よど号ハイジャック事件の日らしく、田宮高麿・赤木志郎が通っていた近くの大学では。関係あるのか関係ないのか校門のほぼ満開で咲き誇る桜の木の前にパトカーが一台だけ泊まっており、両名が通っていた時代から営業していたであろう定食屋の日替わりランチ450円のメインが唐揚げだったので違う店でいつものチャンポン定食580円を食し、頭のすぐ上にあるテレビでは韓流の歴史もんが大きな音で流れ「もう少し御飯の量を減らして貰えばよかった…」と後悔しつつ残してしまった少量の御飯を見ながら「一粒のお米には88人の小人さんが入っているのよ」というお婆ちゃんから教わった格言を思い出す。
あ、月末ですが、寺の通信出来てません…。
【後ろの方でおばあちゃん方がナンマンダブツ言ってるでしょ。聞こえなかった?君のおばあちゃんナンマンダブツと言わんか。あれは何を表わしているかというと、自分というものは他によって決められないものだという叫びなんです。あんたはあかん、どうでもいいというふうに外から自分を決めていく。それに対して、自分というものは他によって決められるものではありませんという独立宣言なんです。ひとりだちの宣言です。比較級を超えることは大変むずかしい問題といわねばなりませんけれども、これを我々ができなければ、うまくやれた人はいいんですよ、頂点の方に近く近くいける人はいいんですけども、そうならなかった場合は大半の人は、どうせ私らはというふうに自分を捨てていく。みんなそんな気持ちない?どうせ私なんかと思った人いますか。ないですか。俺は俺だとやってます。
どうせ私なんかというのは完全に負けだ。比較級の世界で負けたんです。それに負けたら全てに負けたと思ってしまう。むこうであなた負けたんですよといわれても、いや負けませんといえばすむはなしです。だけどむこうが負けたよというと、ああ負けたとなる。周りが決めたものによって自分まで決められてしまう。そうすると「だってそんなもんに抵抗したって勝てるはずがないじゃない」と言うでしょう。「だって社会がみんなそうじゃない」というふうに我々は言います。その場合は他の押しつけるピラミッドをしっかり認めてしまっている。これ以外に人生を生きる道がないというふうに考えてしまっております。生きるということは能力とお金の杖をついて上の方へ登っていくことだとかたく信じ込んでいく。
それに対してもう一つ別の生き方、通じあって生きる生き方、人と人とが本当に通じあって生きる生き方がピラミッドの社会に対抗する生き方なんです。キャンプ場なんかで、♪みみずだっておけらだってあめんぼだって、みんなみんな生きているんだ
という歌がありますね。あれは通じあった世界を表わしています。あれを歌うと気持ちがいいです。自然の中で歌うとそうだという気持ちになります。
或は、此で今日あしたと、この研修をやっています。そしてどこかで通じあっていくと大変懐しい、別れたあとも懐しくよかったというものがあります。それは通じあうというものがあるから。
で、杖をついて頂点へ登る生き方と通じあって感動を分かちあっていく生き方、私はこの二とおりあると思うんです。通じあうのですからイコールでないと通じない。どっちが上でどっちかが下、これは通じない。どれだけ親切に「あなたどうしたの」と言っても通じない。通じるためにはイコールでないと通じない。
我々の社会全体がピラミッド型社会になっている中でこういう生き方を見つけるとなると、これに抵抗する唯一の生き方、通じあって生きる生き方、これを失えばピラミッド型社会へいく。ここでは通じない。人間の生き方の中で大きく分けて頂点をまざして生きる生き方と、どこかでイコールというものがあって通じあって生きる生き方と、そして通じあった場合には、作ったわけではないが、感動が生れてきます。
我々が学園生活をしていても感動がないのは通じあわないからです。ピラミッドそのもののような学校の中にあって通じあうような生き方ができれば学校も変る。現代の社会の中で通じあって生きる生き方は、我々の社会をひっくりかえすほどの力をもっている。
昔から革命が何回もある、イギリスにしろフランスにしろアメリカにしろドイツにしろ、革命とは従来の生き方を変えるということです。今、我々が住んでいる社会がまちがいなく比較級ばかりついているピラミッドの社会です、その中で感動的に生きることが人間に可能なのか。そしてそういうものこそが、どうでもいいわと言ったりあるいはへーそんな学校あるのというかたちでいばりくさって生きる生き方を根元からひっくりかえすような生き方が通じあうという生き方です。
比較級を超えれば通じあう、それをとおしてひとりだち、通じるというのは相手も尊重できるなら自分も尊重できるという生き方、これでなければ通じるということになりません。私だけが大事であると同時に他の人も大事ということがあってはじめて通じるということがある。だからひとり立ちできる人間は自分を尊重できると同時に他を尊重できるのです。】
(平野修「生きるということについて~ひとりだち~」より)
あ、月末ですが、寺の通信出来てません…。
【後ろの方でおばあちゃん方がナンマンダブツ言ってるでしょ。聞こえなかった?君のおばあちゃんナンマンダブツと言わんか。あれは何を表わしているかというと、自分というものは他によって決められないものだという叫びなんです。あんたはあかん、どうでもいいというふうに外から自分を決めていく。それに対して、自分というものは他によって決められるものではありませんという独立宣言なんです。ひとりだちの宣言です。比較級を超えることは大変むずかしい問題といわねばなりませんけれども、これを我々ができなければ、うまくやれた人はいいんですよ、頂点の方に近く近くいける人はいいんですけども、そうならなかった場合は大半の人は、どうせ私らはというふうに自分を捨てていく。みんなそんな気持ちない?どうせ私なんかと思った人いますか。ないですか。俺は俺だとやってます。
どうせ私なんかというのは完全に負けだ。比較級の世界で負けたんです。それに負けたら全てに負けたと思ってしまう。むこうであなた負けたんですよといわれても、いや負けませんといえばすむはなしです。だけどむこうが負けたよというと、ああ負けたとなる。周りが決めたものによって自分まで決められてしまう。そうすると「だってそんなもんに抵抗したって勝てるはずがないじゃない」と言うでしょう。「だって社会がみんなそうじゃない」というふうに我々は言います。その場合は他の押しつけるピラミッドをしっかり認めてしまっている。これ以外に人生を生きる道がないというふうに考えてしまっております。生きるということは能力とお金の杖をついて上の方へ登っていくことだとかたく信じ込んでいく。
それに対してもう一つ別の生き方、通じあって生きる生き方、人と人とが本当に通じあって生きる生き方がピラミッドの社会に対抗する生き方なんです。キャンプ場なんかで、♪みみずだっておけらだってあめんぼだって、みんなみんな生きているんだ
という歌がありますね。あれは通じあった世界を表わしています。あれを歌うと気持ちがいいです。自然の中で歌うとそうだという気持ちになります。
或は、此で今日あしたと、この研修をやっています。そしてどこかで通じあっていくと大変懐しい、別れたあとも懐しくよかったというものがあります。それは通じあうというものがあるから。
で、杖をついて頂点へ登る生き方と通じあって感動を分かちあっていく生き方、私はこの二とおりあると思うんです。通じあうのですからイコールでないと通じない。どっちが上でどっちかが下、これは通じない。どれだけ親切に「あなたどうしたの」と言っても通じない。通じるためにはイコールでないと通じない。
我々の社会全体がピラミッド型社会になっている中でこういう生き方を見つけるとなると、これに抵抗する唯一の生き方、通じあって生きる生き方、これを失えばピラミッド型社会へいく。ここでは通じない。人間の生き方の中で大きく分けて頂点をまざして生きる生き方と、どこかでイコールというものがあって通じあって生きる生き方と、そして通じあった場合には、作ったわけではないが、感動が生れてきます。
我々が学園生活をしていても感動がないのは通じあわないからです。ピラミッドそのもののような学校の中にあって通じあうような生き方ができれば学校も変る。現代の社会の中で通じあって生きる生き方は、我々の社会をひっくりかえすほどの力をもっている。
昔から革命が何回もある、イギリスにしろフランスにしろアメリカにしろドイツにしろ、革命とは従来の生き方を変えるということです。今、我々が住んでいる社会がまちがいなく比較級ばかりついているピラミッドの社会です、その中で感動的に生きることが人間に可能なのか。そしてそういうものこそが、どうでもいいわと言ったりあるいはへーそんな学校あるのというかたちでいばりくさって生きる生き方を根元からひっくりかえすような生き方が通じあうという生き方です。
比較級を超えれば通じあう、それをとおしてひとりだち、通じるというのは相手も尊重できるなら自分も尊重できるという生き方、これでなければ通じるということになりません。私だけが大事であると同時に他の人も大事ということがあってはじめて通じるということがある。だからひとり立ちできる人間は自分を尊重できると同時に他を尊重できるのです。】
(平野修「生きるということについて~ひとりだち~」より)