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大阪府に高速道路以外に1km以上信号や「とまれ」がない道路って何ヶ所ぐらいあるのだろ?そんな事を名古屋→尾鷲の帰り道に、ふと思いました。
久々の県外ツーリングは、とても気持ち良くて、かなりのストレス発散になったと思います。大阪は狭く、人口密度も高く、渋滞も多く、バイクで走っていてもストレスが溜まるだけです。他に趣味があれば良いのでしょうが、子どもの頃より「どっか行きたい」と、自転車に始まり色々な旅行が最大の楽しみであった私にとっては、地味に大変なコロナ禍でした。かつ、ほぼ引き篭もりで動けない状態が多く、動けるようになっても「県外に出るな!」という事は物凄くストレスが溜まります。
でも、これは他の人たちも違う形で感じている事だと思います。
何やら、つるの剛士が「普通の声で」とツイートした事が話題になっているみたいです。
怒っている人にとっては激しい言葉が「普通の声」なので、何が「普通の声」なのかは不明ですが、「穏やかな話し方」と仮定します。でも、怒っている人は、怒らざるを得ない状況下にあるから怒っているワケであって、「怒っている人に対して『普通の声で』という意見こそ暴力的だ」という意見もあったりします。
私はひょっとすると元々の感情がかなり壊れている部分があり、一応、文学なり宗教なりで後付はしているのですが、今もかなりあると思います。
その上での話なんですが、弱い連中や利害関係がない人たちが怒ったとして何か影響ある?と素朴に思います。
例えば、ヤクザが怒ったら私はビビリます。ええ、純粋に怖いです。また、好きな人に怒られると素朴に怖いです。嫌われたくないですから。今は無職ですが、職場の上司や同僚などもこの中に含まれます。あとは怖くありません。
目の前で激しく怒られた事も何度もありますが、感情が欠如しているのか、「だって、お前、俺を殺せないやろ?」と思います。当然、腹が立ちますが、変な話、私を殺す覚悟がない人間に怒られても怖くありません。
故に、怖くない人間の言葉に説得力が無ければ聞く必要がありません。ただ、私は議論が好きですし、私とは違った意見であったとしても納得出来れば賛同します。
ネット上ならば特に顕著で、ほぼ見知らぬ人たちですから、全く怖くありません。純粋に論として納得出来るかどうかだけの話です。激しい言葉は「あ、ムキになってるwww」だけの話です。そんな事でビビっていたら、ネットなんか出来ません。「私を説得したいのならば、キチンと論を立てて話せ」だけです。
それは人によって色々と違う事だと思います。ただ、激しい怒りの声を上げても、「通用しない相手がいている」という事も確かです。そんな事は歴史が証明しています。仮に相手に通じたならば、そこに何かしらの利害関係が生じただけです。いわゆる権力者なんて、そんなものです。数万人が激しくデモで怒りの声を上げても、民主主義国家はその他圧倒的多くの「声なき声」があるワケであって激しい言葉に従う必要はあってはなりません。それは、テロに屈する事です。
当然、怒った感情を隠す事も良くないと私は思いますし、怒りの声はナンボでも上げるべきです。ただ「相手に解って欲しい」ならば、話は別です。相手が納得出来るような話し方をすべきであり、相手との妥協点も探るべきです。それが出来ずに怒っているのは、単なる議論出来ずにプライドだけ高いガキです。
そして、同意見のガキが集まって一つのセクトになり、カルト化して行くだけです。そこでストレス発散をしているだけです。故に、様々な妄想が広がり、「マスゴミ」と呼んだり「日本では真実が隠蔽されている」とカルト化が進んで行っています。
「ネトウヨ」
「ブサヨ」
という言葉がありますが、レッテルを貼った人からの賛同を得ようとせずに、所詮は「私(たち)は正しい」という内部向けの言葉でしかありません。
そして、それがコロナ禍というストレスで益々悪化しているように思います。
阪神大震災からのオウム事件で「敵」「味方」というカルト化が進み、東日本大震災→福島第一原発事故で悪化しました。そしてコロナ禍で益々悪化しているように、私は感じます。
10の意見を聞いた後に、11目の意見を作り出すのか、それとも10の意見の中での大きな勢力を占めている所に意見を合わせるのか?
「異議なし!」という言葉が昔に運動系で流行りましたが、「異議なし!」を安直に使うからカルト化して、集団リンチなりテロが行われたわけだったりする。
自分で考える事が出来る脳味噌は誰にもあり、それは拙くても何でも構わずにあるワケであって、11、12と、どんどん増えて行く事が、とても大切だと思う。人格の数だけ「異議あり!」が大切だと思う。
そして、「個」があり、故に、同意見の部分は連帯する、と。違う意見の人たちをみとめつつも、その違いに優劣はなく、故に、自分の意見に賛同して貰いたければ、相手に合わさないと。
♪僕の話を聞いてくれ
笑い飛ばしてもイイから
(by『チェインギャング』真島)
だと思う。
「この教えが絶対に正しいんや!」と大上段からいう坊主には、同じ信仰であっても「そんなもん知らんわ」と、私は言う。ただ、私を尊重し、丁寧に話かけて来た人たちが多くいたから聞く耳を持てただけの話。他人のストレス発散の犠牲になる筋合いを私は一切感じない。
リハビリ・ツーリング途中に寄ったコンビニトイレに映し出された私は、単なる疲れた中年オヤジだった。
と、石を投げたら簡単に見つかりそうな安っぽい小説に書かれてあるような事を書いてみる。でも、確か私は「実年齢より見た目が若い」という事も1つのセールスポイントだったけど、もうダメになったみたい。
そして、寝てるか座椅子に座っているかの生活の中で弱り切った腹筋のせいか、たった50キロ程度走った辺りで腰が痛くなる。
阪神大震災&地下鉄サリン事件の年以来の名古屋市円頓本町にある「とんやき・上野屋」は大瓶750円という西成ならば暴動が起きるような価格だった。まあ、上野屋目的で来たワケだし、とんやきも無茶苦茶美味しかったから別にエエけど、以前に来た時には「ビールが高かった」という印象が無かっただけに少し残念。
太閤通り近くにある一泊2500円バイク駐車料金無料のホテルにチェックインするまで時間が余ったので、津島に行く。さすがは織田家の天下取りに大貢献した商人の町だけあって、大きな屋敷が今もあったりする。それほど観光地化されて居ない町並みを見ながら、「先祖伝来の金持ちはエエのお」と煩悩がムクムクと出て来た。
画像は、名古屋にも当然ある夕焼け。ホテル近くの居酒屋でシメの一杯は呑んだけど、上野屋を出て、ホテルまでの約30分程度の道のりを歩いていた中で見た夕焼け。
実家は貧乏自慢出来る程の家でもなく、単なる大阪下町にある、極々あり触れた家。ただ、両親共に大谷派であり、実家にはケッタイな姉ちゃんが御参りに来ていた。
私の所属寺も大谷派。実家とは無関係に運動からみで知り合った住職の寺。でも、実家が大谷派でなく、また、ケッタイな姉ちゃんが御参りに来てなければ、僧侶資格を取る事もなく、大谷派を選ぶ事も無かったかも知れない。
そう考えると、津島の先祖が努力した金持ちの家に生まれる事は無かったが、私の先祖だったり、私を取り巻く人たちの先祖も散々努力して来た結果として、今の私がある事に気付く。
「愚痴おおく、あさましく」「ねたみ、うらみ、そねみ」の塊のまま、それでも堂々と生きている私が、ここに居る。
南無阿弥陀佛を「サンキュー・ブッダ」と訳した人がいるけど、うん、ありがとう。
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吉村知事って、並行世界から散々デマを流している人たちと違って物凄く優秀だと思うねんけど、ツルツルやねん。人間なんて論理で生きられへんねん。松井&橋下が「俺らの世代は喧嘩ばっかりして」と吉村知事を評価してたけど、論理もクソもなく喧嘩する大事さがあるやろ。
「体罰アカン」のは当たり前やろ。でも、殴ってしまう所に、論理を超えた限界から来るものがあるやろ。
これは別に大阪維新だけの話ではなく、今現状進行形の、生身の人間を離れた「論理」、それは宗教でも思想でも何でもエエわ。「カルト」にハマるな、っちゅうねん。実在に立て。
以下、オマケ。
【無免許で単車を乗り回しては事故をおこして罰金を出して、それでも学校に居つかんちゅうのがおって、それに対して部落研の生徒が、「お前、今度単車に乗ったらしばき上げんぞ!」と、こう言うわけです。こういう言葉にこめられている、ほんとうの人間の温かさというものが、実は、なかなか感じとれないんです。】(河田光夫『親鸞と被差別民衆』より)
【「あってはならない」ものが「ある」のは社会が悪い。そういう社会として成り立たせている仕組みが悪い。だから、仕組みを変え、社会を変えなければならない。そういうことだったろう。これのどこが悪いといわれるかもしれないが、私はあえて異を唱えたい。「あってはならない」ものが「ある」という、そもそもの発想が逆立ちしていると思うのだ。こういう発想においては、「あってはならない」という正しい理念をもった自分がいて、そこからまちがった現実が見下されている。それは、プラス・マイナスの符号をつけるところが違っていたり反対だったりするだけで、いてはならないやつらを社会から一掃しようという平沼的思想と基本的に同じである。】(宮崎学『近代の奈落』240~241頁より)
《共同通信社の世論調査によると、PCR検査の態勢整備を巡る政府の取り組みは「不十分だ」との回答が77.4%だった。「十分だ」は15.0%。》
https://this.kiji.is/639720164664378465
という数字は、世論にテレビなどマスコミの影響がどれだけ大きいのかを示す大切なデーターだと思う。