坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

みな人は慾をすてよとすすめつつ、後で拾ふは寺のしょうにん(一休禅師)

2012年07月31日 | 坊主の家計簿
【関西電力大飯原発(福井県おおい町)の再稼働について「いのちより儲(もう)けを優先するもの、といわざるをえない」】
http://j.mp/NFMrlx

みな人は慾をすてよとすすめつつ、後で拾ふは寺のしょうにん(一休禅師)

山口香『情熱』を読んで

2012年07月31日 | 坊主の家計簿
 暑い…。暑いもんは暑いねんから、暑い。「暑い時に『暑い』いうても仕方ないやんけ!」かも知れないが、暑い時に暑いと言わずして、いつ暑いと言うのだ。イヤなもんはイヤだし、引き受けられない現実(苦)がある。それは誰にでもある。「今日も暑いですねぇ…」という挨拶の裏には「お互い、現実を引き受ける事が出来ない悲しい存在でんなぁ…」という言葉がある。
 え…何を書いてるねんや。そやそや、山口香や。

 山口と云えば山口県知事選挙である。自民、公明両党が推薦した山本繁太郎氏が勝利したらしく、飯田哲也氏が落選したらしい。Twitterや、テレビニュースなどで様々な意見があったが、ある『街の声(厳密にはテレビ局が選んだ声)』に「自民もダメ、民主もダメ」で飯田哲也氏に投票した方が居たらしい。え…そんな動機で投票するなよな。まあ、投票の動機なんぞ何でもアリなのが民主主義だが、「自民もダメ、民主もダメ」=「飯田哲也の方がマシ」なのか?ホンマにそうか?仮に飯田哲也氏が当選していたら、次は「自民もダメ、民主もダメ、飯田哲也もダメ」にならないか?まあ、山口県民のバランス感覚というか、飯田哲也氏に脱原発&自然エネルギー以外の事が出来るとは思えず、それが落選した最大の要因だろう。大阪に関わっていた時の発言なんぞを聞いていると、まあ、知事には向かない。参院議員やな。

 あ、山口香やった。
 昼食を食べながらワイドショーを観ていたら、何やら柔道のジュリーがうんたらカンタラ。「あ!小川や!」と橋下をボコボコにした小川が出てた。あ、『橋下』ではなく『橋本』や。
 小川も批判していた柔道のジュリー制度。スタジオに居た小川とは別に山口香が録画コメントで登場していた。え…野田聖子に顔が似てるのぉ…。つか、現役以来、姿を拝見するのは初めてかも知れん。
 
 Twitterでも柔道のジュリーがタイムラインにチラホラと。山口香の記事も紹介されていた。

 http://www.nikkei.com/article/DGXZZO44301630Z20C12A7000000/

 柔道界の事は知らないが、批判精神溢れる素晴らしい文章である。
 外見も好み(ここ重要)なので、ネット検索。ブログもやって居られたらしい。

 http://blog.goo.ne.jp/judojapan09

 哲学する柔道家か。ええ感じや。
 チラホラ読む。

 『情熱』という題目の記事を読んで、「お!ブログを書こう」と。

【問題なのは、いじめが自殺や殺人事件に発展しちまうことだろ。教師はそうならんように、越えちゃいかん一線を越えんようにするのが仕事じゃねぇのか。いじめられる人間の痛みを、皆に伝えるのが役目だろ。で、お前は何のために教師になったんだ? ただ英語を教えるためだけか? だったら、英会話塾の先生でもやっとけや、ボケが。】
(竹原慎二 http://charger440.jp/bokoboko/category/r27_01.phpより)

 前後するが、これは山口香の

【先日、ある学校の先生と話をしていたら、中国の有名大学の付属中学校、高校の先生が視察に来ていたときの話をしてくれた。(中略)
 放課後であったために、体育館、校庭はもちろん、通路などあちらこちらで熱心にスポーツに取り組んでいる風景をみてビックリしていたという。そして質問したのは
「指導されている先生達に学校はどのぐらい指導料を支払っているのか。」
これに対して
「放課後の課外活動は教育活動の一貫だから特別な支給はしていない」と答えたという。
相手はこの答えにとても驚いたという。】
(山口香『情熱』http://blog.goo.ne.jp/judojapan09/e/c46f34eda112db0136c08ad5f6ce91e1より)

 を読んで思い出した。これまた今日Twitterで得た情報だが。
 竹原慎二の『お前は何のために教師になったんだ? ただ英語を教えるためだけか? だったら、英会話塾の先生でもやっとけや、ボケが。』という言葉が素晴らしい。

 山口香のブログの続きに戻る。

【そこで日本の先生は
「この先生方は自分たちが生徒だった時にも熱心な先生に教えてもらっていたに違いない。そして、そういった先生方に憧れもあって先生になり、クラブを指導するのは当たり前という感覚があるのだと思う」と答えた。】
(山口香『情熱』http://blog.goo.ne.jp/judojapan09/e/c46f34eda112db0136c08ad5f6ce91e1より)

 これは耳が痛いなぁ…。竹原慎二の『お前は何のために教師になったんだ?』もだが。
 耳が痛いので思い出し話。
 母校専修学院のある先生が高倉会館で話された時にこんな事を話されていた。

「専修学院には寺で産まれ育った人が多いのですが、その人たちが驚く事があります。それは仏教に出会った事を歓び、活き活きとしている僧侶にあう事です。寺で育った人たちにとって一番身近な僧侶は父親になります。その父親が活き活きとしていない事が多い。だからビックリするのです」

 みたいな事を。ひょっとして御自身の話なのかも知れない。

【年配の方々に言わせれば昔の先生は聖職であり、素晴らしい先生が多かったが最近では・・・となるのかもしれない。しかし、私の知る限り、多くの先生方は心血を注いで指導をされている。】
(山口香『情熱』http://blog.goo.ne.jp/judojapan09/e/c46f34eda112db0136c08ad5f6ce91e1より)

 寺社会の話でもよく「昔の先生達は…」とか、「エエ先生が居らん様になった…」なんぞと聞いたりするが、「そうか?」と思ったりする。私の事は別にして、私が出会った多くの先生達や、また、多くの街(村)の僧侶(住職含む)も、目立たないだけで、しっかりとやって居られる方が多いが。当然、タマには「おいおい…」という時もあるが、それは私はその人の一面しか見ていない事もある。最近もよく思うのだが、「え?こんな所に、こんな先生が居たなんて」である。また、全く注目して居なかった僧侶が「え?こんな面もあるの?」であったりもする。母校の先生の話も『家庭』という限定された中での話であり、そりゃ、清志郎の『昼間のパパ』ではないが、家庭内でのパパは寝転んで屁をこいてナンボのわけであって(笑)

【私の持論は「良い指導者は、さらに良い指導者を生む」である。熱心な指導者に教わった選手は、将来自らも指導者になりたいと思うということである。熱心に、愛情をかけて教わった生徒達は自分が指導者になったとき、同じように生徒達に愛情を注ぐ。】
(山口香『情熱』http://blog.goo.ne.jp/judojapan09/e/c46f34eda112db0136c08ad5f6ce91e1より)

 これは、日蓮宗丸山照雄が母校専修学院に対する評価を思い出す。確か丸山照雄は自分の所に「僧侶になりたいんです」という人に対して「だったら大谷専修学院に行って来い。専修学院には信國淳がいて、信國淳の影響を受けた仏弟子がいる。仏教を学ぶ為には仏弟子にならないといけない。仏弟子に成る為には専修学院に行くのが一番だ」みたいな事を書いていた事を思い出す。

【日本の柔道が長い歴史の中で競技力を維持しながら脈々とつながってきたことは、指導者の力が大きい。指導者が次の指導者(選手)にタスキを渡してきたからである。その原動力は選手を強く逞しく育てたいと思う「情熱」である。】
(山口香『情熱』http://blog.goo.ne.jp/judojapan09/e/c46f34eda112db0136c08ad5f6ce91e1より)
 
 『タスキ』が『信心』か。まあ、『如来より賜る信心』だが、直接的には恩師である。人との出会いである。まあ、法然上人の様な天才も居ているので一概には言えないが。また『選手を強く逞しく育てたいと思う』ではなく、「共に生きたい」という事なんだろうが。

【変革すべきところは積極的に取り組むべきである。ただし、自虐的にばかりなる必要もない。日本には世界に誇るべき指導者が大勢いる。強い道場、強い学校に限らない。暑くても寒くても毎日道場に立っている指導者が日本の柔道を支えている。私はそんな指導者こそ財産であると思うし、心から誇りに思う。】
(山口香『情熱』http://blog.goo.ne.jp/judojapan09/e/c46f34eda112db0136c08ad5f6ce91e1より)

 よく見かける仏教批判、僧侶批判を読み聞きしていると「お前、何を知ってるねん?」と言いたくなる事が圧倒的である。また、大概の批判は甘いし、安い。「そんな甘い安い批判で偉そうにされてもなぁ…」である。
 専修学院の本科時代だったと思うが、当時は単なる先生で、今は恩師がチョコチョコと寄って来て「坊主バーが新聞に出てるで」と。「君の事も書いてあるよ」と。何が書いてあったのか思い出せないのだが、恩師から言われた「ここに書いてある『批判する側から批判される側へ』というのは素晴らしいね」と。その事だけは覚えている。坊主バーというある意味気楽な場所で僧侶の一面しか見ていない中で散々批判して来たが、私自身も僧侶になり、ついでに住職になり、批判される側に立ったが故でもあるが、見えていなかった事が圧倒的に多い。当然、今もだろうが。
 見えなかったのは『生活』であり、『仏性』である。え…念仏者としては根本的欠陥、「他力はどうした?他力は?」の話なんだが。

【変革すべきところは積極的に取り組むべきである。ただし、自虐的にばかりなる必要もない。日本には世界に誇るべき指導者が大勢いる。強い道場、強い学校に限らない。暑くても寒くても毎日道場に立っている指導者が日本の柔道を支えている。私はそんな指導者こそ財産であると思うし、心から誇りに思う。】
(山口香『情熱』http://blog.goo.ne.jp/judojapan09/e/c46f34eda112db0136c08ad5f6ce91e1より)


  無戒名字の比丘なれど
  末法濁世の世となりて
  舎利弗目連にひとしくて
  供養恭敬をすすめしむ
  (親鸞聖人)

 
 この『無戒名字の比丘』は『僧侶』だけではなく『念仏者』全ての事だと思う。僧侶批判もあれば門徒批判もある。けど、それも『生活』と『仏性』が見えていないだけではないのか?
 山口香の言葉を借りるならば

「変革すべきところは積極的に取り組むべきである。ただし、自虐的にばかりなる必要もない。日本には世界に誇るべき念仏者(僧侶含む)が大勢いる。熱心な門徒、熱心な寺に限らない。暑くても寒くても毎日念仏申している念仏者(僧侶含む)が日本の仏道を支えている。私はそんな門徒(僧侶含む)こそ財産であると思うし、心から誇りに思う。」

 である。

【いじめられる人間の痛みを、皆に伝えるのが役目だろ。で、お前は何のために教師になったんだ? ただ英語を教えるためだけか? だったら、英会話塾の先生でもやっとけや、ボケが。】
(竹原慎二 http://charger440.jp/bokoboko/category/r27_01.phpより)

 『生活苦』という言葉は金銭だけの問題なのか?業はどうした?
 金銭面の生活苦も生活苦であるが、それだけなのか?家庭の、あるいは一個人の生活の中の様々な苦悩はどうなる。
 『苦悩』が、医師からの判断や、あるいはマスコミに取り上げられる様な『社会問題』にならないと『苦悩』として認められないのか?なに魂を売り渡していやがる。魂を売り渡して目の前の、あるいは自分自身の苦悩から目をそらすならば、念仏者(僧侶含む)に何故なった?
 「カルチャーセンターにでも行っとけ、ボケ!」と言いたい煩悩が湧き出て来たが、それは間違い。その人の苦悩と仏性が見えてないだけ。

和辻哲郎の『ひび』

2012年07月29日 | 坊主の家計簿
 暑い。。。35℃まではなんとかなるが、35℃を過ぎるとさすがにシンドイ。先日、炎天下の午後1時に墓場で20分ほど読経していたら、今年初の身体的危機を感じた。
 今日は珍しく法事3件。その間に月参り。わちゃわちゃと大汗流しながらの法事。オリンピックの開会式だったらしく、それをネタに『勝他』を導入口に喋り始めたのはエエのだが、「暑いわい!」と、ボーっとして話を盛り込み過ぎた。。。

 先日、学校の予習を珍しくしていると、同じ逸話が二つ。予習といっても、当番ではないので、外れた所を追いかけていたので「お!」っと。

【和辻哲郎先生の回心というのは非常に素朴なかたちで経験されているのですね。それはお父さんでしたかが、亡くなられた時のことです。和辻先生は確か姫路の近く、船津の出身と思います。東大の教授で、世界的に有名な学者です。ところが故郷へ帰って葬式をされると、その故郷には土地の風習として葬式を出した家の者たちは会葬者に対して、会葬者が帰っていく時、墓の出口に土下座をして礼を述べることになっていたのです。和辻先生は自分の誇りがあって、それが素直にできなかったのです。「このようないなかの人々にどうして土下座などできようか」ということです。
 しかし、最後はやむを得ず土下座されたのです。そうするといなかの人々の足音が聞こえ、草鞋ぐらいしか見えないのです。しかし土下座しているうちに、和辻先生は大地の心とでもいうべきものが自分自身のなかによみがえるわけです。大地の心とは、自分は一人で今日まで生きてきて、自分一人の力で偉くなったように思っているけれども、自分自身は大衆に支えられていたのだなということです。大衆に支えられてこそ生きているにおかかわらず、その大衆に向かって唾を吐きかけようとしていた。それが土下座してはじめてわかった。だから和辻先生は、これからはもう自分ひとりのために生きるのではない、自分を支えていてくれる大衆のために生きようと決断されるのです。そのような経験を契機として、大衆というものは、実は私自身のいのちの内容だということを和辻先生は自覚されたのですね。南無阿弥陀仏は当時の和辻先生にはなかったかも知れません。しかし素朴なかたちで回心を経験されているのです。】(竹中智秀先生『無三宝処への往生』 阿弥陀の国か、天皇の国か265~266頁)

 で、同じ時に出会ったのが、伊東慧明先生『歎異抄の世界』(http://homepage3.nifty.com/Tannisho/sekai/3_4_3.html

 続けざまに読むと単なる「気になる」から「無茶苦茶気になる」に変化してしまったので、原文検索。

 和辻哲郎『土下座』(http://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49903_41932.html

 青空文庫に落ちてました。
 
 原作を読む前にお二人の紹介部分や、ネット検索でヒットしたのを読んでいたりすると、

【これは彼にとって実に思いがけぬことでした。彼はこれらの人々の前に謙遜になろうなどと考えたことはなかったのです。ただ漫然と風習に従って土下座したに過ぎぬのです。しかるに自分の身をこういう形に置いたということで、自分にも思いがけぬような謙遜な気持ちになれたのです。彼はこの時、銅色の足と自分との関係が、やっと正しい位置に戻されたという気がしました。そうして正当な心の交通が、やっとここで可能になったという気がしました。それとともに現在の社会組織や教育などというものが、知らず知らずの間にどれだけ人と人との間を距てているかということにも気づきました。】(和辻哲郎『土下座』より)

 のハッピーエンドで終わっているのかと思っていたら、ついさっき(今夜は学習会でした)原作を読んだら、スゲー。。。

【彼の知らなかった老人の心の世界が、漠然とながら彼にも開けて来ました。彼は土下座したために老人に対して抱くべき人間らしい心を教わることができたのです。
 彼は翌日また父親とともに、自分の村だけは家ごとに礼に回りました。彼は銅色の足に礼をしたと同じ心持ちで、黒くすすけた農家の土間や農事の手伝いで日にやけた善良な農家の主婦たちに礼をしました。彼が親しみを感ずることができなかったのは、こういう村でもすでに見いだすことのできる曖昧宿で、夜の仕事のために昼寝をしている二、三のだらしない女から、都会の文明の片鱗を見せたような無感動な眼を向けられた時だけでした。が、この一、二の例外が、彼には妙にひどくこたえました。彼はその時、昨日から続いた自分の心持ちに、少しひびのはいったことを感じたのです。せっかくのぼった高みから、また引きおろされたような気持ちがしたのです。】(和辻哲郎『土下座』より)

 この『せっかくのぼった高みから、また引きおろされたような気持ちがしたのです。』という言葉が宗教の持つ、いや、もっと幅広く『人間の精神』の危険な所なんだが、上記の文章の続きは

【彼がもしこの土下座の経験を彼の生活全体に押しひろめる事ができたら、彼は新しい生活に進出することができるでしょう。彼はその問題を絶えず心で暖めています。あるいはいつか孵る時があるかも知れません。しかしあの時はいったひびはそのままになっています。それは偶然にはいったひびではなく、やはり彼自身の心にある必然のひびでした。このひびの繕える時が来なくては、おそらく彼の卵は孵らないでしょう。】(和辻哲郎『土下座』より)

 である。『せっかくのぼった高み』の気持ち良い宗教体験の擬い物の世界(疑城胎宮)から『引きおろされたような気持ち』にさせられた『夜の仕事のために昼寝をしている二、三のだらしない女』との出会いを『ひび』と表現し、『しかしあの時はいったひびはそのままになっています。それは偶然にはいったひびではなく、やはり彼自身の心にある必然のひびでした。このひびの繕える時が来なくては、おそらく彼の卵は孵らないでしょう。』と新たな課題、問題を見いだしている。
 この『ひび』が、とても大事。
 
 少し前にFacebookにアップした言葉。

【「苦が無くなってしまえば浄土に眠ってしまう。そこに入ったら無有出離之縁である。浄土に閉じこもってしまうところには苦がないという罰がある。苦がないから眼を覚ます機縁がない」(安田理深『自己に背くもの』)】

 あるいは、これまた、少し前にfacebookにアップした竹中先生の授業のノートに書いてあった言葉。

【聞くという時に『衆生』として聞く。衆生でないものは『個人』である。仏法は衆生として聞かないと聞けない。衆生とは関係存在である。】

【共同生活でも関係存在としてあるから「しんどい」。しんどいから出て行く。あるいは他者を殺すか自分を殺すか。】

【殺すとは自分の思いを中心に自分を殺す。自我意識だが、自我意識そのものは殺さない。】

【衆生として生きる事はしんどい。だから人間生きている事はしんどいという事である。】

【だから個人になる。そして個人になると、どこまでも堕落する。】

【堕落するとはしんどくない様にして自分を助ける。個人になる事によって堕落して助かろうとする。】

【だから『しんどい』という所で一緒に助かる。】

【「個人になったらどこまでも堕落する。私は家内に助けられている」by安田理深】

 和辻哲郎は『ひび』を『彼自身の心にある必然のひび』と、決して「あいつが悪いからや」とか、「あんな連中」ではなく、『彼自身の心にある必然のひび』と表現している。
 安田先生は『私は家内に助けられている』と表現して居られるが、その表現を使うと和辻哲郎は『夜の仕事のために昼寝をしている二、三のだらしない女に助けられている』になる。

 竹中先生が話しておられた事で、こんな事があった。確か、嫁と姑との関係で、寝たきりになった姑が介護をしている嫁に対して悪態ばかり吐く。腹が立った嫁が「クソばばあ!」的な発言をして介護を辞めて部屋から出て行ってしまう。でも暫くすると「ごめんなさい。申し訳ございませんでした」と土下座をして介護を続ける。介護して貰っている時に悪態を吐くのだから、寝たきり状態になる前から悪態を吐かれていたのだろう。嫁イジメがあったのだろう。でも、見捨ててしまう事、それがどんな相手であっても見捨ててしまう事を良しとせずに、もう一度『立ちあがっていく』。
 私にそんな事を「やれ!」と言われても決して出来る事ではないし、また、私の日常生活でそんな事は出来ていない。出来てはいないが、「じゃあ、どちらが真実なのか?」と言われると「申し訳ございません。。。」でしかない。

【普通ならば、「切らなければ生きていけないのだ、それが娑婆なんだ」と弁解してしまうでしょう。「お前だってそうやっているではないか。なぜ、私がそうやっては悪いか」と水掛け論で終わってしまいます。
 しかし、現実は確かにそうかも知れない。だが、真実はどうかということになったら、何かを裏切るということがあったとしても、見捨てるということがあったとしても、それを正当化はできない。やはり真実の前に立つということ、それが如来に遇うことではないでしょうか。】(竹中智秀『無三宝処への往生』より)

 え~。。。明日もクソ暑そうなので「ボー」っとする前に法話の原稿でも作っておこうと思ったのだが、法事の法話としては長い、っちゅうねん。

歎異抄第四章の予習

2012年07月23日 | 坊主の家計簿
 夕方からの学校に向けて、珍しく予習でもしようかと思う。昼寝するまでだが。。。なので、今日は突然の夕立に注意である。なんせ私が予習をするのだから(笑)


 歎異抄第四章

 ※ 表題 我慢


 ※ 本文

 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々

 
 ※現代語訳

 愛には、人間の思いを中心とした愛と人間の思いを超えた愛の違いがある。人間の思いを中心とした愛というのは、いのちあるものに同感し同情し、いとおしみ育てることである。しかし、思いどおりに愛を実現し、相手を満たすことは大変難しい。
 人間の思いを超えた愛というのは、「ひとを愛するこころの限界を自覚して、いち早く如来の前にすべてを投げ出すことによって、人間の思いを超えた如来の愛が自由自在に、ひとを救うはたらきをする」というべきである。
 今の人生において、どれほどいとおしく、またかわいそうだと思ってみても、人間の思いどおりにはたすけられないのだから、この愛は徹底しないのである。そうであるから、如来の本願にすべてをまかせることだけが、徹底した大いなる愛なのである。
(親鸞仏教センター http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp/report/report03_bn06.html


 ※ 語意・語注

(一) 聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。

【正直にいって我々の教団は、仏教の力を借りることにより、人間が人間を教育できるもののように錯覚し、それで人を教化しようとしてきたのでありますし、しかもそれによって教団自身のエゴイズムを満たそうとし、あるいは教団の命脈を保とうとしてきたといわなければならぬものがあるのであります。そしてその結果が、今日の教団に見られるような、はなはだしい生命力の枯渇の事実であります。】(信国淳『呼応の教育』 信国淳選集第四巻P7より)

(二) たすけとぐる

【およそ、たすけとげるということは、たすけられる必要のないようにするということです。たすけられる必要のないまでにたすけるということを宗教的救済というのであります。それを仏教では大慈悲と申してきました。ですから、たすけられる必要のないまでにたすけとげるということは、人をして仏たらしめる、成仏道に立たしめるということです。人をして、成仏道に立たしめるということは、自らもまたその道にたつこと、すなわち「念仏していそぎ仏となる」ということでなければなりません。つまり、共に仏道に向かうということでありましょう。】(藤元正樹『ただ念仏のみぞ』137頁)


(三)きわめてありがたし。

【誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。
 それ仏、難治の機を説きて、】(聖典251頁)

(三) 念仏して

【自分より悪いものが一人でもあったらお浄土へは参れぬぞ】(松原至遠)

(四) いそぎ仏になりて

【「いそぎ」とは時間概念ではない。絶対矛盾が全肯定されること。】

(五) 大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。

【そして具体的に菩薩が「菩薩の死」を見ることになる動機の一つ、「堕悪道畏」というものを克服しえた菩薩として、こういう言葉があるんです。
『我れ布施を以っての故に、叫喚地獄に堕在す。我が施を受くる所の者、皆天上人に生ず。若ししからば、尚、応に常に布施を行ずべし。衆生は天上にあり、我は叫喚の苦を受く。』
と。ここで布施というのは、財施ではないわけです。法施です。すなわち地獄の中で、のたうっている者に、法施をしようと。阿弥陀仏の本願を伝達していこうと、そのことによって、その者を済度していこうということです。だからあえて叫喚地獄に落ちていこうという決断です。そして、むしろその地獄で苦悩する者に阿弥陀仏の本願を伝え、法施して、一切衆生を天上にさし上げていこうと。そういう地獄を恐れていた者が、地獄を選んで、地獄に堕ちていく。そして、永遠に助からない者になっていくという、そういう展開が称名念仏を通して、不退転地を獲得することを通して、はじまっていくのだということです。』(竹中智秀『いのちの願いに聞く七章』41~42頁)

【こうして我々のブラザー・システムは、教える者と教えられる者という、教えにおける人間の二者対立的な関係を絶対にゆるすことのない、仏の人間教育そのものに相応しようとするシステムであります。】(信国淳『呼応の教育』 信国淳選集第四巻P17より)



 ※ 所感

【どうも私共がヒューマニズムに弱いのは結局自分に弱いのです。自分で自分を肯定していくのです。だから、自分を本当に批判している現状にぶつかっていても、すり抜けてしまいます。】(本多弘之『親鸞におけるヒューマニズム批判』本多弘之講義集二 24頁)

【無上菩提を求める者において実際に何かをはじめると、途端にやっていくことのむずかしい問題が出てくるのです。その時にそれを切り捨ててしまうかたちで問題を解決していく、そのようなことを「二乗地に堕す」ということとして龍樹は問題提起するのです。
 またこのことを「菩薩の死」とも言うのです。すなわち除外者をもつわけで、最後まで面倒を見て責任を負っていくと、自分自身がやれやれと言えない。そこで厄介な問題をかかえている人を切り捨てていき、そのことによって自分を助けようとするのです。何とかしてその人のかかえている問題を自分自身の問題としていこうと悪戦苦闘している時に、切り捨てることによって一挙に解決してしまおうとするのです。これが「二乗地に堕す」、「菩薩の死」の問題です。】(竹中智秀『無三宝処への往生』より)

【「悪の因縁」とは何も特別なことではなく、日常生活のことです。日常生活というのは単純なことの繰り返しですね。一人の時は、自分は仏法のために生きるのだと情熱をもち、意気込んでいるのですが、奥さんをもらい、子どもができ、家庭のなかで生活することになりますと、もう家のなかのやりくりで明け暮れ、疲れ果てて、仏法どころではなくなってしまうのです。日常性というのは海が川を呑み込んで何ということもないようにしてしまうように、何かえらく意気込んでいたことが日常生活のなかではいつの間にか、何もなかったことのように消えていってしまうのです。だから仏法と言っていたことも、夢のように吹っ飛んでしまって、それで済んでいくのです。
 何かもう一つ満ち足りない、空しいものが残るには残るのだが、それもそこそこに日が過ぎていってしまうのです。もっと言えば世間的名利心です、それを世間体というのですが、何とか生活ができるようになれば、それで落ちついていくのです。社会的地位もできたし、一応、外聞をはばかることなしに社会的に通用する名もできた。こういうことが四十歳ぐらいになると自然と備わってきます。そうあわてることもないし、いらいらすることもないわけで、そこで落ちつけるのですね。落ちついてしまうと仏法など必要ないわけです。日常生活のなかで、結局のところ、求めていたことになる世間的名利がある程度確保されると、そこでおちついてしまうのです。
 このようなことが悪の因縁に遇いて声聞・辟支仏、すなわち二乗に堕ちてしまうことになるのです。本人はそれでいいと思うかも知れないが、こんなかたちで落ちつくのが一番危険なのです。自覚症状がなくなるのが一番恐ろしいことなのです。自分はこのような生活のまま流されてしまったら大変で、これでは一生を棒に振ってしまうと、居ても立ってもいられないようなあせりの気持ちをもっている間はまだいいのです。落ちついてしまって、そんな思いもないまま生きていくのが「空過」していってしまうことです。
 そういう者が本願力に遇うことによって、その問題を克服していくのです。本願力が不虚作住持功徳だというのは、そういう危機に瀕する者が本願力に遇いさえすれば、必ずその本願力がその者を救っていくのだということです。ほんのかりそめでもよい、ほんのちょっとでもよい、真実を見た者は、たとえ日常生活のなかでその真実を見失い、真実から遠ざかってしまうことがあるかも知れないが、真実そのものが遠ざかる者をそのままに捨てておかない。見た方が忘れようと、遠ざかろうとしても、真実そのものが私を見放さないのです。】(竹中智秀『無三宝処への往生』より)

【「本願力を観ずれば」とは二乗地に堕ちないで、それを克服してきた歴史を信じ、また克服してきた人たちを念ずることのなかで自分一人の力では乗り越えられないのだが、私が求道していく時、先生や友だちに恵まれているかぎり、二乗地に退転する危機があっても必ずその人たちが支えてくれるのです。】(竹中智秀『無三宝処への往生』より)

【私自身もそうですが、いろいろ言ってみても結局は見捨てていき、切ってしまいます。学生と生活を共にしていても、「最後には先生は切るのではないか」と言われるわけです。「先生はいろいろ言うけれど、それでは最後まで面倒を見てくれるのか。結局は最後は切ってしまうのではないか」といって見透かされてしまうのです。そういう時など切ない思いをします。普通ならば、「切らなければ生きていけないのだ、それが娑婆なんだ」と弁解してしまうでしょう。「お前だってそうやっているではないか。なぜ、私がそうやっては悪いか」と水掛け論で終わってしまいます。
 しかし、現実は確かにそうかも知れない。だが、真実はどうかということになったら、何かを裏切るということがあったとしても、見捨てるということがあったとしても、それを正当化はできない。やはり真実の前に立つということ、それが如来に遇うことではないでしょうか。】(竹中智秀『無三宝処への往生』より)

【我慢(がまん)
胴上げが、合格発表の場面などでよく見うけられます。(遊びたい気持ちをよくガマンして勉強したね、おめでとう)。「我慢」のもとの意味は、実は「胴上げ」が象徴しています。「慢」という字は「思い上がりの心」を示しています。どのように思い上がるのかというと、我というものにこだわって、自分で自分を胴上げ?するのです。みんなから胴上げされるのと違って、ちょっと寂しいすがたです。
 仏教は諸法因縁生(しょほういんねんしょう)を説いています。すべてのことはお互い因となり縁となりながら、深く関係しあって存在しているということです。そこに私たちを支えている大地があります。しかし、その諸法因縁生を無視すれば、自分を支える大地をも失ってしまい、あとは自分で自分を支えるしかありません。自らを高く挙げる(高挙)ことによってしか生きることができないと思い込んでいる私たち。我慢とは、諸法因縁生に暗いという「根本的な迷い」を生きる私たちのすがたを指し示しているのです。
 たとえどんなに謙虚でガマン強い人でも例外ではありません。わたしたちは、仏の言葉をとおして、諸法因縁生という大地の存在を知らされることがない限り、永遠に自分で自分の胴上げをしていくことになるのです。
「猶(なお)し大地のごとし、浄穢(じょうえ)・好悪(こうお)、異心(いしん)なきがゆえに」(真宗聖典55頁)。大地を知らされ、自らの胴上げから解放された仏弟子たちの感動の言葉です。】
(埴山和成・月刊『同朋』2002年3月号より 
http://higashihonganji.or.jp/book/leaflet/word/word20.html#text02 )

歎異抄第三章後半 

2012年07月20日 | 坊主の家計簿
歎異抄 第三章後半 
                         
※ 表題 『煩悩具足のわれら』

※ 本文

 煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。

※現代語訳

 「末代の平等的悪人(-価値)」たる私たちは、いかなる行によっても自力では得悟も往生も不可能である。阿弥陀仏はそれを哀れんで、私たち「末代の平等的悪人(-価値)」を正機として救済すると誓われた。だから、その弥陀の意図を理解して他力の信仰に入った「他力の悪人(+価値)」が報土往生の正因なのである。そこで、「疑心の善人(-価値)」でも方便化土に往生できる、まして「他力の悪人(+価値)」の報土往生は当然だ、と親鸞聖人はおっしゃった。
( 平雅行氏『親鸞とその時代』161頁~162頁)

 自らの煩悩(欲望・不安・後悔等)に振り回されている私たちは、どれほど人間的な努力を尽くしてみても、そうした苦しみの生活から解放されることはありえない。このような私たちを深く悲しまれて、本願をおこしてくださったのである。その本願の御こころは、そのような悪人をこそ真に解放してくださるのである。だから、他力にすべてをおまかせする悪人の自覚こそ、真実の自己になる根本的要因なのである。
それで、善人でさえも真実の自己になれるのであれば、なおさら悪人はいうまでもないことである、とおっしゃったのである。
(親鸞仏教センター http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp/report/report03_bn05.html)


※ 語意・語注

(一) 煩悩具足のわれら

【そもそも、人間という日常用語に相当するインドの言語は実に多用であります。(中略)
 その中で、私たちが仏典の中で最もよく耳にする漢訳語は、「衆生」、「有情」ということばです。この漢訳語に相当するサンスクリット語は「サットヴァ」。パーリー語はサッタというのですが、このことばについて原始仏典は、「存在するもの(サット)」よりも「執着するもの」(サンジュの過去分詞形)という解釈を採用しているのです。このことは、人間を「存在するもの」とみるのではなくて、「執着する存在」としてとらえていた点に特徴があったことを意味します。】
(雲井昭善『万人に語りかけるブッタ』220頁~221頁)

(二) いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざる
【また云わく、『大集経』に云わく、「我が末法の時の中の億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得るものあらじ」と。当今、末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と。已上しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、己が分を思量せよ。】
(聖典359頁~360頁)

(三) あわれみたまいて、願をおこしたまう本意
【如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したまう。世に出興したまう所以は、道教を光闡して、群萠を拯い恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。】
(聖典8頁)

(四) 悪人成仏
【回心というても、悪人が善人になることではありません。具体的には回心は懺悔です。悪人が悪人の自覚をうることです。悪人成仏といいます。善人成仏ではありません。】
(藤元正樹『ただ念仏のみぞ』111頁)

(五) 他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり
【いわゆる悪人とは、自力作善の人たる私どもが、私ども自身の凡夫の身、宿業の身に対してたたきつける憎しみの言葉であり、怒りの言葉であるのです。(信国淳著作集一巻360頁)

【この第三章において特に明らかにされていることは何かといえば、それはひとえに他力をたのむことによって、その他力から浄土の仏に成るべきことを命じられる念仏の信心は、実にまた、その使命を果たすために、いずれの行も及び難く、そのためただ悪人として地獄に閉じ込められ、ただ悪人として責め苛まれるほかない凡夫の身を、自ら救うものとならなければならぬものであるということであり、一方では悪人を捨てることなき浄土の仏と成るとともに、同時にまた他方では、地獄にあるその悪人を自らその浄土をもって摂取して、悪人の浄土への往生を実現させる「往生の正因」というものにならなければならぬものであるということであるのです。】(信国淳著作集一巻369~370頁)

(六) 善人だにこそ往生すれ、まして悪人は
【「だに」は、最低の例をあげる言葉である。それを「善人」につけ、往生が最も困難なものとして、不信と軽蔑を表わす。さらに「こそ」をつけていっそう強め、己然形「往生すれ」で受ける係り結びの語気を下へ続ける強調逆接法で、大きな振動をもって下の文に逆接する。この文を、そこに表われた感情的躍動を生かして訳すと、「善人みたいなものでさえ往生するのに、まして悪人が往生しないはずがあろうか」となる。】
(河田光夫『親鸞と被差別民』河田光夫著作集・第一巻70頁)

※ 関連語句

【イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」】
(新約聖書・新共同訳ヨハネ8-1~11)

【このごろは、自分こそが真の念仏者だというような振る舞いをして、善人だけが念仏することができるかのように考え、例えば、念仏の道場に、禁止事項を書いた紙を貼り、「○○のことをしたものは、道場に入ってはならない」などということは、ただただ外見には真面目な念仏の行者を装って、内心には虚きよ偽ぎをいだいているものではないのか。たとえ、本願に甘えて犯した罪であっても、それは人間には知り得ないほど深い必然性の作用なのである。】
(歎異抄第十三章より。現代語訳は親鸞仏教センター)

※ 所感

 6月9日の私が預かっている寺の報恩講以降、どうもボンヤリとしており、緊張感がなくiPhoneでゲームばかりしているので、いまいち様々な情報も追いきれていないが、大津市で中学2年生がイジメが原因とされる事で自死されたらしい。これを書いているのは7月10日深夜なのだが、中学と滋賀県庁に「謝罪しろ」という爆破予告があったらしい。その他にもインターネット上で加害者側の様々な個人情報が流れている。「警察が裁かないのならネットで裁く」というような意見まである。
 似た様な事は福島第一原発事故でもあった。東京電力社員や、その家族に対するいやがらせや、週刊誌などによる原発CMに出ていたタレント叩き。人権を重んじるはずの週刊金曜日でさえ、『電力会社が利用した文化人』の名前を表紙に持って来た。
 魔女狩りである。

【「俺の体は悪魔になった・・・だが人間の心は失わなかった! きさまらは人間の体を持ちながら悪魔に! 悪魔になったんだぞ! これが! これが! 俺が身を捨てて守ろうとした人間の正体か! 地獄へ落ちろ 人間ども!」】

 というセリフが映画『デビルマン』にあるらしい。
 魔女狩りをした人達を『魔女』にしてしまう。
 
 鍵主良敬先生が母校・大谷専修学院に来て下さった時に「恨みによらず『悲しいね』って言えるかどうか。南無阿弥陀仏って言えるかどうか」と仰っておられた。

【有名な「悪人正機」説は、個人の体験を契機として、まさしく親鸞聖人の血の滴るような苦悩に満ちた心の格闘を経て、練り上げられた絶対否定の論理なのです。それは、「生生流転、無縁解脱」の罪悪深重の衆生をすべて内包している無差別の、絶対平等の救済を示しているのです。
 このような親鸞聖人の絶対平等の救済は、常識的に理解されるような支配権力を対立相手と見なして戦うという民衆救済とは次元が違います。それは「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。」(『歎異抄』)という言葉に裏づけられるように、一切の有情を絶対に平等に見る、対立項のない「無縁の救済」なのです。すなわち平等無差別の救済です。
 ここでもう一つ事実を申し上げて、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。前に申し上げた「紅衛兵」の良のことですが、二十三年後の一九八九年、ちょうど文化大革命の 紅衛兵たちが自分の犯した罪を反省して、謝罪が行われた時期でした。五月一日のメーデーの日、私は良から彼の家庭パーティーへの招待状をもらいました。「改革開放」のなかで、良さんは奥さんと、シューマイの店を経営して、繁昌して、とても裕福な生活をしているということでした。
 「良」という名は、私を二十三年前の「文化大革命」時代に連れ戻し、あのつらかった出来事を思い出させます。二十三年来の恨みが湧き出てきて、行く気持ちにはなれませんでした。ところが、その招待状に込められた真意あふれる懺悔の感情に引かれ、とうとう行く決意をしました。
 パーティーに出てみると、十二人の参加者は、「文革」時代の良の仲間と、彼らによって迫害を受けた人たちでした。互いに顔を合わせると、何のために招待されたか、暗黙のうちにみんな了解していたようでした。パーティーが始まり、良がコップを挙げて、「皆さん、過去のこと……」と切り出した途端に、言葉が詰まりました。「乾杯!」という誰かの声が沈黙を破り、
「乾杯!乾杯!」
「忘れた、忘れた、過去のことは忘れた……」
 湧き出てきたみんなの声。それに伴う雑然としたコップのぶつかる音。私は、その声と音を聞きながら、隠された共有の傷跡がみんなの心の中でうずいているのだと、はっきり実感しました。
 良は、その後の武闘の中で片方の目を失いました。「文革」のあと、殺人容疑で審査されたり、拘禁されたりしたこともあったそうです。良の顔を見ると、豊かな生活に養われた艶のいい顔ですが、顔に刻まれた現在の年齢とかけ離れた深い皺と、皺から滲み出るように漂う苦渋の表情が、彼のけっして楽ではない心を語っています。良は、騒いでいる皆を眺めているうちに、抑えきれずに、涙を流しました。それを見たとたん、二十三年来、私の心のなかに溜っていた憎しみが大きな悲しみに揺さぶられてどうしようもない思いでした。もちろん、歴史において人間が犯した罪は追及しなければなりません。しかし、時代の嵐に弄ばれて、悪人にならざるを得なかった人びとの苦悩と悲哀の中に、罪を犯した者と犯さなかった者という二元対立を超えた人間そのもの共通する深層的な苦悩と悲哀があるのではありませんか。】
(張偉『海をこえて響くお念仏』38頁~42頁)

 本堂には報恩講の講師が書かれた『浄土宗のひとは愚者になりて往生す』という親鸞聖人が法然上人より頂いた言葉がホワイトボードに書かれたままであるが、最近の私はこの言葉を「愚者に往生する」と読んでいる。『愚者』=『 他力をたのみたてまつる悪人』である。
 私の『日ごろのこころ』は善人意識の塊であり、それ以外には一切ない。これはある先輩から指摘されたのだが、『娘がイジメられる側』の事しか考えられず、『娘がイジメる側』になる事を発想出来ない。

【今日、地球上では、さまざまな論理や正義によって戦いあい、殺しあう人間同士の闘争が続いています。長い歴史の中で育てられた人間心理は簡単に乗り越えられないようですが、それを乗り越えなければ、私たちはこの足下の大地に、いつまでも人間の手によって殺された死者の白い骨を埋め続けなければなりません。私たちはこのまま未来に向かっていいのでしょうか。
 親鸞聖人は、宿業の自覚を得て、隔たりのない世界を感得し、自他対立を超えた深い真実の境地を一語一語に披瀝され、「悪循環」を超える道を開いてくださいました。親鸞聖人の声は八百年の隔たりを超えて、今も響いています。】
( 張偉『海をこえて響くお念仏』44頁)


追記
 提出前日に読み返してみて、 語意・語注を少し差し替える。
 河田光夫氏の引用文の中に『軽蔑』という言葉が出て来るが、これはおかしい。法然上人は流罪途中で念仏往生に関して「不軽大士のごとく」と語っておられるらしい(絵伝。原典では未確認)、『不軽大士』=『常不軽菩薩』である。

【『紳士諸君よ、わたしはあなたがたを軽蔑しません。あなたがたは軽蔑されていない。それは何故であるか。あなたがたは、みな、求法者の修行をしたまえ。そうなさるならば、あなたがたは完全な「さとり」に到達した阿羅漢の如来になられるでしょう』】(岩波文庫『法華経下巻』133頁)
 
が、常不軽菩薩である。それが故に『常に軽蔑された男』(岩波文庫『法華経下巻』149頁)であり、常不軽菩薩である。故に『善人』に対する軽蔑はおかしい。

【平和運動には、多くの怒り、欲求不満、誤解があります。
 平和運動に携わる人たちは、とても上手に抗議文を書くことができます。しかし、愛の手紙を書くことができません。
 相手が捨ててしまうのでなく、相手が読みたくなるような手紙を、アメリカ合衆国議会や大統領に宛てて、書くことを学ぶ必要があります。
 あなたの話し方、理解の仕方、言葉の用い方が、相手にそっぽを向かせるものであってはなりません。大統領も、私たちの誰とも同じ人間です。】(ティクナットハン『ビーイングピース』中公文庫版117頁)

※参考文献

@安良岡康作『歎異抄全講読』大蔵出版
@高原覚正『歎異抄集記 上巻』(http://homepage3.nifty.com/Tannisho/Jikki/index.html)
@藤内和光『歎異抄に聞く』(http://park3.wakwak.com/~myokenji/tannisyou-mokuji.html)
@細川巌『歎異抄講読』(http://homepage3.nifty.com/Tannisho/index.html)
その他

悪人

2012年07月17日 | 坊主の家計簿
【いわゆる悪人とは、自力作善の人たる私どもが、私ども自身の凡夫の身、宿業の身に対してたたきつける憎しみの言葉であり、怒りの言葉であるのです。(信国淳著作集一巻360頁)

【この第三章において特に明らかにされていることは何かといえば、それはひとえに他力をたのむことによって、その他力から浄土の仏に成るべきことを命じられる念仏の信心は、実にまた、その使命を果たすために、いずれの行も及び難く、そのためただ悪人として地獄に閉じ込められ、ただ悪人として責め苛まれるほかない凡夫の身を、自ら救うものとならなければならぬものであるということであり、一方では悪人を捨てることなき浄土の仏と成るとともに、同時にまた他方では、地獄にあるその悪人を自らその浄土をもって摂取して、悪人の浄土への往生を実現させる「往生の正因」というものにならなければならぬものであるということであるのです。】(信国淳著作集一巻369~370頁)

偏見からの解放

2012年07月15日 | 坊主の家計簿
風評払拭へ首都圏でCM TOKIO出演
http://j.mp/NX8IaH

「食べて応援」が気に入らないなら「偏見からの解放」とすればイイのか?何度も繰り返すが危険なのは基準値(自分で判断すればイイ)以上の放射能汚染された食べ物であり、決して『福島の食べ物』ではない。