坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

権力に対する革命

2009年02月28日 | 坊主の家計簿
 2月28日

 雑費  麦茶       100円
 食類  発泡酒      198円

 合計           298円
 2月累計      108223円

 『実録・連合赤軍』を見てたら、犯人たちが逮捕された日が1972年の2月28日だった事にビックリ。要するに「今日は何の日?」なんぞというワイドショーのコーナーなんぞで「今日、2月28日はあさま山荘に立て篭っていた犯人たちが逮捕された日です」なんぞとやっていたのだろう。

 『犯人たち』と書いたが、やっぱし犯人やろ。
 例えば、私の部屋に突然「我々は革命軍の者です」と銃で武装した人達が入って来たら無茶苦茶うっとうしいぞ。
 「ゴメン、発泡酒を飲みたいから近所のスーパーで買ってくるわ」言うても、「外出は許しません。革命の為に我慢して下さい」は無茶苦茶うっとうしいぞ。焼酎だけで我慢せえいうんかい。
 革命の為か、戦争と搾取のない世界を実現する為か知らんが、今飲みたい発泡酒を飲ませないのは夜回り先生以下やぞ。管理教育のファシスト共以下やぞ。そうか、警察に差し入れして貰えばエエのか。犯人からの要求としてならこっちに請求書は回って来ないはずやし、そうすると発泡酒でなくビールがエエな。出来たら『よなよなエール』がエエな。冷えた『よなよなエール』を5本、いや、請求書が回って来ないのやったら10本やな。
 「只今、犯人からの要求で『よなよなエール』10本の要求がありました」と、テレビでじゃんじゃん流れたら「あの連合赤軍が要求した程美味いビール」として『よなよなエール』の人気沸騰でっせ。
 しかし、ここで心配なのは犯人が「頼むのなら一気に頼め!」と私に命令して来た時だ。革命を目指し武装蜂起する様な真面目な人達であろうから恐らくアル中の心情は解らないであろう。しかも、犯人が私の部屋に立て篭っている状況下であり、私は次の日に仕事に行けない状況下である。つまり二日酔いをしても構わない状況下である。そういう状況下でアル中の手元に大量の『よなよなエール』があれば、私は必ず手元にある全てを飲み続けてしまうであろう。するとカロリーオーバーである。相手は革命を目指す若い人達なので中年太りの苦労を知らないであろう。基礎代謝が少なくなり、日々、「これ以上ウエストが太ったらジーパン買い替えんとアカンやんけ」という苦労を解らないであろう。私が何故発泡酒をケース買いしない理由は犯人たちに解らないであろう。
 しかし、ここで諦めてしまえば私は中年の恥であり、アル中の恥である。犯人たちを説得しなければならない。
 「世の中には君達には解らない苦労を抱えている人も居るのだ。それを無視して何の為の革命なのか。今ここでジーパンのサイズがこれ以上大きくなると困る私を無視して、何の為の革命なのかね?」
 と、説得しなければならない。
 しかし、犯人側はこういうかも知れない。
 「解りました。手持ちのジーンズの全て、並びにスーツや礼服の全てを我々の革命資金から捻出致します。仲間達に向けて約定を書きますので、これを御持ち下さい」
 と、云われた時には私は喜んで犯人たちに協力しよう。。。

 ん?なんか話が。。。

 20歳の時だったと思うのだが、解放運動をバリバリにやってた、まあ、いわゆる『歴戦の闘士』が、革命を目指す若い人に対して「お前のワガママで革命なんかされたら迷惑じゃ」と批判してはった。

 大義名分というのがある。
 「革命の為」も大義名分である。 
 『世間の常識』も大義名分である。
 大義名分は『個』を殺す。個を犠牲にするのが大義名分である。いわゆる『正義』である。人間は完璧であるはずがない。そういう中で『正義』なんぞの大義名分を持ち出して『個』を殺す。生身で生きている個人の尊厳を無視する。
 無視される筋合いは誰にもない。無視する権限がどんなに御偉い人であろうが無いのと同じく、無視される筋合いもどんなに偉くない人であってもあり得るわけがない。それが仮に『死刑囚』であっても。

 如何なる大義名分であっても、それに平伏さなければならない筋合いは一切ない。
 「国家の為」
 「革命の為」
 「地球平和の為」
 「世間のしきたり」
 「世の中の常識」
 「これが普通である」
 等々。
 個を無視する大義名分。

 気になって少し調べると、gooの辞典では大義名分は

【人として、また、臣として国家や君主に対して守るべき道理・本分や節義。ある行為のよりどころとなる正当な理由や道理。▽「名分」は身分などに応じて、守るべき本分。】

 とある。元々は儒教に由来する言葉(思想)であるらしい。
 何にしても個人を尊重する言葉(思想)ではない。
 個人よりも、国家や、君主等が先に立つ。つまり、『大義名分』が先に立つ。

 『臣として国家や君主に対して守るべき道理・本分や節義。』は、人ではない。奴隷の忠義である。大義名分に従うのは奴隷の忠義である。

 生身の人間を奴隷化する思想に従わなければならない筋合いが生身の人間にあるわけがない。
 生身の人間が奴隷になる筋合いは一切ない。

「物をいえいえ」(by蓮如)

2009年02月27日 | 坊主の家計簿
 2月27日

 雑費  缶ミルクティー      120円
     レンタル2        560円
 食類  諸々           800円

 合計              1480円
 2月累計          107925円

 そういや、最近、毎朝『缶ミルクティー』なんぞという甘いもんを飲んでるんだが、糖分、大丈夫かな?なんぞと心配したりするのだが、まあ、当分大丈夫であろう。。。

 イマイチである。
 「貴様はそれでも40歳の中年か!エエ加減に親父ギャグをマスターせんと立派な中年には成れんぞ!」
 なんぞと云う批判も聞こえて来そうなんだが、立派であろうとなかろうと40には変わらん。

 レンタルは
 『クライマーズ・ハイ』
 『実録連合赤軍』

 今日観たのは下記の2作品
 
 『カメレオン』
 阪本順治が監督だったので借りてみたんだが、まあ、水川あさみは変わらず素敵で、藤原竜也もカッチョ良かった。んが、なんとなく藤原竜也のアイドル映画に思えたのだが。。。『一座』という家族を中心に据えるのなら、『仲間』という家族を中心に据えるのなら『97分』という少し短い時間でなかった方が良かったと思う。

 『クライマーズ・ハイ』
 結構良かった。日航機事故に関連する映画なんだが、この映画は『個々』である。上司と部下云う関係であっても『個』と『個』がハッキリしていた。個と個が、上司と部下という関係であっても、同じひとつの新聞を作るにあたって、誰もが真剣に取り組み、真剣であるが故に個と個が激しくぶつかりあい、そして、助けあっていた。誰もが真剣であるが故に当然の如く個と個がぶつかりあい、ひとつの『新聞』が完成する。
 『なあなあ』であったら、衝突する事無く、「どうでもエエ」なら、声のデカイ人間が決めた事だけの紙面になる。大本営発表みたいなもんである。
 
 明日は『実録連合赤軍』を見よ。
 レンタルにあるとは思ってなかったので、見つけた瞬間に即レンタル。
 当然、連合赤軍だけでなく、全学連、全共闘、その後の労働運動や学生運動にも問題はある。解放運動にも問題はある。どうしても『正義』に陥りやすいし。今日の多くの市民運動にある、イヤな優生思想みたいな感じもある。
 んが、声を挙げんと何も始まらん。声を挙げ無ければ、声を挙げた人の意見しか通らないのだ。
 選挙に行かなければ選挙に行った人だけの『声』でもって政治が決まる。
 マスコミのデカイ声に無条件に従ってりゃ、そのデカイ声が『世論』になったりする。マスコミが語る「世の中の人はこういう風に感じているのですよ」なんぞという勘違いも甚だしい「勝手に決めるな!」と云う事が、勝手に決まったりする。
 そういう『勝手に決まっている』事が『世間のしきたり』だったりする。

 世間では『上座と下座』であるが、真宗では『平座』である。平座の声を上げなければ、『上座と下座』が当り前になる。
 いや、成っているのだ。なっているが故に「勝手に決めるな」であり、平座を訴えかけて行かなければならないのである。真宗門徒が平座の声を挙げずに他の誰が挙げるのだろうか?

 いわゆる『冠婚葬祭本』と云うデカイ声があり、その内実はそれぞれの『日本文化』を無視した事柄にしか過ぎない。
 ちゃんと調べては居ないが、多くの冠婚葬祭本には『但し、浄土真宗は除く』等と書いているものもある。そういう言葉がまだ書かれているうちが華である。声を挙げ無ければ『但し、浄土真宗は除く』とも書かれなくなる。

 専修学院の本科を卒業した直後に本願寺派の若手僧侶達と『行動する念仏者の会』なんぞを作った。機関紙だったか、呼びかけ文だったが忘れたが、あ、最初に仕上がった機関紙の『0号』だったかな?そんなものを当時通っていた仏青の講師でもあった専修学院の竹中先生に渡した。感想も聞かせて頂いたので、ちゃんと読んで頂いたみたいである。
 その後、私が専修学院別科に戻った時に云われた事。「本願寺派と教学論争しなさい」と。「デモ等を東西本願寺の有志でやってますけど、教学論争をしなければいけません」等と。何度か云われた。

 仲良しグループ。
 共通の敵を作りだし、共同作業をするだけなら、国家そのもの。
 国家を敵にする事で、こちら側も『国家』を作り出す。
 国家内の論争がなければ、違いを『違い』としなければ『和』は成り立たない。
 『和』とは『和合衆』の『和』である。『和合衆』とはサンガである。

 大谷派教団は『法の主』が、『門徒の首座』になった。平座になった。

【仰せに、「身をすてて、平坐にて、みな同坐するは、聖人のおおせに、「四海の信心のひとは、みな兄弟」と、仰せられたれば、われも、その御ことばのごとくなり。また、同座をもしてあらば、不審なることをもとえかし、信をよくとれかしと、ねがうばかりなり」と、おおせられそうろうなり。】(蓮如上人御一代記聞書39)

【蓮如上人、仰せられ候う。「物をいえいえ」と、仰せられ候う。「物をいわぬ者は、おそろしき」と、仰せられ候う。「信不信、ともに、ただ、物をいえ」と、仰せられ候う。「物を申せば、心底もきこえ、また、人にもなおさるるなり。ただ、物を申せ」と、仰せられ候う由候う。】(蓮如上人御一代記聞書87)

 「物はイエイ!イエイ!キンコンカン健ちゃ~ん。」

 イマイチか。。。
 っちゅうか、トミーズ健ってマイナーかも知れんのぉ。。。

 まあ、

 ♪メジャー マイナー 関係ねえ
  右翼も 左翼も 関係ねえ
  この俺がテッペンで 
  この俺がどん底さ
 (JAZZY UPPER CUT)

隠し砦の三悪人

2009年02月26日 | 坊主の家計簿
 2月26日

 雑費  缶ミルクティー      120円
     レンタル2        210円
 食類  諸々(水・ワイン込)  1647円

 合計              1977円
 2月累計          106445円

 レンタル2は
 『隠し砦の三悪人』
 『カメレオン』

 『隠し砦の三悪人』だけ見る。
 レンタル屋の新作コーナーにあって「お!時代劇やんけ」で借りてみたのだが、長澤まさみが出てやがった。。。どうも好きになれん、この女優さんは。

 江戸時代の身分制度は『僧』と『俗』に分けられていた。そして『俗身分』の中での『士農工商穢多非人』である。

 『隠し砦の三悪人』では長澤まさみ演じる姫に『民』が頭を下げる。え~。。。なんで下げなアカンねん。長澤まさみがやたらと「民は」「民が」等と云う。姫だろうが、殿だろうが、天皇だろうが、人間やろうが。人間が人間に『身分』という事だけで頭を下げる理由があるのか?あるとしたら、それはどんな理由やねん。どんな差別的な、人間を粗末にした発想方法やねん。
 しかし、人間は鬼畜である。人を粗末にする事を屁にも思わないのが悲しいかな人間である。差別を肯定する事に全く疑問を抱かないのも人間である。それは毎日食べる食べ物が「私の為の犠牲になっている」とも思わず、「当り前」であったりする事から考えてみればすぐに解る。
 もしくは近くの寺の本堂に行けば『仏華』という切り花がある。「仏様に供える為」なんぞと斬り殺す。その後に土に埋めようが、その後に子孫を残そうがなんだろうが、『斬り殺す』事には一切変わりはない。そしてそれが平気の当り前の事になっている。あれが『僧』と『俗』の差別意識の典型である。つまり『僧』は『俗』の犠牲を何ら一切お構い無しに『当り前だと』思っている。犠牲が当り前の所に『罪悪』も『煩悩』も成り立たない。一切成立しない。つまり『問われる』という事がない。現状維持の御偉い御上人様のマンマ。
 「奉仕されるのが当り前」「布施されるのが当り前」「下々の『民』が私に頭を下げるのは当り前」である。そこに『苦』など一切ない。求めない人間に『苦』はない。生きる屍に苦があるはずがない。我欲に酔い、酔っている事にすら気づかない。

 『隠し砦の三悪人』を見る前に、テレビで『秘密のケンミンSHOW』を見てた。何やら東京に『かすうどん』の店が出来たらしい。
 『油かす』は、大阪の被差別のソウルフードである。被差別のソウルフードがついに『秘密のケンミンSHOW』という全国ネットの結構視聴率の高い番組に出たわけだ。

 主に在日コリアンの人達のソウルフードだったホルモンは、今日では全く珍しくない。それでも、在日一世の人が体験した話では、日本人から「お前らはクソ袋を食べるのか?」と侮蔑されたらしい。

 被差別に対する差別は無くなっていない。
 在日コリアンに対する差別も無くなっていない。

 女性に対する差別も無くなっていない。
 「女が男を支えるのは当り前だ!」等という『内助の功』が当然とされ、美徳とされる。差別が美徳とされる。

 『姫』に対して『民』が頭を下げるのは礼儀作法である。世間の礼儀作法である。
 『姫』に対して『民』が敬語を使うのも礼儀作法である。世間の礼儀作法である。

 今日、学習会での発表なんぞも終わり、読んでた本をすぐに引っぱり出せるようにしてある『手元本棚』から、『通常本棚』に本を戻してたら、母校の卒業生会報を発見。え~。。。放ったらかしにしてあったわけでんな。開封すると、表紙にある先生の文章が載ってた。『恩師』とは呼ばないが、それでも1年間一緒に生活して、『先生』として教えて下さった方。
 ガキが出来たらしい。学生時代の頃を思い出して、懐かしく思い出しつつ、変わらず不器用に迷いつつ子育てをしながら、自分や自分の子どもを他と比較してしまう日常生活の中で恩師・竹中先生の「くらべず、あせらず、あきらめず」という言葉を聞きながら生活して居られ、
 
 【ふだんは育ててやっている意識でいるけれど、実は育てられているのは私】(生實良子『青草第195号』より)

 という言葉を教えて下さった。

 ペラペラ捲って行くと、恩師・竹中先生の亡くなる三日半前に書かれた手紙が紹介されてあった。卒業生の機関紙という『公』に発表された文章なので、かつ、人類の遺産なので勝手にこのブログにも一部引用。

【念仏者が繰り返し法難を受ける時は、逆に、真宗が民衆の中に興隆している時にかぎってのことなのです。なぜなら、
 一、阿弥陀如来の摂取不捨(えらばず・きらわず・見すてず)の本願を、その本願こそ真実とえらび取った念仏者は、その阿弥陀如来の本願によってひらかれた国、浄土を我が本国、故郷として、ここにあって自覚し、自証しながら、四海の内みな兄弟として出会いながら、ねんごろな交わりを開くことをよろこびとするからです。
 しかし現実は、民族問題にしても、民族内問題にしても、とくに日本民族は天皇を中心とする差別的な血統信仰を根づよく伝統してきていますから、その阿弥陀如来を中心とする平等思想を容易に受けいれることができません。そのため念仏者は迫害排除されてきた歴史があります。こういう中で、あえて「念仏のみぞまこと」と言いきれば首が飛びます。それが法難の歴史であり真宗興隆の歴史です。
 二、安楽房は後鳥羽上皇に直接、念仏者を迫害し念仏を誹謗されるのに対して、回心懺悔されることをすすめ、六条河原で断首されています。
 しかし、その後鳥羽上皇は安楽房のいのちがけの念仏のすすめにより、のちに隠岐に流されて後、念仏者となり、無常講式を作り、念仏者を讃嘆しています。それが蓮如上人の白骨のお文にもなっています。
 門徒は、絶対の権力をもつ天皇も阿弥陀仏の本願真実、浄土真実に背ききることはできず、必ずその本願真実、浄土真実に信順するほかないことを充分にうけとめていたといえます。
 この伝統こそ、法難を逆縁として真宗が興隆することを証明しています。
 三、流罪の教団、流罪の聖人を口にすることは、ながい間禁句でした。それを禁句でなくタブーでなく、逆に流罪の教団だからこそ真宗を興隆するパワーを宿していることを是非公にして下さい。】(竹中智秀『青草第195号』より)

 引用文を書きながら、

【たとい、かの聖教を山野にすつ、というとも、そのところの有情群類、かの聖教にすくわれて、ことごとくその益をうべし。】(口伝鈔より)

 という言葉を思いだし、「どこに書いてあったかな?」と探す。

 仏法の私有化、仏法を私個人の都合の為の道具にする。相手に『勝つ為』の道具にしてしまっている。
 でも、引用の先生達の言葉を紹介出来るだけでもエエか。

 生實先生(旧姓・柴田先生)の文章を読んでて「シバっちは変わってないのぉ」なんぞと思ったりする。
 私も、きっと変わっていない。変わらず「文句あったら殺すぞ」である。

普通の異常人格者

2009年02月25日 | 坊主の家計簿
 2月25日

 雑費  缶ミルクティー      120円
 外食  フライ蕎麦        313円
 食類  海鮮2種         200円

 合計               633円
 2月累計          104468円

 昨日の学習会での発表は親鸞の『愚禿悲嘆述懐』っちゅうやつ。これは今日我々大谷派では和讃として声明では読まない。読まないので標準の勤行本には載っていない。載っている本もあるが、まあ、多くの声明本には載っていない。当り前だ。勤行として使用しないのだから。
 読まない理由は不明である。不明ではあるのだが、とある先輩が「化身土巻があまり読まれなかった事に関連するのではないか?」と語っておられた事が印象的である。

 だって

<第七首>
五濁増のしるしには
 この世の道俗ことごとく
 外儀は仏教のすがたにて
 内心外道を帰敬せり

<第八首>
かなしきかなや道俗の
 良時吉日えらばしめ
 天神地祇をあがめつつ
 卜占祭祀つとめとす

<第九首>
僧ぞ法師のその御名は
 とうときこととききしかど
 提婆五邪の法ににて
 いやしきものになづけたり

<第十首>
外道梵士尼乾志に
 こころはかわらぬものとして
 如来の法衣をつねにきて
 一切鬼神をあがむめり

<第十一首>
かなしきかなやこのごろの
 和国の道俗みなともに
 仏教の威儀をもととして
 天地の鬼神を尊敬す

<第十二首>
五濁邪悪のしるしには
 僧ぞ法師という御名を
 僕使となづけてぞ
 いやしきものとさだめたる

<第十三首>
無戒名字の比丘なれど
 末法濁世の世となりて
 舎利弗目連にひとしくて
 供養恭敬をすすめしむ

<第十四首>
罪業もとよりかたちなし
 妄想顛倒のなせるなり
 心性もとよりきよけれど
 この世はまことのひとぞなき

<第十五首>
末法悪世のかなしみは
 南都北嶺の仏法者の
 輿かく僧達力者法師
 高位をもてなす名としたり

<第十六首>
仏法あなずるしるしには
 比丘比丘尼をとして
 法師僧徒のとうとさも
 僕従ものの名としたり

 という辺りは、ヤバイやろ(笑)

 というか、元々仏教っちゅうのはヤバイ教えであり、法然→親鸞なんぞもヤバヤバである。
 大谷派だけでなく、本願寺系の真宗門徒は上記の和讃を声明で使わないのが慣例らしいが、使うとまあ、他の仏教教団との間に軋轢が生まれる。
 だが、それが法然→親鸞の真宗門徒の伝統だったはずなのだが、それが故に死罪・流罪されるような教団だったはずなのだが。
 ただ、それは、いわゆる『仏教者』に対するイメージとは違って来る。ほら、仏教をやってる人、まあ、坊さんなんかもなんとなく『穏やかなイメージ』でんがな。
 
 「不平不満や愚痴を言ってはいけません。与えられた現実の引き受け、満足して生きて行くのが仏教の教えです。それが今日、社会や世の中に対して不平不満を言う人が多過ぎます。そういう人達はもう少し仏教を学んで頂いて日々の生活を感謝し、不平不満を言わずに穏やかに満ち足りた人生を送って頂きたいものです。」

 なんぞと。

 これは地獄に堕ちる人(差別者)をそのまま放っておけ、という事である。
 現実を引き受ける事は肝心要であるが、現実を引き受けたが故に宣言があるわけである。現実を引き受けない限り宣言なんぞはあり得ない。水平と云う地点、つまり浄土という水平に立つが故に、差別社会の中で「こんな私はイヤだ!」「ああいう人はイヤだ!」でなく、現実を引き受けられるわけであって、当然、そこから水平を目指す歩みが始まらざるを得ない。
 差別世のままで現実を引き受けるのならば、それは『我慢』という慢心で引き受けているにしか過ぎない。我慢は「私さえよければそれで構わない」という事である。つまり、地獄状態にある差別者に対して『我慢』する事は、「私さえよければそれで構わない」という事である。

 宣言は、水平者の宣言である。
 それが故に

【夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。】(宣言より)

 であり、

【人の世に熱あれ、人間に光りあれ。】(宣言より)

 である。

 仏教に人権思想はない。人権思想はないが、罪悪深重煩悩具足の凡夫として全くの平等である。
 罪悪深重煩悩具足の凡夫として、全く対等な、全く平等な、全く水平な人間でしかない。

 差別するのは煩悩のなせる技である。差別してしまう事が凡夫の証明でもある。

 差別を『当り前』だと云う方々も多く居られる。
 まあ、「世の中はこういうもんや」と、差別世での現状肯定である。故に我慢する。我慢して「私さえよければそれで構わない」である。鬼畜の所行である。決して仏の所行ではない。
 当然、仏弟子の所行でもない。
 
 ただ、『敵』ではない。『敵』とする所には『私は正しい』という前提がある。『私たちは正しい』という前提がある。
 違うのだ。共に煩悩を抱えた存在でしかないのだ。地獄一定でしかないのだ。
 『私は正しい』『私たちは正しい』は、煩悩の自覚がない。凡夫(ただの人)ではない。正しい、悟った『御上人様』である。
 正しいが故に平気で人を差別する。
 「世間ではこれが当り前だ」なんぞと、道を求める事もなく、『世間のしきたり』を知ろうともせずに、御自分が知っている『世間のしきたり』という狭い知識だけが『正しく』、それ以外の『世間のしきたり』は「間違っている!」なんぞと平気で人を差別する。
 まさしく、これが『凡夫(ただの人)』の証明である。後は、御本人が仏との関係で『凡夫(ただ人)』であるかを認められるかどうかだけの話である。

 『普通』という言葉を使ったりするが、『普通』とは『普く通じる』という事である。
 『日本文化』なんぞはない。あるのは『それぞれの地域の文化』である。んな事は、別に難しい本なんぞを読まなくともテレビで『秘密のケンミンSHOW』を見れば解る話である。
 『世間のしきたり』なんぞもあるわけがない。んな事は『秘密のケンミンSHOW』を見れば解る。
 
 『普通』とは『普く通じる』である。つまり、個々である。個々を尊重する所に初めて『普通』が成り立つ。『罪悪深重煩悩具足の凡夫』という所に『普通』が成り立つ。
 しかし、多くの場合の普通とは、御自分が知っている狭い知識でしかなく、他を排除する為の『普通』である。
 それは普通ではない。異常である。
 つまり、「普通世間ではこういう風にするもんや」とは普通でなく異常であり、御自分のエゴに従わない人達を「普通ではない」「常識ではない」「世間のしきたりに反している」「世間知らずである」とは、異常なのだ。異常の全くおかしく、恥さらしの世間知らずの傲慢なわがままだけのファシストであり、かつ、御本人がその事から逃れたいなんぞと全く思わず、全く1ミリたりとも思わず、要するに「救われたい」などと全く思えない。
 そして、批判されたら泣き喚く。あるいは、その場から逃げる。

 最近出来た友人から『口先妖怪 ソノバシノギ』という非常に面白い言葉を教えて頂いた。
 『口先妖怪 ソノバシノギ』とは、エゴを抱える凡夫たる由縁である。

 『凡夫』とは『ただの人(普通の人』である。『普通の人に還る』のが凡夫である。

 【普共諸衆生 往生安樂國(普く諸々の衆生と共に 安楽国に往生せん)】(願生偈より)
 
 である。
 多くの他を無視して「世間では普通である」「これが世間のしきたりである」とは、『世間知らずの恥さらし』『無知蒙昧』『人格障害』だけでなく、安楽国に行きたいと思えない人である。行きたいと思わん人が行けるわけがない。

 『世間知らずの恥さらし』『無知蒙昧』『人格障害』でない人は居ない。仏以外には居ない。
 居るのは、世間知らずの恥さらしの無知蒙昧の人格障害の煩悩具足の凡夫だけである。
 
 煩悩を肯定すると煩悩は煩悩でなく『当り前』になる。仏との関係性が無くなれば『当り前』になる。
 差別や、個々を無視する事が当り前になる。
 戦争も当り前になる。

 殺されようが、流罪になろうが、伝えなければならない場面では伝えなければならない。

ハピネス

2009年02月24日 | 坊主の家計簿
 2月24日

 外食  ちゃんぽん       450円
 雑費  コピー         200円
     傘           525円
     下痢止め        880円
     缶レモンティー     120円
     缶ミルクティー     120円
     居酒屋        2000円
     タンガクラブビール   300円

 合計             4595円
 2月累計         103835円

 仕事後学習会。発表が当ってたので近所のコンビニでコピー。A4を横に並べてA3にしてコピー、コピーと。
 電車に乗って気づく。コンビニに傘忘れとるやんけ。今は大丈夫やけど、降ったり止んだりでこれはアカンやんけ。。。と、傘をゲット。
 その前に下痢気味だったし正露丸を持って行こうと思いつつも思いっきり忘れたので、一包みつつに分包されてある下痢止めをゲット。

 いざ学習会。レジメ+適当に喋って、会話してたらなんか元気がない。「そういや、晩飯喰ってなかったなぁ。。。」と思いつつ居酒屋へ。いまいち調子が出ない。
 のちに「ビール1杯だけ飲ませて」とタンガクラブへ。いや、直接帰る気力がなかってでんな。。。
 
 帰宅する。ハピネスである事に気づく。
 『発熱』と漢字では書くのだろうが。。。

明日のれじめ

2009年02月23日 | 坊主の家計簿
 2月23日

 雑費  薬局諸々    1784円
     回数券     3700円
     ドグマグ    3100円?
     タクシー    5050円
 外食  かけ小      105円
     ラーメン焼き飯  787円

 合計         15471円
 2月累計       99240円

 休み♪
 行きたい学習会があったのだが、朝起きて夕方に又寝てたら行きそびれる。
 んで、ドグマグ→タンガ→ドクマグで飲んでて、最後のドグマグで話し込んで終電終了。よってタクシーで帰宅。今から寝ます。

 ついでに明日のレジメを貼っとこ。

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   かなしきかなや道俗の
   良時吉日えらばしめ
   天神地祇をあがめつつ
   卜占祭祀つとめとす

  @意訳

【悲しいことには出家者も在家も日時の善悪吉凶を選び、天地の神祇を崇拝して禍を避け福を求め、卜筮や祭祀を専らとしている】(岩波文庫『親鸞和讃集』P204より。)

  @語句の意味

 1 天神地祇

 天神・・・天津神(ヤマト王朝の神々。)
 地祇・・・国津神(ヤマト王朝に平定された神々。)
 あわせて『神祇』という。
 また、
【天神地祇はことごとく 善鬼神となづけたり これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり】(浄土和讃)
 である。

 善鬼神・・・仏法を守護する
 悪鬼神・・・国土人畜に害をもたらす
 (真宗新辞典P95より)

【(四教儀集解)神智法師(従義)釈して云わく、餓鬼道は、常に飢えたるを「餓」と曰う、「鬼」の言は尸に帰す。『子』の曰わく、「古は人死と名づく、帰人とす。また天神を「鬼」と云う、地神を「祇」と曰うなり。」乃至 形あるいは人に似たり、あるいは獣等のごとし。心正直ならざれば、名づけて「諂誑」とす、と。】(P397より
 
 尸・・・屍(しかばね)
 諂(へつらう)誑(たぶらかす)。読み方は『てんおう』

【(往生要集)源信、『止観』に依って云わく、魔は煩悩に依って菩提を妨ぐるなり。鬼は悪病を起こす、命根を奪う。已上】(P398より)

【『教行信証(化身土末巻)』において、聖人は多くの経・論・釈から引文して、仏教にあらざる外教として「鬼・神・魔」の俗信をあげておられます。それは禍福をえらばずにおれぬ人間の弱さにつけこんで人を脅かし、誑し、惑わせ、それによって人をして怖れしめ、へつらわせ、祭祀に奔命させて、ついに「生きる屍」と化してしまいます。それは仏道を歩み菩提を求めようとする心を障えるゆえに、聖人は「邪偽の異執」と断じておられます。
 ところで、経・論・釈から引かれたこれら「鬼・神・魔」は、もともとインド民族・中国民族の俗信であって、日本人のそれではありません。それにもかかわらず聖人がそれらの俗信にただならぬ関心を寄せられるのは、日本人の現実の上にその姿を見られたからです。では、日本人の「鬼・神・魔」とは何か。それは「良時吉日えらばしめ 天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)をあがめつつ 卜占祭祀(うら・まつり・はらえ)つとめとす」るような、日本古来の「霊の信仰」と外来の俗信とをつきまぜた、当時の習俗宗教にほかなりません。】(和田稠『信の回復』P124~125より)


 2 道俗
 
 道・・・出家
 俗・・・在家
 
 利他・・・他を利すること(真宗新辞典P506より)

【経典を読誦してもらう側にとってみれば、自分達が経典を読誦するよりは、専門家である方々が経典を読誦した方がより多くの利他を引きだしうるはずだというところにたっているかと思います。そのための布施と供養なのです。そうすると、利他を引き出すということに直接関わる者が専門家であるなら、専門家は回向利益という構造において民衆を支配することが非常に容易だという面がでてまいります。「お布施が安いとうかばれんぞ」、というのは完全に支配です。宗教に専門的に関わっているものがもつところの支配権です。
 そういう点でいえば「余道に事うる」とか「天を拝す」とか「鬼神を祀る」というような問題も、個人だけの目で見れば、そうとやかく問題にならないかと思うんですけど、鬼神を祀るにしろ、天を拝するにしろ、それぞれの専門家の存在があるということです。その専門家への布施によって、その行為は成り立っている。より多くの利他を引き出すために専門家がある。その専門家に布施供養することによって、そこから利益を引きだすという宗教構造だろうと思います。そうすると、専門外の人々は布施をすることで、先ほど言いました収奪の問題、専門家のあり方次第によってはどんな利益がでてくるかという、そういう支配される関係を結ばざるをえません。そして、その宗教が回向利益という構造にある場合は、収奪・支配の関係をまぬがれません。】(平野修『鬼神からの解放』上巻P81~82より)

【法然は回向を必要とし、それによって利益を引きだしていくような宗教構造全体を切られたわけです。それが不回向です。我われの方からの回向というあり方を切られた。それは教理的にも大きな問題がありますし、同時に民衆のあり方、専門家のあり方まで変えるものだったのです。ですから、回向・不回向という対立する、この表現はすさまじいものであったと考えます。民衆のあり方や、専門家のあり方まで変えるのに十分な力をもっている。それが法然のはたされた思想的な一大事業であったかと思います。回向・不回向という違いをたてられたところに法然の事業があったといえます。
 そういうことを親鸞は「化身土」ということで問題にされています。そして、具体的にはあらゆる宗教は利他を表し、それが化身として実体化されることで回向の宗教は成立するとみられます。そして、化身である限り、回向ということが必要とされる。そこにそれを専門にする者と民衆という図式ができあがる。また、それが化身である限りにおいては、民衆と専門家の間には収奪の関係、同時に支配の関係が必然的についてまわる。
 このように化身(利他性)、利益の構造を基礎づける、民衆からの回向を必要としないといった場合において、なお回向ということがありうるなら、それは如来からの回向にほかならないと親鸞は捉えます。】(平野修『鬼神からの解放』上巻P83~84より)

【正直にいって我々の教団は、仏教の力を借りることにより、人間が人間を教育できるもののように錯覚し、それで人を教化しようとしてきたのでありますし、しかもそれによって教団自身のエゴイズムを満たそうとし、あるいは教団の命脈を保とうとしてきたといわなければならぬものがあるのであります。そしてその結果が、今日の教団に見られるような、はなはだしい生命力の枯渇の事実であります。】(信国淳『呼応の教育』 信国淳選集第四巻P7より)

【こうして我々のブラザー・システムは、教える者と教えられる者という、教えにおける人間の二者対立的な関係を絶対にゆるすことのない、仏の人間教育そのものに相応しようとするシステムであります。】(信国淳『呼応の教育』 信国淳選集第四巻P17より)

【大谷派教団では、門首制と、「門徒はすべて帰敬式を受けて」という、この二つが新しい宗憲の柱なのです。「門徒はすべて帰敬式を受けよう」、ということは、本当に画期的な意味をもつわけです。(中略)
 私は直接確かめてはいないのですが、大谷派の参議会から声が挙がって、「百万人帰敬式運動」ということが始まっているというのです。百万人の門徒の人が帰敬式を受けられたら、日本は変わるでしょう。門徒の人たちの声が上がって、百万人帰敬式運動が始まるということであれば、すばらしいことです。そうすると、住職さんは段々と仕事がなくなるかもしれません。「逮夜参りはもう結構です、私たちでお内仏のお勤めをします」ということになるのではないでしょうか。本来そういうことだったのが門徒の行儀なのです。
 門徒の行儀として蓮如上人の時からずっと大事に伝統されたのが、在家勤行なのです。お内仏の前で、家族そろって毎日朝夕の勤行をしていたのです。生活にまでなっていくわけです。聞法が一つの生活を作り出すというのが、お内仏のお勤めということです。これは門徒の行儀なのです。しかし、それが江戸時代以来の檀家制度の中で崩れていったのです。
 それが、今度、「門徒はすべて帰敬式を受けて欲しい」として、百万人帰敬式運動ということが始まっていくというのは、これは本当に宗門が再生していくチャンスです。】(竹中智秀『浄土を本国としてこの世を生きる』P143~145より)


  
  @所感

 和讃に『道俗』とある。親鸞は『非僧非俗愚禿釈』である。


 
  @超訳

 悲しい事に友たちは
 『僧』は高慢『俗』は卑下
 煩悩具足の名告りなく
 己の死臭に気づけない

まん

2009年02月22日 | 坊主の家計簿
 2月22日

 雑費  缶ミルクティー    120円
 食類  黒霧島ワイン    1978円
     カキフライ       98円

 合計            2196円
 2月累計         83769円

 ♪ワインわ~、お父ちゃんの為にあるんやないんやで~

 と、すいません。。。無添加ワインが脳味噌直撃状態です。
 っちゅうか、上記の替え歌が古くさいのぉ。。。

 じぇんじぇん関係ないのだが、ふと『居場所』なんぞという言葉を思ったりする一日であった。
 学生時代に恩師が非常に解りやすい事で説明してくれた。
 勉強が得意なヤツは、勉強の場になると前に出る。
 声明が得意なヤツは、声明の場になると前に出る。
 スポーツが得意なヤツは、スポーツに関しては前に出る。

 例えば、私はその頃30過ぎだったので、スポーツなんぞは18のガキに比べると「君達に任せる」状態である。つまり、後に行くわけでんな。まあ、実は京都にある坊さん学校対抗の、当時の院長だった先生曰く『菩薩のスポーツ大会』なんぞがあった時にゃ、居場所を無くした私は全然知らない本願寺派の坊主と真面目な事を喋って、つまり得意ジャンルを喋りあって居場所を確保したり、あるいは、ビールなんぞを飲んで「頑張れ!」とやってたわけだ。
 んが、勉強になると「私の出番である」なんぞとしゃしゃり出たりする。得意ジャンルで『私が恥をかかない場面』では前に出たりするわけでんな。

 居場所を無くすと「どうせ私なんて。。。」になる。
 居場所を得ると「俺様」になる。
 っちゅう事ですわ。

 あかん、明日休みやから無添加ワインが。。。

芝居

2009年02月21日 | 坊主の家計簿
 2月21日

 外食  焼肉       1950円
 食類  水&ビール     374円

 合計           2324円
 2月累計        81573円

 明後日23日が休みらしい。「え?早いやんけ」って思って気づいたのだが、前回と前々回の休みって夕方から通夜だったのね。そうか、純粋休みって長い事して取ってないねんな。なんか疲れてるのはそのせいか。まあ、ようやく気づいた程度に気分的にバタバタしてるわけやし、全く問題がないのだが。

 今日は仕事が早く終わったので焼肉ランチ♪でんな。自転車でちょっと行った所に土日祝だけランチでも焼肉食べ放題をやっている店があって、「ホルモン、ホルモン」と食べに行く。ホルモンは『放るもん』のクセに最近高いのだ。高いから普段は手が出ない。スーパーなんぞでも『半額』とかの札が貼ってない以上は買おうと思わんのだ。だから、食べ放題♪でっせ。
 発泡酒を1杯だけ貰って、食べ放題♪
 と、結構、御陽気に過ごす。
 
 部屋に帰って、夕寝して、起きてちょい用しようと思てたらオカンより電話。
 頭痛が。。。

 子どもは『子どもらしく』なんぞと圧力がある。
 親には『親らしく』という圧力があるのだろう。
 エエ加減に解放される道を選べや、なんぞと批判しつつ思う。

 まあ、『親らしく』と云うよりも『親らしい振る舞い』なんだろう。

 先日、旧友の葬儀に行った時に、久々の人に会う。若かりし私の憧れだった人なんだが、まあ、年老いても魅力的な人は魅力的だわな。今も漫画とか絵とかを書いてはるのかな?漫画は昔『ガロ』とかに書いてたらしいし。
 でも、知った頃には芝居をしてはった。旧友の2人が舞踏系(?)の役者になって、そいつ等と一緒に芝居をしてて、タンマに手伝いに行ったり、打ち上げに参加させて貰ってたんだが、その時に『未知座小劇場』っちゅう劇団なんかに参加してて、その時に闇黒光っちゅう人が書いた文章の中に「世の中をひとつの言葉で表現するのなら、それは芝居ではないか?」みたいな事。
 
 よって、親は『親の役』をして、子どもは『子どもの役』をする。
 男は『男の役』をして、女は『女の役』をする。

 演技が下手なら、「おまえ、芝居が出来とらんぞ。そんな演技で舞台に上がれると思っているのか?」なんぞと云われる。
 世間知らずであるとか、『男らしくない』『女らしくない』『子どもらしくない』『親らしくない』なんぞと云われる。
 
 この芝居はいつ終わるのだろうか?
 
 っちゅうか、脚本家は誰で、演出家は誰やねん。
 
 んなもんは居ない。

【決められたレールなんてなかった。自分で作っていただけだった】(とある同朋)

『いけちゃんとぼく』

2009年02月20日 | 坊主の家計簿
 2月20日

 雑費  缶ミルクティー     120円
 外食  ラーメン        418円
 食類  諸々          425円

 合計              963円
 2月累計          79249円

 仕事が終わった勢いで雑用スタート。気合入ってまっせ!っちゅう事で大半が仕上がる。「よっしゃ、1時間だけ仮眠して飲みに行くぞ!」で、3時間爆睡、っと。。。
 
 んで、今さっきパソコンを立ち上げて、雑用を仕上げようかと思ったら気合が抜けている状態なのであっさり断念。まあ、まだ2日あるし~、一応、形は整ったし~。

 『いけちゃんとぼく』という西原理恵子の絵本を御存知であろうか?まあ、『絵本』らしいのだが、漫画やんけ!でもあるのだが。。。
 本を買う時、読む時に『帯』を読む人は、この本の場合はさっさと捨てた方がエエと思う。単なる「西原理恵子の漫画やし~」という気分で読んだ方がエエと思う。「漫画のわりには絵が大きいのぉ。。。」程度に思っておいた方がエエと思う。そして、最後に号泣するがよい(笑)

 この本は『ザ・ベストハウス123』っちゅう確かYOUが出てるテレビ番組で『絶対に泣ける本』の1位になったらしい。私はこの手の『泣ける本』をバカにする人格の持ち主なので当然無視して読んでた。まあ、元々西原理恵子の漫画は泣いてしまう場合も多々あるのだが、この本は魔術の様に『泣ける』。つまり、『泣けるように作った』のだと思われる。
 まあ、見事に泣いてしまった。

 未練、っちゅうのは付きまとう。

 ちょっと詰めて勉強してて本棚にある本とかと引っぱり出す。和田先生の写真が何かの本に載ってて、まだ冷静に見れなかったりする。本の引用は出来るし、本も読む事が出来るのだが、それは『教え』であり、写真が見れないのは『情』である。情の部分では整理出来ていないのだろう。だから写真を見れない。「懐かしいなぁ~」にはなれない。
 弱いやっちゃのぉ。。。なんぞと思ったりするのだが、情という気分はなかなか整理が出来ひんもんだ。

 『教え』は生き続けている。これからも変わる事なく『和田先生』は生きている。決して死んでなんかいないわけだ。死んだのは『和田稠』という個人であって、まあ、『和田ジジイ』でんな。ジジイとしての和田稠氏は死んだが、教えは永遠に生き続ける。
 それは出会い方であると思う。当然、私は和田先生には数回しか会って居ない。10回ぐらいか?もうちょっとあるかな?大切な真宗仏教を教えて頂いた先生である。故に、『先生』であるのだが、生身の先生を知っているのでやはり情が出る。

 法名の事を私は「死なない名前」と呼んでいる。私の法名は釈学生であるが、死んでも釈学生である。
 和田先生の法名は知らない。っちゅうか、何かで聞いたかも知れんし、一周忌の時に出た本に書いてあったかも知れないが、『和田先生』という名前自体が法名みたいな感じであるし。『先生』としての教えは死なない。死んだのは生身の体を持つ『和田稠』という爺ちゃんである。
 爺ちゃんが死ぬと未練が残る。でも先生は生きている。先生として生きている。

 っちゅう事で、本を探して引っぱり出す。『真宗門徒として生きる』っちゅう本だった。
 「懐かしいなぁ~」と感じた。

【このごろ何事につけて「批判」とか「評価」とかが盛んだが、そのことに熱心であればあるほど、私たちは自分の立場を疑うことのない善人になるか、人の上に完璧な人間像を要求しなければ承知できぬ賢人になるほかはないのだ。「みなもって、そらごとたわごと、まことあることなき」不毛の論である。彼を論ずる「今の時」のさかしらな私たちの硬直したイデオロギーをはみ出してしまうような、ナマの大凡夫が蓮如なのだ。彼の人間的な生臭さや信心の不純さを審判せずにはおれぬ私たちこそが真宗門徒になることが大嫌いなのではないか。】(和田稠『真宗門徒として生きる』より)

 多分、私は論理好きである。いわゆる『世間のしきたり』なんぞに対してまず真っ先に出て来る言葉は「根拠を言え」である。「個人的な体験とか、狭い知識で何を戯言ヌカしとるねん」と、理論武装で潰す事を得意ジャンルとしている。つまり、『潰す』のを得意ジャンルとしている。無条件に染み付いた反応によって相手を潰す事を考える。決して「共に生きて行こう」ではない。まず真っ先に考えるのは潰す方法なのだ。

 『いけちゃんとぼく』で泣いてしまったのは私の情の部分である。
 和田先生の写真をちゃんと見れなかったのも私の情の部分である。

【心を弘誓の仏地に樹て、情を難思の法海に流す。】(親鸞)

 っちゅう言葉がある。
 ちゃんとした読み方は知らないが、なんとなく今日は

【親鸞聖人が、弾圧するものに対して、晩年のお手紙にもございますけれども、念仏をさまたげるものをけっして憎んではならないと。そのもののために祈れ、といっておられます。念仏をさまたげるものは、外道性において生きておるという点では私も一緒だと、なんにも変わらない。われわれは、すぐにそれを敵とする。そうではなしにまったく一緒なんだと、ただそのことにナンマンダブツしておるか、していないかの違いだけなんだと。じつは、そのことが、決定的な違いなんですけれども、しかし、自己の外道性ということについては、なんら変わらんのです。】(和田稠『出離その期なし』186ページより)

 に聞こえる。

 

飲んべえダラダラ

2009年02月19日 | 坊主の家計簿
 2月19日

 食類  野菜        350円
     無洗米      1980円
     諸々        633円

 合計           2963円
 2月累計        78286円

 疲れた。。。ので、酒飲んでます。酔っぱらったら寝るつもりです。

なめ猫

2009年02月18日 | 坊主の家計簿
 2月18日

 雑費  缶ミルクティー      120円
     タバコ         3000円
     切手           240円
 食類  唐揚げ          200円
     諸々           443円

 合計              4003円
 2月累計           75323円

 今さっき「家計簿でも書きながら酒でも飲んで寝よ」と、このブログの編集画面に行ったら「この子猫の写真って、御遠忌テーマ・フラッシュにあったやつやんけ!」と、ビックリしたので、ついでにこのブログのテンプレートにする。なにやら2月22日は『ネコの日』らしく、ついでにgooブログが作ったらしい。2月18日よりなので新着ホヤホヤテンプレートでんな。

 あ、その御遠忌テーマ・フラッシュ

 http://www.higashihonganji.jp/goenki_5/honganji-flash.html

 上記リンクサイトの画面の下に子猫の写真があって、『夢を見ない・・・ 絶望しない・・・ 今いのちがあなたを生きている』っちゅう言葉がなんでか知らんが子猫の写真と一緒に出て来る。個人的には御遠忌テーマ・フラッシュの中で最低の出来だと思う。

 しかし、なんで同じ写真やねんやろ。勝手に想像するに

 1 gooの社長が熱心な真宗門徒である。
 2 写真を撮った人が勝手に売りさばいた。
 3 写真自体がフリー素材である。

 ちなみに上記リンクのフラッシュは2007年6月の分である。それから1年8ヶ月経過しているので、子猫も見事に親猫になっているかも知らん。っちゅうか、体自体はデカクなっているであろう。っちゅう事は、仮に1年8ヶ月前は子猫だったとした現在大きくなった猫にしたら、「何を子どもの頃の写真を使っとるねん。今の写真を使え」なんぞと文句を云うかもしらん。
 「人間はやっぱしアホやのぉ。。。子猫の写真が『かわゆい』なんぞの酔っぱらいの脳味噌以下やのぉ。。。」と文句を云うかもしらん。
 「お前ら、差別主義者やろ。子猫がかわゆいからもてはやす、っちゅう事は、年老いたらもてはやせへんねんやろ。一生迷って、その迷いから解放されたいとも思わんと『かわゆい』なんぞとヌカしとけ。」なんぞと云ってるかもしらん。
 で、きっと「昔の私もエエけど、今の私もエエぞ」と云っているかもしらん。
 「なんで私がオメー等アル中の脳味噌以下の馬鹿タレの色眼鏡に付き合わんとアカンねん」と云っているかもしらん。

 「昔はあんたも可愛いかったのに」なんぞとはかなり酷い話である。

 通販生活っちゅうカタログ通販のCMに内館牧子氏というオバはんが出ている。『オバはん』っちゅうよりも『お婆ちゃん』か。「なんじゃこのババアわ」って思てたら脚本家だったのね。何やら横綱審議委員会にも入っているらしい。
 通販生活のCMでは若い頃の写真が出て来てて、これはかなり好みの顔である。まあ、私的には結構『キレイ』だと思う。
 しかーし、今は年老いて見事なババアである。ババアの上に『鬼』とか付けたくなる感じである。名前が解らなかったので検索した所、『妖怪』なんぞの言葉も出て来たぐらいである。
 けど、昔はキレイだった。

 『昔はキレイだった』
 『昔は可愛かった』
 なんぞがあるから、「女はいつまでも美しくありたいものよね~」と、化粧だったり、美容だったりが流行ったり、整形して若返りをしようとする。

 いつまでも若くありたい、いつまでも健康でありたい、いつまでも生きていたい。
 と、不老長寿を願う。

 そういや、先日、タメ年の旧友に久しぶりに会った。舞踏をやっているので体型は外から見る限りでは18の時のマンマである。っちゅうか、その後に舞踏の世界に入ったから、2年程前に芝居を見に行った時もタメ年とは思えん程の体つきである。んが、食事もトレーニングも変わっていないらしいのだが、最近腹回りに肉がついて来たらしい。よって、より一層の節制が必要らしく、しかも来週辺りに金粉ショーをやらんとアカンらしく、「それまでに腹をなんとかしとかんと。。。」と云ってた。
 まあ、あいつは舞踏家だからそういう事をせんとアカンのだろうが、ふと、親鸞ってダイエットしたのだろうか?と思ったりする。
 中年太りをした親鸞が腹の肉をつまんで「ダイエットしなアカンのぉ。。。」とでんな。
 子ども達から「お父ちゃん、そんな中年太りした姿で授業参観に来ないでね」とか、ヨメはんからも「あなた、最近、怠けてない?お腹、出て来てるわよ。家計が苦しいんだから新しいスーツを買うのも大変だし、なんとかならないかしら。。。」なんぞと云われてでんな。。。「よっしゃ、もういっぺん、比叡山に帰って修行するわ」なんぞとでんな(笑)

 夢を見ない・・・ 
 絶望しない・・・ 
 今いのちがあなたを生きている

 が、子猫写真が出ている大谷派の宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のフラッシュである。

 事実を事実として引き受ける事が出来ないのが煩悩具足の凡夫である。
 夢を見て、絶望する迷いを生きている。
 「それでいいのか?本当にそれでいいのか?」
 と、『いのち』が問う。

御機嫌ナナメ

2009年02月17日 | 坊主の家計簿
 2月17日

 雑費  缶ミルクティー     120円
     自転車修理       400円
 食類  いか          100円
     諸々         1431円

 合計             2051円
 2月累計          71320円

 今日は朝から御機嫌ナナメ。ムッチャ機嫌が悪い。
 機嫌が悪い時は単純な事が許せなかったりする。
 まず、朝一に自転車のチェーンが外れてた。多分、昨夜強風だったので自転車が倒れてチェーンが外れてしまったのだろう。外出一発目に思いっきり不機嫌。しかも、行く途中にまたまた外れたりして、まあ、すぐに治るのだが、それでもビニール袋を手にはめて作業するのでやり難いし、ビニール袋をしてても手が汚れるし、「殺すぞ、ボケ」モードである。
 仕事でも、朝に行って留守だったから昼間に行き直した御参り先がまたまた留守だったので「今日は留守け」と思て、夕方からの仕事に備えて部屋でメシ喰って仮眠しようとしてたら寺から電話があって留守先の家から「待ってるねんけど、まだでっか?」みたいな電話があったらしい。「まだもクソも、朝早くに行って、40分前にも行ったやんけ!」とキレる。キレつつも仕事なのでいかんとしゃーないので自転車に乗って行こうとするとまたまたチェーンが外れる。治してもまたまた外れる。それが3回続いた段階でキレまくったので自転車を押して行く。

 なんだが、まあ、自転車の整備不良がチェーンが外れる原因であって、整備をしなかったのは私が悪い。
 言い方はともかくも、「留守の時にはメッセージを書いた紙を入れときますから、帰って来たら電話して下さいね。」と言ったのも私だったりする。
 まあ、単純に私の機嫌が悪いだけの話である。

 機嫌が悪いのは心が少し傷付いているのだろう。まあ、私のプライドの問題だったりする。プライドが高いから『当り前の事』で傷付いたりするのだろう。
 とはいえ、機嫌が悪いというのも身の事実であって、当り前の現実を引き受けられない私の弱さ、プライドの高さが問題なんだが、んな事を云っても機嫌が悪い状態は、しゃーない。

 と云う事で今日の私は機嫌が無茶苦茶悪い。

 しゃて、中川大臣が辞任したらしい。酒での失敗は腐る程あるので中川大臣を責める資格は私にはなかったりするのだが、今日の私は機嫌が悪いのだ(笑)
 でも、中川大臣って『はめられた』気がするのだが、どんなもんやねんやろ。酒が元々好きらしいが、中川大臣に酒を勧めた人が居てるはずである。ワインを飲んでたらしいのだが、今の私は無添加ワインをコタツの上に置いて手酌で飲んでいるわけだが、中川大臣が手酌で飲んでいたとは思えない。会議だかなんだか知らないが、サービスする人も居てたであろうし、その後に記者会見がある事は最初からの予定であったはずである。
 まあ、それでも飲んでしまった、酔っぱらってしまった中川大臣のミスであるが。個人的な欲をいえば、あれが年末年始であれば忘年会シーズン、新年会シーズンの時のエエ宴会芸になったと思うのだが。でも、まあ、今晩、間違いなく全国の多くの飲み屋で『中川大臣のモノマネ』が行われている事であろう。特に行ったはないのだがキャバクラとかで多くのホステスさんに囲まれた時なんぞは、あるホステスさんが喋りだした時に「どこだ?」とかでんな。きっとやっている事間違いなし。

 しかし、まあ、自民党はボロボロでんな。当然、自民党にも優秀な人達が多く居てると思う、っちゅうか政府与党なので優秀な人達が一番多く集まって来ている事だと思うが、麻生氏や中川氏の様な世襲を立てざるを得ない状況、っちゅうのはアカンやろ。その辺が組織としてボロボロ状態だと思う。大臣や総理として立てるのが『世襲』であったりするのは組織としてどんなもんやねん。政治政党は機関やろ。機関でトップ連中に立てるのはやはりその機関を引っ張っていける能力の問題だと思うのだが。それが世襲の血統で組織のトップに立てるのはどんなもんやねん。
 当然、私は麻生氏や中川氏が無能だとは思っていない。きっと優れた政治家であると思うが、他にもっと優秀な政治家が居てると思うのだが、血統や、当選回数を判断基準に入れるのはアカンやろ。

 ちなみに大谷派教団も基本的には世襲である。世襲が多い。
 この場合の世襲は「誰でもイイ」っちゅう事だと思う。能力なんぞは関係なく誰でもイイから世襲でもイイわけだ。寺と政治政党は違うし。他の寺と真宗寺院は根本的に違うし。真宗僧侶が他の僧侶と違うのと同じく、真宗寺院は他の寺院とは違う。行が『ただ念仏』である以上、多くの門徒と全く同じでしかないわけだし、誰でもなれるのが真宗僧侶であり、真宗寺院の住職である。まあ、真宗寺院は『聞法道場』だし。その道場を預かるのは別に誰でもエエわけだ。
 んが、勘違いが生じる。
 真宗寺院は血統で選ばれる、という勘違いが起る。つまり、優れた血統であるが故に子孫が寺を受け継ぐ、という勘違いである。んな事は議論にも登らないような戯言なんだが、つまり、釈尊の親も、法然の親も、親鸞の親も決して僧侶ではなかったし。酔っぱらいの戯言よりも酷い話なんだが、残念ながら酔っぱらいの戯言よりも酷い話を信じ込んでいる人達がかなり多かったりする。
 大谷派でも血統を大事にする方々も多く居られるが、親鸞の血統が大谷派を私有化して大問題になった歴史的な事実を無視している。親鸞の血統が素晴らしければ、つまり血統信仰が正しいのであれば、大谷派に教団問題なんぞ起らなかった。親鸞の血統を受け継ぎ、各種の英才教育を受けて来たであろう人達である。
 何を酔っぱらいの戯言よりも酷い話をしとるねん。
 そして、多くの酔っぱらいが「俺は~、酔ってなんかいないよー。ワインを口につけたけど、ゴックンなんかしてないよー」という様に酔っぱらっている自覚がない。あくまでも『私はシラフであり、私は正しい』である。それが酔っぱらいの証明や、っちゅうーねん~。

 そして、正しさを証明する為に、自分が知っている狭い知識だとか、『世間』なんぞを持ち出して来る。これもヘタレの酔っぱらいがやたらと「俺のバックには」なんぞというのと同じである。んなもん、バックが付いててもバックが来る前に殺したら終わりやろうが。ヘタレに限って「俺のバックには」なんぞと言い出す。サシで勝負出来ない、ヘタレの典型。

 中川大臣が辞任したのは、まあ、大臣としては不適格だったのかも知れない。けどやなぁ~、それをー、中川大臣がー、人間的にー、失格だー!なんぞ誰にも言える権限なんぞない。

 言える権限の持ち主である。と自覚しているのは酔っぱらいの戯言よりも遥かにベロンベロンの状態でんな。
 世間に魂を売り渡して、正義に酔う。一番危険な酔っぱらい。

 些細な事に対して機嫌が悪いのは、心に傷がついている。よってプライドを保たなければ生きて行けない。
 
 『飲んだら乗るな』は交通マナー標語だが、みんな酔っぱらい運転なんだ。酔っぱらい運転をしてるにも関わらず、「私は大丈夫」というのが一番タチが悪い。
 
 「世間のマナーを守れ!」なんぞとよく云うが、言える権限なんぞ誰にもない。
 「あいつはマナーを守らない」なんぞともよく云うが、言える権限なんぞ誰にもない。
 ホンマにマナーを守りたいねんやったら、「私には誰も裁ける権限なんぞない」っちゅうのが『世間のマナー』と、ちゃうのですかー、っと、ひはんさせてー、もらったりーする~♪

 御機嫌ナナメって、真っ直ぐになった事、あるんか?

湯呑みと箸

2009年02月16日 | 坊主の家計簿
 2月16日

 雑費  缶ミルクティー     120円
     回数券        3000円
     キップ         640円
 食類  諸々          738円

 合計             4498円
 2月累計          69269円

 仕事が終わって携帯みたら旧友より留守電。「訃報やから折り返し電話頼む」との事。あいつとの共通の旧友で死にそうなヤツは一人だけだったので部屋に帰ってから電話する。やっぱし、思った通りの旧友だった。

 今日は仕事が早く終わったので昼間のワイドショーなんかを見たりする。
 何やら日本の財務大臣が酒に弱いと云う事が国際的ニュースになり、国内でも問題が起っているらしい。確かにテレビを見てると日本の財務大臣として恥ずかしい酒の弱さである。あっこまで酩酊状態になったらアカンやろ。と、自分の事を置いといて思ったりする。「舌が廻っていないし~」みたいな酔い方をするぐらいの酒の弱さは日本国大臣をして恥ずかしい。
 「エリチンを見習え!エリチンを」
 と、アル中でありながらロシアの初代大統領だったエリチンを思い出しつつ、そういや死んだ旧友も酔っぱらうと舌が廻らなくなり、語尾に「ら」が付く。多分、本人は「な」と云っているつもりなんだろうが、「ら」になったりする。

 2つ下だったので38歳か。まあ、若いのだろうが、それもそいつの人生であり、なんとなく「長生きしたのぉ~」と思ったりする。

 夕方から、まあ、いわゆる『通夜』なんだが典型的な密葬で、しかも無宗教でやるとの事だったので、礼服を着て、香典と数珠と、一応、葬儀の時に使う勤行本を持って行く。
 生活保護家庭だったので簡単な祭壇があって、位牌は俗名のまま。
 無宗教でやるのは、確か兄弟が某宗教団体にハマっていて、そのせいかと思ったら、単なる金の問題だったらしい。
 「ほんだら、葬儀しまっせ」と、突然葬儀。
 キンという音がなる、いわゆる「チン、チン」と鳴らすアレでんな。キンが無かったので、湯呑みと箸を使って葬儀の始まり。少しだけ早く読んだのだが、大谷派の葬儀式プラス最後に『白骨の御文』っちゅうのも読んだので通常の葬儀タイムになったりする。良かったのか悪かったのか知らんが、まあ、喪主である18のガキの想い出にはなったとは思う。彼がその後に縁ある人達の葬儀に出た時でも『礼服のまま葬儀をする坊主』っちゅうのに出くわす事は殆どないだろうし、湯呑みと箸でする葬儀もないやろう。
 
 葬儀が終わった後に一緒に行った旧友達と、「あれは『KIRIN』とか書いたグラスの方が良かったな」なんぞと喋ったりする。まあ、酒飲み友達やったし。

 帰りの電車は終電。隣に座ってたオッさんが立ち上がって駅で降りようとする。その時に初めてオッさんの存在を確認したのでそっちを見たらカバンを発見。「カバン忘れてませんか?」と聞くと、中川財務大臣状態のオッさんが「ん?」と云って、扉の前に立ったまんま動かない。「なんやオッさん、吐くんやったら、もう少し腰を屈めて吐かんかい」と思ってたら、そのまま下車しやがった。しゃーないので、近くに居た兄ちゃんに「このカバンは兄ちゃんの?」と聞いた後に、車掌に届ける。カバンがオッさんの手元に戻るかどうかは知らん。そこまでは責任取られへんし。

 今日の喪主は18歳。高校3年生でんな。ガキの頃に、っちゅうか、殆ど親父の顔なんぞ憶えていない頃に両親が離婚してからの母子家庭。産まれた時に確か近所の市場で酒のアテにカニを買って行った事を思い出す。中学生になったら革ジャンとナイフを買ってやる、なんぞの約束をした事を思い出す。香典を受けとるのがイヤだったみたいなので「学費にせえ」と言うて来たが、結局買わなかった革ジャンとナイフ代みたいなもんでんな。しかも、オッちゃんが革ジャンとナイフを中学入学祝いに買わなかった御陰で、真面目な、しっかりとした兄ちゃんの育って、それはそれなりに嬉しかったりもするのだが、あれだけ家庭環境も悪かったのなら、若いうちにしっかりと不良になってグレておいた方がエエのではないかと勝手に思ったりもする。

 丁度、そのガキの年齢の時に私はガキのオカンに初めて会った。某フリースクールに通ってた時に、フリースクールの代表の兄ちゃんに連れられて、確か松原やったかな?松原で一人暮らしなのか、男と一緒に暮らしてて男に逃げられた後だったのかは知らんが、当時16歳だったガキのオカンの部屋に行った。
 今でこそ芋焼酎はブームだが、当時、16歳だった彼女の部屋に薩摩白波の一升瓶が置いてあって「おお!こいつは酒飲みやんけ!」と結構感動した。幸いな事にお互いタイプの異性が違うので御気楽に2人で飲みに行ったりして、見事にお互いが頼んだ分だけしか払わないという『完璧割り勘』をして飲んでた。一時期、一番親しい友達だったし。

 かなり激しい人生だったと思うのだが、結構、無茶苦茶な人生だったと思うのだが、それも人生だし、何歳で死のうと、どういう死に方をしようとも、あいつなりの尊い、たった一度の人生を全うしただけの話である。
 人が死ぬのは『生まれたから』である。生まれた後に色んな人間関係があったりして早く死んでいくヤツは早く死んで行く。

 とある恩師から、『死んで行く時に「ありがとう」という言葉を残して死んで行きたい。』という言葉を紹介して頂いた。
 昨日の早朝に死んだらしいあいつが「ありがとう」と云う言葉を残して死んでいったのかどうかは知らない。っちゅうか、寝てたらそのまま死んでた、みたいな感じだったみたいだし。

 「こんな人生はイヤ!」
 「こんな人生の方がイイ!」
 と、遺体に面して、遺体を差別する。
 ちゃう。「ありがとう」や。

『坊主』と『同朋』

2009年02月15日 | 坊主の家計簿
 2月15日

 雑費  缶ミルクティー      120円
 食類  唐揚げ弁当        575円
     諸々(野菜ジュース込) 1815円

 合計              2510円
 2月累計           64771円

 殆どどうでもエエ話なんだが、個人的には結構嬉しかったりする話。
 え~。。。大谷派内部業界新聞(?)に『同朋新聞』っちゅうのがある。
 じゃ~ん!それの今月号(2月号)と、来月号(3月号)に、VOWZBARの田口さんが大きく取り上げられている。なんせ表紙を開いてすぐの2ページ目、3ページ目の2面に渡ってデカデカと掲載されている。表紙にも田口さんの言葉が掲載されてある。
 
 あ、『VOWZBAR』とは、いわゆる東京四谷にある東京ボウズバーである。
 東京(千葉?)からわざわざ私が某機関紙に書いた文章に対して喧嘩を売りに来てくれた先輩と、今は大阪に帰って来ている本願寺派の先輩が田口さんと一緒にやった店だ。バラしてエエのかどうか知らんが(笑)『店』も『水商売』もそんな甘いもんやおまへん(笑)

 とは云え、田口さんが紹介され、東京ボウズバーの写真まで掲載されてある。
 これでようやく、これでようやく、大谷派教団で坊主バーが紹介された。。。

 大阪の坊主バーも『世間』では散々取り上げられた。新聞テレビ雑誌ラジオ、数えるのがイヤになって途中で辞めたが、最初の2年間だけでも『数百』である。
 海外にも共同通信を通じて報じられたし、あの『LIFE』とか云うアメリカの雑誌もわざわざ取材に来て写真入り名前入りで掲載されたし。
 テレビでもデカデカと、4大新聞にもデカデカと載って、まさに『名利に溺れるエロ坊主君』だったわけだ。

 んが、大谷派での反応は、あくまでも個人的なもん。あくまでも個人的な反応でしかなかったわけでんな。
 それが、田口さんという真面目な聞法者がついに写真だけではあるが坊主バーを大谷派デビューをさしてくれたわけだ。また、田口さんのプロフィールにも『東京ボウズバー会長』とあるし。

 あ、ちなみに『田口さん』は母校・専修学院の大先輩なんだが、あの人を称する時に一番的確な表現は『聞法者』だと思う。まあ、『鉄道オタク』という表現も的確だが、やはり『聞法者』である。なんか、『念仏者』よりも『聞法者』という言葉が私的にはしっくり来る。眼が見えないから録音する為かも知れないが、一番前で聞法されていた姿が印象深い。そして、様々な先生達のお話を聞いて居られるし。だから、『聞法者』という言葉が一番しっくり来る。まあ、なんちゅうんですか?『聞法熱心な門徒さん』っちゅうイメージである。

 ちなみに『坊主バー』という名称はあくまでも『ウケ狙い』である。『ウケ狙い』だったから『ウケた』だけの話である。まあ、当然、娑婆だし『ウケ』も大事なんだが、『ウケ』にハマり切ってしまうと、何がなんだか解らなくなる。
 真宗仏教に『坊主』は居ないのだ。『僧』も『俗』も共に『門徒(同朋)』でしかない。
 但し、厳密に云うのであれば『坊主=毛坊主』であり、『坊主』と『僧侶』は違うはずである。
 『毛坊主』とは
【俗人でありながら死者があれば導師となって弔う者を毛坊主という。】(http://www.tabiken.com/history/doc/F/F272L100.HTMより)である。
 故に、一時期『坊主』は差別用語であったはずである。俗人が死の穢れに触れるわけだから。詳しくないのだが、詳しい先生から聞いた話ではそんなはずだった。
 んが、しかし、今日での『坊主』はイコール『僧侶』である。私もそんなイメージしか持ってなかったし、恐らく殆どの人達も『坊主=僧侶』であろう。
 そして、『僧侶』と『俗人』を分け隔てる。これは縦である。縦のラインである。
 『教える人』と『教わる人』との縦のラインである。

 これが『いわゆる仏教』だったりする。当然、真宗仏教も今日ではそういうイメージで捉えられているのだろう。しかし、それは真宗仏教の堕落でしかない。
 あくまでも『共に門徒』でしかない。
 それが故に、大谷派では『法主』が『門首』になった。『法の主』から『門徒の首座』になった。

 ん?何を書いてるのやら。

 まあ、『法主』が『門首』になる時に議論に出て来た話でこんなのがある。

【この(大谷派宗憲)9章の問題は、『僧侶』と『門徒』と規定されていますね。僕は『門徒』と云う言葉には、いわゆる広義な意味で(広い意味で)『僧侶』も含んだ内容に置いて全部が『門徒』である、という考えと、それから『在家門徒』だけが『門徒』である、という表現があると思うんです。それは二つあってもいいんですけども、今度の宗憲の中に「門徒とは」「僧侶とは」と云う事を明確に分けてしまっていいのかどうか?やはり今までの『法主』を『門首』と改めている以上、基本的には『門首』『門徒』そういうのを含めて門徒、という形が望ましいのではないのかと?しかるに宗憲の中に「僧侶は僧侶」「門徒は門徒」と、いう別な規定というか制約が書いてあります。そうすると広い意味での『門徒』と云う意味があったのに、いわゆる宗憲の中で定義付けてしまって、それが大変な権威に成ってしまって、将来『僧侶』『門徒』とはこういうものだ、という方向に行ってしまうのではないかと。それが本当に同朋教団としての真宗なのか。だからこういう言葉を使っていいのか知れないけども、宗祖の精神に帰るという事であるならば『門徒』というのは、『僧侶』も『在家門徒』も含めて『門徒』であるという言葉の方がいいのではないかと申しあげて来たのです。】(某学習会で講師の先生がある門徒さんの言葉を紹介した聞き書きより)

頂戴する

2009年02月14日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 2月14日

 雑費  缶ミルクティー     120円
     味噌ラーメン      560円
     電車          160円
     ココア         350円
     電車          290円
     ラーメン        830円
     タクシー       1760円

 合計             4070円
 2月累計          62261円

 仲人である所属寺住職夫妻に御挨拶。よって非常に珍しくスーツ着用。
 挨拶が終わって、『仏青みたいなもん』に参加する。

 結婚して婿養子に入る、っちゅう事は、私の名字が変わる。
 同時に、寺業界には『僧籍』っちゅうのもあって、私の場合なら別の寺に入るので僧籍も変わるのだ。
 僧籍は変わっても、今度は近くになるので今まで以上にコユイ関係になったりするのだが、それでも『送り出す』っちゅう感じもやはりあるのだろう、教団内で通用する位を上げてくれた。しかも、それを互いに酒が入った辺りで云うのが非常にうちの所属寺住職らしいのだが。

 そういや、うちのオカンも結婚式で盛り上がっている。うちの家族では初の結婚式なので、やれ「○○さんから祝儀がどうてらこうてら」だの、「持参金がどうてらこうてら」だのと。親戚や近所の人からの祝儀は預かるが、持参金なんぞは自分で用意してるから「自分の為に使って呉れ。。。」と頼んでいるのだが、やはりうちのオカンとしてはそういう気持ちになったりするのだろう。

 半ばクセになっている言葉なんだが、私は御布施を『お預かりします』と云う。
 その預かった御布施を給料という形でもって頂き、私は飲んだり喰ったりタクシーに乗ったりしているわけなんだが、それでも、元々は『御こころざし』のものである。
 『世の中安穏なれ。仏法ひろまれ』
 の『御こころざし』である。

 私はもうすぐ、名字が変わり、僧籍も変わる。
 『送り出される方』としては実はそれ程実感がなかったりする。
 実際に名字が変わったりして呼び名が変わるとまた違うのだろうけど、それ以前に私の場合は『送り出す方』から願いをかけられているのだと思った。