坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『総理』と『独り善がり』

2011年08月29日 | 坊主の家計簿
 夏のボディーブローが効きだして来ているのか、すぐに酔う&酒が残る&疲れ易くなって来ている。
 夏休み(?)中なので、今日の御仕事は午後からの法事一件のみ。法事後に墓へ。暑い。。。気温とか抜きにして暑い。
 遅めの昼ご飯を16時ぐらいに食べて「仮眠しようかな?」と思たら、昼寝してた娘が起きて来たので、しばし遊ぶ→晩御飯タイムへ。
 晩御飯食べて、娘とママがお風呂に入っている間に爆睡。そのまま22時ぐらいまで寝てやんの。
 なので、え~。。。現在2時なんだが、寝れない。月末なので寺の通信を作りたいのだが、テンションが上がらない。
 という事で、毎度のブログ酒。通信は明日の昼にでも作ろ。

 さっきまで録画していたETV特集『ネットワークでつくる放射能汚染地図3 子どもたちを被ばくから守るために』を見てた。第一回目の時には無職(仕事辞めたてホヤホヤ)だった木村真三氏が大学の准教授になってはった。「仕事決まって良かったなぁ。。。」である。そのまま放射能測定の会社でも立ち上げるのかな?と思ったのだが、そういう方面でのバイタリティーはないみたいだ。番組は3回目だし、同世代なので妙な親近感を憶えるのだ。この年齢で仕事がなかったらキツいぞ。再就職先も見つかり難いし。
 何やら以前、1年半ペンキ職人をやってはったらしい。除染作業の為に地下足袋を履いてはったのだが、地下足袋の履き方も「先生、学者のくせに、なんで地下足袋の履き方知ってますん?」と突っ込みたくなるぐらいに手慣れた履き方だったし、作業着もしっかりとした、どこに出しても恥ずかしくない、どこの現場に行っても恥ずかしくない作業着だったし。そうか、ペンキ職人をやってはったのか。。。ますます親近感を得る。
 ペンキ職人もキツい仕事やぞ。私は仕事ではやった事がないけど、自分が作った店のペンキを塗ったりしてた&この夏は天候不安定で出来なかったが、本堂の縁側のペンキも自分で塗り直そうと思っているし。まあ、ペンキ塗りには、素人としては少し煩い。
 旧友が特殊な壁紙職人。え~。。。かなりキツい有機溶剤を使うらしく、防毒マスク必須らしい。それでも吸い込むのだろうが。だから、別の友人の息子に彼は自分がやっている仕事を薦めなかったし。
 アスベストも危険だし、有機溶剤も危険だし、放射能も危険。

 明日は民主党代表選挙。まあ、最終的にどうなるのかは解らない。民主一部造反→谷垣総理の可能性だってあるが、まあ、そのまま行けば、民主党代表=総理大臣になる。
 『ネットワークでつくる放射能汚染地図3 子どもたちを被ばくから守るために』を見ながら考えていたのだが、除染には金がかかる。金がかかると言って放っておいたら、ひょっとしてもうあるのかも知れないが、民間業者が除染して、放射性廃棄物を山奥や自分達が買った土地に放置する可能性だってある。それは最悪である。民間業者がやるにしても、しっかりとした指導の元にやらなければ元も子もない。
 政府がやるなら、失業対策でやるのか、それとも自衛隊になるのか知れないが、何にしても金がかかる。

 放射能汚染地図。今日の番組では『まだ』と限定をつけるが福島県内の話だったが、福島県は

【福島県が長期健康調査、放射線影響で全県民対象】
 http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=41379

【甲状腺検査を生涯実施へ 福島県が18歳以下の36万人に】
 http://stj.sankei.jp.msn.com/region/news/110724/fks11072420270003-n1.htm

 と、健康管理をやるみたいだが、周辺地域の放射能汚染地図&健康管理を政府や自治体がやらないとアカンやろ。
 
 まあ、何にしても、金がかかる。
 「生命の問題を予算で決めるな!」という話なんだろうが、国の経済が破綻したら元も子もないのだろうし。今でも医療崩壊で助かるはずの生命が助からなかったりしている中、舵取りは無茶苦茶難しいのだろう。批判ばかりされるし。海江田も泣くで、そりゃ。あ、あれは別の理由からなのかな?

 何の番組か忘れたが、前原というのは、無茶苦茶政策通らしい。そら、40代前半で民主党の代表になったのだから、そら、そうなんだろう。でも、誰か忘れたが、ある人が「前原さんは政策通だから論破は出来るけど、説得をさせれない」と言っておられた。

 ♪深いいぃ~話

 あ、終わるのかな?これも。
 論破と説得は違う。論破されたら相手は怨むが、説得されたら味方になる。これには当然、人格的魅力なんぞも入るし「ちーす。いつも世話になってまーす」も入るのだろう。『夜の外交』とでもいうのか?『政治は赤坂で決まる』なんぞの話もあったし。
 え~。。。苦手だ。。。つーか、ほぼ、そういう機能が私にはついていない。そういう機能が私にあれば、うちの経済状態はもっと楽なんだろうが。。。え~。。。ほん御近所の住職に色々と御世話になりつつ、学ばせて頂いているのだが。。。

 今日はツイッターで少し遊ぶ。珍しく他の人たちとやり取りなんぞもしつつ。かなり独り善がりな人だったのだが、交流を少ししている間に相手の人間像なんぞも解って来て楽しい。
 最近はブログメインだし、『ツイッターは独り言の場』と思っているので、ほぼ、ネットで議論や喧嘩なんぞもしなくなった。え~。。。数年前には考えられなかった事なんだが(笑)
 で、最近にしては珍しく少しやり取りをした人に対して「独り善がり」という言葉を書いたのだが、この『独り善がり』は私も変わらんな。
 縮めると『独善』か。「私は正しい!」なんだが、それって、しんどいのだが(笑)生きる世界で縮めるし。共通認識の仲間内で楽しむのは良いのだが、独り善がりは間違えられないし。間違えられないから、上乗せになる。より独善的にならざるを得なくなる。プライドがあるから。

 昨日の学習会で「念仏者は空の行者ですよ」と言ったら、校長(?)がエラくウケて「そうや!」と言ってた。え~。。。当然、恩師からの受け売りの言葉なので「○○先生の言葉です」と紹介してたのだが。

 某、うちの教団で有名な過激派(?)僧侶が「念仏に出会った人間は、相手に丁寧になる」みたいな事を言ってはった。『過激派(?)』としたのは、別に過激派とも思わないのだが、一部ではそう思われているみたいだし、単に「オモロイ」という理由からなのだが(笑)まあ、『過激派』であるが故、色々な立場の人と出会って、論破でなく「初めに尊敬あり」という接し方で接したが故に、全国的に有名な(一部か?)過激派が僧侶になったりしたわけなんだし(笑)エエ仕事してまんなぁ~、と純粋に思う。批判も多くしているが。

 明日の民主党代表選挙で誰が代表になるのだろうか?下馬評では海江田→野田→前原、みたいな感じらしいが。
 今回、前原が代表になり、総理になるのかどうかは知らないが、まあ、将来の総理候補である事は間違いないのだろう。
 前原は「背後にアメリカの影が」とかではなく、前原は八ッ場ダムの問題で独り善がり過ぎた。相手を見なかった。
 政策通で能力もあるが故に『独り善がり』が問題になっていないのかも知れない。「私は正しい」で、過去に色々な苦労をしていた事もあって、より独善的になっているのかも知れない。けど、それって、危ないと思うのだが。

 総理。『総ての理(ことわり)』か。
 総ての人たちの声を聞くと動けなくなる。故に動いて行く中で、切り捨てている声がある事に対する痛みを感じる事が大事ではないのか?
 それが例え『社会的弱者(小さくされた者)の為』であっても。あるいは、いかなる『社会的正義の為』であっても。
 それが『独り善がり』の身である事を確かめられる、『私』という存在を明らかに出来る事ではないのか?

はからう

2011年08月28日 | 坊主の家計簿
 区役所で、『子どもなんとかなんとか』みたいなイベントがやっていたので出かける。私は所用があって後からの参加。会場につくと見渡す限り『親子連れ』ばかりであり、う~。。。なかなか探し出せない。「どこにおる?」とママに電話する。場所を教えて貰って、行く。娘、見っけ♪楽しく過ごす。んが、時間をみようとiPhone取りだす。「メールを受信しましたよ」よいう案内メッセージの後ろにいつもなら真っ暗なのだが、電話履歴画面が。。。「あれ?なんでや?」と焦ってチェック。どうやら、ポケットにiPhoneをしまう時に、電話の画面のままポケットにしまい込んだらしく、それが動いている間に、あちらこちらに電話をしていたみたいである。前にも一度経験した事があるのだが、あの時は一件だけだったのだが、今回はかなりの件数。え~。。。とりあえず、謝りまくりのお詫び電話をする。長い所では1分ぐらいの『無言がさごそ電話』だったし、多くは携帯電話に対してなので「こいつは何の嫌がらせ電話をしてきとるねん」だっただろうし。友人は「子どもに電話取られたのか?」だったので、少し気が楽になったのだが、え~。。。単なる迂闊だっただけ。
 


 夜は学習会。発表は私。
 レジメ。

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 『仏教の源流――インド』 長尾雅人著(中公文庫)
 第五章『根本仏教の教理』 
 二『特に縁起について』〈相対性の理論〉まで



①「縁起」の原語は、サンスクリットでプラティーティヤ・サムトバーダ(pratiitya-samutpaada)といい、これを縁起と訳したのは七世紀の玄奘です。この語は、文字通り「縁りて起る」と読めばよろしい。サンスクリットも「あるものに出会って」、あるいは「あるものが助けとなって、あるものが起る」というのが文字通りの意味です。(同著162ページより)


②経典の中で「縁起」が説明される時、次のようないい方がしばしされます。

 これあれば、かれあり。これが生ずることによって、かれが生ずる。
 これなければ、かれなし。これが滅することによって、かれが滅する。――
 すなわち、無明を縁として行あり、行を縁として識あり、……生を縁にして老・死があり、
 憂愁・苦悩が種々に生じる。

 この文章には前後の二つの部分があり、前半は「これあれば、かれあり。……」の四句であり、後半「すなわち、無明を縁として行あり、……」以下が「十二支縁起」(旧訳の「十二因縁」)を内容としています。(中略)
 縁起を説明する場合、この「十二支」のみが採り上げられて縁起として説明せられるようなことが、従来の仏教概論などにしばしば見かけられます。わが国でも外国でもそうです。事実、十二支は縁起であり、これだけを説いている経典も多いのです。しかし私は、右に引用した経典の前半に述べられている「これあれば、かれあり。……」等の四句が重要だと考えるものです。この四句こそ「縁起」の意味であり、縁起の原理を示すものであって、それに続く「すなわち、無明を縁にして……」云々の「十二支」の説明は、縁起の原理を具体的な場面に引き下げて説いたものと考えます。従って原理としての縁起そのものと十二支とは、一応、区別して考えてよいと思います。(同著162~163ページより)


③ここでは「これ」(此)と「かれ」(彼)に訳しましたが、原文ではこの両者は同じ代名詞なのです。ですから、この「これ」や「かれ」が何を指しているかは問題ではなく、問題は「……あれば、……あり」という点です。(中略)例えばわれわれは、東に対して西があるというのであって、西が独立してそれ自体としてあるのではありません。西というときは、必ず東が予想されています。東がなければ、西もありません。(同著163~164ページより)


④このようにして、縁起とは相対性の理論なのです。絶対的存在は、われわれの世界のどこにもなく、すべては相対的にのみあるということです。このような考え方が根底にあればこそ、「無我」という教説もあることが知られます。それは絶対的な実体がないということです。すべてが相対的であればこそ、「無常」ということも容易に理解出来ると思います。
 経典に「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」ということがいわれています。あるいはその後の句が、「……法を見るものは仏を見る」といいかえられている場合もあります。これは非常に重要な句であって、縁起と法、あるいは縁起と法と仏(の悟り)とを同一視するもので、縁起がわかったことが、法(宇宙の方法、すべての存在、あるいは仏陀の教法、すべての教え)がわかったことであり、またそれが、仏陀の悟りがわかったことである、というものです。縁起はこのような重さのある語です。(同著165ページより。)


@以上がテキストよりの抜粋( 但しアンダーラインは犬伏)
 テキストの中(アンダーライン部)に【縁起とは相対性の理論なのです。絶対的存在は、われわれの世界のどこにもなく、すべては相対的にのみあるということです。このような考え方が根底にあればこそ、「無我」という教説もあることが知られます。】とある。この事を少し考えてみたい。



※問題を出そう。耳四郎は救われているかどうか。耳四郎は法念上人の御時、平安末期の大泥棒で、ある夜屋敷に忍び込んで夜更けに泥棒を働こうと思って床下にもぐっておった。上で法然上人のお話が始まった。聞くともなしに聞いていると胸打つものがあって、とうとう縁側に出てきてお話を聞いてお弟子になった。大変な進展ぶりでよく念仏申しよくお話を聞いたのであるが、一生の間泥棒だけはやめられなかった。念仏しながら泥棒しておった。但し、後で返したという。この耳四郎は法然上人の教に救われ念仏に救われていたであろうかどうか。
 念仏しながら泥棒をしたというのでは、大きな世界に出ているとは言えないと思う。「悪機の念仏するを見ては往生不定と疑う」。救われる筈がないではないかと思う。
 耳四郎は七百年前の話ではあるが、この問いは非常に現代性を持っている。あの人は勤行を怠らず念仏し、人に優しく人の為に尽くして一生懸命精進している。あの人の念仏は本物で、あの人こそは本当の菩薩道を歩いていく人と思う。しかしこの人は長く聞いてはいるが、見るからに人相も悪く、やっていることもパッとしない。いつも子供を叱りつけて愚痴ばかり言って、時々念仏して喜んでいる。これじゃ駄目だろうと思う。自分の場合でもこのような私では駄目だろうと思う。私は時には喜ばないわけではないけれども、何となく心もすっきりしないし善いことも行えないし、これでは駄目だろうと思う。これをはからいという。他人事ではない。最後はここで行きづまる。宗教の問題というのは最後はこのはからいというところに問題がある。はからいなしというところに、第一章から第九章までのつづまりがある。親鸞聖人の教を一言で言ったら、はからいなしである。これを無義為義という。口伝鈔で頂くと、そこが非常によく出ている。
 はからいとは本願を知らず、「本願の規模ここに失し自身の悪機たることを知らず」ということである。はからいとは、善い心、善い行いができなければ本当の念仏ではない、本当の信心ではない。悪い心即ち腹が立ち嫉妬心が起き冷たい心になる、悪い行いが私に続いている限り私は本物ではない、本当の信心、本当の念仏ではないと思う。これをはからいという。これが最後の問題である。「悪機の念仏するを見ては往生不定と疑う、本願の規模ここに失し、自身の悪機たるを知らざるになる」、これをはからいという。ここではいつも耳四郎をしっかり思い出すがよい。
 善い心、善い行いができなければいけない、悪い心悪い行いである限り…というところには自身がわかっていない。そこではからうのである。善い心善い行い、悪い心悪い行い、即ち私の善悪が念仏の意味を左右している。自己が中心になっている。それをはからいという。自己に中心があるのではない。如来に中心がある。如来本願が中心ということがわかっていないのである。
 如来の発願は如来の誓願である。人間の発想は善い者は救われ悪い者は救われない。如来の発願は南無阿弥陀仏である。私の善も悪も如来において南無阿弥陀仏である。如来のこころは大悲というのが一番当っている。大悲とは悲しみ呻きである。人間我々が小さな善悪に執われて、厚い厚い殼の中で、これではいけないいけないと言っている姿を如来は大悲して南無阿弥陀仏と叫びたもう。南無は帰れである、善悪に執われ人間の発想で右往左往している者に帰れと呼び続ける。阿弥陀仏は大いなるものわれ。大いなるものわれに帰れ、これを大悲という。南無阿弥陀仏という。これを大悲の本願という。これが如来の誓願である。この如来の願が我々に届いて我々の発願となるところに南無阿弥陀仏がある。この本願が私に届くと、善い心も善い行いも、悪い心も悪い行いも南無阿弥陀仏となる、善も悪も念仏となる。それをはからいなしという。
 人間の発想自体がはからいである。人間の心で言うならば、善い方はいいが悪い方は困るのである。ところが如来の発想は善いも悪いも南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏は如来の大悲である。悲しみであり呻きである。それが本当に私に届いたならば(これを本願成就という)私の善も悪も、耳四郎のような私の心も、怒りも腹立ちも南無阿弥陀仏になる。それをはからいなしという。
 はからいを無くしようとするのではない。はからいをなくしようとすれば、そのこと自体がはからいである。血で血を洗うというべきか、はからいを消そうとするところにはからいがある。はからいをなくそうとしてもなくならない。如来の本願にかえる。善いことも悪いこともこれが私の本体、南無阿弥陀仏と念仏する。これをはからいを超えるという。これが成り立つことが聖人の教の一番根本である。これを「ただ念仏」という。はからいをなくすのではない。「ただ念仏」である。これは何も考えないで無我夢中で念仏するのかというとそうではない。自らの実体にめざめ、本願を頂いて念仏する世界をいう。                            
(細川巌先生『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/10_Hakarai.htmより)



@『はからう』のは『我』である。宗祖親鸞聖人は法然上人に対する光明体験を

  源空光明はなたしめ
  門徒につねにみせしめき
  賢哲愚夫もえらばれず
  豪貴鄙賎もへだてなし
  (高僧和讃)

 と、和讃に示されておられる。繰り返しになるが、はからうのは『我』である。

 故・竹中智秀先生は摂取不捨の事を「えらばず、きらわず、みすてず」と端的に語られておられた。それは同時に『えらび、きらい、みすてる』私自身の生活を課題化していく事である。
 上記の細川巌先生の講義の続きを引用する。


                                                     ※少しつけ足しになりますが、私が結婚して一年目、昭和二十一年、とても物の無い時代で御馳走などはできなかったが、結婚記念日に私共の先生を夕食にお招きしたことがある。その時先生は、「何事も因縁じゃのう」と感慨深く言われたが、「善い悪いで見たならばどんなよい相手でも夫婦として成り立たない。立派な人とは見えない。念仏していくということが大事だ」と言われた。その時はよく意味がわからなかった。ただ、善い悪いじゃいかんのだなということだけはわかった。先生は、夫婦は善い悪いでなしに、何事も因縁だなあ、本当に因縁によって結ばれている。善い悪いと人間の発想によってはからうのでなく、善いも悪いも南無阿弥陀仏となる。そういうことを結婚の心得として言われたのだと思いますね。今頃になってそう思う。さすがに先生はいい所を言われたなあと思う。我々は善い悪いになる。批判になる。思慮分別を押していく限り結局最後は、悪い妻を貰ったなということになる。善いのを貰ったとはなかなか思いません。そうでなしに仏法を本当に頂いて、善いも悪いも南無阿弥陀仏になるのだ。そこにはじめて念仏生活が成り立つのだということを言われたのであろう。
(細川巌先生『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/10_Hakarai.htmより)             


@夫婦は『相対』である。                         
 テキストでは【例えばわれわれは、東に対して西があるというのであって、西が独立してそれ自体としてあるのではありません。】である。
 しかしながら、多くの生活実体としての夫婦、あるいは人間関係は自己中心にしか過ぎない。自己(我)から見た『相手』にしか過ぎない。東を中心にした西にしか過ぎない。それでは『縁起』にはなり得ない。縁起の世界に行きながらであっても、縁起の世界を無視しているのが実体ではないのか?
それが故に「あいつはああいうヤツやから」等と。「あいつは悪い事をしたから死刑になっても仕方がない」等と。
 テキストに戻る。                                        


【 経典に「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」ということがいわれています。あるいはその後の句が、「……法を見るものは仏を見る」といいかえられている場合もあります。】
とある。
 もう一度、細川巌先生の歎異抄講読より


※加賀乙彦という人の書物に、あるカトリックの修道女が非常に徳を積んでみんなに優しくしたから、神様がそれをほめて御褒美を下さることになった。修道女は言った。「神様、私の心を見せて下さい」。神様は「それだけは見せられない」と言われる。修道女は「それならもう何もいりません」と言うので、神様はやむを得ず修道女にその心を見せた。ところが彼女は卒倒し気が狂ってしまった。
 我々はだんだん立派になり、よくなると思う。が、もし神様が見せて下さったら、即ち本当の正しい鏡を下さったら鏡に映るわが心は、真黒な欲と怒りと腹立ちの心である。驚いて卒倒し気が狂ったというのは実に深刻な話である。しかしいいところを言ってある。
 鏡を持たされたところに私の転落がある。これを愚者悪人という。愚かな私、お粗末な私にめざめる。そこに、助けんと思召したちける本願の忝なさよと頂く、それを念仏という。その念仏において、私が善い悪いを考えて判断して念仏するのでもなく、私の思慮分別を積み上げて念仏するのでもなしに、本当に私が私に目がさめて南無阿弥陀仏となる、ところを無義という。はからいから出発して遂にはからいを超えたところに、正しい仏法の道理が成り立っているのである。
(細川巌先生『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/10_Hakarai.htmより)



※自己自身を知ることと、「如来ましますか」の問いに答え得ること、この二つは同じことなのである。自己自身を機といい、如来を法という。自己がわかることが如来がわかること、如来がわかることが自己を知ることである。法がわからなければ機もわからない。機がわからなければ法もわからない。私がどんな顔をしているかわかるためには鏡がなければならない。鏡が先か顔が先かというと、鏡の方が先である。電灯をつけるのに、スイッチを押すのと点灯するのとは同時であるが、しかしスイッチを押すのが先である。如来の本願が鏡である。それがよき人を通して私に鏡としで与えられた時に、自分自身がわかるようになっている。よき人の仰せが先で、私があとである。
(細川巌先生『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/koudoku/3/3_4.htmlより)



@『縁起』は、長い時を経て『縁起の世界』になった。例えば『倶会一処』など。それは釈尊が説かれた『縁起』からは変形しているのかも知れないが、『縁起の世界』に触れ、その世界から照らし出される自己(我)=機、すなわち諸法因縁生に背いて生きようとしている生活実体を照らし出される。
最後に、同朋大学学長・尾畑文正先生の縁起についてのエッセイ。


※「縁起」は仏教語の中で私たちに誤解されている言葉の筆頭です。例えば、朝一番のお茶に茶柱が立ったら縁起がいい。結婚祝は大安の午前中に持っていくと縁起がいい。病院にお見舞いに行くときは、鉢ものの花は根(寝)付いて縁起が悪いから切り花にするといい。などなど、数えたらきりがないほどです。
しかし、もともと縁起は、因縁生(いんねんしょう)とも縁生(えんしょう)ともいうように、全ての現象・事物は何一つそれ自体で成り立つものではなく、無数の関係(縁)によって生じていることを表すものです。だから、私たちが平生に、縁起がいいとか縁起が悪いとかと言っているのは、そういう存在の絶対的現実に対して、自分の都合に合うものは縁起がいいと言い、都合の合わないものは縁起が悪いと言っているということなのです。
それらは仏教でいう縁起の語を誤解して用いる使い方です。縁起とは、私の存在は、縁起として存在するのであって、私という一個の人間がそれだけで存在するのではなく、ありとあらゆるものとの繋がりの中で存在していることを表すものです。私たちの相互共存するいのちの事実を言い当てている言葉です。
このような縁起が指し示す豊かないのちの世界に目覚めるならば、同時多発テロ、それに続くアフガニスタンへの武力攻撃に象徴される戦争などが、いかに人間の縁起的な存在であることを無視し、断ち切るものであるかを知らされることでしょう。縁起はそうした私たちの閉鎖的、独断的な生き方を問う、仏陀が目覚めた真理の法なのです。
(月刊『同朋』2002年2月号より)


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 テキストの本を読んだ後に、レジメをざっと読んでの話し合い。
 え~と、何か感想を書こうかと思ったのだが、疲れた。。。
 テンションが低い、つまり、自分を追い込む事無く書いたレジメ。記憶力が弱っているというか、まあ、『怠けている』という一言なんだろうが。

 先日、え~。。。思い出せない。。。誰かが、あ、『やしきたかじん』や。つーか、『先日』じゃなくて、今日の昼間や。大阪ではブイブイいわしている『やしきたかじん』という、お笑い芸人&歌手&司会者&テレビ評論家のオッサンが、テレビに出て来る『ひな壇芸人』に関して、「メシは喰ったらクソになって出て来るが、あいつらはメシも喰わんとクソを出しとる。だから、そのうち枯れる」みたいな事を言ってはった。まあ、当然、『全てのひな壇芸人』に関しての事ではないのだろうが。
 その話を聞いて、ドキッとする。

 縁起説は元々は『苦』からの解放が根本。
 日常生活の中で『苦』がないわけではない。
 が、それが課題化されていない。『苦』は『苦』として「大変でっせ!」と、どこかに置いている。
 当然、今回のレジメの『縁起』でも、「人間関係の中でも自己中心で相対になっていない」というのを中心に書いたつもりなんだが、どうも、ボケている。
 こういうのを『はからい』という。
 「ボケている」という事は、「本当の私はもっとしっかりしているはずである」という想定が先である。その、どこにもありもしない、私の脳内にしかない妄想が、現実に生きている私自身を苦しめる。

 やしきたかじんの「そのうち枯れる」みたいなセリフに「ドキッと」するのは、単純に「売れなくなると困る」からである。だから、売れなくなる芸人の話にドキッとする。声自慢の次に来るのが法話自慢だったりするので。え~。。。レベルは低いですが、その他はもっとアウトなので。
 故に「しっかりしないといけない」である。娑婆を生きて行くには。その事がクセになっていて、その事が仏道を歩む中にも混入している。それが故に、「最近、ボケとるのぉ。。。」になる。「学生の頃はこんな感じやなかったねんけどなぁ。。。」になる。

 老!老!老!

 と、老パンク。。。う~ん。。。イマイチか。。。
 つーか、『老パンク』ならば、「老いる事がアカンのか!ファック!」なんだろうが、そこまで勇ましくもなれない。学生時代みたいに自分を問う厳しさもなく、「うにょ~」と。「うにょ~、疲れたよぉ~」と。「ボケとるよぉ~」と、日々、酔っぱらう。
 それが私の生活実体。
 うにょ、うにょ。

 娘が泣いたので、寝よ。

2011年8月27日の学習内容

2011年08月27日 | 坊主の家計簿
『仏教の源流――インド』 長尾雅人著(中公文庫)
 第五章『根本仏教の教理』 
 二『特に縁起について』〈相対性の理論〉まで



 ①「縁起」の原語は、サンスクリットでプラティーティヤ・サムトバーダ(pratiitya-samutpaada)といい、これを縁起と訳したのは七世紀の玄奘です。この語は、文字通り「縁りて起る」と読めばよろしい。サンスクリットも「あるものに出会って」、あるいは「あるものが助けとなって、あるものが起る」というのが文字通りの意味です。(同著162ページより)


 ②経典の中で「縁起」が説明される時、次のようないい方がしばしされます。

 これあれば、かれあり。これが生ずることによって、かれが生ずる。
 これなければ、かれなし。これが滅することによって、かれが滅する。――
 すなわち、無明を縁として行あり、行を縁として識あり、……生を縁にして老・死があり、
 憂愁・苦悩が種々に生じる。

 この文章には前後の二つの部分があり、前半は「これあれば、かれあり。……」の四句であり、後半「すなわち、無明を縁として行あり、……」以下が「十二支縁起」(旧訳の「十二因縁」)を内容としています。(中略)
 縁起を説明する場合、この「十二支」のみが採り上げられて縁起として説明せられるようなことが、従来の仏教概論などにしばしば見かけられます。わが国でも外国でもそうです。事実、十二支は縁起であり、これだけを説いている経典も多いのです。しかし私は、右に引用した経典の前半に述べられている「これあれば、かれあり。……」等の四句が重要だと考えるものです。この四句こそ「縁起」の意味であり、縁起の原理を示すものであって、それに続く「すなわち、無明を縁にして……」云々の「十二支」の説明は、縁起の原理を具体的な場面に引き下げて説いたものと考えます。従って原理としての縁起そのものと十二支とは、一応、区別して考えてよいと思います。(同著162~163ページより)


 ③ここでは「これ」(此)と「かれ」(彼)に訳しましたが、原文ではこの両者は同じ代名詞なのです。ですから、この「これ」や「かれ」が何を指しているかは問題ではなく、問題は「……あれば、……あり」という点です。(中略)例えばわれわれは、東に対して西があるというのであって、西が独立してそれ自体としてあるのではありません。西というときは、必ず東が予想されています。東がなければ、西もありません。(同著163~164ページより)


 ④このようにして、縁起とは相対性の理論なのです。絶対的存在は、われわれの世界のどこにもなく、すべては相対的にのみあるということです。このような考え方が根底にあればこそ、「無我」という教説もあることが知られます。それは絶対的な実体がないということです。すべてが相対的であればこそ、「無常」ということも容易に理解出来ると思います。
 経典に「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」ということがいわれています。あるいはその後の句が、「……法を見るものは仏を見る」といいかえられている場合もあります。これは非常に重要な句であって、縁起と法、あるいは縁起と法と仏(の悟り)とを同一視するもので、縁起がわかったことが、法(宇宙の方法、すべての存在、あるいは仏陀の教法、すべての教え)がわかったことであり、またそれが、仏陀の悟りがわかったことである、というものです。縁起はこのような重さのある語です。(同著165ページより。)





 @以上がテキストよりの抜粋( 但しアンダーラインは犬伏)
 テキストの中(アンダーライン部)に【縁起とは相対性の理論なのです。絶対的存在は、われわれの世界のどこにもなく、すべては相対的にのみあるということです。このような考え方が根底にあればこそ、「無我」という教説もあることが知られます。】とある。この事を少し考えてみたい。





 ※問題を出そう。耳四郎は救われているかどうか。耳四郎は法念上人の御時、平安末期の大泥棒で、ある夜屋敷に忍び込んで夜更けに泥棒を働こうと思って床下にもぐっておった。上で法然上人のお話が始まった。聞くともなしに聞いていると胸打つものがあって、とうとう縁側に出てきてお話を聞いてお弟子になった。大変な進展ぶりでよく念仏申しよくお話を聞いたのであるが、一生の間泥棒だけはやめられなかった。念仏しながら泥棒しておった。但し、後で返したという。この耳四郎は法然上人の教に救われ念仏に救われていたであろうかどうか。
 念仏しながら泥棒をしたというのでは、大きな世界に出ているとは言えないと思う。「悪機の念仏するを見ては往生不定と疑う」。救われる筈がないではないかと思う。
 耳四郎は七百年前の話ではあるが、この問いは非常に現代性を持っている。あの人は勤行を怠らず念仏し、人に優しく人の為に尽くして一生懸命精進している。あの人の念仏は本物で、あの人こそは本当の菩薩道を歩いていく人と思う。しかしこの人は長く聞いてはいるが、見るからに人相も悪く、やっていることもパッとしない。いつも子供を叱りつけて愚痴ばかり言って、時々念仏して喜んでいる。これじゃ駄目だろうと思う。自分の場合でもこのような私では駄目だろうと思う。私は時には喜ばないわけではないけれども、何となく心もすっきりしないし善いことも行えないし、これでは駄目だろうと思う。これをはからいという。他人事ではない。最後はここで行きづまる。宗教の問題というのは最後はこのはからいというところに問題がある。はからいなしというところに、第一章から第九章までのつづまりがある。親鸞聖人の教を一言で言ったら、はからいなしである。これを無義為義という。口伝鈔で頂くと、そこが非常によく出ている。
 はからいとは本願を知らず、「本願の規模ここに失し自身の悪機たることを知らず」ということである。はからいとは、善い心、善い行いができなければ本当の念仏ではない、本当の信心ではない。悪い心即ち腹が立ち嫉妬心が起き冷たい心になる、悪い行いが私に続いている限り私は本物ではない、本当の信心、本当の念仏ではないと思う。これをはからいという。これが最後の問題である。「悪機の念仏するを見ては往生不定と疑う、本願の規模ここに失し、自身の悪機たるを知らざるになる」、これをはからいという。ここではいつも耳四郎をしっかり思い出すがよい。
 善い心、善い行いができなければいけない、悪い心悪い行いである限り…というところには自身がわかっていない。そこではからうのである。善い心善い行い、悪い心悪い行い、即ち私の善悪が念仏の意味を左右している。自己が中心になっている。それをはからいという。自己に中心があるのではない。如来に中心がある。如来本願が中心ということがわかっていないのである。
 如来の発願は如来の誓願である。人間の発想は善い者は救われ悪い者は救われない。如来の発願は南無阿弥陀仏である。私の善も悪も如来において南無阿弥陀仏である。如来のこころは大悲というのが一番当っている。大悲とは悲しみ呻きである。人間我々が小さな善悪に執われて、厚い厚い殼の中で、これではいけないいけないと言っている姿を如来は大悲して南無阿弥陀仏と叫びたもう。南無は帰れである、善悪に執われ人間の発想で右往左往している者に帰れと呼び続ける。阿弥陀仏は大いなるものわれ。大いなるものわれに帰れ、これを大悲という。南無阿弥陀仏という。これを大悲の本願という。これが如来の誓願である。この如来の願が我々に届いて我々の発願となるところに南無阿弥陀仏がある。この本願が私に届くと、善い心も善い行いも、悪い心も悪い行いも南無阿弥陀仏となる、善も悪も念仏となる。それをはからいなしという。
 人間の発想自体がはからいである。人間の心で言うならば、善い方はいいが悪い方は困るのである。ところが如来の発想は善いも悪いも南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏は如来の大悲である。悲しみであり呻きである。それが本当に私に届いたならば(これを本願成就という)私の善も悪も、耳四郎のような私の心も、怒りも腹立ちも南無阿弥陀仏になる。それをはからいなしという。
 はからいを無くしようとするのではない。はからいをなくしようとすれば、そのこと自体がはからいである。血で血を洗うというべきか、はからいを消そうとするところにはからいがある。はからいをなくそうとしてもなくならない。如来の本願にかえる。善いことも悪いこともこれが私の本体、南無阿弥陀仏と念仏する。これをはからいを超えるという。これが成り立つことが聖人の教の一番根本である。これを「ただ念仏」という。はからいをなくすのではない。「ただ念仏」である。これは何も考えないで無我夢中で念仏するのかというとそうではない。自らの実体にめざめ、本願を頂いて念仏する世界をいう。  (細川巌先生『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/10_Hakarai.htmより) 





 @『はからう』のは『我』である。宗祖親鸞聖人は法然上人に対する光明体験を

  源空光明はなたしめ
  門徒につねにみせしめき
  賢哲愚夫もえらばれず
  豪貴鄙賎もへだてなし
  (高僧和讃)

と、和讃に示されておられる。繰り返しになるが、はからうのは『我』である。

 故・竹中智秀先生は摂取不捨の事を「えらばず、きらわず、みすてず」と端的に語られておられた。それは同時に『えらび、きらい、みすてる』私自身の生活を課題化していく事である。
 上記の細川巌先生の講義の続きを引用する。




 ※少しつけ足しになりますが、私が結婚して一年目、昭和二十一年、とても物の無い時代で御馳走などはできなかったが、結婚記念日に私共の先生を夕食にお招きしたことがある。その時先生は、「何事も因縁じゃのう」と感慨深く言われたが、「善い悪いで見たならばどんなよい相手でも夫婦として成り立たない。立派な人とは見えない。念仏していくということが大事だ」と言われた。その時はよく意味がわからなかった。ただ、善い悪いじゃいかんのだなということだけはわかった。先生は、夫婦は善い悪いでなしに、何事も因縁だなあ、本当に因縁によって結ばれている。善い悪いと人間の発想によってはからうのでなく、善いも悪いも南無阿弥陀仏となる。そういうことを結婚の心得として言われたのだと思いますね。今頃になってそう思う。さすがに先生はいい所を言われたなあと思う。我々は善い悪いになる。批判になる。思慮分別を押していく限り結局最後は、悪い妻を貰ったなということになる。善いのを貰ったとはなかなか思いません。そうでなしに仏法を本当に頂いて、善いも悪いも南無阿弥陀仏になるのだ。そこにはじめて念仏生活が成り立つのだということを言われたのであろう。 
  (細川巌先生『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/10_Hakarai.htmより)  
  



 @夫婦は『相対』である。                         
 テキストでは【例えばわれわれは、東に対して西があるというのであって、西が独立してそれ自体としてあるのではありません。】
である。
 しかしながら、多くの生活実体としての夫婦、あるいは人間関係は自己中心にしか過ぎない。自己(我)から見た『相手』にしか過ぎない。東を中心にした西にしか過ぎない。それでは『縁起』にはなり得ない。縁起の世界に行きながらであっても、縁起の世界を無視しているのが実体ではないのか?
 それが故に「あいつはああいうヤツやから」等と。「あいつは悪い事をしたから死刑になっても仕方がない」等と。
テキストに戻る。
 【 経典に「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」ということがいわれています。あるいはその後の句が、「……法を見るものは仏を見る」といいかえられている場合もあります。】
 とある。
 もう一度、細川巌先生の歎異抄講読より





 ※加賀乙彦という人の書物に、あるカトリックの修道女が非常に徳を積んでみんなに優しくしたから、神様がそれをほめて御褒美を下さることになった。修道女は言った。「神様、私の心を見せて下さい」。神様は「それだけは見せられない」と言われる。修道女は「それならもう何もいりません」と言うので、神様はやむを得ず修道女にその心を見せた。ところが彼女は卒倒し気が狂ってしまった。
 我々はだんだん立派になり、よくなると思う。が、もし神様が見せて下さったら、即ち本当の正しい鏡を下さったら鏡に映るわが心は、真黒な欲と怒りと腹立ちの心である。驚いて卒倒し気が狂ったというのは実に深刻な話である。しかしいいところを言ってある。
 鏡を持たされたところに私の転落がある。これを愚者悪人という。愚かな私、お粗末な私にめざめる。そこに、助けんと思召したちける本願の忝なさよと頂く、それを念仏という。その念仏において、私が善い悪いを考えて判断して念仏するのでもなく、私の思慮分別を積み上げて念仏するのでもなしに、本当に私が私に目がさめて南無阿弥陀仏となる、ところを無義という。はからいから出発して遂にはからいを超えたところに、正しい仏法の道理が成り立っているのである。
 (細川巌先生 『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/10_Hakarai.htmより)





※自己自身を知ることと、「如来ましますか」の問いに答え得ること、この二つは同じことなのである。自己自身を機といい、如来を法という。自己がわかることが如来がわかること、如来がわかることが自己を知ることである。法がわからなければ機もわからない。機がわからなければ法もわからない。私がどんな顔をしているかわかるためには鏡がなければならない。鏡が先か顔が先かというと、鏡の方が先である。電灯をつけるのに、スイッチを押すのと点灯するのとは同時であるが、しかしスイッチを押すのが先である。如来の本願が鏡である。それがよき人を通して私に鏡としで与えられた時に、自分自身がわかるようになっている。よき人の仰せが先で、私があとである。
 (細川巌先生『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/koudoku/3/3_4.htmlより)





 @『縁起』は、長い時を経て『縁起の世界』になった。例えば『倶会一処』など。それは釈尊が説かれた『縁起』からは変形しているのかも知れないが、『縁起の世界』に触れ、その世界から照らし出される自己(我)=機、すなわち諸法因縁生に背いて生きようとしている生活実体を照らし出される。

 最後に、同朋大学学長・尾畑文正先生の縁起についてのエッセイ。





 ※「縁起」は仏教語の中で私たちに誤解されている言葉の筆頭です。例えば、朝一番のお茶に茶柱が立ったら縁起がいい。結婚祝は大安の午前中に持っていくと縁起がいい。病院にお見舞いに行くときは、鉢ものの花は根(寝)付いて縁起が悪いから切り花にするといい。などなど、数えたらきりがないほどです。
しかし、もともと縁起は、因縁生(いんねんしょう)とも縁生(えんしょう)ともいうように、全ての現象・事物は何一つそれ自体で成り立つものではなく、無数の関係(縁)によって生じていることを表すものです。だから、私たちが平生に、縁起がいいとか縁起が悪いとかと言っているのは、そういう存在の絶対的現実に対して、自分の都合に合うものは縁起がいいと言い、都合の合わないものは縁起が悪いと言っているということなのです。
それらは仏教でいう縁起の語を誤解して用いる使い方です。縁起とは、私の存在は、縁起として存在するのであって、私という一個の人間がそれだけで存在するのではなく、ありとあらゆるものとの繋がりの中で存在していることを表すものです。私たちの相互共存するいのちの事実を言い当てている言葉です。
このような縁起が指し示す豊かないのちの世界に目覚めるならば、同時多発テロ、それに続くアフガニスタンへの武力攻撃に象徴される戦争などが、いかに人間の縁起的な存在であることを無視し、断ち切るものであるかを知らされることでしょう。縁起はそうした私たちの閉鎖的、独断的な生き方を問う、仏陀が目覚めた真理の法なのです。
 (月刊『同朋』2002年2月号より)




 @終えての感想
 今回の発表箇所は文庫本版では5ページしかなく、あくまでも『縁起』という一点に絞った事と、私が真宗僧侶である事もあり(それ以外を知らない)、あくまでも『ド念仏』で押し切らせて頂きました。
 釈尊が修行をなさろうとした事は、これは次回学習会の内容になりますが十二支縁起が『無明』→『老死』、あるいは『老死』→『無明』という流れからも解る様に決して机上の論理や、何か「天とはなにか?天地自然とはなにか?」という事柄から始まったわけではなく、御自身の、人間の生身の苦悩から始まりました。その事を抜きにして『縁起』も成り立ちません。「成り立たない」というよりも、何か外の事柄になってしまう危険性があります。他人事になってしまう危険性があります。それは『仏道(内道)』ではなく『外道』ではないでしょうか。
 『南無阿弥陀仏』という六字の名号の中には、固定化し限定する『我』の無明(苦しみ・迷い)世界から『我を越えた縁起の世界(事実)に生きよ)!』という私たちの本当の願いが込められています。それが故に「我を越えた縁起の世界(事実)に生きる!」という誓い言葉でもあります。

人間はなにを為したかではなくて、何を為そうとしたかだ。(山本周五郎)

2011年08月27日 | 坊主の家計簿
 学習会のレジメ。昨夜作ったのだが、起きて「長いわい」と思ったので、縮小。え~。。。引用文、多すぎ。せっかくコツコツと打ち込んだのも削除。つーか、何かに使おう、そうだ、今月の寺の通信に使ってしまえ!当然、1ページもやってないぞ!何を書くのかも決めてないぞ!あ、「しばらく学生になります」という通知ぐらいだぞ!まあ、なので、学習会の発表を引用して寺の通信にしてしまおう。え~。。。多分、寺の通信の方がまとまりある文章になるだろう。なんせ、発表する場所が違う(笑)

 今日は菅直人総理大臣がようやく「辞めます」の日。
 賛否両論のある総理だったが、私は『賛』の方。いや、よう働いたと思うぞ、純粋に。大災害に原発事故の中、よう働いた。で、『総理』というポジションの中、浜岡を一時停止されている事、ストレステストだけでも評価されるべきだと思う。「総理大臣だったらもっと多くの事が出来たのではないのか?」なんだが、だったら、次の総理候補者を見てみろ。「総理だから出来る」のではなく、「総理だから出来ない」。そら、菅直人だって野党の代表だったら、政府に対して「電力は足りている!」「原発は即、停止すべきだ!」等と言えたのだろうが、総理だから出来ない。単純に『国全体』に責任があるから。「国全体に責任があるからもっと脱原発路線を邁進すべきだったのではないか?」も意見だが、それだけではない。他の意見もあり、『経済』というややこしい問題もある。
 机上の論理で「電力は足りている!」といっても、実際に動かなければどうしようもない。「経済は大丈夫だ!」といっても、『経済界』とかいう中の多くの声の賛同がなければどうしようもない。そういう非常に限定された中で、かなり過激に脱原発路線に邁進したのではないか?まあ、「友達の友達がアルカイダ」ではなく、「友達が赤い旅団の疑いがある」のだし(笑)
 辞めなければならないのは、元号を変えるみたいなものか。私は当然「菅直人が脱原発を言い出したから辞めざるを得なくなった」とは思わん。そんな説もあるが。単に、他のどの総理をやってても、この大災害&原発事故の混乱の中、政治的責任を取らされていたと思うし。また、本人も不信任案前の会合で鳩山前総理の発言を黙認していた。「鳩山さん、それは違います」とは言わなかった。なので、辞めざるを得ない。
 まあ、もう一度やりたければ、来年の民主党代表選挙に出馬すればイイだけの話。

 そういえば、海江田支持を小沢一郎が打ち出したらしい。鳩山も海江田支持で、馬淵も決選投票になれば海江田になるかな?前原ピンチ!である。まあ、私は馬面(馬淵)が「エエ顔になって来たのぉ。。。」という一点だけで馬面総理になって貰いたいのだが、民主党員でもないので投票権がない。なので前原VS海江田の決選投票かな?それとも最初の投票で決まるかな?海江田もテレビに出てた頃に比べて「お前、誰やねん」というくらい、エエ顔になって来ている。馬面に匹敵するぐらい。
 かつ、菅直人政権で散々苦渋もしただろうし。なんせ、エエ年したオッサンが公の場で泣くぐらいなんだから。
 こういう苦渋の選択というのは、結構好きである。オッチャンは。

 先日、京都にお買い物して来た中で、正信偈の現代語意訳の勤行本がある。法事で使うのだが、え~。。。無くなる(笑)嬉しい反面、「一冊ナンボやと思とるねん。。。」なんだが(笑)まあ、250円少々。でも、まとめて買うから「痛たたたた。。。」なのだが。
 読経は漢文で読んでいる。漢文で読んでいるのだが、その後に「では、皆さんで一緒に正信偈を」という時に、意訳者である先輩が『まえがき』みたいな所で書いて居る文章を読んで、現代意訳でも少し読む。すると、反応がイイ。だから無くなるのだが。
 残念ながら、私には現代意訳で勤行をやる根性はない。また、声明は音楽療法にもなっている。だから、泣かれる方も居ている。声明を聞いて「泣く」というのは、亡くなられた故人を思い出しての事。それは大事な作業。それを現代意訳でやれる技術は私にはない。現代意訳での法要に何度か参加したが、あれはかなり高度な技術が必要。同時に、それが『伝統』、即ち、血肉、え~。。。もっと他にエエ例えはないかなぁ。。。まあ、『懐メロ』を聞いた時のような感覚かな?音楽は『聞いたその時』の記憶がよみがえるわけだし。長年、『声明(読経)』として培われたもの、「子どもの頃に爺ちゃん婆ちゃんの葬儀&法事で聞いた」というのは、やはり強い。それは『南無阿弥陀仏』という言葉が現代語にならずにいているのと同じ。「お経に書かれているから」だけの問題でなく。
 え~。。。んな事を書きながらも、私も10数年前は「南無阿弥陀仏を日本語にして、それを念仏として称えよう」なんぞとやっていたのだが、現場で色々な人と接していると、言葉を変えるのではなく、言葉の意味も含めて、意味をしっかり伝えよう。になった。
 声明(読経)も同じ。

 え~。。。私がやっている事は、『苦渋の選択』ではなく、「今は、それぐらいしか私にはできひんし~」なんだが、『総理大臣』とかになると苦渋の選択を迫られる事もあったのだろう。「原発なくとも電力はなんとかなる」の話もあったわけだし。でも、出来なかった。
 出来なかった事が多々あるのだろうが、でも、「やろうとした」。
 別に、菅直人は死んだわけではない。今回は辞めざるを得なかっただけの話である。後は、次の次の民主党代表になって、民主党が政権を握っていたら、もう一度総理大臣になればイイ。民主党代表選挙に出る時の『公約』で脱原発を示せばイイ。
 なので、ひとまずは「ご苦労様でした」。

 あ、

【人間はなにを為したかではなくて、何を為そうとしたかだ。(山本周五郎『ちいさこべ』より)】

使い捨て

2011年08月25日 | 坊主の家計簿
 部屋をゴソゴソしてたら、机の前に貼ってあるチラシに目が行く。え~。。。今日は8月24日だったのね。『大阪教区ボランティア推進会議』という大谷派内部組織の講演で、御近所の寺の若さんが講師で講演するみたいなので「絶対に行こ」と決めていたのだが。。。え~。。。10年ぐらい前に入っていた所(当時は別名で位置づけも別だったはず)だし、知らない人でもない。かつ『第一回浄土宗平和賞』

http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/09/news0902/news090224/news090224_03.html

 というのも受賞してはるし。まあ、「川浪さんにやれ!」っちゅう話でもあるのだが、え~。。。違う教団か(笑)
 その寺の住職さんにも区の仏教会で御世話になっている。大きなお寺の住職さんなんだが、大阪の大きなお寺の住職さんにありがちな気さくなオッチャンで、その場のムードメーカーになれる人。名前を聞いて「え?大河内君のお父さんですか?」と言った時もケタケタ笑いながら『父親』してはったし。なんか好きなオッチャン。今日、行ってはったのかな?

 え~。。。すっかり忘れていた。水曜日だという事は憶えていたのだが、24日である事や、つーか、仕事とか、会議とか、毎月の学習会の日程はiPhoneカレンダーに入れているので「明日ですよ」とか通知が入るのだが、え~。。。ミス。

 きっと多くの仲間達も大河内さんの話を聞いている間にパパは娘の自転車を押しながら御近所散歩。タバコを買いに行くついでなんだが、少し回り道をしつつ。
 娘は自転車を誕生日プレゼントでママに貰ったにも関わらず、自分でこがない。「貴様、そんな事で阪奈道路の峠を越えれると思っているのか!!!」なんだが、まだ、自転車をこぐ脚力はないらしい。なので、パパが押す。つーか、押すヤツがハンドルに直結しているので、ハンドル操作もパパ。まあ、それでも楽しいみたいだし、まあ、エエ。

 パパは中学生時代は自転車野郎だった。まあ、「プチ」なんだが。近所のオモチャ屋にあるテレビゲームで遊んでたら別のクラスの不良が私の自転車を見て「これ、お前のか?」と。「そうや」と答えると、彼も自転車愛好家らしかったのだが、え~。。。私は彼みたいに『阪奈道路を休憩なしに登る』という荒行は出来ないし。何やらコツは「一番重いギアで登る」事らしい。どんな足、しとるねん。彼と喧嘩せんで良かったわ。阪奈道路を登り切る足でキックされたら泣くで。
 そういや、彼も『成績のエエ不良』だったなぁ。。。不良なら頭が悪かったら「バランス取れてエエ感じやんけ」なんだが、不良のクセに成績が良かった。名前、なんやったけなぁ。。。確か『おお』がつくねん。『おおなんとか』やねん。まあ、ええわ。会う事もないやろうし。道で会っても、お互いオッサンになってるから解らんわ。親しくなかったし。

 娘の自転車を押して近所を散歩してたら、娘と同じくらいの年頃の女の子が居た。「あ!」と娘を指差して言ったので気がついたのだが、御近所保育かなんかで娘の事を知ってるのかな?娘は自転車に夢中だったので、そのままスルーしてたが。

 実家の近所にヤクザの組事務所があって、そこのガキと年齢が近かった。1~2ぐらい下だったかな?近所とは言っても100メートル以上離れて居るし、そんなに遊ばなかったのだが、遊ぶ公園は一緒だったので何度か一緒に遊んだし、彼の家にも行ったはず。家=組事務所なんだが。何系だったのかな?無難に山口組だったのかな?よく知らない。ガキ同士には関係がなかったし。
 中学校の時に一緒に遊んでたヤツもヤクザになったし、ヤクザと言っても遠い存在ではない。その後、ミナミに出てからは「え?ヤクザになりはったんですかい」という人も居たり、客で『元ヤクザ』も来たり。御近所バーに行くとヤクザで一杯だったり。
 私は地元を離れたけど、地元にずっと住んでて居たら、近所のオッサンがヤクザの組長だったり、子どもの頃に遊んだ相手がヤクザになったり、組長になったりして、そのまま近所に住んでいるというのは別に珍しくもない。そういう場合に「あいつはヤクザになったから」という理由だけで、つき合いをしなかったりするのは単なる差別だと思うのだが。

 そういえば、一時期親しくししていた人も元ヤクザだった。何やら拳銃を渡されてヒットマンとしての命令が下った時に、私が一時期働いていた店のオーナー(解放同盟幹部)が「あいつはウチのムラのヤツやねん。返してくれ」と事務所に乗り込んだらしい。だから、その事を恩義に感じていて、私が働いていた店によく来てくれた。で、カウンターの中に居ている私と親しくなったわけなんだが、どこからどうみても『元ヤクザ』ではなく、絵に書いたようなヤクザの風貌をしていたのだが、それはその後に大きくなって「ヤクザの大物って見た目では解らん」と判明したのわけでもあるのだが。
 
 そういえば、若かりし『文句あるねんやったら何時でも殺ったるで』時代に「お前がホンマにやりたいのはそんな事違うやろ。こっちに来い、こっちに」と、私に「お前は坊主になれ」と腐る程熱く誘ったオッサンもヤクザみたいな人やったし。っちゅうか、ヤクザが大キライな空手家坊主で「弁護士になって法律でヤクザを潰したる」という中でヤクザと接していて、『ヤクザという一人の人間』に出会ったのかな?なんか、知らんが、計画は断念したらしいのだが、空手家でもあるし、タチが悪いので旧友ヤクザがビビって冷たくされたらしいのかなんか知らんが、私がやっていた当時の坊主バーに泥酔状態で入って来た時に、無茶苦茶辛そうに酔っぱらい、まあ、親しい僧侶の親友らしいので多めには見ていたのだが、エエ加減に鬱陶しくなったので追出そうとしたら、先の言葉があったわけなんだが。

 何が書きたいのかというと、某ジャーナリストが書いていた言葉が一番解り易いかな?

 http://twitter.com/#!/hirougaya/status/106296093050015744

 という事。別にヤクザは珍しい存在ではない。まあ、上記リンクは厳密には『関西下町市民生活』なんだろうが。

 民主党代表選挙には前原が出馬するらしい。前原は『日米安保』という裏ではなく、子どもの頃から家族ぐるみで付き合っていた近所の焼肉屋のオモニから献金されたとか、あるいは、ヤクザ絡みの話もあるみたいだ。だから、何が問題やねん。そのヤクザとか、オモニが、『政治家』『大臣』『総理大臣』という立場の前原に対して『ヤクザ』『在日コリアン』という立場で圧力をかけて来たら日本の政治家としてはアカンのだろうが、それ以外に何の問題があるねん。
 ちなみに前原支持者ではない。前原にどれだけ能力があるのか知らんが、前原はエリート政治家のタチの悪い部分を煎じ詰めた感じがする。やんばダムでの失策と同じ様な失策をして、総理になったとしてもとっとと消えそうな気がする。どれだけ『正しく』とも、その正しさの尺度に付き合わなければならない筋合いはないし。三里塚しかり。原発建設地しかり。なので、前原には総理大臣にはなって貰いたくない、出来れば『ガンコ岡田』『馬面馬淵』辺りでエエと思うのだが。まあ、代表選挙の投票権はないねんけど。
 前原支持者ではないが、そんな所で前原を批判する事に対しては批判する。批判するなら「前原の背後には日米安保」とかで批判せえ。前原がアメリカを訪問した時のアメリカ側の歓迎とか。

 という事で、本日の本題。『使い捨て』
 え~。。。『使い捨て』について書こうと思っていたのだが、すっかり忘れている間に泥酔に近づいて来ております。とりあえずタバコでも吸って気合いを入れて来ます。

 戦後の混乱の中でヤクザを警察が利用した事実がある。また、主に繁華街の治安維持の為に警察だけではなく『怖いお兄さん(ヤクザ)』という『裏権力』が必要だった部分もあるのだろう。その辺の『暗黙の了解』が警察とヤクザとの間にあったのだろう。街の誰もが知っている賭場の存在もあったりするわけだし。けど、どうやら、警察は本気でヤクザを潰しにかかっているのかな?そんな情報もあるが。まあ、『日本の暴力団は潰すが、海外からのマフィアは黙認する』みたいな笑い話なのかも知れんが。
 警察はヤクザを使い捨てにするのか?『警察』というよりも『国家』だな。必要だった時代は「終わった」と。

 原発に関して、え~。。。以前もやったのかな?ブログ内検索で『槇原』で出てこないという事はやってないのかな?
 槇原敬之が原発に関する新曲を発表したらしい。

 http://www.uta-net.com/song/116909/

 この歌に関して「槇原敬之が原発推進ソングを作った!」とネットの一部では話題。
 この歌詞を『原発推進ソング』としてしか言えない思えないのを、最近の流行語で『放射脳』という。これは名曲やぞ。槇原敬之のファンではないからアルバムは買わないし、歌としても聴かないだろうが。
 この歌詞の『原子炉』の部分を『先祖』でもエエ、『親兄弟』でもエエ、『恩師』でもエエ、『幼なじみ』でもエエ。何か他の事に喩えて読んでみろ、と、葬式坊主は言いたい。

 この歌詞は

【40年間、耐用年数を10年過ぎてまで酷使され、ろくな手当てもされず、安全管理も手抜きされ、あげくに地震と津波で機能不全に陥った原発に対して、日本中がまるで「原子怪獣」に向けるような嫌悪と恐怖のまなざしを向けている。
 それでは原発が気の毒だ、と橋口さんは言った。
 誰かが「40年間働いてくれて、ありがとう」と言わなければ、原発だって浮かばれない、と。】(http://blog.tatsuru.com/2011/04/08_1108.phpより)

 の影響を受けてなのかどうかは知らないが、やはり思い出す『原発供養』。その中には、当然、『原発村』と呼ばれる人達も入るのだろう。ちなみにこの『原発村』は差別表現なので辞めた方が良い。『村=閉鎖的』という意味合いでの言葉なので、辞めた方が良い。

 曲は聴いていないが、繰り返し出てくるという事は



  ♪失ったものは全て
   当たり前に思って
   それがあることの喜びを
   感じずにいたもの
   このまま感謝できない
   僕らのままでいたなら
   もっと多くを失う時が
   来るだろう


 
 が、サビの部分なのかな?メインテーマ。
 その後が凄い。



  ♪それを望んでいないのはきっと
   僕だけじゃないはずだ

   君だって同じはずだ



 お前は『ただ念仏』か(笑)仏性でしか人を見ないのか(笑)

 あ、もとい。
 使い捨て。

 使い捨ての労働者、危険な作業の労働者は、何も原発ジプシーだけではない。故に両点の問題で『原発ジプシーだけ』を問題化するのは危険だ。その他の『使い捨て』&『危険な労働』が無視される事に繋がる。あくまでも『原発ジプシーも』だ。
 その他多くの『使い捨て』。
 「大きくなってかわゆくなくなった」の『ペット』と呼ばれる生き物だろうが。五障三従だろうが。


  ♪失ったものは全て
   当たり前に思って
   それがあることの喜びを
   感じずにいたもの
   このまま感謝できない
   僕らのままでいたなら
   もっと多くを失う時が
   来るだろう


 は、供養の本質。それは当然、今の私(たち)の生活に直結する。
 都合が悪くなると『捨てる』。都合の悪い自分を『捨てる』。自分が、自分になり得ない。「どんな私(あなた)であっても決して見捨てない」にはなり得ない論理。

 娘の自転車はアンパンマン。ハンドルの部分にもアンパンマンがついていて、押すと音がなる。
 娘はアンパンマンが大好き。なので、ママが子守唄で



  ♪なにが君の しあわせ
   なにをして よろこぶ
   わからないまま おわる
   そんなのは いやだ!

   忘れないで 夢を
   こぼさないで 涙
   だから 君は とぶんだ
   どこまでも

   そうだ おそれないで
   みんなのために
   愛と 勇気だけが ともだちさ
   ああ アンパンマン
   やさしい 君は
   いけ! みんなの夢 まもるため



 と歌ってる。パパの出番はなし。
 パパの出番は、きっと娘が大きくなって『生きる』という事それ自体に悩み始めた時にアンパンマンの作者、やなせたかしがどんな人だったのかを教える事かな?
 やなせたかしが自殺を考えていた時代に作った歌詞


  ♪みんな みんな生きているんだ
   友だちなんだ


  いじる。


  ♪『推進派』だって
   『御用学者』だって
   『ヤクザの手配師』だって
   みんな みんな生きているんだ
   友だちなんだ

 

釋後鳩→「苦~苦苦苦苦~」

2011年08月24日 | 坊主の家計簿
 島田紳助引退!という衝撃的ニュースに盛り上がる。え~。。。「関西のお笑い芸人と暴力団の関係って、おい」なんだが。。。大阪では有名な漫才師と暴力団関係者との話なんぞ、週刊誌でバンバン報道されていたわけだし、別に珍しいとも思わないのだが。
 ただ、まあ、

【今回判明した行為自体は法律に触れるものではなく、また、経済的な利害関係が認めら れるものでもありません。しかしながら、島田紳助が、多数のテレビ番組にメイン司会者 として出演していること等に鑑みれば、弊社としては厳しい態度で臨むべきであると判断 するに至りました。】(http://www.yoshimoto.co.jp/cmslight/resources/1/86/110823.pdf

 というのも一理ある。紳助って芸人としてはビックになり過ぎたわけだし。
 まあ、週刊誌ネタ的には「吉本内部の派閥争い」みたいなもんも報じられたりするのかも知れん。そんな記事を読んだ記憶もあるし。大きな会社だし、紳助が居なくなっても、紳助の座に誰かが座るわけだし。ロンドンハーツの兄ちゃんとか。吉本として、そんなに痛手でもないのかな?

 辞めっぷりが、いかにも紳助らしかった。紳助って、『青春』の人なのだ。紳助が気楽に遊んでいる、多分関西ローカルであろう『クイズ紳助くん』なんぞでは、紳助軍団を引き連れた紳助が、青春野郎ぶりを見事に発揮している。そんな青春野郎の紳助として、「紳助らしいなぁ。。。」という引退会見だった。あ、テレビニュースでしか見てませんが。ゼロで結構長くやってたので。

 今日は家族サービス。あ、つーか、京都にクリーニングに出していた法衣&袈裟が仕上がっていて、それを取りに行く&来年のカレンダーなんぞの購入に京都に行かなければならなかったので、京都へ。ついでなので、娘とママを車に乗っけて琵琶湖へ。
 琵琶湖メインは『琵琶湖博物館』

 http://www.lbm.go.jp/

 特に意味はない。8月末とはいえ、暑いし、娘を長時間屋外に出しているわけにもいかないので、「どっかないかな?」と探してたら、見つけただけ。草津なら京都からすぐだし。

 琵琶湖博物館は予想以上に楽しかった。つーか、15時過ぎに着いて、時間が足らなかった。それぐらい、遊べます。多分、4~5時間は遊べます。
 パパ(私)は、初めて見る(?)オオサンショウウオに興奮。え~。。。どこかで見たことがあるかも知れんが、とにかく興奮。最後に「パパはオオサンショウウオをもう一度見て来る」と、合計2度、娘とママを放置してオオサンショウウオ。いや~。。。迫力おますわ。
 娘も色んな所で興奮して、帰り道で走って転ぶ事、2回。一度は、パパとママを振り切って坂道を走る走る→転ぶ、転ぶ。まあ、今は「どこそこに行った」というよりも「お出かけした」「遊びに行った」というだけで楽しいのやろな。多分、近所の公園でも、あ、御近所散歩でも。しかしながら、パパとママはそういうわけにもいかない。飽きるし。「ここ、前も来たやん」的な。

 滋賀県というとオウミ住宅である。

 


 このCMソングが自動的に脳内で流れ出す。
 パンチみつおも、紳助軍団。何やら最古参らしい。

 紳助は引退後に沖縄に珊瑚の運動なんぞもしたいらしい。テレビでもやってたし、それ以外でも運動してはるのね。

 http://news.www.infoseek.co.jp/entertainment/story/flash_20101207_742/

 そういえば、今日、紳助が引退する正式発表前には多くの情報が錯乱していた。記者会見前に産經新聞が先走り報道をしたのでデマはそれ程なかったが、でも、「紳助は芸能界を引退して民主党代表選挙に出馬するらしい」というデマもあった。え~。。。すいません。。。私も「どうせだし」という事で、いくつかのデマ(ネタともいう)を流しまくった中のひとつです(笑)猪木に挑戦すると思ったのだがなぁ。。。(笑)
 まあ、辞め方もキレイだったし、きっと多くの関西人は「お笑い芸人がヤクザと付き合って何が悪いねん」ぐらいにしか思っていないだろうし。
 つーか、池田信夫氏も

【吉本の芸人がマル暴とつきあってるなんて昔から常識。そもそも芸人が「反社会的」な存在じゃないの?】(http://twitter.com/#!/ikedanob/status/106010791861428224

 と書いて居るが、そんなもんやろ。だから『芸人』なのではないのか?
 なので、関西から出馬するには問題ない。
 島田紳助って、一時期東大受験をしようとした。まあ、東大は無理でも、どこかの大学の社会人入学なんぞをして、政治を勉強して、沖縄の珊瑚移植の運動をやるのもエエのだろう。

 が、しかし、ここは無難に出家するというのはどうだろうか?
 
 紳助は「次は坊さんをプロデュースする!今の時代に一番求められているのは坊さんだ!」みたいな事を言って、『スパモク !!お坊さんがズバリ!解決!紳助の駆けこみ寺 』という坊さん番組を作っている。前回放送(http://www.tbs.co.jp/supamoku/supamoku20110512.html)のうち、2人は大谷派僧侶であり、かつ、我が母校、大谷専修学院の出身である。つーか、2人とも卒業後も卒業生の会に熱心に参加しておられる。要するに40%が大谷専修学院派閥なのだ。
 40%というのは凄い数字である。民主党内部における小沢派よりも多いのではなかろうか?つまり、次の代表選挙の時に40%の最大派閥である大谷専修学院卒業生学習会『青草びとの会』(http://www.geocities.jp/aokusabito/)の動向は無視出来ないのである。。。え~。。。話が!焼酎め!

 あ、まあ、紳助が僧侶になるならば、紳助の母校が大谷高校という事もあって、無難に真宗大谷派がエエのではないかと。当然の如く、大谷派の門徒にヤクザも居る。「ヤクザは門徒にしてはいけません」と、教団が声明を出したら、寺の役員会で相談して、役員さんの承諾を得る事が出来れば大谷派を離脱する。当り前だ。そんな教団なんぞ『仏教教団』『念仏のサンガ』として失格である。なので、紳助が大谷派で僧侶になるにあたって、何の問題もない。あ、『出家』とは言わんが。
 ついでに、法名も考えた。
 釋後鳩である。
 
 鳩は「ク~クククク~」と鳴く。漢字に変換すると「苦~苦苦苦苦~」である。
 紳助は若かりし紳竜の漫才時代のギャグは「俺のバックには東本願寺の鳩が居てるねんぞ」だった。

 辛い時、悲しい時、苦しい時。『苦』は『思い通りにならない』という意味。
 東本願寺の鳩の「苦~苦苦苦苦~」という鳴声を聞いて、「そうか!」と。「私は、『私』という『思い』の中で、『私の思い』に適う生き方をしていたのだ。そして、『苦』があれば、『苦』を克服しようとして来続けていたが、それは『苦』に向き合う、『私』に向き合う事ではなく、『苦』から『私』から逃げ出そうとして来ただけなのだ。それが『私』だったのだ」と。東本願寺の鳩が「苦~苦苦苦苦~」と鳴いていたのは、私に対して、「本当のあなた自身に目覚めなさい」という私に対する呼びかけだったのだ。私のバックには東本願寺の鳩が常に「苦~苦苦苦苦~」と鳴いてくれている。鳴いて頂いている。『私』の世界に埋没し、『私の世界』の中で有頂天になっている時にも「本当にそれでいいのか?」と。「あなたは小さな世界の中で自己完結して、『苦』を忘れていませんか?あなたは良くともあなたと一緒に生きている人が苦しんでいる状況にある事を忘れていませんか?安全な場所にいて『苦』の現場から逃げようとしていませんか?」と励ましてくれているのだ。

 っちゅうのは、どう(笑)

 え~。。。ネタばっかり書いてんと、勉強せえ、っちゅうねん。学習会、土曜日や、っちゅうねん。
 しかーし!パパは夏休み♪娘と遊びたいお年頃♪アンパンマンミュージアムにも行きたい♪和歌山に水平本願寺の撮影ついでに海にも行きたい♪

 え~。。。コメント欄ついで。
 自堕落した坊主で結構です。今は「娘!」です。第一義が「娘!」です。の割に娘を放って深夜まで飲んでたりするのですが、一応。冷血なので「自分より大事な存在」なんぞとは言えません。ドス黒い自分の心は見慣れています。でも、大切にしなければいけない存在ですし、まだ、自分で働く事は出来ません。私が『保護者』だったりします。
 寺で生活しているので、『寺』を『念仏道場』として稼働さすべく『住職(私)』を念仏者として稼働さすべく中で、うちは『経済的に最初からヤバい』という限定された条件があります。その中で『保護者』だったりします。で、私の「遊びたい♪」という生活の事実もあります。そういう様々な状況の中での『生き方』だったりします。
 そういう様々な状況は、それぞれの、え~。。。とりあえず『僧侶』として限定するが、それぞれの僧侶にあります。それぞれの生活があり、それぞれの能力もあります。『努力』も含めた能力もあります。私には金を稼ぐ能力はなかったりしますし、努力する能力も無かったりします。様々な条件があります。それが生活者の苦悩です。真宗僧侶は生活者ですし。

 宗祖親鸞聖人は、『あおひとくさ(青人草)http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/1810/m0u/』という『民草(雑草?蔑視の意)』の言葉を『あおくさ人』と呼びかえ

【我なくも 法は尽きまじ 和歌の浦 あおくさ人の あらんかぎりは】

 と言っておられます。伝説かも知れませんが、この言葉を「宗祖の言葉」として受け継がれて来た念仏者の伝統があります。

 『あおくさ人』はマスコミや、宗教学者の取り上げられる様な人ばかりではありません。

 「苦~苦苦苦苦~」の状態の時に、『たまたま』であっても、私の人生にとっては奇跡的な現象。目の前に居て、奇跡を起こして下さる人が居ながら、「もっと他に。。。」とも思ってしまうのも当然。人間ですから。

 まあ、若く血が熱い=排除する、のは仕方がない事。老いれば、老いる事でプライドを立てる。偉そうになる。それだけの事。
 
 僧侶の位を誇るのが鬱陶しい中に、「仏教徒なら社会運動をすべき」なんぞが入るだけ。
 「僧侶は僧侶らしく」って、鬱陶しいだけ。
 
 なので、コメント欄の某宗教学者は「お前は明恵か?」
 以上。

卒倒する(われら)

2011年08月23日 | 坊主の家計簿
 毎月の学習会での担当なので、久々のお勉強。え~。。。頭が動かん。『勉強脳』とでもいうのか?勉強する為の頭が動かん。全く動かん。
 動かんながらも、動かさないと生涯『動かんまま』かも解らんし、勉強開始。とりあえず、テキスト本から大切な部分を抜き出す。厳密には打ち込む。打ち込む作業は出来るし。また、打ち込む作業をしながら、次の展開が湧いて来る事も多いので。
 え~。。。とりあえず、縁起を『泥棒の耳四郎』でやろうかと思いついたのだが、全く上手い事いかん。直感をつなぐ回路が破綻状態である。

 土曜日は、生まれて初の法要をやる。え~。。。丸暗記文章は憶えたのだが、所作(動作)に不安があり、リハーサルを当日2回。まあ、一カ所忘れてしまった部分があるけど、『法要』としては良かったのではないかと。とはいえ、激疲れ。法話を2回するのだが、2回ともガタガタ。
 日曜日の法事は、御近所の葬儀会館で。部屋を仕切っていて、上部空間で向う側と繋がっている→声が逃げる→ヘロヘロで声が出ません。基本、私は『声自慢』であって、「坊さんの声のエエのは七難隠す」と言われているので(?)特なのだが、その声が(笑)「よっしゃ、法話で頑張ったれ!」で、長い事喋った割にはなぁ。。。

 ん?とういう事は動かないのは『勉強脳』だけではなかったか。まあ、お盆&最近一番緊張した法要も終わって、気が抜けたかな?

 毎月の学習会は、「釈尊以前から親鸞まで」という遠大なスケールの学習会である。「インドの歴史から始めまひょ」である。「インド哲学もやりまひょ」である。丁度、『校長』&『教授』が、その辺にも詳しいし、好都合。え~。。。原始仏教から抜け出れませんが(笑)
 なので、今回も縁起を法然上人の弟子の『泥棒の耳四郎』でやりたかったのもそういう理由から。あ、文章になってないな、え~。。。無理や(笑)
 あ、今に伝わる親鸞以後も含めた真宗教学が、原始仏教のDNAを引き継いでいなければおかしいし。単純に。

 『泥棒の耳四郎』は泥棒。泥棒のまま法然の弟子になって、泥棒を辞めれなかった。

 縁起=空=無我って、「えらばず、きらわず、みすてず」という生活規範になっていると思っている。なので、その辺を『泥棒の耳四郎』を使ってやりたいのだ。あ、ついでに法話ネタも一本出来るわけですし(笑)

 動かぬ脳味噌のまま、諸々調べてたら「お!」という言葉があった。

【加賀乙彦という人の書物に、あるカトリックの修道女が非常に徳を積んでみんなに優しくしたから、神様がそれをほめて御褒美を下さることになった。修道女は言った。「神様、私の心を見せて下さい」。神様は「それだけは見せられない」と言われる。修道女は「それならもう何もいりません」と言うので、神様はやむを得ず修道女にその心を見せた。ところが彼女は卒倒し気が狂ってしまった。】(細川巌『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/10_Hakarai.htmより)

 これなのかな?ある先輩が児玉先生から「人間の心の中を見たら卒倒するぞ!」と言われた話のネタ元は。っちゅうか、唯識自体がそうか。別に珍しい話でもないか。でも、『非常に徳を積んで』という辺りがやっぱしエエ。

 さっきまで、 ETV特集『アメリカから見た福島原発事故』

 http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2011/0814.html

 を見てた。今回ぶっ壊れた原発、ゼネラル・エレクトリック社(GE)のマーク1に関わる人達の証言。そういえば、「今回の原発事故の最大責任はゼネラル・エレクトリック社だ!」という声が余り聞かれないのはなんでや?武田教授とかは言ってたかな?誰かが言ってた記憶はあって「そうなのか」と思った記憶はあるのだが、別に今後、原発を新しく作る事もなければ、「過去の事はエエから、さっさと停めろ」の私としては、別に犯人探しなんぞどうでもエエのだが、東電よりもGEの責任の方が重いのと違うか?まあ、政府の責任が一番なんだろうが。

 昨日見たNHKスペシャル『新エネルギー覇権争奪戦 ~日本企業の闘い~』

 http://www.nhk.or.jp/special/onair/110821.html

 では、同じゼネラル・エレクトリック社が再生可能エネルギー、まあ、風力だとか、太陽光でスマートグリッドを使った計画なんぞもしていた。まあ、原発だけやおまへんなぁ。。。かつ、原発アレルギーになっている日本では、無茶苦茶金がかかりそうなスマートグリッドも出来るかも知れまへんなぁ。。。でも、住める人って「金持ちだけ?」なんぞと思ってしまうのだが。
 でも、まあ、コストがかかる分だけ、これからの日本では原発より遥かに儲かる。原発以上の儲けを生み出してくれると思ってはるのであろう。

 変わらず、ツイッターで遊んでいる。なんせ、寝転びながらiPhoneで遊べるし。

 あ、先日、もの凄いクールな意見を見たぞ。ついでに紹介。

 http://twitter.com/#!/izumillion/status/104835745533005824

 これは怖いぞ。無茶苦茶クールな意見やぞ。
 ちなみに女性らしい。この事だけでも、『男は論理的』『女は感情的』というのは壊れる(笑)
 「そ、そこまでしたったら、アカン」である。ちなみに私にも案はない。まあ、「動かすな」だろう。実際に動かせないだろうし。
 だいたい、「反対!」というのは、問題点を指摘する為の行為であって、んなもんは靖国神社の分祀と同じ。教義上、出来るわけがない。また、小沢がやりそうだったらしいが、時の政権がA級戦犯を分祀したら、単なる宗教弾圧だし。出来るわけがない。『出来るわけがない事』と、『裁判にする』のは別の問題。靖国神社の問題点を示すのに必要な行為。
 「原発、反対!」というのも、「じゃあ、具体的プランは」になると話は別。それはプランを出せる人と出せない人の能力の差があって、出せなくとも「イヤ!」なら、「イヤ!」で充分。ただ、それだけでは話は進まない。なので、飯田哲也氏みたいな人が居ているのだろうが。
 あ、飯田哲也氏に、今後の電力行政や核廃棄物の事を政府が任せたら、飯田哲也氏は反原発派から総スカンを喰らったりして(笑)「政府に魂を売り渡したのか!」って(笑)現実はそんな甘い話やおまへんで(笑)
 なんせ、「友達の友達がアルカイダ」ではなく、「友達が赤い旅団かも知れない」菅直人総理でも「脱原発路線にしたい」程度でんがな。鳩山前総理なんぞ「普天間、すんまへん」で総理を辞めましたがな。

 あ、「福島の子ども達を守れ!」でも、

【加賀乙彦という人の書物に、あるカトリックの修道女が非常に徳を積んでみんなに優しくしたから、神様がそれをほめて御褒美を下さることになった。修道女は言った。「神様、私の心を見せて下さい」。神様は「それだけは見せられない」と言われる。修道女は「それならもう何もいりません」と言うので、神様はやむを得ず修道女にその心を見せた。ところが彼女は卒倒し気が狂ってしまった。】(細川巌『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/10_Hakarai.htmより)

 と、

【我々はだんだん立派になり、よくなると思う。が、もし神様が見せて下さったら、即ち本当の正しい鏡を下さったら鏡に映るわが心は、真黒な欲と怒りと腹立ちの心である。】(上記の続き)

 なのは同じ。
 『敵』を作り出す運動論はアカン。




  明日、私が出発すると言わないでください。
  今日まだ、到着しているのだから。

  深く見てください。私は毎秒、到着している。
  そして、春の樹の蕾となる。

  羽がひよわで、新しい巣でさえずりはじめた小鳥となる。
  花のなかにいる青虫となる。
  石にひそんでいる宝石となる。

  私はまだ到着している。笑い、泣き、恐れ、望むために。
  私の心臓の鼓動は、すべての生きものの、出生と死にほかならない。

  私は川のみずもで変態する蜻蛉。
  私は春になって、蜻蛉を食べる頃にやって来る鳥。

  私は澄んだ池で幸せに泳いでいる蛙。
  そして私は、静かに近づき、その蛙を飲み込む小蛇。

  私はウガンダの子供、痩せこけて、脚が篠のように細い。
  そして、私は武器商人。ウガンダに死の武器を売っている。

  私は十二歳の少女。小舟に乗った難民。
  海賊に犯されたあと、大海に身を投げる。
  そして、私は海賊。心はまだ、見ること、愛することができない。

  私は党の中央委員。大きな権力を手にしている。
  そして、私は人民にたいして、「血の債務」を払わなければならない者。
  強制労働収容所でゆっくりと死の道を辿っている。

  私の喜びは、春のよう。暖かく、生命の歩みのすべてが、花を開かせる。
  私の苦しみは、涙の川のよう。あふれて、四海を満たす。

  すべての、ほんとうの名前で呼んでください。
  そうすれば、私の泣き叫びと笑いが、すべて、同時に開ける。
  そうすれば、私の喜びと苦しみが一体であることがわかる。

  すべての、ほんとうの名前で呼んでください。
  私が目覚め、
  心の扉、慈悲の扉が、開け放しになるために。

 (ティク・ナット・ハン『ほんとうの名前で呼んでください』 但し、中公文庫『仏の教え ビーイングピース』棚橋一晃訳より)

おもちゃ王国

2011年08月20日 | 坊主の家計簿
 昨日は、家族サービス(?)で、ママと娘と3人で『東条湖おもちゃ王国』へ。
 行った事のない人の為の御案内。
 まず『王国』を名乗っている通り、ここは日本国内に出来た『王国』である。独立戦線を勝ち取った王国である。なので入場すると革命戦士達の像がレゴブロックで展示されている。。。え~。。。エエか(笑)

 東条湖おもちゃ王国へ行くにはパックを利用した方がお得。日帰りもランチとディナーのパックがあって

 http://www.omochaoukoku.com/tojoko/hotel/index.html

 かなり、お得。
 私たちはディナーパックの方。入場券と、ディナーバイキングと、大浴場がついて4200円。2歳児の娘はタダ。ただし、入場券は必要なので、コンビニで前売り500円を買って行ったのだが、当日、ホテルの受付で買った方が400円と100円安かった。
 大浴場は、『大浴場』というぐらいなので、そこそこ大きい。スーパー銭湯までは行かなくとも、泳げるぐらいの大きな湯船もあるし、桧風呂&ジャグジーもある。サウナ&スチームサウナもある。夏休みだったのだが、混雑感ゼロ。部屋にも風呂があるのかな?よく知らんが。

 ディナーバイキングは、バイキングマニア(?)の私も満足出来る程、美味かった。調べてたら「10月から」と書いてあったカニも居てて、「カニ!カニ!」と、思いっきり『冷凍』と書いてあったのだが、そんな事関係なく「カニ!カニ!」と、一人テンション上がる。カニは冷凍だし、スカスカだったのだが、それでもカニである。結構大きなカニである。カニはカニなので満足である。
 目玉なのかな?ローストビーフもかなり美味しかったし、揚げたての天ぷらも美味しかった。っちゅうか、全般に美味しかった。まあ、通常3675円のホテルのバイキングなので「こんなもんか?」なのかも知らんが、普段1200円の焼肉バイキング、980円(プラス消費税)の焼肉バイキングばかり行っている私には大満足だった。娘もエビの天ぷらを「何本食べるねん!」というくらい食べてたし。

 おもちゃ王国は、色んなおもちゃがいっぱい。『シルバニアファミリー』とかいう謎のものにママが娘以上に興奮して土産にまで買っていたし、リカちゃん人形なんぞもある。え~。。。パパ、ヒマ。ヒマなので館内の隅で右翼になってツイッター。
 その後に行ったトミカのプラレールがある所で、パパの御機嫌治る。けど、人、多すぎ。まあ、夏休みやし、盆明け早々やし、しゃーないか。でも、パパはプラレールでゆっくりとコースを作って遊んでいたかったのだが。シルバニアファミリーの人形で「池田屋の階段落ち!」とか、わけの解らん遊び方しか出来なかったし。あ、リカちゃん人形はプロレスゴッコには向かん。
 乗り物やプールは娘にはまだ早いけど、おもちゃだけで一日中遊べる。なんせ、娘、昼寝してないし。前夜も何やら興奮してて23時半ぐらいまで起きてたし、朝も7時起き。車の中で寝るかな?と思っていたのだが、車内でも寝なかったので、かなり眠いと思うのだが、興奮状態でずっと遊んでた。

 5時からの夕食→その後に風呂にゆっくり入って、帰宅。事故渋滞だった事もあり、娘とママは爆睡状態。パパは阪神戦を聞きながら気合いで帰る。

 帰宅したのが、22時頃。歯磨きして速攻寝ようと思ったのだが、帰りの車の中で「事故ったらシャレにならん」と栄養ドリンクを飲んだし、3時過ぎに飲んだアイスコーヒーも効いてたのかな?前夜、ネットで遊んでて3時間ぐらいしか寝てなかったのだが、速攻には寝れず、かつ、寝返りで上下逆転した娘に蹴られて2度起きる。一度目が丁度寝付けた辺りだったので、「また、寝られへんやんけ!」と(笑)

 今度はアンパンマンミュージアムに行こうかな?それとも、海にしようかな?まあ、まだ泳げない娘には炎天下屋外の海よりも、アンパンマンミュージアムの方がエエかな?


 今朝は起きたら、筋がガチガチ。「お盆の疲れが。。。」なんぞと言いつつ、明日初めてする法要の為の準備なんぞを。暗記文は憶えたのだが、流れと所作が。不安なので、さっきまで『あんちょこ』を作ってました。作れば頭に入るし、一枚の紙に収めたのでカンニングペーパーにもなる。

 空いてる時間にツイッター。

【20km圏内で保護活動されていた方が急性白血病で亡くなったというデマ】
http://togetter.com/li/175599

 というのが目につく。
 関連して見ていたら

【memo: 玄海原発と白血病、菊池誠さん解説】
http://togetter.com/li/158629

 というのがあった。
 そういえば、ネットで「玄海原発周辺では白血病が全国平均より遥かに多い」という情報も見た事があって、え~。。。ちなみに、私、ヒマなので、寝転びながらiPhoneでかなりの『原発事故オタク』『放射能オタク』になってます(笑)
 あ、その情報を見た事があって「一度、調べよ」と思っていたので丁度良かった。

 元になったのは、どうやら唐津市議の共産党浦田関夫氏のこの情報らしい。

 http://blog.goo.ne.jp/kmjcp/e/93b088957884693635f5faf568a9d0ed

 それを受けての運動家らしき人の情報

 http://www.windfarm.co.jp/blog/blog_kaze/post-4139

 え~。。。それに対する批判は

 http://neu101.seesaa.net/article/213283827.html

 このサイトで殆ど言い終わっている様な気もするのだが。。。

 何にしても玄海町での白血病での死亡者が全国平均より遥かに多い事だけは確かである。が、それは玄海町だけでなく、九州の他の地域でも多い所は多いらしい。なので、玄海町での白血病での死亡率の高さが原発が要因である事を証明するのは不可能である。それでもなおかつ「玄海町で白血病による死亡者が多いのは玄海原発のせいである」と言いたければ言っても構わないのだろうが、信頼性を失うだけの話である。それよりも大事な事は、九州の『風土病』なのかも知れないが、九州の白血病の多さに対する対策だろう。当事者にとっては「ああ、良かった。。。放射能の影響ではなかったんですね」には、多分、ならんと思うぞ。病気なんだし。

 当り前な事なんだが、『放射能』以外にも『原発』で病気になる可能性もあるかも知れない。不安だったりも含めて。

【放射性物質:心配が過度のストレスに 福島で精神科受診増】
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110819k0000m040115000c.html

 という情報もある。
 別に『原発』&『原発事故』の危険性は放射能だけではない。『放射能だけ』にしてしまうから無理が生まれる。人間はナマモノなので、そんなに単純ではない。『放射能だけ』で病気になるわけではない。この辺が、私が『反原発カルト』と呼んでいる人達と違いなんだろうが。
 そして、不確かな情報を元に、今日ならば「玄海原発周辺では全国平均よりも遥かに高い白血病での死亡者がいる」という情報を元にして、不安を煽り立てるべきではないと思う。それは原発の二次災害ではないのか?

 何やら、一部の脱原発論者に評判の悪い飯田哲也氏が、変わらず「原発がなくとも電力が足りている」みたいな本を出すらしいが、え~。。。不確かな情報ですね、はい(笑)

【原発がなくても電力は足りる!】 
http://tkj.jp/book?cd=01855901

 目次を見る限り、以前からの飯田哲也氏と変わらない=多くの反原発運動家の論と変わらない気がするのだが。
 以前も書いたかな?朝まで生テレビの中で、飯田哲也氏の論拠は崩されていたのでは?『推進派』らしきオバちゃんが「埋蔵電力って、どこにあるんですか?私は向うに電話して確認しましたよ。」なんぞとやっていた様な記憶があるのだが。新しい本での情報は知らないが、飯田哲也氏達も『埋蔵電力』をいうのならば、直接『電力』を集めて来ないと。「私はこれだけの電力を集めました。確認して下さい。向うの了解も得ています」なんぞとやらないと。しっかりとした経済の話が出来る論客なんだから。非常に残念ながら、感情で埋蔵電力は集まらないし(笑)

 私も、こう見えても脱原発バリバリなんだが(笑)え~。。。脱原発は、ひとつの意見でしかない。『正義』という事を頭から消したら、ひとつの意見でしかない。
 原発をこのまま推進するのも、緩やかに廃止して行くのも、即時廃止を求めるのも、あくまでも『ひとつの意見』でしかない。
 『ひとつの意見』であるにも関わらず「あいつは推進派だ!」「あいつは反対派だ!」「あいつは御用学者だ!」「あいつはアカだ!」は、違うやろ。互いの立場で熱狂し、意見に固執してしまうが故に、なんか大切な『他者』という存在を忘れてないか?自分が、色眼鏡でしか物事を判断出来ない人間である事を忘れて、正義の座に座って、そこから裁いている事に対して疑いを持つ、「それでいいのか?」という声を忘れていないか?
 「あいつは敵だから仕方がないのだ。」で、本当にいいのか?

 私は仏教徒なので、え~。。。すいません、平和ボケしています。でも、「弾圧されても、弾圧する側の論理に立つな」とは教えられたので。
 ちなみに私は暴力大魔王です。弾圧&追い込みを専門職としています。今でもやっています。得意ジャンルですし。そういう時に自己肯定の為に当然、「相手が悪い」にします。当り前です。それでないと追い込めませんし。あ、『追い込む』という言葉は私用語だな、『喧嘩』ですね。『追い込み』は私の喧嘩の方法ですし。でも、そんな時に、胸が痛みます。御本尊の顔を真正面に見れない私がいます。恩師の言葉、いや、それ以前に『怒られそうな恩師』を避けようとします。怒られるのが解っているから。
 でも、私は仏教徒を辞めようとは思いません。辞めたら、そういう『痛み』も消えてしまうので。また、「そのままのお前で構わんから、こっちに来い!こっちに向かって来い!」という声も聞きましたし、辞める事はありません。変わらず、罪悪深重煩悩具足のまま、生活しています。

 え~。。。まとまりなく、酔うたので寝ます。

『脱』

2011年08月18日 | 坊主の家計簿
 お盆も終わって夏休み♪けど、今日は法事!パパは働く。パパだって、いつもゴロゴロしているわけではないのだ。働く時は働いて居るのだ!

 あ、え~。。。
 15日にお盆の最終お参りが終わる。帰宅して速攻で「パパは遊んで来る!」宣言をして外出。
 とりあえず8月15日なので釜ヶ崎へ。夏祭り。ヘンリー松山ライヴもとっくに終わっていたのだが、慰霊祭がある。

 釜ヶ崎夏祭りの慰霊祭は『儀式』として面白い。あ、『面白い』と言ったら失礼かな?
 日本有数の聖書学者が司会。司会の本田神父が『祈りの言葉』を読む。え~。。。聖書のどこの部分なんだろうか?きっと本田神父が訳した聖書の一節を本田神父が読み、確かトゥーヌマーヌ楽団のボーカルの人がギターで弾き語り、真宗と浄土宗の坊さんの読経。最後に「みんなで歌いましょう」と、歌。ヘロヘロの私は酒を大量注入しつつ見てただけなんだが。釜ヶ崎に関係している人達の手作りの『慰霊祭』。その中にたまたま日本有数の聖書学者と、坊主もいただけの話。

 当然、っちゅうたら当然なんだろうけど、私が以前に働いて居た共同作業所のパン屋のチーフの写真もあった。一気に飲んだ酒に酔いつつ、遺影を眺める。

 公園は暑いのでとっとと退散して、近所の立ち飲み屋へ。その店の麻婆豆腐が食べたくて仕方がなかったので。麻婆豆腐を食べて2杯だけ飲んで「ミナミ、ミナミ」と、深夜まで泥酔。もう、最後、ワケ解らん状態やったな。まあ、いつもの事か(笑)

 昨日は無事に二日酔いで一日が終わり、今日の法事が終わって真っ昼間のクソ暑い中をパソコンに向かって軽い事務仕事だの、雑用をしていたのだが、「やってられるか!」と。まあ、やるのだが。
 娘が果物が入っていた手提げの箱を渡したら、気に入ったのか一日中持ち歩いていた。ママのリックも気に入ったのか、ママ・リックも一日中背負いなから。あ、「引きづりながら」と言った方が正しいのかも知れん。

 
【山本太郎「子どもたちの未来を守って」 "声を政府に届ける"集会に出席】 
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/ncn-20110817-nw101477/1.htm

 子どもが出来る前から『親』になってもなんだが、どうも子どもの使うヤツは信用ならん。だいたい、怪しい所程、広告なんぞの写真に子どもを使っていないか?特に宗教系なんぞ。
 そうか、うちのfacebookページも子どもの写真をバンバン使えばエエのか。っちゅうか、facebookのプロフィール写真は『娘を抱っこした私の写真』なんだが、あれは純粋に「俺の顔入り写真がない。。。」っちゅうやつであってでんな。他意はない。決して「ほら、私は娘を抱っこしている写真を使う様な親バカなんですよ!」というワケでもない。深夜&朝帰りだって平気でするし。頻繁に出来ないのは金銭的問題だ。

 あ、まあエエ。

 子どもの意見というのは潰し難い。それは「子どもが正直」だからではない。
 つーか、「子どもは正直」というが、厳密にはアホなだけなのだ。だって、明らかに情報量が少ない。『情報量』というとややこしいが、知っている事が少ない。同じ『子ども』だって、一年経てば知っている事も増える。正直というのは年齢とは無関係だと思うが。まあ、何才ぐらいから「嘘をつく」という高等テクニックを憶えるのかは知らないが、まあ、比較的早くからではないのか?
 また、「子どもは純粋だ!」というが、確かに人間存在そのもののエゴ丸出し状態ではあるが、そういう意味での『純粋』でなくとも、同じ人間であっても子どもの時の方が知っている事が少なく、かつ、頭が柔らかいので吸収が早い。要するに「子どもは洗脳し易い」と言い換えた方がエエかも知れん。私だって、ガキの頃に『大人』と議論している時に、相手が喋っている間に、喋っている内容の事を吸収して、相手の論理で相手を論破しようとしていたのだし(笑)まあ、吸収は早い。が、知っている事は少ない。

 例えば、今回の原発事故で原発の危険性について「始めて知った」というガキも多いだろう。当然、吸収は早い。要するに脱原発論者の意見をどんどんと吸収していく。しかしながら、ガキだって人間なので、感情があり、判断力もある。故に、ガキなりに頑なである。んなもんは大人と一切変わらん。人間なんだし。

 だいたい、少年兵が怖いのは、何もポルポトだけの話ではないと思うのだが。『純粋』な分だけ洗脳されやすい。また、血が熱い分だけ熱中しやすい。
 自我が弱い分だけ、自分が壊れる事も怖れる。まあ、これは大人も同じか。

 なので、まあ、子どもを潰すのは簡単なんだが、やはり『親』として気が引ける部分もある。あ、『大人』として、か。
 私は比較的『冷血人間』なので、その辺は妥協したくないのだが、まあ、『子ども』の頃にそれがイヤだった事もあってなんだが。「かかって来んかい!」は、子どもの頃から変わってません(笑)
 でも、まあ、『政府側の人間』としては困るだろう。言い返したりすると「子ども相手に」になるのだし。一番やり難い相手だな、だから卑怯。

 ちなみに私は今回の原発事故で原発に関する今まで知らなかった事を多く知った。それは原発の危険性や、原発ジプシーの問題や、チェルノブイリの問題ではなく、脱原発の危険性。え~。。。今まで知らなかったし。まあ、脱原発の意見は変わらないが。なんせ『頭の固い中年』ですから(笑)

 脱原発も多くの人を殺す。単なる『人命』という部分では脱原発よりも少ないかも知れない。

 ついでだが、何やら関西電力の火力発電所の故障で、関西電力の電力が危ないらしい。前からの話なんだが、「電力危機は原発推進キャンペーンだ!」って、お前等、大人の怖さを知らんのか?金の為に人を殺すのが大人やぞ。まあ、ガキでも殺しよるが。仕事の冷酷さを知らんのか?金儲けの為に人をも殺す(原発ジプシーでも、使い捨ての労働者でも)大人が、節電の損失を「原発推進キャンペーン」というだけで引き受けると思っているのか?
 「原発のコストは高い」って、過去の計算も含めればの話なのかも知れんが、現状からではどうなのだ?また、何故にそんな高いコストの電力を使う損失の被害を受けなければならないのだ?
 まあ、全て、陰謀論で片付けとけ(笑)

 脱原発も人を殺す。と、臓器移植に反対の仏教徒の私は思う。

 だいたい『人間』という尺度を離れると、生き物を殺してでしか生きれないのが人間である。
 『地球に優しい』なんぞという言葉があるが、『地球に優しい』のならば、人類は消え去るべきなのだ。大量殺戮しまくっているではないか。原発も危険だが、バルサンでどれだけ殺しとるねん。除菌スプレーってなんやねん。何を寝言ヌカしとるねん。何を平和ボケをヌカしとるねん。「人類だけが平和であったら良いの」「害虫は殺して良いの」って、何事やねん。

 あ、脱原発も人を殺す。決して脱原発がユートピアではない。何やらそういう『ユートピア幻想』の脱原発の人達も居ているらしいが、「脱原発も人を殺す」という覚悟がないと、集団ヒステリー状態が終わったら脱原発をとっとと辞めるやろ。「騙されていた!」って、また言うのやろ。

 臓器移植は「助かる人命を見捨てる」。当然、エスカレートして貧しい国から臓器を買い占める問題性もあるのだろうが、それ以前に人生観(宗教)の問題ではないのか?「脳死は人の死かどうか」という。
 けど、私だって、まあ、間違いなくうちの娘が「臓器移植すれば助かる」の状態になったのならば、臓器移植をしたくなるだろう。駅前で募金を集めたりしたくなるだろう。誰かの臓器を欲しくなるだろう。そういう意味合いでは、臓器移植に反対なのは「うちの娘を殺す気か!」になるだろう。

 脱原発はイコール『増火力』である。現状では。
 私は『公害』に弱い。喉も弱いし、肺も弱い。タバコを吸っているのは中毒だからであり、ストレスの問題からである。基本は弱い。
 なので、放射能汚染以外の公害で死んで行く、脱原発によって死んで行く人達の存在も無視出来ない。

 子どもは当然ながら、同じ人間として比較するならば、年齢を重ねる事によって、様々な情報を得る事が出来るのならば、様々な視点からの判断が出来る様になる。まあ、それを『大人』と呼ぶのだろうが。
 なので、反原発カルトにハマって『御用学者』とレッテルを貼り、『敵』の意見を聞かなくなるのでなく、様々な意見に耳を傾けるべきだ。
 様々な固定概念からの『脱』を目指すべきだ。
 同時に『殺す』行為をしている自分自身の生活にも目を向けるべきだ。その上で、『思想』として、あるいは『宗教』としての脱原発。
 人間の知恵には限界がある事を知らしめたのが原発事故ではなかったのか?
 知恵急ぎで、どれだけ多くの人にストレスを与え、直接的には自殺、あるいはストレスから来る健康被害(酒、タバコ、生活習慣病も含む)で死んで行っているのか?
 ただ、死ぬのはいつも独り。放射能被曝だろうが、脱原発公害だろうが、知恵急ぎのストレスだろうが、臓器移植出来なくて死んで行く人だろうが。

 あ、明日、朝早いねんやった。

ホームレス

2011年08月13日 | 坊主の家計簿
 昨日は先輩と呑み。午後に電話があって、何やら「ダンボール・カフェのダンボール・バー」がどうてらこうてら。場所を聞いて「ダンボール屋の中にある」とかなんとか。思わず電話で「何をまたワケの解らん事をいうてるんですか?」と。
 娘の熱が下がらず、咳も酷かったので、話半分に「行けたら行きますわ」と。
 その時の私のダンボール・カフェ&ダンボール・バーのイメージは、

 1 ダンボールを集める所で、ダンボールを集めて来たオッチャン達が缶コーヒーを飲んで(ダンボール・カフェ)、夜になると缶ビールやワンカップを飲んでいる(ダンボール・バー)。
 
 2 道端でダンボールの机の上に酒とか置いて宴会している

 というイメージ。

 娘の愚図りが酷くなり、「ママ!」ばっかりであり、パパは不要になったし、先輩と話したい事もあったので、出かける事に決定。
 「ひょっとしてダンボール・カフェは街の噂になって、誰かがネットに書いて居るのかも知れん」
 と、冗談半ばで検索する。

 http://www.yanosiki.com/cafe/

 オシャレな店でした。値段は道端でダンボールを机にして呑んでいるよりも『少し高い』程度だったが(笑)

 
 今日は、叔父さん(以下オッチャン)の通夜。

 お坊さんあるある。

 1 参列するだけなのにも関わらず「30分前には会場入りしておかなければ。。。」と強迫観念。

 2 葬儀会館で全ての職員から導師と間違われる。

 3 焼香がクドい。

 という事で。
 『親族席』とかいうコーナーに座っていたのだが、係員から案内されて焼香へ向かう時、「御導師様、御入場!」並の間と、歩き方に自然になってしまう。手も腰の部分で軽く握って(笑)職業病、職業病。

 田舎から(能登半島&金沢)からバスで来た親戚。え~。。。30数年振りなので、見事に解らん。解ったのは、金沢郊外でうどん屋(ソバ屋か)をやっているオバちゃんと、子どもの頃にオカンの実家に帰ると遊んでくれてたお姉ちゃんだけ。
 ちなみにうどん屋(ソバ屋)は、ソバで金沢でも結構有名らしい。食べログのコメントが10件もあった。息子(いとこ)はブログもツイッターもやっているみたいだ。さっき帰って来て調べたらあった。え~。。。さりげなくフォローしとこ(笑)金沢周辺の人は坊さんルックのまま食べに行って下さい。特に何の特典もないと思いますが(笑)

 http://r.tabelog.com/ishikawa/A1701/A170101/17000853/

 座敷もあるみたいですし、駐車場は(大型バス可)と書いてあるので、法事の後などにも是非是非。

 しかし、弄られまくる。つーか、子どもの時、多分10才ぐらいまでの『小さい私』しか知らないのが、いきなり坊さんルックをして葬儀にやって来るのだから当然か。
 とは、いえ、オッチャン、オバちゃん達は別にして、いとこも小さかったので、ほぼ、私の事を憶えていない。え~。。。私も現在ソバ職人のいとこと遊んだ事は遊んだのだろうが、何をして遊んだとか、そういう記憶は一切ない。まあ、向うは私より2才下らしく、まあ、尚更か。なんせ、年に一度、それも数回あった程度だし、お盆の時に多くの親戚が集まる中だったし。
 ただ、私は大阪からであり、大阪から行くとオカンは数日滞在してたので、オカンの実家のいとこのお姉ちゃんだけはよく憶えている。よく遊んでもらったし。

 オカンの実家の前は国道を挟んで海。誰か忘れたけど、漁船に乗せて貰って釣をした記憶もあるし、お姉ちゃんと一緒に前の海で釣をした。『どんこ』とかいうのがよく釣れて、それをオバちゃんが味噌汁にして呉れたりした。今日、聞いたら1才だけ上だったらしい。もっと上かと思っていたのだが。
 朝、波音が聞こえる部屋で遅くまで寝ているとお姉ちゃんが布団の所で待っててくれて、それからずっと遊んでた。お風呂も一緒に入って、朝起きてから寝るまでずっと遊んでた。
 オカンのお盆休みが終わって、帰りには、裏山の線路がある所で手を振ってくれてた。泣いて送ってくれてた。私もお姉ちゃんの名前を呼びながら泣いてたのだろう。ガキの頃は泣き虫だったし。今でも子どもの頃のお姉ちゃんの顔は憶えている。え~。。。今日、30数年振りにあったら、「あれ?みやこ姉ちゃん?」と、京都で彌光庵をやっている、元、私の実家にもお参りに来ていた先輩僧侶に似ていて思わず笑ってしまったのだが。
 子どもの頃の宝箱みたいな想い出。

 通夜では思いっきり知っている先輩僧侶が導師だった。何やら仏壇を買った時に近くのお寺を電話帳で探して御世話になったらしい。
 通夜式が終わって、え~。。。親族は即動けないので、動けるようになって、葬儀社の方に「導師は?」と聞く。丁度帰られる所だったので、軽く挨拶をする。「明日、横につくか?」と言って頂いたのだが、葬儀の時間、還骨法要の時間はちょうど世話になっている先輩から法要を頼まれていて、自分の所だったら調整出来るのだが、調整出来ない法要だし、「すいません」と。満中陰はなるだけ行くようにしよ。

 通夜後の飲み食いに少しだけ参加して、回復しつつあるのだが、「娘、娘」と帰宅。食欲も少し戻って来たし。ママにうどんを作って貰って食べてたら、膝の上に来て「食べる」と。寝る前には少し愚図ったが、熱も下がりつつあるし、まあ、回復しつつあるし、一安心。


 何やら、今日から帰省ラッシュらしい。被災地に帰られる方々も居ているらしい。

 夜遅くに、NHKで

【福島第一原発 作業員に何が?】
http://www.nhk.or.jp/tsuiseki/file/next.html#0812

 という番組を観る。

 ちなみに今日は、釜ヶ崎夏祭りの前夜祭。
 三角公園で

【隠された被爆労働】
http://www.youtube.com/watch?v=92fP58sMYus

 の屋外上映。通夜なので当然行けなかったのだが。

 NHKの『福島第一原発 作業員に何が?』を観た人が勘違いするといけないから書くが、別にヤクザが絡んでいるのは原発労働だけではない。はずである。確か。釜ヶ崎はヤクザが多く、半ば公然みたいな賭場もあるし、ヤクザの炊き出し(?)もあるらしい。一説によると「ヤクザの炊き出し(弁当)が一番エエ」という声も聞いた事がある。まあ、どこまでホンマかどうかまでは知らないが。
 仕事の斡旋もヤクザのシノギの1つなんだろうし、別に原発労働だけではない。ただ、「一人あたり一ヶ月で150万のシノギ」って言ってはったから、ヤクザにとっては『美味しい』シノギでもあるのだろう。

 釜ヶ崎の夏祭り。最初に行ったのは18か19の時。ホームレス襲撃事件の芝居をするのに行った。まあ、芝居が始まるまで近くの店で呑んでたら、芝居が終わっていたのだが(笑)
 
 確か、釜ヶ崎の夏祭りって、「お盆休みに故郷に帰れない人の為」みたいなのも開催する理由の1つだったはず。

 原発事故で避難地域になっている方々の帰省はどうなっているのだろうか?


【五山送り火:陸前高田のまきからセシウム検出 使用中止】
http://mainichi.jp/select/science/news/20110812k0000e040090000c.html

 これには端的に

【京都市によると、松から切り出したまき(長さ約30センチ)の表皮から放射性セシウムが1キロ当たり1130ベクレル検出された。表皮を除いた幹の部分からは検出されなかった。】

 と書いてある。本気でやるつもりならば、約500本の表皮を削ぐ時間はある。
 また、放射性物質は京都には全く来ていないのか?大阪には届いているらしいが。陸前高田市からのマキは測定したらしいが、では、他のマキはどうなのだ?今回と同じ条件で『表皮がついた状態』で測定したら、どういう結果になるのだ?
 まあ、多分、内部で諸々の公表出来ない複雑な事情があっての上での再度の中止決定なんだろう。基本的に、地元の人達の為の宗教行事なんだし。観光以前に。
 中止になった経緯は別にして、京都五山の送り火は『送り火』として、地元の人達の宗教行事として行うべきだと思う。その中で、「今回は陸前高田市から送られて来たマキは使わない」という判断を下したのならば、まず大前提として尊重されなければならない。批判はその後だ。宗教行事はそれぐらい繊細なものだと思うし。周囲に他所から理解されなくとも。

 いとこのお姉ちゃんとの宝物の様な想い出を思い出した、オッチャンの通夜。
 真宗には『迎え火』『送り火』という宗教行事はないけど、五山の送り火は宗教行事。きっと、色々な宝物のような想い出で『迎え火』『送り火』をやるのだろう。
 通夜で、え~。。。何番目の兄弟なのか忘れたが、オカンの兄弟が、「なんで。。。」と絶句しながら泣いてた。ソバ職人のいとこも、ブログで初めて知ったのだが、料理の道を歩む決断を下してくれた恩人でもあるらしく、泣いてはった。そんなのが『迎え火』『送り火』。そんな繊細なのが、『迎え火』『送り火』。

 お盆に帰省しての墓参りも同じ。あるいは、実家の仏壇に手を合わせるのも同じ。

 福島原発の事故は、「帰れる家はあるのに帰れない」という状態。

ひとり

2011年08月11日 | 坊主の家計簿
 大阪は昨日から暑く、ようやく最高気温が35℃になったのかな?今日もそれぐらいか。ここ数年、大阪の夏は『最高気温35℃以上が当り前』だったので、イマイチ拍子抜けしていたのだが、ようやく夏本番である。けど、お参り先のオバちゃんと愚痴ってたのだが、「そろそろ夏の疲れが溜って来た頃に、この暑さは堪えるわ」と。

 娘の発熱治まらず。というか、帰宅して寝ている娘を触ったら熱い、熱い。起き出した娘を抱っこしたら、「こら、アカン。40℃ぐらいはあるで」と体温測定。惜しい、39.9℃だった。ピッタシなら『ピッタリ賞』として夜に飲みに行ける副賞も考えていたのだが、え~。。。外れたし、はあはあ息している娘を見ているとそういう気分にもなれんかったのだが。

 晩御飯を食べてボンヤリとテレビを見ているとオカンより電話。何やら声のトーンが違う。弟、私にとっては叔父さんが死んだらしい。
 うちのオカンは能登半島産の10人兄弟。え~。。。典型的な「産めよ増やせよ」の世代。10人兄弟のうちオカンと今晩死んだ叔父さんだけが大阪へ。確か、もう一人、オカンの末妹が大阪にも出て来てた話を聞いた記憶があるのだが、まあ、子どもだった私が憶えているのは叔父さんだけ。
 板前志望だったはずで、敦賀に修行に行ったりしてたはずなんだが、子どもが知的障害でお金がかかるからなんだろうか?しかも1人じゃないし、便利屋をやったり、なんか色々な事をやってたはず。一軒家を若い頃に買ったから経済的には困ってなかったと思うが、その分、よく働いていたのだろう。

 子どもの頃によく遊びに行って、いまだに叔父さん(面倒なのでオッチャン)オッチャンの家の近くで食べたラーメンの味が無茶苦茶美味しかった事も憶えている。オッチャンは板前経験があったので料理が上手かったはずで、お寿司とか色々作ってくれた記憶もあるのだが、なんせいまだにラーメン大好き人間の私はお寿司とかよりも近所のラーメンが大好きでよく連れて行って貰った。挙げ句にはオカンが「その店に弟子入りしてラーメン屋を始める」なんぞと言い出す程、そこのラーメンが大好きだった。

 そういえば、私の幼少期の記憶の中に占めるオッチャンの比重は大きい。子どもの頃の最初辺りの記憶で夕方の万博公園の周辺をオッチャンの車で走っている記憶があるし。うちには車がなかったけど、オッチャンは仕事で使っていたのかな?ワゴン車を持ってて、ワゴン車の後ろの座席は外して、私が寝たりしていたのだろう。小さかったはずだし。
 当時、うちにはまだ無かったステレオを始めて見たのもオッチャンの家だったし、『サイドボード』やったっけ?なんか、そんなのに洋酒が入っていたりした。「本で家が潰れる!」と、お婆ちゃん&オカンが愚痴っていたうちのお爺ちゃん&オヤジとは違ったキャラの大人としての認識で、ステレオでオッチャンのレコードを聞いたりしてた記憶もある。

 しかし、まあ、中学生ぐらいからかな?思春期を迎えた私はオッチャンの家にも遊びに行かなくなって、すっかりご無沙汰。私の結婚式の時に、ものすご~~~く、久しぶりにあった。両手で握手したオッチャンの手が分厚く、ごつく、肉体労働者の手だった事が印象深い。死んだのも会社の車の中らしく、70代半ばぐらいなのかな?いまだに現役でバリバリ働いていたみたいである。

 電話でのオカンは少し取り乱し気味。「大変や、大変や」と連呼する。そら、まあ、大変なんだろうが、でも、葬儀で一番大変なのは金の問題だと思ったりするのだが。え~。。。すいません、私、貧乏育ちの現役貧乏人ですし。なので、「大変なのは、金の問題だけ」とアドバイス。&、クソ暑い中での葬儀になるので、普段以上の体力勝負である。ボケて水分取れへんかったら大変な事になる。

 オッチャンの子どもは知的障害なので、こういう時には頼りにならない。まあ、『居ている』『子ども』『笑顔』等で精神的には頼りになり、それは葬儀の現場では非常にデカイのだが、葬儀を執行する部分においては頼りにならない。
 じゃじゃ~ん!オカンの出番である。かつ、オカンの息子は同じ宗派の住職だったりする。
 え~。。。こういう時に、オバちゃんにとって頼りになると同時に一番うっとうしい存在がオカンである事も知っている。オカンのキャラからして、出しゃばるだろうし、「うちの息子が」なんぞという事、必須。多くの枕経(故人が亡くなって最初の仏事)の時にそういう現場は多くみた。「仕切らせたれよ」である。兄弟とはいえ、一緒には住んでいない。喪主でもない。にも関わらず、必ず出しゃばって来る人が居ている。まあ、それはそれでその人にとって大切なグリーフケアなんだが、困るのは喪主である。うちのオカンもそういう面では『長老』でもある。やはり長老の意見は聞かざるを得ない。また「うちの息子が住職で」なら尚更である。なので、思いっきり釘を刺す(笑)『頼りになる』とは、頼られた時の話でエエわけであって、それでなければ単なる『おせっかい』である。混乱を招くだけの話である。余計な心労を増やすだけの話である。冗談抜きで、中陰参りで、そういう心労の話を聞く事も多い。まあ、それも含めての『葬儀の想い出』だったりするのかも知れんが、心労でノイローゼ気味になった人も居ているし。

 今日もお盆についてお参り先のオバちゃんと雑談していたのだが、「お盆にはこういう物を御供えしましょう」とスーパーとかで売っているらしい。で、それを供える事がお盆の御供えだったりする事になったりする。んなもん、誰が決めてんや(笑)
 「世間ではこうしている」は、自分が知っている世間でしかない。「うちの村ではこうしている」なら、「ああ、村の風習なのか?」なんだろうが、都市部において「世間ではこうしている」は、自分が知っている世間でしかない。

 私は私の仏前結婚式を自分でプロデュースしたのだが、その時に諸々調べて「三三九度は要らん」とか、まあ、いわゆる『世間』では通じない事をやったのだが、その分、かなり調べまくったし。理論武装はバッチシである。ある恩師が「言葉は悪いですが、敵を知らない事にはどうしようもありません」なんぞと、いわゆる『習俗』に関して言ってはったが、その通りである。『敵』よりも『敵のルール』を知らないと『敵』を納得させる事は出来ない。

 え~。。。何の話や(笑)そのまま原発問題にもって行きたくなるのだが、まあ、エエ。
 ただ、『初めに尊敬あり』という関係でないと、原発問題だろうが、靖国問題だろうが、解決するわけがない。「御用学者」と言っている段階で解決しようとは一切思っていない、あくまでも自分のエゴを押し付けようとするにしか過ぎない事が丸解りである。そんなもんで作り上げられる『脱原発』なんか真っ平御免である。脱原発が出来ただけの話である。人権問題としての視点からならばどうなのか?人命等の『生命』の論理からだけではないく、無量寿としての、え~。。。ややこしい仏教用語を抜きにすると、「それぞれが、それぞれの比べようも無く、掛け替えのない人生を生きている事を互いに認識しあって行く事が出来る世の中」、え~。。。『人生』だけでなく『虫の一生』等も入れたいのだが、そういう世の中を作って行こうとする運動の中で、『御用学者』はアカンやろ。
 オッチャンは、うちから渋滞がなければ車で30分かからない所に住んでいる。あ、「いた」になるのか。同じ宗派なんだが、近くの寺に墓地も買ったらしく、仏壇を買った時にもその寺の世話になったらしい。どこの寺かは知らない。どんな住職なのかは知らない。知らないが、同じ宗派の住職である。当然、無条件で信頼する。
 それこそ一部の寺社会で悪く言われるような『葬式寺』の実体も私は体験してよく知っている。つーか、私もその中に入るのだろう。入り切れていないから貧乏なんだが。でも、依頼されてお手伝いによく行く。まあ、葬式寺の、葬式坊主見習いみたいなもんだ。
 そういう私からすると、多く、そういう現場で教えて頂き、世話になったり、あるいは話を聞いたりする『寺』『僧侶』を「しっかりしてはんなぁ~」と純粋に思うし、また、「やる気がない」と公言する僧侶だって、その実、それだけでは無い事を知っている。うちのママ(前代務住職。現坊守)だって、私に隠れて仏教書を読んでいるみたいだし(笑)この前、娘が引っぱりだして来たし。「テメー、仏教に関心ないって言ってたやんけ!」なんだが、そんなわけでもないみたいである。まあ、「エッヘン!」私からすると不十分なんだが、これまた自慢だが、私も最近、全然本を読んでないし、学習も「もっとせんかい!」である。
 なので、うちの教団で「ダメな僧侶」とか書かれていると「え?俺の事か?」と敏感に反応したりするし、同時に煩悩が「あいつ等の事か」などとも言う。
 「やる気」も含めて『能力』である。そんな能力で人を判断すべきではないと、教えて頂いたし、だから生きていられる。『僧侶』という仕事も続けていられる。
 「自分(たち)は特別だ!」は、煩悩でしかない。
 「俺は、あいつらと違う」は差別でしかない。それは『やる気(菩提心)』を否定した教えと比較してどうなのだ?

【「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいしに、当時は後世者ぶりしてよからんものばかり念仏もうすべきように、あるいは道場にはりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば、道場へいるべからず、なんどということ、ひとえに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。】(歎異抄より)

 の中に『御用学者』『推進派』も入れて考えるべきではないのか?

 オッチャンの通夜は明日になるのかな?夜が遅かったから明後日になるのかな?車の中で死んだという事は検死があるはずだし。あ、オカンに検死の事を言い忘れたな。
 個人的には明日の通夜で明後日葬儀が有り難い。明後日なら葬儀には無理でもその後は参加出来るし。明々後日の葬儀なら完璧に無理。

 私にとっては『優しいオッチャン』だったけど、子どもを育てる為にずっと働いていたオッチャン。
 マー坊やったけな?マナブ君やったけな?最後に名前を呼んで貰ったのはどっちやったっけ?

 圧倒的に多くの方々と同じく訃報が新聞に載らない『無名の人』。でも、私には掛け替えのないオッチャン。
 労働者の分厚い手。私の労働は手が分厚くならない。でも、『子育て』も含めた、生活者の手。生きて行く大変さを教えてくれる分厚い手だった。

『大文字焼き』騒動

2011年08月10日 | 坊主の家計簿
 今朝の夢は大津波。新しく行き出す学校の入学式(ホンマは別名)の翌朝の夢としては解り易い。何やら夢判断では『環境の変化』らしい。けど、これも「予知夢だ!」なんぞと言い出す人も居てるのだが(笑)
 
 昨夜は入学式が終わって親睦会。当然(?)呑む。同じ教団の、かつ、『教師資格』という、え~。。。厳密には違うのだが『住職になれる資格みたいなもん』を持っている人達しか入れない、年齢制限も一応おまっせ!なので、ある意味、気楽。指導して下さる方々も知っている先輩が多いし。新たに『仏弟子』として『学生』としての再教育、訓練、仏弟子として生きて行く訓練を求めて入ったので、気持ちは引き締まるのだが、共通の話題なんぞも多々あり、始めて会った人ともガヤガヤと。
 
 昨日、誕生日だった娘は、「ハッピーバースディ」が「発熱バースディ」に。パパも昼間に劇ハードに動き回っていたので、とっとと帰る。
 少し(?)酒が入っていたので、帰宅して娘とママが寝た後にリビングで寝てしまう。起きてシャワー浴びて、布団でiPhone。

 今夜のニュースでもやっていたが、

【五山送り火:被災地の松「まき」計画中止…放射能を懸念】
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110808k0000e040058000c.html

 先に関西人の一人の意見として言っておくが、多くの関西人は東北の地理が苦手だと思う。なので、福島原発と陸前高田町が約250キロも離れているなんて知らなかった人がクレームをつけたのだと思う。福島原発から東京までも約250キロ。京都からなら静岡県の掛川駅までも約250キロ。『道路』での計算なので、直線距離までは知らんが、目安として。京都から浜岡原発までが約270キロ。え。。。ようするに、浜岡原発事故があった場合に「京都のマキは危険だ!」と言っているのと、変わらん。すいません、ホンマ、東北地方の地理って苦手なんですわ。
 なので放射性物質を計る以前の問題だったりすると思ったりするのだが。。。

 ちなみに、京都人は『五山の送り火』の事を『大文字焼き』と呼ばれる事を酷くイヤがる。
 恐らくネット上では「京都観光に行くのを辞めよう!」とか「京都産の食品に対する不買運動をしよう!」なんぞの意見もあると思うが、え~。。。ここは『大文字焼き』と呼ぶ事でなんとか(笑)

 京都の人が『五山の送り火』を『大文字焼き』と呼ばれる事をイヤがるのは単純な話である。主に民間信仰なんだろうが、一応、あれは一部の京都人にとっては宗教行事なのだ。迎え火があって→送り火である。かつ、いわゆる『大文字焼き』だけではないし。でも、まあ、やはり宗教行事である。他所から来たら観光なんだろうが。
 なので、「『大文字焼き』で被災地のマキって、どうよ?」とも思ったりする。企画は、『企画』として素晴らしい企画だと思ったりするが、やっぱり、『大文字焼き』は京都ある特定の宗教の人達が『迎え火』をして『送り火』をする地味な宗教行事だと思ったりする。『送り火(大文字焼き)』が目立って有名だから、今回みたいな企画になったのだろうが、そもそもの企画意図にも反対する意見があったのでは?と思ったりもする。放射性物質以前に。

 ちなみに

【仙台七夕に祇園囃子響く 長刀鉾、綾傘鉾が初参加】
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20110806000116

 というのもある。

 中止の決定を下したのは『大文字保存会』という所。しかしながら、基本、京都の民間信仰。確かに一部の放射能厨からのクレームもあったのだろう。でも、同じ京都の祇園祭は仙台の七夕祭りに参加したりしている。だから、今回の事が京都全体に対する風評被害になる必要はない。

 しかし、この騒動を、「福島の野菜は産業廃棄物だ!」とか、「福島の食品を学校給食で出すなんて信じられない!」等と言っていた人達の意見を聞いてみたいものなのだが。。。

真宗門徒としての吉本隆明

2011年08月08日 | 坊主の家計簿
 昨日、今日と仕事でバタバタ。
 昨夜は出かける予定だったのだが、出かける準備をしていると娘が「パパ!」と。なので、断念。今日も仕事の合間に荷物を置きに2度帰ると「パパ!」で、パパはクソ忙しかったので「ゴメン、パパは御仕事なの。行って来ます、バイバイ!」とドアを閉めると娘泣く。え~。。。遊びに行くわけではないのでパパも寂しい気持ちを残して御仕事へ。
 ちなみに明日夜(8日)は、今年から通う事になった研修の学校の開校式(ホンマは違う名称だが)。夕方からで、その後に交流会(飲み会)あり。え~。。。そのまま2次会とかに行きたい気もするのだが、さすがに不味いな。一応、交流会が終わったらとっとと帰宅する予定にしておこう。
 あ、明日8日は娘の2才の誕生日なのだ。2才なのでまだ「誕生日って何?」なんだろうが、やはり「大きくなったらパパのお嫁さんになる!」と言われたいパパとしては、やはり2才の誕生日に夜中まで飲み歩いているのはアカンやろ。肩叩き券も呉れないかも知れない。するとパパは増々不良化してしまい、ますます家に帰らなくなるし。「ケ!娘が肩叩き券も呉れないって、俺の人生って一体なんだったんですかねぇ。。。」なんぞと愚痴る事必須。なので、一応「目指せ!21時30分帰宅!」という事にしておこ。


 さっきネットを立ち上げ、メールチェックの為にniftyのホームページをチェックしたら、

【フジテレビが異常なほど韓流に肩入れする理由】
http://news.nifty.com/cs/entame/showbizddetail/gendai-000151403/1.htm

 という記事が目に入る。
 そういえば、今日の昼にフジテレビに対する抗議でもがあったらしい。

【お台場騒然、「韓流やめろ」コール フジ批判デモに子供含め500人】
http://www.j-cast.com/2011/08/07103785.html

 意味不明である。
 あ、当然、デモなんぞは勝手にやればいいのだ。警察に届け出させすれば問題はないわけなんだし

 何やら阪神は首位ヤクルトに5ゲーム差まで縮めたらしい。プロ野球ニュースも殆ど見ないので「お!いつの間に」である。5ゲームというと最早射程距離内である。チームとしての実力ならば阪神の方が上だろう。このまま逆転優勝間違いなしである。
 関西には『サンテレビ』というUHF局がある。もう、阪神一辺倒のテレビ局である。数十年前の再放送をゴールデンタイムに流したりする程、阪神タイガース一辺倒である。

 え~。。。サンテレビ本社前に「阪神偏重やめろ!」とデモするのか?(笑) 

 何やら高岡蒼甫のツイッターでの発言が元になっているらしいが、高岡蒼甫は役者であり、役者としてはフジテレビが韓流ドラマを流す=仕事が減る事に繋がる、ので、まあ、仕方がない部分もあるのだが、それだって、基本はフジテレビのビジネスだろうが。自分の所でテレビドラマを作るよりも、韓国で作られた安定した作品を購入した方が安上がりなんだろう。KーPOPというのか?韓国の人気グループを歌番組で使うのもビジネスだろう。
 んな事をいうのならば、「モーニング娘。ばかりを歌番組に出すな!」とか、「ジャニーズばかりを使うな!」とか、「AKBばかりを使うな!」はどうなるのだ?単なるビジネスの話ではないのか?

 当然、フジテレビのニュースが『韓国寄り』、え~。。。先日、『ウルルン島』やったかな?
 「高岡蒼甫が、ウルルン島で、出会った」
 という日曜夜の番組があれば、それはそれで面白いのだが、あ、『ウルルン島』に自民党の議員が行こうとして、韓国から入国拒否をされた事があったが、そのニュースの中でコメンテーターが「竹島は韓国のものですし、韓国を刺激する様な行為は避けるべきです」とか発言したならば、そりゃ、フジテレビ前で抗議デモをするのは解るが、え~。。。

 だいたい、中東のなんとか革命と比較しているコメントもあったが、日本て選挙なかったか?当然、限定された選挙制度ではあるが、定住外国人に対する選挙権がない状況であるが、20才以上と限定された選挙制度であるが、小選挙区という限定された選挙制度であるが、選挙ってなかったっけ?選挙で自民党が野党になって、民主党政権が出来たのではなかったっけ?だから、辻元清美が政府に入ったり、解放同盟のお偉いさんが大臣になったりしたのではなかったっけ?あのまま松本龍が復興大臣で頑張って名を挙げていたら、東北の自治体の長には結構信頼があったわけなんだし、松本龍が復興大臣として名を挙げていたり、実力を認められたりしたら、松本龍総理大臣という噂も出て来るのではなかったのか?「次期総理候補人気ナンバー1」として世論調査で声が上がったりした可能性だってあったのではなかったのか?まあ、ステレオタイプは「解放同盟幹部としては、どうよ」なんだが。まあ、その辺の陰謀話として誰か書いて居るかも知れんのぉ。。。松本龍は、野中広務と対談したら面白いかも知れん。

 あ、バリバリの市民運動家でもある念仏者の大先輩が、何やら菅直人に脱原発での解散選挙をネットでも勧めている、というか、また市会議員を辞めて出馬したいのかも知れんが。
 不完全ではあるが、それでも『菅直人』という総理大臣は、え~。。。かなり怪しい情報なんぞの影響も受けながら、それでも、現実的に着々と脱原発路線を押し進めている。怪しい情報の影響はともかくとして、その辺の評価は出来る。今の総理大臣が仮に与謝野だったり、石破だったら、不可能である。地下式原子力発電所政策推進議員連盟の顧問でもある鳩山前総理でも不可能だっただろう。まあ、その分、脱原発運動がより一層盛んになっただろうし、解散選挙を求める声が高まったのかも知れんが。

 サンテレビに対する「阪神タイガース偏重報道を辞めろ!」というデモと、中東のジャスミン革命を一緒にしてどないしまんねん。ん?フジテレビの韓流か。
 単に韓流がキライなだけの話やろ。色んなチャンネルがあるねんから、フジテレビのビジネス方針に違和感があるのなら、単に見なければイイだけの話である。フジテレビの韓流を楽しみにしている人達も居ているのだろう。ビジネスなんだから。テメーがキライなだけの事を、何を中東のジャスミン革命と比較しとるねん。比較するならばノルウェーのテロ事件と比較しろ。


 明日は夕方まで、あ、諸々やらないといけない事は多々あるのだが、お参りは休みなので、もう少し。単純に呑み足りない(笑)

 ネット上の一部では吉本隆明の原発に関する発言が話題になっている。これに関しては吉本隆明好きの脱原発カルトの真宗坊主の意見を聞いてみたいものなんだが、え~。。。スルーなのかな(笑)ったく、昨夜も布団の中でiPhoneからmixiボイスを見て思わず寝る前に愚痴ってしまったのだが。ったく。今度東京に行くから待っとけ。

 あ、吉本隆明の原発発言。

 新聞記事
 http://f.hatena.ne.jp/finalvent/20110805184408

 新聞記事のテキスト化
 http://shomon.livedoor.biz/archives/51951156.html

 テキスト化も含めた、色んな意見
 http://www.asyura2.com/11/genpatu15/msg/319.html

 問題にしたい部分の抜き書き

【「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。
 だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防御装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です」】

 しまった。。。最初にやっておくべきだった。。。酔いが。。。まあ、ええわ。

 上記引用文の中に

【人類の知恵が生み出した原罪】

 という言葉が出て来る。
 吉本隆明は、同じ親鸞を学ぶ人でもある。ちなみに、吉本隆明の親鸞像は知らん。昔に読んだはずだが、忘れた。
 ついでに、吉本隆明の『「反核」異論』は読んだのかどうかすら忘れた。

 『人類の知恵が生み出した原罪』というが、同じく、人類の知恵が生み出した核兵器は、まあ、え~。。。これも微妙か。劣化ウラン弾があるから。でも、いわゆる『原爆』というのは長崎以降使われていないはずである。実験は別にして。今年で66年間使われていない。あっても、持っていても、日本みたいに潜在的核保有国と呼ばれていても使っていない。
 また、これは日本限定であるが、日本は同じく戦後66年間、これまた微妙なんだが、『一応』と限定した上で、一応、戦争はしていない。海外に自衛隊を派兵して『直接的な戦争行為』はしていないが、戦争って、直接の兵士だけでは戦争は出来ないし。戦費も出したし。だが、最早、『なんとなく』になってしまったのだろうが、憲法9条もある。戦争は『人類の知恵』どころか、人類の原罪である。

 また、私(達)はの上で生活している。生き物の死骸を食べている。殺して、食べている。食べるだけでなく、環境保護の為に『アース・ノーマット(うち、これです)』だったり、殺菌剤を使う。生きる事は殺す事と同義である。そういう原罪がある。
 そういう原罪、まあ、無理矢理『宿業』と呼び変えてもエエのかも知らんが、そういうものを持たざるを得ない。当然、「私はベジタリアンだから業が軽い」という差別化ではない。あるいは『殺』という行為を侍だったり、を生業にする人達だけの問題にして「私は罪が軽い」という差別化ではない。比較ではなく、個人の問題として抱えている。

 原発に関しては原発事故以降、主に『推進派』と呼ばれる人達の意見を中心に諸々調べた。反対派の意見は知ってるし。
 ついでなんだが、大谷派が『いのちを奪う原発』というブックレットを出して何年になるねん?しっかりしたテキストやぞ。それなのに「原発事故が起るまで原発の危険性をみんな知らなかった」って、おい(笑)
 まあ、エエ。

 反対派の意見は知っていたが、推進派の意見はほぼ知らなかった。興味がなかったし。でも、今回の原発事故で諸々調べているうちに、当然の如く『推進派』の意見にもブチ当たる。非常に面白いし、タメになる。反対派だからこそ、しっかりと推進派の意見に耳を傾けるべきである。どうせ意見は違うのだし。批判された部分をしっかりと受け止めて、批判すれば良いだけの話である。私にはデーター的な事は無理だが。『推進派』の意見を「御用学者の意見だから信じるに足りない」ならば、単なるカルトである。カルトの常套手段である。まあ、そうやってカルト化させて煽る政治手法もあるのだろうが、真っ平御免である。

 原発は形を変えて、『核融合炉』になったり、え~。。。ビルゲイツの

【2010/03/23 12:24 【原発】ゲイツ氏と次世代原発で協力 東芝、燃料交換せず100年運転】
http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010032301000281.html

 みたいなものになるのかも知れん。
 そして、それが、多くのエネルギー問題に悩む、特に『発展途上国』と呼ばれる国々に対する貢献になるのかも知れん。その事によって、多くの人命が助かるのだろう。食料、医療、流通等も含めて。そういう意味では、これまたイヤな言葉なんだが『死亡コスト』では原発は『安全』なのかも知れない。原発を全廃したお陰で助かるはずだった生命が助からない事も多々あるのだろうし、これからも出続けて行くのだろうし。
 それらを引っ括めた上で、吉本隆明の

【人類の知恵が生み出した原罪】

 という言葉は、かなり重い。
 
 が、人間の『知恵』と、仏の『智慧』の観点ではどうなのか?

 吉本隆明は同じ親鸞を学ぶ先輩でもあるが、吉本隆明は阿弥陀如来に対する信仰を持っているのだろうか?
 仏教も哲学として評価され、親鸞は思想家として評価されているのだろうが、それだけではない。あくまでも親鸞は念仏者である。
 っちゅうか、その辺、吉本隆明がどういう信仰生活を送っているのか、もの凄く単純な話、御本尊を持ち、念仏申しているのかどうかは全く知らないのだが。

 吉本隆明が『人類』と言っている部分は、親鸞の人間観である『煩悩具足の凡夫』としてはどうなのだろうか?
 そして

【しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。】

 と語っているが、煩悩を肯定してしまったら、煩悩が問題にならなくなり、『煩悩具足の凡夫』という言葉は成り立たなくなる。あくまでも『阿弥陀如来から照らし出された煩悩具足の凡夫としてのわれ(われら)』である。そして、それが仏教でいう『衆生』という問題である。「救われなければならない衆生」である。

 吉本隆明には

【「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。 されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、 たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」】

 が、ないように思える。

【しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。】

 で、あり

【人類の知恵が生み出した原罪】

 ならば、その『原罪』を課題にしなければ煩悩が煩悩でなくなってしまうのではないのか?

誰を怨めばいいのでございましょうか

2011年08月06日 | 坊主の家計簿
 お昼間、明日から配らなければならない寺の通信を作る。ネタはない。漠然と「お盆でも一度ちゃんとやるか」程度。ネタはそれしかない。全く思いつかない。なので「表紙と裏をお盆にして、真ん中は連載『私にとっての宗祖親鸞聖人』にしよう」と決定。
 ネタが思いつかない。「え~い、仏説盂蘭盆経の現代語訳を表紙にしちゃえ!確か短かったはず」と、テキストを見つつやり始める。え~。。。A4一枚ではさすがに無理がある、可能なんだろうが、文字が小さくなる。無茶苦茶小さくなる。なんとなく『表紙の文字はデカイ方がエエ派』なので、それはイヤだ。よって、真ん中にもって来る。
 やり始めると、なんとなくテンションも上がって来るわけであって、表紙&裏表紙も完成。夜に持ち越す予定だったのだが、空いてた明日の午前中に仕事が入ったし、昼間の一気作業。そのままネット公開。

 http://blog.goo.ne.jp/enngakuji

 ふっふっふっふ。。。一応、「っちゅうか」「で、でんな」とかを使わない文章だって書けるのだよ、おっちゃんだって。疲れるからイヤやけど。
 
 通信完成したのが、夕方。終わって、ネットで少し遊んでいる間に娘帰宅。
 今月の寺の通信にも書いたのだが、娘は2才の『イヤイヤ期』らしい。自我の芽生えでんな。なので、やたらと私に甘えて来る。まあ、私との交流時間が短いし。なので居ている間は「あなたは私の味方だよね」なんだろうか?甘えて来る。んで、パパとママの間で両方に手を伸ばしてパタパタ触って来る。「パパ」「ママ」なんぞと。多分、『両親』という概念は解っていないはずである。ただ、自分が産まれた時から居ている「パパ」「ママ」という存在が安心出来る存在なのかを確かめているのだろう。
 何やらものの本によると、『イヤイヤ期』に叱った時も、その後にしっかりと抱きしめる事が大切だ、なんぞと書いてあったのだが、んなもん、しっかりと抱きしめへんかったら、そういう風に育つ人間が出来るだけの話ではないのか?「別にエエやんけ」である。
 2才で無常と孤独を感じて出家するも良し。



  桑名の夜は暗かつた
  蛙がコロコロ鳴いてゐた
  夜更の駅には駅長が
  綺麗な砂利を敷き詰めた
  プラットホームに只独り
  ランプを持つて立つてゐた

  桑名の夜は暗かつた
  蛙がコロコロ泣いてゐた

  焼蛤貝(やきはまぐり)の桑名とは
  此処のことかと思つたから
  駅長さんに訊ねたら
  さうだと云つて笑つてた

  桑名の夜は暗かつた
  蛙がコロコロ鳴いてゐた
  大雨の、霽(あが)つたばかりのその夜は
  風もなければ暗かつた
 (『桑名の駅』中原中也)


 
  花火があがる空の方が町だよ(尾崎放哉)



 に、涙するも良し。
 っちゅうか、『イヤイヤ期』の方が青春よりも孤独を感じているのかも知れん。なんせ、始めて感じる孤独感なんだろうし。
 っちゅうか、娘は子どもの時から、あ、今も子どもか、え~。。。産まれた時から甘えただったし。「抱っこ」だったし。泣いてたら抱っこだったし。
 そう考えると産まれた時から孤独だったのかも知れん。私の場合はすっかり忘れたが。

 今日、ツイッターで遊んでたら、『脱原発すると財政破綻』という意見に対しての反論が流れて来た。と言っても、どうやら感情の話らしい。見ていた限りでは具体的なデーターに対しての反論では全くなかったし。単に「これっておかしいよね」である。で、仲間内で「おかしい、おかしい、絶対におかしい」である。
 「カルトか、テメーら!」なんだが、まあ、そういうもんなんだろう。孤独って。
 自分が感じた事をに対しての賛同を得たい。意見を述べるのであれば、賛同者が一人も居なくとも、それこそ、世界中の人間から反対されようとも「これが私の意見だ」で押し通せばエエと思ったりするのだが、やはり賛同を得たいのだろう。

 私が始めて街頭でビラを撒いたのは18だったか。自分の意見を書いたのを撒いた。ちなみに『動物管理センター』に対する抗議ビラである。
 単純に16ぐらいの時に自分が食べているニワトリが『ブロイラー』という『家畜』であり、その殺され方を見てから私は変になったのだ(笑)で、高校で同級生を捕まえては、そんな事を言ったりしてたわけだ。当然、誰1人として共感されなかったのだが、まあ、しゃーない。
 あの時にネットがあれば、そういう意見を訴え、そういう意見に賛同してくれる人を見つける事が早々に出来たのだろうが、私は2年かかった。情報量少ないし、それ程真剣に探してなかったのかも知れない。ビラを撒き始めた18の時には早々にそういう団体を見つける事が出来たし。太田竜もその頃の集会で会ったし。

 なので、今の様にネットですぐに同じ意見の仲間を見つける事が出来る様になった事は非常に羨ましいと同時に、エッヘン!おっちゃんは、おっちゃんとして言わして貰う。誰も仲間が居なかった時期も大事だったよ、と。独りに慣れたと、と。独りでも意見を貫く覚悟も出来たよ、と。その辺の打たれ弱さを、エッヘン!おっちゃんとしては心配である。え~。。。純粋に「オヤジ、鬱陶しいんだよ」の話なんだが、エエのだ。オヤジだし。さっきの銭湯で久々に体重計に乗ったら69キロでやんの(笑)1年で1キロ増えてやんの。悪いね、中年太りなんだよ(笑)

 「大人には子どもの気持ちは解らない!」って、じゃあ、子どもに大人の気持ちが解るのか?
 「大人は子どもだった時の気持ちを忘れた!」って、じゃあ、乳幼児だった時の気持ちを憶えているのか?
 それは単なる甘えだろうが。「私を理解して!」だろうが(笑)

 そういう孤独感は何才になっても変わらない。大人になれば経験で慣れるだけの話である。始めてじゃなくなるだけの話である。それだけの話である。
 産まれた時から、死ぬまで、孤独から逃れようと、「ねえねえ、私って1人じゃない?」って。『野垂れ死に』じゃなく、「誰かに看取られたい」「畳の上で死にたい」なんぞも含めて。
 誰かにメールしたり、こうやってネットで遊んでいる事も含めて。

 「みんな私の事を嫌っている(みんなに好かれたい)」

 「私なんてどうなってもいいの(自分が好きで好きで仕方がない)」

 孤独に年齢は関係ない。

 



 「誰を怨めばいいのでございましょうか」と、救いを求める。

阿弥陀さん栄誉賞

2011年08月03日 | 坊主の家計簿
 昼からの依頼仕事が終わって、デパートへ御中元を買いに行く。買うものは決まっていたのだが、店の場所が変わっていたので、ついでに諸々物色するが、やはり定番、つーか、お気に入りの果実酢に決定。お値段諸々のを必要な数だけ買って、持って行くのを忘れたので全額分の商品券をチケット屋で購入して『御中元』『暑中御見舞い』とに分けたりしつつ買い物終了。
 その足で配達。せっかく法衣姿なんだし、時間も丁度エエ感じだったので。

 帰宅すると夕方。娘が帰って来るまで時間があったので、facebook作業。う~ん、いまいちアプリの使い方がよく解らなかったりするのだが、まあ、少しずつ。
 今日は外部リンクの形にした寺の通信の文字設定。いや、iPhoneで見たら「デカイわ!」という文字があったので。ちなみに、同じgooのブログなんだが、

 ほれ

 実は色々と出来るわけだ。このブログでは「面倒」という人類最強の偉大な理由によってやっていないが。
 出来るだけ寺の通信の実物に近づけたいので諸々やっていたのだが、それが逆に見難くなる原因になってしまったりしていたので、チェックしつつ、改良してた。
 で、完成。
 後はトップページにするのを作りたいのだが、これがやはり難しい。なかなかいう事を聞いてくれない。つーか、私にその技術がない。つーか、最大の原因は『コンセプトがハッキリしていない』

 「住職、このトップページはどういう感じにしましょ?」
 「え~と。。。」

 だったりする。
 他はバッチシやねんけどなぁ。。。トップページがなぁ。。。まあ、『今月の言葉』みたいなのにしようとは思っているのだが。ほれ、「今月お勧め商品」とかってありまんがな。あんなもんでっせ。

 さて、女子サッカー日本代表チームが国民栄誉賞を貰ったらしい。女子サッカーどころか男子サッカーだって「メッシすげー」程度の関心しかないので、イマイチ興味がない。興味がないのだが、「魁皇はどないなってるねん」と。
 千代の富士は、大相撲の通算勝ち星の記録を塗り替えて国民栄誉賞を貰った。魁皇はその記録を塗り替えた。千代の富士は無茶苦茶強く、魁皇はそこそこ強い程度だが現役時代が長い。なので、この魁皇の記録を塗り替える力士は当分出てこないのでは?と素朴に思う。ならば、魁皇の記録はやはり画期的な事であり、千代の富士が受賞しているのならば「魁皇にも上げたれよ」と思ったりする。
 かつ、魁皇は『そこそこ強く現役が長い』から作り出す事が出来た記録である。横綱には成れなかったが、そこがイイ。人気はあったらしいが、やはり横綱ではない。そこがイイ。

 福島原発では毎時10シーベルトの所が他にもあったり、あるいはそれに近い数値の所が出て来たとかなんとか。え~。。。ちゃんとニュース見てないのでエエ加減ですが。
 そら、燃料が融けただけでなく、外に漏れている『らしい』ので、そら、そんな数値にもなるだろう。
 何やら福島原発は地震や水蒸気爆発の影響で瓦礫が一杯らしい。今回の数値も、これまたちゃんとニュースを見てないので適当だが、「瓦礫をどける事が出来たから計る事が出来たのか?」なんぞと思ったりする。
 何にしても、そういう危険な箇所で、かつ、夏前から「暑くて暑くて」という労働者の声があったが、福島の夏だって暑いだろうに。

 思い出し怒り。こら、今日もデパートの地下でウロチョロしてたけど、デパートの地下で総菜買ったり、あるいは近所のスーパーで「暑いからイヤ」という理由で揚げ物買ってる主婦(主夫)。労働者としての自覚があるなら同じ労働者として春先でも「クソ暑い」と言ってた条件で、夏の暑い中、当然冷房なんかない中、かつ、マスクで呼吸もしにくい労働者も居てる事を忘れるなよ。まあ、『家事』が『労働』と見なされていないからの発言なんだろうが。

 あ、労働者。
 家事が労働として見なされていない環境もそうなのだろうし、福島原発だけでなく、多くの労働者。当然、私も地味な労働者。日の目を見ない、スポットライトの当たらない労働者。
 なんか、魁皇ってエエな。
 だいたい、同期に若貴&曙の3人の横綱。スポットライトを浴びまくり。この三者は相撲ファンでない私だって知っている。まあ、曙は後に格闘家&プロレスとしての認識の方が大きいが、それでも現役時代から名前は知っていた。
 で、「魁皇って誰?」である。相撲ファン違うし。

 無理矢理例えるならば、原発労働者は今まで無名だった女子サッカーみないなもんだ。映画にもなったが、それでも一部の関心ある人ぐらいしか体験本、証言本なんぞを読むことはなかっただろうし。それが今回の原発事故でスポットライトを浴びた。
 原発労働は被曝労働なので当然『キツい仕事』だが、昔によく言われた3Kは決して原発労働だけではない。被曝だけが危険なわけではない。
 ペルーの炭坑事件もあったし、ダム工事や、その他の建築現場、工場、運転手、え~。。。イマイチ思いつかないのだが。
 私は工場労働が長かったので、朝の合い言葉だった「ゼロ災でGO!」というのは憶えている。まあ、現場によって色々なんだが、やはり工場でも事故がある。私は派遣の大きな工場しか行った事がないが、小さな工場、鉄工所なんぞで指を落としたりする話も聞く。つーか、間接的にオイル吸いまくり状態だった事もあるし。

 関西ローカルだろうが、朝の番組のコーナーで『となりの人間国宝さん』というのがある。うちの近所なら、駅近くの路上うなぎ屋が『となりの人間国宝さん』に認定されたらしい。つーか、お参り先のオバちゃんも収録時間に間に合わなかったので貰い損ねて仲間が貰ったらしい。

 魁皇、エエやんけ。魁皇になぜ国民栄誉賞をやらん。そんなに八百長騒動が気に入らんかったのか?
 しゃーない。魁皇には私が『阿弥陀さん栄誉賞』を与えよう。つーか、私が与えるものではないのだが。つーか、別に魁皇だけしか貰えないものでもないのだが。

 ちなみに今、私が何をしているのかというと、ブログを書きつつ平行して家族写真をネット上に保管する作業をしている。
 大切なデーターは、プリントアウトして紙で保存して、パソコンにも保存して、ネットでも保存していたのだが、今日は写真も。え~。。。これが結構時間がかかりましてでんなぁ。。。最後のフォルダーのが「残り32分」と出てやがる(笑)
 という事で、『残り32分』をブログを書いて遊ぼうかと思ったのだが、歯磨き定期巡回もしなければならないので、そろそろ。

 『阿弥陀さん栄誉賞』は誰だって受賞している。全ての人が、存在が受賞している。それ以外の一切の権威を認めない、つーのが、私の信仰だったりする。
 
 「いや~、あの人は立派な人やで」というのは、その人だったり、何かの価値観でしかない。国民栄誉賞は政府の都合で出される栄誉賞にしか過ぎない。人間国宝や、その他の勲章も含めて。
 当然、何かの『価値観』なんだから、虚仮にしか過ぎない。まあ、虚仮でも貰えば嬉しいが、でも、それは絶対的なものではない。あくまでも何かの価値観にしか過ぎない。
 
 「いや~、マザーテレサさんは立派だ」
 であっても、同じ阿弥陀さん栄誉賞を貰っている仲間にしか過ぎない。

 「あの人は、ホンマにエエ坊さんやで」
 であっても、同じ。

 「あいつは、ホンマろくでもないヤツやで」
 でも同じ。
 マザーテレサだろうが、ヒトラーだろうが、同じ。同じ阿弥陀さん栄誉賞を受賞している仲間にしか過ぎない。

 とか言いつつ、世間の問題で中元に差をつけたりするのだが(笑)これは世間に生きる私の価値観にしか過ぎない。御仕事、御仕事♪