坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

祈りの時間

2012年08月22日 | 坊主の家計簿
 パソコンで不慣れな寺務仕事を、え~と、合計何時間やっていたのだろ?24時間、ではきかんか。脳内予定では「2~3時間あれば大丈夫」だったはずなのだが、なんのなんの。ややこしいったら、ありゃしない。まあ、その多くの原因は「不慣れ」という一言なんだが。段々つスピードが上がって来たし。眼の疲れと、脳味噌の疲れとストレス。で、ストレス発散の為に呑んでます(笑)

 録画していたNHKスペシャル『最期の笑顔~納棺師が描いた 東日本大震災~』

 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0817/

 を観ながら「祈りの時間」という事を考えていた。

 やっていた寺務仕事は寺の会計を表計算ソフトに置き直す作業。まあ、私が会計を握ってからの数年分だけだが、表計算にする、まあ、データー化して置いて、Dropboxにも保存しておけば出先からでも確認出来るし、それこそ大災害にあった時でも大丈夫だし、今年度分からは「ああ、決算、楽」と。今後は過去帳もデーター化して置きたいのだが、今回のでかなり疲れたので、来年の夏休みになるかも知れん。表計算ソフト、不慣れなのでややこしいったらありゃしない。「目指せ!グラフ化!」には、ほど遠い。
 地味に数年間の帳簿をパソコンで打ち込む。その中には当然「○○さんの葬儀」的なものもある。

 NHKスペシャル『最期の笑顔~納棺師が描いた 東日本大震災~』。東日本大震災で亡くなられた方々に対する納棺師の仕事をボランティアでなされていた方の物語。後日、絵と言葉を書いておられる。実際の納棺の時間も祈りの時間だっただろうし、絵と言葉を書いている時間も祈りの時間だったと思う。

 理想の葬儀。
 寺が世襲制が第一条件である事は反対だが、別に世襲であっても構わない。特に真宗寺院は。誰が継いでも構わないのだし、その中で世襲もあっても当然の事。ただ、どこまで行っても寺は家ではない。というか、これもそれぞれだったりするのだが。寺院の土地の名義が個人名義になっている所(そういう歴史的背景)もあるし。うちは違うが。
 理想の葬儀は、その寺で生まれ育った人が行う葬儀。へっへっへっへ…。保守的だろ(笑)言い換えよう。その村(町)で生まれ育った人が行う葬儀。単純な話、同じ町内(村内)で生きてたわけだし。
 私の後を誰が継ぐのか解らない。解らないが、娘かも知れないし、或は他の誰かかも知れない。他の誰かだった場合、出来れば、この町内で生まれ育った人が好ましい。
 私は結婚してこの寺に来たが、ママ(坊守)だって確か小学校の時に来た。歴史あるこの町内では、まあ、他所者でんな。『家』ごと他所者。他所者は、同じ保育園に行ってない(多分)。それこそ何代にも渡って「あんたのオムツを替えたった事を忘れたか」と。そういう土着の中で生まれ育った住職が行う葬儀が一番の理想。
 例えば、私がこの寺で生まれ育ったならば、私のオムツを替えてくれた様な爺ちゃん婆ちゃんの葬儀を私がする事になる。オムツは別にしても、抱っこしてくれたり、オヤツをくれたり、そういう人達の葬儀を私がする事になる。或は、初恋の相手だったり、ケンカを散々した友達とか。まあ、どこにでもある様な町内(村内)の話。で、恐らく、真宗寺院の住職は、こういう葬儀をしている人が大多数だと思うが。まあ、大多数なのは、それはそれなりに問題でもあるのだが。基本、「世襲でないとアカン」という血脈には反対だし。
 葬儀後には中陰もある。いや、中陰がなくとも同じ町内(村内)の話。

 私はここに来て4年目に入ったけど、そんなもん。そんな中でも毎月御参りに行っている、当然、近所でも会う人の葬儀も何度かした事があるけど、過去も含めて全くの見ず知らずの人の葬儀をした事が散々あるし、今もある。というか、式場の顔写真を見て初めて「あ、今日はこの人の葬儀なのか」という事も散々ある。葬儀が終わった後の御参りでも、当然の如くある。そういう時は出来るだけ故人の話を聞いたり、話を聞けない場合は写真を見る。写真の向うには御本尊があるけど、多分、基本的には御本尊を見ての念佛なんだろうけど、ブッチして写真を出来る限り見るようにしている。
 写真と言うよりも、厳密には写真に写った顔か。御遺体の顔も出来る限り見させて頂くようにしているが、残念ながら見れない時もかなりある。

 祈りの時間。NHKスペシャルの納棺師の人の祈りの時間には何を思って居たのだろうか?

 初対面での葬儀、かつ、写真でしか顔を見る事が出来ず、葬儀をしている段階では故人の想い出話も聞けない状態の時は、「どんな人で、どんな苦労をなさって来られたのだろうか?」等と、わずかに知り得る写真や、年齢等から考える。

 理想の葬儀は町内(村内)で生まれ育った住職が行う葬儀。私はやった事がない。やった事がないけど、付き合いが長ければ長い程、その祈りの時間もコユイ。密度が違う。中陰でどんな想い出話が出来るのだろうか?「このオバちゃんには、ホンマ、ガキの頃よう怒られたで。でも、怒った後に『たこ焼き作ったけど食べるか?』と持って来てくれたり。優しかったなぁ…」とか話したりしているのだろう。それこそ、正信偈を教えて貰った人の葬儀をやったりする事もあるのだろう。正信偈を教えて貰った人が亡くなられた時に正信偈を勤行したりする。理想やな。
 歎異抄を教えて貰った人の葬儀をする場合もあるだろう。「あんた、歎異抄に『親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。』と書いてあるやんか。ちゃんと教えたやろ。あんたがやってる事は先祖供養やで。アカン、アカン。そんな事は私は教えてない」「ゴメンな、オバちゃん。でも、今日だけは堪忍してえや」「ほんまアンタは子どもの頃から泣き虫でどうしようもなかったからなぁ…。まあ、しゃーないわ。ありがとうな」みたいな会話を祈りの時間にしているのだろうか?

 祈りの時間。違うわ、祈らざる得ない時間か。
 そんな圧倒的大多数の真宗寺院の住職がしている、ごく当り前にしている理想の葬儀をすべく、私は地味にコツコツと。

 だからと言って、血統が尊いとは微塵も思わんが。真宗『寺院』が『道場』になるのならば、『○○寺門徒』の中から代表役員(住職)を選出すれば良いだけの話や。血統で威張るなら、血統で他所者を排除するなら、一撃必殺の侮蔑言語で対抗するぞ。青草で書いた寺族批判なんぞ甘っちょろいぞ。
 なんてね(笑)

 ちなみに、真宗仏教では葬儀だろうがなんだろうが、全ての仏事は念佛相続の御仏事です。祈らざるを得ない時間という基本の上で、しっかりと御念仏の教えを相続して行く事が住職(僧侶)の仕事。
 
 なんて事を書きながら、「明日の法話、どうしようかなぁ…」と(笑)しばらく正信偈押ししたい気分なんだが、まあ、その場次第か。

人知の闇

2012年08月17日 | 坊主の家計簿
 御盆参りも無事に終わり、夏休み中。明日から一泊二日で家族旅行の予定だったが、日曜日(19日)に法事は入って一泊旅行は残念無念。次週もダメなので、この夏の宿泊家族旅行はナシという事で。まあ、その分の予算をちょこちょこと使うのだが。
 明日は和歌山で海水浴。え~、非常に贅沢で傲慢極まりない発言ですが、「明日だけは仕事の電話がありませんように…」と。まあ、仕事の電話が入ったら入ったで行かせて頂きますが。御仕事ですから。仏事ですから。

 さっき、録画していた関西ローカルニュース番組『スーパーニュースアンカー』を観る。関西ローカルのニュース番組では一番まとまっていると思うし、キャスター(山本)との好みも合う。あのキャスター、春一番(http://ja.wikipedia.org/wiki/春一番_(コンサート)とか好きだし。というか、出た事あったっけ?まあ、趣味が合う。今日は、昨年夏、和歌山・奈良を中心とする水害の話題で、那智勝浦の復興の話。すっかり忘れていた。夏の一泊旅行の候補地でもあった那智勝浦。予定を決める時に昨年の水害の事など、全く忘れていた。

 今年の御盆参りの最後は高槻市。前日に淀川を挟んだ南側、枚方・宇治・城陽の水害が報道されていたが、高槻に行くと御参り先の近所の小川も氾濫したらしく、道路に泥。幸いに周囲を含めて床下浸水にもならなかったらしいが、それでも、御参り先に行く途中にあるマンションで管理人さんらしき人物が一階の駐車場の掃除をしておられた。

 最近、厳密にいうと昨年の3月11日以後、地球温暖化の話がマスコミでは報道されなくなった。「ほぼ」と言った方がいいのか。全てを観ているわけでもないし。昨日の大阪での水害も、昨年3月11日までなら「地球温暖化のせいでしょうか?」と、ニュースキャスター(特に古館)は言っていたはず。ものの見事に聞かれなくなった。
 
 仮に、これらの水害が地球温暖化の影響だとすると、脱原発路線は『いのち』とやらにとってどうなのだ?

 何やら「原発はいのちの問題だ!」という声をよく聞く。私も異論はない。ただ、「原発だけ」でなく、「原発も」だ。その上でなら「原発はいのちの問題だ」なら賛同するが、昨今は「原発だけがいのちの問題だ!」という様なムード、というか、主にネットでの発言が多々ある。ちなみに、大谷派でも活躍している肥田舜太郎氏の『内部被爆』という本に関する優れた批判がある。

 http://www.magadha.net/horyu/log/eid2420.html

 一時期、ネット(主にTwitterだが)で原発関連ばかり追いかけていたが、これは力作である。知っている範囲では肥田舜太郎批判の一番優れたもの。

 あ、話が…。
 原発は危険なものである。そんな事は昨年の3月11日前から解りきっていた事。だから過疎地に作った。周囲に余り人が住んで居ない所を候補地にして行った。

 録画していて昨夜観たNHKの『~原発ができなかった町で~』。

 http://www.nhk.or.jp/nagoya/kintoku/archives/2012/20120629/index.html
 
 名作だったので永久保存。
 旅行好きなので、この周辺には何度も行った事があるが、一番印象深いのは、確か、1993年かな?坊主BARマスター2年目だったので。和歌山方面に車で旅行に行く人達に便乗して無理矢理に連れて行って貰った。閉店後に出発して、夜通し山道を走って(運転は私ではない)、翌朝熊野に。那智の滝近辺にも行ったはずで、阿弥陀寺で先輩から初めて高木顕明の話も聞いた事も印象深い。

 http://suiheisha.exblog.jp/8406748/

 その後に熊野の海で遊んだ後に、夜の険しい山道を走ってたまたま着いたのが芦浜原発近辺の漁港。錦か、古和浦かは覚えていないが、映像を改めて観た印象では錦の方かな?
 漁港近くの公園に車を停めての野宿。運転手を始め、みんな疲れていたみたいだが、私は疲れていても「酒…」いや、疲れているから「酒…」のタチなので、「ビール、ビール」と自動販売機を求めて町を散策。漁港では盆踊りをやっていた。到着したのがかなり遅い時間帯だったので私がビールを何本目かで盆踊りは終了。で、何やら原発の話。何の話をしていたのか覚えていないが、殺気立った熱気は覚えている。
 その芦浜原発が選ばれたのも周囲に余り人が住んでいないから。事故があったら危ないからだろ。

 週刊誌でもやっているらしい、原発労働者の被曝誤摩化し。んなもんは数十年前から問題になっているし、きっと今回もやっているだろう。仕事だし。

 原発は危険である。んな事は「安全神話に騙されていた!」という人以外は、みんな知っていた事。あ、チェルノブイリ原発事故が思春期前の人は知らないかも知れないが。
 
 原発は危険である。だが、原発だけが危険ではない。

 地球温暖化の話はどこに行ったのだろうか?「地球温暖化に騙されていた!」というのだろうか?まあ、そういう人は「福島第一原発事故以降の地球温暖化安全神話に騙されていた!」と言い出すのかも知れないが。エエ加減に主体性を確立せえ。自分が人生の主人公である事を確認せえ。親(鬼神でもエエ)離れして、独り立ちせえ。

 昨年、今年の水害が地球温暖化の影響であるとするならば、脱原発路線は「いのちを奪う脱原発」になる。ただ、この「いのち」という言葉がややこしい…。イマイチ明確になってなかったりもするが。
 仮に『いのち』を『生命』とする。当然、私個人や、今の世代だけでなく、未来永劫に渡って。じゃあ、最近の多くの水害が地球温暖化の影響であるのならば、脱原発=増火力路線は『いのち』に優しいのか?また、以前も違うので張付けた火力発電由来の公害死亡者。

 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51718075.html

 ちなみにカルトがかった迷いのない人にこういう事を言っても意味ない事は知っている。つか、「こういう話もありまっせ」でもヒステリックに反応するのがカルトだし。反原発運動だけでなく、多くの運動がカルトがかっている事はよく知っている。

 上記リンクの池田信夫や、地球温暖化も含めた脱原発議論でないと単なるカルトにしか過ぎない。あ、日本では福島第一原発以降の脱原発議論ね。いまだに原発事故が起っていない様な気分の人も居ているみたいだが。
 周囲に「六ヶ所の鉄塔(?)に登りました」というアホの運動家も居てたので、福島第一原発事故にはかなりビビった。菅直人並みにビビった。ビビったのでかなり検索しまくったのだが、まあ、福島第一原発事故由来の放射能汚染での死亡者は、「ひょっとしたら地球温暖化の影響での水害かも」や、「火力発電は増える事によっての死亡者増説」を上回る事は、まあ、ない。「絶対」とは言えんが、まあ、ない。発ガンリスクは叩きまくるだろうし。

 で、今後。

 先日来、学校の宿題関連で『電車内で暴れているヤクザが「寂しそうだったから」と抱きついたオバちゃんの話』を探している中で見つけた宮城先生の本の一節。

【調整実験に反対した人びとが、その伊方原発の前に集まりまして、当事者である四国の電力会社と、機動隊との小競り合いも始め、最後はお互いの代表がテーブルにつきまして議論をしたのです。市民運動の代表が危険だからやめろと言う。それに対して電力会社の代表は絶対に安全ですと言う。絶対に安全ですということをくり返しているそのときに、ひとりの女性が叫んだ。悲鳴のような声で「あなたは神なのか!」と。たった一言のその言葉の前にすべての人が立ち止まらざるを得なかったというのです。
 現場からの報告として書いているのですが、「絶対に大丈夫」などということをあなたは言えるのかと。あなたは神なのかというこの女性の叫び、つまり人間に絶対などということが言えるのか。人間がすることに絶対などということが言えるのかということです。】(宮城顗先生『自分を愛するということ』より)

 福島第一原発事故は人間の知恵の限界。当然、公害も地球温暖化も含めて。

 で、我が大谷派の『大飯原子力発電所再稼動に関する声明』

 http://higashihonganji.or.jp/info/news/detail.php?id=402

 は、増火力での公害や、地球温暖化に関する議論があったのか?それとも『気分』だけなのか?

娘の誕生日

2012年08月09日 | 坊主の家計簿
 昨日、御参りがなかったので京都方面へお買い物。
 まずは本町・難波別院によって寺の用事を済ませる。本町というのは大阪のど真ん中にあり、「ここから渋滞を経由して京都方面に向かうのはイヤ」と、贅沢に阪神高速で守口まで。ETCを付けたので700円。高速なら20分の道のりも、一般道だったら1時間以上はかかったと思うので「まあ、エエか」と。守口からは国道一号線で京都方面へ。

 一件目は、『打敷』という布の仏具(?)金襴バリバリで買うと高い。買うと高いのだが、数十年間出しっ放し(敷きっぱなし)状態だったので、汚れが酷い非道い。高いもんなんだから丁寧に扱わんと勿体ないぞ。法要以外には出さなくてエエんやし。よってクリーニング。しかし、「これはクリーニングだけでは無理ですね」と。生地も傷んでいるし、日焼け色褪せ。水をこぼしたのか、激しい滲みがあったり。業者のセールストークには強いのだが、「やっぱし」という事で、クリーニングだけでなく、裏地張り替えと修復も依頼する。よって、「あたたた…」と出費。まあ、出来上がり払いなんだが、クリーニングだけで予定していた金額の4倍やもんやなぁ…。あたたた…。

 京都の街中に入り、東本願寺(通称)へ。あれも『寺町』と呼んでいいのか?あ、『門前町』か。門前町にある仏具店、法衣店、数珠店、本屋でお買い物。車で行った最大の理由は本屋で門徒さんに配布する来年のカレンダーを買う為。当然、郵送もしてくれるのだが、まあ。
 仏具店では余りにも傷みが激しかった打敷。『上卓』という所のヤツなので、一番小さい(=一番安い)ので新調する。これも諸々聞いていたら予定額の3倍になった。「確か以前に聞いた時はこの値段で…」と言ったら、「仏壇(お内仏)用の300円ぐらいのと同じ生地でっせ」と。あ、京言葉だったか。で、ペロペロ。余りにペロペロなのはイヤなので「3倍価格ぐらいのもので頼んます」と注文。
 東本願寺(通称)参拝。京都の街中に到着したのが15時過ぎ。先に本屋以外の買い物を済ませてからだったので、16時前。宗祖の御影は見えないけど、合掌念佛する。白人観光客が結構いた。『結構』といっても数グループなんだが、他の参拝者が少なかったので目立った。ギャラリーを目指して、てくてく歩きながら、ふと白人観光客の気分になったりする。
 ギャラリーでは『全国の別院展』みたいなのをやっていて興味深かったのだが、閉館時間。何やらそういうタイトルの本が出るらしく、閉館準備に来てた宗務役人に「これって、全寺院発送してくれるの?」と聞いたら、アカンかった…。仕方がない、購入しよう。

 東本願寺(通称)では火災訓練をやってた。といっても、観光客は恐らく入って来ない辺りで。新人なのかな?まだ若い宗務役人の娘さんが消防ホースを持って水をかけていた。合図なのか何やら掛け声をして、顔の表情も、掛け声も真剣そのものだったので思わず笑ってしまいそうになったのだが、違うな。東本願寺の修復作業はまだ続いている。正門というか、一番大きな門も修復中。その為に全国から集めたお金の一部は、私が今預かっている寺からも。「○○様○○円」みたいな感じで本堂に貼ってある。また、東本願寺だけでの収入が年間どれぐらいか知らないが、東本願寺の運営費、大谷派教団としての運営費の大半は全国の寺を通じて門徒さんから集めたお金。東本願寺は火災にあった事もあり、そら、火災訓練も真剣にやるわな。それも宗務役人の仕事。責任感。宗務役人の研修がどんなものか知らないが、その辺も叩き込まれるのかも知れん。「君達の給料は全て全国の門徒さん達から集めたお金なんだ。宗祖は『御こころざし』と言っているが、大谷派教団は君達を食べさせる為に存在しているのではない。本願念佛の御教えを伝える為に大谷派教団はあり、君達はその中でも大谷派教団から直接『御こころざし』を受け取る立場なのだ。君達は本願念佛の奴隷にならなければならない。」みたいな事を研修で叩き込まれたりしているのだろうか?つか、もっと厳しそうやな。

 「本願念佛の奴隷になれ」とは母校・専修学院で叩き込まれた事。直接的な言葉では「阿弥陀如来の奴隷になれ」か。これは当然、「阿弥陀如来の奴隷」なので「どんなに偉い人であっても、その人の奴隷になるな」という事。例えば専修学院の入学式では「共同生活の中で真宗精神を体得する為に努力精進する事を誓います」と御本尊の前で宣誓するのだが、宣誓する御本尊と学生の間には院長先生が入学許可書(だったかな?)を渡す為に立っている。御本尊に頭を下げるのだが、すると院長先生に頭を下げる形になるが、入学式の説明会ではちゃんと「院長先生に頭を下げるのではありません。御本尊に頭を下げるのです。頭は人間に下げるものではありません」なんぞと、過激な事を(笑)で、当時の院長先生から「阿弥陀如来の奴隷になれ。阿弥陀如来の奴隷になれば必ず見返りがある」みたいな事を。まあ、見返りといっても、金が儲かるとか、長生き出来るとか、そんな事ではなく、単に「私が私になれる」みたいなもんだが。

【己に願いはなくとも願いをかけられた身だ】(藤元正樹)

 でんな。
 確か、「♪お坊さんに憧れてお寺にはいったの」とか歌っていた人の言葉だが、シンプルに「生きていける」。この「生きていける」という言葉がもの凄く好きだったりする。いや、「生きる」だけで、特に何かがなくても「生きる」という事だけでしんどかった時期が長かったし。

 京都から帰宅すると仕事絡みの電話。急遽作らないといけない書類。「わっちゃ!」なんだが、仕事、仕事。ある程度の目安を付けて、実際の作業は翌日(今日)に廻して、昨日は終了。

 今日は午前中一軒と、午後から一軒だけ。その合間に寺務仕事で書類制作。11日までに仕上げればエエのだが、何があるか解らない。という事で、その「何が」の一つである葬儀が…。かつ、この盆最大ピークの日、朝から休憩なしぶっ続けで最後の御参り夕方6時という、まあ、最初に居た寺では毎週土日程度(もっと忙しかったが)なんだが、すっかり鈍ってしまった身体と喉と膝にはキツい中での葬儀。予定ビッチリなんだが、こういう経験も最初に居た寺で何度も経験している。とりあえず謝りましょう。「すいません、葬儀が入りまして御参りの時間を何とか…」と。当然、法事も含む。とりあえず謝れ。頭を下げろ。まあ、こんなんだから、こういう電話をしている所を聞かれたある先輩住職から「営業マンみたいやな」と言われるのだが、しゃーない。クセや。ちなみに御参りをうっかり忘れたりすると「すいませんねぇ…。これ、御供えしといて下さい」と菓子折を持って行きます、私。門徒負担ゼロで本堂修復やろうとする勢いで法人に貯金してるし、営業マン住職です。

 夕方近く、「ちと、仮眠」と。仮眠してたら帰宅して来た娘が「パパ!」と、寝ている私の上に。お前、段々と重くなって来てんから、結構痛いねんぞ。
 遠くでママの声。ケーキが云々。「しまった!今日は娘の誕生日やった!忙しくて36時間ぐらい忘れてたやんけ!」と、心の中。そうなのだ、今日は娘の3歳の誕生日。ケーキに付いている細いロウソクの火を吹き消すのが精一杯の肺活量なんだが、去年は考えられなかった。色んな色をプリキュアのキャラで、例えば「あ、マーチの色や」という娘なんだが、地味に育ってます。キュアサニーの影響なのか変な大阪弁を使いますが、地味に育ってます。

 東本願寺(通称)夏の風物詩、子どもの得度式。新聞ネタにもなる。

 http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120803-OYO1T00738.htm?from=main4

 気が変わるかも知れんが、今の所、娘を9歳で得度させる気は全くない。つか、8月の得度式は娘と一緒に見に行く事はあるかも知れんが、まあ、レジャー的意味合いで。
 私は大谷派教団、最近、反原発かぶれで非常に鬱陶しい部分もあるが、それでも大谷派教団には大恩がある。「生きていける」である。今も生きてるし。故に、娘にも同じ教えを学んで貰いたいが、それと得度とは別である。寺で生まれた一人娘なので外野が煩ければ「後を継げ」だの「誰かと結婚して後を継げ」だのというのもあるが、うちの住職、ワガママでして(笑)住職の責任として後継者を探すが、別に娘でなくても構わんし。やりたい人がやれば良い。いや、「やりたい人」というのは無責任だな。役員さん達と相談した上で許可を得る事が出来れば、恩師(何人生き残っているか知らんが)や、母校、教団に相談して「小さい寺ですが、ここで本願念佛の教えを学んで下さい」と土下座するしかないな。土下座する相手が娘になるかも知らんが、その時は、その時だ。幸いに代々血統で繋がって来なかった寺だし、血統が変わる事に何の抵抗感もない門徒さん達だし。

 娘の人生の主人公は娘だ。私にとっては『娘』だが、一人の名前を持った人間だ。丁度、このブログの投稿画面、右ナナメ上に産まれたてホヤホヤの娘の写真がある。ブログにアップしたのかな?何なのかすっかり忘れたが。『3歳』という年齢。ご近所のバイキング等で「3歳以下は無料」でなく、子ども料金を払わなければならなくなった娘。娘の人生の主人公は娘である。
 今日の誕生日ケーキはチョコレートケーキだった。今日は大人しく歯磨きしたが、タマにゴネる時もある。それは親子関係の事等で不機嫌(甘え)でゴネているのかも知れないが、非常に残念ながら、虫歯になるのは私ではない。「ちゃんと歯磨きしなさい!」というが、虫歯になっての治療費、泣きじゃくる娘の顔を見るのがイヤなのは私だが、虫歯になるのは私ではない。他人の痛みは解らない。『想像』と身体的痛みとは違う。虫歯になって一番困るのは娘だ。親子であっても、娘の痛みは私には解らない。
 当然、私は娘から多くの意志を奪い去っているのだろう。奪いさられる意思は今後増々増えて行くだろう。学校や、社会に出れば出るほど、交友関係が増えれば増えるほどに『思い通り』にならない事が増えて来る。そこで、諦めて自我を押し殺す事は悲し過ぎる。苦は苦でしかない。しかし、苦が苦である事に耐えうる事が出来る精神的体力、まあ、存在の故郷を見いだして貰いたい。まあ、途中でグレるのもあり。

 昨今流行中の『優しさ』。新種の優生思想か。或は宗教的(精神的)優越感(差別)か。非常に鬱陶しい。優しくしてくれる人は、優しくしてくれる人の気分次第なのだ。しかしながら、藁をも掴む思いの状態の人にとっては、その藁だけしかなく、その藁の気分に一喜一憂する。『一喜一憂』どころか、生死がかかる。そんな相談、つか、一緒に遊んでたり、飲んでたりしてただけなんだが、そういう話を多く聞いた。つか、私も『藁』だったのかも知れない。つか、『藁』だった。

 「生きていける」という言葉。そういう言葉を発する事が出来る教え。「藁がなくても生きていける」。(人に対する)依存ではない。信頼である。私が今生きている事に対する信頼である。奪われていた自己を本願念佛の御教えで取り返す。復権する。他の誰でもない、私として復権する。

 仕事上、当然の如く、自殺した子どもの親に合う。先日の葬儀で、火葬場に入る前に、自殺した人が火葬場の釜に入る最後の時に「ありがとう!」と言った。感動した。嗚咽だけでなく、ひょっとしたら心の中で「ありがとう!」と言っていた人が多く居た、つか、心の奥底では「ありがとう!」なんだろうが、私に聞こえる声で「ありがとう!」という言葉は、初めて聞いた。経験年数の割にかなりの数の葬儀、自殺した方の葬儀も経験したが、初めてだった。
 どんな人の人生であっても、それがどんな人生であっても、その人にとってはたった一度の掛け替えのない人生。いわゆる『死因』は死因ではない。本当の死因は「生まれて来たから」である。人生の中の一つの出来事でしかない。自殺であっても。けど、辛い。辛い周囲。周囲に出来る『供養』は、やはり「ありがとう!」ではないのか。その人の人生の存在価値を認め、その人の生涯全てを認める。で、「(一緒に居てくれて、今まで)ありがとう!」ではないのか?

 3歳になった娘が、これからどんな人生を歩むのかは、全く解らない。気が短いパパだから、娘が「お父さんに紹介したい人が居てるの」と言われたら、「お前は、お前の人生のパートナーを親の判断に委ねるのか!!!」と、表面上は怒りつつも内心嬉しくて仕方がなく「照れたら人を殴る」という河内の血が出るかも知れんが、そのパートナーが男だろうが、女だろうが、チャラついたヤツなら「殺すぞ、カス」と言ってしまうかも知れんが、何にしても、私は娘と一緒に生きていきたい。そして、しっかりと、どんな状況であっても「生きていける」強さを持って頂きたい。しっかりと、自立して頂きたい。
 寺は継がなくてもどうでもエエ。本願念佛の御教えだけを体得してくれ。東本願寺での火災訓練を真剣にやっていた宗務役人の娘さんの様に、『伝統』という言葉だけでなく、その言葉に多くの人の願いを感じる事が出来る事が出来る人になってくれ。まあ、パパのワガママだが。

「あなたは神なのか!」

2012年08月07日 | 坊主の家計簿
【調整実験に反対した人びとが、その伊方原発の前に集まりまして、当事者である四国の電力会社と、機動隊との小競り合いも始め、最後はお互いの代表がテーブルにつきまして議論をしたのです。市民運動の代表が危険だからやめろと言う。それに対して電力会社の代表は絶対に安全ですと言う。絶対に安全ですということをくり返しているそのときに、ひとりの女性が叫んだ。悲鳴のような声で「あなたは神なのか!」と。たった一言のその言葉の前にすべての人が立ち止まらざるを得なかったというのです。
 現場からの報告として書いているのですが、「絶対に大丈夫」などということをあなたは言えるのかと。あなたは神なのかというこの女性の叫び、つまり人間に絶対などということが言えるのか。人間がすることに絶対などということが言えるのかということです。】(宮城顗先生『自分を愛するということ』より)

 と、電車内で暴れたヤクザが「とても寂しそうにみえた」と抱きついた婦人の話が載ってそうな本を探しています。この本ではなかった…。誰か、教えて。法話だけでなく、活字でも読んだ記憶があるのだが…。図書館だったかも知れんのぉ…。