坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

THE BLUE HEARTS 1987野音2 ラインを越えて

2013年07月11日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
【満員電車の中 くたびれた顔をして
夕刊フジを読みながら 老いぼれてくのはゴメンだ】

【机の前に座り 計画を練るだけで
一歩も動かないで 老いぼれてくのはゴメンだ】

というのは不自由ではなかろうか。
こういう事をいう人には『満員電車の中で夕刊フジを読んでいる人』『机の前に座り計画を練るだけの人』の存在が見えていない。いや、見ようとしていない。
曲名は「ラインを越えて」であり、歌詞の最後にも

【僕はラインを越えて 確かめたい事があるよ】とあるが、なら、自我が作り出した『自由という幻想』のラインを越えて、現実に、真の自由、存在の大地に立ち還り、自分が「ああは成りたくない」という人の存在を確かめていただきたいものである。
それが

【生きられなかった時間や 生きられなかった場面や
生きられなかった場所とか 口に出せなかった言葉
あの時ああすればもっと 今より幸福だったのか?
あの時ああ言えばもっと 今より幸福だったのか?】

の迷いを解きほぐす糸口になる。
『生きられなかった時間』も、
『生きられなかった場面』も、
『生きられなかった場所』も、
『口に出せなかった言葉』も、
そんなもんはない。勝手に頭の中で思っているだけ。自分(の行動)に満足していないだけ。だから「老いぼれてくのはゴメンだ」になる。


つか、この時の真島って、バリバリ若いし(笑)まあ、この曲がずっと好きで、でも、最近疑問に感じた事を少し。



THE BLUE HEARTS 1987野音2 ラインを越えて

【凡夫】ということが大人になってもわからなかったら、一生不幸な人だ

2013年06月14日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
「君たちはまだ小さくてわからんだろうが、【凡夫】ということが大人になってもわからなかったら、一生不幸な人だ」

http://ameblo.jp/gyo-tu-ji/entry-11320365682.html


今日の学習会は次は聖徳太子の和讃らしい。教団問題から始まって、私事務局の時は宗憲で、次は愚禿悲嘆で、今回からは聖徳太子の和讃。
聖徳太子といえば竹中智秀先生。という事でググると、出て来たサイトで出会った言葉。

「凡夫」つーのは、悪人だ。自分の思い通りに生きれない人だ。

実習ネタ

2013年05月05日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 映画『さようならCP』を観ながら昔の職場を思い出す。ちなみに昔の職場は『ポッポ』というパン屋さん。某先輩の名前を検索していら出てきた

『共同体運動・コミューン運動』
http://www.arsvi.com/d/c23.htm

にも出てきます。リバティー大阪にもパネルがあったりします。

 立岩 真也『共同連のやろうとしていることはなぜ難しいのか、をすこし含む広告』
http://www.arsvi.com/ts/2004020.htm

 にも紹介されていますが、『障害者』と『健常者』の給与が以前は同じでした。私が入る時に、あまりにも低賃金すぎて「こら、あかん。人が来んわ」という事で、確か『障害者』の給与を1~2万(忘れた)減らして、その分を『健常者』に廻す事でようやく私がやって来たと。まあ、私は単に専修学院後の就職先でタマタマ見つけただけだったのだが。
 『障害者』には行政から障害年金が出るので、私よりも月の収入が多く、私が『障害者』に缶ジュースを奢ろうとした時に「あんたより金持ちに奢ってどうするねん(笑)」という様な所(笑)そういや、今の寺から住職として受け取っている年収って、当時よりも少なかったりして…。代表役員(私)、住職(私を低賃金でコキ使い過ぎやな。まあ、「家賃タダやねんし、経費で本買えるから我慢せえ!」と。

 引越の多い私は物持ちが悪く、昨夜も「あれ?あのオイルライターどこに行ったかなぁ…」と、何となくエジプトっぽい18ぐらいの時にフリマで買ったライターを探したけど見つからなかった。まあ、無難に捨てたのだろう。本も服もCD等も大量に捨てまくり。
 でも、何点か宝物があって、その中の一つが、『ポッポ』時代に代表から貰った給料袋。ただし、一枚だけ。

 代表もCP(脳性麻痺)だった、と思う。「思う」と書いたのは病名(?)を聞いた事がないし。ただ、私からすると不自由な手で『吉田さん』と書いた給料袋が捨てられない。大切な宝物。

 教学研修院での法話実習のネタは『幽霊→迷信が迷信でなく本当だったら→焚焼仙経帰楽邦』から大きく路線変更して、『青い芝→焚焼仙経帰楽邦』に。結局『焚焼仙経帰楽邦』だったりするのだが(笑)その他、『三上寛・ピストル魔の少年→張偉→焚焼仙経帰楽邦』、左派向けに『美しい日本→焚焼仙経帰楽邦』と、各種の焚焼仙経帰楽邦(笑)


 ポッポの代表と青い芝について喋った事はあったっけ?仕事も、プライベートも、坊さんとしての活動もクソ忙しかった時期なので忘れたが。

 青い芝には茨城県かすみがうら市上志筑の閑居山願成寺住職・大仏空(おさらぎ・あきら)氏という天台宗僧侶が関わっていた。あの辺りは原始親鸞教団の地域だからだろうか?歎異抄を読まれてたらしく、青い芝の中心メンバーと共に学んでおられたらしい。




【このような強烈な自己主張は今までの障害者運動にも生活態度にもみられなかったことである。このような運動のバックボーンをなすものに、青い芝の行動綱領とも言うべき四原則がある。それを次に示そう。
 一 われらは自らがCP者であることを自覚する。
 われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点をおかなければならないと信じ、且つ行動する。
 一 われらは強烈な自己主張を行なう。
 われらがCP者であることを自覚したとき、そこに起こるのは自らを守ろうとする意思である。われらは強烈な自己主張こそそれを成し得る唯一の路であると信じ、且つ行動する。
 一 われらは愛と正義を否定する。
 われらは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。
 一 われらは問題解決の路を選ばない。
 われらは安易に問題の解決を図ろうとすることがいかに危険な妥協への出発であるか、身をもって知ってきた。 
 われらは、次々と問題提起を行なうことのみ我らの行い得る運動であると信じ、且つ行動する。
 この思想は突如として障害者運動の中に現われ、今やそれが運動の中核になろうとしているが、この考えは一体どこから出てきたのであろうか。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるに世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいわんや善人をやと。この条、一旦そのいはれあるに似たれども……」
 これは、鎌倉時代にかかれた歎異抄の一節である。歎異抄は浄土真宗の開祖である親鸞上人の教えを弟子が書き記したものであるが、その真髄は悪人正機、つまり「悪人こそまず救われるべきである」というのである。親鸞のいう悪人――うみかはにあみをひき、つりをして世をわたるものも、野やまにしゝをかり、とりをとりていのちをつぐともがら――は自分が悪人だということを知っており、なおかつ悪業をしなければ生きていけない悲しみを知っている。それに対して善人は「善行」(心身も修行を行い勉学にいそしみ他人に施しなどをすること)ができる、いわば恵まれた人達なのである。親鸞は当時修行勉学する機会に恵まれた人達だけが救われるとする旧宗派を捨て、庶民―その時代の底辺をなす人々―の中で生きた人といえよう。
 現代において、人は無意識のうちに善い行ないをすれば善いことがあり、幸せになれると思い、善い行ないとは究極のところよく働くことだと率直に信じこんでいる。

「一生懸命働き、世界の役に立ち、金を残し、自分の家を建て、良い家庭を築く、このようなことが善人の手本であり幸せの見本とされているけれど、このようなことができない人達はどうなるのかね。それは『不幸な人』すなわち悪とされる。しかし歎異抄の『悪人』という言葉を障害者という言葉に置き換えてごらん」
 これはマハラバ村(サンスクリットで大きな叫びの意)のリーダーであった大仏空師の言葉であり、私と大仏氏、歎異抄との出会いでもあった。父から常々働くことは人間としての資格なのだといい聞かされ、現実の自分と比べ肩身の狭い思いをしながら、それに反芻する論理的拠り所を知らなかった私にとって、この言葉は衝撃であった。そもそもマハラバ村とは昭和三九年茨城県石岡市郊外、小高い山の中腹に立つ閑居山願成寺という古寺を中心に作られた脳性マヒ者の共同体であり、この寺の住職が大仏師であった。
 「人は誰でも罪深いものである。知らず知らずのうちに人に迷惑をかけている。いや迷惑をかけ犯罪を犯さなければ生きていけないのが人間である。それを償おうとすればまた一つ二つと悪いことをしてしまう。そんな罪深い自分に気がついた時に『助けてくれ』と叫ばなければならないだろう。その叫びを親鸞は念仏といったのだ。そして念仏を叫ばなければいられなくなった時、必ず阿弥陀様が救って下さるというのだ。障害者は被差別者であり、すぐ被害者づらをするが、同時に自分も加害者であることに少しも気づこうとはしない。つまり、皆もっと自己を凝視し、そこから自己を主張する必要がある。そうでないと自分達を差別しているものが何であるのかがわからずに過ぎてしまう」
「障害者は一般社会へ溶け込もうという気持ちが強い。それは『健全者』への憧れということだ、君達が考える程この社会も、健全者といわれるものもそんなに素晴らしいものではない。それが証拠に現に障害者を差別し、弾き出しているではないか。健全者の社会へ入ろうという姿勢をとればとるほど、差別され、弾きだされるのだ。だから今の社会を問い返し、変えていく為に敢えていまの社会に背を向けていこうではないか」
 このような話を数年間にわたって大仏師より聞かされ、また討論してきたのである。とはいっても有難い法話を聞き、経典の勉強などにいそしんだというのではない。障害者特有の社会性のなさ、お互いのエゴのぶつけ合い、社会で差別され、こずき回されてきた故の人間不信と妙な甘え、家に閉じ込められていたが為の気のきかなさ、男女関係のもつれ等が渦巻き、それは壮烈なまでの人間ドラマであった。だからこそ歎異抄の世界を地で行ったといえよう。】
(横塚晃一『ある障害者運動の目指すもの』。ただし、生活書院『母よ!殺すな』2010年1月10日・第二版第一刷109頁~114頁より)

 
 特に私は上記引用文にある横塚晃一氏の『所留耳底(みみのそこにとどまるところ』である大仏空氏の言葉

【「障害者は一般社会へ溶け込もうという気持ちが強い。それは『健全者』への憧れということだ、君達が考える程この社会も、健全者といわれるものもそんなに素晴らしいものではない。それが証拠に現に障害者を差別し、弾き出しているではないか。健全者の社会へ入ろうという姿勢をとればとるほど、差別され、弾きだされるのだ。だから今の社会を問い返し、変えていく為に敢えていまの社会に背を向けていこうではないか」】

 に注目したい。
 この「背を向けていこうではないか」という言葉は『健全者社会に迎合しない』という風に読めばいいのか?勉強不足&酔っぱらい。

 大仏空氏は天台宗の僧侶であるが故に(?)天台本覚思想が背景にある。

『「おのれの地獄を見きわめよ」―CP(脳性マヒ)者とともに生きて』
http://homepage2.nifty.com/maharababunnko/kaihourironn/onore6.3.html


に『三十四箇事書』の


【草木はただ草木にして、生界・仏界の徳なしと。一向にただ非常にして、有情にあらずと。故に、これを破す。一家の意は、草木非情といえども、非情ながら有情の徳を施す。非情を改めて有情と云ふにはあらず。故に成仏と云えば、人々、非情を転じて有情に成ると思ふ。全くしからず。ただ非情ながら、しかも有情なえり。よくよく、これを思うべし。】(日本思想体系9『天台本覚論』167頁より)

を原文で引用し

【つまり、「非情は非情のままでけっこうなんだ。草木が人間のように成仏することができない。悪いものは悪いままでけっこうなんだ。悪いということで、すでにいいことなんだ。とくに、いいことになるなんて思う必要がない」。それが、ここに述べられている。「草木国土悉皆成仏」を下手に理解すると、皆一つになってしまう。だから、脳性マヒなら脳性マヒで、それですでにいいのだという考え方なんです。脳性マヒ者が「健全者」に近づいてよくなるなんて考える必要がないというわけです。脳性マヒは脳性マヒで、健全者は健全者で、それでいいわけです。別々でいて、それで一律なんだという考え方がないと、「草木国土悉皆成仏」がまちがって理解されるが、この考え方は、比叡山にちゃんとあったんです。】
(http://homepage2.nifty.com/maharababunnko/kaihourironn/onore6.3.html)

と。

 そろそろ寝ないといけないし、酔いも深まって来た(文字が打てない…)ので、まとめに入るが、本覚思想は一部の真面目なインテリ仏教徒に非情に評判が悪く、それこそ「本覚思想は仏教ではない!」という意見もあったりするが、しかし、『青い芝』という活き活きとした念佛者の叫びの根拠に天台本覚思想があった事実を真面目なインテリ仏教徒はどう考えるのか?

 だいたい、『本覚思想』といっても、私(たち)凡夫にはハードルが高いのではないのか?流転する縁起的存在の自他を「そのまま」引き受ける事がどれ程難しい事かぐらいは、多少、自分の人生について悩んだ事がある人には実感出来るのではないのか?『苦』の語源は『思い通りにならない』ではなかったのか?『一切皆苦』はどこに消えた。
 また、今日もまだ残る障害者差別=優生思想の現状はどう考えるのだ?「役に立つ」「役に立たない」、「都合がイイ」「都合が悪い」、老少善悪を問わないのが真宗であるが、それは老少善悪を「えらび・きらい・みすてる」現実があるからである。

 あ、焚焼仙経帰楽邦。



【菩提流支との出会いによる曇鸞の回心の物語はあまりにも有名であるが、『続高僧伝』には、この「梵焼仙経帰楽邦」といわれるできごとが何であったのかを簡潔に述べる記事がある。曇鸞の臨終を述べるくだりである。むしろこの記述の方が重要であると思う。

 魏の興和四年を以って、疾に因って平遥の山寺に卒す。春秋六十有七。

 魏の興和四年(五四二)に、老齢のためであろうか、曇鸞は病気になって、平遥(現在の山西省)の山寺で亡くなった。六十七歳であった、という淡々とした記述である。深い感動を覚える記事である。
 曇鸞はかつて病気になった時、「命は惟れ危脆にして、其の常を定めず」と、生死するいのちのはかなさに愕然として、不老長寿の法を求めた。外道に迷ったのである。その曇鸞が念仏に帰して、年をとえい、病気になって、そして一老人として死んだ。あれほど健康で長生きをすることを求めていた曇鸞が、平々凡々としたひとりの人間としての生涯を終えていった。生死するいのちのままに、生かされ、そしていのちを終えた。
 真宗には現世利益がないといわれるが、そういうことはない。与えられたいのちを尊び、そのいのちを完結していく。苦労の多い人生であっても、それを自分の人生としてまっとうする。そのような真実の人生を見いだすこと以外に、どこに現世利益があろうか。仏教が説く最大の利益は真実に生きる道が見つかったということである。
 曇鸞は外道に迷ったことを通して仏教に目覚めた。仏陀釈尊が八十年の生涯をもって示したように、曇鸞も六十七年の生死するいのちを完結していった。老い、病み、死すという、平凡であるけれども地に足のついた、人の一生を示して、それがそのまま真実に生きる道であることを教えた。曇鸞はみずからの生涯をもって、念仏往生の道の何であるかを教え示したといえる。】
(狐野秀存先生『釈尊から親鸞へ』七祖の伝統 107頁~108頁より)


 
 曇鸞を『障害者』と置き換えてみると、『健全者』に憧れ『健全者』になろうとしていた曇鸞が念仏に帰依し、平々凡々とした一人の『障害者=人間』として立ち上がり、人生を全うする事が出来た。
 それを私に置き換えると、若い頃は悪魔に魂を売ってでも有名になりたかった。世間的な名誉が欲しかった。「ありのままの私」が大キライだった。でも、そういう私に対して、無条件に尊敬し、引き受けてくれる方々が信仰して居られる本願念仏の教えを私も学ぶ事によって、今も「生きている」事が出来ている、という奇跡がある。


 ポッポのパン屋時代に、ポッポが属している障害者団体のイベントにヘルパーとして参加した。基本はあくまでも「障害者による障害者の為のイベント」。ヘルパーの私や、本を売りに来てた月刊地域闘争の人はオマケ(笑)
 そのイベントで、若い頃に青い芝に触れた方が、「あんたら自分が障害者やということを忘れたらあかんで。忘れそうになったら鏡をみたらエエ。どっからどうみても障害者やろ」と。
 その時の感動は今にして思えば

『あなたは、あなたに成ればいい~あなたはあなたで在ればいい』(渡辺尚子)

と、いう言葉だったのだろう。

 

 『青い芝と原始親鸞教団』についても書きたい気分だが、寝る。

 あと、
多分、これを15分の法話原稿に仕立て上げて話すにはかなり無理がある、というか、火曜日にレジメ的なものを提出して、その後も諸々勉強して、かつ、深めて、言葉にして、引用その他を端折りまくって、15分ぐらいにしよ。
 基本は自己紹介です(笑)

国際仏前結婚式

2010年01月18日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 国際仏前結婚式。
 チマ・チョゴリと和服の中、法衣姿の私たちが執行する。非常にエエ感じである。なんとなくだが、『国際神前結婚式』よりも『国際キリスト教結婚式』よりもエエ感じだと思う。まあ、私が仏教徒だからなんだが。。。
 日本に仏教は朝鮮半島を通じて伝えられた、とされている。当然、実際の所は解らんが、まあ、公式に伝えられたとされるのは百済の聖明王からである。それから約1500年後の、在日韓国人の新郎と、日本の僧侶新婦が、仏前で結婚式。

【まるさんかくしかく まるさんかくしかく/顔も姿も ちがうけど/だから とっても おもしろい/大きな願いに つつまれて/バラバラでいっしょ バラバラでいっしょ/誰もが 今を 生きている】(『バラバラでいっしょ ○△□のうた』より)

 である。

 夕方より結婚パーティー。
 新郎の裁判闘争の支援を少ししてた関係でスピーチ。それまでに酔っぱらってたし、新郎から冗談まじりで頼まれてた「新婦の上から目線」について、ちと喋る。
 上から目線、っちゅうのが批難されるのは主に『目下が目上に対して行った時』である。『目上』が『目下』に対して行う上から目線は『当たり前』になっている場合が多い。
 『目上』に当たるのが『年上』だったり『上司』だったり『男』だったりする。目下はその逆。なので、若い亀田兄弟がタメ口で喋ったりするだけで大騒ぎである。ちなみに私も先日『目上』から思いっきり上から目線で怒鳴られたんがだ、利害関係がない『目上』、つまり、単に偉そうにしている人から怒鳴られる筋合いはなく、しかもその理由が私が『その人が考える目上』に対して『目上』として扱っていなかった事が理由だったので、冷静に「あなたに偉そうにされる筋合いってありましたっけ?」と切って捨ててしまったんだが(笑)
 あ、話が。。。まあ、そういう事を当たり前にしている事が差別であると、んな事を酔っぱらって喋って、夫婦関係においても両者の『当たり前』存在するわけであって、で、仏様じゃない私らは、『どうでもエエ相手』や、力関係が『目上』で余裕がある、とか、そんな事でもない限り、違いなんぞ認められるわけもなく、だからこその念仏であってでんなぁ。。。なので、恩師の言葉

【さあ苦労を一緒にして行こうと、最後の最後まで苦労を一緒にしていけるということができるということが、本願に遇うた、助けられたということの喜びです。苦労が一緒に出来るということが、助かったということなんです。
 ここに非常に深い、私たちが生きるということの喜びがあるんです。苦労が嫌だというのではなしに、一緒に苦労が出来るということが喜びだと。そこに助けられていく念仏の教えがあるのです。】
 (竹中智秀先生 http://homepage.mac.com/hon1/sukanen/honkojinote/note7/note72.htmより)

 を紹介して終了。
 結婚パーティーの余興を見ながら、飲む、飲む。焼酎の水割り氷抜きを飲む飲む。
 2次会でも飲む飲む。んが、「あ、子守り時間や」っちゅう事で途中で抜けて帰る。

リハーサル

2010年01月16日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 友人の仏前結婚式のリハーサル。私は『係役』っちゅう、三三九度をする時のアシスタント役『だけ』だと思ってたら、司会も私だったのね。。。もっと早く言ってくれよ。。。

 っちゅう事で、リハーサルが終わって帰宅して、娘とママがお風呂に入って、パパは娘の体を拭いて、髪の毛を乾かして。んで、銭湯気分だったので、まあ、明日は『仏前結婚式』なので、ゆったりと湯船に浸かりつつ。
 帰宅後、今日メモりまくった式次第を作る。間違わないように司会者が喋る部分も作る。司会者が間違えたらどうしようもないし。作りながら頭に叩き込む。
 ついでに、私は『テープ役』でもある。「テープの音量はフェードアウトしろ!!!」と、頭に叩き込む。

 え~。。。寝よ。

家庭の城

2009年09月12日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 なんかよう知らんのだが、『火天の城』という映画が明日から公開らしい。

 http://katen.jp/

 これは。。。

 「さて問題です。安土城は誰が作ったでしょう?」

 という質問に対して戸惑う小学生が増えるのではないのか?その戸惑いが「け!大人なんて信用ならねぇや」と、非行に走ってしまう可能性が大ではないのか?
 ああ、そういう意味でも素晴らしい映画である。。。まあ、戦国オタクとしては「是非映画館で見てみたい」と思わせる映画やのぉ。。。実際に行くかどうかは別にして。

 どうでもエエけど、サンガリアの酎ハイ『ミラクルボディハイ』は効くのぉ。。。深夜3時に気合い入ってどないせえ、っちゅうねん(笑)

 あ、安土城を作ったのは大工さんと、多くの労働者である。
 プロレタリア、万歳!万歳!
 っちゅう映画かどうかは見てないから知らんけど、今日たまたま見てた『明日から映画始まりまっせ番組』を見てる限りではそういう映画だった。

 「では問題です。本願寺を作ったのは誰でしょう?」

 しまった。。。これはややこしい。。。
 
 私が住職をしている寺は蓮如の弟子が作ったらしい。
 当然、建設したのは大工さんなんだろうが、映画『火天の城』での信長にあたる人が『蓮如の弟子』になるのだろうが、え~と、その他多くの門徒が居たと思うのだが。。。

 家庭の城=マイホーム。
 『寺』は『家』ではない。
 本願寺=大谷家でないのならば、それと同じく各寺も『○○家』のものではない。

【この在所に居住せしむる根元は、あながちに一生涯をこころやすくすごし、栄花栄耀をこのみ、また花鳥風月にもこころをよせず、あわれ、無上菩提のためには、信心決定の行者も繁昌せしめ、念仏をももうさんともがらも、出来せしむるようにもあれかしとおもう一念のこころざしをはこぶばかりなり。】(御文4-15より)

新婚ツアー・最終日『終わりなき歩みを共に』

2009年05月14日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 最終日なのでオモクソ朝寝をしてからホテルを出発。
 っちゅうても、今日は予定ゼロ。「まあ、車の中に入ったら何か決まるんとちゃうか?」と車に乗り込む。結局、「スープカレーを食べる」っちゅうのと、「札幌場外市場に行く」っちゅう事だけ決まる。
 美味そうなスープカレーの店に行くと11時30分頃にも関わらず満員、っちゅうか、行列。観光客、さっさと断念。結局、札幌場外市場に行って、そこにあったスープカレーの店で食べる。たまたま発見した店だったのだが、結構ヒット。
 札幌場外市場で、私は先日昼飯で食べた『キトピロラーメン』『キトピロ餃子』のキトピロ=アイヌネギ=行者ニンニクを買って、新婦はアスパラを紫、白、グリーンと買ったらしい。
 ちなみに今回の新婚旅行ではウニは食べてない。日高がウニの時期らしいので日高まで行こうと『思った』のだが、『時間的に無理』っちゅう事でさっさと断念。小樽も、積丹半島もまだ解禁違うし。それやったら大阪で喰っても一緒やし。

 で、レンタカーを返して千歳空港へ。え~。。。4泊5日で1300キロ走ってました。一人旅ならもっと走っていた気がするが、新婚旅行にしてはよう走ったのぉ。。。

 大阪、っちゅうか、関西空港に帰って来て、意味なくタコ焼を喰う。いや、「喫茶店でも行けへん?」が、「せっかく大阪に来たんやし、まあ、タコ焼でも」っちゅう事になったわけやね(笑)
 
 帰宅する。まだこっちでやらんとアカン雑用があるので、新婚旅行の帰りもバラバラ。
 んが、新婚旅行も終わった事やし、出来れば部屋の後片付け&引っ越しをさっさとして向こうに行きたいので、向こうの部屋で使うソファーベッドをネットで探す。いちいち家具屋巡りをしてる時間はないし。
 んが、ネットでも結構色々あって、これまた時間がかかって、気がつくと結構エエ時間。んが、明日もバタバタするし、「今日のうちにブログを書いとこ。記念やし」っちゅう事で、ブログを書いて、ようやく書き終わったので、寝る。

 旅行中も、あれこれ「どうしよ、こうしよ」。
 これが、一生続いて行く。

新婚ツアー・4日目『アイヌの結婚式』

2009年05月13日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 朝メシ喰って、ホテル敷地内の『スカイウォーク』を散歩して、イザ、二風谷へ。
 資料館とか博物館を巡る。
 平取町立二風谷アイヌ文化博物館で、『アイヌの結婚式』というビデオをブースでチラッと観る。
 なぜ『チラッと』かというと、一人旅でなく新婚旅行だったし、チラッと観て「アカン、これはちゃんと観なアカン」と思ったから。残念ながら新婚旅行にビデオを全部観る時間は予定してなかったし。
 受付(?)みたいな所で、どこかで手に入るか、大阪で観れる場所はあるか?と聞いた所、大阪にある国立民俗学博物館にあるそうな。手に入らず、観る事も出来なければ、新婦に謝って最後まで観るつもりだったんだが、まあ、観れるのならちゃんと観よ。
 ちなみに、検索すると市販もされているみたいである。
 http://www31.ocn.ne.jp/~minneiken/nihonnosugata.htm

【民族の魂の復活
 1971年4月10日、北海道二風谷(にぶたに)で、アイヌ流の結婚式が行われた。新婦と新郎はともにアイヌの血を受けた人である
 明治時代以降、内地日本人の進出と圧迫によりアイヌの生活文化は変容を迫られ、それは結婚式にも及んでいた。過去7、80年、アイヌ流の式は行われていないという。そのアイヌ流結婚式の実現の契機となったのは新婦の決意であり、それを支えたのが二風谷に住むアイヌの人たちであった。ウウェペケレ、ユカラなどの伝承、古老たちの見聞をもとに行われた結婚式。?式を前にして贈り物が交換される。新郎の村では、新婚夫婦の家作り、御馳走の準備がされる。花ゴザに包んだわずかな荷物を背負って花嫁は花婿の村へ向かう。結婚式の儀式が行われ、続いて、宴が始まる。アイヌの唄と踊りが夜更けまで賑やかに続く。
 復活した結婚式。新郎、新婦、参加したアイヌの人たちの想い。これは、アイヌ(アイヌ語で「人間」の意味)民族精神復興運動の先駆的あらわれの記録である。】(http://www31.ocn.ne.jp/~minneiken/sugata_htm/001sugata.htm

 やっぱし新婦に土下座しても『新婚旅行』で観てくりゃ良かったと今になって思う。
 ちなみに、この新婚旅行記も『南無阿弥陀仏の結婚式』と云うカテゴリーに入れている。今現在の大谷派での結婚式の式次第に入っている三三九度をせずに、あくまでも仏事としての結婚式をする為に諸々書いていたカテゴリーである。ビデオの最初の方を見ながら、『南無阿弥陀仏の結婚式』という、ある種『真宗原理主義』的な結婚式をやった事を思い出す。私たちの結婚式も当然、式のやり方について反対があったし。

 後、夕張を経由して、札幌へ。モエレ沼公園、やったかな?イサム・ノグチ、っちゅう人が設計したとか云われているらしいが、まあ、そこは観光地、っちゅう事で(笑)
 んが、素晴らしい公園。予備知識がほぼゼロであり、現地を訪れてそこに書いてあった事柄から、「実際に作った人は偉い!」と、エラく感動したんだが、何やら当時『札幌市緑化推進部造園課環状緑地係長』だった『山本さん』とかいう人を中心に作りはったみたいである。
 http://www.welcome.city.sapporo.jp/moerenuma/im.html
 実際に誰が設計したのか解らんが、まあ、この『山本さん』が中心になって作りはったのだろう。素晴らしい才能である。素晴らしい公園だったし。

 公園で夕方を迎える。夕日がキレイだったので、ホテルに行く前に急に思い立ってホテル近所の海岸へ。夕日は沈んだけど、それでも夕焼けの海岸で、寒かったので少しの間だけやったけど海辺で過ごす。エエ感じの新婚ツアー最後の夕方。

 ホテルは『シャトレーゼ・ガトー・キングダム』という、これまたバブリーやけど、多分直接予約しても安いだろうホテル。北海道、特に札幌のホテルは高級ホテルでもビジネスホテル料金で泊まれるし。
 プールには入らず、ホテル内の居酒屋(北海道料理屋)で海鮮三昧。刺身の盛り合わせを頼んだら、ヒマだったのだろうか?舟盛り並みの量で出て来て、2200円の刺身盛り合わせがボリューム満タン。他に諸々頼んだけど、美味、美味。鮭の内蔵の塩辛なんぞは絶好の酒のアテやった。
 温泉(スーパー銭湯のデッカイバージョン)に入って、露天風呂に浸かりつつ、「そういや、星空を観るのを忘れてたやんけ」と思ったのだが、結構エエ時間やったし、酒も結構入っていたので断念。変わらず「ああ、こういう風にしときゃ良かったな」なんぞと未練タラタラなんだが、未練も出来ひん人生はイヤやし。未練も煩悩。未練タラタラやから、「ああ、やっぱし煩悩具足の凡夫やのぉ。。。」とやなぁ。。。

新婚ツアー・3日目『花畑と原生花園』

2009年05月12日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 朝から温泉に入って、朝飯喰って、今回最大の難所である標高1139メートルの三国峠越え。いや、北海道って、山の方に行くとまだ雪が残ってまんねん。んで、北海道で一番高い所にある峠やし、「雪、積もってたらどうしよ。。。」やったんだが、幸いな事に山肌に雪は積もってても、道路は大丈夫だった。三国峠、絶景、絶景。ついでに野良(?)のエゾシカ発見。平気で道を渡るな、っちゅうねん。せっかくなので道を渡りきったエゾシカ近くに車を停めて御挨拶。まあ、元々エゾシカとかの住処にこっちがやって来たわけなんやし。

 途中、帯広、っちゅう街を通る。
 「おお、ここは中川先生が学長をしてる帯広大谷短期大学がある所やんけ」と、会話しつつ、通り過ぎる(笑)結婚先のお父さんが亡くなるまでの報恩講の講師の先生が中川先生であり、私が最初に所属寺に遊びに行った時の講師の先生も中川先生だったし。しかも2人とも中川先生が専修学院主事(教頭みたいなもん)時代の卒業生やし。2人が結婚した、っちゅう事も知ってはるし、挨拶に行っても良かったのだが、「中川先生よりも花畑牧場」っちゅう事で帯広通過(笑)

 花畑牧場。
 大変である。なんと花畑牧場の現地に行っても『生キャラメル』は10個までしか買えないのだ!しかし、『ホエー豚丼』を食べると5個+して買えるらしく、私たちも早速ホエー豚丼を食べ、2人で30個の生キャラメルを買える権利を得る。。。っちゅうか、そんなに買うか!なんだが、まあ、買う人も居てるみたいだ。
 生キャラメル、っちゅうか、基本甘いもんがキライは私はタンガクラブの土産用に2個だけ買って、新婦は土産用に結構買ってたみたいだが、それでも合わして10個ぐらいなもん。『要冷蔵』みたいなのでクール宅配便で配達して貰う。
 花畑牧場では多くの白服集団が働いて居て、それが外部から見れるようになっているのだが、場所が結構辺鄙な所やし、「○○サティアン」なんぞと良からぬ事が頭をよぎるのだが、まあ、皆さん一生懸命に生キャラメルを作ってはった。
 花畑カフェやったけな?そんな所もあって、そこが見事にパステルピンク系の建物であり、「そうか、『花畑牧場』って富良野みたいなもんやねんや」と、ようやく気づく。っちゅうか、興味なかったのだが。。。
 ちなみに、大量の生キャラメルが欲しいのならわざわざ行く価値はあるのだろうが、それで無ければイベントなんぞをしてなければわざわざ行く価値はないと思う。
 んが、これは伊勢の夫婦岩と一緒であり、やはり行かないと解らん事でもある。伊勢の夫婦岩と同じく、『花畑牧場』という夢を見させている社長はさすがである。
 
 後に、湧洞湖と海に挟まれた道を先端まで行く。ナウマン国道とか、原生花園・湿原があったりで、まあ、バイク・ツーリングの方が楽しいルートなんだろうが、ドライブでもそこそこ楽しめた。湧洞湖にはなにもない。一軒だけ、家なのか、ロッジなのか知らんが、そんなもんが湖畔に立っていたが、他には何もない。エエ感じの私が求める大自然の北海道。

 宿泊先はトマム、っちゅう所にある『アルファリゾート・トマム・ザ・タワー』(http://www.snowtomamu.jp/)っちゅう所。え~。。。冬場はスキー場らしいのだが、十勝近辺で宿泊出来るツアー会社選択のホテルがここしかなくて、ここにした。プラス、北海道の山奥(?)に30数階建てのビルが4本も立っとるわけやし、それを見たかった、っちゅうのもあったのだが。
 とにかく、建物だけで笑える。スカイウォークやったかな?「晩飯どうする?」っちゅう選択視の中で「ホテルでメシ喰うか?」っちゅう事で移動の車の中で予約が居るかどうかを電話して貰ったのだが、洋食のレストランもあって、そこまで『ホテルからスカイウォークで10分、バスで数分らしい』という新婦の謎の発言があり、「なんのこっちゃ?」と2人でスカイウォークについて諸々想像していたのだが、想像を絶するスカイウォークが現地にはあり、当日夜に少し、翌朝には朝食後の朝の散歩で長い長い、長く、無茶苦茶長いガラス張りの廊下、大自然の中を敷地内を巡る廊下があって非常に楽しかった。ホテルもワケ解らんかったし。ウチ等の部屋は31階だったのだが、まだ上もあったし、まあ、30数階立てらしい。そんな『ビル』が4本立っとる。まあ、一度体験する価値はあると思う。

新婚ツアー・2日目『旭山の苦労人』

2009年05月11日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 朝起きて、「まあ、小樽やし」っちゅう事で朝市でメシを喰う。店の名前の『なんちゃらセット』っちゅうのを食べたんだが、値段(750円?)の割に刺身も焼き鮭もイクラもあって美味美味。
 食後に「まあ、小樽やし」っちゅう事で運河沿いを散歩。っちゅうか、単純にホテルから朝市まで運河を一回りする感じで行き来しただけなんだが。。。
 3桁国道を通って、イザ、旭山動物園へ。途中、制限速度60キロの道を自衛隊の車も80キロで走ってた。速度を守っているのは佐川急便のトラックだけ(クロネコは発見出来ず)だった気がするのだが。。。
 
 旭山動物園恐るべし。動物園キライの私が5時間近く遊んでもうたやんけ。。。
 で、非常によく出来ている。ペンギンはホンマに空を飛んでたし、アザラシもちゃんと有名な写真通りに水中のチューブを泳いでくれるし。

 動物園という場所がある。んなもんは無くならない。無くしたくとも、まあ、無くならないであろう。
 京大の原子力研究所(?)に反原発の人が働いて居る。教授か、講師か、なんか知らんが、まあ、ベテラン研究員である。この人は原子力の学者であり、原子力を研究しつつ、でも、見事に原子力に反対の立場である。
 こういうので他に思いつくのは、例えば動物管理センターなんぞがある。まあ、管理され殺される犬を直接『殺す側』の人達である。でも、その事に反対である。反対だから、その立場にいる。その立場に居て、そこから管理され、殺されて行く実状を訴えかけている。まあ、現場の苦労を担い、解放へと向う苦労。
 これは、ある意味、寺業界でもそうなんだろう。
 旭山動物園は、動物園でありながら、そこに居る『動物』と呼ばれる生き物を『同じいきもの』として扱おうという意志が感じられた。
 ヒグマや、キタキツネ、海猫なんぞも居たが、まあ、海猫が最たるものなんだが、怪我をして飛べない海猫。
 白クマの『もぐもぐタイム』という、まあ、食事の時間が各動物にあるのだが、その『もぐもぐタイム』なんぞの時には地球温暖化を訴え、人間の環境破壊を訴えている。
 『もぐもぐタイム』はショータイムである。色々と見て、そのショーで喋っている事を聞いていると、殆ど環境団体の集会と変わらん。眼の前にその『被害者』たる動物が居て、そこで人間のエゴを優しく告発してはった。
 で、『ショービジネス』としても、非常によく出来ていると思う。なんせ、動物園キライの私が5時間近くも楽しめたのだし。

 何にしても、これから住職として寺を『やる側』の立場になる私とっては非常にいい研修であった。っちゅうか、単に楽しんでただけなんだが。。。
 あ、一応、本を2冊ゲット。
 中公新書の『戦う動物園』と、週刊SPA!編集部の『旭山動物園の奇跡』っちゅうの。時間が出来たら読も。

 宿泊先は層雲峡温泉・朝陽リゾートホテルっちゅう所。
 このホテルもよう出来てる。夕食はバイキング形式だったのだが、結構美味い。んで、売店で売っている商品も夕食に出て来たりして、例えば「このカニ美味いなぁ」なら、そのカニが買えたりする。米まで売ってやがる。私等はツアーだったので正式料金がナンボか知らんが、結構安かったと思う。でも、貸切の風呂だったり、マッサージや、え~、ほれ、なんちゅうんや、主に女性が利用する美肌とかなんとかいうのもあったりして、設備も充実。んなもんで金を落として行く形式になっているのだろう。
 露天風呂もエエ感じやったし、朝飯も美味。大満足の宿。
 んが、御飯が美味しかったので夕食、朝食とも食べ過ぎてしまう危険性が。。。まあ、それだけ満足出来たわけなんだが。

新婚ツアー・初日『岡本公三さま』

2009年05月10日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 誕生日♪
 んが、41歳なので誕生日にも慣れっこになってるし、んな場合でもなく、早朝に起きて、っちゅうか、1時間ぐらいしか寝ずに関西空港へ。

 岡本公三様。私はあなたの弟子として失格です。空港でカバンに入れてあった大量のライターを空港職員に発見され、その場であなたの様にテロ行動も出来ずに大量のライターを奪われてしまいました。。。
 ん?
 え~と、私はタバコをカートンで買った時に貰ったライターを手持ちのカバンに数個ずつ突っ込んでいる。今回はおニューのカバンに6~7個、ショルダーに4~5個のライターを入れていたのだが、なんと飛行機に乗る時に持って行けるライターは1個だけらしい。荷物検査で「カバンの中に5~6個のライターが入っていませんか?」と聞かれ、岡本公三の弟子失格の私は「入ってますが」と答えたら、厳しい目つきの職員から「全部出して下さい」と云われ、え~。。。ショルダーの分も含めて没収。。。その段階で結構不機嫌モードだったのだが、1個だけ持って行けるライターのガス量を一緒に調べてくれたので、不機嫌治る。

 飛行機へ北海道・千歳空港へ。ちなみに何度か書いたが、『千歳』とは元々のあの辺りの地名であった『シコツ』が『死骨』につながるから勝手に地名を変えて『千歳』なんだ、なんぞと、新婦にウンチクを宣いつつ、それを軽く無視されつつ、レンタカーを借りる。
 レンタカーはツアーに付いてる一番安いクラスだったので日産マーチ。かわゆい。。。かわゆいぞ、日産マーチ。
 マーチに乗って苫小牧へ。走り出してすぐに「ここって高速道路ちゃうやんなぁ。。。」と。車の流れに乗ってたら100キロ近いスピードで焦る、焦る。「なんで新婚旅行で一発免停喰らわなアカンねん」と、スピードを若干緩めたのだが、北海道の道路はムチャ速。ほぼ、全員『暴走行為』状態でんな。
 っちゅう事で、準暴走行為のスピードで苫小牧へ。一応チェックしてた食堂が休みやったんやけど、まあ、市場の食堂へ苫小牧名物のホッキ貝をドンブリで喰う。美味美味。
 んで、本格ドライブの始まり。なんせ、ツアーの都合、っちゅうか、空席の都合で5000円アップになったんだが、10時には千歳に到着してたので、まるっきし予定してなかった急遽ドライブなのだ。
 苫小牧から支笏湖、羊蹄山なんぞを見つつ、ドライブ、ドライブ。途中美味そうな蕎麦屋で『水そば』という、名水だけで蕎麦を食べるというシンプルなもんを食べたりする。結構、エエ感じ。っちゅうか、10割蕎麦が美味いし、水もエエ感じやったし、シンプル、シンプルと。
 んでもって積丹半島を一周。途中、18歳の時に来て良かった神威岬を妊婦と共に。久々に行くと、片桐なぎさと、船越英一郎が出て来そうな場所やな、あっこは。んで、精神世界系の人も好きそうな場所やな。あの岩、っちゅうか、まあ、『御神体』みたいなもんはスンゲーな。

 宿泊先は小樽のホテル。運河沿いでアンティーク家具がエエ感じ。んが、運河の前に片側3車線か、4車線ぐらいの道路が走ってて、まあ、交通量は少ないのだが、あれは『運河側』でなく、『道路側』でないのか?なんぞとゴチャゴチャ云いつつ。
 晩御飯は北海道初日なのでジンギスカン。小樽=寿司、っちゅうのは、もおエエし。松尾ジンギスカン、っちゅう、北海道で有名チェーンのジンギスカンを散々食べて、ビールを飲んで、誕生日なのでオゴって貰う。んが、会計、安う。オマケして貰ったみたいやな。

ハレもクソもあるか!

2009年04月19日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 帰宅して新婚ツアーズの仕事(?)宿探し、宿探し。

 しかし、新潟から米沢辺りをウロウロするのに比べて、なんで沖縄のゴージャスなリゾートホテルで泊まった方が安いねん。。。
 なんぞとブツブツ思いながらの宿探し。せめて同額程度に収めたいし。
 んが、私の心の中に「新婚旅行やから」という鬼神が。。。「新婚旅行やからリッチにいっときまひょ」という、恐るべしゼクシィの野望、広告代理店・冠婚葬祭業の野望に洗脳された私が。。。
 「負けるか、負けるもんか。。。」なんぞと思いつつ諸々調べてたら睡魔に負ける。
 そのまま14時間寝てやんの。

 まあ、ハレとケとケガレも、全部「ケ!」と。ん?なんのこっちゃ。まあ、『ハレ』でも『ケガレ』でも日常の感覚を忘れんと、「ハレの日やし、パー!っといっときまひょ」にはせずに、地味に新婚ツアーズの仕事は続く。

阿弥陀さんが空をとぶ

2009年04月18日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 手渡しの内祝を住職夫妻と、総代さん(厳密には責任役員含む)達に渡したし、気分的にもラクラク。
 よって、新婚旅行計画。

 まあ、「忙しいから」と向こうに任せてあったのだが、やはりしゃしゃり出る。
 前回の話では、新潟&米沢ツアーだった。まあ、『天地人』やったかな?そのキャラが結構かわゆいらしく、調べると米沢なんだが、やはり新潟が上杉家の発祥の地であり捨て難い。
 また、新潟は『親鸞流罪の地』であり、恵信尼と親鸞が京都で出会っていたのならば、親鸞の新婚旅行であった事になる。まあ、『新婚旅行』とは呼ばんかっただろうが。。。
 故に『新潟』という言葉を聞いた瞬間に、「そうか。。。君もようやく親鸞に興味をもってくれたんだね」なんぞと酔っぱらいつつヌカしていたわけなんだが、新潟は結構行ってる、っちゅうか、去年も行ったしなぁ。。。
 新潟から米沢辺りにかけてのドライブ観光を今日考えていたのだが、やはり沖縄や北海道も捨て難い。。。

 沖縄は純粋リゾート。っちゅうか、那覇空港自体が軍事施設やし、沖縄上空の高度何メートルか忘れたが、とりあえず米軍が抑えているから飛行機にとってはかなりヤバイ飛行方法をせんとアカンかったはずである。朝食にスパムを食べて純粋リゾートもクソもないのだが、まあ、リゾート気分満喫出来るし。
 梅雨が心配だったのだが、沖縄の梅雨はスコールみたいな感じらしい。ヤマトみたいに『ジメジメ曇り空』みたいな感じではないらしい。っちゅうか、『ジメジメ曇り空』の森もキレイやろうし、別にエエのだが。

 北海道は『旭山動物園』。ハニー・ディープ・ウエット(誰も知らんか)のソノシートを持っている私としては、やはり「ファッキン動物園!」の立場であり、動物園の気の狂った生きもんを「かわいい」というのは、同じく気が狂っているとしか思わん。つまり動物園は気の狂った動物と気の狂った人間しかいない空間であり、そんな所は行きたくもない。行くとしたら

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   高村光太郎『ぼろぼろな駝鳥』

  何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
  動物園の四坪半のぬかるみの中では、
  足が大股過ぎるぢゃないか。
  頚があんまり長過ぎるぢゃないか。
  雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢゃないか。
  腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
  駝鳥の眼は遠くばかりを見てゐるぢゃないか。
  身も世もないように燃えてゐるぢゃないか。
  瑠璃色の風が今にも吹いてくるのを待ちかまへてゐるぢゃないか。
  あの小さな素朴な顔が無辺大の夢で逆まいてゐるぢゃないか。
  これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。
  人間よ、
  もう止せ、こんな事は。
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 なんぞをビラにしてバラまくとかそういうことでしか行きたくないのだが、しかし、旭山動物園。潰れかけの施設を再興した企画力は研修旅行には最適である。あ、新婚旅行にも、多分、エエ感じであろう。まあ、動物の怨みが我が子に降ってかかるかも知らんが、私がチビチリガマで土を食べたのと同じく、怨みを身につけて、我が子にも動物園の酷さを出産前から体験して貰いたい気分もある。
 っちゅうか、やはり、潰れかけの施設を再興した企画力を体験したいし。
 映画にもなったらしい。っちゅうか、映画の予告でしか知らんのだが。。。
 
 『旭山動物園物語 ペンギンが空をとぶ』っちゅう映画らしい。
 これは
 『真宗同朋会物語 阿弥陀さんが空をとぶ』っちゅう映画でもエエし、
 『○○寺物語 阿弥陀さんが空をとぶ』っちゅう映画でもエエ。
 まあ、『住立空中尊』っちゅう業界用語もあるし。
 っちゅうか、真宗の本尊論については恩師・竹中先生から諸々教えて頂いた記憶があるのだが、記憶があるだけで憶えていない。。。
 っちゅう事で本を引っぱり出してくる。

【浄土を捨てて、地獄化している娑婆の真っ只中へ阿弥陀如来が突出してこられたんです。これが住立空中尊です。
 (中略)
 これは言葉として表せば「欲生我国」という本願招喚の勅命です。それが南無阿弥陀仏です。我々の前に阿弥陀仏が南無阿弥陀仏になって現れているのです。だから、浄土へ行っても阿弥陀仏は留守なんです。なぜかというと娑婆に来ているからです。】(竹中智秀先生『いのちの願いに聞く七章』363ページより)

【私たちが本願に遇うということは、この世とこの世のすべての者に対して絶対的な信頼をもつということです。そういうことがあってはじめて無仏の世界へと出ていけるのです。】(竹中智秀先生『無三宝処への往生』より。但し『阿弥陀仏の国か、天皇の国か』259~260ページより))

 って、確か、新婚旅行計画を書いていたはずやんなぁ。。。
 っちゅうか、サラッとだが本を読んでたら大変な時間になってもうた。寝よ。

おもてなし

2009年04月05日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 初めて行く家での法事。
 法事終了。着替えて帰ろうとしてたら、法事後の食事の準備をしてはった。
 参加者は20名程。テーブルに手作りの『ちらし寿司』が並べられ、タケノコの煮物等の他のもんも器に盛りつけてはった。

 なんか、こういう光景が新しく感じる。
 ほれ、法事いうたら、仕出し屋の出番みたいになってまんがな。「来週法事やから仕出し屋に予約入れとかんと」みたいになってまんがな。だいたいは法事の真ん中過ぎ辺りで「ピンポーン♪」と仕出し屋が料理を届けにやって来る。慣れないうちは「うわ、仕出し屋がやって来た。はよ法事終わらな」と少し焦ったもんだ。
 もしくは「料理屋を○○時に予約してますんで」なんぞとか。

 法事という大切な日だから、仕出し屋や料理屋。でも、それってサボっているだけだと思うのだが。確かに数十名分の料理を作るのは大変。後片付けも大変。だから仕出し屋や料理屋の出番になるのだろうけど。
 でも、私が呼ばれる側なら、仕出し屋や料理屋よりも、その家の手作り料理の方が御馳走だと感じる。

 利休「師よ。今日は師の為に堺随一の料理屋から仕出し弁当を持って来させました。」
 紹鴎「利休。。。そなたはまだもてなしの心が解っておらぬようだのぉ。。。」

 なんぞになると思ってしまうのだが。

 とは云え、やっぱし数十人分もの料理を作ったり、後片付けをしたりするのは大変。食器の問題もあるのだろうし。またその仕事が多くの場合『女の仕事』になっている現実もある。だから、仕出し屋や、料理屋に行くのも『あり』だと思う。
 でも、今はなんとなくの個人的感想なんだが、仕出し屋や料理屋が正しい『御もてなし』で、家庭で作った料理を出す事が『失礼にあたる』なんぞという傾向になっていないだろうか?

 なんぞと、法事の帰りがけに見た料理を見ながら感じた。
 いや、手作りのちらし寿司が美味そうで、美味そうで。

 「亡くなった父(母)が好きだった料理」「亡くなった母(父)がよく作ってくれた料理」「我が家の家庭の味」
 法事で、そうやって手作り料理を食べながら、亡くなられた人を思い出しつつ、亡くなられた人の思いで話をしつつ、「そういやさっきの坊主がこんな事を喋っとったのぉ」なんぞという法事が、なんか好き。

 準備は大変やけど、「これがうちの味です」と。仕出し屋や料理屋の『味』でなく、仕出し屋や料理屋に比べると味に自信がなくとも「これがうちの味です」と。
 なんか、準備の大変さよりも、『うちの味』に自信がないから、仕出し屋や料理屋に逃げている気がしたりする。

 仏前結婚式にばかり気が行っていたので披露宴は圧倒的準備不足だったし、娑婆の論理もあるので無理だったのだが、実はゲストの皆さんに一番食べて貰いたかったのは、うちのオカンの『鮭のおにぎり』だったりする。『塩味の焼そば』だったりする。『煮込みハンバーグ』だったりする。
 互いの家庭の味を、親と新郎新婦が協力して作って御もてなしをする。なんか、そんなのが好き。

誓いの言葉

2009年04月03日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 4月3日

 会議、会議。んが、仕事で30分ぐらい遅刻。議論が白熱したので終了時間1時間オーバー。

 終了後に住職になる為の研修(?)の書類に関して諸々聞く。不明な点は徹底して聞いておかんと。。。
 んで、それが終わったら会議後恒例の飲み会の為に居酒屋で待って居る人たちと合流。居酒屋にしてはチョイ高かったけど、美味かった。。。今度ヨメはんと行こ。

 居酒屋帰りに、祝儀のお返しの件でタンガクラブの三浦さんに相談。何が『本業』なのか知らないが、大丸の仏事ギフトの社長さんやし。

 っちゅう事で、心配だった2つの問題消える。後は時間との戦いでんな。動け、動け。

 そういや、居酒屋で飲んでた時に、恩師から教えて頂いた「2歩進んで3歩下がる」っちゅう言葉を紹介したら、みょうにウケる。まあ、全員真宗坊主やし。
 歩みを始めたが故に、自分を深める事が出来る。罪悪深重煩悩具足の凡夫である身の事実が明らかになった。

 んで、もって、意味なく、っちゅうか、私の仏前結婚式での『誓いの言葉』をコピペして寝よ。





      誓いの言葉  新郎 釈学生

 「個人になっとらんか?」
 この言葉は 私が大谷専修学院の 共同生活の僧伽において 何度も声をかけられ 指摘された言葉です。
 個人 すなわち 共に生き 共同生活をしている場においてさえ いや 共同生活をしているが故に 私は個人になり 「私さえよければ構わない」と。
 そして 私はその場の支配者になろうとし 心の中で あるいは実際に 共に共同生活をしている人を排除し それが上手く行かなければ その場から 逃げ出そうとばかりし続けました。
 私にとって都合の悪い人に対して 「あいつさえ居なければ。。。」と 何度思った事でしょうか。
 しかし そういう私に対して 先生たちは決して見捨てる事なく 「個人になっとらんか?」と声をかけ続けて下さいました。

 私 釈学生 俗名○○○は、釈尼○○ 俗名○○○○ と結婚するにあたり ますます私自身の煩悩の深さを 思い知らされます。
 この結婚式をするにあたり また それまでのお付き合いの中で 私はどれだけ これから夫婦として 共に生きて行く 大切な人を支配しようとして来たのでしょうか。全く 恥ずかしい どれだけ謝罪しても 足りない程の 罪を犯して来ました。
 しかし それが 悲しいかな 私自身であります。
 そして それが私自身である以上 これからの夫婦生活の中でも 変わる事があり得るとは思えないのです。私は変わらずに 傲慢な支配者で かつ 支配出来ない場からは 逃げだそうとする事でしょう。

 だからこそ 私は 今 如来聖人の御前にて また 親兄弟を始め 有縁の方々が居られるこの場において 夫婦として生涯を生ききって行くと 私が選んだ 釈尼○○ 俗名○○○○ との夫婦生活の中で そういう罪深き私自身を決して見捨てずに問うて頂いた 南無阿弥陀仏という歴史の中で 生きて来られた 諸仏としての恩師たちの教えを聞き続け 「悪いのはあいつの方や」と 私自身から逃げるのでなく 私自身の選びとして 私自身の課題として 如何なる事があろうとも この生涯を釈尼○○ ○○○○ と共に 夫婦として 生ききって行く事を誓います。