【新聞記者時代の司馬遼は後裔に先祖を語ってもらうという企画を立て、徳川某に家康を、有馬某に有馬殿様を書いてもらったらしいが、当時の出雲国造千某さんに依頼したところ「出雲王は永久に天孫の政治にはタッチしない」(仮に新聞であっても)との趣旨理由で断られたらしい。】
http://shrine143.blog40.fc2.com/blog-entry-80.html
出雲系と皇室の婚約…。過去にもあったのかどうか知らないが、歴史オタク達は大盛り上がりしているわけであって(笑)
しかし、大昔には兄の家系であっても、現在は分家である高円宮家と本家である千家家。う~ん…。とりあえず『嫁』としての苦悩はどこでも同じだろうが、なんか厳しそうな気が…。
【司馬さんのいう強烈な出雲人の個性を読み取ったのは、その年も暮れ元旦号の新聞を見たときだった。私は、松江支局の前が三重県の県庁所在地、津支局だったので、元旦号は決まって伊勢神宮の記事を掲載していた。だから島根版に出雲大社の元旦記事に何の抵抗もなかった。
しかし、島根県の地方紙の場合、全面広告に島根県知事田部(たなべ)長右衛門氏と出雲大社の宮司が「国造、千家尊祀(たかのり)」の名前で並び、上十段のスペースに正月らしく出雲大杜の写真と「謹賀新年」の活字が組まれていた。
田部知事といえば、タタラ(現在の製鉄産業)の長(おさ)の血を引き、全国の山林王といわれる家柄で当然のことながら公選知事である。しかし精神世界の君主として今なお国造が君臨、県民がそれを認めているわけで、ああ大社の神主さんか、とぐらいにしか考えていたわたしが、いかに無知だったか思い知らされた。それほどまでに出雲大社の社家という言葉が重いのかが伺われる。このことは他府県から転勤した記者ならだれもが驚嘆する一コマである。】
http://0845.boo.jp/times/archives/001380.shtml
【司馬さんが中央公論昭和36年3月号で「生きている出雲王朝」という紀行文を発表された。
出雲地方にとって都合が悪かったのか、出雲大社さんなのか、この号に限って出雲地方の書店は発売を禁止。さらには司馬さんが在職していた産経新聞不買運動まで起こった。】
http://0845.boo.jp/times/archives/001459.shtml
【天孫族である天穂日命は出雲大社の斎主になることによって出雲民族を慰撫し祭神大国主命の代行者という立場で、出雲における占領政治を正当化した。畸形な祭政一致体制がうまれたわけである。その天穂日命の子孫が、出雲国造となり同時に連綿として出雲大社の斎主となった。いわば、旧出雲王朝の側から言えば簒奪者(さんだつしゃ)の家系が数千年の出雲大社の宮司家であり国造家である千家氏、北島氏の家系がそれである。
天皇家と相ならんで、日本最古の家系でありまた天皇家と同様、史上のいかなる戦乱時代にも、この家系はゆるがず、いかなる草莽(そうもう)の奸賊といえども、その家系を畏れかしこんで犯そうとはしなかった。
その理由は、明らかである。この二つの家系が、説話上、日本人の血を両分する天孫系と出雲系のそれぞれ一方を代表する神聖家系であることを、歴代の不逞の風雲児たちも知っていたのであろう。血統を信仰する日本的シャーマニズムに温存され、「第二次出雲王朝」は、二十一世紀のこんにちまで生存を続けて来た。この事実は、卑小な政治的議論の場に引き移さるべきものではなく、ただそれだけの保存の事実だけを抽出することによって、十分世界文明史に特記されてもよい。いわば芸術的価値をさえもっているではないか。】
http://0845.boo.jp/times/archives/001473.shtml
【「語部」のうち、古事記にも出雲風土記にも出ていない、重要な事項があるというのだが、それについてはW氏はなにもいえない、といった。それでは、と私は話題を変え、出雲であった多くの人々にしたような質問をW氏にもした。「あなたのご先祖は、なんという名のミコトですか」「私の、ですか」とW氏は少し微笑み、ながい時間私を見つめていたが、やがて「大国主命です」といった。
出雲の様子を少し知り始めた私は、これにはひどく驚かざるをえなかった。ここで大国主命の名が出るのは白昼に亡霊を見るような感があった。大国主命およびその血族は、すでに神代の時代に出雲から一掃されて絶えているはずではないか。「そのとおりです」とW氏は言った。「しかし、ある事情により、ただ一系統だけのこった。私の先祖の神がそうです」。その事情は、語部の伝承のうちでも秘密の項に属するために云えない、という。云えなければきかなくてもよい。
とにかく、W氏によれば、神代以来、出雲大社に奉斎する社家のうちで、大国主命系、つまり出雲の国ツ神系の社家は、W家一軒ということになるのである。それはまるで敵中にいるようなものではありませんか、というと、W氏は「出雲は簒奪(さんだつ)されているのです」といった。つまり高天ケ原からきた天穂日命の第二次出雲王朝の子孫が国造(くにのみやつこ)としていまの出雲を形而上的に支配しているのが、W氏にとっては「簒奪」ということになるのである。
私は、ようやく知った。W氏は第一次出雲王朝の残党だった。心理的に残党意識をもっているだけではなく、現に、第一次出雲王朝を語り伝えるカタリベでもあった。彼によれば、出雲は簒奪されているという。簒奪の事実を思うとき、W氏はときに眠れなくなる夜もあるという。私はおもった。W氏がこのことをいきどおって懊悩(おうのう)する夜をもつかぎり、すくなくともその瞬間だけでも第二次出雲王朝はおろか、第一次王朝でさえも、この地上に厳として存在する。この理論は、われわれ俗間の天孫族(?)には通用しなくても、出雲ならば日常茶飯で通用することだろう。ふしぎな国である。まったく。】
http://0845.boo.jp/times/archives/001551.shtml
http://vpoint.jp/opnion/editorial/18303.html
http://shrine143.blog40.fc2.com/blog-entry-80.html
出雲系と皇室の婚約…。過去にもあったのかどうか知らないが、歴史オタク達は大盛り上がりしているわけであって(笑)
しかし、大昔には兄の家系であっても、現在は分家である高円宮家と本家である千家家。う~ん…。とりあえず『嫁』としての苦悩はどこでも同じだろうが、なんか厳しそうな気が…。
【司馬さんのいう強烈な出雲人の個性を読み取ったのは、その年も暮れ元旦号の新聞を見たときだった。私は、松江支局の前が三重県の県庁所在地、津支局だったので、元旦号は決まって伊勢神宮の記事を掲載していた。だから島根版に出雲大社の元旦記事に何の抵抗もなかった。
しかし、島根県の地方紙の場合、全面広告に島根県知事田部(たなべ)長右衛門氏と出雲大社の宮司が「国造、千家尊祀(たかのり)」の名前で並び、上十段のスペースに正月らしく出雲大杜の写真と「謹賀新年」の活字が組まれていた。
田部知事といえば、タタラ(現在の製鉄産業)の長(おさ)の血を引き、全国の山林王といわれる家柄で当然のことながら公選知事である。しかし精神世界の君主として今なお国造が君臨、県民がそれを認めているわけで、ああ大社の神主さんか、とぐらいにしか考えていたわたしが、いかに無知だったか思い知らされた。それほどまでに出雲大社の社家という言葉が重いのかが伺われる。このことは他府県から転勤した記者ならだれもが驚嘆する一コマである。】
http://0845.boo.jp/times/archives/001380.shtml
【司馬さんが中央公論昭和36年3月号で「生きている出雲王朝」という紀行文を発表された。
出雲地方にとって都合が悪かったのか、出雲大社さんなのか、この号に限って出雲地方の書店は発売を禁止。さらには司馬さんが在職していた産経新聞不買運動まで起こった。】
http://0845.boo.jp/times/archives/001459.shtml
【天孫族である天穂日命は出雲大社の斎主になることによって出雲民族を慰撫し祭神大国主命の代行者という立場で、出雲における占領政治を正当化した。畸形な祭政一致体制がうまれたわけである。その天穂日命の子孫が、出雲国造となり同時に連綿として出雲大社の斎主となった。いわば、旧出雲王朝の側から言えば簒奪者(さんだつしゃ)の家系が数千年の出雲大社の宮司家であり国造家である千家氏、北島氏の家系がそれである。
天皇家と相ならんで、日本最古の家系でありまた天皇家と同様、史上のいかなる戦乱時代にも、この家系はゆるがず、いかなる草莽(そうもう)の奸賊といえども、その家系を畏れかしこんで犯そうとはしなかった。
その理由は、明らかである。この二つの家系が、説話上、日本人の血を両分する天孫系と出雲系のそれぞれ一方を代表する神聖家系であることを、歴代の不逞の風雲児たちも知っていたのであろう。血統を信仰する日本的シャーマニズムに温存され、「第二次出雲王朝」は、二十一世紀のこんにちまで生存を続けて来た。この事実は、卑小な政治的議論の場に引き移さるべきものではなく、ただそれだけの保存の事実だけを抽出することによって、十分世界文明史に特記されてもよい。いわば芸術的価値をさえもっているではないか。】
http://0845.boo.jp/times/archives/001473.shtml
【「語部」のうち、古事記にも出雲風土記にも出ていない、重要な事項があるというのだが、それについてはW氏はなにもいえない、といった。それでは、と私は話題を変え、出雲であった多くの人々にしたような質問をW氏にもした。「あなたのご先祖は、なんという名のミコトですか」「私の、ですか」とW氏は少し微笑み、ながい時間私を見つめていたが、やがて「大国主命です」といった。
出雲の様子を少し知り始めた私は、これにはひどく驚かざるをえなかった。ここで大国主命の名が出るのは白昼に亡霊を見るような感があった。大国主命およびその血族は、すでに神代の時代に出雲から一掃されて絶えているはずではないか。「そのとおりです」とW氏は言った。「しかし、ある事情により、ただ一系統だけのこった。私の先祖の神がそうです」。その事情は、語部の伝承のうちでも秘密の項に属するために云えない、という。云えなければきかなくてもよい。
とにかく、W氏によれば、神代以来、出雲大社に奉斎する社家のうちで、大国主命系、つまり出雲の国ツ神系の社家は、W家一軒ということになるのである。それはまるで敵中にいるようなものではありませんか、というと、W氏は「出雲は簒奪(さんだつ)されているのです」といった。つまり高天ケ原からきた天穂日命の第二次出雲王朝の子孫が国造(くにのみやつこ)としていまの出雲を形而上的に支配しているのが、W氏にとっては「簒奪」ということになるのである。
私は、ようやく知った。W氏は第一次出雲王朝の残党だった。心理的に残党意識をもっているだけではなく、現に、第一次出雲王朝を語り伝えるカタリベでもあった。彼によれば、出雲は簒奪されているという。簒奪の事実を思うとき、W氏はときに眠れなくなる夜もあるという。私はおもった。W氏がこのことをいきどおって懊悩(おうのう)する夜をもつかぎり、すくなくともその瞬間だけでも第二次出雲王朝はおろか、第一次王朝でさえも、この地上に厳として存在する。この理論は、われわれ俗間の天孫族(?)には通用しなくても、出雲ならば日常茶飯で通用することだろう。ふしぎな国である。まったく。】
http://0845.boo.jp/times/archives/001551.shtml
http://vpoint.jp/opnion/editorial/18303.html