5月23日
雑費 ペット茶 120円
食類 豆腐 120円
合計 240円
5月累計 85067円
夕方、「ちょっと1時間30分だけ寝よ」と、+12時間。。。
途中3時間で気がついた時に起きようかとも思ったんやけど、「このまま寝てしまえ!」っちゅう結論に至ってそのまま寝続ける。
これが、『睡眠ダイエット』である。恐らく昨日は1000キロカロリーも摂ってないだろう。つまり基礎代謝以下のカロリーしか摂ってない。っちゅうか、これはダイエット以前に体を壊すな。。。無理なダイエットは禁物でっせ。
しゃて、【『イラク「人質」事件と自己責任論』を読んで】の続きみたいなもん。
【私たちの先輩には、国境を越え世界に貢献している人たちがいる。青年海外協力隊は世界各地でいろいろな技術を伝授している。NPOやNGOのボランティア活動も盛んである。自分たちだけがよければいい、という時代ではない。】(文部科学省『心のノート 中学生』118ページより)
『心のノート』推薦のイラク人質事件の3人&その支援者達。
何もこれは『心のノート』で初めて教えられた事ではない。ガキの頃からそれこそ学校でも教えられた事である。テレビだろうが、アニメだろうが、漫画だろうが。美しい話としてよく載っている事である。
別にそれに洗脳された等とはいわない。洗脳や、マインドコントロールなんぞ簡単に出来るものではない。
ただ、そういう時代に生まれた。
そういう事を『善』とする様な時代に生まれた。まあ、戦後民主主義とか云うんですかい?
急に話は飛ぶが、「人を助けない」とはかなり無茶な事である。例えば「私は偽善者になりたくないので決して人は助けない」という人がいるとするならば、まず税金は払ってはいけない。税金は基本的に相互扶助である。年金も保険料も払っては行けない。
また、仕事もしては行けない。どんな仕事であっても誰かの役に立っているが故に『仕事』なのだから。
また、金も使ってはならない。経済は誰かの役に立っている。仕事と同じである。
仕事もせずに、自給自足で生きる。
エコ野郎である(笑)「公害を出さずに生きている」というだけで、立派に人助けをしてたりして(笑)
「ああ、あなたが居られる御陰で、日本のCO2の削減に役だっています」とか褒められたりして(笑)
『人』、いや、人だけでなく、あらゆる存在は互いに支え合っている。
誰かにとって迷惑な存在であっても、それは『誰かにとって』という限定付きである。
それは『価値』である。人の価値、モノの価値である。当然、価値なんぞ誰かが勝手に決めたことでしかない。
国であったり、教育であったり、宗教であったり、思想であったり、経済であったり。そんなもんだ。
特に宗教や思想が恐い。これは普遍的な価値っぽい。
人道主義・ヒューマニズム。
『人間だけが尊い』という考え方には賛同出来ないが、人間平等に対しては当然賛成である。
高遠菜穂子氏も立派なヒューマニズム信者である。
だが、それだけである。それだけでしかない、同じ人間である。
「何をいうんですか?彼女は立派な行動をしているじゃないですか?」
という批判もあるんだろうけど、私は行動力は認めない。それは『それぞれ』でしかない。
例えばマザーテレサの行動を100点と仮定するとして、高遠菜穂子氏の行動を60点としよう。人道主義の『価値』として。
では、人道主義を様々な事柄でもって実践出来ない人の『価値』はどうなるのだろうか?
60点の人道主義行動の『価値』を貰った人に対して、同じ価値観を抱く、まあ、『同じ信仰を抱く』と言ってもいいのだろうが、その人たちにとって高遠菜穂子氏の行動は素晴らしかったかも知れない。まあ、そういう事なんだろう。
だが、その事を『全て』に拡大解釈して貰っては困る。
拡大解釈して、
「あんな素晴らしい行動をした高遠菜穂子さんに自費負担で日本に帰れとは、なんという酷い人たちでしょう」
とか、
「自己責任とかいう人たちは、政府によって洗脳されている」
とは、人道主義でもヒューマニズムでもなんでもなく、単なる人道主義・ヒューマニズムを利用した差別・優性思想でしかない。あんなもんを人道主義であるとかヒューマニズムと呼ぶからおかしな『反人道主義』『反ヒューマニズム』が起るのだ。
『平等』とは『平等を利用して自分が上に立つ』事では決してない。
『平等』とは、例え自分が如何なる行動を取ろうとも『平等でしかない』ことが『平等』だ。
当然、『如何なる行動』とは世間で褒め讃えられる行動だけではない。世間で卑下されるような行動を取ろうともだ。人を殺そうが平等な人権がある。人権とは誰かに、例えば国家に、共同体に、宗教によって保証されるものではない。元から誰もが兼ね備えているが故に『人権』なのだ。
その事に対する徹底さが『イラク「人質」事件と自己責任論』に投稿した多くの論者に解って居ない。だから特別視したくなる。そしてそれは人道主義でもヒューマニズムでもなんでもない。
いや、『仏教的人道主義』『仏教的ヒューマニズム』と言い換えよう。
もとい、『真宗的人道主義』『真宗的ヒューマニズム』と言い換えよう。行動力、能力を認める仏教の方が多いだろうし。
だが、私はそれを認めない。人間はどこまで行っても『平等』である。性別、国籍、生まれた場所等で人を差別するのは間違って居るのと同じく、その人の行動力で人を判断するのも間違って居る。
高遠菜穂子氏達が一部の人、いや、文部科学省から『価値ある人』と認定されようが、私は決して認めない。それは『平等』に反する。
で、実はここ数日、一番書きたい事は『真宗よゐこ』なのだ。『大谷派よゐこ』か。
大谷派では『社会運動』『平和運動』が流行中である。決して『一部』の人だけとは思えない。
まあ、教育を受けた環境にもよるのだろうが、少なくとも私が学んだ環境で、そのまま素直に学んで行くと『社会運動』『平和運動』に対して熱心になるはずだ。それは戦後民主主義と同じなんだが、少し違う部分もある。
何が違うと云うと、「どこまで行っても自己を問う」と云う事ではないだろうか?つまり徹底した平等主義ではないのか?
『100ばんめのサル』というのがある。経験した範囲では主に反原発や、エコ系から流行った印象を受ける。
まあ、このリンクが一番解りやすいかな?(
http://www.cinemawork.co.jp/cwhp/list/monkey.htm)
これは進化論である。で、私は進化論は認めない。
進化と変化では全然違う。市民運動には、悪いが、こういう進化論的な発想が多く満ち満ちている。故に『イラク「人質」事件と自己責任論』のような本が出来るのだろうが。
社会運動、平和運動、人道主義・ヒュ-マニズムが『平等』を目指すのなら、とことん平等にこだわるべきである。「それ等を実践している自分たちは特別」が、一番平等主義を妨げる事になっている。素晴らしい活動をした人は特別なんだろ?多くの労働者や、国民と違って特別なんだろ?
当然、生身の人間がやる事だから限界はある。生身の人間、つまり差別主義者がやる運動なんだから、当然、そんな事は出てくる。
で、そこからが本当の運動ではないのか?その運動に関わるのなら、まず一番先に自分がその問題から問われるべきではないのか?
「社会運動をやってればイイ」
「平和運動をやってればイイ」
となんぞ真宗の歴史で聞いた事がない。
「社会運動をやらないヤツは真宗門徒ではない」
「平和運動をやらないヤツは真宗門徒ではない」
とも聞いた事がない。
もしあるのなら教えて頂きたいものだ。
まあ、こんな事を書くと「エロ坊主は転向した!保守だ!仏教を解って居ない!大乗仏教の菩薩の精神を忘れてしまった!」等と云われたりもするかも知れんが(笑)