坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

坊主バー(VOWSBAR Four Roses)の思い出

2013年03月08日 | 坊主の家計簿
 先日、某集会で喋った原稿(葬儀一発で欠席なので)をネット公開用に名前等を手直しして記念にブログにアップ。
 当然、『原稿』なので全て喋れていません…。

 

@あいさつ

 真宗大谷派の小さな寺の住職をしております。本日は御縁を頂きありがとうございます。
 川浪さんより電話で「坊主バー時代の事を喋ってくれ」と言われまして、それも「カウンターの中に入っていた視点から」「経営面も含めた視点から」と言われたわけですが…。
 支援のまちネットワークが、確か四ツ橋辺りでしたか?立正佼成会でしたっけ?大きな大会をやった時に参加させて頂いて、皆様の立派な行動のお話を聞かせて頂きながら、「え?俺でエエの?」と思ったりもしますが、ご依頼を断る理由もなく、昔話を少しさせて頂きます。


@坊主バーの定義

 まず坊主バーということですが、この中には坊主バーの事を知って居られる方も居られるかと思いますが、一言で説明するならば「坊さんが居ているバー」です。オープンからしばらくしてマスコミから様々な取り上げ方で紹介して頂き、結構話題になりました。
(ミナミの帝王の資料配布)
こちらは、『ミナミの帝王』という漫画の中に一コマなのですが、それこそ漫画の中のセリフに出て来る程度には話題になったという事ですね。今日は、出来た経緯も含めてお話出来ればと思っております。


@桃谷

 ここは桃谷ですが、桃谷には色々な思い出があります。まず、子どもの頃に、昔は『逓信病院』と言っていたのですが、今は『NTT西日本大阪病院』というらしいのですが、そこに入院しておりました。肺炎だったか、何かだと記していますが、なんせ幼稚園に入る前の出来事ですので記憶があやふやです。
 また、これはミナミでアホしていた頃に路上で大怪我をして、そこの警察病院に救急車で運び込まれました。確か全部で20数針縫ったのかな?明け方に救急車で運び込まれて、その後もしばらく通院しておりました。
 今現在の話ですと、あ、次回は鶴橋駅出発になりますが、私は今、教団内の在日問題に関わる実行委員会に参加しておりまして、そこのメンバー達と猪飼野に行く時の待ち合わせ場所が桃谷駅だったりするわけです。
 そして、もう一つ、今はもうありませんが、昔、20年程前まで不登校の人達や、教育問題に関心のある人達のフリースペースがありまして、そこの代表、まあ、今は某大学で人権学習の講師をしているみたいですが、その方が「フリースペースの場所を引っ越そうと思っているねん」と連れられて来たのが、桃谷駅前の居酒屋が入った雑居ビルでした。



某フリースペース
 坊主バーの話をする時に外す事が出来ませんので、某フリースペースについて少しだけ説明させて頂きます。
 といっても、私は設立メンバーではないので、詳しくは知らないのですが、知っている範囲で説明すると、確か、吹田で開かれた管理教育反対集会が前進になっているらしいです。当然、支える大人、え~労働組合系の人達を中心にいたわけですが、新聞記事等によると、当時中学1年生だった女の子と、当時中学3年生だった『D』が中心になってやった集会という事になっております。当時中学3年生だった私も新聞記事を読んで感動した事は覚えているのですが、当時は自転車とバイクに夢中だったので、参加するには至りませんでした。


@当時中学生だった人達

 ちなみに、この『中学1年生の女の子』が後に大きくなって川浪さんと結婚しました。当時中学3年生だった男の子(D)が大きくなって私と一緒に坊主バーをやる事になりました。ですから、坊主バーの話をする時に某フリースペースの事は外せません。
 私は工業高校自動車科という所に進学するのですが、2年で中退しました。その後に某フリースペースに参加する事になるのですが、まあ、気楽な場所でした。

 
@居場所探し

「居場所探し」とでもいうのでしょうか?自分でも動物管理センター、捨てられた犬や猫を殺す所ですが、そういう事に対する反対のビラを中之島図書館や、住之江にあった動物管理センター前で配ったりしながら、居場所を探していました。何件か気になる所に手紙を書いて送ったり、集会に参加したりしていました。某フリースペースにも手紙を送って、「じゃあ、遊びに来なよ」的な返事を頂いて、丁度、天満駅前の『国労会館』だったかな?そこであった集会にも参加しようと思っていたのですが、その会館の入口が暗くて「こんな所に入るのはイヤだなぁ…」という事で、当時、南森町にあった某フリースペースに行きました。行くとタバコを吸った16歳の兄ちゃんが気楽に向かえてくれるわけです。しかも、オーティス・レディングという古いソウルミュージックが流れていまして、まあ、中高生がタバコ吸ったりしながら気楽に居ているわけです。一瞬で、その場が好きになりまして通う事になりました。この時の感動は忘れる事が出来ず、え~、もう時効なのでしょうか?坊主バーにもミナミの路上で歌っている高校生が出入りしていました。一応『高校生』という事なので、当時500円だったチャージは取らずに、酒も多い目で、一緒に遊んでました。


@某フリースペースの運営難

 某フリースペースはその後、運営難になります。基本、『大人達』のカンパで運営していたのですが、当時働いていた私も少しのカンパを払っていたのですが、主に、代表と、後に坊主バー3代目マスターになる杉原さんの彼女が2人で、確か、毎月6万円程度の運営費を負担していました。
 ちなみに、坊主バー3代目マスターだった杉原さんは釜ヶ崎の労働者でして、「釜ヶ崎に寺を作りたい」という事をずっと話して居られて、川浪さんと一緒に『釜庵』でしたっけ?を立ち上げるのですが、まあ、諸々の事情で停滞している間に杉原さんが自殺したりして、結局、川浪さんが今の様に形になされたわけですが。
 で、運営難に至った某フリースペースが「喫茶店や飲み屋もやろう」という代表の提案で、桃谷駅前なども候補に入れながら、場所探しをしている中で、最初に移転したのが、大阪市内某所にあった『S』という喫茶店でした。『喫茶店』というよりも、障碍者の作業所がメインの場所でしたが、当時、松下の工場でバイトしていた私が「水商売をやりたい」という事で、住込みで移転しました。そこの息子さん、確か今は長居公園でホームレス支援をやっている方から喫茶店のイロハを教えて頂きました。
 ですが、まあ、某フリースペースの
代表と、作業所の代表の方とが色々ありまして、結局すぐに、その近く、数百メートルですかね?『B』という喫茶店に移転しました。


@B

 『B』のオーナーのYさんは、解放同盟某支部の副支部長の方でして、坊主バーが出来る前に若くして亡くなられたのですが、そこに来て居られたのが、後に一緒に坊主バーを立ち上げる事になった清さんです。清さんもYさんに色々と相談に乗って貰っていたらしいのですが、清さんの高校時代の同級生が、Yさんや、某フリースクール代表と非常に親しく、そういう事もあって『B』に出入りしていました。ですから、坊主バーを立ち上げた時も「某フリースクールみたいな事も出来ないか?」と言っていました。清さんにとっても居心地の良い居場所だったのでしょう。 
 で、清さんは『B』で自分の寺でやっている会合の宣伝もしていました。カウンター内にいた私にも、「うちの寺に来たら寿司が喰えるで」という口説き文句で勧誘されました(笑)

 

聖カミソリ
 私は結局『B』を1年少しで辞めて、Yさんの紹介で、ミナミで小さな、本当に小さな、畳3畳(1.5坪)の『聖カミソリ』というパンクバーをやる事になりました。
 その時に、『B』で会ったある先輩から「お前の所の店の近くに『Four Roses』というブルースバーがあるで」と紹介して頂き、挨拶に行くと非常に気に入って頂きまして、それこそ、お客さんをバンバン紹介して頂きました。
 それだけでなく、後に坊主バーを立ち上げる時にお店を借りる事になりました。ですから、坊主バーは最初『VOWSBAR Four Roses』という名前でした。




@ひらの聞思洞
 
 聖カミソリ時代に路上で大怪我して警察病院に運び込まれるわけですが、まあ、色んな意味でヤバくなって、店は1年半ぐらいで辞める事になりました。
 で、京都の山科に住みながら人材派遣の工場労働をしていました。最初は疲れていたので何もやる気が起らなかったのですが、しばらくして「そういえば、清さんが『お前、坊主に成れへんか?』と言っていたなぁ」という事で、清さんの寺に遊びに行く様になりました。
 
中川先生という、川浪さんや私の恩師でもある先生が居られるのですが、その先生の法話会に最初は行って、後に、『ひらの聞思洞』に参加する様になりました。これが、かなり面白く、まず、それぞれが「最近の私」という事で喋った後に、自由に突っ込んで行く形の座談形式の場でした。酒も途中から入って。で、面白かったのと、そろそろミナミに帰りたかった事が私の脳味噌で引っ付いて「そや、『坊主バー』というのをミナミでやろ。坊主のバーって、名前だけでもオモロイやん」と。
 まず最初に、私の芸術面、といっても私は何もしていませんが、先輩で、非常に芸術的に物事を考える人がいまして、あ、この人もガス自殺してもう居ませんが、その人と呑んでいる時に「今度、こんな事をやろうと思ってますねん」と言ったら、「それはオモロイで」という事で、清さんに相談して坊主バーを始めました。


@坊主バーの立ち上げ当初

 坊主バーをやる、場所もFour Rosesを借りる事が出来る、という事が決まったのですが、私一人では不安だったので、某フリースクールで知り合った『D』を誘いました。こいつは非常に顔が広く、かつ、行動力も凄く、某芸術系大学で『おしゃれな暴走族』みたいなのを組織したり、当時は『維新派』という劇団の役者だったのですが、どちらかというと裏方の若頭的な存在でした。維新派は「大阪で何かやってたら維新派のヤツに出会う」という所でして、まあ、芸術面での話ですが、そこの顔役でしたし、当時は『文化人バー』というか、新聞記者や、作家や、運動家が集まる店で働いている所を引き抜きました。
 で、元々の私が店をやっていた時のお客さん、まあ、これはFour Rosesのお客さんともかなりダブっていましたし、「Dが店をやる」という事でやって来たお客さんも居ましたので、坊主バーは当初より経営的には恵まれていました。全くのゼロからの立ち上げではなかったので。ある程度の土台があって、その上に『坊主バー』という看板が乗っかる形でしたので。ですから、変な話ですが、あ、変な話ではないか?店にやって来た以前らのお客さんに「今日の坊さんはこの人です」と紹介すると、「はあ?」みたいな顔をされたり(笑)
 

@マスコミ

 坊主バーが出来て2ヶ月ぐらい経った時でしょうか?そんなに経過していないかな?Dの友人のフリーライターの方が客として来店してくれました。今は廃刊になったのでしょうか?『Lマガジン』という雑誌に紹介してくれました。ですが、この時の紹介の仕方は『坊主バー』としてではなく、「伝説の聖カミソリのマスターが復活!」みたいな記事でした(笑)その記事の中にあった「坊主バーとして云々」という事を観た、確か朝日新聞の記者が『坊主バー』としての取材以来で記事を書いて頂きまして、新聞が発行された朝から店の電話も清さん所の電話もパニックでした。まあ、私は朝まで呑んでいるので、「睡眠の邪魔をするな」と電話の線を引き抜いた事もあったのでしょうが、とにかく、店にも、清さんの寺にも電話がバンバン、ほぼ途切れなく鳴っていました。その殆どが取材の依頼です。
 最初のうちは嬉しくてイチイチ記録していたのですが、100数十ぐらい辺りから面倒になって記録は辞めました。それこそ、エロ本系の雑誌から、アメリカの『Time』という雑誌、新聞も殆どで紹介して貰いましたし、ロイター通信やったかな?それを通じて世界発信されたらしく、ロンドンから高そうなスーツを来たユダヤ人のオッチャンが客として来店したりしました。丁度、読売テレビの取材があった時なのですが、一緒に来られていた、これまた高そうなスーツを着た人が酔っぱらって「自分ら読売テレビやったら、この人、大株主やから挨拶しとかなアカンで」と、どこまで本当か知らないのですが話して居られました(笑)


@エピソード

 で、恐らく、皆様が一番聞きたいであろう坊主バーでのエピソードですが、特に変わったエピソードが無かったりもします。それは私が元々飲み屋をやっていたからかも知れませんが、悩みの相談はどこの、まあ、『小箱』と言ったりするのですが、小さなバーではやっている事だと思いますし。

 Four Rosesの昔からのお客さんの紹介で来られた方で神主さんが居られました。え~、神道の事は詳しくないので『神主』という名称が正しいのかどうか解りませんが、本職は大学の先生だったはずです。石笛というのを吹かれる方でして、その事で天河神社の『神主』的仕事も、祭の時になるとやられるみたいです。
 これは坊主バーで聞いたのですが、その方が店に来られた時に北新地の帰りだったのかな?よく覚えていないのですが、まあ、北新地に飲みに行かれた時に、あ、ちなみにその方はお酒を一切飲まない方なのですが、北新地に飲みに行かれた時に、ホステスさんから「え~!神主さんなんですか?私、巫女になりたいんです」と言われたら、「何を言っているんだ。君達がやっている事が巫女の仕事なんだ」と答えられたそうです。

 これは、坊主バーに入っていた『坊主スタッフ』、まあ、私がマスターとしてカウンターの中に居て、ホスト・ホステス役として日替わりで坊さんに来て頂いていたのですが、その方々が「日頃の門徒さんとの付き合いでは出来ない事がここでは出来る」みたいな事を仰る方もおられて、「ああ、そうなのかな?」とも思ったりしますが、そういう面もあるのかも知れません。まあ、これは、その僧侶と門徒さんとの付き合い次第なので一概には言えませんが。

 悩みの相談、それこそ、あ、これは面白かった話ですが、ナンパ師の兄ちゃんが居ました。もう、取っ替え引っ替え路上でナンパした女の子を連れて来るのですが、一人になった時に呟くのは「純愛がしたい…」だったり(笑)
 恋愛の相談、職場での人間関係の悩み、「人生やってられるか!」も含めて、恐らく多くの飲み屋である様な話が坊主バーでも行われていただけの話です。ただ、坊さんが居ているので、「今度、うちの法事なのですが…」的な話もありましたし、また、話す相手が坊さんなので、返事の仕方が違う事もある、これが大きな特色なのかも知れませんが、『坊さん』、まあ、真宗仏教では『坊さん』も『門徒』も同じなので、『念仏者』という『宗教者』を相手に話すので、会話の内容も少し違ったものになるのでしょうが。


@Nさんの話

 坊主バーに一人、厄介な方が居られました。『厄介な方』と言うのを別な言い方でいうと、「生きているだけで大変な人」なのかも知れませんが、まあ、『厄介な人』。ちなみに、この『厄介な人』から非常に気に入られ、信頼されていたが故に、私は川浪さんに坊主バーの2代目マスターをやって頂こうと思ったわけなのですが。まあ、当時の川浪さんも、かなり『厄介な人』だったので、気があったのだと思います。
 『厄介な人』と言いましたが、坊主バーに来られる方の大半は厄介な人でした。でも、一番印象に深いのはNさんの事です。
 Nさんは料理人でした。生きている事に大変な人だったので、職場でも上手く行かない事が散々あったらしく、最初に何度か来られた時はかなり荒れた状態で来られていました。
 NさんはFour Roses時代からのお客さんで、最初は私がカウンターの中に入っている事も気に入らなかったみたいなのですが、それでも思い出の大切な場所だったので、何度か来て頂いていました。そんなある日の事です。その日は坊主スタッフが帰った終電を過ぎた辺りからヒマでした。その時に、え~、ここは天理教ですが、天理高校で結成されたロックバンド、当時の大阪ではウルフルズ並みに売れていたロックバンドのスライドギターの人がやって来ました。この方もFour Roses時代からのお客さんで、私がやっていた聖カミソリにも何度か来て頂いたり、それ以外でも親しかった方なのですが、見た目が見事なヤンキーです(笑)そのバンドを結成する時にギターの人が、ボーカルとスライドギターの人から声をかけられた時に「正直、怖くて断る事が出来なかった」というぐらいには、外見が怖い人です。ですから、私も何度か一緒に遊んだ中とは云え、内心は「こわ!」でした。でも、好きなお兄さんだったので、色々とダベっていたら、泥酔状態のいつもよりも危険な状態のNさんが入って来られました。もう、頭の中はパニックです。客商売全開です。客商売全開でいらゆる『客あしらい』まあ、会話を遮ったり、ぼやかしたり、音楽で関心を別な所に向けたりしていたのですが、私、トイレが近くてですねぇ…。トイレに行っている間に、「カッシャーン!」という音が聞こえました。「うわ!ケンカが始まる!」と思って急いでトイレから出たら、どっからどう見てもヤンキー顔にスライドギターの人が、非常に落ちついて「何でそんな事するの?」と話して居られました。別に「茶化す」「馬鹿にする」とかそういうのではなくて、落ちついた感じで「何でそんな事するの?」と。具体的には「何でそんな事すんねん」やったかな?その言葉だけは覚えているのですが、まあ、「どうしてん」みたいな言葉もあったかも知れません。Nさんは寂しくてケンカを売りたかったのだと思います。スライドギターの方もこれが路上だったらケンカを買っていたのかも知れませんが、店でした。だから「何でそんな事すんねん?」と。缶ビールを投げつけられても、「何でそんな事すんねん」と。
 Nさんは帰られました。帰って、一ヶ月間のたうち回って、次に店に来られた時は、「え?Nさんですやんね?」というぐらいにスッキリした顔になって居られました。
「どうしたんですか?えらいスッキリした顔してますやん」と言ったらNさんは
「おう!一ヶ月間のたうち回ったで」と。で、「なんでもエエねんな、ホンマ」と。
 その「なんでもエエなんね、ホンマ」という言葉は決して自暴自棄でも、人生をナナメに観た「なんでもエエねんな」ではなく、「どんな人生でも私の人生として生きて行く」事が出来る様になった力ある言葉でした。その後のNさんは頻繁に店に来てくれ、まあ、その度にキツい75度ぐらいのラム酒をストレートで「俺はもう飲まれへん様になったからお前が飲め」と言って驕ってくれたり、朝というか、昼まで一緒に飲み歩いたり、坊主バーで深夜まで残っている若い人達の話を聞いたりする様になったりしました。川浪さんとも何度も一緒に飲んで加川良の『女の証』を歌った事だと思いますが(笑)
 

@仏陀を背負いて街頭へ

 これは坊主バーが出来て川浪さんと知り合って、確か川浪さんから教えて頂いた言葉だったと思うのですが、妹尾義郎という方の言葉で『仏陀を背負いて街頭へ、農村へ』という言葉があります。「いい言葉だなぁ~」と思ったので、途中から坊主バーの言葉をしても使い始めました。
 先のNさんはが一ヶ月間のたうち回った後に来店された時に「彼に宜しく言うといてな」と言っておられました。『彼』とは、スライドギターの方です。記憶が曖昧なのですが、確か当時から天理教の教会の仕事の為に資格を取りに行って居られたはずです。その前後に天理教の本部なのか研修道場なのか私には解りませんが、研修道場での話も聞かせて頂きましたし。確か、元々、天理市にあった教会の息子さんでしたし。
 
 坊主バーは今は天神橋六丁目に再オープンしてあります。私もバタバタして日程が遇わなくてスタッフを休んでいる状態ですが、その内にまた坊主スタッフとして入る事だと思います。
 川浪さんからの電話では「坊主バーをやるとしたら云々」の話もあったと思いますので、立ち上げ前からの話もさせて頂きましたが、店をやるのはかなり大変です。毎月の支払いもありますので。しかしながら、それぞれの宗教者が、飲みに行った先で宗教活動、別に『勧誘』という形でなくとも『宗教活動』をする事は可能です。それは天理教の『お坊さん』、私は何と呼ぶのか失礼ながら存じ上げていませんが、天理教の信仰を持たれた方がNさんを変える力になった事を目の当たりにしましたし。
 当然、あの出来事は、滅多にない『奇跡』かも知れませんが、しかしながら、私自身も飲み歩いていると、まあ、よく行く店では面白がって「この人、坊さんやねん」と紹介して頂き、色々な話をしますし、また、辛い、重い話も聞かせて頂く事が出来ます。まあ、98%ぐらいは下ネタ全開でダベっているだけですが、それでも、タマにあります。
 そう考えると、別に「どこでも良いのではないかな?」とも思ったりします。
 これはそれぞれの宗教によって違うのでしょうが、ある中のNさん、先程紹介したNさんは、喜納昌吉の『すべての人の心に花を』を色々な人が歌っているCDがあるのですが、その中でNさんが一番好きだったのは香坂みゆきが歌っている『すべての人の心に花を』でした。何やら、「こいつは隣で歌っていてくれる感じがする」と。壇上から偉そうに「泣きなさい、笑いなさい、いつの日か、いつの日か花を咲かそうよ」と歌うのではなく、隣で辛そうにしている人に「泣きなさい、笑いなさい、いつの日か、いつの日か花を咲かそうよ」と。だから好きなのだ、と。

 川浪さんの法名は、確か、釋共生だったと思います。共に生きる。隣人として、同じ人間として、共に生きる。
 「さあ、『宗教家』として云々」ではなく、同じ、苦悩する『普通の人』として隣に居る『気軽さ』が真宗仏教では大事な事ではないか?と、思います。「寺の敷居は高いけど、坊主バーなら来やすい」と言っておられた方も多くおられますし。


#時間があれば

@いのちの会

 坊主バーに関連しての事、というか、坊主バーで知り合った方々と共に『いのちの会』という若手念仏者の会を結成する事になりました。確か、私が僧侶になり大谷専修学院という道場を卒業した後、しばらくしてから、支縁のまちサンガ大阪の副代表の友人のI君に坊主バーで「俺も坊さんになったし、なんかやろ」という事で、当時坊主バーに来ていた若い真宗系の僧侶達と結成しました。
『いのちの会』の活動として、あ、私はしばらくして仕事、当時は障碍者との共同作業所のパン屋で働いていたのですが、仕事が無茶苦茶忙しくなって、それどころではなくなった事や、30歳を過ぎた事もあって、早々に辞める事になるのですが、活動の一環として、釜ヶ崎の夜回りがありました。
 当時、私が働いていた共同作業所の若チーフがクリスチャンの方でして、その作業所に来る前は釜ヶ崎の『喜望の家』で1年間だったかな?まあ、何年間か忘れましたが、何やら、その教団の中で研修の一環なのか何なのか忘れましたが、まあ、『喜望の家』にしばらく住込みながらボランティア的な活動をなさって居られたようでして、『喜望の家』を出られた後も外部から関わっておられる中で、「御一緒にどうですか?」と声をかけられて、『いのちの会』のメンバーと参加する事になりました。
 ただ、私も、その年の冬は特に忙しく、確か1回だけしか参加出来ませんでした。一番多く参加なさったのは支縁のまちサンガ大阪の副代表だと記憶しています。


#最後に

@縁を無視される

 某フリースクールの立ち上げメンバーというか、某フリースクールを作った発起人だった当時、中学1年生だった、のちに、川浪さんと結婚することになった人。まあ、Mというのですが、最後にMと坊主バーとの出会いを話したいと思います。
 ある日、Mから電話がありました。Mから電話がある事は珍しく、「おう、どうしてん?」と聞くと、また自殺未遂をして入院していたとの事でした。その時は服毒自殺をしようとしたらしく、救急車で運ばれて胃洗浄をして退院して来たばかりらしく、色々と話を聞いていて、「まあ、今度飲みに行こうぜ!」と言ったら、「今日行きたい」との事でした。一応、「今日はヤバイやろ」と言ったのですが、「どうしても今日飲みたい」という事で、当時2代目マスターだった川浪さんの坊主バーに行きました。
 そして2人は知り合って付き合いだす事になるのですが、川浪さん時代の坊主バーに取材が入った時に、客として来ていたMが、テレビ局だったかな?まあ、「坊主バーに来てどうでした?」という様な質問を受けた時に、「ここに来て坊さんの話を聞いていると、『ああ、生きているだけでお互いに支え合っているんだなぁ~。生きているだけで誰かの役に立っているんだなぁ~』という事が解りました」という様な事を言っていました。
 そのお陰でMは、その後、数年は生きる事が出来ました。


@支縁

 『支援』を『支縁』、縁起の『縁』、御縁の『縁』になっていますが、私はMが言った「ああ、生きているだけでお互いに支え合っているんだなぁ~。生きているだけで誰かの役に立っているんだなぁ~」という言葉、まあ、仏教的な意味合いでの縁起ですが、ふと、「忘却されていた縁を取り戻す」という様な言葉を思いつきます。それは、宣言に代表される様な、様々な解放運動と同じなのでしょうが。


@ さるべき業縁のもよおさばいかなるふるまいもすべし

「さるべき業縁のもよおさばいかなるふるまいもすべし」という真宗仏教の言葉があります。人間は縁次第で何だってする。逆に言うと、縁がなければ何も出来ない。ボランティアだって出来ない。坊主バーだって、当然出来なかった。坊主バーは間違いなく、今日御紹介したMが居なければ現実として出来て居なかった。
 私は真宗仏教の僧侶ですが、宗祖親鸞聖人は、御自身が信仰を得られた事を「たまたま」と仰っておられます。決して、自分の能力があったからではなく、「たまたま」だと仰って居られます。その「たまたま」、まあ、多くのお陰働きがあっての上での坊主バーであったりするわけであって、え~、東本願寺に「帰ろう、元のいのちへ」等と書いてあったはずですが、例えば釜ヶ崎の労働者が粗末に扱われている事に対して何かの御縁があれば「あなたが支えて下さって居られた縁を忘れていました」とか、そういうスタンス、『親の縁』『恩師の縁』だけでなく、忘却していた縁(いのち)の回復への道としての出会い方が、エエ感じなのではないかと思ったりします。
 当然、それを出来るか出来ないかは御縁次第です。

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1 コメント

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バカは死んでも.....か。 (通りすがり)
2013-03-23 19:58:16
このバカ、まだこんなこと書いているのか。w
何様のつもりかしらないが。w
そうだ、wwwwwwww。これくらい追加しておこう。あほうへ。
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