坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

「凡夫」は佛からの励まし

2012年12月30日 | 坊主の家計簿
 今年の御参り終了!!!
 ただ、私らは「一応…」と付くのだが。当然である。それが『住職』っちゅうもんである。どなたかがお亡くなりになれば、即仕事。
 とはいえ、打上げ気分。15時過ぎに御参り終了で、疲れて寝る。起きて学習会。打上げ(?)無しの学習会。まあ、打上げは明日やな。よし、明日飲みに行こう。と、変わらず独身気分を満喫しております。パパでもあるのだが、「パパには大事な用事がある」と娘に断って出かけよう。まあ、明日の気分次第だが。というか、飲みに行く先が開いているのかどうかを確認せんとアカンな。

 本日の地味な学習会。初参加の方も居られたけど、どんな感想を持たれただろうか?少し気になる。個人的には『気楽』という事をメインの置いていたりする。笑い声が絶えない学習会を個人的には目指していたりする。どうせ、帰り道なり、帰ってから何かを思い返すだろうし。

 という事で、復習。


【衆生・有情(サッタ)、衆生といわれるが、何故に衆生といわれるのか。
 五蘊(人間を構成する五つの要素の蘊)に対して、欲あり、貪りあり、渇愛あり、執著するから衆生・有情といわれる。】(『相応部』三・一九〇ページかららしい。引用は雲井昭善『万人に語りかけるブッタ』より)

【人間を「存在するもの」とみるのでなくて、「執著する存在」としてとらえていた点に特徴があったことを意味します。】(雲井昭善『万人に語りかけるブッタ』より)

【凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと】(親鸞『一念多念文意』より)

 以前に恩師から聞いた話。寝たきりの姑を介護する嫁。姑は自分の身体が思うようにならない腹だたしさを嫁にぶつける。悪態を散々吐く。嫁はそれに対して「やってられるか!」と、やはり姑に悪態を吐いて介護を辞める。でも、思い直して「ごめんなさい!」と姑に頭を下げて介護を続ける。そんな話を聞いた事がある。

 今日、諸々喋っていた中では浮気話。喩え話で、連れ合いが浮気をした時にニヒリズム(空に沈む)で自分の感情を殺す事なく、相手を見放す事なく、ムカつき、腹立たしく思う中で、如何に自分自身が物事に執着している存在なのか、自己中心的でどうしようもない存在である事を気付く事が出来れば、「南無阿弥陀佛」と念佛申す機縁になれば、浮気した連れ合いは私に念佛申す機縁を与えて下さった仏様の化身である。諸仏である。それが煩悩を断ぜずして仏道を歩める真宗仏教である。

【罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし】(親鸞)

 である。

 とは云え、物事はそんな簡単に行かない。いや、行ける人も居ているのだろうが、私には難しい。五蘊から、煩悩から解放される事も無理であれば、解放されない事を機縁にして念佛申し、『敵』を仏の化身として観る事も難しい。しかしながら、「聞いた」という事実がある。「あ、先生がそういうえばこんな事を言っていたな」と、思い返す事が出来る。痛みとなる。「そんなん、あいつが悪いねんから当り前やん」だけには終わらず、痛みとなる。私の問題になる。私が人生の主人公になれる。私が私の人生の主人公になれる。「あいつが悪い」は、相手任せである。それは勿体ない。仏道を歩むのは私である。
 痛みは本願である。如来が苦しんでいる。そして、私に恩師から聞いた言葉を苦悩の現場に届けて下さる。私はその働きのお陰で「いのち」の感覚を取り戻す事が出来る。

 という事で、お腹ペコペコ。バラエティーを観ながら晩御飯を食べよ。

釋克念

2012年12月29日 | 坊主の家計簿
【『毎日かあさん』は破天荒な夫を持った妻の子育て現場ルポでもある。最新刊「出戻り編」ではアル中を克服した鴨ちゃんと再び同居。ガンで亡くなるのを看取るまでが描かれている。

西原「帰りたい。鴨ちゃんにそう言われた時、最初は断るつもりだったの。記憶は飛んでるのに、あの生活を思うだけで呼吸がまだ苦しくなったから」

「彼のためじゃなく、あなた自身のために彼を受け入れてあげるべきだ。じゃないと絶対に後悔する」そう言って、この時、西原さんを説得したのは、作品にもしばしば登場する大の西原ファン、高須クリニックの高須院長だった。

西原「高須先生はそれこそ何万人もいろんな女の人を診てきているからね。プロファイリングの量が違う。ありがたかった」】
http://www5f.biglobe.ne.jp/iyatsue/saibaratakasu.html より

高須克弥氏の法名は、釋克念。

松井秀喜

2012年12月28日 | 坊主の家計簿
【松井瑠璃寿は、呪術的なことよりも、倫理・哲学を重視。特に弱者救済に尽力。教えに関しては、以下のように具体的に教えた。

子供は親の子であって、親の子ではない。神様の子供である。したがって、子供に対する粗末な扱いは許さない。
子供も大人も、霊的なレベルは同じである。歳は関係無い。したがって、子供を呼ぶ時は、「さん付け」で呼ぶべきである。
国籍関係無しに、社会的弱者を助ける事。呪術は必要ない。】
( http://ja.m.wikipedia.org/wiki/瑠璃教会 より)

松井秀喜、実家を継ぐのかなぁ…。



<<< 立ち向かわなくてもいい >>>

君は、無理して立ち向かわなくていいんだ。
学校やクラスにいても楽しくない。
仲間にうまく入れない。
それなら、それで、別にいいんじゃないかな。
だれかがつくった世界に
君が入らなければいけない、ということはないんだよ。

それより、君には、居心地のいい場所で、
自分の好きなことに夢中になってほしい。
何かに没頭(ぼっとう)することによって、
いやなことが気にならなくなることって、あると思うんだ。
逃げるんじゃない。
自分から好きな世界を選ぶんだ。
その中で同じ夢を持った友だちに出会うこともあるだろう。
新しい仲間ができるかもしれない。

ぼくは小さいころ、
体が大きいだけでなく、太っていた。
それを悪く言う友だちがいたかもしれない。
ぼくはまったく気にならないタイプだから
コンプレックスを感じることもなく、
ただ大好きな野球に没頭していた。
そのうちに、自然と体も絞(しぼ)れてきた。
もちろんいい仲間とも、たくさんめぐり合うことができた。

だから君にも大好きなことを見つけ、
自分の夢を持ってほしいんだ。
スポーツが好きな人もいれば、
音楽が好きな人もいるだろう。
何かを書いたり、つくったり。
見ることでもいい。
どんなことでもいいんだ。
大好きなものに出会えたら、
それを大切にして欲しい。

君をいじめている人がいるとしたら、
その人もきっとつらい気持ちでいると思う。
だって、人をいじめることが夢なんて人はいないはずでしょう。
いじめは夢の遠回りなんだ。
その人にも、自分の夢を早く見つけて欲しいと言いたい。
後悔(こうかい)するような時間は、
短い方がいいからね。

だから、いま君が立ち向かうことはないんだ。


松井秀喜
(朝日新聞2006年12月6日掲載)

私の仕事

2012年12月25日 | 坊主の家計簿
「自分の仕事をせえ」
 なんとなく、さっきシャワーを浴びていたら出て来た言葉。

 今日はお通夜だった。故人については名前と年齢しか知らない。でも、この世に産まれ、しっかりと大地に足をつけ、人生を全うなされた方である事だけは間違いない。

 先日、先輩から電話があった。ヘロヘロモードだったので銭湯でまったりしていたら携帯に電話があったらしく、約40分遅れで電話する。活動的な先輩がやっている活動的な宗教者が集まる会で「昔の話をせえ」という事らしい。30分という時間にビビリつつあるが、先輩の他にも、先輩のサブをやっている人も昔から知っている人なので、まあ、全く知らない所に放り込まれるわけでもないので、了承する。まあ、正式には決まっていないが。30分というのはハードルが高過ぎるので、出来れば逃げたいのだが、まあ、他にいなけりゃ「別にエエか」と。
 
 昔の話は、坊主バー時代の想い出。経営面も含めての話らしい。帳簿、残ってたかなぁ…。

 自分の仕事。私は寺の住職なので、私がやるべき第一義の仕事は寺を護る事。経済的に豊かでない寺なので、経済的に豊かな寺なら軽く越えれる、もしくは全く問題にならない事が大問題になる。
 私は3歳児の父親であるので、娘育てなければならない。「育てる」とは傲慢な気もするが、メシを喰わせなければならない。経験した事がないが、色々な『親』としての先輩達から「これから金かかるで」と脅されている。
 もっと厄介なのが、『私』という存在である。私は『私』という厄介な存在と共に生きて行かなければならない。これまた、他の人なら「なんでこんな簡単な事が出来ないの?」という事も出来なかったりするし、ハードルが高かったりもする。でも、私は『私』から逃げる事は出来ず、私は『私』と共に生きて行かなければならない。

 これまた先日、某所で僧侶仲間達と飲んで居た。年齢も人生経験も様々な人たち。ある私と同じ『在家出身(寺産まれでない)』の人。今もバリバリと、いわゆる『坊主』以外の仕事で働き、生きて居られる。同席した僧侶仲間には、いわゆる『無職』の人がいる。というか、別に働かなくても生活出来る環境に産まれ育った方。
 もう20年以上前だろうか?当時、生活する為にバリバリ働いていた私は、そういう私の苦労で一杯だった。今も変わらんのだが、今とは違って、「働かなくても食べて行ける人」という人の存在を許せなかった。「お前に何の苦悩があるねん」というヤツであり、恐らくその僧侶仲間にそういう事を言った時に、その人が「私の苦悩が解るのですか?」みたいな事を言った。浅かった。「甘かった」というよりも、浅かった。私が浅かった。
 先日某所での飲み会に居た『長老格』は「縁」という一言で纏めておられた。

 坊主バーは3代目時代に大きな変化を迎える事になるのだが、その3代目マスターがケッタイな人であって、前科3犯独房2年やったかな?前科だけは覚えているが、独房(政治犯でもあった)の年数はうる覚え。ホームレス生活は8年だったかな?金のある時はドヤ暮らし。まあ、かなり変わった経歴の持ち主であり、40前まで酒を毛嫌いしていた割に、後期(死にました)は半アル中状態だった。
 坊主バーのマスターになり、僧侶資格も取った。僧侶資格を取ったという事で、当時同じ所属寺だった事もあり、同じ法要に参加。
 その法要の帰りだっただろうか?私と、もう一人の友人と共に三代目マスターを吊るし上げた。「僧侶資格を取得したなら、もっと僧侶としてしっかりせえ!」と。その時に三代目マスターがポツリと「でも、俺は親鸞好きやねん」と言った。

 坊主バーをやり始めて、後に2代目マスターとなる人と、後の東京・四谷坊主バーの初代マスターになる人と朝まで遊んでて、そのまま3人京都珍道中(?)に出かけた事があった。
 法然上人ゆかりの『法垂窟』という所にも初めて連れて行って貰い、その時に初めて2人から『一枚起請文』という法然上人の遺言状みたいなものを紹介して貰った。というか、2人から暗唱して貰った。「何や、この2人は?」と思ったのだが、その前にも「何やお前らは?」と思った事も多々あったので特に驚きはしなかったのだが、『法然上人』という方がどういう方なのか、当然、選択集も読んでいない時に2人が暗唱していた『一枚起請文』を聞き、解説を聞いて「おお!すげぇ!」と。

【もろこし(中国)・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに篭り候ふなり。このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。】

 解説は浄土宗で、どうぞ。

 http://jodo.or.jp/jodoshu/index3.html

【私の専修学院での学びは、凡夫という言葉を中心に始まりました。しかし学院は生活学習の場ですから、そこで繰り広げられる私の意識生活は、その凡夫の身を裏切る自尊心との格闘でもありました。それは今日も、今も、続いています。そうした事実と思いのぶつかる日々の生活の中で、それでもここに身を置いていることの支えとしている言葉があります。それは信國先生が大病を患われた晩年のころだったのではないかと思いますが、授業で法然上人の『一枚起請文』(真宗聖典九六二頁)を取り上げられて
 「ここに『一文不知の愚どんの身になして』とあるでしょう。この『なして』という日本語は、意思をあらわす言葉です。意思して、愚鈍の身になるのです。」
 と、強い口調でおっしゃいました。「意思して、なる」。いつのまにか、如来回向とか、本願他力という教学用語を自分勝手にとりこんで、仏法を自動起床装置であるかのように錯覚する腑抜けた信仰理解にまどろんでいる私どもに、「目覚めよ」と命じる一言でした。
 凡夫とは、意思して凡夫にならなければ、自分が凡夫の身を生きていることに気付けないものです。その凡夫への意思を私どもに喚び起こす強い力が、如来の本願です。】
(狐野秀存『共に是れ凡夫ならくのみ』願生第145号より)

「私は昔にこんな事をして来ました」「私は今、こんな事をしています」と、自分の行動を誇る、誇ってしまう、差別化してしまうのが自我。何をやろうが、やろまいが、それは単なる縁の問題。
 何か解りやすい『社会的な行動』、『宗教家らしい行動』。それ等は単に様々な御縁でもって、たまたま出来た事。

「ただ念仏」とは、宗教的差別の否定。必ず自我を誇ってしまう煩悩がある。自分にしか、あるいは『自分たち』にしか出来ない『行動』でもって、差別し、見下してしまう。自分や、自分たち、あるいは『世間的価値観』からの色眼鏡でもって優越し、卑下してしまう。それが煩悩。仏道を歩んでいるが故に出て来る煩悩だってある。『宗教家らしく』という煩悩だってある。『宗教家らしい』という差別だってある。そして、悲しい事に私(たち)は差別が好きだ。煩悩を喜ばしてくれるものが大好きだ。苦労自慢は『苦労していない(ように見える)人』を差別する。そこで優越感に浸る事が出来る。
 運動論では「差別された側の人間から、差別する側の人間に対する差別は差別ではない」という事らしいが、そんな事は知ったこっちゃねえ。が、ここでも私の煩悩の働きは「私の方が上」と、差別してしまう。「あなた達は解っていない」と、見下してしまう。

「自分の仕事をしろ」
 あるいは
「自分の修行をしろ」
 
 私にとっては、ある恩師からから教えて頂いた言葉、「人がそこに居られる」と。全く平等に人がそこに居られるにも関わらず、主観でもって、エゴでもって、自我でもって、様々に切り裁く。同時に『私自身』をも切り裁く。そんな所からの解放、それはある人にしてみればハードルの低い作業かも知れないが、でも、私にとってはとても難しい事。私の課題。

『念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い』(田中角栄)

2012年12月25日 | 坊主の家計簿
【親鸞聖人の何かの折りにふとおっしゃった言葉が、唯円の胸に染み入り、年月を経るごとにいよいよ心に深く刻みこまれ、人生の節目節目に鮮やかに甦ってくる。】(狐野秀存『願生第153号』より)

という様な心の作用というか、信仰生活の働き、御念仏の働きを所謂『仏教学』というもので解説したりする事に増々興味を失いつつある昨今でございます。まあ、様々な意味を含めて余裕があれば「やろうかなぁ~」と思ったりもするのですが、いかんせん、母校の機関紙の口座振替をつい先程まで忘れていたわけでして…(笑)

今日は早朝の御参り一軒だけだったので、お休み気分。誰がなんと言おうとお休み気分。なので諸々の事務的な仕事を「しようかなぁ~♪」と。医療保険の結婚しての名義変更はインターネットでは出来ないらしい。けど、せっかく立ち上げたパソコンでポツポツと。


昨夜、どなたのリツイートか忘れたが、Twitterで田中角栄botの言葉が流れて来た。あ、映画『無人地帯』の藤原敏史監督か。
流れて来た言葉は

【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】

という言葉。田中角栄氏がどこで発言なされた言葉なのか知らないが、ネットの田中角栄語録でも紹介されていた。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/goroku.htm

『宗教者』という言葉が気になる。
『宗教』という宗教教団はない。ひょっとしたらあるのかも知れないが、聞いた事がない。『宗教』という宗教がないにも関わらず『宗教者』という言葉はある。「我々は宗教者として…」云々。

私が中学か高校時代に最初に買った哲学の入門書の前書きか、最初の項目だったかに、「哲学は誰だってしているものです。八百屋さんには八百屋さんの哲学があるでしょうし、魚屋さんには魚屋さんの哲学がある」みたいな事が書いてあった。引越が多いので当然その本は手元にないし、なんというタイトルだったのか、誰が書いたのか一切覚えていないが、生意気だった(今もか)思春期真っ盛りの時代の私の心に響いたのだろう。44歳になったいまだに覚えているし、その言葉の持つ哲学性に共感する。

【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】

という言葉の田中角栄氏は、日本の高度成長期時代の象徴的な人物だろう。高度成長期の中では、いや、私(たち)の自我意識の中では

【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】

にしか成り得ないのだろう。

【今日、私たち真宗門徒自身が、念仏者に対する敬意を忘れてしまっているのではないか。そんな気がしてなりません。念仏する者は、ただそれだけで敬意を払われるべき存在なのです。念仏者という人が尊いというよりも、その人を通して念仏が出てきているという事実が尊い。その尊さは、お念仏が誰の口から出てきても同じで、その人の人格や才能や経験によって左右されない。その価値や意義はそういうことでは少しも異なることはないのです。「南無阿弥陀仏」とその名を称する声となって、法蔵菩薩の精神が私たちの前に飛び出しているのだということです。だから、念仏者に対する弾圧は、法蔵菩薩の精神すなわち菩提心に対する弾圧なのです。】(藤場俊基『親鸞の仏教と宗教弾圧』164ページより)

宗教者。
真宗教団で『宗教者』とは宗教法人の代表者(住職)や、あるいは、『僧侶』のみに限定されるのだろうか?それとも『真宗門徒』全体を指していうのだろうか?宗教法人云々の話は国法である。仏法云々の話ではない。
真宗教団での『宗教者』が真宗門徒全てを指すのであれば、それこそ、八百屋さんだったり、魚屋さんだったりも宗教者である。御念仏という宗教活動(行)を行っている。

『宗教』という宗教はない。あるのはそれぞれの宗教の教えであり、その教えに生きて居られる方々だ。教えが違う以上、「立派な宗教家」という概念自体がおかしい。日蓮宗の方々にとって、熱心な念仏者であればある程救い難い存在であるのだろう。

真宗門徒が

【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】

こういう言葉をいうとは思えないが、『宗教者』というフィルター、まあ、色眼鏡(偏見)でもって観た場合には「あの人は何の行動もせずに念仏しか申していない」という事になってしまうのだろうか?だとしたら、それは『真宗門徒という宗教者』としてどうなのだろうか?己の信仰を無視した宗教者にどういう意味があるのだろうか?


【神さま
 信じている私に 信じていない私が
 いつも 厳しく問いかけてきます
  ”お前の信仰はウソだ 心の底から
  ほんとうに信じていない
  お前の生活はなんだ
  ほほえみながら 冷たい心で人を
  憎みつつ 自分をごまかしている
  愛の業 奉仕だといいながら
  人が認めてくれないことに傷ついている
  お前は 信仰者といいながら
  偽善の不幸の中で いつも不平をいって
  感謝も 喜びも忘れて生きている”
 もうひとりの私の厳しいののしりの声に
 私はひと言も答えることができないのです。
 でも 神さま
 信仰は何かをすることでしょうか
 何かをしなければと思いつつ
 何もできない痛みに苦しむ私を
 愛をもって招いてくださる主のみ声を聞く耳
 愛されることを感謝する心
 信仰とはそんなことだと 私は思います
 何をすることでもない ただ素直に単純に
 率直にあなたを信じて 礼拝を守りつづけ
 祈りを共にしていく力を 私にください】
(石井錦一『お前の信仰はウソだ』。日本基督教団出版局『信じられない日の祈り』より)

東村山福音自由教会・早坂牧師『なぜ教会は敷居が高い?』

2012年12月24日 | 坊主の家計簿
【しばしば未信の方から「私のような者が教会に行っていいのでしょうか」という質問を受けます。多くの日本人が興味を持ちながらも、キリスト教会を敷居の高い場所と考えているのです。教会は堅苦しい、厳しい。真面目で立派な人が行く場所だと思われがちなのです。本当はだらしない、罪深い、どうしようもない人間だからこそ教会に行くはずなのに、なぜだろうかと思いました。そしてふと、私たちキリスト者にも原因があるのではないかと思ったのです。それは、私たち自身が「立派なキリスト者」の顔をしているからではないかということです。本音と建前という言葉がありますが、この言葉を借りるなら「建前クリスチャン」が多いのではないかと思ったのです。救いの証しをするにしてもよそ行きの証しをしてしまう。人から軽蔑されることを恐れて良い自分を表そうとしてしまう。模範的なクリスチャンを演じてしまう。そのような私たちなのではないかと思わされたのです。すまし顔クリスチャンではなく、ありのままの自分を表すばかが付くほどの正直なクリスチャンが求められているのかも知れません。自分の弱さをさらすからこそ、神の恵みの豊かさが現されていくのではないでしょうか。】
(東村山福音自由教会・早坂牧師『なぜ教会は敷居が高い?』)

http://www.sunrisechapel.net/bokushisyoutomeseiji.html

「念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い」

2012年12月19日 | 坊主の家計簿
【親鸞聖人の何かの折りにふとおっしゃった言葉が、唯円の胸に染み入り、年月を経るごとにいよいよ心に深く刻みこまれ、人生の節目節目に鮮やかに甦ってくる。】(狐野秀存『願生第153号』より)

という様な心の作用というか、信仰生活の働き、御念仏の働きを所謂『仏教学』というもので解説したりする事に増々興味を失いつつある昨今でございます。まあ、様々な意味を含めて余裕があれば「やろうかなぁ~」と思ったりもするのですが、いかんせん、母校の機関紙の口座振替をつい先程まで忘れていたわけでして…(笑)

今日は早朝の御参り一軒だけだったので、お休み気分。誰がなんと言おうとお休み気分。なので諸々の事務的な仕事を「しようかなぁ~♪」と。医療保険の結婚しての名義変更はインターネットでは出来ないらしい。けど、せっかく立ち上げたパソコンでポツポツと。


昨夜、どなたのリツイートか忘れたが、Twitterで田中角栄botの言葉が流れて来た。あ、映画『無人地帯』の藤原敏史監督か。
流れて来た言葉は

【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】

という言葉。田中角栄氏がどこで発言なされた言葉なのか知らないが、ネットの田中角栄語録でも紹介されていた。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/goroku.htm

『宗教者』という言葉が気になる。
『宗教』という宗教教団はない。ひょっとしたらあるのかも知れないが、聞いた事がない。『宗教』という宗教がないにも関わらず『宗教者』という言葉はある。「我々は宗教者として…」云々。

私が中学か高校時代に最初に買った哲学の入門書の前書きか、最初の項目だったかに、「哲学は誰だってしているものです。八百屋さんには八百屋さんの哲学があるでしょうし、魚屋さんには魚屋さんの哲学がある」みたいな事が書いてあった。引越が多いので当然その本は手元にないし、なんというタイトルだったのか、誰が書いたのか一切覚えていないが、生意気だった(今もか)思春期真っ盛りの時代の私の心に響いたのだろう。44歳になったいまだに覚えているし、その言葉の持つ哲学性に共感する。

【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】

という言葉の田中角栄氏は、日本の高度成長期時代の象徴的な人物だろう。高度成長期の中では、いや、私(たち)の自我意識の中では

【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】

にしか成り得ないのだろう。

【今日、私たち真宗門徒自身が、念仏者に対する敬意を忘れてしまっているのではないか。そんな気がしてなりません。念仏する者は、ただそれだけで敬意を払われるべき存在なのです。念仏者という人が尊いというよりも、その人を通して念仏が出てきているという事実が尊い。その尊さは、お念仏が誰の口から出てきても同じで、その人の人格や才能や経験によって左右されない。その価値や意義はそういうことでは少しも異なることはないのです。「南無阿弥陀仏」とその名を称する声となって、法蔵菩薩の精神が私たちの前に飛び出しているのだということです。だから、念仏者に対する弾圧は、法蔵菩薩の精神すなわち菩提心に対する弾圧なのです。】(藤場俊基『親鸞の仏教と宗教弾圧』164ページより)

宗教者。
真宗教団で『宗教者』とは宗教法人の代表者(住職)や、あるいは、『僧侶』のみに限定されるのだろうか?それとも『真宗門徒』全体を指していうのだろうか?宗教法人云々の話は国法である。仏法云々の話ではない。
真宗教団での『宗教者』が真宗門徒全てを指すのであれば、それこそ、八百屋さんだったり、魚屋さんだったりも宗教者である。御念仏という宗教活動(行)を行っている。

『宗教』という宗教はない。あるのはそれぞれの宗教の教えであり、その教えに生きて居られる方々だ。教えが違う以上、「立派な宗教家」という概念自体がおかしい。日蓮宗の方々にとって、熱心な念仏者であればある程救い難い存在であるのだろう。

真宗門徒が

【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】

こういう言葉をいうとは思えないが、『宗教者』というフィルター、まあ、色眼鏡(偏見)でもって観た場合には「あの人は何の行動もせずに念仏しか申していない」という事になってしまうのだろうか?だとしたら、それは『真宗門徒という宗教者』としてどうなのだろうか?己の信仰を無視した宗教者にどういう意味があるのだろうか?


【神さま
 信じている私に 信じていない私が
 いつも 厳しく問いかけてきます
  ”お前の信仰はウソだ 心の底から
  ほんとうに信じていない
  お前の生活はなんだ
  ほほえみながら 冷たい心で人を
  憎みつつ 自分をごまかしている
  愛の業 奉仕だといいながら
  人が認めてくれないことに傷ついている
  お前は 信仰者といいながら
  偽善の不幸の中で いつも不平をいって
  感謝も 喜びも忘れて生きている”
 もうひとりの私の厳しいののしりの声に
 私はひと言も答えることができないのです。
 でも 神さま
 信仰は何かをすることでしょうか
 何かをしなければと思いつつ
 何もできない痛みに苦しむ私を
 愛をもって招いてくださる主のみ声を聞く耳
 愛されることを感謝する心
 信仰とはそんなことだと 私は思います
 何をすることでもない ただ素直に単純に
 率直にあなたを信じて 礼拝を守りつづけ
 祈りを共にしていく力を 私にください】
(石井錦一『お前の信仰はウソだ』。日本基督教団出版局『信じられない日の祈り』より)


 さあ、年賀状、年賀状。その前にコタツに潜り込もう。寒い、っちゅうねん。

仏を信じる

2012年12月12日 | 坊主の家計簿
【特に問題なのは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分です。これは、ユートピア的発想による自衛権の放棄にほかなりません。】
(自由民主党憲法改正草案Q&Aより)


【また、権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。】
(自由民主党憲法改正草案Q&Aより)

 http://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf


我が国の歴史、文化、伝統…
茨城県大洗には『渡来人』という名前のラーメン屋があり、港町らしく魚介系スープが絶品らしいのだが、ここの大将に「我が国の歴史、文化、伝統」についての意見を是非聞いてみたいものだ。

日本にやって来て1500年程度の歴史、文化、伝統しかない仏教に『人権』の様な言葉があるのかどうかは不勉強なので知らないが、『仏性』という言葉はある。


【この世尊が入滅したあとに、正しい教えが消滅し、正しい教えの模範の教えが消滅しはじめていて、その教誡が高慢な僧によって攻撃されているとき、サダー=パリブータという求法者がいた。いかなる理由で、この求法者がサダー=パリブータ(「常に軽蔑された男」という意味)といわれるかというと、この求法者は、僧であれ、尼僧でであれ、男の信者あれ女の信者であれ、会う人ごとに近づいて、このように言うのであった。
『紳士諸君よ、わたしはあなたがたを軽蔑しません。あなたがたは軽蔑されていない。それは何故であるか。あなたがたは、みな、求法者の修行をしたまえ。そうなさるならば、あなたがたは完全な「さとり」に到達した阿羅漢の如来になられるでしょう』と。
このようにしてマハー=スターマ=プラープタよ、この求法者は僧でありながらも教えを説くことなく、経文をとなえることもなく、会う人ごとに、たとえその人が遠くにいても、彼は誰にでも近づいて、このように声をかけ、相手が誰であれ、このように言うのであった。
『淑女たちよ、わたしはあなたがたを軽蔑しません。あなたがたは軽蔑されていない。それは何故であるか。あなたがたは、みな、求法者の修行をしたまえ。そうなさるならば、あなたがたは完全な「さとり」に到達した阿羅漢の如来になられるでしょう』と。
マハー=スターマ=プラープタよ、この偉大な志を持つ求法者は相手が誰であれ、誰にでもこのように声をかけたのである。彼に声をかけられた者は、みな怒って、彼に悪意をもっただけでなく、不快の意をあらわにして罵り、悪口を言った。
『なぜこの男は、頼まれもしないのに、われわれに対して軽蔑の心をもたないと言うのであろうか。求法者の身でありながら、われわれがこの上なく完全な「さとり」に到達するだろうと予言するのは、身のほど知らずというもの、彼は自分自身を軽んじあなどるものだ。われわれはそのような偽りの予言などを欲しがってはいない。』
こうして、この偉大な志を持つ求法者が罵られ悪口を言われながら、多くの歳月が過ぎた。しかし、彼は誰に対しても怒らず、また悪意ももたなかった。彼からこのように声をかけられた人々は、彼に土塊や棒を投げつけたが、彼は遠くからかれらに大声を挙げて、
『わたしは、あなたがたを軽蔑しない。』
と、声をかけた。彼から始終声をかけられた自尊心の高い僧や尼僧や男女の信者たちは、彼にサダー=パリブータという綽名をつけた。
(中略)
そして、かつて彼が『わたしは、あなたがたを軽蔑しない』と声をかけ、彼にサダー=パリブータという綽名をつけた自尊心の高い人々は、僧であれ、尼僧であれ、男女の信者であれ、いずれも彼の勝れた着想力と智慧の力の威力を知って、彼からの教えを聴くために、みな彼の随行者となった。彼はこれらすべての人々を鼓舞して、他の幾千万億の人々とともに、この上なく完全な「さとり」に到達させた】
(法華経・常不軽菩薩品より。但し、岩波文庫『法華経・下』133~139より)


【特に問題なのは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分です。これは、ユートピア的発想による自衛権の放棄にほかなりません。】


『縄文』『弥生』と呼ばれた時代を含めて他にどの様な素晴らしい『人権』的な考え方があるのかどうか知らないが、『臣下』や、『(天皇の)赤子』というのはイヤ。
一切衆生悉有仏性というユートピア的発想の方がエエ。

渡来人

2012年12月09日 | 坊主の家計簿
【特に問題なのは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分です。これは、ユートピア的発想による自衛権の放棄にほかなりません。】
(下記リンク5ページより)


【また、権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。】
(下記リンク14ページより)

http://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf


我が国の歴史、文化、伝統…
茨城県大洗には『渡来人』という名前のラーメン屋があり、港町らしく魚介系スープが絶品らしいのだが、ここの大将に「我が国の歴史、文化、伝統」についての意見を是非聞いてみたいものだ。

日本にやって来て1500年程度の歴史、文化、伝統しかない仏教に『人権』の様な言葉があるのかどうかは不勉強なので知らないが、『仏性』という言葉はある。


【この世尊が入滅したあとに、正しい教えが消滅し、正しい教えの模範の教えが消滅しはじめていて、その教誡が高慢な僧によって攻撃されているとき、サダー=パリブータという求法者がいた。いかなる理由で、この求法者がサダー=パリブータ(「常に軽蔑された男」という意味)といわれるかというと、この求法者は、僧であれ、尼僧でであれ、男の信者あれ女の信者であれ、会う人ごとに近づいて、このように言うのであった。
『紳士諸君よ、わたしはあなたがたを軽蔑しません。あなたがたは軽蔑されていない。それは何故であるか。あなたがたは、みな、求法者の修行をしたまえ。そうなさるならば、あなたがたは完全な「さとり」に到達した阿羅漢の如来になられるでしょう』と。
このようにしてマハー=スターマ=プラープタよ、この求法者は僧でありながらも教えを説くことなく、経文をとなえることもなく、会う人ごとに、たとえその人が遠くにいても、彼は誰にでも近づいて、このように声をかけ、相手が誰であれ、このように言うのであった。
『淑女たちよ、わたしはあなたがたを軽蔑しません。あなたがたは軽蔑されていない。それは何故であるか。あなたがたは、みな、求法者の修行をしたまえ。そうなさるならば、あなたがたは完全な「さとり」に到達した阿羅漢の如来になられるでしょう』と。
マハー=スターマ=プラープタよ、この偉大な志を持つ求法者は相手が誰であれ、誰にでもこのように声をかけたのである。彼に声をかけられた者は、みな怒って、彼に悪意をもっただけでなく、不快の意をあらわにして罵り、悪口を言った。
『なぜこの男は、頼まれもしないのに、われわれに対して軽蔑の心をもたないと言うのであろうか。求法者の身でありながら、われわれがこの上なく完全な「さとり」に到達するだろうと予言するのは、身のほど知らずというもの、彼は自分自身を軽んじあなどるものだ。われわれはそのような偽りの予言などを欲しがってはいない。』
こうして、この偉大な志を持つ求法者が罵られ悪口を言われながら、多くの歳月が過ぎた。しかし、彼は誰に対しても怒らず、また悪意ももたなかった。彼からこのように声をかけられた人々は、彼に土塊や棒を投げつけたが、彼は遠くからかれらに大声を挙げて、
『わたしは、あなたがたを軽蔑しない。』
と、声をかけた。彼から始終声をかけられた自尊心の高い僧や尼僧や男女の信者たちは、彼にサダー=パリブータという綽名をつけた。
(中略)
そして、かつて彼が『わたしは、あなたがたを軽蔑しない』と声をかけ、彼にサダー=パリブータという綽名をつけた自尊心の高い人々は、僧であれ、尼僧であれ、男女の信者であれ、いずれも彼の勝れた着想力と智慧の力の威力を知って、彼からの教えを聴くために、みな彼の随行者となった。彼はこれらすべての人々を鼓舞して、他の幾千万億の人々とともに、この上なく完全な「さとり」に到達させた】
(法華経・常不軽菩薩品より。但し、岩波文庫『法華経・下』133~139より)


【特に問題なのは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分です。これは、ユートピア的発想による自衛権の放棄にほかなりません。】


『縄文』『弥生』と呼ばれた時代を含めて他にどの様な素晴らしい『人権』的な考え方があるのかどうか知らないが、『臣下』や、『(天皇の)赤子』というのはイヤ。
一切衆生悉有仏性というユートピア的発想の方がエエ。

偏向報道?

2012年12月07日 | 坊主の家計簿
先日の桑名市長選挙で、現職市長が嘉田未来政治塾出身の元市議に大敗した事の報道が少なかった事に対して「未来の党に対する偏向報道だ」という意見が多くある。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=271126

偏向報道とは、現職市長が35843筆ものリコール署名を集められていた事を無視して「未来の党に対する偏向報道だ」という情報を垂れ流す事をいうのではないのか?

マスコミを「マスゴミ」と呼ぶ人達よりも、マスコミの方が比較にならないぐらい平等に、真っ当に、正直に報道している。
12月2日午後に笹子トンネル事故があった事をもう忘れているのか?


http://s.ameblo.jp/kuwana-recall/entry-11143772012.html

究極の保守思想

2012年12月06日 | 坊主の家計簿
【「社会を一気に人間的なものにしようとする企てはかならずその過程で非人間的な手段を採用する」】

という言葉を含む内田樹のTweetがリツイートされて来て、辿って行くとどうやら中島岳志と想田和弘の対談を読んでの感想らしい。

http://www.magazine9.jp/taidan/013/index1.php

ここでも

「劇的な変化というものの中には、絶対に人間の理性に対するおごり高ぶりがある」

という言葉に出会う。

私も保守派に成りたいと思っている。これがなかなか難しい、というか、「殆ど、絶対に無理」という感じなんだが、無理だろうがなんだろうが、やらなければならない事はやならければならない。なので保守派を名告っています。

「普く諸々の衆生と共に」って、究極の保守思想だと思う。

この善き法を守り続けよう

2012年12月05日 | 坊主の家計簿
【クシャトリアの王は、その男にこう言いました。
『おい、男よ、お前が他人から与えられていない物を取った、つまり盗んだというのは本当か』
『本当です、大王様』
『なぜか』
『大王様。わたしは生活ができないからです。』
 修行僧のみなさん、そこで灌頂したクシャトリアの王は、こう考えました。『もしもわたしが他人から与えられていない物を取る、つまり盗みをする者にたいして、それぞれ財産を与えていれば、与えられない物を盗むことが大流行するであろう。わたしはこの男に十分な処罰を課し、根絶しよう。かれの首をはねよう』
 修行僧のみなさん、そこで灌頂したクシャトリアの王は、男たちに命令しました。『おい、この男を強い縄で後ろ手に硬く縛り、頭を剃り、にぎやかな音の小太鼓を鳴らしながら、あちこちの道路、四辻を引き回してから、南門を出て、町の南で十分に処罰し、根絶し、その首をはねよ』
『承知しました、大王様』と言って、修行僧のみなさん、男たちは灌頂したクシャトリア王の命令通り、その男を強い縄で後ろ手に硬く縛り、頭を剃り、にぎやかな音の小太鼓を鳴らしながら、あちこちの道路、四辻を引き回してから、南門を出て、町の南で十分に処罰し、根絶し、その首をはねました」
「修行僧のみなさん、人々は次のように聞きました。『ああ、他人から与えられていない物を取る、つまり盗みをする者、かれらを王様は処罰し、根絶し、その首をはねるのだ』。こう聞いた人々は考えました、『それならわれわれも鋭い刀を作らせよう、鋭い刀を作らせてから、他人から与えられていない物を取ろう、つまり盗みをしよう。
 われわれがかれらを十分に処罰し、根絶し、その首をはねてしまおう』
 かれらは鋭い刀を作らせました。するどい刀を作らせてから、村を略奪し始め、町を略奪し始め、都を略奪し始め、さらには道路での強盗を始めました。その連中は他人から与えられていない物を取り、つまり盗みました。そしてかれらを十分に処罰し、根絶し、その首をはねてしまいました。
 修行僧のみなさん、こうして貧乏人に財産を与えなかったので、貧困が拡大しました。貧困が拡大したので、与えられていない物を盗むことが増加しました。与えられていない物を盗むことが増加したので、刀剣が増加しました。刀剣が増加したので、殺生が増加しました。殺生が増加したので〔嘘が増加しました。嘘が増加したので、〕生ける者たちは寿命が短くなり、また容色が衰えた結果、八万年の寿命の人々の子供たちは、四万年の寿命になりました。
 (中略)
「修行僧のみなさん、人間が十年の寿命であるとき、七日にわたって剣の時代となるでしょう。そのとき人々はお互いのことを野獣であると思い込むでしょう。かれらは鋭利な剣を手にもち、『これは野獣だ、これは野獣だ』と考えて、剣で互いに命を奪いあうでしょう。
 そのとき、修行僧のみなさん、かの生けるものたちのうち、一部の人々はこう考えるでしょう、『わたしたちはだれも殺さず、だれもわたしたちを殺さないようにしよう。そのためにいま、わたしたちは草の薮、森の茂み、樹の穴、川の中州、山の窪地に身を寄せ、木の根や果実を食物として生きながらえよう』と。かれらは草の薮、森の茂み、樹の穴、川の中州、山の窪地に身を寄せ、七日間、木の根や果実を食物として生きながらえます。七日が経過してから、かれらは草の薮、森の茂み、樹の穴、川の中州から出て来て、お互いに抱き合って、みんないっしょに慰め合うでしょう、『ああ、あなたが生きていて本当によかった、あなたが生きていて本当によかった』と。
 修行僧のみなさん、そのときこれらの人々はこのように考えるでしょう、『わたしたちはさまざまな悪いことを行なったために多くの親族を失ってしまった。これからは善いことをしよう。どんな善いことをしたらいいだろうか。今後は生き物を殺すことを慎もう。この善き法を守り続けよう』と。かれらは殺生を止め、この善き法を守り続けるでしょう。かれらは善き法を行なうので、寿命が長くなり、また容色も好くなるでしょう。寿命が長くなり、また容色も好くなった結果、十年の寿命だった人々の子供たちは、二十年の寿命となるでしょう。】
 (転輪聖王修行経より。但し現代語訳は春秋社『原始仏典第三巻』より)

生きていける

2012年12月01日 | 坊主の家計簿
 ブログを余りにも放置し過ぎていたので、facebookで書いた少しブログっぽい書き込みを(笑)

 やさしいやさしいやくざさん(山元加津子さんのお話し)

【やくざさんて言うか・・・黒いお洋服を着た人の話をします。 東京に行った時は山の手線に乗ったんですね。 黒いお洋服で黒いお靴で黒いシャツを着てるちょっと怖そうな人が 学生さんを殴ってたんです。 その時に、その男のかたの所へ行ってギュッと抱きしめたんですね。 そして、「怖くないから大丈夫。」 って言ったらその男のかたが私、ビックリしたんですけど、 目から涙をポロポロだされたんです。私、 「きっと、このかたはとても辛いことがいっぱいあるんだろうな。」
と思って・・・それから 「あなたに言いたいことがある。」って言うんですね。 「これからこういう場面に出くわしたら、絶対、今日みたいなこと しちゃダメだぞ。したら危ないぞ。」って言われるんです。 「いつも、ボクみたいにやさしいヤクザさんばかりとは限らない からね・・・」って、それから、このことがご縁で文通しているんですね。
「人を殴るの嫌い?」とその人から聞かれ「私は好きじゃないです。」 って言ったら、もう、殴らないよって言ってらしたのです。 けれど、お手紙で今日、 「約束を破ってしまった。」って書いてあったんです。 細い道を車で運転していた時におばあさんが「車椅子を脱輪」して 止まっていたんだそうです。で、若い者に 「どうにかしなさい。」って言ったら 「どけ!」っていうふうにね、降りて言ったんですって。それで その乱ぼうな若い者の態度に思わず殴ってしまったんだ。 っておっしゃていました。
それから、そのかたが 「人って変われるんだよ。」っておっしゃるんですね。 「僕は、虫にも気持ちがあることを知ったよ。」って言って 下さったり・・・】

http://www.kando-heart.com/letter/img/let0901.pdf


ちなみに裏取はしていない。あくまでも山元加津子さん本人の証言のみ。
けど、似たような経験はした。
坊主BARマスター時代に深夜、以前やってた飲み屋(聖カミソリ)時代からの知人と、坊主BARになってからのお客さんとのトラブル。
知人は当時大阪(?)ではソコソコ名の知れたバンドのギタリストで、まあ、何処からどう観てもヤンキー。お客さんも、坊主バーがあった場所が元々ブルースバーだった頃からのお客さんで、半ばアル中。まあ、他人の事は言えんが。
その日、そのお客さんは荒れていた。元々かなり「生きてるだけで辛い」人だったんだが、その日は特に荒れていた。深夜なので、店はその2人だけ。
私はトイレが近い。何とか店(会話)を回しつつ「どっちか先に帰らんかなぁ…」やり過ごしていたんだが、トイレに。
「カッシャン!」という音。トイレの中で「わっちゃ!こら喧嘩やな」と思ってトイレから出たら、ビールの缶を投げつけられたヤンキー顔した知人が落ち着いてお客さんに話してた。確か「どうしてん?」と。
お客さんは寂しい人だったので、そのまま喧嘩をしたかったのかも知らなかったけど、知人は喧嘩を買わなかった。知人は某『新興宗教』と呼ばれる団体の人でもあった。
その後、数ヶ月、そのお客さんは店に来なかった。で、久々に来た時に物凄く顔がスッキリしてはった。「どうしたんですか?えらいスッキリした顔をして」と聞いたら、数ヶ月間のたうち回っていたらしい。で、「ええか。」と。「何でもエエねん」と。決して投げやりでなく、確かに生きて行く力を得たが故のスッキリした顔だった。

その後、そのお客さんとは個人的に仲良くなって二人で飲みに行ったり。当然、しんどい時は本当にしんどそうだったけど。

まだ売れて居なかった時代の松尾藤代

http://www.fujiyomatsuo.com/

が店で個展みたいなものをしてた。芸大出て間もなかった時代。タメ年だし。
私も松尾の絵が大好きだったけど、お客さんも松尾の絵が大好きだった。気に入った作品を買って、でも、持ち帰らずに「この店に置いといて」と。
松尾の作品は闇と光。つか、光だな。確か「夕方に歩いていたら路地が見えた光を見た。あの光を書きたい」云々だったはず。

ソコソコ売れてるバンドの知人は店には殆ど来なかった。まあ、たまに来た時に幸か不幸か、少なくとも私と、そのお客さんにとっては幸運な巡り合わせがあった。知人にその話をしても「はぁ~?」みたいな感じだった。まあ、忙しい人だし。

知人が信仰していた神道系の、その所謂『新興宗教』団体に『仏性』という概念があるのかどうかは知らない。ただ、「仏教の勉強もしている」とは言っていたが。

私にとっての宗教での奇跡って、そんなもん。
だから某先輩、この人も歌唄いだが、その先輩が言っていた「生きていける」という言葉が大好き。