坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

音楽療法としての仏教音楽

2013年01月29日 | 坊主の家計簿
【イタリアの老人福祉施設で、立正大(東京)仏教学部の学生が声明を唱えた時のことを、声楽家で音楽療法の研究も行う教授の磯貝静江(69)は今も思い出す。仏教に縁のない人たちが次々と涙を流した。「音楽には無数の可能性がある」と確信した瞬間だった。

 約20年前。「偉大な声楽家は、その国の民謡を歌う。日本の文化が生んだ曲を歌ってほしい」とロンドンの音楽マネジャーに言われ、仏教音楽に興味を持った。声明を聞いた時、ノスタルジックな響きに、うっとりした。その感覚を取り入れた歌は客の反応も良かった。「声明は、癒やし効果があると言われる西洋のグレゴリオ聖歌に匹敵する」。

 学生を集め、病院や医療福祉施設で披露する。「お経なんて不吉」と敬遠していたお年寄りも、いつの間にか、静かに聴き、穏やかな表情になる人も。「心に響く周波数があるのかも」。退官を迎える今年、「音楽療法としての仏教音楽」の研究を始める。】

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/feature/nara1230728038263_02/news/20090108-OYT8T00909.htm

現場の坊さんは、もっと自信を持った方がエエと思うぞ。

『乙武さんは、親を恨んだことありますか? 』

2013年01月29日 | 坊主の家計簿
『乙武さんは、親を恨んだことありますか? 』
http://togetter.com/li/446417

【たとえば「ぞうさん」でしたら、〈ぞうさん/ぞうさん/おはなが ながいのね〉と言われた子ゾウは、からかいや悪口と受け取るのが当然ではないかと思うんです。この世の中にあんな鼻の長い生きものはほかにいませんから。顔の四角い人ばかりの中に一人だけ丸い人がおったら、本来はなんでもない「丸い」っちゅう言葉が違う意味をもってしまう。われわれ情けない人間だったら、きっと「おまえはヘンだ」と言われたように感じるでしょう。ところが、子ゾウはほめられたつもりで、うれしくてたまらないというふうにくそうよ/かあさんも ながいのよ〉と答える。それは、自分が長い鼻をもったゾウであることを、かねがね誇りに思っていたからなんです。小さい子にとって、お母さんは世界じゅう、いや地球上で一番。大好きなお母さんに似ている自分も素晴らしいんだと、ごく自然に感じている。つまり、あの詩は、「ゾウに生まれてうれしいゾウの歌」と思われたがっとるんですよ。】(まどみちお『いわずにおれない』より)

あ、このマトメは乙武氏本人か。「身体障害者は親を恨んでいるはず」という裏にあるのは優生思想で苦しんでいる自分。

以前に天台宗で百日回峰行(?)をなさった方と直接話した事があった。まあ、坊主バーに来られたわけなんだが。その時に真っ先に話して居られたのが金の話だった。「あれ、結構お金かかるんですよ」と。百日回峰行を『行ずる』のは彼だったんだろうが、行じた彼は金の話、要するに彼が修行するにあたって多くの人達が動いてくれた、多くの人達がいなければ修行を完成する事が出来なかったという事を、彼が感じた「お陰様』という事を違う宗派の私に伝えたかったんではなかろうか?ちなみに彼ばビタ一文出して居ない。

いわゆる「がんばれ仏教」系って、何?頑張れるのも頑張れないのも御縁ではないのか?また、その頑張りの内容の尺度は自己を中心とするものではないのか?時代背景の支持があったとしても。

「あいつはダメや」という判断基準という煩悩。それは煩悩でしかない。その煩悩を肯定してしまう所の悲しさも含めての煩悩具足の凡夫ではないのか?

「後鳥羽はん。あんただって、私と同じ煩悩具足の凡夫でんがな。同じ煩悩具足のわれらでんがな。んな念仏者を弾圧したら、あんたはん、地獄に落ちまっせ。要するに、一生涯頑張って生きて、出来ない自分や他人を切り裁いて生きていかなアカンようになりまっせ」と安楽は言いたかったんではなかろうか?と。

犯罪空間

2013年01月26日 | 坊主の家計簿
この板垣英憲さんの役を吉本新喜劇でやるとするなら、やはりチャーリー浜かな?吉本新喜劇でなくとも、松竹新喜劇でも、山本周五郎の『どですかでん』でも、なんでもエエのだが、いわゆる下町人情物語に登場して来る、都会のインテリが言いそうな事なんだが。
明日か明後日か明々後日か解らんが、ブログに書くつもりだが(今日は時間がない)、都会のインテリさんからみたら猥雑かも知れないが、その中でも確かに生きている、生活している人たちが居ているわけだ。暴力的かも知れん。『犯罪空間』かも知れん。でも、確かにそこに生活している私(たち)が居ているわけだ。
「アホ」「ボケ」「カス」「しばくぞ」「殺すぞ」が日常会話だったりする世界があるわけだ。
昔、『21世紀に残す言葉』やったっけな?そんな番組があった。その中である河内のオッさんが確か「お前、舐め取ったらしばきまわずぞ!」みたいな言葉を21世紀に残したいと言っておられた。大阪の下町では、この言葉は「私はあなたの事が大好きです」という様な意味合いだ。
そういう生活をしている人たちに対して「なんて野蛮な人たちなのかしら…」と思うのも勝手だろうが、そこには住めないし、多分、一緒に酒も飲めない。「出て行け、こら、カス」だろう。

急に今東光が読みたくなった。いや、読んだ事はないのだが…。八尾の朝吉を「愛される存在」として描くのと、八尾の朝吉を含めた世界を『犯罪空間』と観るのとでは全然違うと思うのだが。

和田稠先生は吉水教団の事を「猥雑な教団」と。遊女も来ていただろし、泥棒の耳四郎も来ていた吉水教団。そういう吉水教団での感動を親鸞聖人は

源空光明はなたしめ
 門徒につねにみせしめき
 賢哲愚夫もえらばれず
 豪貴鄙賎もへだてなし

と。

『善人には居場所を与えられ、悪人は奪われる』という竹中智秀先生の言葉を思い出す。

何が『犯罪空間』じゃボケ!こっちはそのお前らがヌカす犯罪空間で生まれ育って死ぬまで生きて行くんじゃ、ボケ!

http://bylines.news.yahoo.co.jp/eikenitagaki/20130125-00023206/

歎異抄第十章

2013年01月26日 | 坊主の家計簿
 facebookノートって、そろそろ打ち切られそうなんだろうか…。ブログとの連携も切られたし、今の画面(?)ではノートに辿り着くのが面倒だし。
 やっぱ、gooブログだよね♪自分のブログ内検索も出来るし、もう、ノート代わり♪
 というか、せっかく打ち込んだ色々な本を「gooブログ有料化!」「gooブログ廃止!」という危機から逃れる為に、とっとと保存して置かなければ…。

 遺言。私が死んだら、このgooブログを遺稿集にして、何処か安全なサイトで保管して下さい。お!これは商売になるかな(笑)facebook墓苑とか(笑)

 という事で、先日の学校での課題発表。



  

 @歎異抄第十章 
                           
※ 表題 「汝、無量寿に帰れ。無量寿に帰って無量寿を生きよ」(信国淳先生)

※ 本文

「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。そもそもかの御在生のむかし、おなじこころざしにして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまわりしかども、そのひとびとにともないて念仏もうさるる老若、そのかずをしらずおわしますなかに、上人のおおせにあらざる異義どもを、近来はおおくおおせられおうてそうろうよし、つたえうけたまわる。いわれなき条々の子細のこと。


※現代語訳(朝日新聞出版『現代語 歎異抄(親鸞仏教センター訳・解説)』)

「念仏は、人間を苦しめる偏った価値観による意味づけや考え方を破り、解放をもたらすところに如来の意図がある。それは、言葉も及ばず、説き尽くすこともできず、考えることをも超えているからである」とおおせになりました。親鸞聖人がご在世の頃、同じ志をもって、関東から京都まではるばる聖人を訪ね、また信心を同じくして、如来の大悲によって、いまここに開かれてくる明るい真実の世界を生きたいと願った人々は、同じときに聖人から本願の御こころをお聞かせいただいた。その人々に従って念仏に生きている老若男女は、数えることもできないほどたくさんいらっしゃる。しかし、最近ではそのなかに聖人の教えとは異なった諸説を唱える人々がいると伝え聞いている。それらは、まったく根拠のない主張である。詳しく問題点を吟味してみよう。


※ 語意・語註(東本願寺出版部『歎異抄』)

(一) 無義…人間の思慮分別を超えていること。

(二) 義…最も大切な意義。

(三) 不可称不可説不可思議…言葉やはからいを超えて、真実を実現するはたらき。

(四) 御在生のむかし…親鸞聖人が生きておられた頃。

(五) 遼遠の洛陽…はるか遠い京都。

(六) 当来の報土…必ず生まれていくことが決定した真実の浄土。

(七) 上人…親鸞聖人のこと。

(八) 異議…誤った信心の了解。

(九) いわれなき…根拠のない。


※ 関連語句

【此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す】(小部経典『自説経』1, 1-3菩提品)

【縁起には一般的縁起(外縁起)と価値的縁起(内縁起)の二つがある。仏教で必要なものは価値的縁起であるが、その基礎として、またはそれを譬喩的に説明するものとして、一般的縁起(縁起一般)が説かれる。前に縁起説の基本的なものとして揚げた「これあればかれあり云云」の語句は一般的縁起を説いたものである。(中略)仏教で縁起が説かれるのはこのような多くの事実世界の現象関係を明らかにするためのものではない。仏教では苦楽迷悟などの人間の運命に関係する社会・人生の宗教的・論理的な現象の動きを正しく知るために縁起を説いた。しかし社会・人生の現象は、時間的にも空間的にも、極めて複雑に関係し合っていて、容易にこれを見究めることができない。】(水野弘元『仏教要語の基礎知識』161~162頁)


※ 所感

 歎異抄第十章というのは「おおせそうらいき」までで、後の部分は別序(中序)だと思っていて分けて読んでいたのですが、今回の課題では「いわれなき条々の子細のこと。」までである。テキスト『歎異抄』も十章は「いわれなき条々の子細のこと。」までであり、古い写本
(大谷大学『歎異抄の世界』http://web.otani.ac.jp/tannisyo/)
での確認や、

【この第十条は最初に「師訓篇」の締めくくりのような形で「無義をもって義とす」と述べ、「そもそも」からは「異義篇」を説き出す序のような体制をとっています。現代では、これらをひとつながりの文章と解釈する説と、ふたつを別物(十条の後半を「中序」とする)と考える説があります。けれども、『歎異抄』のどの写本にも、第十条をふたつに分けたものはありません。そこから想像されるのは、原本もつながっていたということです。おそらく、「そもそも」からガラッと意味が変わるので、その内容をくみとって「中序」とする説が生まれたと思われます。しかし、ここでは、ひとつながりの文章として考えていくことにしましょう。】
(朝日新聞出版『現代語 歎異抄(親鸞仏教センター訳・解説)』120頁)
という言葉を受けて諸々考えている中で

【念仏には、それらの数多くの先人達の血と涙と汗によって守られて来た祈りの歴史がこめられています。それは人間の分別や理論で信じるとかの判断で決められるものではないものでありましょう。不可称・不可説・不可思議と仰せられる歴史の事実であります。にもかかわらず、
「上人のおおせにあらざる異義どもを、近来はおおくおおせられおうてそうろうよし、つたえうけたまわる」
のであります。それは念仏の無義を義とする精神、つまり信心なき故にであります。義をもって信を立てんとする分別の傲慢さの故でありましょう。」
(藤元正樹『ただ念仏のみぞ』225頁)

という言葉との出会いがあったので、第十章全体を一文として読んでみます。


【たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。】(聖典149頁)

 現代語訳では

【たまたま行信をえたなら、はるかむかしからのご縁があったことを慶ぼう】
(東本願寺『解読教行信証』4頁)

と、「たまたま」である。親鸞は、御自分の御念仏との出会いを「たまたま」であると、決して自分の努力や才能の結果であるとは述べられていない。

 仏教は諸法因縁生である。

【二つには、いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして有らゆることなきこと、虚空のごとしと。】(聖典169頁)

 現代語訳

【二つには、あらゆる存在は因縁によって生じているので、とりもなおさず不生であって実体的にあるのではなく虚空のようなものである、と】
(東本願寺『解読教行信証』53頁)

 同じページの『諸法は因縁生』の解説には

【すべてのもの(法)は、数限りない原因(因縁)によって生じており、実体はないということ。】

とある。

 これは後ほどの課題になるのだが、歎異抄第十三章には
【故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。】
【「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいしに】

とある。

 仏教を、本願念仏の御教えを私有化し、我が努力の結果とし、自らを誇る、義を立てる道具としてしまう。そういう業(煩悩)を私は持っている。故に「私が」になる。
 私は教団の一部で『在家出身』と呼ばれる。つまり寺で生まれ育ったわけではない。その為に偏見で見られた経験もあるが故に、尚更「私が」になる。虐げられたプライドは、それをやり返す事によって回復しようとしてしまう。まるで私の努力によって僧侶になり、住職になり寺を運営しているという魔境に陥ってしまう。そこには、様々な、多くの働きが全く見えていない。
 大谷専修学院別科時代に「踏みにじっている大地から祈られている」というような事を寮での日誌に書いた時に恩師は

【猶し大地のごとし、浄穢・好悪、異心なきがゆえに】(聖典55頁)

という言葉を紹介して下さりました。

【我慢(がまん)
胴上げが、合格発表の場面などでよく見うけられます。(遊びたい気持ちをよくガマンして勉強したね、おめでとう)。「我慢」のもとの意味は、実は「胴上げ」が象徴しています。「慢」という字は「思い上がりの心」を示しています。どのように思い上がるのかというと、我というものにこだわって、自分で自分を胴上げ?するのです。みんなから胴上げされるのと違って、ちょっと寂しいすがたです。
仏教は諸法因縁生(しょほういんねんしょう)を説いています。すべてのことはお互い因となり縁となりながら、深く関係しあって存在しているということです。そこに私たちを支えている大地があります。しかし、その諸法因縁生を無視すれば、自分を支える大地をも失ってしまい、あとは自分で自分を支えるしかありません。自らを高く挙げる(高挙)ことによってしか生きることができないと思い込んでいる私たち。我慢とは、諸法因縁生に暗いという「根本的な迷い」を生きる私たちのすがたを指し示しているのです。
たとえどんなに謙虚でガマン強い人でも例外ではありません。わたしたちは、仏の言葉をとおして、諸法因縁生という大地の存在を知らされることがない限り、永遠に自分で自分の胴上げをしていくことになるのです。
「猶(なお)し大地のごとし、浄穢(じょうえ)・好悪(こうお)、異心(いしん)なきがゆえに」(真宗聖典55頁)。大地を知らされ、自らの胴上げから解放された仏弟子たちの感動の言葉です。】
(埴山和成 月刊『同朋』2002年3月号より)

 教えに帰る事の大切さを思う。

囚人

2013年01月25日 | 坊主の家計簿
 桜宮高校体罰問題。

 これは数日前から関西ローカル(?)のニュースワイドショーでは問題になっていた事だが、



【桜宮高校生徒に嫌がらせ/罵声や自転車被害…/保護者ら危惧の声

 大阪市立桜宮高校の生徒が教諭から体罰を受け自殺した問題で、被害者である生徒側が罵声などの嫌がらせを受けています。同校のある都島区のPTA協議会からは「とにかく子どもたちがこれ以上被害を受けないようにしてほしい」との声が上がっています。】
 (http://news.livedoor.com/article/detail/7344162/?_from=fbより)


 
 と。まあ、ある意味「解りやすい現象」でもあるのだが、当該生徒&保護者にとってはやってられない問題である。記事内にもあるが、ネット上では桜宮高校の生徒らしき人の実名まで上げての叩きもある。
 桜宮高校の生徒が体罰に対して共犯行為に当たるのならば、今までの学生全ても共犯行為になるのだろうし、その他の人たちも共犯行為になる。体罰があると知りながら生活して来たのが私(たち)ではないのか?
 故に論外の、非常に情けなく、悲しい行為である。

 
 橋下市長の「入試を中止しないと予算を止める」という圧力に対しては、熊本市の幸山政史市長は23日の定例記者会見で

【政治的介入に近いとの考えを述べ、「改めて、教育委員会の政治的中立性の必要性が明らかになった」とした。】
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130124-OYT1T00406.htmより)

 と。他に、少しソフトであるが北九州市の北橋健治市長も23日の定例記者会見で

【「首長は予算調整権を有するが、伝統的な解釈として、具体的な教育内容は基本的に教育委員会の考えが尊重されてきた」】
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130123/edc13012314320004-n1.htmより)

 と述べたらしい。

 今日一番書きたい事は、この事。
 当然、無断転載になるが、歴史的な記事だと思われるので、リンク切れを防ぐ為に全文転載させて頂く。



【誰が仕組んだのかしら?」尾木ママに女子生徒が反論 桜宮高2自殺

 大阪市教育委員会による募集中止決定を受け21日夜、桜宮高の生徒らが開いた記者会見。ブログで言及した教育評論家、尾木直樹氏に生徒らが失望している。

 「誰が仕組んだのかしら? 何か変すぎ」。尾木氏は22日未明、自身のブログで生徒らの記者会見について触れ、「ご遺族の心情を考えているの」「命の重みを分かっているの」と指摘した。

 会見した女子生徒は「先生をかばうために会見したわけではない。自分たちが学校を大切に思っていることや、学校の良い部分も知ってほしかっただけ。私たち子どもは、何を言ってもだめなのかと失望した」という。

 女子生徒は「入試や部活を中止することは、亡くなった生徒を悼むこととは違うはずだ」と訴える。「体育科があるから体罰があるかのように言われているけれど、違うはず。桜宮だけの問題にしてほしくない」と考えている。】
 (産經新聞2013/01/24 13:10 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/624631/


 尾木直樹氏(以下、尾木ママ)の当該ブログは

 http://ameblo.jp/oginaoki/entry-11454198108.html


 尾木ママは、テレビドラマ『金八先生』のモデルになった人物らしい。放送当時、私は中学生だったかな?金曜8時は猪木(新日本プロレス)だったので、クラスメイトが話題にしていても観なかった。また、話題にしていた人たちも余り好きではなかったという事もある。あれは学校に対して熱い気持ちを持っている人が好きそうなドラマであり、『学校』というものにシラケていた私は猪木。
 とはいえ、再放送では観た事があるが、確か『腐ったミカンの方程式』で加藤君が演説していたと思うが、あれは誰かに言わされたのかな?
 当然、テレビドラマなので作家のセリフを喋ったにしか過ぎないが、藤井誠二が管理教育反対バリバリだった頃に現役高校生として喋ってなかったかな?私は藤井誠二が高校卒業してからの出会いなので詳しくないが。だが、身近な所でいうと、後に友人になるヤツらは中学校1年生と中学3年生から新聞取材を受けていた。その後もごくごく当り前の如く、高校生になった友人達が集会の壇上やテレビを通じて発言してた事を見て来ている。というか、私は高校を途中で辞めたので高校生ではなかったが、私も集会の壇上で喋った事がある。
 今は知らないが、当時、青少年関係の集会の主催者は『大人』が多かった。言い出しっぺが現役中高生達であっても、会場を借りたりするのは『大人名義』。
 中高生が「こういうことをやりたい!」というのを『大人』がサポートする形もあった。私が通っていたフリースクールもそうだったはず(創立時のメンバーではありません)だが、そのフリースペースの中高生が中心になって、当時はまだ爆発的に売れる前のブルーハーツとか、動物愛護パンクバンド『ハニー・ディープ・ウエット』なんぞも出たイベントだったらしい。ホンヨンウンも出たのだったっけ?なんせ、私は「あの時は楽しかった」という話を同じ年や、年下を中心に聞いていただけだったので(ちなみに私18歳)。

 なので、尾木ママの話は「はぁ?」である。「ガキが声を上げたらアカンのんかい!」である。
 Twitterで面白い指摘があって、「尾木ママやその他の人たちの批判は、あれが灘高校だったら『さすがは灘高校の生徒さんよねぇ』になったのではないか?」というのがあった。鋭い指摘である。
 
 ついでと言ったら悪いが、『ゆんたんざ沖縄』という映画がある。
 
 http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/06-07/060730tokyouijouhou-hinokimi.htm

 現在、大谷派僧侶になった知花昌一氏も出ている映画だが、私は映画の前にニュース映像たまたま観たのだが、この映画にも日の丸をドブに突っ込んで投げ捨てた女子高生の姿が撮影されている。別に誰に「やらされた」わけでもない。彼女の自発的な行動だったのだろう。


【会見した女子生徒は「先生をかばうために会見したわけではない。自分たちが学校を大切に思っていることや、学校の良い部分も知ってほしかっただけ。私たち子どもは、何を言ってもだめなのかと失望した」】

 らしい。

 ネットで尾木ママに便乗して記者会見した人たちがどういう青少年期を送ってこられたのか知らないし、また、「発言する中高生」の姿を知らないかも知れないが、尾木ママが知らない事はないと思われる。恐らく、今までの中で多くの「発言する中高生」との出会いもあったはずだと思う。無かったのかも知れないが、それなら『教育評論家』の看板を降ろせば良い。取材(出会い)不足である。
 
 では、仮に尾木ママが「発言する中高生(小学生でも、幼稚園でも可)」との出会いがあったとして、今回何故「誰が仕組んだのかしら?」という様な発言をした事に対しての勝手な妄想として、尾木ママは非常に心優しい方で体罰を受けた事もあって自殺という人生を選ばれた人に感情移入し過ぎているのではないか。それが故に、他の事が眼に入らなくなっているのではないのか?

 尾木ママが体罰をした事があるのかどうかは知らないが、まあ、なさそうではあるのだが、恐らく体罰という現場は散々御存知であろう。『教師』という立場で御存知であろう。それが故に、尾木ママにとっては、今回自殺とおう人生を選ばれた方にダブさる顔が多くあるのではなかろうか。故に、苦しくて苦しくて仕方がないのではなかろうか。だから、その事にしか意識が行かない。いや、行けない。ある意味、『遺族感情』になっている。それが故に、橋下市長の教育現場に対する政治介入というもの凄い事が見えていない。いや、見ているのだろうが、「仕方がない事」になっているのではないだろうか。
 それと同時に、他の在校生の発言が聞こえなくなっているのではないだろうか。

 
 自民党の政権復活、維新の会大躍進で改憲の話題である。
 「憲法改悪」という人も居るが、「改正」と呼びたい人たちも居ている。
 アルジェリアの人質事件でも議論に上がったが、自衛隊法云々。北朝鮮の拉致問題もある。仮に「北朝鮮のどこそこに拉致された人が居ている」という確かな情報が上がった時でも、当然、現行憲法のままでは助け出す事は出来ない。その事を熱く、涙ながらに考えて居られる方々も居られる。

 「戦争は金だ」という人がいる。確かにそういう側面もある。

【西南戦争における軍事輸送は、国家の信頼を勝ち得るとともに、三菱が一大産業資本として発展する財政的基盤を築いた。】
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro16.htmlより)

 が一例だが、それは「そういう見方も出来る」という話でしかない。
 「北朝鮮に拉致されている被害者を助け出す事が出来ない…」と涙ながらに考えて居られる政治家の方々の中に安倍総理も居ている。

 だが、「助け出す時」には必ず『敵』を殺さなければならない。「殺す」というまでも害さなければならない。銃や兵器で撃たなければならない。
 
 こういう話になると「じゃあ、お前は自分の子どもが拉致された時にどうするんだ!」となる。当然、自分が出来る様々な暴力行為を働いても、あるいは、様々な力(国家・警察・自衛隊)を使っても助け出そうとするだろう。というか、間違いない。だが、その時に生じる『愛』が自己愛の延長でしかなく、『敵』も「同じ人間なんだ」というのもある。当然、甘っちょろい。甘っちょろし、「仏教に洗脳されている」でも何でも構わんのだが、それでも、仮に私が銃をもって我が子を助け出しに行く時に撃ち殺す相手は「我が子と同じ人間だ」という風に思いたい。


 暴力に正義はない。排除に正義はない。何かひとつの素晴らしい理念でもって排除する事を肯定かする事はオカシイ。が、生身の生活現場ではそうは言っておれない事も多々ある。煩悩具足の凡夫が故に、生身の生活現場の上で、今日なら尾木ママを出したが、何かに、誰かに囚われるが故に、他が見えなくなる。他の生身の声が聞こえなくなる。


 先日のこのブログの投稿を書くにあたって、思い出して一応書いたのだが、「あ、今日はええわ」で削除して途中までだった一文。


【分裂報恩講とは、紛争の相手であった大谷家と改革派があい争ったために分裂して報恩講を勤めざるを得なくなったのではない。簡単に言えば、一九七九年の報恩講で出仕してくる大谷家とその取り巻きを警備と称して内局が締めだしてしまったことから、そのやり方について改革派内の意見が割れ、改革派内に分裂が起きたのである。
 (中略)
「あの人たちは共に闘ってきた同士なんです。それがなんでこういうことになったのか。彼らの話も聞かんとあかん」
 織田師がこの分裂報恩講の直後に何かでこう発言していたことを覚えている。
 (中略)
「誤解もあったし、人事上の失敗も重なって、本当に分裂してしまった。確かに内局のやり方はますかったが、とてもせっぱ詰まっていたことは確かです。もう一度総括してみるにはいまが良い機会だと思いますね。風化させてはいかんのです。ここからもう一度お互いに原点に帰ってやり直さなければならん」
 織田師の話には静かだけれども力がこもっていた。あまり疲れさせないで欲しいという奥さんの話を思い出して早々に辞することにした。
「落合さんありがとう。あんたに会ったおかげで元気がでましたよ。まだまだやれまっせ」
 (中略)
 改革派を支えたこの年代の人たちには共通の肌触りがある。私は仕事がら、本当にさまざまな人に会う。しかし、どんな人にあっても宗門のこんな人に会うほど感動することはあまりない。温かくて、大きくて、歯に衣を着せずに核心をぐいぐい衝くのになぜか優しい。】
 (落合誓子『貴族の死滅する日』より)


 まあ、解らん人には全く解らない話題なんだが、私は、大谷派の教団改革を荷追った一人である故・織田招爾さんの「迷い」というか「揺らぎ」というか、そんなのが好きである。迷えるから、揺らげるから、正義に甘んじる事なく、さまざまな人に出会って行こうと出来るのではないのか?

 え~と、引用文を打ち込んでいる間に疲れました。寝ます。

尾木ママに女子生徒が反論

2013年01月24日 | 坊主の家計簿
【「誰が仕組んだのかしら?」尾木ママに女子生徒が反論 桜宮高2自殺
産経新聞 2013/01/24 13:10

 大阪市教育委員会による募集中止決定を受け21日夜、桜宮高の生徒らが開いた記者会見。ブログで言及した教育評論家、尾木直樹氏に生徒らが失望している。
 「誰が仕組んだのかしら? 何か変すぎ」。尾木氏は22日未明、自身のブログで生徒らの記者会見について触れ、「ご遺族の心情を考えているの」「命の重みを分かっているの」と指摘した。
 会見した女子生徒は「先生をかばうために会見したわけではない。自分たちが学校を大切に思っていることや、学校の良い部分も知ってほしかっただけ。私たち子どもは、何を言ってもだめなのかと失望した」という。
 女子生徒は「入試や部活を中止することは、亡くなった生徒を悼むこととは違うはずだ」と訴える。「体育科があるから体罰があるかのように言われているけれど、違うはず。桜宮だけの問題にしてほしくない」と考えている。】

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/624631/

子どもの教育&人権を語る資格なし。
「子どもを愛玩動物にする専門家」と名称を変更すべし。

「教育への政治介入に近い」

2013年01月24日 | 坊主の家計簿
【橋下市長の体罰発言「教育への政治介入に近い」

 大阪市立桜宮
さくらのみや
高の体罰問題に対する橋下徹市長の一連の発言に対し、熊本市の幸山政史市長は23日の定例記者会見で、「教育に対する政治介入に限りなく近い」と批判的な見解を示した。


 橋下市長は、体罰問題に絡み、同高の教員すべての入れ替えや、入試の中止要請を教育委員会が拒否した場合は予算を執行しない考えなどを示してきた。

 幸山市長は、記者会見で一連の発言への見解を問われ、まず、大阪市が取るべき対応として、〈1〉自殺の原因究明〈2〉当事者や監督責任者の責任問題の対処〈3〉再発防止策の策定――などを挙げた。

 そのうえで、「これから調査に入ろうとする途中であり、(橋下市長の発言は)一部の情報で感情的な発言につながっているのではないか」「過激な発言で自分の思い通りにさせるという手法にはとても違和感を覚える」と指摘。さらに、政治的介入に近いとの考えを述べ、「改めて、教育委員会の政治的中立性の必要性が明らかになった」とした。

(2013年1月24日11時09分 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130124-OYT1T00406.htm?from=tw

「入試中止に疑問」

2013年01月24日 | 坊主の家計簿
【桜宮高2自殺】「入試中止に疑問」 北九州市長
2013.1.23 14:31産經新聞
 北九州市の北橋健治市長は23日の定例記者会見で、大阪市立桜宮高の男子生徒自殺を受けた体育系学科の入試中止について「志望校を定めて頑張ってきた生徒、保護者の心情を考えると、個人的にはいかがなものかと思う」と疑問を呈した。
 さらに「首長は予算調整権を有するが、伝統的な解釈として、具体的な教育内容は基本的に教育委員会の考えが尊重されてきた」と述べた。

桜宮高校生徒に嫌がらせ

2013年01月23日 | 坊主の家計簿
【桜宮高校生徒に嫌がらせ/罵声や自転車被害…/保護者ら危惧の声
しんぶん赤旗 2013年01月24日09時32分


保護者ら危惧の声
 大阪市立桜宮高校の生徒が教諭から体罰を受け自殺した問題で、被害者である生徒側が罵声などの嫌がらせを受けています。同校のある都島区のPTA協議会からは「とにかく子どもたちがこれ以上被害を受けないようにしてほしい」との声が上がっています。

 同協議会には、桜宮高校の保護者らから、生徒の被害が報告されています。

 生徒が街で体罰問題の責任を問われるような罵声を浴びたり、自転車置き場で同校ステッカーを貼った自転車のサドルが抜かれるなどの嫌がらせが相次いでいるといいます。生徒がバスに乗っていて男性から「降りろ」と言われたケースも。

 同区にある全く別の市立校である桜宮中学校にも非難の電話がかかっており、生徒が因縁を付けられる事例も出ているといいます。

 加えて桜宮高校生徒へのインターネット上の誹謗(ひぼう)中傷はとどまるところを知りません。

 橋下徹市長が、一人ひとり違う生徒のおかれた状況や「意識」について丸ごと決め付けるような発言を繰り返し、「『自分は違った』は許されない」「当事者意識を」などと生徒側の責任を強調していることによる影響は否定できません。

 生徒からは「私たちは事件を決して軽くはみていない」「大切な命、守りたかったものが失われた」「市長の発言に苦しんでいる人もいる」との声があがっています。

 橋下市長の乱暴な介入で市教育委員会が同校の体育系2科の入試中止を決定した21日、同PTA協議会は、入試の実施や在校生の心のケアなどを求める要望書を市教委に提出しました。

 前日20日の同協議会の臨時実行委員会では「子どもたちには責任はない」「市長・市教委は子どもたちのことを考えて対応してほしい」「桜宮高校の先生全員が体罰を行っていたわけではない」「体罰は桜宮高校だけの事案ではない」「教職員・保護者の体罰に対する意識改革をしなければ」といった意見があがったといいます。(藤原直)】
http://news.livedoor.com/article/detail/7344162/?_from=fb

落合誓子『貴族の死滅する日』より

2013年01月23日 | 坊主の家計簿
【分裂報恩講とは、紛争の相手であった大谷家と改革派があい争ったために分裂して報恩講を勤めざるを得なくなったのではない。簡単に言えば、一九七九年の報恩講で出仕してくる大谷家とその取り巻きを警備と称して内局が締めだしてしまったことから、そのやり方について改革派内の意見が割れ、改革派内に分裂が起きたのである。】(落合誓子『貴族の死滅する日』より)

美名

2013年01月23日 | 坊主の家計簿
【社会を一気に人間的なものにしようとする企てはかならずその過程で非人間的な手段を採用する】(レヴィナス)

 らしい。レヴィナスという人がどういう人なのかもWikipediaぐらいでしか知らん。内田樹のTwitterで流れて来た。

 ものの見事に頭に血が昇っているという状態です。

 元々私は「管理教育反対!」の人である。体罰当然、校則当然。故に高校も辞めた。その後に行っていたフリースクールで管理教育反対の仲間や先輩達にも会えた。向うは覚えていないだろうが、藤井誠二にも何度も会った。
 ガキの頃の「管理教育反対!」は、一言で表現するなら「うっとうしいんじゃ!」である。上からの圧力がうっとうしくて仕方がなかった。習字の時間にせっかく書いた文字を赤で訂正される。「アホかコラ」である。故に、未だに字が汚い。もう、上からの圧力、正義面した圧力が大キライだった。


 




【橋下徹大阪市長が桜宮高の体育系2科の募集中止を市教委に要請していることに対し、18日も学校現場や保護者、弁護士などから抗議の声が上がった。
 市教委には同日までに中止撤回を求める要望書が団体や個人から38件寄せられている。
 大阪弁護士会所属の弁護士有志17人の代表者は市役所で記者会見。橋下市長が2科の入試が実施されれば今年度関連予算の支出を停止する方針を示したことについて、「議決を経た予算の執行を自在に停止できる権限は首長になく、違法行為だ」との声明を発表した。
 大阪府内の公立中校長でつくる校長会は募集実施の要望書を提出。保護者らでつくる市民団体「発言する保護者ネットワークfrom大阪」も「現場の声も聞かず入試を妨害するのは強圧的で問題解決に程遠い」と橋下市長に冷静な対応を求める要請書を出した。
(2013年1月19日09時26分 読売新聞)】
 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130119-OYT1T00297.htm?from=tw


 あのな。体罰は確かに問題や。教師が正義面して暴力振るう事は大問題や。じゃあ、橋下市長の圧力はどうやねん。
 上記新聞記事にもある様に、これは教育基本条例かなんか知らんが、エエんか?市長、一自治体の長の判断で、いや、圧力で入試が中止になる事は、エエんか?アリなのか?法的にも許される事なのか?

 在校生の声、保護者の声。生徒が何人か知らんが、生徒の声、保護者の声も色々だろう。マスコミが主に流す声は「入試中止は残念だ…」だが、その他の色々な声もあって当然だし、テレビ番組への投稿や、ネットでは色々な声が上がっている。当り前の話である。故に、「在校生の気持ちになって」は不可能だ。ただ、大阪市民のオッさんの意見として、「アホか」である。

 橋下市長は元々体罰容認の人だったみたいである。しかしながら、この事件で直接『自殺』という人生を選ばれた方の現場に行かれて意見が変わったらしい。

 元々、橋下市長は大阪の教育も改革したかったらしい。府知事の頃からか。まあ、おヒマな方はどうぞ。

 http://osakanet.web.fc2.com/kyoikujorei.html

 で、今回、どういう法律上の適合性があるのか知らないが、というか、


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 と、大阪維新の会所属らしいが、行政書士の方の意見もある。というか、橋下市長自身が弁護士なんだが。

 これは、2011年6月30日の朝日新聞の記事らしいが



【●教委できた歴史考えよ 加戸守行さん

 首長の考え方一つで教育が左右されるようなことは避けよう、という発想で作られたのが教育委員会制度。戦前の上意下達の教育行政で皇民化教育が一律になされたという反省にも基づいています。教育委員は首長が議会の同意を得て複数任命する。首長1人の判断よりは、合議制の方がメリットが大きいという考え方です。橋下さんは、この制度がもどかしいのでしょう。個人的には、今回の条例の中身自体に問題があるとは思いませんが、「自分の考える方向と違うから条例で」というのは制度ができた歴史を考えれば好ましいこととは思いません。

 教育行政の安定性、継続性を考えれば、首長はみだりに教育に首をつっこむべきではない。首長が交代するたびに方針がぶれれば現場が混乱し、子どものためにもならない。教育というのは、例えれば小回りの利かないマンモスタンカーのようなもの。カーブを切るにしても、ゆっくりゆっくり切らないと。】
http://plaza.rakuten.co.jp/bluestone998/diary/201107220000/



 これが一番端的だろう。首長からの圧力で教育現場が変わっていいのか?

 逆の話にする。

 橋下市長は日本維新の会の人である。共同代表らしい。
 橋下市長と同じく日本維新の会の共同代表は石原慎太郎氏である。



【戸塚ヨットスクールの子供救済再生の原理は極めて端的なものだった。それは動物行動学の権威コンラッド・ローレンツの唱えた脳幹論にのっとったものだ。
 (中略)
 ローレンツは『幼い時期になんらかの肉体的苦痛を味わうことのなかった子供は成長しても不幸な人間になりやすい』といっているが、それは人間が他者との摩擦に晒される社会の中で生き抜いていくために不可欠な健全な脳幹の必要性を意味している。脳幹はその名のごとく脳の中で致命的に重要な部分であって、人は大脳の一部を失っても生き続けることは出来るが、脳幹が少しでも損なわれると生きることは出来ない。人間の喜怒哀楽の感情、寒さ暑さへの反応、発奮、意欲、我慢といった内的な反応を伴った行動はすべて脳幹から発信して示される。

 現代の特性として子供たちの脳幹そのものがひ弱なものになってしまっているのだ。原因は現代社会の豊穣さと平和がもたらした安逸であって、貧困と欠乏は人間に我慢を、強い不安は緊張をもたらすが、それが淘汰されてしまうと、人間は安逸の内に自堕落となりこらえ性を失い安易な衝動に容易に身をまかせてしまう。】(石原慎太郎「失われようとしている子供たちのために」)
http://www.sensenfukoku.net/mailmagazine/no46.html

 

 という様な教育理念をお持ちのようであり、かつ、石原慎太郎氏は戸塚ヨットスクールを支援する会の会長でもあるらしい。現在も更新されているホームページが一応のソース。
http://totsuka-yacht.com/nyukai.htm

 んじゃ、仮に、どこか大阪市内の高校で暴力事件が多発した場合に橋下市長が「戸塚氏を校長にしないと予算を出しません」とか言い出したらどうするんだ?仮に殺人事件があった場合にはどうするんだ?「あの時は、あの時で適正な判断をいたしましたが、この高校には戸塚氏の教育方針が適切だと判断いたします。受け入れられないのなら、予算は出しません。」と言い出したらどうするんだ?前例が作られたんだぜ。


【社会を一気に人間的なものにしようとする企てはかならずその過程で非人間的な手段を採用する】(レヴィナス)

 急激な変化は生徒にも保護者にも影響を及ぼす。当然、『強い人』は構わない。どんな環境でも適合出来る『強い人』は構わない。でも、どうなの?思春期の多感な時期に、これって、どうなの?同級生が自殺しただけでも大事件だ。ショックを受けている学生は多いだろう。
 その学生を捕まえて「(体罰)に洗脳されている」云々の意見も多くあったりするが、何かの社会正義からの判断では「洗脳されている」と言えたりもするのかも知れないが、んな事関係なく、その人は、そこで生きているんだろうが。その生活現場で生きているんだろうが。クソッタレが。善悪関係なく、生きてるんだよ、クソッタレが…。

 私は、戸塚ヨットスクールという学校があっても別に構わない。そこの生徒が親からの強制で入れられているのなら子どもの人権に関わる事だからアウトだが、自分の意志で行っているのなら別に構わんだろうが。周囲からみたら「おかしな学校」かも知らんが、んなもん、判断する人間の色眼鏡だろうが。
 だいたい、坊主の修行道場で自殺者が出たらどうするのだ?自分を問い詰める作業の中で、体罰云々関係なく出たらどうするのだ?「自殺者が出る様な学校は法人として認めません」と、首を突っ込まれて来たらどうするのだ?

 という事で、左翼臭い一文で終わろ。

【ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。】
(マルティン・ニーメラー『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』)



 あ、記念保存。橋下市長大阪市教育現場弾圧に賛同する文化人。

 尾木ママこと尾木直樹氏と宮台真司氏の大阪市立桜宮高校体罰事件についてのコメントが鋭い(音声・文字起こし)。


 え~と、左翼臭い文章で終わるのは私のプライドが許さないのでもう少し。左翼、キライでんねん、最近。

 以前に恩師より「普通とは、普く通じる、という意味であって、解りやすくいうと各駅停車の事なんですよ」と教えて頂いて感動した。誰にでも停車する(出会おうとする)が故に『普通』であると。

【社会を一気に人間的なものにしようとする企てはかならずその過程で非人間的な手段を採用する】(レヴィナス)

 寝よ。

戸塚ヨットスクールを支援する会会長、日本維新の会代表・石原慎太郎

2013年01月22日 | 坊主の家計簿
【ローレンツは『幼い時期になんらかの肉体的苦痛を味わうことのなかった子供は成長しても不幸な人間になりやすい』といっているが、それは人間が他者との摩擦に晒される社会の中で生き抜いていくために不可欠な健全な脳幹の必要性を意味している。】(戸塚ヨットスクールを支援する会会長、日本維新の会代表・石原慎太郎)

http://www.sensenfukoku.net/mailmagazine/no46.html

橋下市長は石原慎太郎代表との関係をどうするつもりなのだ?