坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

社会正義

2008年06月20日 | 坊主の家計簿
 6月20日

 外食  かき揚げ蕎麦       326円
 食類  うるめ丸干し       150円
     ちくわ           68円
     せり            68円
     にら            88円
     ごーや          128円
     キムチ2         136円

 合計               964円
 6月累計           70587円

 グリーンピースの2人が逮捕されたらしい。
 http://www.asahi.com/national/update/0620/TKY200806200036.html
 グリーンピースのホームページ(http://www.greenpeace.or.jp/)を見てみると【いつでも出頭に応じると伝えてありました。】とあるが、では自首すればよかったのではないのか?
 また、【グリーンピース・ジャパン職員が盗んだとされる鯨肉】とあるが、『盗んだとされる』ではなく、『盗んだ』ではないのか?
 違う記事では【只野弁護士は「横領行為を告発するための行為で、窃盗罪は成立しない」とのこれまでのグリーンピース側の主張について、「変わりはない。告発の意義は薄れない」と説明した。】(http://www.asahi.com/national/update/0620/TKY200806200105.htmlより)とあるが、何時からグリーンピースは警察になったのだろうか?っちゅうか、警察の捜査方法でもこのやり方はダメらしい。捜査令状が必要らしい。まあ、そりゃそうだろう。勝手にそんな事をされたら無茶苦茶になるし。
 幼稚というか、傲慢というか、なんというか。。。

 オウム真理教では『タントラ・ヴァジュラヤーナ』というのがあった。
【ところがオウム真理教では、いわゆる「タントラ・ヴァジュラヤーナ」(密教)を、「マハーヤーナ」(大乗)から超越した段階と位置づけ、「タントラ・ヴァジュラヤーナの修行者は、目的のために手段を選ばない」などと考えていたようです。これは大変な誤解であり、非常に危険な結果をもたらします。現にオウム真理教では、地下鉄サリン事件などを正当化する理論的根拠として、この考え方を採用していたようです。】(http://www.potala.jp/lib/tobira/tobira2.htmlより)

 誰にもそんな権限はない。警察にもない。鳩山法務大臣にもない。まして、一民間団体であるグリーンピースにあるわけがない。

 社会正義。当然、国家にもないが、民間にあり得るわけがない。それぞれの民間団体、例えそれが社会正義を標榜する団体であろうが、宗教団体であろうが、そんなものはない。
 ただ、勘違いをしているだけの話である。そして、その勘違いは単に優生思想である。選ばれた人達が持つ優位性であり、そんなものを認める事等出来るわけがない。差別を肯定する事を認められるわけがない。

 ふと、イラク人質事件を思い出す。

【私は親しいメディア関係者数人から、首相側近が、防衛庁幹部が、外務省幹部が、そして警察幹部が、記者に何を語ってきたのか、を全てうち明けられた。「自作自演」「自己責任」そして家族への誹謗中傷、全ては、政権中枢サイドが主導したものだったという真相がはっきり見えてきた。】(伊藤和子氏。但し、大月書店『イラク「人質」事件と自己責任論』69ページより)

 まあ、見事なまでの妄想である。政権中枢サイドが主導しなければ『自作自演論』『自己責任論』が出てこなかったであろうとする妄想、いや、妄想でなく、横暴極まりない、人間をナメ腐った発言である。
 しかし、まあ、こういう妄想が、跋扈する世界も知っている。幼稚な世界がある事も知っている。
 アメリカ大統領予備選挙の女性候補者が選ばれなかった理由を女性差別のせいにしたりもする。

 様々な妄想が跋扈する。特に『社会正義』の大義名分の中で。故に『権力からの弾圧』だの、『権力の犬』だのという差別的な発想も芽生えるのだろう。

 「『社会正義』の為にイイ事をしている。故に、鯨の肉を盗んだ事は罪にはならない。」
 「死刑のハンコをバンバン押す事も罪にならない。」
 のなら、オウム真理教のポアの論理と何ら変わらない気がするのだが。

 『社会正義』。
 『社会』と『正義』を分けてみる。
 多分、色々な人達が、様々な思想でもって『正義』を実行しているのだろう。だが、それと『社会』とは違う。それはあくまでも『社会の中のひとつの意見』でしかない。決して『社会全体の正義』ではあり得ない。
 自分が行っている正義の限界を感じた時に見えて来るのが『社会』ではないのか?
 『社会』の中で様々な人達が、様々な想いを持ち生きておられる。そういう『他者』『社会』の発見が大切なのではないのか?
 
 「なんで正しい事をしている私が責められなければならないの?」
 とは、単なるガキである。幼稚極まりない。
 エゴの拡大、自我拡大にしか過ぎない。
 だが、幼稚であるが故に、妄想を膨らます。イラク人質事件の支援者なんぞ最たるものである。右派は知らんが、左派ではよくある妄想である。そして『鬼』を作り出す。

 ♪ひとつ残らず君を
  悲しませないものを
  君の世界の全てにすればいい
  (大沢誉志幸『そして僕は途方に暮れる』より)

 エゴがあり、自我がある。そこから離れる事はあり得ない。余程修行を積んだ宗教者なら知らんが、まあ、あり得ない。
 故に、日本の大手伝統仏教である浄土真宗では『煩悩具足の凡夫』という。
 また、大手伝統宗教である仏教では人間存在の事を『衆生』という。『衆生』とは『執着する存在』である。
 故に、日本の大手伝統仏教である浄土真宗には『義なきを義とす』という言葉があり、大手伝統宗教である仏教では

【一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。】(スッタニパータより)

 という。

 正義とはあくまでも、『自分にとって』でしかない。単なるエゴの拡大でしかない。
 それを越えた世界が『社会』である。

 「社会にとって我々が出来ることは。。。」等とよく聞くが、大きな勘違いである。所詮、自分にとってでしかない。自分が信じる思想や宗教の話でしかありえない。

 アメリカから解放される筋合いもないし、同じく、日本が他国を解放する筋合いもない。
 そんな大きな勘違い、『社会正義』という勘違いが跋扈している。
 当然、釈尊当時から、いや、もっと大昔から何ら変わって居ない。最近だけの話ではない。
 
 『社会正義』の側に等、誰も立てない。立つ権限などあり得ない。一体、誰がそんな権限を認める事が出来るのだろうか?
 神や仏といっても、特定の宗教である。あくまでも、それを信じる人達の中にしかない。『社会』はその『外』にある。
 故に、『異教徒』がいて『鬼』がいる。『敵』がいる。
 『他者』がいる。
 理解不能の『他者』がいる。
 自分の『思いの外』の『他者』がいる。

 社会正義は変わらず流行中である。
 当り前である。『何をやっても許される』という免罪符が欲しいのだろう。
 差別者の側に立ちたい、弱者でなく、強者の側に立ちたいのだろう。弱者を利用しても。

【仏から信ぜられている-絶対に-何もかも承知の上で信ぜられている。】(曽我量深)

 最近、よくこの言葉を思い出す。
 『何もかも承知の上』でという部分が温かくて仕方がない。

 煩悩を抱えた凡夫は決して仏ではない。
 煩悩を抱えた存在である私(達)に『社会正義』という権限はあり得ない。
 あるのは個々の意見でしかない。個々、それぞれの人達の意見でしかない。
 そして『社会正義』という大義名分でもって、それぞれを意見、それぞれの人生を無視し、見下し、排除し、弾圧するのはおかしい。
 それぞれの意見は尊重し、尊重した上での相互批判をしたらエエだけだ。

 「私の意見(思い)が伝わらない」
 当り前である。『他者』がいるのだから。
 決して独りでない事の証明である。