坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

バリカン

2007年05月31日 | 坊主の家計簿
 5月31日

 汁タコ            210円
 タバコ2           600円
 ボトルチケット      14000円
 飲み代           4650円
 回数券           3700円

 合計           23160円
 5月累計        159543円

 久々の休み。
 定例Macユーザーの会。
 っちゅう事でへたばってます。

排除の論理

2007年05月30日 | 坊主の家計簿
 5月30日

 のり弁            350円
 タバコ2           600円
 中華ビール         2500円
 プカプカ           800円(他チケット使用)
 ラーメン大盛り        750円
 ドグラ・マグラ        600円(ボトルチケット使用)
 赤道             600円

 合計            6200円
 5月累計        136383円

 ド疲れ仕事→仏青。
 のちに朝まで飲み歩いて、毎度の電車で寝てもうて、帰って来て、はよ寝て今晩に備えんとアカンのだが。。。

 私は批判と云う事を大事にしている。厳密にいうのなら『批判出来合う場』を大事にしたい。批判出来合う関係でもエエ。
 それは真宗仏教を学ぶようになってから増々『大事にしなければ』と思うようになった。
 当然、真宗仏教だけの問題ではないのだが。。。

 誰かが声を挙げる。
 その声に対する声がある。
 例えば安倍内閣が声を挙げる。
 それに対する批判がある。
 そしてまたその声に対する批判がある。
 そうやって議論は深まる。

 個々の人達のそれぞれの声がある。
 その声はどんな声でも大事にしなければならないと思う。
 そして、その声に対しての反論の声も同じく大事にしなければならないと思う。

 「私の意見は正論である。よって、他の意見は認めない」
 「この場は私の場だから異論は認めずに削除する」
 とは、単なる『自信喪失』しているだけである。
 自我拡大(エゴ)しか認めないだけの話である。

ド疲れ

2007年05月29日 | 坊主の家計簿
 5月29日

 缶ココア           120円
 チーズパン          120円
 公文学費          4200円
 タバコ            320円
 カフェラテ           90円
 打ち上げ1         6000円
 打ち上げ2         7000円
 ドグラマグラ        1100円
 タクシー          6170円

 合計           25120円
 5月累計        130183円

 仕事→藤場先生『名告り』講義→打ち上げ1→打ち上げ2→クールダウンのドグラマグラ
 で、タクシー帰宅。
 ド疲れ。

『美しい国』と『酔っぱらい』

2007年05月28日 | 坊主の家計簿
 5月28日
   
 食類   寿司           200円
      焼きイカ         100円
      発泡酒          175円
      キュウリ          98円
      ピーマン          76円
      ふりかけ          98円
      納豆            48円
      もやし           49円

 合計                844円
 5月累計           105063円

 ♪もーい~くつねーる~と
  つ~ぎのや~すみ

 29、30と。クククク。。。
 あと二日やんけ。あと二日寝たら次の休みやんけ。
 ただ、「寝てるだけ」ではなく、仕事&外出か。
 今日から5連ちゃん外出だったのだが、急な通夜が入ったので却下。え~と、今日は原始仏教の学習会か。厳密に云うと「いちから学ぼう仏教学」か。

 っちゅう事で、通夜までの時間を家事しつつテレビつけてたら「なんじゃ!」と大臣の自殺(?)もビックリしたのだが、『消えた年金記録』(http://www.asahi.com/politics/update/0523/TKY200705220441.html)ってなんやねん。そういえば何かそんなんがあった気もするのだが、ちゃんと観てなかったし。今日観てビックリ。
 一応、私は大丈夫なんかな?そのぐらいの時にはまだ年金払ってなかったし。まとめて払った分の領収書も一応保管してるし。&その後の一括払いの分も通帳記入してあるし。

 けど、あれは大丈夫なのか?っちゅうか、絶対大丈夫ではないんやろうけど。「証拠がない場合は第三者機関で判断します」とからしいが、まあ、これ(http://www.asahi.com/politics/update/0525/TKY200705250392.html)では「訴訟を起こす」とかになってるけど、儲かるのは弁護士だけか?膨大な件数でっせ。対応出来るとは思えんのだが。。。

 それに大阪のオッさん&オバはんにあんな理屈は通用せえへんと思うぞ。
 「国が払われへんねんやったら、お前が払え」やろ。
 「面倒の手間代は100万で許したる」みたいな話やろ。
 社会保険庁の役人さんって、まあ、エリートでんな。世間相場のエリートではないかも知れんが公務員やし。公務員は警察を除いたら(警察は権力に弱い)、基本的にかちこみに弱いぞ。
 今はやらんが、以前に役所に行く時は昼間に行ってやな、酒臭い息で「ああ、もうややこしい事よう解らんから、はよやったれや」でだいたいの用件は済むぞ。
 公務員にとって『トラブル』はアカンねんやろうし、『トラブル』が好きな兄ちゃん&ネエちゃん&オッさんとオバはんなんぞ大阪には腐るほど居てるぞ。例の村上氏が阪神買収の時なんぞ、大阪のテレビでは「ようするに村上さんがさらわれるという事でしょ?」みたいな事を平然とテレビで流す土地柄でっせ。知らんぞ、ホンマに。

 だいたい、大阪の兵隊は弱かったらしい。多分、個別の喧嘩なら結構強い街なんかも知らんが、「なんでお前等の云う事を聞かなアカンねん。」意識が強かったんやと思う。これはきっと遠因に『関ヶ原』があったからで、関ヶ原の時に毛利が動き、吉川が動き、小早川が裏切らへんかったら関ヶ原では勝ってたはずや。ついでに島津も動けへんかった。その島津と、毛利が中心になって明治維新をおこしてやな、今度は天皇を東京にもっていきやがった。この怨みは大阪人の大多数は忘れていない。
 しかも、長島の天覧試合のホームランはファールやろ。村山だけでなく大阪人の大多数はいまだに「ファール」と訴え続けているし、『巨人=体制(=徳川→薩長)』として恨んでるで。
 その事を、今回の年金でも忘れたらアカンで。

 しかし、「証拠がない限り、その事はなかった」っちゅうのは凄いなぁ。。。
 いや、昨日、小林よしのり『戦争論』を読んでて改めて感じたのだが。

 何度かあった人、ついでに私が働いていた作業所の創立メンバーでもあった在日の人のお父ちゃんは『珍しく』強制連行で連れて来られたらしい。『珍しく』と書いたのは、確か今の『在日コリアン』の1%ぐらいだからだ。これは簡単な理屈らしい。『一人だから帰れる場所がある』事らしい。家族ぐるみで来たわけちゃうし。
 で、その人に証拠があるかどうかなんぞ知らん。知ったこっちゃない。知ったこっちゃないから、その証言を信じる。人間ならやりそうやし。別におかしな話ではない。
 当然、中には偽証もあるだろう。だが、偽証を統一する事は結構難しい気がするのだが。。。
 &、戦時中の『日本人』に対する対応や、あの当時の大本教に対する弾圧(http://www.oomoto.or.jp/Japanese/jpHist/jiken.html)等からして別におかしな話ではない。
 そんなもんやろ、人間っちゅうのは。特別に『日本人だけが悪かった』とは思わんが。&特別に『日本人だけが正しかった』などとはクソ程にも思わん。

 「凡夫とは縁さえあれば人さえ殺してしまうような自由な存在なんです。」とは某先生から聞いてかなり衝撃を受けてかなり世界観が広くなった言葉なんだが、そういうもんやろ。

 人が最後に求めるものは、物欲ではなく宗教的なもんだと聞いた事がある。ん?「読んだ事がある」なんかな?
 まあ、端的に『宗教的差別』か。物欲(金)での差別でなく、宗教的差別、優越感。
 『宗教的』と書いたのは、別に『宗教』だけではなく『ある特定の思想』でもだろう。
 ある特定の思想とは、今でならヒューマニズムとかが差別しやすいな。ヒューマニズムによっての差別は『イラク人質事件』が象徴的だな。あるいは神谷美恵子と皇室との関連でもエエか。
 大谷派がヒューマニズムや人道主義にのっかっての『貴い御坊様像』という非常に陥りやすい事ではなく、あくまでも『自己を問う』『自他差別を問う』としての『社会運動』『平和活動』だけに特化して貰いたいのだが。。。って、また『他人事にしてる』って怒られるのだろうが。

 明日はそういう集会であるはずだ。『集会』ではないか。でも、『集会』みたいなもんやろ。『本名宣言に学ぶ』やねんし。ん?正式タイトルは違うかったかな?酔っぱらってるし面倒やし、まあ、別にエエか。

 『美しい日本』
 つまり『穢れを祓いて清めたまえ』か。
 祓われる者は『異物』
 ある特定の共同体幻想に従わない人達。

 あるいは、「日本軍は悪くなかった。」
 別に『右派系』だけがそうではない。左派だってそうだろうし、私は常々「私は悪くない」と固く信じ込んでいる。

 ある時に、坊主道場で食堂で掃除をしてたら恩師が「うわ!これ見て見て!」と云い出した。私はその日の食事作りに関する責任者だったので当然忙しい。「またなんかアホな事を云い出しとるなぁ。。。」やったのだが、一応見てみると紫色のカビだらけのウドンだった。私は当然忙しいので放っとく。冷たくされた恩師はしばらく黙り込む。
 しばらく経っていきなり語り出す。
 「いや、人間って凄いなぁ。。。俺はあの腐ったウドンが出て来た時に真っ先に○○君(一番どんくさいヤツ)を疑った。『きっとあいつのせいや』って。自分がやったかも解らんという可能性については全く考えなかった。」

 そう、私は悪くないのである。悪いのは『あいつら』であり、決して私ではない。
 ただ、そういうエゴ存在を問題視出来る人が居てる事は確かである。

 とはいうものの、私の日常は「私は悪くない」だけである。
 その延長が、「日本軍は悪くない」なんだろう。
 「日本だけが悪いわけではない→みんなやってるじゃないか!→俺だけを責めるな→俺だけを穢れにするな→俺は穢れてなんかいない!」なんだろう。

 「ねえ、母さん。僕だけが悪いの?」
 「あなただけが悪いわけではないのよ。でも、あなたも悪いの」

 「私は悪くない。悪いのはアイツらだ。確かに私も悪かったかも知れん。でも、それはアイツらが先に居たからだ。」
 お前は誰やねん。誰の人生を生きとるねん。
 
 『人』がどんどんどんどん奪われる。忘れ去られて冒涜される。『美しい国』
 「そりゃ、しんどいぜ。」と酔っぱらいは感じる。

 っちゅう事で、かなり酔っぱらってまふ。

英雄史観と唯人(ただびと)史観

2007年05月27日 | 坊主の家計簿
 5月27日

 外食  とんこつ唐揚げ小ライスセット    800円
 食類  ウコン茶30           2040円
     黒カレーうどん2          198円
     ノンフライラーメン5        197円
     コンニャクゼリー          238円
     豪州牛肉              312円
     焼そば麺               18円
     もやし                45円
     発泡酒               175円
 雑費  ブックオフ3冊          1450円

 合計                   5473円
 5月累計               104219円

 腹が減った(ウエストがヘッコんだ)。
 前にパンパンだったジーパンが余裕だし、ベルトも一番キツい穴も近し。っちゅうか、入らん事もないようになった。
 のでトンコツ&牛肉復活。

 天気もよかったので仕事が終わった後にショートツーリング。まあ、バッテリー補給も兼ねてだが。トンコツラーメンのセットも喰って、ドンキホーテで買い物も帰りにしたのだが、途中でブックオフがあったので入店。初めて入る店だし、荒らしとかんと。
 店内を物色しているとセール中で単行本が500円均一だった。50円の割引券もある事やし、3冊購入。
 信楽峻麿 『真宗の大意』
 宮崎学 『地獄への道はアホな正義で埋まっとる』
 小林よしのり 『戦争論』

 信楽先生のこの本は「買ったかな。。。」やったのだが、「まあ、ダブっても誰かにあげたら済む話や」っちゅう事で購入。どうせ買わんとアカン本やし。
 
 宮崎学の本はタイトル買い(笑)ナイスでっせ(笑)
 死刑廃止の弁護士、その安田弁護士が逮捕された時の支援話らしい。
 そういや、この二人は顔が似ている。安田弁護士は最近例の事件がらみでよくテレビで見掛けるのだが「やっぱり似とるなぁ。。。」と。
 まあ、遠藤誠弁護士亡き後に「誰から憎まれようが関係ない」みたいな姿勢は評価出来る。読んでないから解らんが、任侠道の宮崎学もその辺に惹かれたのかな?例の本村氏に関する事も書きたかったのだが、今度。ただ、やはり今回もテレビ報道しか見ていないが、本村氏は死刑判決が下ったら「死刑を執行しないで下さい」と云い出しそうな気がする。直感なんだが。誠実だし、クールだし、安田弁護士等の左翼がかった死刑廃止論ではなく、単なる「人命を大切にしたい」という動機で。今回も犯罪者の再犯について語られていて諸々考えさせられたのだが、そういう面でも直感的にあの人柄を見てて感じた。

 で、小林よりのり『戦争論』。
 小林よしのりは結構読んでいるので、これも読んだかどうか覚えていなかったのだが、昨日のコメント欄でもお勧めだったし、購入。
 おまけが付いていた。「ブックオフ、ちゃんとチェックせんかい!」なんだが、前の本の持ち主が勉強したメモがあった。

 小林よしのりは漫画がやはり上手い。その上手さもあり、ちゃんと読ませる。
 だが、やはり基本的には反動だな。『反動右翼』というレッテル張りも如何なもんかと思うのだが、やはり反動的な感じを受ける。

 ちなみに私も「戦争で日本だけが悪かった」とは思わない。『戦争論』の中に書いてある通りに先の戦争での一番の集団虐殺は原爆だ。
 また、東京裁判についても、あれは単純に「勝った国が負けた国を裁いただけ」である。それ以外の何ものでもない。
 だが、私は日本人である。ここからが小林よしのりと違う。私は日本人であるが故に、「日本がやった事」を主に考える。
 「他の国だってやってるじゃないか?」では自己責任が問えない。
 確かに他の国だってやった。アメリカは変わらず暴挙を続けて居る。当然、それは告発しなければならない。アメリカに集団虐殺された国として告発しなければならない。それも日本人としての役目である。

 小林よりのりは漫画家のせいか何なのか知らないが、英雄が好きみたいである。文学といっても構わないかもしれない。
 確かに戦争の中で英雄が生まれ、

 【戦争の中で愛と勇気が試され
  自己犠牲の感動が生まれ
  誇りの貴さを思い知ることもある】(『戦争論』37ぺーじより)

 なのかも知れない。
 私には必要ない。
 それは

 【「人道主義的な志こそが彼らが追求したものであり、人質から解放され、帰国した後は、英雄として待遇されてしかるべきである」】(『イラク「人質」事件と自己責任論』141ページより)

 と同じである。
 御国の為に戦い、亡くなられて行かれた方々を英雄視するつもりはない。当然、私は死刑廃止の立場だし、犯罪者の人権を大事にするので例えA級戦犯だろうが、同じ人として観る。それぞれがそれぞれの人生の中でたまたまそういう状況になっただけの話である。高遠菜穂子氏等を英雄視扱いしないのと同じく、『戦犯』を英雄視扱いしない。唯の人である。

 前の持ち主のメモにもあったが
 【自分を一番自由にしてくれる束縛は何か?
  それを大事に思う心を育てよう】(『戦争論』378ページより)

 徳川家は浄土宗だったりする。
 また、確か親鸞の弟子(この言葉が正しいかは別にして)にも結構武士(侍)が居たはずだ。
 武士(侍)とは人を殺す仕事である。「殺す事もある」という言い方も出来るだろうが、基本的には人を殺す『職業』だろう。
 それは当然、『罪』である。今よりももっと宗教観が強かった時代において、つまり漁師、猟師すら『穢れ』とされた時代であった。
 親鸞は武士(侍)に対してどういう接し方をしたのだろうか?この辺は不勉強なんだが、決して差別はしなかったと思う。きっと『同じ人』として接したんだと想像する。同じ凡夫(唯の人)か。

 私は天皇制に反対なので当然『天皇だって凡夫だ。唯の人である』の立場である。
 靖国神社の遊就館には『靖国の英霊達』として写真が展示してあるが(ちなみにこの方法だけで無宗教として靖国は成り立つ)、あの人達を特別酷い人とも思わないのと同じく英雄とも思わない。それぞれのたった一度の人生を『戦死』という悲しい死でもって人生を終えられた方でしかない。
 同じく、高遠菜穂子氏達も英雄とも思わない。同じ唯の人である。
 本村氏も、本村氏の家族を殺した人も同じ唯の人である。
 恐らく死刑廃止論者以外からは蛇蝎のように嫌われるであろう安田弁護士も唯の人である。
 昨日、枕経に行った人も唯の人である。
 当然、私も唯の人である。
 誰にも代えられることがない、掛替えのない唯一の貴い人間である。

 それはホームレス状態にある人も同じである。
 諸々の偏見で差別されている人達も同じである。差別戒名(法名)なんぞ問題外である。

 戦争や、人道主義の行動や、諸々のスターだけがドラマチックに生きているわけではない。
 同じく、引き蘢り状態の人や、諸々の社会的マイナス要因を抱えて生きて居られる人達だけがドラマチックに生きて居られるわけではない。
 どんな人生だって、本人にとってはドラマチックではないのか?それが『個』である。
 当然、どんな『個』だって貴い。それは私にとっての束縛である。互いの『個』を尊重しあって生きて行く、エゴで他の『個』を無視するのでなく、互いの『個』を『違い』として尊重して行く事は私というエゴ存在にとっての束縛である。
 故に
 
 【自分を一番自由にしてくれる束縛は何か?
  それを大事に思う心を育てよう】(『戦争論』378ページより)

 なら、その事だけが私を自由にさせる事である。
 決して英雄になる事でもなく、特別な行動をした人を『貴い』と思うことでもない。

 『戦争論』の前の持ち主であった恐らく大学生(メモの裏のプリントを見ての判断)が、どういう気持ちで『戦争論』を買われたのか知らない。
 左翼的思想の持ち主で、自由主義主観一派である小林よしのりの本を買って研究しようとして買ったのかも知れんし、如何なる動機で買ったのかは解らん。
 ただ、別に英雄になる必要もない。
 自分が生きているたった一度の掛替えのない人生を、特別なドラマチックに『仕立て上げる』必要もない。

 自分が自分自身に対する過度の期待は傲慢である。自分自身に対して失礼である。冒涜である。

 ♪生きる為に生きる
  原始の声をくれ
  (シオン)

 右翼だろうが、左翼だろうが、英雄史観だな。
 私は唯人史観なので別の思想である。
 当然、誰かがそれを奪いに来たら、つまり『日本国家』あるいは『敵国』が奪いに来たら抵抗する。
 
 『心のノート(こころのノート)』なんぞ大キライ。
 不良という生き方を認めん『夜回り先生』なんぞ大キライ。
 民主主義の押しつけも大キライ。
 『欧米列強に支配されたアジア民衆の解放』と云う名の『集団的自衛権』の戦争も当然認めん。

とり乱しつつ

2007年05月26日 | 坊主の家計簿
 5月26日

 雑費   缶コーヒー        120円
      うこん         1344円
 食類   ポン酢           88円
      発泡酒          175円
      ホタルイカ        105円

 合計               1832円
 5月累計            98746円

 梶大介という門徒の先輩がいる。当然、あった事はない。本で読んだだけだ。読んだのはかなり前だが、梶大介氏は迷いながら自らを問いながら運動を続けていたはずだ。その事が当時、もの凄く印象に残って居る。
 つまり「教えに問われ続ける」という『仏弟子』の立場が梶大介氏の立場ではなかったのだろうか?
 その辺が、正義に慢心する事に疑問を抱かない運動家との違いであると私は考える。

【北陸加賀浄泉寺の和田稠さんは言う。
 『人はみな、みずからの見解と能力をたのみ、それによって自己を律し、他を裁いて生きている「賢者」である。その見解と能力とが、じつはその身に生きている「この世」の在りようとは無縁ではないのだ。「この世」こそは、有史以来、支配と差別につらぬかれた体制社会にほかならなぬのだから、そこで生まれ、そこで育ち、その世界を我として生きている私たちの見識や能力をあげて偏向を免れることはありえないし、「公正の世」などあったためしがないのだ。そのような身と世をつゆ疑うことのない我ら「賢者」なのだから、みなもろともに体制の世を、「わが世」とし、われ、ひと共に対立と孤絶とさい疑の淵にせめぎあい、共生と連帯のいのちの願いを奪いつづけてきたのだ。まことに身を離れて世はなく、その世を我として生きる同業存在こそが私である』と。(同朋新聞「親鸞聖人の生涯を学ぶ」より)】(梶大介『生ききらなければ真実はみえてこない』P239~240より)

♪俺に人を裁ける資格なんかあるのかな?(byヘンリー)

2007年05月25日 | 坊主の家計簿
 5月25日

 雑費   歯医者        2770円
 外食   ラーメン        399円
 食類   寿司          200円
 飲み代  トン焼きビール    2000円
      大きな輪       5000円

 合計             10369円
 5月累計           96914円

 久々のヘンリーライヴ。
 の前に、仕事→歯医者。数ヶ月振りに左下の奥歯が完治。銀を被せて貰ったので、これで左右の歯で噛める様になったわけだ。
 
 で、南海難波駅近くの豚ホルモンの店でビール飲んで、いざライヴ。
 初めての『大きな輪』っちゅうか、味園ビルの2階じたいも初めて行くのだが。
 まあ、初めて会ってから19年か。クソ生意気なガキの頃から知ってくれているのでらくちんだし、変わらず思想的影響も与えてくれるし。

 今日も最終電車。酔っぱらい多し。携帯でそれぞれがメールを打っている人多し。
 誰かと繋がりたい。
 まあ、当たり前だな。

 終電に乗るたびに思い出す漫画。『人間交差点』という漫画のあるストーリーに若くバリバリのキャリアウーマンが、くたびれたサラリーマンが嫌いだった。同じ最終電車に乗りながらも、仕事をバリバリした後の彼女と、駅のホームでくたびれている人とは『違う』と思てた。でも、彼女がある時に仕事が挫折した時に初めて気づく。そのサラリーマンの『人』に。

 ♪俺に人を裁ける資格なんてあるのかな?

 毎度のお決まりパターンなんだが、差別とは裁かれる人達である。ある共同幻想から裁かれた人達が『被差別者』である。
 
 『やられたらやりかえせ』ではなく、『やられた』が故に、告発(批判)するのだ。その行為が愚かな事を。

 ある先生が「私はいつも親鸞から見られているような気がする」とか云ってたらしい。
 私は大義を立てて、追い込む事が得意である。

 『許せない』と云う言葉を専修学院本科時代の最後のレポートに書いた。
 担当だった、現院長先生が、「この『許せない』という事についてもう少し考えて下さい」とだけ指摘された。
 『許せない人』
 私は、その『人』を観てなかった。だけの話である。

 ん?カルト批判を書こうと思っていたのだが、全然違うな。まあ、ええか。
 っちゅうか、カルトとは結局、人を人として見えなくされる事の極地でしかない。多くの原因は誰にだってある(はず)。
 ある宗教、思想が『カルト』であるかないのかの分別は、私にとっては、人を人として発見して行くのか、
 それとも人を『もの』『権力の奴隷』『国家によって洗脳された人達』『宗教によって洗脳された人達』等と決めつけて行くかどうかだけである。当然、『輪廻によって悪しき業に生まれた人達』等も含む。

 っちゅうか、寝よ。

浄土真宗親鸞会

2007年05月24日 | 坊主の家計簿
 5月24日
 
 外食  冷麺          580円
 食類  うなぎ穴子飯      200円
     発泡酒2        350円
     シイラ刺身       250円
     ニラ           98円

 合計             1478円
 5月累計          86545円

 なんや、阪神戦は今日はないのか。。。予定してた原始仏教の学習会が日程変更になったからビール(すいません、見栄はってしまいました。。。発泡酒です)でも飲みながら阪神の応援でもしようと思てたのに。
 本願寺派の知人に貸した黒衣を取り戻しに行こうとも思てたんだが、これは彼と知り合った会合が30日にあるのでその日にしよ。

 大谷派と本願寺派、つまり東西本願寺では衣も違う。当然、声明の作法も読み方も違う。その辺をテーマにして彼は発表したらしかった。
 なんだが、6月初めの法要にその衣を着ないといけないし、もう一着同じ四季兼用も持っているには持っているんだが、これはリニューアルしたばっかりなのでしばらく保存したいのだ。冬用は暑いし。

 上座部から比べて大乗を観る事は愚かである。その逆も当然同じく。
 上座部といっても、上座部の歴史がある。当たり前ながら釈尊当時と今の上座部教団は違う。
 大乗も当然の事ながら大乗教典は釈尊が書かれたものではない。それ以前に釈尊が書かれたものなど残っていない。よって「どれが釈尊の直説に一番近いか」「どれが一番古いか」みたいな研究も盛んだったりするわけやし。

 この辺の議論は結構大事だったりする。大乗なんぞは特にそうなんだろうが、基本的に『私が見出した釈尊』である。
 少なくとも私にとってはそれ以外の何ものでもない。
 よって、私にとっては「あなたが信じている事は釈尊の教えでもなんでもないですよ」と云われても「はあ、そうでっか」ぐらいにしか過ぎない。
 同じく「あなたが信じている親鸞聖人の教えは親鸞聖人の教えでもなんでもないですよ」といわれても、「それがどうかしましたか?」でしかない。

 親鸞会という浄土真宗の教団がある。当然、親鸞会の歴史、つまり本願寺派から分かれて『浄土真宗親鸞会』としての歴史がある。
 その教団からしたら、大谷派なんぞ本願寺派以上におかしな教団だろう。
 つまり「正しい親鸞聖人の教えを伝えていない」と親鸞会の教えからすると見えるのだろう。
 まあ、そらそうだろう。大谷派の多くの僧侶達は覚如の事をあまり評価して居ないし。つまり単純に歴史が違うわけだし、法脈が違う。
 その法脈を、御自分達の法脈を照らし合わせて「親鸞聖人の正しい教えを伝えていない」とはナンセンス極まりない。

 当然、相互批判は大事である。相互批判しながら互いに刺激を受け合う事は大事である。だが、最初から邪教扱いされたらたまったものではない。
 
 今日、ちらほらと掲示板の方で過去にやった親鸞会の会員を名乗る人との議論を読んでいたのだが、私は彼が本当に親鸞会の会員かどうかは知らない。親鸞会に確かめた事がない。ただ、親鸞会の会員を名乗る人が余りにも「本願寺は正しい親鸞聖人の教えを伝えていない」と云う事にカチンと来ただけでの論争であった。
 同様に当時に色々とネット検索した中でもやはり同様の事が見受けられた。
 それが『一会員』なのか『親鸞会としての立場』なのかまでは知らないし、興味がない。
 自分の信仰が『正しい』と思うのは当たり前の事だろうし、その中でのそういう発言も当たり前の事だろう。

 だが、例えば私が「親鸞会は邪教である」と云うと不愉快な思いをするであろう事を少なくとも私は彼から云って貰いたくなかった。彼は彼なりに親鸞会で真宗仏教の教えを学べばイイだけの話である。
 その中での「同じ教えを学ぶものどうし』としての批判なら解るが、現実にそれは不可能である。単純に法脈が違う。
 学者なら『親鸞直筆のものと証明されたもの』だけを使って議論するのだろうが、私には無理だし、恐らく多くの真宗仏教を学ばれている人には不可能である。出来るのは一部の学者ぐらいなもんだろう。
 そういう議論に私は興味がない。
 教団が違うとはそういう事である。法脈が違うのである。
 
 当然、どちらの方脈が正しい等とはほぼ無意味である。
 それは原始仏典の最古層である

 【ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くたもって論ずる。
 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起すことがない。】(岩波文庫『ブッダの言葉』並ぶ応答‐小篇より)

 でもハッキリしている。
 
 仏教は釈尊で停まったわけではない。釈尊から『始まった』わけである。厳密にいうのなら釈尊が気づいた事から始まったか。初転法輪だし。
 その流れで親鸞は存在する。真宗仏教だって停まってはいない。多くの教団に分かれて存在する。それが仏教の流れであり、あとは御自分達がそれぞれに選べばエエだけの話である。

 『正義』、『正しさ』の押しつけ程、うっとうしいものはない。
 「あなたの為を思って」なんぞ、人の為を思える程偉そうなヤツの言葉に耳を貸す義務はない。
 それは人道主義を絶対化してそこから差別する人と同じでうっとうしいだけである。

 ちなみに私は大谷派が伝える仏教の流れがおかしいと感じたら辞めるだけである。
 それは多くの私がお参りしている先の門徒さんにも云える。
 信仰は自分で選ぶものである。決して先祖伝来だからいって固定化するものでもない。

 仏教よりも靖国神社の方を選びたかったら選べばエエだけの話である。
 仏教よりも神道や、キリスト教等の他宗教の方を選びたかったら選べばエエだけの話である。
 真宗教団でも同じである。大谷派ではなく、他の真宗教団の方を選びたかったらそちらを選べばエエだけの話である。

100ばんめのサル

2007年05月23日 | 坊主の家計簿
 5月23日

 雑費  ペット茶          120円
 食類  豆腐            120円

 合計                240円
 5月累計            85067円

 夕方、「ちょっと1時間30分だけ寝よ」と、+12時間。。。
 途中3時間で気がついた時に起きようかとも思ったんやけど、「このまま寝てしまえ!」っちゅう結論に至ってそのまま寝続ける。
 これが、『睡眠ダイエット』である。恐らく昨日は1000キロカロリーも摂ってないだろう。つまり基礎代謝以下のカロリーしか摂ってない。っちゅうか、これはダイエット以前に体を壊すな。。。無理なダイエットは禁物でっせ。

 しゃて、【『イラク「人質」事件と自己責任論』を読んで】の続きみたいなもん。

【私たちの先輩には、国境を越え世界に貢献している人たちがいる。青年海外協力隊は世界各地でいろいろな技術を伝授している。NPOやNGOのボランティア活動も盛んである。自分たちだけがよければいい、という時代ではない。】(文部科学省『心のノート 中学生』118ページより)

 『心のノート』推薦のイラク人質事件の3人&その支援者達。
 何もこれは『心のノート』で初めて教えられた事ではない。ガキの頃からそれこそ学校でも教えられた事である。テレビだろうが、アニメだろうが、漫画だろうが。美しい話としてよく載っている事である。
 別にそれに洗脳された等とはいわない。洗脳や、マインドコントロールなんぞ簡単に出来るものではない。
 ただ、そういう時代に生まれた。
 そういう事を『善』とする様な時代に生まれた。まあ、戦後民主主義とか云うんですかい?

 急に話は飛ぶが、「人を助けない」とはかなり無茶な事である。例えば「私は偽善者になりたくないので決して人は助けない」という人がいるとするならば、まず税金は払ってはいけない。税金は基本的に相互扶助である。年金も保険料も払っては行けない。
 また、仕事もしては行けない。どんな仕事であっても誰かの役に立っているが故に『仕事』なのだから。
 また、金も使ってはならない。経済は誰かの役に立っている。仕事と同じである。
 仕事もせずに、自給自足で生きる。
 エコ野郎である(笑)「公害を出さずに生きている」というだけで、立派に人助けをしてたりして(笑)
 「ああ、あなたが居られる御陰で、日本のCO2の削減に役だっています」とか褒められたりして(笑)

 『人』、いや、人だけでなく、あらゆる存在は互いに支え合っている。
 誰かにとって迷惑な存在であっても、それは『誰かにとって』という限定付きである。
 
 それは『価値』である。人の価値、モノの価値である。当然、価値なんぞ誰かが勝手に決めたことでしかない。
 国であったり、教育であったり、宗教であったり、思想であったり、経済であったり。そんなもんだ。
 特に宗教や思想が恐い。これは普遍的な価値っぽい。

 人道主義・ヒューマニズム。
 『人間だけが尊い』という考え方には賛同出来ないが、人間平等に対しては当然賛成である。
 高遠菜穂子氏も立派なヒューマニズム信者である。
 だが、それだけである。それだけでしかない、同じ人間である。
 
 「何をいうんですか?彼女は立派な行動をしているじゃないですか?」
 という批判もあるんだろうけど、私は行動力は認めない。それは『それぞれ』でしかない。

 例えばマザーテレサの行動を100点と仮定するとして、高遠菜穂子氏の行動を60点としよう。人道主義の『価値』として。
 では、人道主義を様々な事柄でもって実践出来ない人の『価値』はどうなるのだろうか?

 60点の人道主義行動の『価値』を貰った人に対して、同じ価値観を抱く、まあ、『同じ信仰を抱く』と言ってもいいのだろうが、その人たちにとって高遠菜穂子氏の行動は素晴らしかったかも知れない。まあ、そういう事なんだろう。
 だが、その事を『全て』に拡大解釈して貰っては困る。
 拡大解釈して、
 「あんな素晴らしい行動をした高遠菜穂子さんに自費負担で日本に帰れとは、なんという酷い人たちでしょう」
 とか、
 「自己責任とかいう人たちは、政府によって洗脳されている」
 とは、人道主義でもヒューマニズムでもなんでもなく、単なる人道主義・ヒューマニズムを利用した差別・優性思想でしかない。あんなもんを人道主義であるとかヒューマニズムと呼ぶからおかしな『反人道主義』『反ヒューマニズム』が起るのだ。
 『平等』とは『平等を利用して自分が上に立つ』事では決してない。
 『平等』とは、例え自分が如何なる行動を取ろうとも『平等でしかない』ことが『平等』だ。
 
 当然、『如何なる行動』とは世間で褒め讃えられる行動だけではない。世間で卑下されるような行動を取ろうともだ。人を殺そうが平等な人権がある。人権とは誰かに、例えば国家に、共同体に、宗教によって保証されるものではない。元から誰もが兼ね備えているが故に『人権』なのだ。
 その事に対する徹底さが『イラク「人質」事件と自己責任論』に投稿した多くの論者に解って居ない。だから特別視したくなる。そしてそれは人道主義でもヒューマニズムでもなんでもない。
 いや、『仏教的人道主義』『仏教的ヒューマニズム』と言い換えよう。
 もとい、『真宗的人道主義』『真宗的ヒューマニズム』と言い換えよう。行動力、能力を認める仏教の方が多いだろうし。
 だが、私はそれを認めない。人間はどこまで行っても『平等』である。性別、国籍、生まれた場所等で人を差別するのは間違って居るのと同じく、その人の行動力で人を判断するのも間違って居る。

 高遠菜穂子氏達が一部の人、いや、文部科学省から『価値ある人』と認定されようが、私は決して認めない。それは『平等』に反する。

 
 で、実はここ数日、一番書きたい事は『真宗よゐこ』なのだ。『大谷派よゐこ』か。
 大谷派では『社会運動』『平和運動』が流行中である。決して『一部』の人だけとは思えない。
 まあ、教育を受けた環境にもよるのだろうが、少なくとも私が学んだ環境で、そのまま素直に学んで行くと『社会運動』『平和運動』に対して熱心になるはずだ。それは戦後民主主義と同じなんだが、少し違う部分もある。
 何が違うと云うと、「どこまで行っても自己を問う」と云う事ではないだろうか?つまり徹底した平等主義ではないのか?
 
 『100ばんめのサル』というのがある。経験した範囲では主に反原発や、エコ系から流行った印象を受ける。
 まあ、このリンクが一番解りやすいかな?(http://www.cinemawork.co.jp/cwhp/list/monkey.htm
 これは進化論である。で、私は進化論は認めない。
 進化と変化では全然違う。市民運動には、悪いが、こういう進化論的な発想が多く満ち満ちている。故に『イラク「人質」事件と自己責任論』のような本が出来るのだろうが。

 社会運動、平和運動、人道主義・ヒュ-マニズムが『平等』を目指すのなら、とことん平等にこだわるべきである。「それ等を実践している自分たちは特別」が、一番平等主義を妨げる事になっている。素晴らしい活動をした人は特別なんだろ?多くの労働者や、国民と違って特別なんだろ?

 当然、生身の人間がやる事だから限界はある。生身の人間、つまり差別主義者がやる運動なんだから、当然、そんな事は出てくる。
 で、そこからが本当の運動ではないのか?その運動に関わるのなら、まず一番先に自分がその問題から問われるべきではないのか?

 「社会運動をやってればイイ」
 「平和運動をやってればイイ」
 となんぞ真宗の歴史で聞いた事がない。
 「社会運動をやらないヤツは真宗門徒ではない」
 「平和運動をやらないヤツは真宗門徒ではない」
 とも聞いた事がない。
 もしあるのなら教えて頂きたいものだ。

 まあ、こんな事を書くと「エロ坊主は転向した!保守だ!仏教を解って居ない!大乗仏教の菩薩の精神を忘れてしまった!」等と云われたりもするかも知れんが(笑)

『イラク「人質」事件と自己責任論』を読んで

2007年05月22日 | 坊主の家計簿
 5月22日

 雑費  缶コーヒー         120円
     エスカップ12       628円
 外食  チキンカツ蕎麦       347円
 食類  もずく           106円
     ホルモン          199円
     もやし            45円
     ピーマン           48円
     焼そば麺           18円

 合計               1511円
 5月累計            84827円

 教団問題の学習会だったのだが、急遽枕経→通夜。只今売り出し中の住職にはもっと売れてもらわんとアカンし。
 っちゅう事で、ポッカリ時間が空く。まあ、仕事は忙しかったのだが、予定が急になくなったわけやし。

 っちゅう事で、先日注文してた『イラク「人質」事件と自己責任論』が届いていたのでついでに一気に全部読む。
 まあ、怒り→呆れ→哀しみか。
 色んな人達が書いているので一概に云えない。が、基本的な多くの意見は「ケチをつけるな」ではないだろうか?

 それは『海外のメディアが伝えたバッシング くまがい宏』という記事の中で
【「人道主義的な志こそが彼らが追求したものであり、人質から解放され、帰国した後は、英雄として待遇されてしかるべきである」】(同書141ページより)
 と、中国の『南方都市報』という新聞の中の言葉を引用している事が象徴的だろう。

 酷いというか、ここまで行くと「カルト臭い」のだが
【権力は三人が真っ当に「世界を愛していた」ことが恐かったのだと思います。そしてそれが広がっていくことが・・・・・・。】(生田卍氏 同書38ページより)

 つまり同書に収容されている多くの論者はイラク人質事件での3人、つまり高遠氏、郡山氏、今井氏の三人の行動が『素晴らしかった』と云う事が前提になっている。
 この辺が『道楽』としか、あるいは単なる『仕事』としてしか考えていない私とは全く意見を異にする。その辺の意見の相違がまずある。
 
 で、例の『自己責任論』だが、これも3種類あると読んでいるうちにハッキリした。
 1 政府側からの自己責任論
 2 3人を支援する側からの自己責任論
 3 私の自己責任論
 である。

 政府の自己責任論とは政府関係者が出した自己責任論である。
 
 支援する側の自己責任論とは、
 
【この頃、私は親しいメディア関係者数人から首相側近が、防衛庁幹部が、外務省幹部が、そして警察幹部が、記者に向かって何を語ってきたのか、を全てうち明けられた。「自作自演」「自己責任」そして家族への誹謗中傷、全ては、政権中枢サイドが主導したものだったという真相がはっきり見えてきた。】(伊藤和子氏 同書69ページより)
 
【マスメディアの一方的な自己責任バッシングに洗脳され煽られていく世論】(有馬理恵 同書61ページより)
 
 等が代表的であろう。

 私の自己責任論とは2つある。
 一つは、戦争している地域に、『攻め込んでいる側』である日本人が行くのなら勝手に行け。
 っちゅうもんである。別に『国』が頼んだわけではない。『国』が頼んだのなら話は別だ。政治に関する責任がある。自衛隊員が捕まったのと、好き勝手に個人的に行った人間とでは全然違う。
 ついでに書くが
【国家が国民の命を守り、救命に尽くすのは義務だ、にもかかわらず、救出にかかった費用の一部を三人に弁済までさせた】( 東京新聞記者 佐藤直子氏 同書22ページより)
 とあるが、私の記憶に間違いがなければこれは帰りの交通費だったはずだ。それ以外に請求出来る法はないはずだ。20億とかの諸経費の数%でも請求出来る権利は国は持ち得ないはずだ。ただ、この交通費は確か正規の航空料金だったはずであり、結構高かった。今日は本を読むことで一杯一杯でネット検索できないのだが、確か一人当たり数十万円だったはず。まあ、正規の飛行機代だし、高いわな。陸上の交通費とかホテル代とかとの合計だったっけ?まあ、これは別に3人だけでなく、他の人達、つまり『人質事件』以外でも確か当てはまるはずだった。で、確か3人の後に拉致された気合の入った二人は「さすが筋金入りの運動がかったヤツは違うで」っちゅう個人的感じを受けたのだが、確か政府調達を断って自分達で帰って来たはずだ。
 まあ、政府としては別料金も取りたかったのかも知れないが、そんな事は出来るわけもなく(やってたら後で裁判になる)、正当な権利を主張しただけの話だな。

 で、もう一つの『自己責任論』とは、っちゅうか、これがあるからわざわざ本まで買ってしまったのだが、『何故、あの3人を特別扱いしなければならないのか?』っちゅう、非常に素朴な事である。
 戦場だろうが、何処だろうが、好き勝手に行きやがれ。ただ、私はその行動を『貴い』とは全く思えない。『道楽』あるいは『仕事』としか思えない。
 それは私には関係ない。『関係ない』とは変な言い方だな。関係ない事などないのだが、ただ、私にとって『貴い』と思えるような事ではない。よって勝手にすればいいだけの話であって、その事を恩着せがましく『貴い行動』等と規定されるのは『大きなお世話』以外の何ものでもない。何故私が3人の行動を英雄視しなければならない義務があるのだろうか?
 これは別にあの3人だけの話ではない。例えば何処かの宗教団体が私に恩着せがましく『貴い事』を押し付けられたら私は断固反対する。大きなお世話じゃボケ!っちゅうやつである。お前らの正義を押し付けられたらたまったものではない。
 当然、国家でも同じである。天皇が『貴い』等と押し付けられる筋合いはない。ただ、こっちは政治の話であって、政治は有権者である私たち一個人の責任があるので少しだけ変わるが、それでも天皇だろうが、『愛国心』だろうが、『日の丸・君が代』だろうが、真っ平御免である。
 
 しかも3人を支援する人達の多くは、確かそれだけの本があった気がするのだが思い出せないのだが、『自己責任論に加担した人達は政府サイドが主導した論調に洗脳されている』等という論が多くある。
 「ああ、ここまで来たらアカンな。。。」なんだが、要するに一個人を見ないのだ。「大衆は愚民で無知で政府やマスコミに洗脳されている」とは、ほぼカルト宗教の理屈だろう。悪いが、『自作自演の物語』や、『自己責任』なんぞ誰だって考えつくぜ。その証明になるかならんかは知らんが、私は考えつく。妄想好きやし、陰謀説が大好きやし(笑)
 それら『一個人』を見ないようなありかた、つまり今日読んだ本の中の多くの論者は「自己責任論に加担した人達は愚民で無知で政府やマスコミに洗脳されている」ぐらいにしか思っていないのだろう。まあ、少し言い過ぎかも知れんが。

 その背景にある、貴いもの(者)に対する憧れ、貴い行動に対する神聖化が一番恐い。神聖化がなければ今日読んだ本の論調は出て来なかったと感じる。
 それは、実は同書を書かれた人達が、え~っと、どこやったっけ?出て来ない、確か「時代の空気」とか書かれていたと思うのだが、その『時代の空気』そのものである。
 ん?昨日検索したサイトだったかな?
 あった

【自衛隊撤退を求めた三人の家族や、当時は安否も定かでない本人たちに、世論のバッシングを浴びせることになる。まるで三人が、罪を犯した者のように。
 それは、現代の日本に「空気」を象徴する社会現象になった。】(佐藤直子 同書12ページより)

 私はその「空気」を、『美しい国』とか『神聖化』『貴い存在』とかに関する事と観るし、それは一直線に「南京虐殺はなかった」「従軍慰安婦に軍の関与はなかった」「沖縄の集団自決に軍の関与はなかった」等に通じると考える。嫌韓流、攘夷、穢れ思想に通じると考える。
 だから「タカトーは神聖にして犯すべからず」等とイヤミも書きたくなる。悪いが、そうじゃないとあんな論は出ないと思うぞ。

 当然、私にも尊い『教え』はある。だが、『教え』は個人ではない(カリスマの否定)だし、その『教え』は『義なきを義とす』が象徴するようなもんだし。
 原始仏典なら
 
【ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くたもって論ずる。
 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起すことがない。】(岩波文庫『ブッダの言葉』並ぶ応答‐小篇より)

 か。打ち込むのが面倒なので検索して出て来た部分だけしか貼付けていないが。
 ちなみにこの辺りが、要するにスッパニパータの4章5章辺りが最古層やったな。復習、復習と。

 私だって尊敬されたいし、貴く成りたい。けど、それって自分を差別してるだけやと私は感じたし、しんどいし、苦しいし。
 まあ、個人的体験なんだが。

おんしんびょうどう

2007年05月21日 | 坊主の家計簿
 5月21日

 雑費  コピー代         250円
 食類  半額弁当         249円
     半額焼き秋刀魚       79円

 合計               578円
 5月累計           83316円

 御仕事忙し、っちゅう事で家事サボって弁当購入。っちゅうか、遅めの昼飯は冷凍貝柱と玉子を使って冷凍チャーハンを作ったのだが。。。ああ、エラいエラい、私は偉い。主婦の鏡だわ、って、一人暮らしやし、ホンマの主婦に怒られそうやな。っちゅうか、別に家事熱心な主婦だけが主婦ちゃうし。っちゅうか、それ以前に俺は『婦人』ちゃうな。『主夫』やな。っちゅうか、独身で『主夫』もクソもないな。

 で、ちょいと『おんしんびょうどう』と漢字で打ち込む事が面倒だったので、平仮名で検索して漢字をコピペしたろうと検索する。
 で、検索順位(但しniftyの)

 1 鍋島先生、日本に帰って来たらしいな。。。
  http://buddhism-orc.ryukoku.ac.jp/japanese/onshinbyoudou.html

 2 やはり出てくる竹中先生。
  http://www.oct.zaq.ne.jp/vows/tendo/takenaka.html

 鍋島先生は、以前に某『行動する若手念仏者の集い』とかいう会を作って遊んでた時に世話になった先生。
 竹中先生は大切な恩師の一人。
 
 『敵』なら斬り裁いて当然じゃん。だって『敵』なんだから。『鬼畜米英』で象徴されるように同じ人間じゃないんだし。
 『敵』が『敵』であるだけなら、仏性なんか関係ない世界じゃん。

 &、ある一つの社会的価値観から漏れた存在を『社会的弱者』と呼ぶのではないのか?
 『社会的弱者』からの声・叫び→問われる事、とは、如何に社会的価値観が、つまり私(達)の価値観が頼りのない横暴な価値観にしか過ぎないという『問い』ではないのか?
 それが如何なる人間が造り出した『正義』『宗教』と云えども。
 自分(達)の価値観から観て、他所の価値観がおかしい事は『当たり前』である。だったら互いに批判しつつも尊重しあって行く事しかないと思うのだが。。。

 あかん、寝よ。

「人間はたいして変わらんぞ」

2007年05月20日 | 坊主の家計簿
 5月20日

 雑費  缶コーヒー         120円
     発泡酒           175円
 外食  チャンポン         630円
 
 合計                925円
 5月累計            82738円

 ああ、仕事がヒマでよかった。。。
 っちゅう事で帰って来て爆睡。

 っちゅう事で39のおっちゃんは考える。
 確か、昨日の『仏青みたいなもん』の寺、つまり所属寺に行き始めたきっかけは私が解同幹部のオッさんの店で働いて居た時に、その店の常連であった所属寺住職(当時は副住職か)が、「うちの寺に来たら寿司が喰える」という口車に乗せられて行き始めたのだが。
 で、やな。死んだ解同幹部のオッさん&所属寺の住職の当時の年齢よりも今の私の方が年上だったりするのだな、これが(笑)死んだオッさんの方は微妙かも知れんが。まあ、今の私と同世代だろう。
 ああ、私もオッさんになってもうたわけや。。。

 その解同幹部が先に所属寺に行き始めた。中川先生という今は大谷大学の教授をしている人が当時は毎月話をしに来られて居て、その会に参加されていた。
 何かの折に、その死んだ解同幹部のオッさんが、「人間はたいして変わらんぞ」と云った事をよく覚えている。

 もうバリバリの活動家のオッさんで、だいたい私がその店で働きだすようになったのも私が関わって居た不登校とかのフリースクールがそこに引っ越したからなのだが、要するに独自で事務所を維持出来なくなったフリースクールを引き取ったわけやな。ちなみに私がその店を辞めてミナミに出て、フリースクールの代表は海外青年協力隊に行き、オッさんが死んだ後に残ったフリースクールのメンバーを引き取ったのが所属寺の住職なんだが。
 そのバリバリの活動家のオッさんが語った「人間はたいして変わらんぞ」っちゅう言葉がやっぱり忘れられん。そのオッさんの事は死ぬ間際ぐらいは大嫌いだったのだが、なんか、やっぱり忘れられん。

 運動は切るのだ。『斬る』という方の漢字でもエエかも知れん。公安、警察、『体制側』なんでもエエ。昔なら(今も使っている人がいるかも知れんが)『ノンポリ』とか。
 そして斬り裁いて優越感を抱いたりもするわけだ。必死になれば成る程、懸命になれば成る程、周囲が見えなくなる。まあ、『熱く』なっているのだから仕方がない。
 きっと当事者なら尚更の事なんだろう。ここ半年程前から知り合ったある差別事件の当事者は「私、なんか変な事いうてますか?」「自分の事やから解らんようになってきてる」「おかしいところあったら聞かせて下さい」とかをよくいいはる。その『誠実さ』の運動方針は私は『正しい』と思って居るし。

 21歳当時の私は『カミソリ』だったらしい。その後の店の名前を『聖カミソリ(セイント・カミソリ)』とつけた時に周囲のオッさん等はウケたらしい。「そのまんまやんけ!(笑)」って。
 私がいわゆる社会運動に一番熱心に関わって居た時期は18から20ぐらいか。正義感に燃え、集会なんぞによく行った。新聞等をチェックしたり先輩からの紹介の会に入ったり。そんな流れであるフリースクールに出会って行き始めたりしたわけだし。

 今もきっと無意識のうちに人を斬り裁いているのだと思う。私には私の正義感があり、その正義感でもって斬り裁いているのだと思う。
 だから、「人間はたいして変わらんぞ」というオッさん、っちゅうか、今の私と変わらん歳だったはずの解同幹部のオッさんの言葉を思い出す。
 逆に云うと被差別で生まれ育ち『』としてのレッテルからの解放を闘って来たオッさんだから、当たり前っちゅうたら当たり前なのかも知れんが。

 社会運動好きな仏教徒にとっての聖典みたいなティクナットハン。行動する仏教。まあ、ティクナットハンにとっては『動く禅』か。
 
【平和運動には、多くの怒り、欲求不満、誤解があります。
 平和運動に携わる人たちは、とても上手に抗議文を書くことができます。しかし、愛の手紙を書くことができません。
 相手が捨ててしまうのでなく、相手が読みたくなるような手紙を、アメリカ合衆国議会や大統領に宛てて、書くことを学ぶ必要があります。
 あなたの話し方、理解の仕方、言葉の用い方が、相手にそっぽを向かせるものであってはなりません。大統領も、私たちの誰とも同じ人間です。】(ティクナットハン『ビーイングピース』より)

 社会と切り離した仏教などは成立しようがない。
 当時の部派仏教の一部が『小乗』と蔑視された事も今は問題になっている。故に現状では『小乗』という差別用語はほぼ使われていない。

 釈尊は

【世尊がさとった者の眼で世間を観察されると、生けるものたちにして、汚れの少ない者たち、汚れの多い者たち、資質のすぐれた者たち、資質の劣った者たち、善い性質の者たち、悪い性質の者たち、教えやすい者たち、教えにくい者たち、また来世に苦しみを受けなければならないと自分が行った罪業に怖れを見つつ暮らしている一部の者たちなどがいるのを世尊は見られた。】(律蔵・大品より。但し講談社『原始仏典 ブッタの生涯 成道から伝道へ』より)

 十方衆生である。

 法然・親鸞は比叡山を降りた。
 
 『そこに人が居られる』

 求道によって人を斬ってしまう事もある。
 だが、

【今朝、安楽は牢から御所に連行され、後鳥羽上皇の前に座らされた。安楽は臆することもなく偈文(教えの詩句)を朗唱した。それは「念仏する者に怒りを抱き、怨みをつのらせるような、真実を見ることができない者は、長く苦海に沈み救われることがない」という文。
 安楽は六条河原へ引き出され、群衆が見守る中、静かに念仏を称えて、首を斬られた。】(戸次公正『流罪800年』より)

【親鸞聖人自らこの事件について「主上臣下、法に背き義に違し、忿をなし怨みを結ぶ」と厳しく批判されています。しかし、「忿をなし怨みをむす」んだのは、流罪死罪になった方ではなくて、断罪した側であります。たしか『法句経』の一句だったと思いますが、釈尊の教えに、「世のすべての人に憎まるる身にとなるとも、一人を憎む身となることなかれ」というお言葉があります。】(藤元正樹『ただ念仏のみぞ』より)

 という仏教の歴史もある。
 社会運動、平和運動、『だけ』をやりたいのなら、それは仏教徒でなく単なる活動家だろうし、活動家でも「人間はたいして変わらんぞ」というオッさんも居た。
 「アイツらは」「アイツらは」ばっかり言っていた私に、「人間はたいして変わらんぞ」と云ってくれた活動家も居た。
 
 仏教徒にとっての社会運動とは、そこに様々な人生を生きて居られる人の発見ではないかと思うのだが。。。当然、『寺』や『教団』に閉じ篭っていては発見しにくいだろうし、同じく社会運動・平和運動を『正義』にしていては発見し難いのではないのか?

 やべー、また深夜やんけ。もう寝よ。

仏青みたいなもん

2007年05月19日 | 坊主の家計簿
 5月19日

 御土産  ダバダひぶり       1935円
      ミネ水           100円
 外食   からあげ蕎麦        326円
 雑費   タクシー?        5000円
      散髪           2000円

 合計                9361円
 5月累計             81813円

 え~。。。所属寺の仏青みたいなもん御土産の酒持って行ったら、「なんでこんなに人が居るねん!!!」っちゅうか、いつもの倍ぐらいなんだろうが、「お前等が余りにも面白くて終電なくなったやんけ!悪いのは俺ではない、お前等だ!全てお前等が悪いのだ!!!」っちゅう事で。

ちなみに毎度の如く、投稿時間は誤摩化してまっせ。もう2時半やし。

思想戦

2007年05月18日 | 坊主の家計簿
 5月18日

 雑費  缶ココア          120円
     歯医者          1740円
     タバコ10        3000円
     黒霧島          1530円
 食類  手羽元           130円
     カットパイン        100円

 合計               6620円
 5月累計            72425円

 ふにゃ~~。。。

 歯医者も大詰め。今日はようやく歯の土台を入れて貰った。3月初旬からだから2ヶ月以上かかっとるわけやな。結構ひんぱんに歯医者に行ってるのだが、虫歯でなく『昔治療した歯の神経が腐ってもうた』というワケの解らん病気なので、多くの時間は「薬を突っ込んで治まるのを待ちましょう」なので結構時間がかかったわけやね。まあ、その間に小さな虫歯も治療してもらったが。
 後は来週に銀歯を被せて終了。どことなく『元理想の眼鏡っ娘』が寂しく見える。ああ、歯の治療が終わったらもう逢えないではないか。ああ、神様って残酷。。。
 ん?仏教徒やったな。っちゅうか『神様』って何教の神様やねん。漠然とした『神様』なんぞ居らんぞ。キリスト教の神様(GOD)と、神道の神様は違うし。仏教なら『神様』っちゅうのはインド系の『梵天』とかが神様なのかも知らんが、仏教徒で梵天を信仰している人は居らんと思うぞ。ん?密教系は知らんが。当然、『仏』と『神様』は違うし。
 その辺での思想が入り交じっとるな。

 あ、っちゅう事で歯の治療が終わりに近づいているのだが、忘れてた。親知らずの抜歯である。しかも『水平埋没』っちゅう世にも恐ろしい、それこそ「神様、助けて。。。」っちゅう怖さの抜歯が待って居る。ネットでどう検索しても『恐ろしい』のだが、まあ、痛みだしてからの事を考えると早めに抜いて貰った方がエエもんな。親知らずが痛みだすとそれこそ「神様、助けて下さい。」と祈らんとしゃーないもんな。仏さんは助けて呉れへんし。「親知らずの痛みを救ってあげましょう」っちゅう仏さんは居らんと思うぞ。密教系は知らんが。
 その親知らずの抜歯&その後のメンテでもうしばらくは『元理想の眼鏡っ娘』に逢えるわけだ。ああ、神様ありがとう、って、だからどこの神様やねん!

 しゃて、美しき我が皇軍。美しき日本の軍隊が集団自決に関与するわけがない。何故なら『美しき軍隊』だからだ。

 自衛隊、っちゅうのは自衛軍とか日本軍になるのでなく、警察予備隊に戻るべきではないのか?司馬遼太郎の優れた小説に『翔ぶが如く』っちゅうのがあるが、あの小説の初めの辺りに日本の警察がどういう目的で作られたのかが明確に書いてある。警察の基本は内治であろう。国内での犯罪を抑える。当然、クーデターも含む。明治初期なら不平士族の反乱だな。
 まあ、多めに見て当時はともかく、今の御時世、つまり選挙権があるなかで勝手にクーデターなんぞ起こして貰ったらたまったものではない。いくらその一つの思想においての『正義』であっても、正義の押しつけなんぞ真っ平御免だし。それが世界同時革命だろうが、天皇制の復権だろうが、たまったものではない。やるのなら自民党の様に正々堂々と選挙で戦い、3分の2を抑えるような圧倒的な大勝をして合法的にクーデターをすればいい。選挙制度をいじくり倒そうが、あれは選挙で選ばれた人達がやっている行為である。合法的に政治を変えているわけやな。
 当然、民意の全てが反映されているわけではなく、だが、軍事クーデターなどよりも遥かに素晴らしい。軍事クーデターなんぞ選挙権がない国ならともかく、選挙権がある日本でやられたらたまったものではない。
 
 そういう意味合いでも『思想戦』なのだ。今は自民党の思想が勝っているだけの話だ。
 負け戦の方は悪態をつく。「自民党に支配されているマスコミに扇動された愚かな国民」等と。そういう思想になびくのは、その思想に従事している一部の特権階級意識、優性思想意識に犯された、一番タチの悪い連中だけだな。だから負け戦が続いている。

 私は『人権』っちゅうあやふやな概念に対しては諸々云いたい事があるのだが、『反差別(差別に反対する)』『非差別(差別をしない)』事には多いに賛成、っちゅうか、それしか無いと考えて居る。それは間違いなく私にとっての、っちゅうか、私が選んだ『正義』である。当然の如く、この正義を広めたいし、広めているつもりでもある。意思を変えるつもりもない。差別とは『自他差別(自分も他人も差別しない)』事であろうし、自分を差別しない概念によって救われた私が自他差別を容認出来るわけがない。
 が、その事を容認する、あるいは勧めて行く事を『正義』とする思想もある。

 『差別をしない』と云う事で差別化をはかるのなら、その事を『正義』とするのなら、まずは他の思想の持ち主に対する尊敬がなければ成り立たないと思うのだが。
 香山リカが愛国心を騒ぎ立てる人達に病名を貼ったり、あるいは実は今日一番書きたかったんだが、毎度の気分屋なので全然違う事を書いているのだが、イラクでの人質騒ぎの時の『自己責任論は官邸から出て来た』という非常に左翼臭い事柄を信じ込んで流布するような、っちゅうか、何かそういう本もあるらしいが、そんな『左翼臭さ』で思想戦に勝てるとは思えないし、私はどう冷静に考えてもあれは自己責任であると判断している。
 ただ、故・橋田信介氏と同じく「彼らはバカだ。ただ、僕はそんなバカな若者が大好きでねぇ。。。」と語られていた事には賛同するが、好き勝手に危険地帯のイラクに行き、拉致されて、その交換条件が「イラクからの撤退」という軍隊がテロ組織の言いなりになるような決して飲めないような交換条件を支持する事はアホだし、仮説になるのだが、では、某国家で拉致された人達の交換条件で「我々の味方につけ」と何ら変わらない。イラクからの撤退したい気持ちに拉致された人達を利用しただけである。暴論である。

 「自己責任論は官邸主導で流された。」は私には当てはまらないし、恐らく殆どの自己責任論者には決して当てはまらない。あんなもんは「公安の陰謀や」と全く変わらない。「ユダヤ・フリーメーソンの陰謀や」と変わらない。左翼臭い、左翼の優性思想の中でしか通じる事のない愚論である。「左翼運動は中共から資金が流れている」と同じく愚論である。
 ただ、陰謀説は、その共同幻想の中では強く支持される。「自分達にしか解らない真実」みたいな感じで支持される。官邸から流された情報があったとしても、それだけに特化する事がいかにも左翼臭く、バカらしい。
 『国民は愚民』で、思想戦を闘えると思って居る思想を疑う。
 「ああ、美しき左派の私達」か?

 っちゅう事で、
 『イラク「人質」事件と自己責任論』
 『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』
 やな。
 両方、つまり、左派も右派も変わらんのぉ。。。「美しさ」にこだわる人間臭さがたまらんのぉ。。。好きやなぁ。。。

 『美しい』というと西田尚美なんだが、何故かさっき検索したらニフティの検索ランキング4位なのは何でや?世の愚かな大衆どもも、西田尚美の美しさにようやく眼が覚めたのか。マスコミ主導によって洗脳された愚民どもは西田尚美よりも顔的に少し似ている深津絵里に関心があるようだが、あれはマスコミの露出度の違いであって、西田尚美の方が美しいに決まっとるやんけ。それを認めないのは愚民であり、保守であり、アカであり、売国奴である。
 美しい国とは西田尚美が居てる国家であり、その他にはあり得ない。
 いや、『あり得ない』とは言い過ぎだ。小西真奈美が居てる美しい国もあり、YOUが居てる美しい国もあり、宮崎あおいちゃんが居てる美しい国もあり、蒼井優ちゃんが居てる美しい国もある。
 りょうと、太田莉菜が居てる国は『美しい国』ではない。『かっちょええ国』である。

 はよ寝ろ、っちゅうねんな。。。

その時歴史が動いた

2007年05月17日 | 坊主の家計簿
 5月17日

 食類  寿司           200円
     しじみパック2      200円
     発泡酒          175円
     たまご          198円
     ほたるいか        100円

 合計               873円
 5月累計           65805円

 『その時歴史が動いた』の再放送は、『ビーバップ!ハイヒール』の後やねんな。覚えとこ。
 っちゅう事で、夕寝をし過ぎやねんな、これが。。。深夜放送にやたらと詳しくなってます。

 そういや、鈴木邦男と宮崎学の対論集『突破者の本音』におもしろい事が書いてあった。
 っちゅうか、この二人は早稲田の先輩後輩になり、同じ時期、っちゅうか、思いっきり同じ早大闘争での『攻撃する側』『大学側』として直接やりあった事があるらしい。当然、当時はお互いの名前を知らずにだが。これも結構ええ話やな。
 あ、で、宮崎学曰く

【七条署焼き討ち事件では、私の父も立ち回りを演じた。第三国人が七条署に押しかけるという報を受け、警察の依頼で駆けつけた。第三国人の襲撃にそなえ、ヤクザが七条署の前に防衛戦を張るのである。向こうはふんだんに武器を持っているのに対し、敗戦国のこっちは何もない。仕方なく父は出刃包丁を持っていった。
 この話を聞いてうなづく人は、戦後を知っている人である。信じられないと感想をもらす人は、事実の抹消によってゆがめられた歴史しか知らない人である。】(徳間文庫『突破者の本音』P231より)

【昭和三十年代の兵庫県警などは、山口組三代目がなければ機能できなかった代表的な例である。それゆえに、その昔、三代目田岡組長が「一日署長」を務めたりしたのであろう。これをまた、「そんな事実はなかった」というのが兵庫県警だが、新聞に大きく、警察署長の格好をした組長が堂々と写真入りで載っているのだから、どうしようもない。
 ほじくればこんな例は腐る程ある。そして今後も、新しい経典を作るたびに、いくつもの出来事が歴史から抹消されていくのである。】(徳間文庫『突破者の本音』P233より)

 らしい。
 ちなみに私は当然その『歴史的事実』は知らない。実際の資料も読んだ事がない。
 ただ、山口組三代目に関しては映画にもなったし、ミナミに居たので話ぐらいは聞いている。
 よって、トータルで自己判断した結果、そういう事実は「あった」と私は判断する。

 沖縄戦においての軍が関与した集団自決が「なかった」と云う事に教科書ではなるらしい。
 http://www.sankei.co.jp/kyouiku/gakko/070331/gkk070331001.htm

 近所に進学校があって、丁度街に出る時間と、彼らの下校時間が重なる時がある。昨日も一生懸命に学生さんが『基本的人権』に関するプリントを暗記していた。
 まあ、『学習』ではなく、大学に入ったりして自分で『学問』をやる事になっての『基本的人権』ではなく、今は暗記で一杯一杯なんだろう。
 で、新たな教科書検定に関する記事を、現役学生なら覚えたりしているのかも解らんが、多分、今の小学生なら関心がない人の方が殆どだと思う。
 ごくごく当たり前の事として「沖縄戦での集団自決に軍の関与はなかった」と『暗記』するのだろう。

 それは何時の世も対して変わらん。『戦後民主主義』とやらで『暗記』した事柄だって多くある。
 また全体のムードでもって、「先の戦争は日本だけが悪かった」とか。『鬼畜米英』の裏返しで『日本軍=悪』みたいなもんだろう。

 で、数日前のラジオニュースで聴いたのだが、沖縄戦の集団自決に軍の関与はなかったという教科書検定に対する反対が当然の如く沖縄各地の議会で決議されているらしい。
 http://ryukyushimpo.jp/modules/news/article.php?storyid=23756
 http://www.okinawatimes.co.jp/day/200705151700_03.html

【基地問題では保革が対立する沖縄の議会だが、今回は沖縄戦を巡る問題に「史実に保革は関係ない」と一致した。】と、毎日の記事(http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070516k0000m010027000c.html)にあるように、自民・公明の与党議員も決議に参加している。
 http://www.city.tomigusuku.okinawa.jp/senkan/shigi.htm
 http://www.city.naha.okinawa.jp/senkan/03data/01senkyo/shigi.html

 沖縄戦での集団自決に軍の関与があったのかどうかは私は知らない。ただ、最初に問題提起したのが曽野綾子氏である事からして、非常に政治的な臭いがする。
 それに対して「史実に保革は関係ない」とする沖縄の議会の動きの方が信頼出来るわな。
 櫻井よしこ氏のブログにあるように歪んだ戦後体制からの脱却を目指す自由民主党の安倍晋三氏を『裏切って』まで声を挙げたわけだし。

 歴史は都合良く変えられる。宮崎学が

【しかし警察は、日本共産党よりも甘ちゃんである。日本共産党は、日本中から旧制松山高等学校の文集『白亜』の特定の号だけを抹殺した。宮顕という名でない別人が書いた「敗北の文学」を収録した、あれである。肝腎の証拠がなければ、盗作の疑いも、本当に「疑い」で終わってしまうのだ。】((徳間文庫『突破者の本音』P232より)

 と書いてあるように左翼も変わらん。
 別に曽野綾子氏ら右派だけが歴史を自分達にとっての都合の良い証言を集めた結果「集団自決に軍の関与はなかった」と都合の良い結論を導きだしているわけではない。
 左翼だって、自分達にとって都合の良い事として政治利用する。その辺は良く知っている(笑)
 右翼が正義なら、左翼も正義である。

 『よゐこ』は居場所を求める。
 それぞれの周囲の環境であったりして、その中で居場所を求める。それは決して『国家』という大きな枠組みだけではない。『家族』もそうなんだろうし、友人、先輩達との人間関係もそうだったりする。
 左翼系の先輩が多かった、っちゅうか、高校時代に大真面目に某セクトに入ろうとしていたからなんだろうが、まあそういう私にとっては『より左翼的である事』が居場所を見出す事でもあった。それは『よりロック的』でも何でも構わん。
 その場に迎合し、その場での自分の居場所を確保する為に、その場での中心的テーマにより一層近づこうとする。より過激になろうとしたりする。
 それは「都市部から離れる距離に比例してモヒカンが高くなる」と、確か坂本龍一云ってた言葉と変わらん。都市部で生まれれば元々『都会っ子』なんだが、地方から出てくると『都会っ子』にならなくてはならないから懸命に、より過激にファッションをキメたりするのと同じである。

 読みかけの本の中に

【もし、私たちが、「自分が平和と平等の正義の国を作るから、俺について来い」とか、「その国の建設のために死ねば浄土に行ける」などと吹聴するとすれば、それは浄土教でも、仏教でもない。また、逆に「私たち煩悩の衆生には、平和と平等の正義などありえない。私たちは人知を超えたものに対して敬い畏まることによって、どんな命令でも聞く者になるしかないのだ。そうすれば『他力』という魔法によって、仏と等しいものになれる」などと言えば、これも浄土教でも、仏教でもない。】(明石書店『憲法九条は仏の願い』P42より)

 と、ある。
 だが、「自分が平和と平等の正義の国を作るから、俺について来い」的な言葉をタマに菱木氏を好きそうな運動坊主系から聞いたりもするのだが。
 『俺』について来ない『ヤツら』を「何もしないヤツら』等とも。

 そういう自信喪失は大事ではないかと感じる。その『自信喪失』を通して煩悩具足の凡夫に帰れるわけだし、『敵』を『同じ人間』として観れるわけだし。
 愛国心の為に行動する事が自信喪失なら、平和運動・社会運動の為に行動する事も同じく『自信喪失』であり、立場、『在り方』が、それぞれの人生が違うだけで、変わらん。同じ人間や。そんな中で、それぞれの立場からの声を挙げたらエエだけの話や。

 ♪こらえちゃいけないんだ You
  思いを伝えてよ 何も始まらないからね
  (木村カエラ『You』より)

 で、沖縄戦での集団自決に軍の関与がなかったって、一体何の話やねん。。。美しい軍隊か?