6月28日
食類 水菜 98円
イカ唐揚げ 88円
うどん玉 20円
合計 206円
6月累計 107497円
腹巻きして仕事へGO!
今日は葬儀。葬儀終了後に柩車(いわゆる『霊柩車』)について火葬場に行く。
柩車から棺桶を火葬場中の台に乗せる時に葬儀社の姉ちゃんが「男性の御方様、数人御願い致します」と。棺桶を担いで会場内の台に乗せるまでの数メーターなんだが、ふと「なんで男やねん」と、ふと疑問に思う。
遺族の中に和田アキ子や、森三中の大島なんぞが居たら、多くの男性遺族よりも力が強いはずである。
帰宅して少し気になったので調べる。けど解らん。。。
手持ちの本では、国東の事例として【コシ、甥がかつぐ】とある(民俗小事典『死と葬送』92ページより)
また、【マゴノコシといって輿を孫がかつぐことを喜ぶところがある。】(同書93ページより)ともある。『孫』は所詮『孫』なので男女の区別がないはずである。
また、『善の綱』というのがあり、これは【葬列で棺の前方に白布を伸ばしそれを近親縁者の女性や子供が引いて先導する綱】(同書93ページより)とある。そこから考えるに役割分担なのかな?
天皇の棺をかつぐ八瀬童子に女性がいるという話は聞いた事がない。
まあ、役割分担かも知れんが、それが固定化されるとうっとうしい話や。
当然、その葬儀が仏式であれば当り前ながら男女の区別はない。よって女性が棺桶を担ぎたかったら担げばエエだけの話である。その場にいる僧侶は認めるだろう。認められなければ「根拠を示せ」と云えばイイ。仏教にそんな根拠があるとは思えない。
祟り。
村の風習。
村には村の古くから風習がある。タブーがある。
別に法律で定められているわけでもなく、『常識』となったタブーがある。まあ、別に村だけの話ではないのだろう。『棺桶を担ぐのは男』っちゅうのは都市部でもあるのだろうし。
「こうでなければいけないのだ」という頑固な頭は別に村社会だけの話ではない。何かしらのこだわりはそれぞれが持っているものだと思う。『こだわり』だと思わないぐらいに当り前になっている事も多々あるだろう。今では崩壊しつつあるのだろうが『家事=女』もそうだろうし。
『こだわり』。自分がこだわっている事を無視されると腹が立つ。それが『村全体』の事であるのなら、村全体のバランスを崩してしまうかもしれない。
今日の『土曜はダメよ!』という関西ローカルの番組(http://www.ytv.co.jp/dameyo/)の定番コーナーである『ダメットさん』は『思い出たくさんダメットさん』だった。
思い出がつまったものが捨てれない人。それは100円ライターや、店のマッチ等でも。だから部屋がもので一杯。CDの帯などもあって、それも捨てれない。他人から見ると『ゴミ』にしか見えない物でも捨てれない。そこには『思い出』があるから。
他人から見ると下らないものでしかなくとも、大切にしておられる人もいる。
「下らんヤツ」
「大きくなったらあんな人になったらいけない」
「殺人鬼」
等々でも。
風習。
時代は変わる。
変わる時代の中で「こんな古くさいものは捨ててしまえ!」等々。
当然、それが辛くて辛くて仕方がない人も居られる。
『答え』と『応え』
「うちの村は昔からそうやったんや!」という答え。
それも確かに応じてくれている事には違いないが、でも、話を『答え』でもって『間違い』とされる。最初から答えありきの事。
それは別に『村の風習』という答えだけでなくとも、今なら『人権』であったり、『男女平等』という『答え』であっても同じだと思う。
で、そこから排除される人。
『どんな人であっても』という言葉が好きだ。大切にしたい。
排除される人。何かの答えでもって排除される人。参加出来ない人。棺を担げない女性。等々。
答えを持っている。答えを持っているが故に頑固になる。頑なになる。正解から相手を判断する。している。
執着する存在としての人間存在。
でも、それが執着とは思えない。『当り前の事』になる。
人はナマモノ。壊れやすい。
必ず死ぬ命だと解っていながらでも、親しい人が死ぬと悲しい。失恋も悲しい。それで精神バランスを崩される人もいる。
けど、それも『こだわり』でしかない。「こうあって貰いたい」「こうであって欲しい」という。欲望。
様々な『こだわり』が対等になれば。。。
無視する事無く、答えから裁く事なく、バカにする事なく、対等のこだわりの交わり。
個個個個個個、虚仮ー、個個個個
あ、明日も仕事やった。最近、朝が辛くてのぉ。。。ニワトリも居らんし。
食類 水菜 98円
イカ唐揚げ 88円
うどん玉 20円
合計 206円
6月累計 107497円
腹巻きして仕事へGO!
今日は葬儀。葬儀終了後に柩車(いわゆる『霊柩車』)について火葬場に行く。
柩車から棺桶を火葬場中の台に乗せる時に葬儀社の姉ちゃんが「男性の御方様、数人御願い致します」と。棺桶を担いで会場内の台に乗せるまでの数メーターなんだが、ふと「なんで男やねん」と、ふと疑問に思う。
遺族の中に和田アキ子や、森三中の大島なんぞが居たら、多くの男性遺族よりも力が強いはずである。
帰宅して少し気になったので調べる。けど解らん。。。
手持ちの本では、国東の事例として【コシ、甥がかつぐ】とある(民俗小事典『死と葬送』92ページより)
また、【マゴノコシといって輿を孫がかつぐことを喜ぶところがある。】(同書93ページより)ともある。『孫』は所詮『孫』なので男女の区別がないはずである。
また、『善の綱』というのがあり、これは【葬列で棺の前方に白布を伸ばしそれを近親縁者の女性や子供が引いて先導する綱】(同書93ページより)とある。そこから考えるに役割分担なのかな?
天皇の棺をかつぐ八瀬童子に女性がいるという話は聞いた事がない。
まあ、役割分担かも知れんが、それが固定化されるとうっとうしい話や。
当然、その葬儀が仏式であれば当り前ながら男女の区別はない。よって女性が棺桶を担ぎたかったら担げばエエだけの話である。その場にいる僧侶は認めるだろう。認められなければ「根拠を示せ」と云えばイイ。仏教にそんな根拠があるとは思えない。
祟り。
村の風習。
村には村の古くから風習がある。タブーがある。
別に法律で定められているわけでもなく、『常識』となったタブーがある。まあ、別に村だけの話ではないのだろう。『棺桶を担ぐのは男』っちゅうのは都市部でもあるのだろうし。
「こうでなければいけないのだ」という頑固な頭は別に村社会だけの話ではない。何かしらのこだわりはそれぞれが持っているものだと思う。『こだわり』だと思わないぐらいに当り前になっている事も多々あるだろう。今では崩壊しつつあるのだろうが『家事=女』もそうだろうし。
『こだわり』。自分がこだわっている事を無視されると腹が立つ。それが『村全体』の事であるのなら、村全体のバランスを崩してしまうかもしれない。
今日の『土曜はダメよ!』という関西ローカルの番組(http://www.ytv.co.jp/dameyo/)の定番コーナーである『ダメットさん』は『思い出たくさんダメットさん』だった。
思い出がつまったものが捨てれない人。それは100円ライターや、店のマッチ等でも。だから部屋がもので一杯。CDの帯などもあって、それも捨てれない。他人から見ると『ゴミ』にしか見えない物でも捨てれない。そこには『思い出』があるから。
他人から見ると下らないものでしかなくとも、大切にしておられる人もいる。
「下らんヤツ」
「大きくなったらあんな人になったらいけない」
「殺人鬼」
等々でも。
風習。
時代は変わる。
変わる時代の中で「こんな古くさいものは捨ててしまえ!」等々。
当然、それが辛くて辛くて仕方がない人も居られる。
『答え』と『応え』
「うちの村は昔からそうやったんや!」という答え。
それも確かに応じてくれている事には違いないが、でも、話を『答え』でもって『間違い』とされる。最初から答えありきの事。
それは別に『村の風習』という答えだけでなくとも、今なら『人権』であったり、『男女平等』という『答え』であっても同じだと思う。
で、そこから排除される人。
『どんな人であっても』という言葉が好きだ。大切にしたい。
排除される人。何かの答えでもって排除される人。参加出来ない人。棺を担げない女性。等々。
答えを持っている。答えを持っているが故に頑固になる。頑なになる。正解から相手を判断する。している。
執着する存在としての人間存在。
でも、それが執着とは思えない。『当り前の事』になる。
人はナマモノ。壊れやすい。
必ず死ぬ命だと解っていながらでも、親しい人が死ぬと悲しい。失恋も悲しい。それで精神バランスを崩される人もいる。
けど、それも『こだわり』でしかない。「こうあって貰いたい」「こうであって欲しい」という。欲望。
様々な『こだわり』が対等になれば。。。
無視する事無く、答えから裁く事なく、バカにする事なく、対等のこだわりの交わり。
個個個個個個、虚仮ー、個個個個
あ、明日も仕事やった。最近、朝が辛くてのぉ。。。ニワトリも居らんし。