坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

不器用

2008年07月31日 | 坊主の家計簿
 7月31日

 諸々  焼き鮭         178円
     じゃこ         165円
     白飯          100円
     白菜漬け物        98円
     きつねうどん      260円
     映画         1800円
     居酒屋        4660円
     公文学費       2100円

 合計             9361円
 7月累計         151022円

 朝、帰宅。寝る。
 夕方から外出。
 映画『100万円と苦虫女』(http://www.nigamushi.com/index2.html
 素晴らしい。。。蒼井優ちゃんの演技の素晴らしさは当り前なんだが、なんちゅうんですか?人は独りでは生きて行けないにも関わらず、でも、それが上手くいかない。だから、一つの所に長く居れない。そんな人間関係の難しさを描き出した映画。
 帰りに居酒屋。んで眠い。

DSゲット

2008年07月30日 | 坊主の家計簿
 7月30日

 諸々  パイン缶3        300円
     焼そば麺2         40円
     ピーマン          38円
     豚バラ          210円
     オリーブオイル      238円
     キャベジン       1278円
     サロンパス        745円
     大麦若葉青汁       298円
     アスパラドリンク      58円
     ソイジョイ         88円
     DS          16800円
     美文字トレーニング   3420円
     タンガクラブ       500円
     ドグラマグラ      1400円
     ラーメン         685円
     漫画喫茶         980円

 合計             27078円
 7月累計          141661円

 御近所で財布を拾う。交番に届ける。
 ああ、なんて私は心優しい中年なのでしょうか。なんという素晴らしい中年なのでしょうか。
 と云う事で、御褒美に任天堂DSゲット。
 それは別にエエのだが、街中で買えば少しでも安いだろうと思ってミナミまで行って買ったのだが、全然変わりまへんがな。まあ、ポイントが付いて、液晶画面に貼るヤツも付いてたから別にエエねんけど。

 ついでに飲み。
 タンガクラブに行って、帰りにドグラマグラ。まあ、最近の定番コース。
 「今日は終電で帰るぜ!」だったのだが、帰ろうとした時間に『三ツ寺会館の蒼井優』が登場。久しぶりだったので、そのまま店に残る。
 んで、漫画喫茶で爆睡。

メンツ

2008年07月29日 | 坊主の家計簿
 7月29日

 雑費  歯医者            120円
     野菜計画6         1008円
     シトルリンウォーター10  1050円
     シトルリンウォーター10   950円
 食類  ぶっかけ蕎麦          68円
     甘長ししとう         100円
     発泡酒3           321円
     きゅうり           100円
     プリン            178円
     絹揚げ            103円
     ひつまぶし          200円
     ゲソ焼き           100円
     海鮮盛り           100円

 合計                4398円
 7月累計            114583円

 半端な時間に歯医者予約をしてたので仮眠なし状態。よって早よ寝よ。
 
 歯医者帰りにお買い物。この間に新しく出たのか薬局で売ってた『シトルリンウォーター』とかいうスポーツドリンク(?)が全然甘くなくて気に入ったのでまとめ買い。なんだが、よく行くスーパーに行くと10円安く売ってて、思わず腹が立ってしまったのでまたまた10本まとめ買い。まあ、気に入ったからエエねんけど。スポーツドリンクは常温で飲むから甘過ぎてしんどいねん。

 夕方にテレビを見てたら、何やら竹島が大変らしい。で、テレビを見てると韓国の右翼(?)が「日本の対馬も韓国の領土だ」とかなんとか云っているらしい。
 http://sankei.jp.msn.com/world/korea/080727/kor0807271857002-n1.htm
 
 よっしゃ、戦争しよう。まずは北朝鮮と裏取引をする。「残って居る拉致被害者で『日本帝国主義には帰りたくない』と云ってる人も含めて、とりあえず一端は全員日本に帰せ。その後に自由意志で北朝鮮に行けるようにする。また、死亡したりした人も明確に示せ。全員を返せば日本国内の『死亡なんかしていない』というムードも徐々に収まるだろう」と。
 で、日本海、竹島周辺に自衛隊を総動員する。なに、日本を攻めて来る国等どこにもありゃしない。災害被害の為の予備を残して、全ての艦船を竹島周辺に集めて、陸軍も日本海側に集め、空軍は常に海軍を空から守るようにする。
 当然、韓国にも緊張が走る。向こうも兵力を朝鮮半島の南側に集めるだろう。
 すると北側が手薄になる。韓国政府も北朝鮮に根回しするだろうが、それよりも強烈な取引を日本と北朝鮮との間でしておけばよい。北朝鮮にメリットのある取引をしとけばよい。
 で、日本は決して闘わない。戦闘行為はしない。憲法で出来ないのだから。憲法を改正しているヒマはない。だから、決して闘わない。あくまでも北側から韓国に攻め入る北朝鮮の為のオトリになるだけで充分だ。戦闘行為は北朝鮮がやってくれる。あとは朝鮮半島が統一されるだけの話である。
 その後、日本の領土になった竹島を「こんな『岩』があるから韓国との間でもめるんじゃ!」と、跡形もなくなるように爆破すればイイ。

 と、まあ、思わず私の中の愛国心が芽生えてしまったわけだが、韓国にとって『竹島』は日本の朝鮮半島植民地の象徴みたいな感じになっているのだろうが、あんな『岩』でもめるのはバカバカしい。あの『岩』がある事によってもめるのならさっさと米軍にパトリオットで爆破して貰えばイイ。
 まあ、以前にも書いたが、あの『岩』がある事によって相互の国の愛国心が芽生え、『敵』を作り出す事によって一体感が得られるメリットもあるのだろうし、韓国首相が竹島に行った事で韓国与党の支持率も上がるかも知らん。

【何かに縋りたい。何かに所属したい。そんな欲求も強い。特に若者だ。かつては全共闘運動もあった。しかし、今はない。反戦運動もカッコ悪い。それに、自分が弱くなった気がする。その点、愛国心・ナショナリズムの方は、国家と一体になり、自分が強くなった気がする。】(鈴木邦男。宝島社『日本の右翼と左翼』P2より)

 当然、別に愛国心だけではない。左翼でも同じであり、宗教教団でも同じであろう。
 国家だの、正義の味方だの、教団だの、カリスマだの、と。自分の意志を他人に預ける。自分の判断を何かに預ける。
 
 竹島なら地元の漁師さんにとっては生活の問題なんだろうが、その他の人達にとっての基本は『メンツ』なのではないのか?当然、韓国も。
 「メンツを潰しやがって!」が基本ではないのか?
 漁師さんの生活が困るのは大変だが、国のメンツなんぞ別にエエやん。大事なのは生活でっしゃろ。個々の生活でしゃっろ。
 メンツが先に立つと、個々の生活が潰されまっせ。

 んが、メンツ→面目、体裁、世間体にどうしてもこだわってしまう。
 
 禅の高僧で恵林寺の快川紹喜と云う人は『心頭滅却すれば火も亦た涼し』と云う言葉を残して焼き殺されたらしい。

【「人間はかなしく、弱いものだ、恵林寺の僧がもし大悟徹底していたら、火中であんなことは云わず、黙って静かに死んだことだろう、おそらく従容として、黙って死んだのが事実だと思う、火中にあって、心頭を滅却すれば火もまた涼し、などというのは泣き言にすぎない、けれども、その泣き言を云うところに、いかにも人間らしい迷いや、みれんや、弱さがあわられていて、好ましい、私には好ましく思える」】(山本周五郎『樅ノ木は残った』より)

苦悶

2008年07月28日 | 坊主の家計簿
 7月28日

 外食  ラーメン       650円
 食類  かやくご飯弁当    149円
     そば          19円
     胡椒2        156円
     枝豆          73円

 合計            1047円
 7月累計        110185円

 筆ペンの練習なんて、大キライだ!!!!!×1億ぐらいの気分。
 いやでんな、ちょっと奥さん聞いて下さいよ。え?「奥さんは差別語や!」ってか?ほんだら、そこのオバはん聞いて下さいよ。ついでに、オッさんも、ジジイもババアもガキも聞け!
 いやでんな、私は公文の筆ペンの学生でもあるわけなんよ。んで、今月はそのテストなんよ。で、当然ギリギリにならんとそんなもんするわけがなく、今日、気合入れてやってたわけでんな。まあ、今の所は『絶対に落ちない』という「専修学院か!」っちゅう感じなんやけど、専修学院(私が卒業した坊さん道場)の入学試験でも一応予備勉強したみたいに、今日もコツコツをやってたのだ。
 当然、いきなりテスト用紙に書き込むのは危険である。普段のテキストをやりつつ腕ならしでんな。で、腕ならしで疲れた。。。
 「もうダメ。阪神も連敗したし、もうアカン。」とヘタリつつも、なんせ明日が提出日なので敗戦処理に出てくるピッチャーのように頑張らんとアカンわけや。で、一応頑張ったわけなのだが、ヘロヘロ×100ぐらいでっせ。

 と云う事で、DSである。任天堂に魂を売ろう。何やら、任天堂から出ているDSというゲーム機にも文字練習ソフトが出ているらしいではないか。それが結構ゲーム性もあって楽しいらしいではないか。私にとって筆ペン練習とは苦痛以外の何ものでもなく、それは今まで体験したどれだけハードな仕事よりもストレスが溜る事であり、他に比べる事が出来るとすれば、今までの人生の中で比べる事が出来るとすれば学校給食を無理矢理喰わされた事に匹敵する苦痛である。仕事なら「これも金の為や」なんだが、筆ペンでっせ。。。っちゅうか、間接的に仕事に結びつくからやっているのだが。。。

 ああ、なんで私は漢字の国に生まれてしまったのだろう。『習字』等という、「そんなもん一生やっても原爆開発した方が勝ちや」と歴史が証明しているにも関わらず、中国が、日本が、植民地になった歴史を忘却したのか、してないのか知らんが、先祖復帰か、愛国心か『美しい文字の日本』かなんか知らんが、『習字』等というワケの解らん文化圏に生まれてしまったのだろうか。。。文字なんぞ記号やろ。記号を絵にしてるヒマがあるねんやったら、記号を鍛えんかい!と合理主義の私は思うのだが、それはそれで『世間』っちゅうもんがあって、その『世間』で仕事をしているから当然イヤな事もせんとアカンわけなんだが、イヤなもんは、イヤやっちゅうねん。

 オッちゃんはひつこいぞ。イヤなもんは絶対にイヤやからな。イヤやから辞める、ちゃうぞ。辞められへんもんもあるし、やるにはやるけど、イヤなもんは絶対にイヤやかなら。
 「あなた、そんなにイヤだイヤだと毎日を生きてて楽しい?」
 という、優生思想家には絶対に従わん。イヤなもんはイヤや。でも、イヤでもやらんとアカン事もあるだけじゃ。
 
 確かに、そうである。「イヤなもの」をイヤだと感じなければ『イヤ』な事はなくなる。イヤだと思っているのは私の『思い』でしかなく、私の『思い』だけがイヤだと思っているにしか過ぎない。その証明に習字が好きな人も居る。責任は別に習字にあるわけではない。あくまでも私の『思い』でしかない。
 でも、イヤなもんはイヤや、っちゅうねん。
 
 「だから、何度云ったら解るの?そんな気持ちで生きてて楽しい?」
 も、あくまでも『思い』の操作でしかない。「そういう風に思わなければイイのに」である。あくまでも『思い』でしかない。で、そんなに簡単に『思い』を左右されるのはマインドコントロールっちゅうやつやろ。優等生が得意なやつやろ。劣等生の私は「イヤなもんはイヤ」。
 甘かろうが、なんだろうが、知った事ではない。イヤなもんはイヤなのだ。

 「じゃあ、イヤなら辞めたらイイじゃん。辞めたら『イヤ』という気持ちもなくなるし」
 って、なんで『苦』から逃げんとあかんねん。お前等、ヒッピーか?

 イヤなもんはイヤである。イヤと感じるのは私の限界である。だからといって、例えば「人生がイヤ」「家族がイヤ」「人間関係がイヤ」といって、バブル丸出しの「イヤな事から逃げたらエエやんけ」は単なる逃げやんけ。
 『思い』の操作で、イヤな事を『楽しみ』に『思いこむ』のも逃げやんけ。単なるアヘンやろうが。
 
 ああ、っちゅう事で、辞めようと思った習字も辞めんとこ。

 ついでに今日の新発見。家計簿を付けた後のレシートは油取紙に使える。

ボケー

2008年07月27日 | 坊主の家計簿
 7月27日

 外食  ぶっかけ小        280円
 薬局  エスカップ12      628円
     シトルリンウォーター3  315円
     ショウガ          98円
     ゆば乳豆腐        198円
     発泡酒2         370円
     彩弁当          199円
     餃子           110円

 合計              2198円
 7月累計          109138円

 筋肉が。。。と云う事で、御無沙汰の自宅風呂。暑い、っちゅうねん。でも、足湯しながら本を読んだりして、昼間に加えて汗を大量放出した後に、湯船に浸かる、っちゅうのはナカナカええもんやなぁ。。。やっぱ。
 っちゅう事で、少し復帰。肩がこっているみたいだが、これは今度御近所温泉でマッサージ三昧やな。
 
 お風呂でマッタリしたので、ボケーっとしてます。

仏弟子のハードル

2008年07月26日 | 坊主の家計簿
 7月26日

 食類  充実野菜6       1068円
     MIU3          204円
     焼そば麺          28円
     モヤシ           29円
     豚生姜焼き        209円

 合計              1538円
 7月累計          106940円

 落語会終了。終わった後に門徒さん達と飲んでいたのはエエのだが、なんか体が。。。筋肉がダルい。今日も暑かったしなぁ。。。
 と云う事で、帰って来てバテる。散々バテたので少し回復。

 落語会に出てたある落語家さんの話の枕でこんな話をしてはった。何やら芸歴9年らしく、9年もやっていると後輩が出てくる。その後輩が最初に見た落語が、その落語家さんなのだが、後輩はその落語家さんの落語を聞いて落語家になろうと思ったらしい。
 「俺の落語がそんなによかったか?」と落語家さんが聞くと、後輩は「いや、あんなのでも落語家なら俺でもなれると思った」と云ったそうな。まあ、落語の『枕』だから、ホンマかどうかは知らん。

 けど、ふと思う。
 私は近年稀に見る好青年である。心優しく今月だけでも不景気なタクシー業界に1万3千円もそれ程多くない生活費の中から支払っている。「いや、ここで俺がタクシーに乗らなければタクシー運転手さんの生活が困るではないか」という事で、心優しく素晴らしい私は本当は乗りたくないタクシーに乗っている。
 当然、こんな素晴らしく心優しい私のマネ等誰も出来ない。誰もが出来る事ではない。こんなに素晴らしいのは世間を多く見渡しても私ぐらいなものである。本当に、本当に私って素晴らしい。
 で、こんな素晴らしい私のマネは当然出来ない。しかし、これはあくまでも『私個人』の素晴らしさ、心優しさであって、決して『仏教徒』としての行ではない。

 え~。。。こんなに素晴らしい私、って、もう飽きたからエエな。
 仏教徒、仏弟子。僧も俗も引っ括めての仏弟子、仏教徒。
 「あんな事は決して出来ない」「あんなに苦しい行は決して出来ない」→「だから辞めとこ」
 は面白くない。
 「あんなのでも仏弟子なら、俺にだってなれると思った」
 の方が面白い。

 ここでタイトルを『仏弟子のハードル』と決定。
 仏弟子のハードル。
 ある恩師が若かりし時に書いた宗憲(宗派の憲法)の草案で僧侶資格を消そうとした。僧侶資格を消して、単なる門徒。で、その中で専門的教育を受けた者を『教師』と。んが、今は宗憲でも『僧侶』『門徒』と規定がある。それを消してしまおうという革命思想でんな。当然、モロ影響を受けているのだが。
 『僧侶』『門徒』と規定があるから、『僧侶』が何か特異なものになる。
 「僧侶として」等と聞くが、あくまでも役割分担でしかない。生き方としてはあくまでも仏弟子でしかない。門徒でしかない。よって、真宗教団では『僧侶』も『門徒』も同じ行しか、念仏しかしていない。行の内容は全く同じでしかない。
 当然、世俗の価値観での「あの人は素晴らしい」「あの人はダメだ」とかはあるだろうが、当然、そんなものは世俗の価値観でしかない。どんなに世俗の価値観で素晴らしい念仏者でも、どんなに世俗の価値観でダメな念仏者でも、念仏しか申していない。
 素晴らしいかどうかは評価が分かれるだろうが、東條英機氏だって、同じ念仏者である。戦争に反対して死んだ(殺された)念仏者であっても、東條英機氏と同じ念仏者でしかない。
 資料的に少し危ないらしいが念仏を弾圧した後鳥羽上皇も晩年は念仏者になった限りは、後鳥羽上皇によって殺された念仏者達、流罪にあった念仏者達と同じ念仏者でしかない。
 つまり同じ仏弟子でしかない。
 親鸞は

 無戒名字の比丘なれど
 末法濁世の世となりて
 舎利弗目連にひとしくて
 供養恭敬をすすめしむ
 (親鸞)

 である。
 つまり、釈尊教団の高弟ツートップと念仏者が『ひとしくて』である。
 え~。。。無茶苦茶な話なんだが、一応そういう風になっている。
 っちゅうか、仏の弟子である事には変わらん。

 しかし、筋肉が。。。寝よ。

都市伝説

2008年07月25日 | 坊主の家計簿
 7月25日

 外食  回転寿司       439円
 雑費  ジュース        35円
 
 合計             474円
 7月累計        105402円

 回転寿司に行く。お寿司2皿と茶碗蒸しを食べた段階で悩む。「これって客単価安いよなぁ。。。」。まあ、別にエエっちゅうたらエエのだが、丁度『インドマグロ中トロ』が流れて来たのでゲット。これなら1つやし。
 食べながらある噂を思い出す。何やらお金持ちの人達が行く皿が回っていない寿司屋には『大大トロ』と云うのがあるらしい。大トロよりも脂の乗った、っちゅうか『脂』だけのトロがあるらしい。超高級寿司屋でも『幻』とされる逸品らしい。一度は食べてみたいものである。

 また、これも噂で聞いたのだが、ステーキ。私は「オーストラリアの牛肉は日本国内の牛肉よりも安全である」という明確なポリシーでもってOGビーフをこよなく愛しているのだが、何やら国産牛肉、え~『サシ』とかいうんやったけな?サシの一杯入った高級牛肉の中でも超高級な『サシだけの牛肉』があるらしい。つまり『脂』だけの牛肉らしい。美味そうである。OGビーフには『サシ』等がなく、っちゅうか、あるのもあるのかも知らんが、安い牛肉しか買わない私は知らん。んが、タマに『サシ』の入った牛肉を食べるとやはり美味い。
 思い出した『霜降り』とかいうらしい。その霜降りの牛肉の『霜』だけの牛肉があるらしい。あの美味なる牛肉の脂『だけ』なのだ。つまり『美味しい所だけ』である。当然、幻の逸品であるらしい。どれだけ幻であるかというと、決してテレビのグルメ番組でも流さない。あまから手帳にも載らない。決して報道なんてされない。何故なら一部の金持ちの人達が「こんな美味しいものを庶民に教えてはイケナイ。教えると『お前等だけが美味しいものを食べやがって!』と必ず暴動が起きる」と云われているらしい。
 その『霜だけ牛肉』は当然融ける。よって、炭火でも鉄板でもなく、フライパンで調理するらしい。熱したフライパンに塩胡椒で下味をつけた『霜だけ牛肉』を入れ、焼く。焼くと融ける。その融けた『霜だけ牛肉』に、ほんの少しだけ醤油で味付けをして食べるらしい。いや、『食べる』というよりも『飲む』らしい。熱々のとろけた脂を飲むらしい。口に入れる前から融けた脂を飲むらしい。絶品らしい。口と喉が大火傷するらしいが、絶品であるらしい。ああ、死ぬまでに一度は食べたいものである。

 また、『霜だけ牛肉』の豚バージョンもあるらしい。つまり『脂だけの豚肉』らしい。これも絶品であるらしい。調理法はやはり熱したフライパンに『霜だけ豚肉』を入れ、フライパンの中で『霜だけ豚肉』を融かすらしい。そして、その融かした大量の『霜だけ豚肉』の中に、我々庶民に親しみのある『赤身だらけの豚肉』にタマゴをつけ、小麦粉をつけ、最後にパン粉をつけて、余分なパン粉をたたき落してから入れてフライにするらしい。これがまた絶品であるらしい。ダシ汁で軽く煮て仕上げに溶きタマゴをサッとかけて、ネギを少々入れて、御飯の上に乗っけて食べると、これまた絶品であるらしい。ああ、死ぬまでに一度は食べてみたいものである。

 と、『やりすぎ都市伝説』を見て思い出した都市伝説。

 そういや、昨日、二次会バーで話してたんだが、『所属寺』っちゅうのが寺業界にはある。まあ、端的にどこかの寺に全ての坊さんは属しているわけでんな。他宗は知らんが、大谷派では。
 で、寺には住職がいる。住職以外にも坊主はいる。まあ、その寺の家族であったり、私みたいなヨソから来たもんであったり。
 『住職=師』であるといったような都市伝説があるらしい。
 私にはよく解らないのだが、そういう都市伝説があるらしい。
 それなら単純な話、多くの場合は寺の子どもが寺を継ぐから、その子どもにとっての師匠は親になる。まあ、自分の親を師と思う事もあってもエエとは思うが、『師』ってそんなに単純なものか?
 例えば、私は専修学院という道場に行っていたが、そこは『信国淳』という先生が大改革をされた。この信国先生の師は池山先生という。つまり『親』ではない。
 恩師・竹中先生の師は信国先生であり、今の院長先生の師も信国先生である(はず)。つまり『親』ではない。っちゅうか、所属寺の住職ではない。
 当然、『所属寺の住職=師』であっても構わないのだが、決してそれは固定化されたものではない。固定化されたのならそれは封建時代でしかない。
 また、真宗教団の基本は『同朋』である。『平座』である。『師』あるいは『先生』を持つ事は大事だが、師であっても先生であっても、同朋でしかない。対等な仏弟子でしかない。そんな事を恩師達から教えて頂いた。
 『教え』がなく、世俗の意味合いだけでの『師』なら、自分が弟子の時は師を崇めるが、自分が『師』になると偉そうになる。自分が偉く成りたい為の道として『師』を利用している。あくまでも『教え』が中心である。教えがあるから、師と共に教えを学ぶ事が出来る。師と共に同朋になれる。

日本残酷物語

2008年07月24日 | 坊主の家計簿
 7月24日

 外食  中華そば        304円
 雑費  ウイスキー      1900円
     エビオス錠      1580円
     イソジン        888円
     ファイバーブラン    198円
     ジェル         278円
     ソイジョイ2      176円
     ビール         500円
     バー         2000円ぐらい

 合計             7912円
 7月累計         104928円 

 買い物→タンガクラブ→2次会のバーへ。
 は、別にエエのだが、またタクシー。。。確か、ついこの前も乗ったよなぁ。。。しかも、今回はクレジットカード払い。痛いのぉ。。。
 なんだが、タクシー業界も大変らしい。タクシーの運転手さんも大変らしい。その大変な運転手さんの生活を私は助けたのだ。ああ、なんて私は心優しく素晴らしいのでございましょうか。
 ♪エロ坊主は素晴らしい
 ♪エロ坊主は素晴らしい
 そうだ、フランス人。っちゅうか、名前は知らんがイラク人質事件の時に「こんなに素晴らしい人達に自己負担で帰国させるような酷い国ザンス」とかなんとかヌカして、「だったら私が払うザンス」とかヌカした金持ち道楽のフランス人。多分、「おう!鯨を食べるなんて、なんて日本人は残酷ザンス」とかヌカしているフランス人。鯨を食べないから差別主義者になったフランス人。私にタクシー代を払わしていいのか?
 「おう!こんなに心優しく素晴らしいエロ坊主さんに、自己負担でタクシー代を払わす事はあってはいけないザンス」とか云え。「国が払わないのなら、私が払うザンス」とか云え。云って、タクシー代を銀行口座に振り込め。
 
 と、思いつつ、ああ。。。

「誰でもよかった」

2008年07月23日 | 坊主の家計簿
 7月23日

 雑費  歯医者        120円
     歯ブラシ8     1200円
 食類  穴子丼        200円
     カニマヨ       100円
     白魚         100円
 
 合計            1720円
 7月累計         97016円

 さっきまで関西ローカルの『今ちゃんの「実は…」』を見てたら、最後辺りで番組中断。また大きな地震が東北であったらしい。活動時期かなんか知らんが、イヤなもんや。。。

 歯医者は傷口点検&消毒のみ。ついでに歯ブラシ購入。
 傷の治り具合もエエという事らしいので、ビールを。。。
 というか、実は昨晩も誘惑に負けて1缶だけ飲んでしまったのだが。。。


 昨日
 >まあ、誰が見ているか解らないから、過激な事は書けない。
 と書いたが、これが『公』意識。世間の眼を気にしていると云う事。世間の眼を気にして評価を気にする。

 「誰でもよかった」という言葉が流行っているらしい。
 「誰でもよかった」

 「クソ、苛つくのぉ。。。誰でもエエから刺してブチ殺したる。よっしゃ、この駅ビルで最初に会った人間から順番に無差別に刺し殺して行ってやる。うわ~!なんでゴルゴ13がこんな所に居るねん。絶対に刺されへんやんけ、こっちが殺されるやんけ。。。」

 ゴルゴ13は刺せない。多分、セームシュルトも刺せない。ヴォルグハンも、佐山聡も、山本キッドも無理である。
 っちゅう事は、無差別ではない。多分、「こいつなら刺せる」と選んでいると思うのだが、どうなのだろうか?
 「誰でもよかった」と云いながら、殺す相手は『自分より弱そうなヤツ』ではないのか?
 よって、「自分より弱そうで、刺せる相手なら誰でもよかった」か。
 さみしい話や。

 世間。
 まあ、様々な価値観があり、様々な集団がある。それ等を含めての世間。自分以外の、自分の周囲の世界。
 「きらわれたくない」「孤独になりたくない」「その場で居場所を確保したい」等々。
 よって、世間を怖れる。世間の中で生きていけない自分を怖れる。「このままでは世間で生きていけないではないか?」と公文の筆ペン練習をする。勉強をする。努力し、世間で生き残ろうとする。
 「私は世間で生き残る為にこんな努力をしました」
 「私の修行はこんなに厳しい」

 世間。自分が生きているにも関わらず、その現実よりも世間での価値観、居場所を求める。だから、努力や修行が大事。イヤやけど大事。それが世間で生き残る為の道。
 よって、そういう風に一生懸命努力して成功者になった人を評価する。勝ち組バンザイ!である。
 「あの人はあれだけ努力して、ホンマに素晴らしい人やで」等々。
 「あんたも大きく成ったら、あんな立派な人になるんやで」等々。

 哀しいかな、私も当然の如くそういう世界に生きている。努力はイヤだが、世間の価値観の中で生きている。
 だから、『世間虚仮 唯仏是真』(世間は虚仮であり、ただ仏の世界だけが真である)という言葉が響いて来る。

 世間は「誰でもよかった」から弱者を殺す。
 仏は「誰でもよかった」から、弱者を救える。無差別であるが故に、本当に誰でもイイが故に弱者も救える。仏教の伝統では真宗仏教という、念仏という『誰でも出来る』修行方法しか選択しなかった所もある。
 世間の「誰でもよかった」は弱者を殺し、仏の「誰でもよかった」は弱者をも救う。それが仏の仕事だから。

 自分より弱い者しか殺せないのは強者ではない。ただ、『自分よりも弱い』という相互関係の中での『強者』でしかなく、自分の思い通りに支配出来る相手は自分よりも弱い相手でしかなかっただけの事であり、単なるヘタレでしかない。ヘタレであるが故に、自分よりも弱い他人に対してしか強者になれず、自分が強者である事を証明したい為に自分よりも弱い者を叩く。

 世間。世間的価値観、あるいはその共同体内に置いて強者になろうとする。努力、修行である。
 弱い自分は見せれない。いや、弱い自分を見せる事により、弱い自分を売る。売る事によってその共同体内、あるいは世間での居場所を作ろうとする。そういうやり方もある。それで他人の関心を惹く。それで他人の関心を惹く人はそれでしか他人の関心を惹けないという悪循環に陥る。それは『常に強くならねばならない』と云う事と同じである。
 常に、何かの差別的な価値観に支配されている。決して「誰でもよかった」ではない。「誰でもよかった」のなら自分のプライドが保てない。「他の人と一緒じゃイヤ!」である。「私だけを特別に見て」である。
 孤独である。孤独であるが故に世間での評価を求める。共同体での評価を求める。常にそんな事に振り回されている。

 そういう中で「思い通りに生きたい」と。自分がやりたい事をやりたいし、出来なければ自分がイヤになる。世間もイヤになる。
 「なんで私だけが。。。」になる。
 それが自我意識の限界。私の中の世界の限界。小さい世界での限界。

 「誰でもよかった」の世界。無差別の世界。
 「誰でもよかった」が故に、何か特別な存在でなく、私が私であり、あなたがあなたでしかない世界。
 「誰でもよかった」が故に、無条件。本当に誰でもイイ。どんな人でも構わない。全く構わない。そういう世界。無差別の世界。
 
 「誰でもよかった」と云いながら、「無差別」と云いながらも、結局自分の価値判断での中での弱い者虐め。
 ではなく、自分の価値判断が『間違っている』と。「誰でもよかった」等と云いながら、結局、自分よりも弱い人間を選んで虐めていた、と。どこまで云っても自分の価値判断からは離れる事が出来なかった、と。
 だからこそ、そういう弱者である『私』ですら認めてくれる世界を求めたい、と。
 本当に無差別の世界。「誰でもよかった」が故に、それぞれが、それぞれに「そのまんまでもエエやん」という世界。

 殺す相手を「誰でもよかった」でなく、生かす相手を「誰でもよかった」なら、ヘタレの自分でもエエねんやろうが。

 世間。答え。
 勝ち組と負け組。
 誰でもよくない世界。
 価値判断の世界。小さい、小さい世界。

 当然、世間は厳しい。でも、世間と云っても、その価値判断を作り出している中に自分もいる。それだけの話。
 だから、「誰でもよかった」等と云って殺人を犯した人でも、別に特別扱いはせずに、殺すのは反対だ。死刑は反対である。
 え?理由?んなもん、当然「誰でもよかった」。っちゅうか、仏弟子や、っちゅうねん。

『ネット右翼』の意見

2008年07月22日 | 坊主の家計簿
 7月22日

 雑費  レンタル         105円
     歯医者         2710円
 食類  ミネストローネ2     196円
     きゅうり          78円
     パン           140円
     MIU2          136円
     レタス          128円
     ハンバーグ        129円
     インスタント味噌汁     98円
     ステーキ         292円
     チキンラーメン5     298円

 合計              4310円
 7月累計           95296円

 レンタルは『ザ・ハリケーン』(http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD31902/
 これって一度観たかなぁ。。。まあ、別に2回観てもエエねんけど。
 なんだが、今日は見ず。

 お休みだったので、ゆっくりと昼ぐらいまで寝る。歯医者に電話して予約を入れる。その間に公文の筆ペンテキストを仕上げて、いざ歯医者へ。
 なんか、説明を聞いたのだが、休みなので頭はボケーっとしている。なんかよう解らんのだが、骨を少し削る。麻酔が切れている時間なんだが、別に痛くもない。昨夜のイヤな痛さが無くなってエエ感じである。んが、当然、今日は禁酒。さすがに口の中の骨を削った日に飲酒はまずいやろ。風呂も歯医者に行く前に入ったし、後で軽くぬるめのシャワーを浴びるだけにしよ。

 歯医者から帰ってテレビをつける。チャンネルを弄っていたら鈴木邦男が。。。ゲストなんだろうか?レギュラーなんだろうか?なんかよう解らんけど関西ローカルの『ムーブ!』っちゅう、情報番組に勝谷氏なんぞと並んでコメンテーターとして出てた。
 当然、見る。「ファンか!」なんだが、まあ、ファンである。
 ちなみに最近、私には『さまーずの三村』が取り憑いている。なんかよう解らんのだが、三村が取り憑いていて突っ込み癖がついてしまっている。よう解らんのだが。
 で、鈴木邦男のコメンテーターである。
 鈴木邦男って、情報番組のゲストとか、あるいは本等の言論は素晴らしいのだが、ああいう情報番組での様々な情報に対してコメントを云って行く事には向いてないような気がするのだが。。。ああいうのはキャスターから振られた事に対して瞬時に、勝谷のように少し過激で、しかも世間ウケのイイ言葉を返すのが良いのだろうが、鈴木邦男は重いのだ。まあ、勝谷の様に『軽くもなれる』のは、やっぱり無理っぽい気がする。まあ、それが故に鈴木邦男なんだろうが。

 せっかくなのでホームページを見てみる。
 『今週の主張』で変わらず過激な事を。。。
 http://kunyon.com/shucho/080721.html
 なにやら、ホームページによると
【自民党の加藤紘一(元幹事長)が拉致被害者5人について「国家と国家の約束だから北朝鮮に返すべきだった」】
 という加藤氏の意見に対して賛同したら
【「加藤発言」に対し皆が「もっての外だ」「許せん」と言ってる時、私はつい、「加藤発言」を弁護した。もっとも、「そうだ。許せん」と一緒に批判することも出来た。でも、私は加藤さんの真意を知ってるし、加藤さんの勉強会でも話した。だから、「ちょっとそれはひどい」「加藤さんの発言も、もっともだ。理がある」とフォローした。そしたら、ドッと批判が私にきた。】
 らしい。
 変わらず過激な人である。

 当然、鈴木邦男氏は右翼である。
 なんだが、この鈴木邦男の過激さって、排他的ではないな。『排他的な事を許さない過激さ』か。

 しゃて、ネット右翼である。っちゅうか、『ネット右翼』という人格も思想もない。鈴木邦男が右翼であるのが証明なんだろうが、『右翼』という人格もないし、思想だってそれぞれである。鈴木邦男が本当に「右翼か?本当は親鸞主義者ちゃうん?」と云いたくなるが、まあ、本人が『右翼』と云っている限りは右翼なんだろう。
 で、ネット右翼。うちにもタマにトラックバックで来る所が『ネット右翼』かどうかは知らん。本人が「私はネット右翼である」と宣言したのならネット右翼なんだろうが、まあ、それでなければ『ネット右翼』ではない。
 また、『ネット右翼』であっても、何か全国のネット右翼を取り仕切る団体があり、そこの意見に全てのネット右翼が従っていて、どんなネット右翼であっても『同じ意見』しか云えないのであれば、それは『ネット右翼』としての意見なんだろうが、実際にはそんなもの等ないのであろうし、よって、結局それぞれの意見でしかない。
 『ネット右翼』を本人が名乗っていても、あくまでも『ネット右翼の一人に意見』でしかない。それは仏教に様々な流れがあり、日本だけでも様々な宗派や教団があり、それでも同じ『仏教徒』である事と変わらない。『仏教徒』としての意見であっても、結局『いち仏教徒』の意見でしかない。世界の仏教教団を統一する機関がないだろうし、つまり、世界中の仏教徒としての意見等あり得ない。ネット右翼も同じである。

 と云う事で、私も今日からネット右翼を名乗ろうと思ったのだが、「仏教徒やんけ!」なので辞め。

 で、無茶苦茶当然の事なんだが、ネット上で右翼的な事を書き込んで居る人は、ネット以外でも右翼的だと思うのだが。ただ、普段、そういう事を喋る『場』が周囲になければ『ネット上だけ』になってしまっているのかも知れないが、それは『場』の問題でしかない。『場』があればネット以外でも意見は云うだろう。当り前ながら。
 だから、ネット上には色々なサイトがあり、ミクシィなんぞには『コミュニティー』なんぞがある。それだけの話でしかない。
 私はブログで好き勝手な意見を書いているが、それは他の人達も同じだろうし、当然『ネット右翼』と呼ばれる人達も同じでしかない。
 意見は、どこでどういう形で云おうが勝手である。匿名がダメなら、全共闘世代の左翼だって顔にタオルを巻いてデモに参加してなかったか?「自分の意見があるのなら、別に公安に写真を撮られても構わないではないか。もっと正々堂々としたまえ」というのが強者の意見でしかないのと同じく、『ネット右翼』に対する偏見はおかしい。
 ブログであろうが、ネット掲示板であろうが、書き込んで居るのは『人』でしかない。ネットがネット自体で書き込めるわけがなく、人が間違いなく書いている。

 「ネットだから過激な事が書ける」というのもおかしい。
 私は差別ネタが大好きだが、これはネットでは絶対に書けない。っちゅうか、タマに『毛唐』とか書いているが(笑)。
 まあ、誰が見ているか解らないから、過激な事は書けない。
 「そりゃ、あなたが特別なのよ」と云うのもおかしい。私もあくまでもネットで遊んで様々な意見を書いている他の人達の中の『一人』でしかない。

 で、『ネット右翼』。
 この『ネット右翼』と呼ばれる人達に対する偏見がある。その偏見の底は『正々堂々』という非常に右翼的な事だったりすると思うのだが、どうだろうか?

 ちなみに真宗仏教の歴史ではこういう言葉がある。
【順誓申されしと云々、常には我が前にては言わずして後言いふとて腹立することなり。我はさようには存ぜず候。我が前にて申しにくくば、陰にてなりとも我が悪き事を申されよ、聞きて心中を直すべき由申され候。】(蓮如)
 まあ、「陰口でもエエから、批判してくれ」と。

 しゃて、長々となったが、明後日は素敵なイベントがある。
 詳しくはこちら(http://www.thangka.jp/event1.html#anchor)を見て貰いたいのだが、
 
 【積水本名裁判報告座談学習会
  平成20年7月24日(木)PM7時から9時まで
  於:Thangka Club
  参加費・・・500円】

 である。一時期、いわゆる『ネット右翼』の中で話題になり、嫌韓流の第三巻にも取り上げられた裁判である。
 当然、原告の徐文平さんも来られる。
 問い合わせ&参加申し込みはこちらに。
 (http://www.thangka.jp/event1.html#anchor

 意見なんぞ、様々な形で伝えればイイと思う。
 けど、裁判という現象でなく、あくまでも原告に対する意見を伝えたく、そういう『場』があれば、本人に伝えてもイイと思う。

【李さんは立場の違う右翼、3人も呼んでシンポジウムをやってくれたんだ。本当に偉いと思った。頭が下がる。】(鈴木邦男http://kunyon.com/shucho/080721.htmlより)

 私も参加する予定であるが、私は上記の鈴木邦男氏の言葉に感動するような人間である。当然、ネット上だろうが、ネット以外であろうが、論争の人なので違う意見に対しては批判するのだが、それ以前にそういう『場』を大事にしたい。
 その『場』での『答え』なんぞは要らないし「異議なし!」は面白くない。
 その場で何か有効的な結論が出される『場』よりも、違う意見の持ち主が同じ『場』で議論出来るという事が素晴らしい。 
 会話、対話、いや、様々な形であっても、意見を出し合える『場』が素晴らしい。
 よって、例えば『ネット右翼』が問題になり、ネット右翼の意見を排除する動きがあれば、それはおかしい。あくまでも『ひとつの意見』でしかないにも関わらず、その意見の内容によって排除する事はおかしい。誰かの、何かの意向に添わない意見を排除する事はおかしい。
 違う意見を表明出来ないのはおかしい。
 何かの『答え』以外の意見を表明する事が排除の対象になるのはおかしい。
 その『答え』が、例えどんな宗教であれ、どんな思想であれ、あるいは国家であり、倫理道徳であったとしても。そんなもんは人間が勝手に作り出したルールやろうが。そんなルールに従い、異物を排除する事はおかしい。
 排除されたくないが故に、常に『答え』に従おうとする。「私の意見は本当は違うのに」と思いつつも、何かの『答え』に従おうとする事は自分自身に対して失礼である。
 自分の意見は、どんな形であっても表現しても構わない。

社会起業家?

2008年07月21日 | 坊主の家計簿
 7月21日

 雑費  レンタル        105円
 食類  焼そば麺         20円
     パイン缶2       200円
     ちくわ          49円
     牛バラ         259円
     餃子           88円

 合計              721円
 7月累計          90986円

 レンタルは『死国』(http://www.asmik-ace.com/Shikoku/)。純愛物語やな。

 今日は御仕事早めに終わる。ついでに急遽「明日休み」との事。ラッキー♪なんだが、え~と、歯が痛い。歯、っちゅうか、以前に抜歯した親知らずの辺りの歯茎が痛い。口内炎とか歯槽膿漏用の薬を塗ろうと口の中に指を突っ込んで痛い辺りに薬を塗ると、なんかよく解らん突起物が。。。骨か、歯なのか知らんが、そんなもんがやなぁ。。。そういや、数日前から微妙な違和感があったのだが、これが原因やったのかな?
 っちゅう事で、明日のお休みは歯医者で終了。予約してないけど、本読みながら待ってたら治療してくれるやろう。クーラーも効いてるし。

 さっきまで、これまた途中からというか、殆ど最後辺りしか見てないのだが『カンブリア宮殿』っちゅう番組を見てた。熟女ナンバーワンの小谷真生子が出ているはずの経済ニュースを見ようとしたら番組延長かなんなのか知らんがやってた。
 何やら『社会起業家』とかいう人達の特集だったらしい。
 「おお、これは一番キライなジャンルではないか」と云う事で悪口を書きます。だって、歯が痛いんだぜ。歯が痛い時は八つ当たりするのが一番。ん?よく解らんが、やっぱし気になる。

 18歳ぐらいの時に『関西リサイクル運動市民の会』っちゅう所でしばらく働いていた。バイトから入って、社員(スタッフ)になった。なんだが、18いうたら私の中ではバリバリの思春期気分が残っていたので辞めたのだが、非常にイイ勉強をさせてもらったと思う。
 代表は高見裕一という人。
 今は知らないが、当時の高見さんは市民運動ノリがキライだった。元々市民運動ノリから始まった団体であり、スタッフにも運動家が結構居た。なんだが、なにやら私が入った時辺りは路線変更をしたかったのか、東京から出張でやって来た時に初めて会った時に私を捕まえて「市民運動ノリは消そうと思う」みたいな事を云ってはった。
 ついでに『夢』じゃないけど、理想も聞いた。「今は無理やけど、初任給で一流企業に負けたくない」と。つまり、市民運動ノリで働くのでなく、純粋に企業としてやって行きたかったのだと思う。確か、「それでないと運動は続かん」みたいな事も云ってはったし。
 検索すると、私が居た時に会議で話されていた『らでぃっしゅぼーや』の株を手放されたようである。
 http://miyazaki21.com/toushi/toushimenu.html
 この記事自体が古いのだが、記事内にある

【「でもね、理念が広がるなら、ほかの会社に担ってもらって構わないと思っていた」と高見さん。
「我々が続けるよりも、キューサイさんの経営方針と資金力なら、どんどん会員を増やして5年以内の上場も可能やと思います」】

 と云う言葉が非常に高見さんらしい。
 ついでに検索すると『出る杭になる?: NGOでメシを食う!』(http://www.bk1.jp/product/01567684)というタイトルの本も書いているみたいである。これも非常に高見さんらしい。
 で、この高見裕一という人が『社会起業家』かというと、私には単なる『企業家』にしか思えん。「一流企業並みの給料」というのは善もクソもないやろ。単に商売。

 坊さん学校を最初に卒業してから坊主バーに出戻りしないとイケナイ時までの2年間、共同作業所で働いて居た。『共同作業所』つまり、『障害者』と呼ばれる人と『健常者』と呼ばれる人が半分半分の作業所。っちゅうか、純粋なパン屋。
 出来た時から知っている、こちらは純粋の市民運動家の人達が作り上げた作業所。だから気合が入って居て「障害者も健常者も給料は一緒!」という、かなり画期的な事をやったらしい。他は知らんからそれが当り前だと思って居たのだが。ただ、私が入った時には、それでは人材が集まらない、と云う事で、若干、数万円の格差があったが、あれも『一時的な措置』だったらしい。
 代表も障害者。詳しい事は知らんが、脳性麻痺かなんからしい。
 で、代表は助成金を打ち切りたかったらしい。
 ちなみに売り上げのうちに最大の割合を持つ宅配生協みたいな所の殆どのお客さんは、そこが共同作業所である事を知らなかったと思う。だからパン屋。あくまでも障害者と健常者が一緒に働いているだけで、そういう単なる『パン屋』。
 何やら代表曰く、運動の中で助成金を獲得する運動をして来たが、助成金がある事によって『生きる力』が奪われた感覚がある、と。だから、出来れば助成金なしでも経営として成り立つようなパン屋にしたい、と。要するに『共同作業所』というレッテルから離れて、単なる『パン屋』にしたい、と。

 そういう個人的な経験があるので、今日観た『社会起業家』っちゅう言葉に妙に違和感を感じる。
 変な話だが、それ程金儲けに熱心にならなくとも生きて行けるわけやし。それでも商売は商売だし、企業は企業でしかないと思うのだが。
 今日の番組を観ていて、一番違和感があったのは『善的』だった事。
 「なにか社会に役立てるような在り方」やったけな?そんな発言があったと思うのだが、死国、ちゃうわ、四国のうどん屋なんぞを筆頭にすべての商売が社会に役立っていないか?
 世界一の金持ちから落ちたのかどうか知らんが、Mac派の敵であるビルゲイツなんぞはどれだけ社会に影響を与えているのだ?当然、Macの方が使い易いのだが、しかし、ビルゲイツ一派のパソコンを通じて言語に障害がある人達や、人見知りが激しくてコミュニケーションが苦手な人達がコミュニケーションを取る為の道具としても、もの凄く社会に影響を与えていないか?
 なんか、単なる企業家、商売人ではなく、『社会起業家』という事いう言葉には『善的』なものを感じて、ちゅうか、単なる差別意識を感じて非常にうっとうしい。
 生活が成り立たなくとも出来るのは、単に実家が金持ちとかそういう理由なんだろうし、あるいは純粋に『好きな事をやっている』だけでエエのではないのか?
 好きな事を仕事としてやっている。
 つまり、潰れたがエエBARであった『プカプカ』や『ファニーメイ』のマスターの様にやな。単に好きな事をやっていた『だけ』ではアカンのか?2件とも、少なくとも大阪のロックバー界には多大な影響を与えたぞ。

 『好きな事をやっているだけ。』と云う事に、善もクソもない。あくまでもそれぞれの生き方でしかなく、そこに善もクソもない。
 「これは善だから、世間から認められないのはおかしい」とは善に酔い、善に狂っているだけの話。
 
 言い換える。
 「私は善をやっているのだから、世間から認められるべきなのだ」
 「私は善をやっているのだから、私は私を認める」

 明日は休みなのだ。しかも歯茎が痛い。よって毎度の『イラク人質事件』でんな(笑)もおエエか。
 まあ、何が『善』なのか、なにが『悪』なのかなんぞはそれぞれの価値観でしかない。宗教観や、思想の問題であり、時代社会の問題。
 善をした人は社会から居場所を与えられ、悪をした人は社会から居場所を奪われる。
 だから、「私がやりたい事」でなく、『善』になる。
 『善』であるが故に、そこに自分のアイデンティティー(自己同一性)を見出す。
 善の側に立つ事によってしか、自分を自分として認められない。そこにあるのは孤独。底にあるのも孤独。

 「あ~ら、○○ちゃん。あなたはとってもイイ事をしましたね。私はそんなあなたの事が大好きですよ」
 と、
 「どんなあなたであっても、私だけはあなたの事を見捨てない」
 とは、全然違う。
 条件付きの愛と、無条件の愛とでは全く違う。
 
 都合が良ければ受け入れ、都合が悪ければ排除する。
 思い通りになれば受け入れ、思い通りにならなければ排除する。
 それが娑婆世間。っちゅうか、日頃の生活そのもの。
 それが故に『善』でないと困る。

 そうではなく、ただ単に「私の人生である」と。善もクソもなく、私の人生であると。
 『社会起業家』等と、他の企業家、商売人と差別する事なく、単に「私の人生である」と。「私の人生の中で選んだ仕事である」と。シンプルにやな。。。

 『公』と『個』
 『公』と云っても、『個』より『公』を先に立てる『公』でなく、どこまでも『個』を尊重する『公』もある。
 個を尊重する公、まあ、『違いを認める世界』っちゅう言葉があるが、そういう世界。
 当然、社会起業家の人達も『個』を尊重するが故に、つまり困っている人を助けたい等という善的な気持ちでもってやられておられるのだろうと思うが、これがでんな、やるのが差別大好きの人間がやる事でんねん。苦労を差別にする人間がやる事でんねん。
 だから、あくまでも「私がやりたい事でしかない」とやなぁ。他の多くの人達と全く同じの人生であって、全く同じの労働であって、全く同じの商売でしかない、とやなぁ。
 それが『同じ対等な人間』っちゅうもんでしゃろ。

勝負の世界

2008年07月20日 | 坊主の家計簿
 7月20日

 食類  黒霧島       1580円
     発泡酒        185円
     うずら豚フライ     87円
     うな重        275円
 雑費  レンタル       105円

 合計            2232円
 7月累計         90265円

 先日出かけたショートツーリングでは九度山辺りにも行って来た。真田親子が幽閉されていた九度山である。ウロチョロしながら、ふと思ったのだが、ここに真田親子を幽閉させる、っちゅうのは、「豊臣様、どうぞこの親子を大阪城に招き入れて下さい」と云う様なものである。しかも、背後に高野山があるから情報も集まりやすい。あんな所に幽閉させた家康はさすがである。
 何が『さすが』かと云うと、真田親子等の浪人を集めてナンボでないと大阪方は徳川と戦が出来ない。いくら徳川が外圧を与えても兵を挙げる条件が整ってなければ兵は挙げれない。真田親子という『元大名』、関ヶ原で破れた大名を九度山に幽閉する、っちゅうのは、「さすがは徳川殿」っちゅう話やな。
 で、まんまと豊臣方は挙兵した。金が大量にあろうが、城がいくら頑丈だろうが、豊臣家中枢がダメなら無駄である。

 と、なんでこんな事を書いているのかというと、さっきまで『茶々』(http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD11900/)というDVDを今日もお疲れモードだったので観ていたのだが、余りにも下らん。制作費が10億だったらしく、また、主演を除けば、結構エエ役者も出ている。なんだが、主演の『元宝塚』のネエちゃんの圧倒的な芝居の下手さ、っちゅうか、宝塚時代はよく知らんが、映画の中では観るに絶えない芝居の下手さであり、「これならまだ土屋アンナの方がマシではないのか?」と思うぐらいだった。で、映画自体としてもダメダメ。豪華な俳優人、豪華な衣装、結構な制作費であっても、映画を作る側がダメなら映画はダメやな、やっぱり。
 戦国ものにはかなり評価が甘いのだが、これはダメ。全くダメ。
 映画がダメなのと、末期豊臣家がダメだった事が、みょうにマッチして面白い話ではあるのだが。。。

 仕事が終わって「阪神、阪神」と、テレビチャンネルを。なんや、ナイターやったのね。
 チャンネルをあっちコッチにしていると、「おお!本田神父やんけ!」と、本田神父の顔がテレビに。本田神父がテレビに出ているのに感動してしばし観る。っちゅうか、10分もなかったのだが。
 検索してみると、NHK総合での『こころの時代』で14時からやっていたらしい。え~。。。どっかでビデオ借りてちゃんとみたいのぉ。。。
 本田神父は日本のスーパーエリート神父さん。多分、日本で有数の聖書学者でもある。
 でも、今は釜ヶ崎にいる。単純な話だ、日本での聖フランシスコ会のトップやった時に釜ヶ崎に巡回でやって来て、そこで『力』を頂いたかららしい。まあ、『力』を頂いたから、しゃーないわな、そりゃ。
 最後の少ししか観ていないのだが、変わらず『小さくされた者』についての話。そこからの視点でもって、自分を見つめる。見つめ直す。本田神父なら聖書も釜ヶ崎で出会った人達との経験でもって聖書を読む。学者なので聖書を訳す。本田神父自身は地位を捨てたが、今日の話では「地位は捨てなくてもイイ」と。「地位を捨てる事なく、自分のいる現場で、『小さくされた者』との出会いの中で経験した、得た視点でもって行動すればイイ」と。

 釜ヶ崎。まあ、色々な人も居るし、本田神父の様な人も居るし、運動家も潜り込んでいるし、一概には云えない。云えないが、まあ、器用でない人が多いわな。器用に生きれたら釜ヶ崎で生活しなくてもイイ場合の方が多い。当然、いわゆる『釜のおっちゃん』等という人格はない。居るのは一人一人の人間でしかない。一人一人の人間でしかないのだが、まあ、生き方が不器用で、まあ、世間からは『ダメ』とか、『負け組』とか呼ばれる人も多いのだろう。

 『ダメ』とか『負け組』とレッテルを貼られても一人一人の人間でしかない。そんな人間にレッテルを貼って「あなたもちゃんと勉強しないと大きくなるとあんな風になるのよ」とか無茶苦茶な言葉でもって差別されるのだ。
 なんだが、別にその差別を受け入れる必要はない。
 『ダメ』『負け組』とは、レッテルを貼る側の問題であり、レッテルを貼られた側がそれに従う義務はない。あり得るわけがない。

 『勝ち組』『負け組』とは資本主義の言葉である。ついでに資本主義バリバリのテレビでよく使われる言葉である。テレビという大マスメディアを通じて『勝ち組』『負け組』等と。
 勝ち負けなら、当然、勝ちたい。欲を満たす生き方を勝ち組と云うのだろうし、欲を満たせない生き方を負け組と云うのだろう。欲は欲であり、やはり自分の思い通りに生きたい。欲に支配され、欲に従事て居るから勝ち組はイキイキと出来る。自分を自分とする事を、自分の思いに従う事で実現する。
 欲に従う事が出来ない、自分の思い通りに生きる事が出来ないのが負け組なら、病人も負け組である。
 当然、病人の中にも高額な最先端医療を受ける事が出来る勝ち組と、受けれない負け組がいる。
 
 だが、死ぬ。
 死んだ後に、立派な葬儀が出来る勝ち組と、行政からの金を着服されて葬儀もせずに焼き場に直送される負け組がいる。これはこれなりに問題なのだが、所詮勝ち組、負け組といってもそんなもんだったりもする。
 共に迷いの人達。
 
 搾取する。勝ち組は負け組から搾取する。金銭的にも、生きる価値観ですら。
 金銭的に搾取するのも問題である。株主に高配当を渡しながら使い捨て労働者に対しては低賃金。の搾取。
 
 価値観の搾取。
 何故『負け組』とレッテルを貼られないとイケナイのか?単に欲望に従う事が出来るか出来ないかという、つまり『迷い』をより一層深めるか、深めないかだけの問題で『負け組』等と。

 人生に負けた。
 その『人生』とは一体なんなのか?一体、誰が、どんな権限でもって、人生に対して『負け組』等とレッテルを貼るの事が出来るのか?
 欲に従う事が出来るのが、つまり、自分の思い通りに障り無く生きれる事が『勝ち組』であり、自分の思い通りに生きる事が多く、障りが多いのが『負け組』なら、まるで『穢れ』の多い少ないで人を差別していた事と何ら違うのか?

 【天子天台 公家真言 公方浄土 禅大名 乞食日蓮 門徒それ以下】という言葉があるが、門徒は『それ以下』である。その言葉を『勝ち組』からの序列にするならば、門徒は『負け組』の筆頭であった。
 なんだが、真宗門徒は決して『負け組』なんぞとは思ってないはずである。

 現在のインドでは新しい仏教がある。インドはインド教でのカーストがある。最下層の人達、つまりアウトカーストの人達が仏教徒になったりもしている。単純な話だ。インド教の中での宗教観での差別であるから。仏教徒に改宗すれば自分自身での被差別意識はなくなる。単に世間が、カーストを強制する方が強制してくるだけの話である。

 人の能力は様々である。故に、勝ち組と負け組が出来る。
 問題なのは『負け組』でなく、搾取ではないのか?
 自分の思い通りに生きたいが為に、犠牲を考えない。いや、考えても『対等でない』と。
 対等であるのなら、犠牲や、殺や、搾取が課題になるのだろうが、「私はこれだけの事をやっているのだから当り前だ」等と。
 別にこれは経済だけの話でもない。慈善での勝ち組と負け組の中で、勝ち組は「これだけやっているのだから当り前だ」等と。
 慢心である。慢心であるが故に、搾取する側が『罪』を感じない『思い』を立てる。
 霊長類でもエエだろう。進化論でもエエだろう。人間が自然界から搾取する事を当然とする『思い』。当然、迷いでしかない。

 『勝ち組』と『負け組』。
 勝ち負け、欲に従い生きたい、思い通りに生きたい。そういう生き方自体が、『勝ち組』『負け組』を作り出している。
 なら、そういう『勝ち組』『負け組』の勝敗レースを辞めればイイ。当然、辞めれない。辞めれないが、「間違っている」と。勝ち組に憧れる必要はなく、自分が負け組だからといって自暴自棄になる必要も全くない。むしろ、自分も含めた『勝負の世界』を告発すればイイ。自分を苦しめる価値観を告発する側に立つ事によって、変わらず『勝ち組』『負け組』等と云い搾取をする世界を解放しようとすればイイ。平和を目指せばイイ。
 決して「私って負け組」等と自暴自棄にならずに、また、「勝ち組の仲間に入ろうとする事は勝ち負けの連鎖を自分が作り出す事になる」と、その事は愚かであると。
 「私は負け組ではない。みんなと同じ人間でしかない!」と。

【吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
 は、かくして生れた。
 人の世に熱あれ、人間に光りあれ。】(宣言より)

2008年07月19日 | 坊主の家計簿
 7月19日

 外食 ちゃんぽん       660円
 食類 鶏ミンチ        112円
    鶏胸肉          87円
    なめたけ         58円
    うどん玉         28円
    豆腐           98円
    水菜           98円
    もやし          29円
 雑費 たばこ(昨日)     300円
    タバコ10(昨日)  3000円
    レンタル        105円

 合計            4575円
 7月累計         88033円

 昨日、深夜帰宅だったので、今日はヘロヘロ。よってレンタル屋に行ってボンヤリ見れそうなビデオを探す。
 『東京原発』http://www.bsr.jp/genpatsu/に決定。ぼんやり観る。

 映画と全然関係なく。
 安田理深という大谷派のスーパービックネーム先生が亡くなられた後に部屋を整理していたら『片肺不全。不安に立つしかない』というメモが出て来たらしい。あくまでも『らしい』である。それに私の記憶が間違っているかもしらんし、あくまでも『らしい』と云う事で。

 この間、某学習会で「ビハーラは真宗ではない」という意見がある事に対して少し議論があった。
 まあ、当然、っちゅうたら当然だろう。『ビハーラ=真宗』なら、念仏は不要になる。『念仏=真宗』以外の論理はないだろう。
 それは別に『非戦=真宗』でも『解放運動=真宗』でもなんでもイイ。
 非戦運動=浄土往生であるわけがなく、解放運動=浄土往生であるわけがない。念仏は念仏でしかなく、念仏申す生活の中にビハーラがあれば、その人にとって『ビハーラ=真宗』になるのだろうが、それは直接的なものではない。直接的なのはあくまでも念仏でしかない。それは非戦でも、解放運動でも同じである。決して直接的な事ではない。
 
 ビハーラが単なる緩和ケアなら、それはあくまでも緩和ケアでしかない。
 遺族外来はあくまでも遺族外来にしか過ぎない。あくまもで『癒し』である。
 当然、癒しも大事である。私が専修学院という坊さん道場を一度卒業してから数年後にヘロヘロになってもう一度行った時に当時の院長先生は「まずはゆっくりと休んで下さい」と云ってくれたし。
 また、傾聴や寄り添う事も大事である。相手を相手のままに受け入れる事も大事である。
 だが、当然の如く、それ等がイコール真宗であるわけがない。

 『片肺不全。不安に立つしかない』という言葉がまた気になる。
 片側の肺がダメになった、自分の死がどんどんと近づいて来ている。それは外の誰でもなく私の人生である。だから引き受けなければならないのだが、煩悩がある。煩悩があるから不安がある。故に『不安に立つしかない』と、いう事なんだろうか?

 『不安を絶つ』のはアヘン。あるいは「まあ、パア~っといっときましょ」っちゅう感じか。
 『不安を和らげる』のは癒しか。癒しでもって不安を和らげる。
 『不安に立つ』は不安を私にする。不安なのだ。不安でしかない。そんな不安を消す事も、和らげる事もなく不安を不安として引き受ける。立つ。

 本を読んでたら安田先生のこんな言葉が出て来た。
【自分の分限を忘れている者を凡夫に呼び帰す。呼び帰された凡夫は単なる凡夫ではない。そのまま無限を実現する場所となっている凡夫である。】(二階堂行邦『自分が自分になる』113ページより)

 不安になる時が多々ある。そんな時に安田先生の『片肺不全。不安に立つしかない』という言葉を思い出す。
 不安であるが故に不安を忘れようとしたり、不安を誤摩化そうとする。でも、先生はそうではなく、『不安に立つしかない』である。
 変な表現だが、「不安であってもイイんだ」と。不安というマイナスイメージを消し去ろうとしなくても全く構わないと。そしてそういう事を言葉でもって残して呉れて、私がそれを知る事ができ、私の力になる。

 よゐこはカッコ付けでもあるので、「俺に不安なんてないぜ」に成りがちであって、それはそれなりに突っ張らなくては生きて行けない哀しみでもあるのだが、そうやって『不安』であるとかを否定する言葉を残して行く事によって、「不安であってらイケナイんだ」になる。
 違う表現では「いつも明るく元気よく」である。いつも明るく元気よく振る舞おうとする。そういう状態でない時は『世間』に出れない。
 出れないのは「出てくるな!」という事でもある。『明るく元気よく』が世間に出る条件になる。落ち込む、悩む、不安などは『マイナス』であり、『マイナス』であるが故に、世間に出れない。「出てくるな!」である。
 健康でないと、世間での居場所がない。自分で与えない。
 「申し訳ない」になる。「申し訳ないね。」になる。「こんな状態で申しわけないね」になる。
 それは排除である。「こんな状態で申し訳ないね」とは排除であり、「こんな状態では世間に出てはいけない」「世間に出てくるな!」である。

 当然、無理して出る必要もない。言い換えると「どんな状態であっても、そのままの状態で世間に出なければならない」というのも『元気』を中心にした思考である。健康第一の発想である。

 選択肢。
 「明るく元気よく」でないと世間に出てはいけない、というのなら選択肢がない。『出てはいけない』という選択肢しかない。社会制度で定められた『喪』である。『喪中につき』なんたらかんたらである。

 と、なんたらかんたら書いてたら眠くなったので寝よ。

『公』と『個』

2008年07月18日 | 坊主の家計簿
 7月18日

 諸々  グリーンティー     320円
     居酒屋        5800円ぐらい
     タンガクラブビール   500円
     ドグラマグラ     3800円
     タクシー       6500円

 合計            16920円
 7月累計          83458円

 所用で外出。
 で、なんか議論ばっかりしてたような気がするなぁ。。。
 で、気がついたら「あら、大変」っちゅう時間。タクシー帰宅。
 のはエエのだが、タバコを吸い過ぎて胃がパンク状態。

 『公』と『個』。
 『公』が独立したなにか特別なものとして『あり』、それに無条件に従わなければならない義務は一切無い。つまり『個』を無視して『公』を先に立てるのは、個人の忘却でしななく、当然、『公』から、自分と他人を差別している。

 まあ、諸々議論してたのだが、『個』より『公』を先に立てる発想を私が認めるわけがない。
 『個』の尊重は、自分の尊重に繋がる。
 『公』を先に立てる、つまり『世間体』に自分を売り渡す。売り渡すのは自分に自信がないから。「どんな自分であっても」といえない。世間的価値観でもって『認める』『認めない』という差別。そんな人生は空しく過ぎるだけである。

タヌキ

2008年07月17日 | 坊主の家計簿
 7月17日

 食類  唐揚げ弁当      290円
     ピーマン        80円
     万願寺唐辛子      70円
     しそ味噌       150円
 雑費  ガソリン       391円
     軍手         128円
     タバコ        300円
 外食  ラーメン       609円

 合計            2018円
 7月累計         66538円

 夕方からの仕事がキャンセルになったので、突然ツーリング。まずは目指せ猫の駅長。
 http://masatosan.blogzine.jp/cb/cat5280981/index.html
 なんか、過激な動物愛護団体からテロ攻撃をうけそうな狭く暑そうな駅長室に猫が3匹。うち1匹が駅長、他の2匹は助役らしい。んが、単なる猫やんけ。って、そんな事を言ったらアカンのか。とりあえずロマンを消し去ると猫が3匹駅に居てるだけ。う~ん。。。広告屋、偉いぞ。伊勢・二見ケ浦の夫婦岩を見た時以来の衝撃であった。んが、まあ、猫は猫や。行った時は3匹とも見事に猫らしく、2匹は勝手に寝てて、1匹の助役も「なんかようか?」みたいな感じでふてぶてしく居っただけ。「兄ちゃんはわざわざ見に来たのかも知らんが、俺等には関係ないし~」っちゅう感じで、見事に猫しとった。やっぱり、猫は猫や。偉いのは広告屋やな。
 
 で、次なる目的地はない。なんとなく高野山の麓辺りの里道、山道を夕暮れまでフラフラと。
 そろそろ帰ろうと思い、進路を帰宅方面に。山が。。。山の上に怪しい雲が。。。「こりゃアカン」と進路を晴れた方面に。で、「この峠は大丈夫や」という峠を越えて帰ろうとする。原チャリを走らす。んが、「大阪側、崖崩れで通行止です」「そんなもん関係ないわい!」と進む。んが、この山道、普段のこの時間なら抜け道になっているはずの道に車がゼロ。バイクもゼロ。「危ないのか?やっぱりダメなのか?しかしなんとかなるやろ」で進め、進め。「あかんわい、ボケ!」で峠を登りきる辺りで断念。向こうから全く車が来ない。暗い山道で、全く交通量のない山道で、だんだんと怖くなって来て、「辞めじゃ辞め」なんだが、冷静に考えると「通行止」やねんから当り前、っちゅうたら当り前なんだが。。。
 峠を降りていると小動物発見。「ん?イヌか?ネコか?」って思ってライトを向けるとタヌキだった。子どもタヌキが数匹、山道に居った。まあ、通行止で安心している時に原チャリとはいえ突然やって来たのだから向こうもビビっただろう。しかし私は「なんや、タヌキに化かされてたんかい」と、妙に納得して、若干ウケたのでオモロかった。ついでにミニ猪も発見。通行止の山道には普段みない動物が居ってオモロかった。
 
 今日は、純粋娯楽。全く用事がなく、また、誰かに会うわけでもない。単に一人での娯楽。娯楽で排気ガスをバンバンと。
 走る道。当然、『自然』とやらを破壊して造った道。タヌキや猪などの生活の場に、人間が「俺様の通り道だ!」と、道路を造り、その上を走る。ワケ解らんぐらいの虫が居て、きっとワケ解らんぐらいの生きもんが居てて、ワケ解らんぐらいにそれ等を殺して、あるいは生活の場を奪っている。
 当然、一切の痛みも感じずに走る。走って来て、帰って来て、軽く酒を飲みつつそんな事を書いている。痛みなどあるわけがない。痛みを、哀しみを感じたのなら気が狂ってしまう程の大量の殺。
 ふと、「私ってすげえなぁ。。。」と思う。何ら痛みを感じない。
 毎日ワケ解らんぐらいの犠牲を出しつつ生きているにも関わらず、全く省みようとしない。あくまでも気分である。気分で省みたい気分の時は、省みるだけ。あくまでも『だけ』の話。
 残酷の塊。

 エゴ。思い通りであって欲しい。
 山に道が出来て、道が舗装され、山にトンネルが出来る。舗装された道では雑草すら生きる事が出来ない。管理された空間。
 管理された猫。
 
 山道をヘルメット被って、原チャリで走る。エンジンを止めるとヒグラシとミンミン蝉。川の音。等などが聞こえる。
 『思い』の中では聞こえない声。


  あたかも牢獄を逃れるごとく
  人はみな自己の前を逃れんとすれども
  世に一つの大いなる奇跡あり
  我は感ず 『いのちみな生きらるべし』
  (リルケ)

 
 『思いの外』に『いのちみな』。
 当然、『いのちみな』の中に私がいる。私もいる。

【仏から信ぜられている-絶対に-何もかも承知の上で信ぜられている。】(曽我量深)