6月27日
外食 ラーメン 590円
雑費 100円ショップ 630円
エスカップ12 628円
除湿剤 158円
玄米黒酢 398円
防虫剤2 796円
合計 3200円
6月累計 107291円
ついつい豚骨ラーメンを食べてしまう。
ついつい唐辛子を沢山入れて辛くしてしまう。
ついつい昨日買った牛バラ肉を食べてしまう。
まだ無理やったか。。。お腹が。。。
その割に仕事が終わってひたすら家事。多分、買い物時間を含めると5時間ぶっ続けで。「あかん。。。ヘトヘトや。。。」っちゅう事で仮眠して、起きたらまた家事の続き。
まあ、御陰で部屋が片付いたのはエエのだが、まだ終わってないしなぁ。。。明日も結局足りなかった防虫剤を買って来て、今度は部屋に吊っている系の衣類に押し込まな。ネット通販で買ったシャツも洗濯は終わったけど、明日アイロンせんとアカンし。結構買ったから大変やな。
家事には終わりがない。当り前の話であって、毎日の事だから。まあ、タンマに今日みたいに普段放ったらかしにしている部分をまとめてやらんとアカン事もあるけど、毎日の事。明日、部屋掃除をして、風呂場の水垢をなんとかして、シャツにアイロンをかけても、家事は終わらない。明日には明日の家事があるし。
家事。日々の生活。
ふと、周利槃陀伽(=周利槃特)の事を思い出す。
諸々のリンクを探したけど、これがエエかな?
http://arukou.net/saiunji2/h16/zakki/culapanthaka.html
日々の生活を『煩悩』として頂く事が出来た周利槃陀伽(=周利槃特)。
当然、私自身の中で周利槃陀伽(=周利槃特)の事を思い出させるのもプライド(煩悩)である。
なんちゅうんですか?自己肯定とでもいいましょうか。
でも、それはそれとして、周利槃陀伽(=周利槃特)の事を思い出せるようになったのは、非常に簡単な話なのだが、私がその話を知っていたから。どっかで誰にか『教えて頂いた』から。だから、思い出せる事が出来る。よって、家事を散々やったという事を通じて周利槃陀伽(=周利槃特)を思い出す事が出来て、それを『ほこり』にしている私も見出す事が出来る。
検索してネットに落ちている仏の教えを読む事が出来る。
仏教を学んだからといって、それ程人間が変わったとは私自身の中では思えない。けど、『思い出す事』の中に仏教の歴史が入って来ている事だけは確かみたいだ。
何かの折に、ふと仏教の伝統の話を思い出す事が出来る。間違いなく、私の中に仏教が入り込んでいる。
家事をした誇りであったり、その中で周利槃陀伽(=周利槃特)の事を思い出したりするのは、自己肯定である。だが、その話を読むと、その事が『埃(煩悩)』である事も知らせられる。
欲があるから自己肯定しか出来ない。
でも、仏教を学んだが故に仏教の伝統の中で語られて来た言葉を思い出す事が出来る。自己肯定を『欲=煩悩』であると言い当てられる事が出来る。
様々な自己肯定をしている人達と同じ立場でしかない。
世間が仏教になっただけの話でしかない。
全く同じでしかない。それが故に、「いや、俺は仏教を学んだのだ」等と差別化している。仏教を誇りに使う為の道具にしている。差別化の道具にしている。
仏教徒というプライド。
「私は○○である」というプライド。
外食 ラーメン 590円
雑費 100円ショップ 630円
エスカップ12 628円
除湿剤 158円
玄米黒酢 398円
防虫剤2 796円
合計 3200円
6月累計 107291円
ついつい豚骨ラーメンを食べてしまう。
ついつい唐辛子を沢山入れて辛くしてしまう。
ついつい昨日買った牛バラ肉を食べてしまう。
まだ無理やったか。。。お腹が。。。
その割に仕事が終わってひたすら家事。多分、買い物時間を含めると5時間ぶっ続けで。「あかん。。。ヘトヘトや。。。」っちゅう事で仮眠して、起きたらまた家事の続き。
まあ、御陰で部屋が片付いたのはエエのだが、まだ終わってないしなぁ。。。明日も結局足りなかった防虫剤を買って来て、今度は部屋に吊っている系の衣類に押し込まな。ネット通販で買ったシャツも洗濯は終わったけど、明日アイロンせんとアカンし。結構買ったから大変やな。
家事には終わりがない。当り前の話であって、毎日の事だから。まあ、タンマに今日みたいに普段放ったらかしにしている部分をまとめてやらんとアカン事もあるけど、毎日の事。明日、部屋掃除をして、風呂場の水垢をなんとかして、シャツにアイロンをかけても、家事は終わらない。明日には明日の家事があるし。
家事。日々の生活。
ふと、周利槃陀伽(=周利槃特)の事を思い出す。
諸々のリンクを探したけど、これがエエかな?
http://arukou.net/saiunji2/h16/zakki/culapanthaka.html
日々の生活を『煩悩』として頂く事が出来た周利槃陀伽(=周利槃特)。
当然、私自身の中で周利槃陀伽(=周利槃特)の事を思い出させるのもプライド(煩悩)である。
なんちゅうんですか?自己肯定とでもいいましょうか。
でも、それはそれとして、周利槃陀伽(=周利槃特)の事を思い出せるようになったのは、非常に簡単な話なのだが、私がその話を知っていたから。どっかで誰にか『教えて頂いた』から。だから、思い出せる事が出来る。よって、家事を散々やったという事を通じて周利槃陀伽(=周利槃特)を思い出す事が出来て、それを『ほこり』にしている私も見出す事が出来る。
検索してネットに落ちている仏の教えを読む事が出来る。
仏教を学んだからといって、それ程人間が変わったとは私自身の中では思えない。けど、『思い出す事』の中に仏教の歴史が入って来ている事だけは確かみたいだ。
何かの折に、ふと仏教の伝統の話を思い出す事が出来る。間違いなく、私の中に仏教が入り込んでいる。
家事をした誇りであったり、その中で周利槃陀伽(=周利槃特)の事を思い出したりするのは、自己肯定である。だが、その話を読むと、その事が『埃(煩悩)』である事も知らせられる。
欲があるから自己肯定しか出来ない。
でも、仏教を学んだが故に仏教の伝統の中で語られて来た言葉を思い出す事が出来る。自己肯定を『欲=煩悩』であると言い当てられる事が出来る。
様々な自己肯定をしている人達と同じ立場でしかない。
世間が仏教になっただけの話でしかない。
全く同じでしかない。それが故に、「いや、俺は仏教を学んだのだ」等と差別化している。仏教を誇りに使う為の道具にしている。差別化の道具にしている。
仏教徒というプライド。
「私は○○である」というプライド。
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