坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

家の宗教

2008年06月12日 | 坊主の家計簿
 6月12日

 食類  水菜         88円
     ニラ         88円
     たまねぎ      115円
     冷凍餃子2     336円
     ピーマン       49円
     うどん玉       20円

 合計            696円
 6月累計        28743円

 空気が重い。。。梅雨が一番苦手なのだ。。。

 しゃて、我が大谷派宗門でも男性坊守がようやく認められたらしい。
 http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200806100051.html
 ちなみに『坊守』とは、え~。。。坊守ってなんや!

 親鸞の坊守って誰だったのだろうか?
 実際にはなかった話であるが、仮に親鸞が京都に戻って来た後に自分で寺を構えたとする。
 親鸞には恵信尼というパートナーがいて、まあ、親鸞が住職であると仮定するならば恵信尼が坊守になる。
 しかし、恵信尼は越後の実家に帰っていたので坊守としての仕事は出来なかった。
 この辺、詳しくないのだが、親鸞には覚信尼という娘さんが居てた。後の歴史的な事柄から考えるに、親鸞の坊守といってもイイのではないのか?事実上の仕事として。まあ、親鸞は寺を構えなかったが。
 となると、『住職の配偶者が坊守』なら、覚信尼には坊守になれない。坊守として認めて貰えない。

 っちゅうか、こういう人って居ると思うのだが。。。女性住職を継がれても独身であって、事実上の『坊守』の仕事は『先代坊守』がしているとか。

 とは云え、男性坊守の門戸が開けたのはありがたい。これで男性僧侶の養子先が増えたわけだ(笑)
 同時に、男性が坊守になれなかったのは偏見でしかないし。
 当然、今でも「なんで男が坊守なんだよ。。。」という人も居られるかも知れない。だが、その声は『坊守』という仕事の再評価並びに、可能性を含んでいないだろうか?
 
 坊守職に対する給料がどれだけ支払われているのか私は知らない。そういう調査があったのかどうかも知らない。あったのなら教えて頂きたい。
 当然、それは『専業主婦』『専業主夫』に対する手当とは別に考えるべきである。あくまでも『坊守』としての仕事に対する給料である。その宗教法人から支払われる給料である。
 なんとなく、無給で泣いておられる人が多いと想像するのだが。。。
 で、男性坊守である。男は傲慢である(笑)まあ、そんな事は個人差なのだが、だが、男性が坊守になった場合に「で、給料はなんぼ?」等と云いそうな人が多いと思うのだが。少なくとも私は言うが。

 諸々の坊守さんを見ていて思うのだが、やっぱりあれは仕事である。まあ、全く仕事をしない人も居てるが、それは今まで『坊守』という位置づけがハッキリしなかった事もあるのだろうし。

 【家の宗教から個の自覚へ】
 という大谷派のスローガンはまだ生きていると思う。
 では、大谷派のおける『坊守』とは何ぞや?
 『家の宗教から個の自覚へ』とは、あくまでも『門徒家庭』だけに限られる話なのか?

 男性坊守が認められた事によって、『男女共同参画』という今日的な言葉だけではなく、真宗サンガにあった男女差別解消のひとつになった。
 では、次はやはり『家の宗教から個の自覚へ』ではないのか?

 寺の事情は様々である。
 小さな寺では『坊守』も他の仕事をしないといけないのだろうし。
 大きな寺では『住職の配偶者』ではなくとも坊守を雇えるのではないのか?住職の配偶者はあくまでも『住職の配偶者』でしかなく、まあ、専業主婦、専業主夫をしとけばイイ。それとは別に坊守を雇う事も可能ではないのか。
 そう考えると、現状の『住職の配偶者』は決して『専業主婦』ではなく、『兼業主婦』である。坊守という立派な仕事をしている。
 坊守には大きな仕事の可能性がある。『寺』という現場の中で大きな仕事の可能性がある。そういう意味でも坊守という仕事を『住職の配偶者』だけに限定しておくのは勿体ない。

 また、『住職の配偶者』であっても、出来れば同じく聞法に励む事が出来ればイイのだろうが、真宗仏教に興味があるとは限らない。
 それは『住職の配偶者』だけに限らない。寺の息子、娘でも同じ事である。
 『住職の配偶者』『寺の息子』『寺の娘』とは、あくまでもそれだけの意味であり、それ等の人を称して『寺族』というのだが、『寺族』が『寺族』という条件だけでもって、仏教に親しんでいるわけではない。その事がプレッシャーになって苦しんでおられる人達も多く知っているし、その逆に『寺族』としての慢心だけで何も興味ないにも関わらず『門徒』よりも別位置、上位に立っていると誤解されている、勘違いしている人も知っている。
 まあ、昔の身分制度の名残りなのだが、それが今でも寺社会には残って居る事もある。