坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

「支えるのではない。ともに闘う。」(by大阪医専)

2010年01月30日 | 坊主の家計簿
 昨日は所用で外出。しかも16時からと18時からとのはしご。え~。。。学習会とか会議なんぞの所用での外出、つまりママに大手を振って「今日は用事がある」と出て行ける機会は少ないのだが、え~。。。ダブる。
 しかも、「ひょっとして携帯メールアドレス変更通知が失敗したのでは?」という疑問からママに聞くと「そんなもん届いてないで」との事。うぉ~!!!っちゅうても、所用のダブルなのでやり直すわけにも行かず、今日ようやく通知と。

 しゃて、昨日地下鉄に乗ってて最初の目的地で下車しようとしたら、

 【支えるのではない。ともに闘う。】(by大阪医専)

 っちゅう、医療専門学校の広告が目に入る。

 う~ん。。。素晴らしい。。。これぞ真宗仏教やのぉ~。。。

 現代語で打つのが面倒(時間がない)ので、古語そのままなんだが、

【慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々】(歎異抄第4章)

 っちゅうのがある。結構問題になったりする文章だったりするのだが、え~と、これを大阪医専のコピーで云うならば、「支える?はあ?何を偉そうにしとるねん。自分は解放された気か?悟りでもひらいたんかい。どの口がそんな差別的な発言しとるねん。そんな差別発言をするようなヤツは最低じゃ。『自分は最低な人間である』っちゅう所から、多くの問題を抱えた人たちと共に解放される道を歩まんかい!」
 ではないかと、思ったりする。
 罪悪深重煩悩具足の凡夫、っちゅうても、仏との関係での絶対否定なんだし。「わたしゃ、世間でぶいぶいいわしてまっせ」なんぞ、一切認めない、最強の批判が『念仏して、いそぎ仏になりて』っちゅう言葉だと思ったりするのだが。

 んが、まあ、そういう事は『くりかえし、くりかえし』ではないかと思う。

【世間に抱く関心は 必ず自己中心の善悪による関心である】(by信国先生)

 っちゅうやつである。んなもん、なんだって差別する理由、つまり上に立とうと、自分を何か特別な存在としようとしてしまう。んなもんである。

 個性は『差』であるが、その『差』が対等にはならない。時代での価値観に縛られた、あるいは個人的経験に縛られた価値観によって個別差が差別になってしまう。

 【バラバラでいっしょ~差異を認める世界の発見】

 は、その『差異』が上下、つまり差別になっている、してしまっている自分の発見を忘却しては成り立たない。
 「私は○○をしている」と、差異を差別にしてしまう。差別する為には仏教だろうが、なんだろうが使ってしまう。
 「私はあの人達と違う」=「私はあの人達よりも偉い」である。

 くりかえし、くりかえし、事実に、存在の故郷(浄土)から照らし出された罪悪深重煩悩具足の凡夫にかえり続けて行く道。『支えてしまう』意識、つまり『支える』『支えられる』という関係ではなく、『共に』という大地にかえり続けて行く道。
 
 「安住したい」「答えが欲しい」「正解の側に立ちたい」と、「上に立ちたい」煩悩が騒ぐ。

旧携帯の喪中

2010年01月28日 | 坊主の家計簿
 iPhone購入。っちゅうか、実質無料なんだが。。。

 まずは御世話になったauで解約手続き。アンケートで「auを解約する理由」なんぞがあったのだが、「iPhoneにするから」と。似た様なのが「機種に不満」みたいな項目だったのだが、別に不満はない。全くない。かなり気に入っている。しかしながらiPhoneではなかっただけの話である。
 私はMacユーザーなので、iPhoneがあると便利なのだ。Macの子機だし。持ち出せるMacでっせ。

 そういや、近所のソフトバンクに手続きに行ってたら、先客あり。しゃーないので待つ。先客のオバちゃんが帰った後に、ようやく私の番。説明聞いたり、手続きして貰ってるとさっきのオバちゃんがやってくる。「これ、使われんで」と。店員さんは私の手続きをパソコン使って作業中だったので「少しお待ちください」と。オバちゃん、苛つく。苛ついてさっき買った(?)ばかりの携帯をカウンターの上に投げて、「これ、壊れている」と云った後に、解約しようと思ったのか「基本料金、損したやん」と。店員さんは変わらずパソコンで作業中。まあ、途中で止めれない作業だったのだろう。そのうちにオバちゃん「あ、使えたわ」と。「ここを押すのを忘れてた」と、『電話のフック』の所を押す事をしてなかったらしい。。。
 こういうオバちゃんにiPhoneは無理である。まあ、オバちゃんはその他の携帯機種だったが、iPhoneは携帯電話でなくMacの子機である。しかも、説明書が紙切れ一枚である(笑)まあ、ソフトバンク(?)が作ってくれた手順でその後の作業を進めていけばなんとかなるのだが。ちなみに前の携帯のアドレスはショップでアップデートしてくれるが、ダウンロードは自分でしなければならない。ついでにいうと、「メールアドレスが変更しました」っちゅう案内も自分で出さなければならない。説明書が紙切れ一枚な事も含めて「おお、Macやのぉ。。。」と。ちなみに詳しい説明はネットで調べるか、本を買わなければならないらしい。

 っちゅう事で、他の買い物もあったのでミナミまでお買い物。帰宅後にようやく自宅で出来る設定は済ませて、さっきまで無料のアプリを投入。無料でも結構エエのがあるねんね。

 で、明朝、私はiPhoneを持って出かける事が出来るだろうか?なんせ、旧携帯電話は目覚まし時計としてこれからも頑張って頂かなければならない。すると、朝の寝ぼけた頭で、いつもの習慣で旧携帯電話を持ち出す可能性大である。なんせ、iPhoneは今日からであり、最早携帯電話として機能しなくなった旧携帯は長年の付き合いである。身に染み付いた長年の習慣はナカナカ抜けない。現実を引き受ける事が難しい。

切手シート

2010年01月26日 | 坊主の家計簿
 年賀状の当選番号確認。
 ああ、子どもの頃はあんなに楽しかったのに、今は全然楽しくない。『やらなければならない事』だけであり、決して『やりたい事』ではない。なんとなく「当たってたらもったいないやんけ。。。」である。
 切手のシートが当たる。これも楽しくない。子どもの頃は「やった!」だったのだが、まあ、私が子どもの頃に切手ブームがあって、私も切手集め少年だったので楽しかったのだろうが、今となっては「で、ナンボ分の切手やねん」である。検索してみると50円切手が1枚と80円切手が1枚らしい。合計130円。しかも『切手』という使い道が限定された商品。私が子どもの頃は、この切手シートが130円以上の商品価値があり、切手シートが宝物みたいな感じだったのだが、今となっては「切手はまだあるし、交換しに行くのが面倒やのぉ。。。」である。

 こういうのを『薄汚れた大人』というのかも知れない。ささやかな喜びが「ケ!」である。「なんや、あれだけの作業して130円の切手かい」である。「時給換算したらワリが合わんぞ」である。

 「ありがとう」は「有り難い」である。有る事難しである。当たり前でなく、奇跡みたいな出来事である。瞬間瞬間の生を感じる事が出来れば『些細な事』等なく、すべてが有り難い。経験すればする程『当たり前』になる。「ワリが合わん」になる。
 無くなった事を騒ぐが、「あった事」に対する感謝がない。

【「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々】(歎異抄第9条)

 か。
 「仏教は親鸞になって初めて人間学になった」とか、どっかの学者先生が書かれてたが、私にとっては「その通り」やな。

メタルはパンクではない

2010年01月25日 | 坊主の家計簿
 昨夜見れなかった『デトロイト・メタル・シティー』を見る。

 ついでなんだが、地デジをハイビジョン録画したやつって、『そのまんま』やのぉ。。。画質、キレイ、キレイ。
 ついでなんがだ、『地デジ』って、新しい眼鏡に変えたみたい。ほら、段々と視力が落ちて来てて、新しい眼鏡に買い替えたら「うわ!世の中ってこんなにくっきりと」っちゅう感じ。
 ついでなんだが、眼鏡市場がセール中らしい。

 っちゅう事で、『デトロイト・メタル・シティー』

 音楽には『パンク』と『パンク以外』がある。解りやすく説明するとジョンレノンはパンクであり、ポールマッカートニーはパンク以外である。ローリングストーンズはパンクであり、ビートルズはパンク以外である。当然、メタルはパンク以外である。
 なので、小沢健二もメタルも私にとっては同じ『パンク以外』という括りでしかない。その象徴的なシーンが、主人公のメタルが実家に帰った時に弟に説教するシーンだ。パンクならあそこで説教しない。弟が勉強しなくても、学校に行かなくても、家の手伝いをしなくても説教はしない。まあ、「家に居りたかったらメシ食わして貰ってる人の云う事ぐらい聞いとけ」ぐらいなもんだろう。テメーの人生はテメーで決めろ、ぐらいなもんである。
 
 働くか働かんか、学校に行くか行かんかなんぞは個人の自由なんだが、個人の自由は野垂れ死ぬ覚悟がないと出来んぞ。大阪で有名な伝説の不良は脳梗塞やったけな?んな病気で大変らしいが、んなもん、あれだけ好き勝手に生きて来たわけやし、「あの人らしいのぉ。。。」である。あるいは、坊主バー3代目マスターとか、リカオっちゅう不良の先輩とかが死んだ時も、まあ、寂しいし、悲しいんだが、どこかで笑える。極楽に行ったのか地獄に堕ちたのか知らんが、「んな事カンケーない」っちゅう感じがする。「ああ、好き勝手に生きて、好き勝手に自殺しよったのぉ」である。まあ、当然、『傍目』から見てであり、ご本人達の中では当然の如く様々な御苦労があったと思うが。
 そういや、私が預かっている寺の前住職、つまりママの親父もママ曰く「あれだけ酒飲んでタバコ吸ってたら死ぬわ」らしい。噂と云うか、伝説では末期ガンが発覚して死ぬ事が解ってながらも酒を飲み続けてたらしい。で、予定の死ぬ時期が8月だったらしく、本当に8月に亡くなったのだが、「死ぬのは別にエエけど、8月に法事の日程を入れられへんのが辛い」と語っていたとか。生前に御会いした事はないはずであるが、きっと直接会ってたとしたら、これも悲しいし、寂しいけど、どこかで笑える。
 『笑える』という表現はちょっとおかしいな。『どこかで明るい。』
 坊主バー3代目マスターの一連の葬儀には深く関わったが、やはりどこかで明るい。リカオさんが死んだ後もどこか明るい。それはやっぱし、『私にとって』という限定がつくのだが、「好き勝手に生きやがって」である。「借金を払ってから死ね!(笑)」である。ったく、ナンボ金貸したと思てるねん(笑)

 パンクっちゅうのは

 ♪私はアンチ・キリスト者である

 である。
 このピストルズの永遠の名曲をどういう気持ちで作ったのか知らんが、同じくパンクスのジョンレノンの

 ♪想像してごらん 天国なんて無いんだと

 をプラスしてみたらどうだろう。
 これ程、キリストを絶対信頼し、天国を絶対信頼している歌詞は他にあるのだろうか?これがパンクである。
 「キリスト様よ、見てくれ、おれはこんな生き様だ!」と。
 それは決して『善い子』ではない。強烈な救いを求めている一個人がいるだけだ。

 っちゅう事で、私は『パンク以外』であるメタルはキライである。ギターのテク。「はあ?」である。「やかましいボケ!」である。シドなんぞ「ベースが弾けなかった」っちゅう伝説があるねんぞ。テクがどうした?

 あ、『デトロイト・メタル・シティー』
 主人公は自分がやっているメタルバンドを引き受ける事が出来ない。だが、自分がやっているメタルバンドが多くの人に夢と希望を与えている事に気づく。いや、気づかされる。
 
 「ああ、こんな生き方してて、エエねんな」と、その人自身はともかく、周囲に「こういう生き方をしなければダメ!」と云う印象を与えるのでなく「ああ、こういう生き方しててもエエねんな」と。大阪伝説の不良しかり、リカオしかり、坊主バー3代目しかり。そういう影響を与えて、数人だけかも知れんが、生きる望みを与えていた事を知ってるし、感じたし。
 
 んが、『デトロイト・メタル・シティー』じゃないが、キャラを演じる事に自分が縛られなくとも、「やりたいようにやる」っちゅう事でも、生きる望みを与えられる。つまり、どっちでもエエ。だって、『その人』なんだし。その人から与えられる、教えられる事の問題なわけだし。人生に優劣も糞もない。『デトロイト・メタル・シティー』では、その辺をラストシーンで見事にやってた。へなちょこ(?)歌を歌っても、『受け取る側の問題』だと。

 まあ、世の中には『パンク以外』が好きな人も居てて、私は認められんが、それでもなんじゃかんじゃと生きてたりするのだろう。
 
 「ああ、赤ワインが脳みそ直撃しとるのぉ。。。」と、言い訳残して寝よ。

 あ、名護市長選挙。
 「違いを認める」って、「対等として認める」っちゅう事やろ。もしくは「同化しようとしてたけど、対等でないと苦を生み出すから違いを認めざるを得ない」っちゅう事やろ。
 日米安保は対等なんか?
 沖縄とヤマトは対等なんか?

常なる慣れ

2010年01月24日 | 坊主の家計簿
 住職になって初めての毎月お参りしている方の葬儀。
 葬儀は数だけはこなしているのだが、今回は事情が違う。町内というか、寺で今までやって来た事を尊重しないといけないし。よって、前住職代務者であるママに「何してるの?」なんぞと聞いたりしつつ。んが、ママ『願生偈』の名前ぐらい憶えておいてくれよなぁ。。。
 よって、いつもの葬儀での緊張にプラスして諸々の緊張。

 今回の葬儀は二人だったので、近くの先輩住職に無理を言って来て頂いた。この先輩は今の寺に来てから大変御世話になっているし、また、色々と教えて下さる。今回の葬儀も焼香が長引いて50分間。いつもより10分ぐらい長い。なので別の先輩から教えて頂いた方法、路念仏というので焼香が終わるのを待つ。
 葬儀が終わってから先輩に「こういう時はどうしているのですか?」と聞いたら、また色々と教えて頂いた。感謝感謝。
 んが、葬儀が終わって火葬場から帰宅してママに御布施を渡そうとしたら「あれ?」っと。「しまった。お膳料を渡すの忘れてた!!!」と、急いで渡しに行く。いつもは『もらう側』だったのだが、初めての『渡す側』で緊張緊張。

 ハイチで大地震があった。
 国内ニュースとして、小沢氏の問題があり、JALの問題もあった。限られたニュースの時間は国内ニュースに多く割かれる。きっと、これらのニュースがなければハイチの地震報道はもっと大きく取り上げられたはずである。なにやら国連の人曰く

 「おそらく、史上最も困難な人道危機となる」
 (http://www.asahi.com/international/update/0123/TKY201001230253.html

 という事らしい。
 報道の大きさは関心の深さに関係してしまう。小沢氏の報道が大きく取り上げられ、ニュースの時間の度にトップニュースになると、どうしても関心が行ってしまう。

 同時に大地震、大災害に対する慣れも感じてしまう。当然、当事者の方々は違う。だが、ニュースでしかそれを感じる事が出来ない私にはスマトラ沖での大地震や、中国四川での大地震等を筆頭に「またか。。。」に、恥ずかしい話なってしまう。 「最近、大地震や大災害が多い」になってしまう。

 「最近、葬儀が多い」になってしまう。
 私は私が何度の葬儀を経験したのか憶えていないし、思い出す事も不可能であろう。住職になってから私が導師をしたのは全部諸々の資料(法名の意味を書いたもの等を含めて)を残しているので思い出す事が出来るが。
 上記に書いた「いつもより10分ぐらい長い」という感覚も慣れである。『いつもの感覚』に慣れっこになっているから「10分ぐらい長い」になってしまう。その場しかないのに。私の保守化である。「常なるものはない」と言いながら、私自身は『常なるもの』に縛られている。だから、まあ、「常なるものはない」という言葉に教えられるのだが。

「愚か者よ」

2010年01月23日 | 坊主の家計簿
 パソコン机の引き出し式のキーボードを置くところのシートが中途半端に剥がれて、ムッチャうっとうしかったので数日前に剥がす。剥がしたのはエエのだが、今度はシートを貼付けてた接着剤(?)かなんかが妙に気持ち悪い。ウゲゲゲゲグェ、と数日使ってたんだが、さっき、メタルラックに使ってたプラスティックの段ボール(略して『プラダン』の残りを置いてみたらエエ感じ。明日、サイズに合わして切断して、両面テープで固定しよ。
 気持ち悪いのはマウスを使う部分(その辺からシートが剥がれて来た)なので、「マウスパッドでも買お」なんぞと思ってたんだが、別にマウスパッドを買わなくとも、残り物でなんとかなるみたいである。

 で、この場合、マウスパッドを買って、捨てようと思ってたプラダンを捨ててしまっている可能性が大であった。
 んでもって、思うのだが、きっと気づかないだけで、こういう無駄な事を山程してきて、きっとこれからも山程して行くんだろうな~、っと。

キャノンは観音らしい

2010年01月22日 | 坊主の家計簿
 キャノン、スゲー!!!
 いや、新しいMacに以前から愛用のプリンターをセッティングしようと思って、ドライバー、っちゅうのか?まあ、使えるようにする為のCDを突っ込んだら「無理です。。。」と。「アホか!なんでやねん!!!」と、新しく買った複合機をセッティングしようと試みる。ちなみに新型は無線である。有線でも大丈夫なんだが、隣の部屋に電話の端子があって、諸々悩んだ末にアマゾンで「お、この価格やったら店舗で買う有線タイプと値段が変わらんやんけ」っちゅう事で無線のヤツを買う。んが、無線LANの設定が変わらず出来ない。もう、なんどトライしても出来ない。何がアカンのかが全く解らん。
 っちゅう事で、新型Macのプリンターはどないしたらエエええねん。。。と、一瞬思ったのだが、ママが使ってたプリンターをとりあえず持って来て貰う。まあ、パソコンなしで放置状態やったわけやし。私の愛機のインクがまだ無くならんわけやし。ママ・プリンターをセッティング前に「ん?」と考える。ひょっとして愛機のメーカーであるキャノンが新型Mac対応のソフトをダウンロードしとるかも解らんのぉ。。。と。調べてみると「大丈夫♪」っちゅうやつであった。よって、キャノン、スゲー!!!と。
 
 まあ、「当たり前」っちゅうたら当たり前なんかも知れんが、買ったのは7~8年前である。『パソコン業界で7~8年前』である。ああ、素晴らしき、キャノンよ。。。っちゅうか、他のメーカーもやってるのかも知れんが。私も見習お。

俺が本気を出したらそれはもうすごい事になるから

2010年01月21日 | 坊主の家計簿
 あ~。。。むっさっ疲れとる。。。
 あ、ちなみにUSBメモリーっちゅうのは、ゴミ箱を空にせんとアカンみたいやぞ。うちの(SONY)のやつだけかも知れんが。かつ、Macだけかも知れんが。。。
 つー事で、プリンターの設定をやってない。
 もっというと、部屋の片付けがやなぁ。。。工具がまだ棚に置きっぱなしやし、書類の整理もまだ。年末に買った電話&ファックス&スキャナー&プリンターの無線LAN設定もまだ。やらなアカン事がムッチャあるのだが、え~。。。なかなか思うように体が動いてくれないわけでして。。。
 これが仕事とか、もしくは期限が切られているのなら別なんだが、特に期限を切ってくれる人もいない。まあ、「今月中にiPhone買わんと損やぞ」ぐらいなもんである。期限が切られているのはちゃんとやってるし。んが、やっぱし思う通りに体が動いてくれずに、こうやってネットしながら寝酒を飲んでいるわけである。

 死。「あなたは必ず死にます」と。確かにそうなんであるが、これも期限がわからない。末期ガンとかで「あなたはもって半年です」とならばともかく。私も死ぬ。しかしながらその死が自分自身の事になっていない。

 なんぞと書いているうちに、テレビCMでやってたユーキャンの『フミダスムービー』の『俺が本気を出したらそれはもうすごい事になるから』

 http://www.u-can.co.jp/movie/index.html?vl=_semg_s10055168

 を見る。なんか気になってたし。

 『俺が本気を出したらそれはもうすごい事になるから』

 って、本気を出せない。っちゅうか、本気って何やろ?それ自体がありもしない幻想である。本気を出せない、様々な業縁で生きている自分を忘却してありもしない『本気』に心を奪われるのが現実の私ならば、その現実を見つめる事が『フミダス』だったりすると思う。
 
 「あの時はやった、やれた」と。確かに「あの時はやったし、やれた」が、今、その事が出来るとは限らない。過去の栄光は過去の栄光にしか過ぎない。だが、過去にそういう事をした出来た自分がそこにいるだけである。そして、今は今の自分が現実に居るだけの話である。
 
 まだ40過ぎの私は「やななければならない事」をこなす事が出来る。いや、この書き方も変である。きっともっと年齢を重ねても自分なりに「やらなければならない事」は出来ているだろう。出来ない事は出来ないし、出来ない現実を受け入れるしかないわけだし。

 『俺が本気を出したらそれはもうすごい事になるから』と、フミダス。しかしながら現実は

 ♪俺は王様だと思ってた
  俺の声で誰もが踊ると思ってた
  だがしかし、俺の声は
  ピンボールさ
  跳ねてるだけ
  (シオン『俺の声』より)

 になるかもしれない。しかしながら、それもやってみない事には始まらない。

 『俺が本気を出したらそれはもうすごい事になるから』

 とは、『思い』である。「きっと出来るであろう」という予定調和である。旅行の計画みたいなもんである。しかしながら、旅行の計画も楽しく、「きっと出来るであろう」という事も楽しい。しかしながらそこには困難(苦)がない。フミダスが故に苦がある。苦が始まる。「どうでもいい」ならば苦はない。どうでもいいのだから。

 「死だけが私を現実に呼び戻してくれる」だったっけな?死ぬ瞬間までは煩悩まみれであり、現実を引き受ける事が出来ずに『俺が本気を出したらそれはもうすごい事になるから』である。誰が誰を笑えるのか?
 笑えるのは有頂天である。天から下を見下して笑っている。
 「なんでやねん。頑張ったら出来るやん」であり、もしくは通信簿によく書かれる「やれば出来る子ですが、やる気が見受けられません」である。それは『我(アートマン)』である。んなもんはない。
 『俺が本気を出したらそれはもうすごい事になるから』の『俺』なんぞはない。『本気を出したら』という『俺』は存在しない。あるのは『俺が本気を出したらそれはもうすごい事になるから』と叫んでいる現実だけである。煩悩まみれの現実である。
 そんな所で平等ではないのか?

 ♪明日になればきっといい事があるよって
  言ってたあいつが今朝死んだよ
  熱にうなされ震える声で
  明日の朝飯心配してた
  (ヘンリー松山『ルート309』より)

 という所で平等ではないのか?

 現実を受け入れる事が出来ない。
 『私』という実態がないにも関わらず、『本当の私』を求めてしまう。
 『俺が本気を出したらそれはもうすごい事になるから』と、ありもしない『俺』を満足させようとしてしまう。
 そんな所で平等ではないのか?
 目覚める事が出来ない、仏陀になれない凡夫(ただの人)の私(たち)は、そういう所で平等ではないのか?

 蒼井優主演のフミダスムービー『捨て猫OL』は必要とされていないOLが必要とされる自分に成って行こうとする物語である。
 では?必要とされる人間になれなければどうするのか?
 必要とされる人間に成らなければ生活していけないのが娑婆の現実である。穢土である。でも、その穢土から何を目指すのか?変わらず必要とされる人間にならなければならない、と、穢土の現実を肯定し続けて生活していくのか、それとも別な道をフミダスのか?

 ♪役に立てば善だってさ
  役に立たなきゃ悪だってさ
  誰が断を下したんだよ
  トドを殺すな
  トドを殺すな
  俺たちみんなトドだぜ!


 

引っ越し

2010年01月20日 | 坊主の家計簿
 新型iMac投入。なので引っ越し。なんとかケーブルを使えば簡単らしいが持ってない。街に行けば買えるのだろうが、街に行ってない。なのでUBSメモリーで引っ越し。
 まあ、ほとんどの引っ越しは済んで、かつ、以前の愛機iBookちゃんのデーターも引っ越し。まあ、ややこしい部分、つまり「引っ越しできません!」っちゅうのは後回しにして、まあ、だいたい済んだかな?新しいMacには入ってなかったアップルワークスも以前のMacから引っ越ししたらなんとかなったし。っちゅうか、うちの縦書きはアップルワークスにお任せしてるので、アップルワークスがなければファイルがどうしようもないし。その他諸々もなんとかなりそう。

 で、新型Macちゃんの感想。

 1 デカイ。iBookちゃんが14インチで、ママのiMacちゃんが20インチ。前のiMacちゃんから比べると1インチしか違わないはずなんだが、デカイ。27インチやったっけな?買わなくて正解やったなぁ。。。デカ過ぎる、っちゅうねん。目の前、液晶画面で埋まってまうやんけ。。。

 2 ディスプレーがきれい。元々ディスプレーの美しさに定評のある(?)iMacちゃんだが、よりいっそう美しい。これはLEDの影響なのか、光沢化したディスプレーの影響なのかは知らんが、まあ、キレイ。

 3 無線化。マウスとキーボードが無線である。これは「別に要らんやろ」である。電池交換しなアカンのは面倒やし、使ってる途中、例えば深夜に台風なんぞが来てる時に電池が切れたらどないしまんねん。まあ、予備を常に用意しとけばエエねにゃろうけど。

 4 新型マウスは『電池式』でなければ、楽である。

 5 早い。新型はやっぱし早い。

 6 デザインは個人的好みなら、前のiMacの方が好みである。銀色メタリックでカッチョエエのだが、親しんだ白色の方が個人的には好みかな。

 操作性はMacなので変わらん。んが、小さくなったキーボードの距離感と、新型ハイテクマウスを使いこなすのに少し時間がかかりそうか?
 しかし、このキーボード、むっちゃ早くうてるぞ。「よいしょ」っちゅう感じがゼロ。まあ、キーボードの上にまだ酒をこぼしてないからやろうけど。。。カバー、買いに行こ。

説明不足と情報不足

2010年01月19日 | 坊主の家計簿
 明日休みの予定なので、「今月は早めに完成させよう!」と、寺の通信作り。なんせ今月なんぞ正月に作ってたぐらいやし、いつも配り始める月末ギリギリやし。
 んが、最後の4ページ目がほぼ完成して、ちょっと編集してたらソフトが落ちやがった。。。まあ、あと1ページやし、月末まで煮詰めよ。

 っちゅう事で、最早『朝』です。まだ暗いけど、朝の6時です。明日はお参りは今の所ないけど、まあ、やらなあかん事はザックリとあるのでやろ。

 で、どうでもエエけど、『小沢氏の説明不足』なんだが、え~。。。テレビで「小沢氏は説明不足だと思いますか?」なんぞとアンケートしてたが、え~。。。最近『街頭』に出てない私がインタビューを受けた場合は、「そこまでちゃんと情報を知らん」と答えたいのだが、アカンかな?
 だって、党大会なんぞで小沢氏がなんじゃかんじゃ語ってても、私は全ての内容は知らない。あくまでもタマタマ見たテレビ番組がピックアップした部分だけしか知らない。新聞は読まないので、小沢氏の発言が全部載っていたとしても知らない。小沢氏のホームページがあるのかどうか知らんが、それも同様である。
 つまり、『説明不足』とかなんとかいっても、仮に小沢氏が説明しまくってたと云えども、私がその事を知らなければ「説明不足」になってしまうのではないのか?要するに、『説明不足』=『情報不足』みたいな感じでやな。
 あの事件に関しては、まだよう解らん。他の事件と同じである。元秘書が逮捕されたといっても、逮捕=犯罪者ではない。逮捕=容疑者である。ただはっきりしているのは「東京の土地は高い」っちゅう事ぐらいやろ。

国際仏前結婚式

2010年01月18日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 国際仏前結婚式。
 チマ・チョゴリと和服の中、法衣姿の私たちが執行する。非常にエエ感じである。なんとなくだが、『国際神前結婚式』よりも『国際キリスト教結婚式』よりもエエ感じだと思う。まあ、私が仏教徒だからなんだが。。。
 日本に仏教は朝鮮半島を通じて伝えられた、とされている。当然、実際の所は解らんが、まあ、公式に伝えられたとされるのは百済の聖明王からである。それから約1500年後の、在日韓国人の新郎と、日本の僧侶新婦が、仏前で結婚式。

【まるさんかくしかく まるさんかくしかく/顔も姿も ちがうけど/だから とっても おもしろい/大きな願いに つつまれて/バラバラでいっしょ バラバラでいっしょ/誰もが 今を 生きている】(『バラバラでいっしょ ○△□のうた』より)

 である。

 夕方より結婚パーティー。
 新郎の裁判闘争の支援を少ししてた関係でスピーチ。それまでに酔っぱらってたし、新郎から冗談まじりで頼まれてた「新婦の上から目線」について、ちと喋る。
 上から目線、っちゅうのが批難されるのは主に『目下が目上に対して行った時』である。『目上』が『目下』に対して行う上から目線は『当たり前』になっている場合が多い。
 『目上』に当たるのが『年上』だったり『上司』だったり『男』だったりする。目下はその逆。なので、若い亀田兄弟がタメ口で喋ったりするだけで大騒ぎである。ちなみに私も先日『目上』から思いっきり上から目線で怒鳴られたんがだ、利害関係がない『目上』、つまり、単に偉そうにしている人から怒鳴られる筋合いはなく、しかもその理由が私が『その人が考える目上』に対して『目上』として扱っていなかった事が理由だったので、冷静に「あなたに偉そうにされる筋合いってありましたっけ?」と切って捨ててしまったんだが(笑)
 あ、話が。。。まあ、そういう事を当たり前にしている事が差別であると、んな事を酔っぱらって喋って、夫婦関係においても両者の『当たり前』存在するわけであって、で、仏様じゃない私らは、『どうでもエエ相手』や、力関係が『目上』で余裕がある、とか、そんな事でもない限り、違いなんぞ認められるわけもなく、だからこその念仏であってでんなぁ。。。なので、恩師の言葉

【さあ苦労を一緒にして行こうと、最後の最後まで苦労を一緒にしていけるということができるということが、本願に遇うた、助けられたということの喜びです。苦労が一緒に出来るということが、助かったということなんです。
 ここに非常に深い、私たちが生きるということの喜びがあるんです。苦労が嫌だというのではなしに、一緒に苦労が出来るということが喜びだと。そこに助けられていく念仏の教えがあるのです。】
 (竹中智秀先生 http://homepage.mac.com/hon1/sukanen/honkojinote/note7/note72.htmより)

 を紹介して終了。
 結婚パーティーの余興を見ながら、飲む、飲む。焼酎の水割り氷抜きを飲む飲む。
 2次会でも飲む飲む。んが、「あ、子守り時間や」っちゅう事で途中で抜けて帰る。

リハーサル

2010年01月16日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 友人の仏前結婚式のリハーサル。私は『係役』っちゅう、三三九度をする時のアシスタント役『だけ』だと思ってたら、司会も私だったのね。。。もっと早く言ってくれよ。。。

 っちゅう事で、リハーサルが終わって帰宅して、娘とママがお風呂に入って、パパは娘の体を拭いて、髪の毛を乾かして。んで、銭湯気分だったので、まあ、明日は『仏前結婚式』なので、ゆったりと湯船に浸かりつつ。
 帰宅後、今日メモりまくった式次第を作る。間違わないように司会者が喋る部分も作る。司会者が間違えたらどうしようもないし。作りながら頭に叩き込む。
 ついでに、私は『テープ役』でもある。「テープの音量はフェードアウトしろ!!!」と、頭に叩き込む。

 え~。。。寝よ。

「頂きます」という名告り

2010年01月15日 | 坊主の家計簿
 何やら民主党・小沢幹事長の土地購入がウンタラカンタラであるらしい。テレビでその土地の映像を見て「狭ま!」と感じたのは私だけではないと思う。なんせ、「4億円で土地購入!」である。「4億でこれか!」である。
 調べてみると476平方メートルらしい。約140坪。3億4000万で購入したらしいので、一坪250万。地図で見てみると近くに駒沢大学なんぞがある所らしい。商業地でなく、宅地らしい。東京恐るべしである。なんとなくなんだが、3億4000万あれば『村ひとつ』買える所もあったりすると思ったりするのだが。。。

 今日は仕事が終わった後に親子3人でお買い物。何やらゴミ収集が近くの角まで行かなくとも寺の前で捨てれるようになるらしい。よって、ママが「ゴミ捨て用のネットが必要だからコーナン(ホームセンター)に行きたい」との事。私の予定を考えると「ほな、今日行きまひょか」っちゅう事でお買い物。私もパソコンしている椅子、要するに『今座っている昔テーブルに使ってた木の椅子』が「腰が痛いよぅ。。。」なのでニトリに行きたかったし。よってお買い物。
 ニトリで椅子を探す。2980円でエエ感じの椅子があって、んが、3980円で『肘付き』っちゅうのにグレードアップする。イライラしがちの私は、肘付きの方がお気に入り。んが、娘を抱える事も考えると少し悩んだりする。んでもって「どっちにしようかなぁ。。。」なんぞと考えてたらママが「そういや私が使ってた学習机の椅子があるよ」との事。「それってどんなん?」と、ニトリの学習机コーナー(隣だったのだが。。。に行って、大きさとかも含めて似た様なのを紹介して貰う。で、本日の結論「使えるねんやったら使お」っちゅう事で、2980円か3980円のお買い物を辞める。
 ゴミ捨てネットをコーナンで探す。市販されているのは「高い!!!」なので、ママが「これを加工して使う」と、2メートル幅で、1メートル辺り(確か)158円のネットを2メートル購入。市販されているのと同じく「カラス対策ばっちしでっせ!」の編み目の細かいやつ。市販されているのが2000円ぐらいしてたので(私の買い物ではないので厳密ではない)、遥かに安く購入。
 帰宅して「そういやタマゴ料理が出えへんやん」と、パパは聞く。ママ曰く「私がキライやから」と。よって「頼まんと作らんで」との事。早速卵焼きを頼む。タマゴは安くて営養満点。
 夕食後にママが、これまたママがキライな納豆が明日某スーパーで3パック58円らしい。よって「ついでに買って来るけど要らん?」との事。あそこのスーパーでは確か3パック78円だったはずなので20円安い。パパ、頼む。

 3億4000万。え~と、恐らく、間違いなく私の生涯収入よりも遥かに多い。それでも東京都世田谷区深沢の140坪の土地しか買えないのか。。。あれが「小沢氏、納豆購入疑惑」だったりしたら、きっと親子3人が毎食納豆を食べ続けても食べきれない納豆が買えたりするのだろう。

 とは云え、小沢氏は納豆でなく土地が必要だったんだろう。いや、多分、納豆も必要だとは思うのだが、3億4000万円の使い道は納豆でなく世田谷区の土地だったのだろう。東京での自宅も近くらしいし、「3億4000万!!!」というワケの解らん価格でもって土地が必要だったんだろう。

 アルミ缶1キロって今ナンボぐらいなんだろう?段ボール1キロって今なんぼぐらいなんだろう?

 3億4000万。ものスゲーお金。

 葬儀での御布施。法事での御布施。月参りでの御布施。世田谷区深沢で土地は1坪も買えないけど、納豆だったら沢山買える。

 今日も御布施を「お預かりさせて頂きます」と預かる。「頂きます」とは私は云えない。だから「お預かりさせて頂きます」と。
 逃げである。責任回避である。「頂きます」と、

【み光のもと われ今 さいわいに この浄き食をうく 頂きます】

【われ今 この浄き 食を終わりて 心豊かに 力身にみつ ごちそうさまでした】

 とは言えないから、「お預かり致します」と、キレイごとでの責任回避。

【私たちが、生き物の「殺」の上に生きているとするならば、それに対して、私たちが「ありがとう」という、お礼の言葉ぐらいではすまない自分のいのちをかけての懺悔と報謝があるとするならば、草木国土をことごとく成仏せしむるような人間に、私たちが変革されなくてはならない。】(廣瀬先生『罪業深重』より)

【あなた、本当の人になってください。本当の人になってくださるならば、その新しい人になったあなたのいのちのなかで、私たちは私たちの死を無駄にしないで、私たちはそこで成仏していきます。あなたのいのちのなかで、新しく私たちは成仏していきます。だから、あなたたちは、私たちを踏みにじっている限りにおいて、あなた方は何を負担としてもらうこともいらない。そうではなくて、人になってください。真の人になってください。】(廣瀬先生『罪業深重』より)

 今年から年賀状を送るようになった。結婚式の祝儀を頂いた方にも送って、もう30年ぐらい会ってない親戚のおっちゃんから年賀状が今日届いた。
 私の年賀状は完璧印刷モノ。でも、そのおっちゃんから手書きで言葉を頂いた。その中に

「りっぱなお仕事に頭が下がります。みんながしあわせになれる様にたのみますね。」
 
 と書いてあった。

 御布施。恩師・竹中先生は「布施は法施に対するものです。だから、法施がなければそれは泥棒です」と語られていた。また、

【我々は寺の住職というわけですが、その住職は正覚阿弥陀法王の善力住持というところからくるわけです。すなわち住持職です。よく大衆を住持することのできる者のことで、これは阿弥陀如来のことです。だから、我々が住職を名告るとか呼ばれるとかいうことは実は値しないものが、その名を名告りその名で呼ばれるということで、そこには深い懺悔があることです。】(竹中智秀先生『いのちの願いに聞く七章』142ページより)

 とも。

 「お預かりします」と責任回避でなく、明日から「頂きます」と自己責任をより明白に背負っていく言葉を名告って行こう。

曲げられない

2010年01月14日 | 坊主の家計簿
 さむぅ~。。。
 ガソリンスタンドへ行ったら店員さん「こんなに寒い日は年に1回2回ぐらいやのぉ~」って、すいません。仕事とはいえ、素手で何やら半分凍っている雑巾で窓を拭いて頂きまして。。。私も高校時代にガソリンスタンドでバイトしてたのでよく解るのだが、ありゃ~キツい。んが、自然な動作でやり始められたり、こっちもカーラジオが気になっててですね。。。プロは偉大である。
 ちなみに、さっきファンヒーターを付けたら室温表示が4℃だった。大阪でっせ、大阪。大阪の室温が4℃。まあ、うちは隙間だらけやし、きっと『外気よりもちょっとマシ』程度なんだろうが、それでも4℃である。

 今日もまた変な時間に少し寝てしまう。なんせ『報道ステーション』を見ながら寝てしまったのだ。起きてみるとテレビが変わっている。きっとママの趣味なんだろう、『曲げられない女』

http://www.ntv.co.jp/mage/story/01.html

 っちゅうのをやってた。
 菅野美穂が主演で、永作博美も出てた。ママと相談なんだが、私的には報道ステーションを見たい時間帯である。んが、ママが見たいと云うのならば、それはそれで考えんといかん。まあ、私が寝室で報道ステーションを見ればエエだけの話なんだし。その時間帯のママは娘を世話する時間帯だし。
 テレビドラマ『曲げられない女』は5分程度しか見てない。なので、どんな内容なのか、ほぼ『全く知らん状態』である。
 んが、曲げられない女でも、男でも、『曲げられない』っちゅうのは、しんどい生き方やのぉ。。。きっと早死にするで。

 ふと、先輩の言葉を思い出す。

【そして今、私たちにとって何が必要なのかと思う。本書にも記したナチスに抵抗したミュンヘン大学の「白バラ」のゾフィー・ショルは自らの規範を、「硬い精神と柔らかな心をもたねばならぬ」と手記に記していたという。今を生きる者にとって、これは肝要なことである。絶対にこれだけは曲げられないという確固たる「硬い精神」と、状況に応じて柔軟に対応でき、あらゆる人々と友として出会い続け、連帯できる「柔らかな心」であろう。】(P316より)

 あ、最新の青草(198号)に私が書いた『根津茂著 20世紀世界の「負の遺産」を旅して』の読書感想文が掲載されています。引用しまくりなので、非常に読みやすいと思いますので、「なんやねん、青草って。勝手に送って来やがって」と『届いているのに読んでいない人』は是非ご一読を。読めない人は諦めよう。もしくは御近所&有縁の専修学院卒業生に「読ませてくれ」と頼み込んでみましょう。

 あっ。。。
 テレビドラマ『曲げられない女』に確固たる精神があるのか、つまり、例えば「私は女性の社会進出の為にがんばる。」とか、何やら、テレビドラマでは主人公・菅野美穂は司法試験を受けているらしいが、それならば「まだまだ少ない女性法律家としての地位を確率する為にいかなる犠牲があっても私はがんばる」なんぞとみたいな感じなのかどうかは解らない。なんせ第一話のしかも5分しか見ていないし。
 
 これをみじかな話、大谷派教団の話でいうのなら、やはり『男中心社会』だったりする。でも、実際には違うのだ。大谷派寺院は妻帯バリバリオッケーなので、っちゅうか、「家庭が末端のサンガである」っちゅう感じもあるので、『寺』と云っても当然『男女』がいる。ママは坊守としての仕事をしている。んが、私は外にバンバン出る。学習会だの、会議だの。お参りも私がメインであって、他の仕事と重なったり、私が「この研修行きたいなぁ~。。。」っちゅう時に、まあ、娘が産まれる前だったが、そういう時には変わって行って貰っているが、まあ、私がメイン。
 他の寺がどういうスタイルなのかは少ない経験値でしか知らないが、とりあえず例えば男女共に参加しても全く問題のない学習会なんぞが象徴的なんだろうし、あるいは母校・大谷専修学院でも圧倒的に『男』が多い。
 よって、「私は女性住職として、『女性住職』という言葉がなくなるまで、どんな苦難があってもがんばり通します」と、まあ、こういう『曲げられない女』も知っている。っちゅうか、うちの実家にお参りしてた先輩がそうだし。

 あるいは、今週末に友人の結婚式なんだが、その友人は会社の名刺に自分の本名をハングル表記、つまり母国語での表記をしただけで差別発言をされて、それでも『曲げられない男』、っちゅうか、『曲げられない人間』として、信念を押し通しておられる。んが、ネット上でも話題になりまくっていたが、実際に御会いすると非常に腰の低い、丁寧な方である。

【そして今、私たちにとって何が必要なのかと思う。本書にも記したナチスに抵抗したミュンヘン大学の「白バラ」のゾフィー・ショルは自らの規範を、「硬い精神と柔らかな心をもたねばならぬ」と手記に記していたという。今を生きる者にとって、これは肝要なことである。絶対にこれだけは曲げられないという確固たる「硬い精神」と、状況に応じて柔軟に対応でき、あらゆる人々と友として出会い続け、連帯できる「柔らかな心」であろう。】(P316より)

 である。
 決して、『プライドが高いから』っちゅう問題ではない。

 私たち真宗門徒には死罪・流罪の歴史がある。弾圧された歴史がある。弾圧された時に「ごめんね~ごめんね~」と、U字工事のギャグみたいに云ってれば弾圧されなくて済んだはずである。しかしながら、

【追放可なり。獄牢甘んずべし。誹謗擯斥許多の陵辱あに意に介すべきものあらんや。我等は寧ろ、只管絶対無限の我等に賦与せるものを楽しまんかな。】(清沢満之「絶対他力の大道」より)

 である。

【ただ仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず】(親鸞聖人)

 である。

 テレビドラマ『曲げられない女』がどういう展開をしていくのかどうかは解らない。
 ただ、プライドだけで『曲げられない』のならば、そんなもんに従わなければならない筋合いは一切ない。あり得るわけがない。

 娘はまだまだよく泣く。今日も寝返りしてうつ伏せになって「ここから動かれへん!」と泣いてたり。すると、ママかパパが助け舟を出す。しかしながら人生は『ママとパパ』が常に一緒に居ているわけもない。
 多少苦労をした人ならば、「泣いても誰も助けてくれない」という現実を味わった事があるであろう。そして、だからこそ、声をかけてくれたりして頂ける事がどれだけ『有難い』事か実感した事であろう。泣くじゃくろうがなんだろうが、世の中は『私中心』には動いていない。当たり前である。『他人』が居ているのが『世の中』なのだ。誰しもが、一人のワガママに従わなければならない筋合いは一切ない。

 『公』。
 個人のワガママ、つまりエゴに従わなければならない筋合いは一切ない。反差別である。
 反差別は『わがまま』ではない。目指すべき『差別なき世界』に向けてどうしても『曲げられない事』である。
 しかしながら、それを行うのは生身の煩悩満タンの人間である。どうしても『私は正しい』という差別者の論理に立ってしまう。

 「この愚か者め!」

 である。

3月1日は自問自答の日

2010年01月13日 | 坊主の家計簿
 夕方、非常に理不尽な事があって、まあ、それなりに手は打つから別にエエのだが、今日の日程終了。ああ、新しいMacを使い始めたかったのだが。。。まあ、エエか。んが、iPhoneは今月中に契約せんとキャンペーン価格にならんので、これは急がんとアカン。

 しゃて、なにやらチキンラーメンが3月1日より1000万食限定だが35円で売り出されるらしい。

 http://www.nissinfoods.co.jp/com/news/news_release.html?yr=2010&mn=1&nid=1789

 最安値が5袋入り298円なので、5袋あたり123円も安い。
 日本の人口は約1億2000万人。住んではる人はもっと多い。っちゅう事は、1000万食といえ、ライバル多し。
 しかし、皆様、確かに35円で売り出される事は衝撃価格であるが、「本当にチキンラーメンを食べたいのか?」と、ここは自問自答すべきではないだろうか?これはあくまでもキャンペーンであり、日清にしてみれば安い広告だろう。そういうキャンペーンにいつまでも踊らされていて、本当に良いのだろうか?これを機会に自問自答すべきではないのか?
 3月1日にすぐに近所のスーパーやコンビニに向かうのでなく、3月1日は一日中「いつまで商業主義に踊らされているのだろうか?」と、一人で、あるいは、仲間や家族、もしくはネットでも議論を深め、それから買いに行くべきではないだろうか?そうすれば私の買える分が増えるし。

 しっかし、『自問自答』って面白い言葉やな。自分で問うて自分で答えるか。んなもん、その時の自分にとって都合のエエ答えしか出て来まへんがな。ん?気分に支配された自分か。落ち込みたい気分ならば自問して出て来る自答は「ああ。。。俺なんて。。。」なんやろうし。その逆も当然ありである。
 んで、35円のチキンラーメンを食べて「ああ、35円で買えたり美味かったぜ」と云うか、「ああ、俺は35円のチキンラーメンしか喰われへん。。。」と云う気分やろ。そんな気分に支配されとるわけであって、そういう中での自問自答。

 ちなみにチキンラーメンは35円で3月1日から1000万食限定で売り出されるが、うどん玉は一玉19円ぐらいで売っている。これにスガキヤのうどんスープ(1食辺り10円ぐらい)を加えて29円。チキンラーメンよりも安いでっせ♪よって、チキンラーメンは買わないでね♪僕の分が減るから♪