疲れたら、寝る。これが鉄則。
んが、ストレスの問題もあって、寝酒中です。
昨日、今日と、ひたすら報恩講準備。明日は夕方から会議で動けないのでその分もやらんとアカン。本日の作業終了時刻は25時、午前1時過ぎでした。地味に拭き拭きでっせ。
んが、まあ、うちは小さい寺なので楽。んが、住職になったので、「あ、あれもやらなアカン、あれも準備しなアカン」等々。新米住職なので、まだ慣れてないので、少し大変。
っちゅうか、声明の練習しとらんけど、大丈夫か?まあ、これは慣れたから大丈夫か。ソロパートもないし。
ソロパートの『御文』の練習だけ「読めるかな?」と一回だけ休憩中に読んでみる。なんとかなる。
っちゅうか、報恩講の時に御文を蓮如前で読むって、まあ、読まない所もあるのだろうけど、え~。。。『蓮如前』でなく厳密には『御代前』なんぞという専門用語でいうのだが、え~。。。「親鸞聖人だけでなく、蓮如上人や、他の方々が仏の教え、如来本願の教えを受け継いで来てまっせ!」っちゅう、え~。。。個人的には恩師の写真でも張付けて置きたい場所、ん?信国先生でも、竹中先生もで、和田先生でも、清沢満之でも、曽我量深でも、安田理深でもエエのんと違うんけ!っちゅう場所、まあ、うちは蓮如の弟子が開いた念仏道場なので蓮如上人でエエだろうが、え~。。。何を言いたいかというと、報恩講って、親鸞聖人だけと違うかってんな、と。それが儀式の中に表現されとるねんな、と。
まあ、「今頃気付いてどないしまんねん」なんだが、んなもん、今頃気付いてんからしゃーないやんけ。
ああ、筋肉が痛いっす。普段使ってないから、筋肉が痛いっす。
まあ、うちの寺の歴代住職もこういう筋肉痛を感じつつ、報恩講の準備をしてはったのだろう。
ちなみに、うちの寺は小さい寺なので、え~。。。歴代の血統は維持されていません。知ってるだけで3つの違う『名字』があります。調べたら、もっとあるのだろうけど、調べる事に意味を感じないし、っちゅうか、多分、調べられないやろうし。まあ、興味がないのが一番かな?
でも、まあ、私が名前も知らない(古文書なんぞ残ってないよ♪)人達が、まあ、うん百年間筋肉痛になりつつ、報恩講をやってはったのだろう。蓮如上人もきっと筋肉痛になりつつ報恩講をやってはったのだろう。っちゅうか、昔の人は肉体労働してはったから筋肉バリバリなのかな?っちゅうか、蓮如が本堂拭き拭きしてはったのかどうかは知らんが。んが、まあ、『御代前』を『筋肉痛前』と呼ぼう。これからは。
ん?『筋肉痛前』は「筋肉痛の前」なので、言葉的に変やな。。。っちゅうか、そういう問題でもなさそうなんだが。。。
宗祖親鸞聖人の教えは、今現在なら、その書物が本屋に行けば買えたりする。
けど、むっちゃ、当り前の話なんだが、それも、『伝統教団クソ野郎!葬式仏教ばっかりしやがって!』なんぞと揶揄されるような教団があったから、本屋に行けば本も買えるし、京都市美術館に行けば親鸞展もやっている。
うちの報恩講や永代経には総代さんが『かやくご飯』(標準語でなんというのか忘れた)等を作って来てくれる。
昨日切った境内の『植木の大きなもの的もん』なんぞを片付けてたら、最近お付き合いが始まった門徒さんから『志』が届けられた。『志』と書かれた封筒的なものに『志』が入っているのだろう。まだ開封してないが。っちゅうか、報恩講当日まで開封しないが。っちゅうか、開封のするのは私でなく、受け付けの門徒さんなんだろうが。
という事で、報恩講は色んな人達の筋肉痛、え~。。。筋肉痛してるかどうかは知らんが、なんとなく『筋肉痛』と言いたい気分なので、さっき、上腕にまでサロンパス的なものを貼ったし。あ、で、報恩講は多くの人達の筋肉痛で支えられている。
その人達の生活も、その他多くの人達の筋肉痛で持って支えられている。
言葉を足そう。筋肉痛と二日酔いで支えられている。宗祖の教えは750年間、筋肉痛と二日酔いで支えられているのである。
もっと、言葉を足そう。えーい、面倒だ、多くの苦労があって、宗祖の教えが伝えられて来ている。
そんなのが『伝統』であって、その伝統の一人一人の存在を『有り難いと思わない事』が宗祖の教えだとは思わない。
んが、まあ、「私を特別視しろ!」っちゅうのは、『門首』でなく『法の主』的なものなので「やなこったい」なんだが。
報恩講。宗祖が証らかにされた仏の正意、如来本願の教えに出会う法要。今年は個人的感覚として『御代前』が気になったりしている。
同時に、「娘よ。。。」である。今日は、娘と殆ど遊べなかった。また、ママのミスで日曜保育の場所が遠くなったので辞めるが、でも、娘にはちょっと我慢して貰わんとアカン。私の筋肉痛は娘にも支えられている。
なんか、「十方無量の諸仏が皆念仏を勧めて下さる」やったっけ?んな言葉があったような気がするのだが、筋肉痛は寝ます。
んが、ストレスの問題もあって、寝酒中です。
昨日、今日と、ひたすら報恩講準備。明日は夕方から会議で動けないのでその分もやらんとアカン。本日の作業終了時刻は25時、午前1時過ぎでした。地味に拭き拭きでっせ。
んが、まあ、うちは小さい寺なので楽。んが、住職になったので、「あ、あれもやらなアカン、あれも準備しなアカン」等々。新米住職なので、まだ慣れてないので、少し大変。
っちゅうか、声明の練習しとらんけど、大丈夫か?まあ、これは慣れたから大丈夫か。ソロパートもないし。
ソロパートの『御文』の練習だけ「読めるかな?」と一回だけ休憩中に読んでみる。なんとかなる。
っちゅうか、報恩講の時に御文を蓮如前で読むって、まあ、読まない所もあるのだろうけど、え~。。。『蓮如前』でなく厳密には『御代前』なんぞという専門用語でいうのだが、え~。。。「親鸞聖人だけでなく、蓮如上人や、他の方々が仏の教え、如来本願の教えを受け継いで来てまっせ!」っちゅう、え~。。。個人的には恩師の写真でも張付けて置きたい場所、ん?信国先生でも、竹中先生もで、和田先生でも、清沢満之でも、曽我量深でも、安田理深でもエエのんと違うんけ!っちゅう場所、まあ、うちは蓮如の弟子が開いた念仏道場なので蓮如上人でエエだろうが、え~。。。何を言いたいかというと、報恩講って、親鸞聖人だけと違うかってんな、と。それが儀式の中に表現されとるねんな、と。
まあ、「今頃気付いてどないしまんねん」なんだが、んなもん、今頃気付いてんからしゃーないやんけ。
ああ、筋肉が痛いっす。普段使ってないから、筋肉が痛いっす。
まあ、うちの寺の歴代住職もこういう筋肉痛を感じつつ、報恩講の準備をしてはったのだろう。
ちなみに、うちの寺は小さい寺なので、え~。。。歴代の血統は維持されていません。知ってるだけで3つの違う『名字』があります。調べたら、もっとあるのだろうけど、調べる事に意味を感じないし、っちゅうか、多分、調べられないやろうし。まあ、興味がないのが一番かな?
でも、まあ、私が名前も知らない(古文書なんぞ残ってないよ♪)人達が、まあ、うん百年間筋肉痛になりつつ、報恩講をやってはったのだろう。蓮如上人もきっと筋肉痛になりつつ報恩講をやってはったのだろう。っちゅうか、昔の人は肉体労働してはったから筋肉バリバリなのかな?っちゅうか、蓮如が本堂拭き拭きしてはったのかどうかは知らんが。んが、まあ、『御代前』を『筋肉痛前』と呼ぼう。これからは。
ん?『筋肉痛前』は「筋肉痛の前」なので、言葉的に変やな。。。っちゅうか、そういう問題でもなさそうなんだが。。。
宗祖親鸞聖人の教えは、今現在なら、その書物が本屋に行けば買えたりする。
けど、むっちゃ、当り前の話なんだが、それも、『伝統教団クソ野郎!葬式仏教ばっかりしやがって!』なんぞと揶揄されるような教団があったから、本屋に行けば本も買えるし、京都市美術館に行けば親鸞展もやっている。
うちの報恩講や永代経には総代さんが『かやくご飯』(標準語でなんというのか忘れた)等を作って来てくれる。
昨日切った境内の『植木の大きなもの的もん』なんぞを片付けてたら、最近お付き合いが始まった門徒さんから『志』が届けられた。『志』と書かれた封筒的なものに『志』が入っているのだろう。まだ開封してないが。っちゅうか、報恩講当日まで開封しないが。っちゅうか、開封のするのは私でなく、受け付けの門徒さんなんだろうが。
という事で、報恩講は色んな人達の筋肉痛、え~。。。筋肉痛してるかどうかは知らんが、なんとなく『筋肉痛』と言いたい気分なので、さっき、上腕にまでサロンパス的なものを貼ったし。あ、で、報恩講は多くの人達の筋肉痛で支えられている。
その人達の生活も、その他多くの人達の筋肉痛で持って支えられている。
言葉を足そう。筋肉痛と二日酔いで支えられている。宗祖の教えは750年間、筋肉痛と二日酔いで支えられているのである。
もっと、言葉を足そう。えーい、面倒だ、多くの苦労があって、宗祖の教えが伝えられて来ている。
そんなのが『伝統』であって、その伝統の一人一人の存在を『有り難いと思わない事』が宗祖の教えだとは思わない。
んが、まあ、「私を特別視しろ!」っちゅうのは、『門首』でなく『法の主』的なものなので「やなこったい」なんだが。
報恩講。宗祖が証らかにされた仏の正意、如来本願の教えに出会う法要。今年は個人的感覚として『御代前』が気になったりしている。
同時に、「娘よ。。。」である。今日は、娘と殆ど遊べなかった。また、ママのミスで日曜保育の場所が遠くなったので辞めるが、でも、娘にはちょっと我慢して貰わんとアカン。私の筋肉痛は娘にも支えられている。
なんか、「十方無量の諸仏が皆念仏を勧めて下さる」やったっけ?んな言葉があったような気がするのだが、筋肉痛は寝ます。