝る事は滅多にないので、余程眠かったのだろう。
 今日も夜9時に娘が泣き出す。パパ抱っこしながらアンパンマンを見てたのだが、ママが家事を済ませてリビング(?)に戻って来たら、眠いのだろう「ママ!」と。

 テレビでも「お母さん!」と、中学生ぐらいの女の子が泣いてた。津波だったかな?その映像よりも、「お母さん、お母さん」と泣きながら呼んでた女の子が印象的。

 葬儀で坊さんが泣いたら話にならん。葬儀社の方も同じ。どんなに辛い葬儀であっても、それが私たちの仕事だから。でも、葬儀の依頼があって説明を受けている時に辛そうな表情をされている。『死の現場』という事が仕事であっても、やはり。

 今回の大災害。
 精神科医の香山リカが

【被災地におらず、直接、救援活動に携わらない私たちができることは、せめて自分の心のケアは自分ですること。この国の全員が「急性ストレス障害」に陥っているいま、まず自分を落ち着かせて。】

【いまはこの国の全員が「急性ストレス障害」という状態です。これは地震に直接遭遇してなくても、映像や情報から起きます。これが回復せずに長引けば、本格的な「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」に移行します。私たちができることは、自分をPTSDにしないこと。】

 とツイッターを通じてメッセージを送られて居られた。

 香山リカは余り好きではなかったりする。でも、このメッセージには共感する。「よく言ってくれた」である。

 私は大阪市内に住んでいる。今回のプレート型地震は、東海、東南海、南海プレートの地震が「必ず起こる」という研究結果があって、それこそ、災害予定地図なんぞも以前に住んでいた大阪府南部では配られていた。また、市内の話ならば上町断層というのがあって、これも危ない。

 何やら、首都圏ではインスタント系の食料等が売り切れ状態であるらしい。また、計画停電の影響もあり、乾電池等も。
 でも、潜在的には「次は関東大震災だ」みたいな不安がるのだと想像する。日頃から地震に対する意識が高い地域=不安が高い地域だし。

 プレート型地震は連続する場合があるらしい。だから、「東海、東南海、南海の地震が連続したら日本は壊滅になる。」なんぞの情報も。『連続』あるいは『同時』といっても、んなもん、24時間を1日とする時間サイクルではない。

 私は喧嘩に強い。殴り合いの喧嘩なら弱いのだが、「んなもん、最終的には殺したら終りやんけ」「死んだら終りやんけ」という妙な覚悟があって、とことんまでやるし。「死ぬのを覚悟してない人間が夜のミナミを歩くな」なんぞの暴言を吐いたりする。実際、ミナミで飲み屋をやってた時はそういう覚悟だったし。

 でも、実は、今、怖い。

 近くに大きな川が流れている。プレート型地震で津波が来た時にあの川を伝って津波が来る。
 本堂の横に住んでいる。本堂は傾いているので、今回みたいな大地震では間違いなく倒れる。
 娘はまだ幼い。

 だから、怖い。

 死の畏れ。覚悟が決まっていない、悟れない私。

【寮ガ燃エタ。燃エル縁ガ熟シテ燃エタ。コンナニアザヤカニ燃エルトハ誰モ考エテハナカッタダロウ。燃エルモノガ燃エタノダカラ、燃エルコトソノコトハソレデヨイノダガ、燃エテモラッテハ困ル問題ガコチラニイッパイアッタカラヤヤコシイ。「寮ガ燃エタ」ソノ現実ハキビシイ。イロンナヒトガイロンナコトヲイイ、イロンナコトヲ考エ、イロンナ動キヲシタ。マサニ「火宅無常ノ世界」ノ現前デアル。「タトヒ大千世界ニミテラン火ヲモスギユキテ仏ノ御名ヲキクヒトハ」トアルガ、コノ現前ノ境遇ガ仏ノ御名ヲ聞ク場トナッタカドウカ。ホントニヒトガ問ワレテイルノダト思ウ。トテモ大キイ体験ダッタ。】(竹中智秀『願生』十九号より。いわゆる『「願生」あとがき事件』で問題になった文章)

 という言葉を思い出す。
 
 竹中先生はよく「声をかけなさい」と仰っておられた。
 「あなた達は飲み屋に行くでしょう。行くと自分を待ってくれる人がいるから」みたいな感じ。

【真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区)は12日、19日からの親鸞750回遠忌法要の日程を変更せず実施すると発表した。東日本大震災の被災者への追悼から、法要中の雅楽や舞楽は取りやめる。5月までの法要期間中に予定する関連イベントは今後、中止や変更の可能性も含めて検討するという。】(http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20110312000099

 らしい。
 法要中の雅楽や舞楽を辞める必要もないだろう。それは『喪』である。ならば、葬儀での雅楽を禁止してからの議論だ。辞める必要は一切ない。宗祖の御遠忌ならば尚更である。
 ただ、今回の事で参拝に来られなくなった方々は多く居られる。でも、出向く事も出来るのでは?と思ったりする。

 不安を誤摩化す為の「今、私になにが出来るのか?」そこから生まれる「不謹慎だ!」等の排除。「何もしない人達」等。

 『不安に立つ』、『煩悩具足のわれら』という身の事実に帰る。帰らざるを得ない現実。

 動機はみんな不純。生きているだけで、『何もしない』であっても、義を立ててしまう。『何もしない』事に義を立ててしまう。
 解り易い形での『ボランティア活動』で義に酔うのも、『何もしない』という義に酔うのも同じ。そこから逃げ出す事など出来やしない。
 後は、それぞれの御縁。

大きな喪中

2011年03月13日 | 坊主の家計簿
【2011年3月11日午後2時46分ごろ、宮城県沖を震源とする強い地震があった。宮城北部は震度7、東北と関東の広い地域で震度5弱以上の揺れを観測し、地震の規模は世界で過去5番目の大きさだとも言われている。

 傍観者ではなく、「いま当事者として何ができるか」を考えている人のヒントになる情報を伝えていきたい】 (http://japan.cnet.com/news/topics/35000418/?ref=rssより)



 当事者ってなんや?被災して居られる方々は『当事者』なんだろうが、こういう記事でもって『傍観者』と『当事者』を別け隔てる、っちゅうのは、何の事や?


 今日は、某所で一日中。ヒマだったので「少しだけ寝れるかな?」と思ったのだが、なんじゃかんじゃで仮眠なし。っちゅうか、休憩もほぼなし。
 法話もさせて頂く。昨日の投稿は今日の法話を想定しつつ。それが私の仕事だし。


 阪神大震災を取材した某作家がレンタルビデオ屋について話して居られた。阪神大震災の時に返却日の心配をして居られた方がおられたそうな。事実、昨日、某大手レンタル屋のホームページを見ると、問い合わせの電話やメールでパンク状態だったらしい。どういう内容なのかは解らないが、「すいません。。。今日、返却日なんですけど、今日、返却出来そうにないんですわ」なんぞという電話&メールもあったのでは?と。
 某作家は、そこに、「人間の生活のたくましさ」みたいなものを感じたらしい。
 
 きっと、『答え』的ならば、「そうしたらあなたはそのレンタル屋に電話なりメールをして、『震災でお困りの方は返却日が遅れても延長料金を取りません』というのをホームページに掲載するべきではないのか?という意思表示をするのが当事者ではないのか?」なんぞと言われるかも知れない。
 この『知れない』というのは、当然、私の想像である。
 んが、まあ、諸々考えて辞める。

 その某大手レンタル屋の支店のツイッターが不謹慎発言をしたらしい。

 http://www.terrafor.net/news_dUyBOIhScs.html

 一応、貼っておくが、そのツイッターも見たが、事実かどうかは解らない。
 もっと、いうと、事実かどうかは私の仕事にとっては余り関係ない。
 その事が事実であろうが、事実でなかろうが、その事に対して、『非常識』だの『不謹慎』だのというツイートは多く見た。

 え~。。。戦争中か?
 ツイッターには、昭和天皇の自粛ムードについて愚痴ってたのだが。その他、昨日から多く、ボットというのか?安田先生の言葉とか、真宗カレンダーなんぞに紹介された言葉を私は読ませて頂いているのだが、「ボットも控えるべきだ!」なんぞと。「プライベートな書き込みは控えるべきだ!」なんぞと。反骨精神溢れる人達はそれに対抗していて、結構面白く、私も不謹慎な事を書き込んだりしたのだが、まあ、面倒なので、そのまま張付けるが

【「不謹慎なツイートは控えるべきだ!」っていうリツイートがやたらと多いのだが、昭和天皇が死んだ時の自粛ムードじゃあるまいに。大きなお世話ではないのか?情報量の制限ならば、リツイートしまくるのは、大切な情報だけでエエのであって、「不謹慎なツイートは控えるべきだ」は、個人の意見だ。】

 である。

 しかし、こういう「不謹慎なツイートは控えるべきだ!」は優しさである事を知っている。優しいんだ。優しいし、優しくなりたい。優しくあろうとする。そして興奮して、「不謹慎だ!」になる。
 
 多分、戦争中もこういう感じではなかったのではないかと。
 私も先輩が「新幹線が今日から禁煙になりました」なんぞという書き込みを見て、「不謹慎だ!」と思ってしまったわけだし。私が『優しい』『真面目』かは別にして、『優しくなろうとしたい』『真面目になろうとしたい』という思いが、先輩の呟きに対して違和感を感じてしまい「不謹慎な」等と感じてしまったわけだ。
 「今はそんな場合ではないだろう」である。そういうムードである。そういうムードが私を支配しているわけである。
 
 きっと、戦争中にチャラついた人の言葉に対して「貴様はそれでも日本国民か!同胞が戦地で我々の為に血を流している中で、どうしてそんな事が言える!」も似た様なムードであったのではなかろうかと。

 そういう真面目さ&優しさは大好きである。
 葬儀の場面でよく見られる事だし。
 それぞれ、何かしらの後悔があって、だから優しくなろうとして、真面目になろうとして、いたりする。

 大震災は、大きな葬儀でもある。『犠牲者』と呼ばれる、それぞれの方々。大きな『喪中』である。だから「不謹慎な」は当然である。人情である、優しさである。でも、その優しさが『優しくなれない人』『優しさをおチャラケで表現する人』を排除している。
 心傷ついて居られる。本当に心配しておられるが故に、「傍観者ではなく、当事者として」だったりするのだろう。悲嘆の底に居られるのだろう。本当に、素晴らしい才能である。
 でも、その才能が欠落した人も居ている。

 遠藤周作の『海と毒薬』。痛む事が出来ない。

 『海と毒薬』の主人公の医師をその後、遠藤周作は様々な小説に登場させている。新宿の闇医者。闇堕胎や、ヤクザの治療をする医者として。

 今回の地震の被災者に対して『傍観者ではなく、当事者として』と関わる事が出来るような素晴らしい能力をもって居られる方々は、出来れば、そういう能力を持っていない私みたいな人間に対する優しさも持ち合わせて頂けると、有り難い。どうか、見捨てないで頂きたい。排除しないで頂きたい。

あきんど

2011年03月12日 | 坊主の家計簿
 昨夜、急ぎの所用でほぼ徹夜状態。
 なので、今日、仕事が終わって、引き続きの所用を「やれる所までやらんと」という事で、やる。
 眠い、っちゅうねん。。。昼飯喰って、少しだけ寝て、所用の続きをやろうと思っていたのだが、目が覚めたら夕方5時を大きく過ぎてた。
 「わちゃ!大変や、寝過ぎた!」と。
 時計はiPhone。メール受信あり。何やら「明日明後日の本山でのイベントは三陸沖地震の為に中止」との事。あ、やるイベントはあるかも知れんから確認して下さい。
 一応、

 http://www.higashihonganji.or.jp/info/news/detail.php?id=220

 http://www.higashihonganji.or.jp/info/news/detail.php?id=222

 らしい。

 全く何の事か解らない私。起きてママに「地震があったん?」と呑気に聞く。「何を言うてんねん。大阪も結構揺れたで」との事。爆睡してて、全然気づかなかった。

 テレビのチャンネル権は娘にある。私がニュース番組を見たくとも、娘が有線。
 なのでiPhoneで情報収集。
 ツイッター、デマ多すぎ。

 でも、ふと、毎日放送やったかなぁ。。。阪神大震災の時に「後からデマを流しやがって、と批判されても、情報を流すしかなかった」という某アナウンサーの言葉を思い出したりする。でも、デマはデマなので、「デマは辞めろ」だったのだが。

 娘とママが風呂に入っている間にテレビ映像。
 娘が寝てから、もっとテレビ映像。

 映像はどんどんと入って来る。

 うちのツイッター情報は、ほぼ坊さん関係。色んな宗派の色々な方々。

 「私たちに何が出来るか?」等と、寺を開放する動きを取られてたり、様々。
 ツイッターを見てたら、フェミレスを開放したり、居酒屋を開放したりしているらしい。但し、これは東京の話なのだが。
 とあるロック系の店の人も「うちは開いてますから」等。
 きっと、そういう『情報』に乗らない形で「ゆっくり休んで行って下さいよ」であったり、避難所になっている所で声をかけ合っていたりするのだと思う。

 私は明日は朝からバタバタ。夕方までバタバタ。

 でも、凄くシンプルに思ってしまうのだが、月参りのない坊さんって、まあ、他の様々な法務はあっても、いわゆる『月参り』という毎日の仕事がなくて、まあ、あっても『若さん』だったり、そういう割と時間的拘束が少ない人、時間的、日程的に自由が利くのであれば、ふと「ボランティアは楽しいよ」と。
 
 当然、今すぐに駆けつけて役に立つのは非常に限られた能力を持った方々だと思う。『元医師』っちゅう僧侶は少ないだろうが、医療系に居られた方だとか。そういう現場に慣れていないと、「何しに来てん!」やろうし。
 でも、そういう緊急に対応出来る人の仕事から、一段落ついた時には、当然人手が必要になる。
 人を動かすには金がいる。金がなくても動いて呉れるのが『ボランティア』という人材なんだろうし。

 ボランティア。え~。。。他宗には信じられない事、あ、他の宗教団体には信じられない事なんだろうが、真宗仏教ではボランティアに対して反対する人も居ているらしい。
 ちなみに私も肯定派ではない。ん?この言葉は変だな。「ボランティアをやる事が真宗だ!」とは絶対に思わない。
 ボランティアで人間の価値判断をされたら、優劣が出来る。でも、楽しい。

 ツイッターである葬儀社の社長さんが、「何も出来ない自分が悲しい」みたいな言葉を書かれて居られた。
 でも、とある僧侶が「祈る事しか出来ないのでなくて、祈る事は出来るんだ」みたいな事を書かれて居られた。
 
 多分、被災者の方々には届かない言葉。でも、私が被災者なら嬉しい。

 色んな宗派の坊さん達がツイッターで言葉を残されていた。その中の誰一人として「無常だから仕方がないじゃないか」という様な事は書かれてなかった。
 温かい。

 死を恐れるのは煩悩なんだろうけど、死を恐れるが故に、こういう状況で声をかけ合ったり出来る。心配する事が出来る。気になって、気になってなかなか寝れなかったりする。

 日本の仏教を『葬式仏教』を揶揄する方々が多く居られるが、葬式仏教は単純にこういう事ではないのか?

 あ、ボランティア。
 私は行けないし、経済的にカンパも恐らく難しい。今月はよく行くバーのマスター入院資金で「売り上げ貢献♪」という大義名分でもって飲みに行くつもりだし、元々、キツい。でも、まあ、『個人的に』ではなく、宗教法人として何かしらするかも知れんが。

 「心配している」も精神的ボランティア。関係、縁を結ぶ。
 でも、時間的、日程的、経済的に余裕があるのならば、ボランティアに行けば、多分、一生涯の第二の故郷と、そこで出会った友達が出来る。

 商売。
 今回の地震でも、色んな形で、まあ、居酒屋の人が「店を開放するから休んで行って」という商売をしてはった。商売は金銭だけではない。人間関係の中で成り立っているのが『商売』である。人間関係を無視して商売は成り立たん。お互いに「ありがとう」が商売の鉄則やろ。「売って貰えるのが当り前」「買えるのが当り前」じゃなく。

 睡眠不足なので、早く寝ようと思ったのだが、なんか寝れなくて、ダラダラと。
 
 でも、「人間って、優しいなぁ~」と思う反面で、そういう『優しさ』から漏れた、言葉を変えると『表面的な優しさを持ち合わせていない人』の為に、真宗仏教って、『落ちこぼれの為の仏教』って、あるのだと思ったりする。

As tears go by

2011年03月10日 | 坊主の家計簿
 娘の保育園の入園説明会。
 ママだけでも良かったのだろうが、一応。説明会は午後2時からだったし、朝からやる入園式には行けないし。私が迎えに行く事もあるだろうし、雨が激しい時なんぞには送り迎えもしたいし。
 っちゅうか、まあ、単に一緒に行きたかっただけなんだが。。。

 新しいクラスは10人らしい。1歳児コースらしい。同級生の顔を眺める。「勝った。。。」と(笑)まあ、親のひいき目なんだが、勝った。。。人間は勝ち負けではなく、外見も成績も勝ち負けではないのだが、勝った。。。

 これで新しい心配が出来る。とりあえず娘はミス○○組になる。○○組で一番かわゆいのは娘になる。
 勘違いしないだろうか。。。「男って、みんなバカ」とかになったりしないだろうか。。。3倍返しのバレンタインなんぞで「こんなもので私が喜ぶと思って?」等と調子付いたりしないだろうか。。。不安だ。。。
 と、まあ、入園前から何の心配をしているのか解らんのだが。。。

 今日は娘、大はしゃぎ。説明会の時も後ろでごそごそと同級生やお姉ちゃん、お兄ちゃん等と遊んだり、クラスに入ってからも「キャハハ!!!」と叫びつつ、走り回る。
 そういえば、娘にぶつかったお兄ちゃんが居てて、保育園に来るという事はまだまだガキのはずなんだが、しっかり「ゴメンね」と謝っていた。思わず娘との縁談話を持ちかけようと思ったのだが、それは娘にとっては大きな御世話以外のなにものでもないので、辞め。しかし、エエ少年やった。ん?『少年』まで行かんか。

 私は保育園ではなく幼稚園から。今でも記憶に残っているのだが、初めて(?)幼稚園に行く時に私はひたすら泣くじゃくっていた。「なんでこんな所に行かんとアカンの!」「家に居ったらアカンの!」と。まあ、行ったら行ったで楽しい幼稚園生活だったのだが、初めて行く『学校』っちゅうもんに無茶苦茶抵抗感があった。幼稚園が『学校』と呼べるかどうかは別にして。

 幼稚園の時は絵の具を飲んでた記憶がある。「オレンジ色はミカンの味」なんぞとわけの解らん事を言いつつ。きっとお絵描きもしたのだろうが、絵の具を飲んでた印象の方が深い。まあ、お陰様でいまだに絵が下手だったりするのだが。
 NHKの子ども番組『いないいないばあ』では視聴者から投稿された絵が紹介されるコーナーがある。赤のクレヨンで「ぐるぐるぐる~」っと描いてあったらことみちゃん。黄色だったらうーたん。緑色だったらワンワン。ことみちゃんは「みんなじょうずに描けたね」なんぞと言ったりする。パパは「んなわけないやろ!」とツッコミを入れる。絶対に保育園とか幼稚園で働かれへんな、俺。
 赤でぐるぐるぐる~っと描いただけで「ことちゃん」という感性は持ち合わせていない。

 テレビドラマ『SP』を知ってネット検索をかけたら、岡田准一演じる主人公はフォトグラフィック・メモリー(映像記憶)なる能力を持っているらしい。これは私も昔は持っていた。テストの時なんぞに頭の中で教科書をめくって行ってた。
 なにやら『ヒトでは幼少期にこの能力は普通に見られ、通常は思春期以前に消失する。』(wikipediaより)らしい。
 で、『ヒトは言語によって自然界の事象を抽象的に把握する能力が向上したために、映像記憶の能力が衰えたとも考えられる。』(wikipediaより)らしい。
 え~。。。ようするに私は理屈っぽくなったわけでんな(笑)

 今日、娘が保育園の柱を指差して「あ!」とか言ってた。柱にはカブトムシが描いてあったので、私は「これはカブトムシ」と説明してたのだが、娘が何を指差していたのかは解らない。何に関心があったのかは解らない。

 原っぱには実に多くの植物が生息している。その一つ一つ、また、植物の一つ一つの部位を言語化出来るのだろう。残念ながら私には出来ないが、「え?これとこれって同じと違うん?」なんぞと。きっと野草やキノコ採集は辞めた方がエエ。
 でも、野原は野原。野原として何かしらの循環もあるのだろう。
 地球も、宇宙も。それらを区別する。言葉でもって区別する。

 「これは人」「これは猿」
 「これはカブトムシ」「これはゴキブリ」
 「これはペット」「これは害虫」
 「殺して生き物」「殺したらいけない生き物」
 「殺して良い人」「殺したらいけない人」
 「立派な人」「ダメな人」
 「優等生」「落ちこぼれ」
 「ミカン」「腐ったミカン」

 ♪シュプレイヒコールの波、通り過ぎてゆく~

 あ、金八が(笑)

 今日、娘が説明会の時に「私、ヒマ~」と。まあ、説明はママがしっかりと聞いていれば良いので、娘を連れて後ろの方で他のガキどもが遊んでた所へ。パパ、一応、説明を後方で聞く。
 気が付くと娘は『おままごと』のセットで遊んでいる。玩具のキッチンセット。保育園の先生らしい人が「上手に炒めたね」等と言っている。
 鍋があった。蓋のない鍋。娘は鍋の蓋を探して来て鍋に被せる。迷い無く探し出して被せる。「うちの娘、賢いのぉ。。。天才違うか」と親バカ。なんだが同時に「違う!」と。「もっと、近くにある皿とか色んなもんを被せて実験せえ!」と。まあ、私が見ていない間に鍋と蓋がセットであったのかも知れないが、それでも色んなもの、全く見当外れの皿なんぞを被せて欲しかった。そっちの方が自由じゃん。
 でも、それでもエエのかな?っと。

 言葉は言葉でもって解体するしかない。
 どうせ知識は付く。言語化をどんどんして行く。ならば、それを途中で止めてしまうから差別が生じる。
 「あの人達と一緒に遊んだらイケナイのよ」なんぞで止めてしまうから差別が生じる。
 「あの人は悪い事をしたから殺されても当然なのよ」で止めてしまうから差別が生じる。
 どうせなら、「もう、ワケが解らんわ!」ぐらいまで、徹底して言葉を追求して貰いたい。
 もしくは、その言葉(言語化)でもって、どれだけの人を切り裁いて来たのかを。
 アホになるまで、道を求めて貰いたい。「私はアホだった」まで道を求めて貰いたい。
 「知らない事だらけである」まで道を求めて貰いたい。

 「あ!私って、物知り顔で居たけど、物知り顔で色んな分別をして来たけど、その分別でどれだけの酷い事を『当り前』にして来たんだろう。ごめんなさい、南無阿弥陀仏」と。

 
 なんとなくまとまってしまったのだが、非常に残念ながら私は飲み足りず、グラスの中に焼酎お湯割が残っていたりする。
 なのでもう少しグチャグチャと。

 娘に刺激されたわけではないのだが、6月から学校(?)に行こうと思う。まあ、一週間に一度、夜の数時間だけの学校(?)なんだが。
 どうも、坊さん学校を卒業してから時間が経てば経つ程、なまって来る。怠けて来るし、なまって来る。『念仏者』としての緊張感というか、求道心がなまって来ている。だから、卒業した学校から送られて来る機関誌や、たまに会う在学中の人に会うとビシビシ来る。「ああ、なまっとるのぉ。。。」と。「なあなあにしとるのぉ。。。」と。
 リハビリという言葉が適確かどうかは知らないが、まあ、リハビリである。鈍った刀を研ぎ直しに行くような感じである。

 安田先生は生涯『学生』という言葉を大事になされたと聞いている。つまり『仏弟子』である。『仏』の『弟子』である。
 最近の私は間違いなく『主』になっている。『弟子』ではなく『主』になっている。
 あえての表現なんだが、『門徒』から『僧侶』になり、『僧侶』から『住職』になった。住職が完成形であるわけがない。また『門徒』→『僧侶』→『住職』とレベルアップして行っているわけではない。わけではないのだが、勘違いし易い環境に居ている。勘違いしやすい環境だからこそ、「あ、先生、お荷物を持たせて頂きます」という環境だからこそ、『仏弟子』としての自覚が必要、「共に仏弟子である」「御同朋」という自覚が必要なんだが、「御住職」「先生」なんぞと呼ばれて勘違いしている。怠けている。

【我々は寺の住職というわけですが、その住職は正覚阿弥陀法王の善力住持というところからくるわけです。すなわち住持職です。よく大衆を住持することのできる者のことで、これは阿弥陀如来のことです。だから、我々が住職を名告るとか呼ばれるとかいうことは実は値しないものが、その名を名告りその名で呼ばれるということで、そこには深い懺悔があることです。】(竹中智秀先生『いのちの願いに聞く七章』142ページより)

 なんだが、慣れっこになってしまっている。
 なので、再教育をして貰わないと、私が危ない。もう一度、ブチ壊して貰わないと、いや、自分を壊す訓練、自分を解体して行く力と出会い直す訓練。

 もう1つ。
 これは娘が保育園に入る事に刺激を受けたのだが、近所に大学の図書館がある。うちから一番近い図書館。歩いても5分程度。自転車ならもっと近い。
 大学の図書館なので「学生以外は無理」と思ってたら、なにやら2年間で2000円の登録料を払えば利用出来るみたいだ。仏教系の書物も沢山ある。その他の書物は調べていないが、色んな入門書から専門書まであるのだろう。仏教書がそうなので。
 娑婆の論理で金は必要である。まして、これから娘の教育費なんぞにも金がかかる。
 ならば、信仰としてならば「ただ念仏」なんだが、『僧侶』として『住職』としてのスキルアップしておかないと。
 信仰とは別なんだが、『世間に役立つ僧侶』『世間に役立つ住職』としてのスキルアップを。
 あ、失敬。っちゅうか、ごめんなさい。
 『世間に役立つ僧侶』『世間に役立つ住職』ならば、今、私を、まあ、様々な理由なんだろうが、明日も仕事である。私を必要として下さる方々が現実に居ているわけであって、その人達に対して無礼極まりない発言(書き込み)である。本当に申し訳ない。
 なので、言葉を改めると『もっと金儲け出来る僧侶』『もっと金儲け出来る住職』やな。

 幼稚園に4月から行き出す娘。それまで生きているのかどうかすら本当の所は解らないのだが、当然、生きていて欲しい。だから、娘が大学に行きたい、と言い出した時に、それこそ、「勉強したい事があって、その先生は東京の○○大学に居てるから、私はそこに入りたい」なんぞと言い出した時に、親の情として、私のプライドを保つ為に、「ごめん」でなく「行って来い」と言いたいし。

 今なら、山田邦男名誉教授が居て、森岡正博が教授の大阪府立大学の人間社会学部に入って貰って、その後に大谷専修学院から大谷大学大学院の博士課程まで行って貰いたいと勝手な親のエゴ。
 まあ、私が行きたい、学びたいコースだったりするのだが。。。今から大学に行っている余裕もないし、図書館で本借りて勉強しよ。

 しっかし、俺もやっぱし、典型的な、ステレオタイプ的な『親』やねんなぁ。。。見事なまでに自分が出来なかった事を子どもに押し付けようとしている。
 その根本は未練であり、成仏出来ていない私である。私の人生を私自身が否定しているのが根本である。煩悩具足の凡夫である私の問題である。
 なので、娘が今後どういう風に育って行くのかは解らないが、娘に対して何か言う時に「それは私のエゴである」という事だけは間違いない。
 「そんな事してたら、大きくなったら大変やで」も、しかり。

 

人権は何処にある?

2011年03月09日 | 坊主の家計簿
 リビア:反政府組織、カダフィ氏側と交渉応じる姿勢

 【カイロ大前仁】中東の衛星放送アルジャジーラなどによると、リビアの反政府組織「国民評議会」の中核を担うアブドルジャリル前法相は8日、最高指導者カダフィ大佐が72時間以内に退陣すれば、(デモ弾圧などに関して)訴追しない方針を明らかにした。辞任を条件に大佐側との交渉に応じる姿勢を示したとみられる。

 反政府勢力側は同日、大佐側から自身や家族の安全の保証などと引き換えに辞任の打診があり、これを拒否したと述べていた。政府側は交渉の存在自体を否定している。(http://mainichi.jp/select/world/news/20110309k0000m030147000c.html

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 良かった。。。今日、反政府側がカダフィ辞任の打診を蹴ったというニュースを見て、「なんじゃこりゃ!」と怒っていたんだが、良かった。。。
 カダフィ側が認めていないので、まあ反政府側からカダフィ側の内部混乱を狙った情報戦かも知れないのだが、それでもカダフィが白旗を上げているにも関わらず、NATOが国連決議をせずにリビアに対して『人道的介入』という名の侵略、それこそNHKの21時からのニュースに出ていた解説の人なんぞが「石油目当てに見られる」と指摘していたような侵略をする事を知りながら、カダフィからの白旗を蹴ったのならば、んなもん、「カダフィ、とことんやったらんかい」なのだが、まあ、恐らくカダフィ後に出来る新政府は支持を得難いと思ったりするのだが、これでカダフィ側に『殺戮の鍵』は移ったわけでんな。72時間というのが少し気に入らんが、反政府側にも立場があるし。72時間がギリギリのラインだったのかも知れない。
 あとは、東京裁判みたいな勝った側が負けた側を裁くような事は、辞めた方がエエ。カダフィの首を取るのは猪木の仕事である。カダフィは日本に来て、猪木と闘うべきである。

 「おーっと出ました、砂漠の狂犬、アラブの暴れん坊」等と、古館の名実況で、猪木との長年の遺恨を晴らして頂きたい。
 場所は後楽園ホールがエエのだが、今もあるのか?セコンドにタイガージェットシンとか付いてでんなぁ。。。そんな老後も良かろうかと。


 NHKスペシャルの『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第4回 開戦・リーダーたちの迷走』を観る。録画してたので。
 むっちゃ、面白かった。というか、考えさせられる。そういう意味での『面白さ』。
 非常に面白かったにが、旧軍部のリーダー達が、誰しもアメリカとの会戦を望んで居なかった事。「んなもん、負けるに決まってまんがな」と。
 これはある意味、当然なのだろう。だって、軍隊って、機関ですやん。その機関が夢を見てどないしまんねん。日本にも当然の如く『軍人』は居てたわけだし、軍事の専門教育を受けた人達が居てたわけだ。その人達が『国力80倍』のアメリカとの戦争に「勝てる」と判断したのならば、日本に職業軍人、プロの軍人が居てなかった事になる。それを判断するのがプロの仕事なんだし。戦争に反対、賛成関係なく、あくまでも『プロ』として判断して「この戦争は勝てる」「この戦争は負ける」と。
 でも、戦争を起こした日本の指導者達は、それぞれのメンツや、『弱さ』でもって、負ける戦争に突き進んで行った。
 東條だったかな?誰かが「戦死した人達、国家予算の7割を注ぎ込んで土産なしでは」等と語って居た。
 また、前回、第三回の放送では『マスコミ』が取り上げられていたが、まあ、別にマスコミに煽られなくとも、「こんなに苦労して、息子まで戦死して」という気分もあったのではないかと。

 今回、リビアの反政府勢力が、どういう路線変更があったのかは知らない。最初は「とことん行ったるで!」だった。でも、そうなると戦死するのはカダフィ側だけでなく、自分達側でもある。「カダフィの首を取らんと気が済まない」。というか、リビアに首狩りの風習があるのかどうかは知らないが。。。
 
 「せっかくここまでやったのだから」と、戦争を辞める事が出来ない。
 「戦死した人達に申し訳ない」と、戦争を辞める事が出来ずに戦争に突き進む。

 これまたNHKの『こころの時代 無念も捨てたもんじゃない』の続きを観る。福島泰樹。
 福島泰樹は、死者の無念を短歌にする。

【あなた、本当の人になってください。本当の人になってくださるならば、その新しい人になったあなたのいのちのなかで、私たちは私たちの死を無駄にしないで、私たちはそこで成仏していきます。あなたのいのちのなかで、新しく私たちは成仏していきます。だから、あなたたちは、私たちを踏みにじっている限りにおいて、あなた方は何を負担としてもらうこともいらない。そうではなくて、人になってください。真の人間になって下さい。】(廣瀬杲『罪業深重』より)

 東條達、いわゆる『A級戦犯』と呼ばれた方々。「靖国で会おう」。
 実際にどれだけの方々が「靖国で会おう」と亡くなられて行かれたのかは知らない。「お母さん!」っだったりのかも知れないが、それでも『送り出した側』としての責任もあったはずである。まして、軍人である。軍人の中のエリートである。送り出した側としての使命感、責任感、それが負けると解っていても突き進んで行った、行かざるを得なかった事の理由の一つにもあるのではないだろうか。
 そこに、クールに徹する事が出来ない、人間の優しさ、弱さを感じる。
 まあ、巻き添えにされた人達はたまったものではないのだが。。。でも、なんか、『頼もしい』と言っては変かも知れないが、「ああ、人間だったのだ」と。

 リビアでカダフィに殺されている人達にとっては『大迷惑』の失礼、無礼な話なんだろうが、カダフィだって人間なのだ。それぞれの立場、それこそ、『業縁』と言ってしまいたくなるのだが、それぞれの生活環境や、それぞれが今まで生きて来た事、習慣、『当り前』にまでなっている事を、辞める事がなかなか出来ない弱さを抱えている。

 「それは違う!」という声を聞いても、なかなかその声に従う事が出来ない弱さを抱えている。

 先日、街に出た時に買って来て、読み始めている花村萬月『沖縄を撃つ!』。その中に『悲しき人買い』として、沖縄の風俗事情が書いてある。
 
 最初に沖縄に行ったのが、関西新空港の初日。キャンペーンで安いツアーがあったので行った。激安ツアーだったので、ホテルは『リゾートホテル』ではなく、那覇周辺の風俗街。飛田みたいな売春のメッカだった地域。男3人のツアーだったのだが、多分、誰も風俗には行ってないと思う。よく知らん。海なんぞは一緒に行ったけど、その後はそれぞれだったし。一番若かった私は「ステーキ♪」と、ホテル近くのステーキ屋に夜中に出かけたり、風俗街をウロウロしつつ、スーパーとか自動販売機でビールを買って飲んだりと。
 そんな事を思い出しつつ、『悲しき人買い』を読む。

 沖縄の風俗街の『真栄原新町』が大変らしい。

 http://www.city.ginowan.okinawa.jp/DAT/LIB/WEB/1/a.pdf

 沖縄の『風俗街』がどういう歴史的いきさつをもって出来たのかは、『沖縄を射つ!』にも書いてあるし、ネット検索でもすぐに調べられるだろうし、また、『売春』『買春』というのはずっと昔からの事。
 でも、うちのMacでは『ばいしゅん』と打ち込むと『売春』とすぐに変換してくれるのだが、『かいしゅん』と打ってもすぐに『買春』と漢字変換して呉れない。まあ、『買春』に関してはその程度の認識なのかも知れない。だから、女性団体が騒ぐのはある意味当然の事である。正直、「もっと騒げ!」と思う。もっと騒いで罪を告発しろ、と。
 『美人尼僧』なんぞと、「僧侶に美人もクソもあるかい!」と。「美人で注目するのなら、僧侶は外見を売り物にしてるんかい!」と。騒いで、罪を告発すべきではないのか?
 と、まあ、いまだに『週刊ポスト』の記事は読んでいないのだが。。。

 罪を告発する側が、決して罪がないわけではない。
 たまたま関係性の中で、その時に『罪を告発する側』であっただけの話である。
 でも、悲しいかな、『罪を告発する側』は、その事によって正義に酔ってしまう。
 「なんでやねん、私が正しい事をやってるのに、なんで文句言われなアカンねん」である。

 タイトルを『人権は何処にある?』に決定。

 人権は、「ごめんなさい」の中にしかないのではないか?
 そこから見えて来る人間観の中にしかないのではないのか?
 それでないと『私に人権侵害している人』の人権を認められないではないか。

 え~。。。個人的恨みつらみを書き連ねそうになったので、辞め。寝る。