坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

♪思いを伝えてよ 何も始まらないからね(木村カエラ)

2006年09月30日 | 坊主の家計簿
 9月30日

 外食   酢豚定食           750円
 食類   ハバネロ激辛カレー3     282円
      ハバネロ大辛カレー3     282円
      ノンフライラーメン5     198円
      モカビターチョコ        98円
      カカオ72チョコ       169円
      充実野菜4          676円
      むきエビ           258円
      納豆3             68円
      バナナ            128円
      焼そば麺            18円
      キュウリ4          118円
 雑費   タバコ            300円

 合計                 3425円
 9月累計              85911円

 月末だが、土曜日なので〆は10月2日に。

 仕事が終わって遅めの昼飯。昨日の感動をスポーツ新聞でもう一度&週刊ポストで讃岐うどんの巻頭カラーを観たかったので。
 飯喰ってたらすぐに試合始まる。テレビを気にしつつ新聞・雑誌を読みつつメシ喰らってたら
 「よっしゃ!金本さすがやで。」

 帰りにドンキホーテでジャンク食の買い出し。今日のヒットは、ハウスの激辛と大辛のハバネロレトルトカレー。夏が終わったので安かったしまとめ買い。

 部屋に帰ってテレビの続き。
 「おのれ。。。福留め。。。まあ、ええわ。来年阪神の4番は任せたで」
 なんだが、あかんなぁ。。。中日はやっぱし強いわ。投手もエエし、って、エースクラス何人居るねん。守備もエエし、バッターもエエし、こら、あかんわ。

 
 しかし、安倍の支持率が約70%らしい。その割に私は安倍パッシングの声ばかり聞くのだが、なんでやろ。やっぱし人間関係が偏ってるのかなぁ。。。そういやお参り先の人達と「阪神、奇跡でっせ!奇跡!」とは喋るが、安倍内閣については喋った事がないしなぁ。。。
 まあ、あれはアンケートの取り方で変わるらしいのだが。

 『ヒーローなんて来ない』とは何かで読んだ気がするのだが、完全自殺マニュアルやったけな?
 『救世主なんて来ない』とも読んだ気がする。あれは遠藤周作の『沈黙』に関する書評だったと思うのだが、『神の沈黙だけが人間に自由を与える』とかなんとか。『自由を与える』とは好きな表現ではないが、『責任を与える』というと好きだ。
 『神の沈黙だけが人間に責任を与える』

 まあ、昔から一貫して変わっていないのだろうが、またヒーローブームが来そうな気がする。
 『聖者』。穢れなき存在。
 そんな者など居やしない。

 天皇で浄化する。僧侶で浄化する。
 運動家で浄化する。
 浄化された気分になってるだけだろう。
 故に排除する。
 「解っていない」
 「あの人たちは保守だ」
 等々。

 初期の解同の糾弾論はあくまで差別意識の克服だったはず。『克服』という日本語が正しいかは別として。
 「それは差別である」と。差別意識を持たない人に「それは差別である」と。
 差別された立場であるが故に、その事が『差別』と云う事がハッキリと解る。
 故に『差別隠し』ではない。差別隠しで差別が克服されない事を身をもって感じたが故のではなかったのか。
 しかし、悲しいかな解同自体が懺悔してたはずだが「もの取り主義に陥ってしまった」。

 同じような事が様々な局面で起る。様々に形を変えて起る。

 もう撤去されてしまったが、大阪・天王寺公園には露天のカラオケがあった。当然不法占拠。
 きっと多くの住民には迷惑であっただろう。
 でも、一部の人達には大切な場所。
 でも、法律違反。
 だから撤去された。

 ♪こらえちゃいけないんだ You
  思いを伝えてよ 何も始まらないからね
  (木村カエラ『You』より)

 様々な現場で大義名分は無くとも、間違った人生であっても、様々な現場で様々な人達が声を挙げている。
 それ等の声を、例え如何なる大義名分があろうとも『聞こうとしない』事は、私は間違って居ると判断する。
 軍服を着て戦闘準備して話し合いもクソもないだろうに。
 例えそれが『解放』という大義名分、『人権』という大義名分があろうとも。

 悲鳴に理屈はない。ただ、悲鳴を挙げているだけだ。
 そんな悲鳴をシャットアウトするのが
 「これは伝統だから」であり、
 「これは人間解放だから」等々の大義名分である。

 仏教が一つの思想なら、人権も一つの思想でしかあり得ない。
 思想は人間が作り出したものであり、当然限界がある。
 固定化するわけだし。

【形ばかりの中身のない自分勝手なそんな平安は本当は決して求めてはならないものであるに違いない。それなのに私たちはいつもそんな形ばかりの平安を求めてしまう。そんな私たちをまさしく問いただしてくるものは、悲しいけど唯一「幼な児の涙」という名の被抑圧的な被支配的な被差別的な現実である。
 社会問題に対する関心も宗教問題に対する関心もそういう現実を離れて存在することができない。もしできると強弁するのなら、その人は現実に揺さぶられることによって自分の生活基盤を危うくする職業的宗教人か、あるいは職業的学者先生以外の何ものでもないであろう。】(尾畑文正『親鸞への旅』P104~105より)

 尾畑先生は書いていないが、私は職業的運動家も入れるべきであると思う。
 また、「幼な児の涙」は社会構造だけに治めてしまうべきではないと感じる。特に最近は。
 それぞれの関係性において、ではないのか?
 社会問題だけに特化することによって、個人と個人の関係性が忘却されることは、大義、正義でもって忘却されることは人間不在である。
 で、それが強くなって来ている感がある。
 安倍総理大臣が『伝統文化』を重んじるのと同様に。

 如何なる大義名分であろうとも、その場に居られる方々の涙を無視した運動を支援するような仏教なんぞクソ喰らえ!

『己に願いはなくとも 願いをかけられた身だ』(藤元正樹)

2006年09月29日 | 坊主の家計簿
 9月29日

 食類    加ト吉さぬきうどん4      352円
       発泡酒             175円
       豆腐               69円
       うどん玉             18円
       豚バラ             242円
       キャベツ            168円
       ピーマン             65円
 レンタル  男たちの大和          105円

 合計                   1189円
 9月累計                82486円

 思い出した!27日の謎の200円は昼飯に喰った『たこウニ飯』や。
 あ~、よかった。これですっきりした。思い出されへんかったら「任天堂DCでも買わなあかんかな?」とは全く頭をよぎらなかったのだが、タマにやる『すれ違う車のナンバーを合計する』っちゅうやつを、もっとやらなあかんかな?っちゅう事も全く頭をよぎらなかったのだが。。。いや、ボケてまんな。
 頭が若干痛く、胃が荒れ気味。明け方寒いし気を付けんとあかんな。
 と、いう事で、今日も仕事終わって寝て→阪神。
 野球のナイター中継を観るのは久しぶり。なんせ大阪は今大変なのだ。奇跡を待つ日々なのだ。
 だいたい、今年の阪神は大変だったのだ。なんせ『阪神』がもうすぐ無くなるのだ。阪急と合併してしまうというやな、もの凄い出来事がある中での今年の阪神の活躍なのだ。まあ、経済効果とかからすると今年だけは阪神に優勝させておいた方がエエでっせ。
 まあ、そういう意図があるのかどうか知らんが、この時期になり道場洋三が復帰し、今日はなんと川上に勝ち、今岡の決定的な復活劇があった。勢いは止まりまへんなぁ。。。優勝でっせ。
 しかし、福留ってあんなに怖いバッターになってたのか?日本人であんなに怖いバッターっちゅうのは城島以来だ。もう、バッターボックスに立ってるだけで「すんません。。。打たんといて下さい」と頼みたくなるくらいに怖い。しばらく観ない内に凄い打者になっててんなぁ。福留、PLやろ。阪神に来い。お前が中日に入団した時とは球界の事情が変わっとるねんや。阪神に来い。
 落合。お前もお守り返してもらいたかったら福留と交換でどうや。あれは間違いなく阪神ファンの犯行やろ。盗んだ犯人も福留との交換なら納得して自首して来よるぞ、きっと。
 等と思いつつ野球観戦。

 『男たちの大和』をようやく観る。え~。。。うちのテレビは14インチでして。。。やっぱし大画面で観るべき映画やな。映画館に行くべき映画であった。
 映画は日本の戦争映画としては『二百三高地』以来のマイヒット。強烈な戦争というの現場を描き出した映画。
 多分、あの『男たちの大和』という『男たち』には、下らん男根信仰みたいなものを表現したかったのかも知れない。っちゅうか、私はそう観た。

 あの人は、なんという船に乗ってたんだろうか?よく行く寺でマイクを持つと必ずと行っていい程戦争の話をしてたお爺ちゃんは。もう亡くなられたが。
 あのお爺ちゃんも戦争中に船に乗ってた。見事な軍国少年だったらしい。でも、船が沈没して命かながらに海で漂ってた時に
 「クソ!天皇めが!!!」
 に成ったらしい。
 私は当然、戦争が終わって50年ぐらい経った時からしか知らないが、見事な反戦、反天皇バリバリの運動家。あのお爺ちゃんはいっつも同じ事を喋ってた想い出がある。

 個人を大事にする。
 戦争は大義名分だ。『御国の為』でも『アジア諸国の解放の為』でも。

 『拉致被害者の人権の為』『弾圧されている北朝鮮民衆の人権の為』。

 戦艦大和が出航した直後ぐらいなんだろうか?米軍がもはや遥か上空から大和の写真を撮ってた。
 日本にも偵察衛星に使えるような衛星があり、当然米軍にはバリバリある。北朝鮮は持って居るのだろうか?

 『拉致被害者の人権の為』『弾圧されている北朝鮮民衆の人権の為』。
 人権の為に戦争に行く準備をする。人権を守る為には、人権を奪って構わないのだろうか?
 日本は、アジア諸国で大量虐殺したが、同時に米軍によって大量虐殺された。アジア諸国での出来事は他国の出来事であるが、米軍にやられた出来事は生々しい記憶が残って居る。それ等の事を北朝鮮の人達にしてイイのだろうか?

 人権を守る為に、人権を奪う。と云う事は論理的におかしい。どう考えてもおかしい。
 だが、『自国民の人権』と限定されるなら『他国民の人権』は犯してもよい事になるのだろう。
 あるいは高尚な『人権思想』でもって、『人権思想カルト』とでも云うのだろうか?『人権思想』を生身の人間から切り離せば、その『人権思想』の為には『犠牲もやもえず』になるのだろう。
 人類がこれから進むべき道である『人権思想』を生身の人間から切り離せば、『人権思想』の為に『個々の人権』は奪ってよい、という論理になるのだろうか?

 違うと感じる。
 人権思想とは、それぞれの個人個人が、それぞれの生活現場で様々な苦悩や限界を感じながら生きて居られる事を、まず第一義に感じるべきではないのか?
 何か一つの思想、例えば日本仏教思想の中で『穢れ』とされて来た方々も『生きて居られる』と感じられる事が人権思想の第一義ではないのか?
 新たに作り出された思想ですら、解放を求める思想ですら、所詮生身の人間が作り出す思想でしかなく、限界や問題性を抱えた思想ではないのか?
 そんな思想に囚われ、自分の思想から観た相手でなく、様々な『私』の価値判断を超えた世界に『居られる方々』に気づいて行こうとする事が、真の人権思想の第一義ではないのか?

 【すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。】(ダンマパダより)

 【己に願いはなくとも 願いをかけられた身だ】(藤元正樹)

 『私』が願い、価値を見出す事が出来なくとも、すべてのいのちある存在は、願いがかけられた存在である。
 私が面倒なので、『罪』など感じたくないので、一つの思想や、『私』に閉鎖して見出そうとしないだけの話だ。
 
 だから善人の状態では
 「何もしないなら口を出すな」
 等と閉鎖する。
 善人状態を守る為、『聖』の座に居座る為に閉鎖する。
 「己に願いはなくとも 願いをかけられた身だ」(藤元正樹)

『執著する存在』である、人間不在の人権教育

2006年09月28日 | 坊主の家計簿
 9月28日

 食類   発泡酒           175円
      オレンジジュース      100円
      ウーロン茶         100円
      納豆3P           78円
      カニかま3         180円
      梨2            168円
 外食   雲呑麺シソ餃子W      808円

 合計                1614円
 9月累計             81297円

 彼岸法要→原始仏教→教団問題サンガ論→在日問題の夜出まくりの連続が終わってダルダルの日。ああ、よう寝た。阪神も勝ったし(中日も逆転勝ちしやがったが)気分もエエ感じや。

 差別とは人間の問題である。するのも人間だし、されるのも人間。生身の人間。なので当然『関係』
 例えば『差別される側の人』が『差別される側だけの人』と云う事ではない。『差別される側の人』が違う関係においては『差別する側』だけに居るわけでもなく、また当たり前の話なんだが、解放運動家も人間であり、間違いをおかす事もある。当然ながら。
 こんな事件も(http://koreanshr.jp/court/)もあるわけだし。また、確かこの裁判をやってる人達の一人は私の知人であるはずであって、その在日のおっさんは大阪市大近くの被差別の在日の代表だった人であって、で、どれだけその支部(解同の支部)が在日差別しているのか、を何度も何度も何度も何度も聞いたのだが、だからと云ってその在日のおっさんが『完全なる人』であるわけもない。ただ単に差別を告発する側に立つような状況であっただけの話である。
 
 この辺は非常に大事な問題である。例えば解同という組織を運営するのは当然『人間』であり、『人間』がする事だから当然間違いもあるわな。で、その間違いだけに焦点を当てて『だから解同はダメなんだ』には成らない。何かの事件でもって全てがダメというわけでもない。当然批判されるべき問題であって、批判すべきであるが、全てが間違いであると云う事にはならない。同じように批判する側も『完全なる人』であるわけもない。その辺の混同は危ない。

 大峰山の問題がやはり気になる。
 (http://www.jinken.ne.jp/gender/minamoto/index.html
 で、どうでもエエのだが、釈尊は『尼僧教団』という当時のインドでは非常に気の狂ったような教団を作った。それ以前ではごくわずかな例を除いては女性が宗教に関わるような事はあり得なかったはずだ。『女性の出家者』等と云うのは、尼僧教団等と云うのはあり得なかった。 
 しかし、釈尊は作った。女性の出家者を認めた。
 それは現在からの視点でみるならば当然おかしな部分もあるのだろうが、そういう『働き』があった。その『働き』は出家者 ・在家者・男女関係なくの真宗教団にまで働いて居る。
 限界点を批判するのはありだが、全否定するのは仏教徒を辞めればイイだけの話であって、また釈尊に女性差別の根源があるような事はあきらかな間違いではないのか。
 乗り越えようとして、女性教団を認めたが故に、要するに『被差別者に出会わない限り差別する事は出来ない』のと同じ話だ。

 で、大峰山。
 女人禁制はあきらかな性差別である。差別は妄念妄想であり、偏見である。偏見で迷って苦しんで居られる。と私は観る。
 しかし、それはあくまでも一つの論理での視点でしかない。
 気になっているニュースは2005年11月3日に先に引用した源淳子氏達が大峰山に登ろうとした『事件』である。
 これは元来大峰山が女人禁制であったからである。
 しかし、そういう伝統は、あくまでも『伝統』という机上の論理でなく、『伝統を守って来てこられた方々』が居る。
 ある一つの論理でなら、当然そういう伝統は『間違って居る』。
 その『間違った伝統』を守って来て、大切な事としてきた人達が居る。
 某ホームページを観てたら、なにやら泣き出した地元住民の女性も居られたそうである。そらそうだろう。信仰や、伝統というのは非常に敏感なものだし。しかし、そのホームページには
【住民の半分以上は女性でした。「お願いします。登らないで下さい」と何度も言っていました。中には泣き出す人もいました。排除されている女性たちが、その排除の仕組みを支持するという構造になっています。】(リンクがうまくいかない。。。http://web2.incl.ne.jp/fujiba/mine/mine.htmから)
 と書いてはあるが、『泣かす』くらいに辛い思いをさせた事には触れていない。つまり反省している様子はこれだけを観る限りでは感じられない。
 この言葉を書かれた方は、確か同じ大谷派の先輩にあたる方だと思う。

 この国の人権教育や、大谷派教団の人権教育の結果の一つはこういう事ではないのか?
 例えば裁判闘争ではどうなるのか解らない。例えば大峰山の地元の方々が、特に泣き出すくらいに心的外傷を受けられた方がその後に外傷性ストレス障害(PTSD)に成ったとして、それを裁判に訴える事は可能ではないのか?詳しくは知らないが。その場合に司法はどういう判断を下すのであろうか?
 「元々は、あなた達が守って来ておられた伝統の『女人禁制』自体が女性差別であり、そういう女性差別を告発しようとなされた方々がとられた行動の上での話なので、あなたが外傷性ストレス障害になったとしてもそれはあなたが守って来た偏見で苦しんで居るだけであり、よって訴訟は却下する」
 になるのであろうか?
 つまり正義の為の行動、性差別を解放していく為の行動なら、相手が「「お願いします。お願いですから登らないで下さい」と泣きながら訴えかけようとも、聞く耳を持たないどころか【排除されている女性たちが、その排除の仕組みを支持するという構造になっています。】だけで済むのが人間解放なんだろうか?
 それが人権教育なのだろうか?それが大谷派やって来た人権教育なんだろうか?
 多分、そうなんだろう。
 人間不在の人権教育。
 そしてそれは当然ウケがイイ。相手が泣いて訴えている事すら、相手の涙すら自分の論理でもっと切り捨てる事が出来るわけだし、気持ちがイイだろう。

 【凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと】(親鸞『一念多念文意』より)

 そういう存在である。
 別に『差別を告発する側』の人間も例外では当然ない。間違いぐらいある。ただ、間違いなら頭を下げようとする心ぐらいあってもイイと思うのだが。。。

 差別の問題は、人間の問題である。
 そこに居られる人達を『間』にする事によって『罪』を感じなくさせる。
 『あいつは○○だから』という事で、『罪』でなく、『当然』にする。
 『女性だから家事をするのは当たり前』『女性だから男に従うのは当たり前』等々。
 女性という性をもたれた人は、別に特別に穢れた存在でもなんでもなく、男やゲイやレズ等と同じく唯の「執著する存在」である。
 同じく『差別する人達』も『差別される人達』も、「執著する存在」である。
 なので、当然生きてる中(運動)で間違いぐらい犯す。ただ当然『間違い』は『間違い』である。『罪』は『罪』だ。
 「日本だけが植民地にしたのでない。他の国だってやってたじゃないか!」でも『罪』は『罪』である。

阪神

2006年09月27日 | 坊主の家計簿
 9月27日

 雑費  タバコ            320円
     コピー代           100円
     ミネラル水          110円
     回数券           3700円
     飲み代           4000円
     タクシー代         5000円
     タコウニ飯          200円

 合計               13430円
 9月累計             79683円

 200円を何に使ったのか謎である。一応携帯のメモに『200円』とあるのだが、何に使ったのか思い出せない。。。

 在日問題。会議(?)は16時から18時までなんだが、「メシでも行っときますか?」と、酒。
 1件目で18時過ぎから21時頃までメシを喰いつつ。
 2件目で21時頃から23時過ぎまで。
 帰ろうと思ったら、「飲みに行くぞ!」と。まあ、別に断る理由もないので、っちゅうか、飲みたかった、と云うよりも話足りなかったか、ので、結局1時まで。ちなみに2件目、3件目はオゴリ。ん?おごられた方からするとタカリになるのか?
 16時から1時まで9時間。1件目で一人帰り、2件目でまた一人帰りしたが、こゆい9時間だった。。。
 電車は当然なく、タクシーで交渉して5000円で帰宅。2件目、3件目は殆ど飲まずに酔いを醒しながらだったので、それ程酔って居なかったのだが、眠かったので家計簿サボって寝る。

 阪神、奇跡へ連勝中。

慢心

2006年09月26日 | 坊主の家計簿
 9月26日
 
 雑費   たばこ3箱          900円
      レモンティー         120円
      公文学費          4200円
 飲み代  中華料理屋         2000円
      坊主バー(裏技料金)     400円

 合計                 7620円
 9月累計              66253円

 起きたら昼過ぎだったので京都行き断念。
 まあ、法衣取りに行くついでに白川にある餃子の白水にも行きたかったし。公文のテキストもやらんとあかんし。安倍内閣やし。
 と云う事で安倍内閣。
 いや、何やら詳しい話は知らんが、今回の組閣は基本的に『安倍さんの仲の良い人達』らしい。以前はあったらしい『派閥』っちゅう事での入閣がなくなって、仲の良い人達らしい。
 で、これまた詳しくは知らないのだが、安倍氏と麻生氏は遠戚らしい。そういうば同じ家系図に載ってた記憶もある。
 これまた詳しく知らないのだが、2世議員、3世議員が増えているらしい。
 確か司馬遼太郎だったと思うのだが、「日本は豪族の時代から何ら変わって居ない」と書いて居た。
 
 真宗教団は世襲制である場合が多い。賛否両論あるが、私は別に構わないと思う。何故なら真宗僧侶には『誰だって成れる』んだし。当然『寺族の血』が尊いなどと思った事は一度もない。
 その逆に私みたいな『ヨソ者』が教団に入る事は『問題意識』があると思われがちだが、でも、その『問題意識』が逆にネックになって『誇ってしまう事』があれば、それは『寺族の血が尊い』という事を誇る事となんら変わりない。
 ただ、当然『誰だってなれる』という制度は当然必要だが。

 私は有権者であると同時に選挙に出れる立場でもある。ただ出ようとしないだけである。
 安倍氏の『仲良し内閣』は非常に日本的である。そのうちに『政治族』と云う血筋が生まれでるのかも知れない。誰だってなれるにも関わらず、『政治家という家柄』と。
 
 『聖者』を立てる。
 実は『俗』に甘えているだけ。

スパム削除ゲーム

2006年09月25日 | 坊主の家計簿
 9月25日

 外食   野菜炒め蕎麦      347円
      チーズバーガー     100円
 食類   発泡酒         175円
      シャケアラ焼き     125円
      キムチ          88円
 雑費   タバコ         300円
      JR           160円
      南海          320円

 合計              1615円
 9月累計           58633円

 明日はお休み。なんだが、今日は原始仏教の学習会。

【衆生・有情(サッタ)、衆生といわれるが、何故に衆生といわれるのか。
 五蘊(人間を構成する五つの要素の蘊)に対して、欲あり、貪りあり、渇愛あり、執著するから衆生・有情といわれる。】(『相応部』三・一九〇ページかららしい。引用は雲井昭善『万人に語りかけるブッタ』より)

【人間を「存在するもの」とみるのでなくて、「執著する存在」としてとらえていた点に特徴があったことを意味します。】(雲井昭善『万人に語りかけるブッタ』より)

【凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと】(親鸞『一念多念文意』より)


 で、明日はせっかく休みなので23時過ぎまでやってた学習会&帰りでも一滴の酒を飲んでないので、帰って来てメシ喰って、大急ぎで酒を飲んでいるのだが、まあ、別に急いで飲まんでもエエか。明日休みやし。
 明日は京都に行く予定。まだ確認してないのだが、そろそろ6月末に注文した&修理を依頼した法衣が出来てるだろうし。
 で、夕方からは教団問題学習会なので18時前には本町に居ないとダメなので京都でゆっくり出来ないか。午前中はまだ少し残ってる公文のテキストをやらんとあかんわけやし。
 で、明後日は仕事→在日問題。
 う~ん。。。彼岸法要が終わっても忙しいのだが、でも、明日休みなので構わないのだ。
 
 とは、云え、今朝は機嫌が悪かった。夢で近所で悪さしてるガキをしばいて、しばいても言う事聞かないのでガキの指を落として行くと云う「どっちが悪いねん!」っちゅう夢を観たんだが、要するに機嫌が悪かったわけだ。まあ、疲れてるし。
 で、最近スパムメールが多くなった。当然うっとうしいのだが、結構『削除』する事が出来て、多少のストレス発散にはなっているわけなのだが。まあ、ガキの頃にストレスが溜ると意味なくカエルとかバッタとかトンボとかアリとかを殺しまくってストレス発散していた快感に似た様なものも感じられるのだが。
 あ、スパムメールを削除する時に血とか、うめき声が出て来る様なソフトはないのかな。多少の暴力性・エロスを発散させて呉れるようなソフトはないのか。あったら1000円ぐらいなら買うぞ。

 とは云え、やっぱしネットをやってる中でスパムメールはうっとうしい。
 金に成らんかなぁ。。。と、最近考えて居るのだが。。。
 受信拒否&通報する時にスパムを送って来たメールアドレスが出る。という事はスパムを送って来たヤツのメールアドレスまでは証明されるのだ。ただし、そのメールアドレスが正しいかった場合なら、なんだろうが。
 ヤフーからでも、グーからでも、ニフティからでも、送られてくるのだが、それ等すべてがフリーメールだとしても登録した際のアクセスIPはやろうとすれば特定出来るはずだし、それらを相互に確認しあえばスパムを送る人が特定出来てくるのではないのか?素人なので解らんのだが。
 例えば日本のネット人口が7000万人としてスパムメールを送る人が7万人とする。当然スパムを許しているプロバイザーにも責任はあるわけだし、例えば国家が本格的に金儲けの為にスパム対策に乗り出す。7万人から罰金100万とったとして700億か。日本の借金返済には全然ならんなぁ。。。

 私はスパムメールどころか、自分が登録しているサイトからのメールすら開封せずに削除しているのだが、やっぱし、削除する時に「グサ!ううぅぅぅ。。。やられた。。。」とかやな、もしくは「きゃー!やめて!」とかやな、そういう悲鳴が出るようなソフトは出来んのか?スパムメールをまとめて削除する時にそういう悲鳴が出て、削除するのが楽しくなるような、暴力性・エロスをもっと満足させてくれるようなソフトは出来んのか。

 スパムメールの徹底管理は、イコール、ネットの徹底管理につながる道なので危険極まりないのだが、罰金をスパムメール『一通につき100円』とかやってるプロバイザーもあるらしいが、同じく『一通につき100円』を国家がやれば、ようするに『ケツの毛』までむしり取る事をやれば700億以上は行くのではないのか。
 もしくは私のプロバイザーはニフティだが、ニフティが暴力団と提携して、「おら、おまえは何をしとるんじゃ?うちの大事なお客さんに何をさらしてケツかいとんねん」と徹底した追い込み&暴力団の新たな資金源にする。

 う~ん。。。やっぱしスパムメールを削除するのにインベーダーゲーム形式に出来るとか、平安京エイリアン形式にするとか、ピストルで撃ち殺す形式にするとか、刀で斬り殺す形式にするとか、そういうソフトは出来んのか。で、負けたらその送信されて来たスパムメールが開封されてしまうとか。で、強烈なウイルスが添付されてた場合なら、OS自体が『ゲームオーバー』になるわけやし。

 また、刀やピストルで殺す場合なら、その殺される相手(スパムメール)に、自分がキライなヤツの名前を入力出来たりするともっと楽しい。『○○部長』『○○課長』『○○係長』『営業先のあいつ』とかの名前を入力出来たりすると楽しいではないか。「うぉぉぉぉぉお!!!俺は毎日10件程度のスパムメール程度で足りるわけないやろ!」と、自分からスパムメールを求める人が出て来たりするかも解らない。で、ゲームをクリアすると、「お疲れさん。今日も一日辛かったね。これで気分が治まった?」というメッセージが出て来たりして。
 あるいは
【凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと】(親鸞『一念多念文意』より)
 というメッセージが出て来たりするとか。
 BGMに読経が流れたりして。
 そういうソフトがあれば3000円以内なら買うぞ。

はらう

2006年09月24日 | 坊主の家計簿
 9月24日

 外食    ラーメン        590円
 雑費    タバコ         300円

 合計                890円
 9月累計            57018円

 彼岸法要終了。
 っちゅう事で、さっき帰って来てニュウメン喰って、ビールを飲みつつ(さっき結構門徒さん等と飲んだのだが。。。)HENRY松山CDをMacに読み込ましてる最中。しかも、もはや誰かがiTunesに登録して呉れてたおかげでらくちんらくちん。
 ちなみに収録曲は

 1 天国の君
 2 つまんない
 3 払うのん
 4 ブルースのレコード
 5 Crazy Love
 6 R309

 定価1500円で
 ◎阿倍野・The ROCK食堂(只今、品切れ中)
 ◎南森町・Chicago Rock
 ◎生野・Caf?ギャルソン
 ◎難波・大きな輪
 ◎難波・1$bar naga
 ◎野田阪神・Studio JBL
 ◎箕面・橋本亭
 ◎玉造・ねぎや
 ◎生野・ひろ兵衛
 ◎三ッ寺・プカプカ
 ◎難波・Marvin
 にて、絶賛発売中。っちゅうか、ド関西限定やなぁ。。。
 &ミクシィ限定だが、要するにミクシィという引き蘢りサイト以外の人はhttp://mixi.jp/view_community.pl?id=738630このページすら開けないくらいの引き蘢りサイトであるミクシィ会員の人は、さっきのリンクページの管理人の『さまぁ~ず』さんに連絡したらなんとかなるのかもしれない。
 ちなみにCDは結構もっちゃい。生で聴く方が100億万倍素晴らしい。んが、元々『詞』が歌よりもギターよりも素晴らしいので、そういう意味ではCDでも十分なんだが、まあ、ギターは私は全く解らないんだが、歌にはうるさい私にとっては若干物足りない。まあ、元々『人間が好き』という、非常に『人間』と云う存在が好きな人なので、やっぱしスタジオ録音で『人の顔が見えない』という状況ではキツいのかもしれない。っちゅうか、好みだが。。。
 とは云え、昔のテープには入っていない曲、つまり復活してからの曲で私が好きな『払うのん』も入ってるし、しかもなんと名曲『ブルースのレコード』も入ってる。

 『No Woman No Cry』
 泣かない女は居ない。
 『恋愛』と云った人間関係の中で辛い思いをするのは男女関係ない。
 ただ、哀しいかな、恋愛は女性にとって『仕事』でもある場合もある。それは今の日本でもある。解りやすいのが農村でのフィリピン等から来た『嫁』だったりする。そこまで典型的でなくとも、なんや、色白の化粧品会社の女社長が「人生ってたった一度っきりなのよ。だったら死ぬまで美しくいたいわね」とか云ってたが。また、圧倒的にファッション雑誌は女性向けが多い。それらが示す事はもの凄く単純に女性にとっては恋愛は『仕事』。当然すべての女性に当てはまるわけでもないが。
 しかし、だからこそ出て来る情感もある。
 『一人では生きて行けない』と云う事は誰だって同じだ。だが、『女性』と云った場合にはそれが強く現われて来る人が、哀しいかな多い現状もある。
 だが、それは同時に人間は『一人では生きて行けない』と云う事を示しても呉れる。そういう『愛』であるとか『情』であるとか、本来『女性』だけが兼ね備えているわけでもないもの、恐らく誰だって兼ね備えているものを、表現してくれる人達の中で女性が多いだけの話だ。
 
  ♪はらうのん はらうのん
   あたしが はらうのん
   だから
   つないだ この手を
   はらわんといて
  (HENRY松山『払うのん』より)

 『変な李』でもあるHENRY松山。
 日本と云う国の中の日本民族でなく、日本人でなく、でも、日本で生まれ育ったHENRY松山。

  ♪はらうのん はらうのん
   あたしが はらうのん
   だから
   つないだ この手を
   はらわんといて
  (HENRY松山『払うのん』より)

 男性女性に限らず、『強者』は一人でも生きていけると『思い込んでいる』。
 でも、『一人では生きて行けない』と云う、もの凄く当たり前の事実を表現してくれる人達がいる。

 『美しい国へ』
 安倍氏は約41キロの内閣総理大臣杯を自ら抱えて手渡したらしいが、誰かの手を借りてもよかったろうに。
 人の手を『祓って』、何を目指そうとするのか?

 と云う事で、HENRY松山のCD、お勧め。

彼岸の中日

2006年09月23日 | 坊主の家計簿
 9月23日

 雑費   缶コーヒー        120円
      回転寿司         420円

 合計                540円
 9月累計            56128円

 今日は彼岸の中日5-7ヤクルト。しかも山本昌で負けてやんの。ヒャヒャヒャ!!!
 阪神が11対2で巨人に勝ったから4ゲーム差か。別に奇跡は信じていないが、万が一っちゅう事もある。しかもこれからの中日は優勝を目前にしているワケであって緊張しないわけがなく、逆に追う側の阪神は背水の陣である。背水の陣とは当然諸葛孔明の兵法であると昔コーエーの本で学んだ記憶があるのだが、諸葛も藤山寛美も同じ松竹であり、阪神の監督である藤山寛美は当然諸葛直伝の背水の陣の兵法を学んで居るはずなので圧倒的に有利である。
 はずなんだが、彼岸の中日は法要が昼の部もあって、夜の部が終わって帰って来て空きっ腹に飲んだビールが脳天直撃やなぁ。。。
 まあ、明日は法要は夜の部だけやし、お参りが終わってから夜の部までに仮眠も出来るやろうし、まあええか。
 
 っちゅう事で『小乗と大乗』。昼は15分ちょいで仏教教団の歩みから竜樹、天親を例に引きつつも、結局真宗仏教がいかに釈尊の精神を受け継いでいるのかをスーパー早口でホワイトボード書き殴りの、ついでにパンパンしまくり。とりあえず熱意だけは伝わったか。。。
 夜の部は少しゆったりしながら、でも変わらず親鸞がいかに釈尊の大乗仏教精神を受け継いでいるのかを、これまた途中から早口になりながら喋る。 
 「釈尊の大乗仏教精神?」という批判もあるだろうが、釈尊こそが大乗仏教精神だろうに。

【元来、釈尊はその教えを説くには、すべての階級の人びとがよく理解し得るために、それぞれの地方の民衆の日常語としての俗語を用いることを命ぜられ、自らも古代マガダ語という俗語を使用された。そしてバラモン教の聖典に用いられているような高級な梵語は知識階級にだけ理解されて、下層民には解らないものであるから、仏教を語るに梵語を用いることを禁じ、かならずその地方地方の民衆語をもって説きべきであると厳命された。】(水野弘元『仏教要語の基礎知識』49ページより)

 こういう精神の流れが釈尊の願いであり、大乗ではないのか?
 それぞれの時代時代の限界性はあるにしても願いではないのか?

 必ずしも願いを受け継ぐ為には言葉通りではない場合も出て来る。大衆部と長老部の分裂などもそうだろう。その願いの精神を受け継ぐ事と、言葉通りとでは時代や個々において若干の違いは出て来て当たり前ではないのか?それが仏教=大乗ではないのか?

 と云う事で、こういう日記では好き勝手に緊張せずに書きなぐることが出来るのだが、ああいう場で喋ると緊張しまくりの小さい小さい自分が、小さいくせに、いや、『小さいからこそ』か、大きく見せようとして緊張して小さい自分を、等身大の自分で居れずに見栄っぱりでプライドが高く傲慢な私か。

 「そのままで来い。構わんから、そのまま来い」と、どっかで聞いた記憶がある。
 それは
 「身なりを整えてから来い」とか
 「大きく成ってから来い」とは全然違う。

 当然「健常者になってから」とか
 「男になってから」とか
 であろうはずがない。

『伝統』は小乗ではないのか?

2006年09月22日 | 坊主の家計簿
 9月22日

 雑費   タバコ           300円
      缶コーヒー         120円
      エスカップ12       628円
      パラデントエース      524円
 外食   かきあげ蕎麦        326円
      豚ステーキ肉        376円

 合計                2274円
 9月累計             55588円

 御彼岸法要初日。
 の前に時間が余ったので「辛い時は夢の中だ!」と讃岐に思いを馳せる。っちゅうか、『恐るべきさぬきうどん』の麺通団が新しい本を出していないかとか諸々探る。
 麺通団団長の日記をみっけ。
【何か、日本は北も南も、島から侵略されているみたいだ。みんなが無関心でいたら、そのうち本土も侵略が始まるのか? というか、もう精神の侵略はとっくに始まっているのかもしれないが。】(http://www.mentsu-dan.com/diary/bn2006_09.htmlの2006年9月14日(木)の日記より)
 確かにそうである。例えば香川県では『うどん』と云う食べ物を好んで食す。最近でも『UDON』という映画にまでなったくらいの力を持って居る食べ物だ。また、それ等を地元の情報誌で書き立て、本にしたグループもあるという。
 あえて説明する必要もないが、『うどん』と云う食べ物は舶来の食べ物である。また香川県では『さぬきうどんは弘法大師が広めた』との伝説もある。弘法大師空海は舶来の仏教僧である。よって気を付けなければならない。私たち日本人、『稲穂の国』と呼ばれ、神武天皇の別名である『穂穂手見』が証明するように私たち日本人=ヤマト民族は米食の国民であり、また『石』というように、その国で米がどれだけ取れるか?を大事にして来た民族であり、『年貢』という税金も米換算であった民族である。
 よって、『うどん』等と云う様なものを好んで食し、また情報誌や映画などで騒ぎ立てるような売国奴は民族の精神を舶来に売り渡した人達である。

 まあ、勝谷の影響かなんか知らんが、ついでに香川県知事に立候補するのかどうか知らんが、ついでに映画『UDON』もフジサンケイだし、まあ、解らんでもないんだが。。。ちと無理がある。時代を止めるのならいざ知らず。
 と、コメントの続きみたいなもの。

 で、彼岸法要。
 え~。。。脳味噌パニック。
 まあ、若干の予想はしてたのだが、住職より「明日感話する?」との事。まあ、機会を与えて貰えるのは幸いだし当然引き受ける。
 で、彼岸法要前に住職と役員さんが何やら話してた。何やら小乗仏教と大乗仏教の違いについてらしい。
 と云う事で明日の感話は『小乗仏教と大乗仏教』と云うテーマで感話でも何でもなくやってしまえ!って思って復習してたのだが、10分ちょいの昼と夜の2回だし、また何にしぼろうかを迷って迷ってしゃーない。

 まず『小乗』とは差別用語と云っていいのでは?と感じる。小乗は『ヒーナヤーナ』であり、『ヒーナ』とは『捨てられた』とか『劣った』とかの意味らしい。私は少なくとも大乗仏教の精神から『小乗』っちゅう云い方はあかんやろ、と感じる。
 よっしゃ、これで一つ行くか。
 ただ、当時、部派仏教時代において、部派仏教が死ぬまで伝道の旅を続けた釈尊の精神を忘却していた事は確かなんだろう。
 また、釈尊は
【元来、釈尊はその教えを説くには、すべての階級の人びとがよく理解し得るために、それぞれの地方の民衆の日常語としての俗語を用いることを命ぜられ、自らも古代マガダ語という俗語を使用された。そしてバラモン経の聖典に用いられているような高級な梵語は知識階級にだけ理解されて、下層民には解らないものであるから、仏教を語るに梵語を用いることを禁じ、かならずその地方地方の民衆語をもって説くべきであると厳命された。】(水野弘元『仏教要語の基礎知識』より)
 え~。。。原典を知らないのだが、感話やしエエか。
 で、何かの本に書いてあったのだが(本棚になおしたし、酔っぱらってわからん)、大乗も梵語を使うようになり、また、大乗も難解な学説を称えるようになり、大乗も『在家主義』から『出家主義』に変わって行った。
 じゃ~ん!じゃじゃじゃじゃ~ん!と、法然・親鸞の出番とあいなるわけだ。
 と云う事でやはり大乗の仏塔信仰か。

 とは云え、非常に混乱しているのだが、しかも眠らんとあかんしやな。
 大乗仏教運動が何故『小乗』と呼んだのか?そしてその精神からして私たち大乗仏教徒は『小乗』と蔑むクセに果たして『大乗』なのか?仮に真宗門徒と云う座に甘んじているのならそれは小乗である。別に上座部=小乗ではない。当然厳密に云うと『小乗』とは説一切有部を殆ど指し示す批判の言葉らしいし、真宗門徒としての大乗精神から云って『小乗』とは云い難いのではないのか?
 『小乗』と言い放すだけで『大乗』と云う言葉は真宗門徒としてなりたつのか?
 『救われた』と云う。陥る。

 てい!てい!てい!
 あかん。全然落ち着いとらんし、知識だけは復習したけど、どうまとめて伝えたらええのかがまとまらん。
 まあ、『小乗』と云う語についてと、『大乗』と云う語についてでしよか。

 初転法輪。仏教と間寛平は『止まったら死ぬ』。

美しい彼岸へ

2006年09月21日 | 坊主の家計簿
 9月21日

 雑費   タバコ         300円
      携帯電話       1011円
      散髪         2000円
 食類   水菜          100円
      ハンバーグ       149円
      あじ開き         75円

 合計              3335円
 9月累計           53314円

 携帯電話は最後のツーカー。え~、「お世話になりました」って、auと会社一緒やんけ。
 で、散髪しに行く。少し早いのだが、明日から彼岸法要だし、ショートカットはマメに散髪しとかんと。まあ、普段楽な分だけ散髪代が若干かかるわけやな。
 帰りにスーパー寄ったら無茶苦茶美味そうな『あじの開き』が半額の75円で売ってて、っちゅうか、定価の150円でも安いくらいに美味そうだったので即ゲット。しかし、晩ご飯には同じく半額で買った『豚バラ巻きハンバーグ』を食す。こっちの方が足早そうやし。

 最終追い込み御文の練習&最近真面目な筆ペン練習をやって、報道ステーションを観てたら特集で『里に熊が出没』っちゅうのをやってた。番組に出て来た熊は『月の輪熊』だが、凶暴で強そうだ。とても私に勝ち目はなさそうだ。やはりウイリーウイリアムスは強い。あれは確か『月の輪熊』でなく『ひぐま』だったはずだし、『ひぐま』の方が当然強そうだ。そしてそのウイリーウイリアムスと引き分けた猪木もやはり強い。借金がなければハルクホーガンになんぞ負けるわけがなかったのだ。猪木は強い。よって猪木なら『月の輪熊』ぐらい簡単に勝てるだろうが、やはり猪木以外の、いや、猪木と前田と藤田と中西以外の日本人では熊には勝てないだろう。
 その熊がやはり里に降りて来たら怖いわな。っちゅうか、熊って喰えるのだし、確か漢方薬にもなったはずだしビジネスチャンスでもあるのだが。。。
 まあ、熊が里に降りて来るのは色々な事情があるのだろうが、やっぱし山が人間のものになってしまった、っちゅう事が大きいのでは、と考える。原生林ってどれだけ残って居るのだろうか?大阪では野良猫はみかけるが、野良犬はみなくなった。そこまで管理が行き届いて来て、そのうち『野良アリ』とか『野良ごきぶり』とか、首輪をしてない昆虫類は見つけ次第『管理』されていくようになるのだろうか?

 国家・国旗に対する強制に対する違憲判決が出た。まだ地裁だが。(http://www.asahi.com/national/update/0921/TKY200609210287.html
 当たり前と云えば当たり前の判決なんだが、しかし注意をしなければならない。判決の中で裁判長は『日の丸や君が代が皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきた経緯に言及。』(先のソースより)したらしいが、これは要らないのでは?逆にこれで叩かれる可能性もある。そうではなくあくまでも『思想・信教の自由』だろう。日本には軍国主義が好きな人も居る。日の丸・君が代にそういう意味も含めて敬意を払っている方々も居られる。
 また、例えば「なら、新たな国旗・国歌を作ればいいだけではないのか?」と、靖国問題で語られる『新しい追悼施設』の問題と同じになる危険性を孕んでいる。
 小泉(まだ総理)氏は【「法律以前の問題じゃないですかね、人間として国旗や国歌に敬意を表するのは。人格、人柄、礼儀の問題とか(だと思う)」】(http://www.asahi.com/national/update/0921/TKY200609210382.htmlより)と語って居るが、別に私は総理大臣から『人間』として認められて『人間』として存在していないので、大きなお世話だ。
 例えば今回の裁判を提訴した方々が「君が代なんて歌ったらダメです。あれは軍国主義の歌で、天皇崇拝の歌です。みんなで一緒にインターナショナルを歌いましょう!」でも私は拒否するし、また何度も何度も何度も何度も書きなぐっているが、ボランティアや社会貢献を強制されるのも真っ平御免だ。

 色んな意味で『管理』が進んでいる。自然に帰ろうとしている経過中の山は『荒れた山』になる。
 教師の云う事を聞かない人が学校に居るなら『荒れた学校』になる。ちなみに私も小学校時代から教師に暴言を吐いてたし、教師に対して暴力を振るった事もある。んが哀しいかな小学生。。。ボロ負けだったが。。。
 ん?『管理』。
 報道ステーションが終わって筑紫のニュース23の特集で『ひきこもり放置国家』と日本の事を云ってた。
 え~。。。何が悪いのでしょうか?そうやって、部屋に引き蘢ってテレビを観てる方々を追い込んで何が楽しいのでしょうか?
 労働者である私は当然「エエ歳してんねんやったら働かんか、この道楽者が!」と酔っぱらったオッさんとしては言いたいのだが、そんなもんは私のワガママだけの話。確かにニートや引き蘢り状態にある方々は傲慢な方々だろうが、そういう状態の方々に対して「この道楽者が!」という私も傲慢だ。

 『管理』。
 山を管理して、管理する人にとって都合の善い山にする。
 教師・生徒を管理して、管理する人にとって都合の善い教師・生徒にする。

 『善人には居場所が与えられ、悪人は居場所を奪われる』とは恩師の口癖。
 無条件の救い。簡単な言葉だが、無条件にいかなる他者をも尊敬しなければならない。

【いのちにはいのちの体系(法)があります。それは決して老少善悪を選ぶものではありません。それ故、本願を生きる者にとって善悪との組み討ちは必然といわねばならぬのであります。】(藤元正樹『ただ念仏のみぞ』47ページより)

 
 と、ここまで書いてタイトルを『美しい彼岸へ』と書いたのだが、え~。。。御文頑張ってきます。職分やし、やっぱしちゃんとせなあかんし、聞いて下さる方々も居られるし、私はよゐこなので、例えば小泉氏のように「心から」を「ころころから」と噛んだりする事はよゐこの私にとってはあってはならない事であり、私が私自身の居場所をなくしてしまって落ち込んでしまう事であり、やなぁ。。。
 だいたい、御文はなんで漢字とカタカナで書いてあるねん。いや、漢字はええねん。でもカタカナなんぞ舶来の言葉を表記する場合に使われる表記であって、愛国者の私がなぜそんな舶来表記に魂を売り渡さなければならないのか。蓮如は売国奴だ!いまだに御文をカタカナで表記している大谷派も売国奴だ!と、すっかり彼岸法要前で胃が痛くなってる私は他人事、すなわち自分自身に対する信頼を失い、他人からの評価に自分を売り渡してしまって、他人のせい、あるいは『今居る私』ではなく『他人からの評価に魂を売り渡している私』になってしまって、歴史の事実すらも変えてしまう様な事を考えたりしてしまっています。ちっちぇヤツだ、私は。

 そういや、何かに『彼岸とは、本当の自分に出会える場所』とか書いてあったな。
 と、若干慢心する事によってしか落ち着けんっちゅうのは、やっぱり小さいなぁ。。。

【いのちにはいのちの体系(法)があります。それは決して老少善悪を選ぶものではありません。それ故、本願を生きる者にとって善悪との組み討ちは必然といわねばならぬのであります。】(藤元正樹『ただ念仏のみぞ』47ページより)

『美しい国へ』

2006年09月20日 | 坊主の家計簿
 9月20日

 食類   たまご       198円
      納豆3        78円
      くうしん菜     128円
      ちくわ        88円
      むきエビ      163円

 合計             655円
 9月累計         49979円

【それでは、アーナンダよ。ヴァッジ人が、しばしば会議を開き、会議には多くの人々が参集する間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。】(岩波本『大パリニッバーナ経』11ページより)

 タイのどこが仏教国やねん。。。と、「国王の意思ではないか?」と噂されるタイの軍事クーデターのニュースを観ながら思う。
 ついでながら、タイにはタイに伝わった仏教があり、日本には日本に伝わった仏教があり、またそれぞれの地で歴史を重ねて来た経緯がある。当たり前ながら。で、それは当然同じ『仏教』の名であっても違う『現われ方』である。

【偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
 反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いをなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。】(岩波本『スッタニパータ』195ページより)

 タイ仏教の観点から日本仏教を決めつける事は修行が足りんのではないのか?逆もしかり。


 と云う事でわが日本。
 『日本は天皇を中心とする神の国である』(森喜朗)
 という認識はやはり分析力としては正しい。
 だが、その日本は、アイヌ民族を侵略&同化し、琉球民族を侵略&同化する日本である。また、旧植民地時代に日本に来られた方々も居る。当然、旧来云われて来た『日本人』ではない。また当然な話だが天皇は侵略者ではないのか?大昔に天皇に侵略された方々の末裔も当然居るのではないのか?
 仮に天皇家が万世一系であるとして、そういう血統を崇め奉らなければならないいわれは何処にあるのか?『日本人のアイデンティティ』等とも聞くが、その『日本人』も変わって来ているのであり、また、天皇は神主であり、宗教者であり、仏教徒である私にとっては異教徒である。
 天皇は『天皇教』として独立の一宗教法人として、天皇家を崇め奉る人達と共に『万世一系』や『男系男子の染色体』にこだわればイイだけの話だ。ちなみに天皇家が使う内延費は3億2400万であるらしいが、阪神の今岡の年俸は3億3000万らしい。天皇家は今岡より年収が少なかったりするし、え~。。。例えば仮に天皇&皇太子に結婚式や、葬儀等の冠婚葬祭をやってもらった場合に幾ら包むのであろうか?また『天皇教』として組織にした場合に一体幾ら稼ぎ出す事が出来るのであろうか?

 『美しき日本』と云う。その場合の『美しき』とは『穢れ』の部分を視ない『美しさ』なのであろうか?
 例えば『自主憲法』と云う。その場合の『自主憲法』とはあくまでも『進駐軍の意思でなく、日本人の意思によって作り出された憲法』とか云う意味なんだろうが、なら、何故アメリカの都合のイイ様な形での『自主憲法』なのだ?
 あるいは『愛国心』と云う。その場合の『国』とは当然わが日本なんだろうが、その場合なら当然アイヌ民族の自主独立性を認めた上での話でないとおかしな話だし、また琉球民族や、旧植民地出身者の自主独立性を認めた上での話でないとおかしい。『日本人』の全てでなく、日本人の大多数かも知れないが『一部』である『日本民族』だけの愛国心はおかしい。また、『日本民族』と云っても様々な宗教をもたれた方々が居られるのであり、例えば神道や、仏教のみが『習俗』であると云う事は、日本の未来を否定した事ではないのか?
 
 とは云え、憲法改正に向けた準備については別に批判しない。主権在民であり、少し問題があるとはいえ選挙制度があり、そこから選び出された国会議員が居て、国民投票があるのなら、それは結局『国民』の議論が肝心要であり、安易な左翼が云う『多くの国民は愚民である』はおかしい。
 安倍内閣で『国民』が問われる事は、それこそ『国家と何か?』であり、『国民とは何か?』であり、『日本とは何か?』である。

 『美しい』と云う言葉は、若干の抵抗は残るが、そうキライではない。ただ、『穢れ』を排除した上での『美』なら、それは不完全な『美』でしかないのでないだろうか?本当の『美』とは『美醜』を包み込むような『美』であり、それは死を目前に控えた方々や、宗教をやっておられる方々や、あるいは神谷美恵子が確か書いてあったと思うのだがハンセン病患者等の隔離された方々が感じた様な『すべての存在がきらびやかに輝く』ようなものでしかなく、例えば先の大戦でもって日本が犯した戦争の都合の悪い部分を隠す事ではない。都合の悪い部分を隠す事は『美しい日本』を信じていないだけの話だけではないのか?日本は様々な罪があり、それも含めた上での『日本』ではないのか?『美しい日本』ではないのか?
 
 よって、私の『美しい日本』を酔った頭で思いつくままに。

 一 旧植民地下であった方々に参政権を与えるべきである。同様に日本に一定期間定住し税金を納めた方々に参政権を認めない事は『美しい日本』ではない。
 
 一 ホームレス状態にある方々や、様々な事情でもって生活苦に陥っている状態にある方々にあり助けを求めておられる方々を見放す事は『美しい日本』ではない。
 
 一 仮に『国際貢献』という名目や、『民主主義を伝道する』などの様々な大義名分があったといえども他国の人達を殺すような歩みを始める事は『美しい日本』ではない。
 
 一 様々な人生の歩みにより他人の殺してしまった方々に対して死刑をいう刑罰でもってその人を『殺す』法制度がある事はは『美しい日本』ではない。
 
 一 様々な思想・宗教をもたれた方々が居られる事を無視して、特定の思想・宗教だけを保護する事は『美しい日本』ではない。
 
 一 世界には様々な事情でもって貧困や病苦に悩まされている方々がおられる事を無視して、自国だけの安穏を願う事は『美しい日本』ではない。
 
 一 日本人には様々な性別がありながら、日本の象徴としての天皇に男系男子しか認めない事は『美しい日本』ではない。
 
 一 全ての日本人は国民として平等であるのならば天皇制はあきらかな矛盾であり、『民』と『皇』が分かれているような国は『美しい日本』ではない。

 【雑草という名前の草は無い】(昭和天皇裕仁)
 
 天皇は民間に降りて国民として、一宗教者として活躍すべきだ。

 
 どうでもエエけど、小泉氏は、最後で「ころころ」って言葉を噛みよったなぁ。。。

上座

2006年09月19日 | 坊主の家計簿
 9月19日

 雑費   タバコ           300円
      ヘンリー松山CD      1500円
 外食   かけ小           105円
 食類   チーズチキンロール     200円
      焼酎・芋仙人       1280円
      白ネギ           138円
      大根            148円
      チキンラーメン         1円
      ミンチ肉          184円
      レトルトカレー3      177円
      弁当            298円
 飲み代  坊主バー(スタッフ料金) 1200円
      プカプカ          900円
 古本   鳥山敏子『賢治の学校』    50円

 合計                6281円
 9月累計             49324円 

 ああ、やっぱし感じるのだが、戦後は左翼が正義だったんだ。
 っちゅうのは、かなりステロタイプやな。まあ、でも、そういう気分なんだが。。。
 まあ、でも、やっぱし『正義』っちゅうのはあかんな。議論にならん。

 天皇の代わりに、中核、革マル、ブント、連赤等を上座に置くだけならバカバカしい。
 まあ、勝手に正義の為に戦っとけ。
 協力する部分は協力するが、違う部分は批判するし。

 色んな宗教があるのなら、それを平座で議論すればいいだけ。

底下の凡愚

2006年09月18日 | 坊主の家計簿
 9月18日

 雑費   缶コーヒー        120円
 外食   餃子ラーメン焼き豚丼   619円
 食類   かき揚げタコ玉ねぎ    105円
      豪州純米ワンカップ2   200円

 合計               1044円
 9月累計            43043円

 仕事中、予測していた事だが、予測していた場所で渋滞。『日本一貧乏な渋滞』と命名。
 「お前等!そんなに吉野家の牛丼が喰いたかったわけやないやろ!!!見事にキャンペーンにのせられやがって!」と、若干激怒したのだが、まあ、3連休らしい最後の日に、「吉野家で牛丼が復活するらしいし、喰いに行くか?」で行列作って並んでみるのもエエ話かも知らんな。
 子「お父ちゃん、吉野家の牛丼ってそんなに美味しいの?」
 父「そうやで。吉野家の牛丼にな、紅ショウガをたっぷし乗せて熱々の緑茶をかけて喰ったら美味いねんで」
 と、行列しながら親子の会話もエエ話や。
 でもやな、国道の交差点前で渋滞されるとこっちは腹立つんや。しかも、吉野家、前より値段が上がってるやんけ。何でやねん。米国牛肉で、しかも吉野家みたいに大量に買い付けてる会社にとって、牛丼一人前辺り100円アップしとるのは単にこれを機会に儲けたろ、っちゅう話やないんか?あの牛丼一人前辺りに牛肉何十グラム使ってるねん。どういう原価計算しとるねん。今日一日でナンボ儲けてん?記念に手ぬぐいかなんか配ったらしいが、原価ナンボやねん。ぼろ儲けしやがって。

 そういや、昨日、晩飯作るのが面倒だったので近所の中華料理屋でチャンポン喰いながら『関西ウォーカー』を読んでたんだが、芦屋浜かどっかに『コンセプトは昔の大衆食堂』とか云うカフェが出来たらしい。
 はあ?昔の大衆食堂やと?それは『ザめしや』とか、『いも膳』とは違うのか?『いも膳』にはオッちゃんもしょっちゅう行ってるぞ。あそこのかき揚げはな、海老もようさん入ってるし、しかも130円のわりにデカイのが2個やし、激安でっせ。茶粥も美味いし、メシなんておかわり自由やねんぞ。
 しかーし!『コンセプトは昔の大衆食堂』とか云う気の狂ったカフェの値段は高い!
 しかも『隠れ家』らしい。この『隠れ家』というのは便利な言葉であって、要するに一等地でない場所に、家賃の安い、土地の安い物件に使うには最適な言葉であって、決して『辺鄙な場所』と言ってはいけないのだ。あくまでも『隠れ家』なのだ。『辺鄙な場所』とか言うと値打ちが下がるが『隠れ家』というと値打ちが上がる。一等地でなく、表通りに面して無くても『隠れ家』だからエエのだ。
 「このキチガイどもが。。。」と腑煮えくり返る私は『コンセプトは昔の大衆食堂』とか、『隠れ家』を理解しない流行遅れの人間なんだろうが、『流行中毒のキチガイ』にはなりたくないし、別にエエのだが、吉野家に行列作って並んでいる親子は許せるが、キチガイカフェに行く様なキチガイは許せん。お前等戦争始まる前から戦犯じゃ。長渕のコンサートに行くヤツ等&高遠菜穂子の講演会に行く様なヤツ等と同じく戦犯じゃ。
 同じく、例えば『元カメラマン』とかが「え~、雑誌の取材で色々な蕎麦屋を食べ歩いているうちに蕎麦の魅力に惹かれまして。。。」とかいってやな一週間のうちに4日ぐらいしか店を開けずに、しかも営業時間も短く、その分料金は高く、ざるで800円とか、しかも量は少なく、大盛り1200円で他店の一人前ぐらいの量で出しやがったりやな、『割子1200円』とかで、作務衣来て禅宗気取りの野狐禅バカが作った蕎麦とかやな、しかも『隠れ家』であってやな、そらボロ儲けでっせ。原価ナンボやねん。
 「私の蕎麦は芸術だ。」
 アホか?気が狂ってるねんやったら、黄色い救急車呼んだろか?そんなもんはやな、例えば夏の旅行で喰った橋村製麺所のうどんは芸術品やったし、花畑なんぞ『隠れ家』もエエ所であってやな。さぬきうどんを舐めとるやろ。お前等のはただ単に『芸術気取りの道楽』でしかなく、本当の芸術、っちゅうもんは生活に密着したもんじゃ。『民芸運動』をただ単に歴史的過去の遺物にしとるな。
 
 とは云え、こういう事を書きなぐりながら私も差別化をして居るわけだ。最近つくづく『私は自己肯定しか出来ない』と云う事が解って来た。差別化し、「俺はお前等と違うねんで」と、踏みにじった上での自己肯定。まあ、こうやって書いてる事自体がそうやな。
 「他人を見下す為には仏教ですら使ってしまう」
 とは、道場時代に指摘された言葉だが、ホンマにそのまんまやな。
 
 と、ここで黙ってしまう。沈黙してしまう事で自己防御→自己肯定→騒ぐ人を見下す。
 いいんじゃないだろうか?そういう在り方しか出来ないのなら、そういう在り方を指摘されたり照らし出されたりしつつ、「あ~、同じやな。。。」とか、で。

 家紋、家系。ナンセンスだ。特に仏教徒なら釈尊の弟子でしかなく、特に真宗門徒なら『釈』という『名字』、ある意味での『名字』がありながらでも、やれ大谷家だのなんじゃかんじゃ。『家』『血統』という非常に仏教徒にあるまじき事。当然差別の根源だし。

【それ、もろもろの修多羅に拠って真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、
『涅槃経』(如来性品)に言わく、仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ、と。略出
『般舟三昧経』に言わく、優婆夷、この三昧を聞きて学ばんと欲わば、乃至 自ら仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道に事うることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ、と。】(親鸞『顕浄土方便化身土文類六(末)』より)
 
 この『得ざれ』とは「する必要がなくなった」と教えて頂いたが、

【かなしきかなやこのごろの
 和国の道俗みなともに
 仏教の威儀をもととして
 天地の鬼神を尊敬す】(親鸞)

 の『和国の道俗みなともに』の中に親鸞自身も当然含まれていると感じる。他人事で親鸞は書かないと思うし。
 そんなもんだ。そんなもんだから、彼岸を目指すのだろう。
 
 「私は差別的な人間ではありません」
 なんかより遥かに、何か差別的な事柄に縛られている方が、そういう『業』を持って居る方が、その事を機縁に出来る可能性があるのでは?と。

【罪障功徳の体となる
 こおりとみずのごとくにて
 こおりおおきにみずおおし
 さわりおおきに徳おおし】(親鸞)

 とことん見捨てない親鸞っちゅうのは、やっぱし好きやなぁ。。。すんごいなぁ。。。

 どうでもええけど凡愚、値上げしたんか。確か前に喰いに行った時は800円違うかったか?900円って、おまえ、俺が最近よく行く焼き肉屋で5人前の肉喰えるぞ。

汚れの少ない『真宗僧侶』?

2006年09月17日 | 坊主の家計簿
 9月17日

 雑費   南海往復         400円
      酸素水          120円
      コロッケ          40円
 外食   チャンポン        630円
 食類   カップ麺          79円
      スライスパイン       79円
      野菜ジュース2本     356円
      発泡酒          175円

 合計               1879円
 9月累計            41999円

 「ここには夢はない。あるのはだんじりだけだ」
 という場合に、『夢』と『だんじり』が別ならともかく、『夢』と『だんじり』が同じならば問題がない。
 映画『UDON』の中で主人公のユースケは讃岐を捨ててニューヨークへ旅立ったが、ここには仕事の都合で地元を離れていてても祭になれば必ず帰って来る。
 それが泉州。一年で最大の行事がだんじりであり、だんじりが終わればまた来年のだんじりに向けて一日が始まるという泉州。泉州には讃岐の様に素敵なうどん屋はないが、だんじりがある。讃岐には約700軒(一説には900軒?)のうどん屋があるように泉州の各町の殆どにだんじりがある。
 と、云う事で泉州だんじりの始まりである、岸和田の浜と、春木のだんじり。
 今までは岸和田の浜ばっかり行ってたので今年は春木へ。まあ、今年から日程を土日にしたので岸和田は混むだろうし。例年、平日でも人で一杯なのに土日になったら大変でっせ。落ち着いて観てられへん。&春木の方が喧嘩強そうやし。
 ちなみに通称『岸和田だんじり』とは、昨日今日開催のだんじりの事なんだろうが、岸和田の全てのだんじり祭が今日開催されるわけではない。あくまでも『岸和田の浜』と、『春木』だけだ。なので例えば『岸和田=清原』だろうが、清原の実家辺りのだんじりは今年で云うと10月7日、8日に開催される。
 で、同じ岸和田でありながら『岸和田のだんじり』というと『岸和田の浜』の事をよその地方から来た人はだいたい云ってしまう。
 なので例えば清原に「清原さん、今日は岸和田のだんじりでしたね。」とか云うと清原は機嫌が悪くなるだろう。下手すると殴られるかもわからない。それは『真宗=本願寺』というのと似てるかも知らん。本願寺を造ったのは覚如であり、血統であり、親鸞の弟子連中、例えば一番弟子(?)だった真仏の高田派は本願寺と違うし。仏光寺派なんて蓮如は大嫌いなんだろうし。
 まあ、別に殴られはせんやろうけど、やっぱし繊細な問題でっせ。

 と云う事で春木へ。
 どうしても今まで行ってた通称『岸和田だんじり』と比べてしまうのだが、やっぱし通称『岸和田だんじり』は引く人が多いわ。スピードの差はその辺やな。車でいうと排気量が違う。んが、やっぱし春木の方が喧嘩強そうやったな。
 見物客もそれほど多くなく、じっくり観れたし、近くで観れた。
 ついでに2カ所の町内の昼の部の終わりに立ち会う事が出来た。夜の部は灯をつけてゆっくりと走る。なので、引く方も昼の部に命をかけているのだろう。
 挨拶と反省会。それぞれの『頭』クラスが、だんじりに登って挨拶する。
 「みんな、今年のだんじりも色々あったけど、俺は本当に最後のストレートをみんなと一緒に走ってて本当に何もかも素っ飛んだ。ありがとう!」
 あるいは横の人を指して「こいつとも色々あったけど、でも、今年も無事にみんなと一緒にだんじりを引く事が出来て俺は本当に幸せや」
 すいません。。。泉州弁に慣れてないので上手く表現出来ないが、そんな事を泉州バリバリの言葉で云って感動で泣いたりしてた。で、挨拶が終わると、そいつを胴上げ。以下、それぞれ挨拶した人達を同じく胴上げ。みんなで挨拶する人を呼ぶ為にその人の名前を呼んで挨拶させる。で、胴上げ。

 だんじりは別に五穀豊穣の祈願ではないと思う。だってあの人等が神社で願う事は「今年のだんじりは死者が出ずに無事にだんじり祭が出来ますように」なんだろうし。
 また、「あれはガス抜きや」とも当然云われる。まあ、そういう見方も出来るんだろうが、昔と違って今はガス抜きの為の事等幾らでもある。カラオケでも阪神でも。
 あるいは鈴鹿8時間耐久レースでも。プロじゃないから4時間耐久の方か。
 岸和田の浜&春木の人間は、明日からまた来年のだんじりに向けて一日が始まる。

 帰って来て、テレビ観てたらTBS系で『僕たちの戦争』というテレビドラマ。
 え~、きっと芸大生に1000万与えたら、同じ企画でもっと素晴らしいドラマを作って呉れまっせ。それくらい下らん。ホンマにあかんテレビドラマ。
 いわゆる『戦争もの』には非常に評価基準を低く設定している私でさえ、「2時間返せ!」というドラマ。クソしょうむない。
 
 んが、ドラマの設定である『タイムスリップ』。
 釈尊が今の日本にタイムスリップしたならば、私はどう観られるだろうか?
 親鸞が今の日本にタイムスリップしたならば、私はどう観られるだろうか?

 妹尾義朗達の新興仏青で林霊法と妹尾義朗との間に議論があった。妹尾義朗は「釈尊へ帰れ!」か。まあ、原始仏典が出始めた時やし、解りやすい。浄土宗のエリート僧侶でもあった林霊法は「それは仏教の歴史を否定する事だ」と。
 私は林霊法の方が正しいと感じる。仏教には伝来して来た歴史がある。伝統がある。伝統を支えて来た人達が居る。それ等を無視して、つまり『時代』を『今』を無視しての仏教なんぞ私には意味がない。
 私にとっての仏教の流れは、原始仏教→大乗・無戒真宗である。堕落の歴史とも云える。でも、堕落した人達をも救おうというのが釈尊ではなかったのか?
 梵天勧請において、梵天が釈尊に対する勧めは『汚れの少ないものが退歩しています』であった。しかし釈尊は

【ついに、世尊は梵天の懇願を知り、また生ける者たちに対するあわれみの情から、さとった者の眼で世間を観察された。
 さとった者の眼で世間を観察されると、生ける者たちにして、汚れの少ない者たち、汚れの多い者たち(中略)の者などがいるのを、世尊は見られた。】(律蔵・大品より。但し講談社原始仏典1『ブッダの生涯』からの引用)

【具縛は、よろずの煩悩にしばられたるわれらなり。煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやますという。屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり。これは、あき人なり。これらを下類というなり。「能令瓦礫変成金」というは、「能」は、よくという。「令」は、せしむという。「瓦」は、かわらという。「礫」は、つぶてという。「変成金」は、「変成」は、かえなすという。「金」は、こがねという。かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとしと、たとえたまえるなり。りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいを、ふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまうは、すなわち、りょうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとえたまえるなり。摂取のひかりともうすは、阿弥陀仏の御こころにおさめとりたまうゆえなり。】(親鸞『唯信鈔文意』より)

 しまった。。。引用してたら力尽きた。。。
 でも、親鸞という歴史によって私に近づいた。

【仏教の歴史というのは、一面から言うと、釈尊にそむいてきた歴史です。あるいは、親鸞聖人にそむいてきた歴史だと言っていいと思うのです。そむいたものが、そむいたという懺悔を通して、本来の命を回復する。それを歎異精神といいます。(中略)そのような歎異精神によって、釈尊や親鸞にそむいた現在の仏法をほんとうの仏教に回復していくという、歴史的に重大な働きを担っているのが同朋会運動です。】(訓覇信雄『死して生きる』より)

 と云う事で、引用しまくってバテバテ。。。

学仏大悲心

2006年09月16日 | 坊主の家計簿
 9月16日

 外食   かき揚げ蕎麦         326円
      焼き肉メシビール      2373円
 食類   無添加ワイン         438円

 合計                 3137円
 9月累計              40120円

 今日は法事→忙し→疲れた→御褒美と云う事で焼き肉メシビール。
 一切調理せず。なので台所は綺麗なので今日は流しを洗わんで済むわけや。なんせ台所は一人暮らしにとっての生命線でもあり、今日の疲れと明日への活力を養う場の根本だ。
 と、当然こんな時間から酔っぱらってます。しかも今日の焼き肉はメシメインだったので帰りにワインを買って飲んでいるのだが、ワインは醸造酒なので酔うのだ。酔い方が蒸留酒とは違って低い所で酔っぱらってくれるのですぐに酔う。まあ、その分体にはエエのだが。。。
 
 焼き肉屋には人生交差点を持って行った。

 【「東京の大学でしっかり法律を勉強して、大きな人間になって土地さ戻って来い。その時のおまえは、男と心中した母親を許してやってるはずだ。母親も女だったんだ。ということがわかってやれるはずだ。いいか、人間の弱さをわかってやれる強い人間になって戻って来い!」】(人生交差点『腐敗』より)

 人生交差点や、嫌われ松子の一生や、山本周五郎の一連の作品や、飲み屋等で会う人達や、お参り先で出会った人達の人生。
 感情に刻み込む。彫刻刀で掘り進めるみたいに刻み込む。
 差別の話でも同じ。この間の坊主バーなんて『ド!在日の日』。私は二人とも知ってたが、別に無理矢理『同じ在日だから』と引き合わす必要もない。また同席しても『同じ在日です』と紹介する必要もない。ただ、話の流れで二人が気づいただけ。そこからの話もイチイチ憶えていない。当然ベロンベロンだったし。でも、感情に刻み込む。色んな被差別者から聞いた話を感情に刻み込む。

 もっともっと哀しくなれる強さが欲しい。
 もっともっと弱くなれる強さが欲しい。
 突っ張るのではない。底から突き上げる力強さ。生命のたくましさ。

 【今、いのちがあなたを生きている】(真宗大谷派宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマ)

 突っ張る為に誰かを見下す。それを固定化する。そんな差別の上に成り立ってでしか生きて行けないのなら、そんな哀しい人生はない。誰かとの比較でしか生きて行けないのなら、そんな哀しい人生はない。
 でも、そういう哀しい人生を生きている。まぎれもなく今現在生きている。
 矛盾があるからこそ力になる。矛盾は力だ。

 
 あ、マイボス・マイヒーローも最終回。

 で、見終わったが、よう泣いてもうた。。。はよDVD出えへんかな。何回かしか観てないし。